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レスありがとうございました。 投稿者:さらん--けえ  投稿日: 9月 3日(火)02時38分41秒

武田様、レス付けていただいてありがとうございました。定期借家権は仰るとおりここ最近の話だと思いますが、たけださんご指摘の通り、机上においては、貸して借りて双方の利益を充分考えられているものだと思います。しかしながら、人それぞれ立場によって受け方も様々で、私などは、先に書いたように、現在とても憂鬱で、その気を晴らすことを出来ないでいます。
困ったものですが、似たような気持ちの人も結構多いと思います。専門家の話をよく聞き、また自分の認識に謝りがあればそれを正し、安心したいのですが、残念ながらいまだその機会に恵まれてはいません。

まったく、住宅関係の専門家の方の話が是非聞きたい。そんな気持ちでいっぱいです。

ともあれ、レスをありがとうございました。今日はそれだけがいいたく、書き込ませていただきました。

では、また!

体重 投稿者:武田徹  投稿日: 9月 3日(火)01時22分20秒

久しぶりにジムに行ったら体重が許容範囲(笑)を超えていたので、自転車を漕ぎまくり、機械と格闘して強引に許容範囲内に戻す。もちろんこれは気休めであり、体重の減った分は脂肪が燃えたからではなく、汗で水分が出たからだ。水を飲めばすぐに戻ってしまう。そんなことは分かっている。ただ収穫もあって、自転車を漕ぎながら読みかけだったニール・スティーブンスン『クリプトノミコン』を読破。他にすることがないので自転車の上は読書が進む場所だ。特に長編向き。『クリプトノミコン』は暗号小説ということになっていていたので、RSA系の、素因数分解の物理的な困難に強度的に依存する暗号が主役かと思ったが、ストーリーの重要な鍵を握るアレトゥーサ暗号は、RSA系の暗号じゃなかった。古典的な、しかし、それが解けそうで解けないところがストーリーの重要なプロットに関わっていて、なかなか面白かった(自転車漕ぎながら読んだ理解で正しいのかはちょっと懸念があるが)。RSAの公開鍵暗号は桁数で強さが決まり、ロマンがないので小説にはならないのだろう。サイモン・シンの『暗号解読』は面白かったがあれはノンフィクションだ。小説にならない技術とそうではない技術という視点は案外と示唆的かも。

本がない時は退屈で仕方なく、自転車漕ぎながら目の前に置かれたTVを見る。ジムのTVはうちと選択が違っていて、スカパの格闘技チャンネルとかがいつもかかっている。この前はアメリカのプロレスをやっていて、なんですかあれ、悪役レスラーコンビがやられそうになって、試合中のリングから逃走。逃げるわ、逃げる。楽屋裏みたいなところも駆け抜けるのをずっとカメラは追っていて、なんとレスラー二人は駐車場まで逃げてクルマに乗って走り去ってしまうのだ。それを追いかけていたレスラーも駐車場に停めてあったハーレーのエンジンをかけ、追跡するところまでカメラは追って行く。試合中ですよ、バカらしくて、自転車漕ぎながら笑ってしまった。こういうもので溜飲を下げているアメリカ人の国民性ってどうなっているのだろうか。

小泉首相の訪朝が決まって外務省の田中某アジア大洋局長の株が上がっている。北朝鮮は今までだったら野中のなわばりだったはずだが・・・・。郵政改革や特殊法人改革がうまくいっているとは思えないが、少なくとも首相官邸側から切り出せるカードが一つ増えたこと、そしてなによりムネオ逮捕で自民の勢力地図も塗り替えられたのだろうか。

脂肪が死亡になっていたので、修正(汗)。
編集済

東電 投稿者:武田徹  投稿日: 9月 1日(日)10時13分10秒

東電の故障隠しはこれから延々と批判されるのだろうけど、ぼくはどうも違う感触を持っている。隠したことも、隠していたことがリークされたことも、東電(というか電力会社一般が)「もう原発はたまらん」と思っていることの反映なのではないかと思うのだ。
おそらく直接のきっかけはプルサーマルだろう。プルサーマルなんかやりたくないのだ。地元対策もたいへんだし、プルサーマルをそれがその燃料棒の再処理とか核廃棄物処理までまた厄介な仕事が何年か先には巡ってくる。売買電自由化でコスト競争にもさらされているなかで考えれば考えるほどブルーになる状況に電力会社は置かれている。
今回の帳簿粉飾が具体的にはプルサーマル実施の困難に繋がるだろうことを、ミスや内部腐敗の結果として、企業が臨んでいたシナリオが実施不能になったと単純な図式で読むべきではない。プルサーマルの「無限」延期までが実は暗黙のシナリオ、電力会社側の誰もが無意識に望んでいたシナリオではなかったか。そうした視点を持たずに東電経営陣を指弾するだけでこの一件を終わらすと日本の原子力がおかれている状況を見誤ることにある。
なぜプルサーマルが必要か。原発を運転すれば出来てしまうプルトニウムの使い道が他にないからだ。もんじゅで燃やせればよかったがそれは期待できない。高速増殖炉が使えないことは世界中で同じ条件だが、フランスもアメリカも別の事情がある。核兵器に使えるからだ。核兵器を持てるか持てないかは原発の在り方を劇的に変えてしまう。核軍縮時代にどんどんプルトニウムを使えるわけではないか少なくとも貯蔵などの場所は用意されうるし、言い訳は立つ。軍の世界に入ってしまえばヴェールの向こう側に隠蔽もできる。しかし日本はそのアウトプットがない。
捨ててうめてしまうという選択もあるが、そのためには最終処分法を確立しないと行けない。それはまだ出来ておTらず、いまは再処理してプルトニウムを取り出すので、まだ捨てられないということになっている。最終処分法が確立されていない言い訳のためにもプルトニウムを取りだし続けなければならない。
そしてそのプルトニウムの利用を電力会社が任される。背景にある事情の複雑さを思えば電力会社にしてみればたまったものじゃないだろう。自分たちがそれを受けなければ日本の核政策が破綻するので責任は重大だが、負担もあまりにも大きい。そんな針のむしろのような状況に置かれ続けて様々な疲弊があり、現場の故障隠しも生じた。そして「もうたまらん」という力つきた状況が隠した故障のリークに繋がった・・・・、そう解釈することは出来ないだろうか。そうした解釈の線でもう少し深く調べてみれば、新しい記事が出せるような気もするが>マスメディア各社。
ぼくはといえば、情けないことに今度出す核の本のゲラが出ているのに、忙しくて眼を通せていない。

ゲラ 投稿者:武田徹  投稿日: 9月 1日(日)00時27分00秒

前にここで書いたエレファントデザイン取材は『ホームシアター』という雑誌のデザイン家電特集の巻頭言用のもので、そこにもここで書いたのと同じ趣旨での批判を展開させている。
ただしこの記事は編集部がエレファントデザイン側にゲラを見せてしまったため、当然のごとく、先方はそのままの文章が出ないように抵抗。言葉尻を取って事実誤認だとか言い出したから、面倒くさいのでディテイルは全部削除してしまい、地の文の批判だけ残した。言いたいことはそこでも言えてるので、あれやこれや言わせて論旨を曖昧にさせるよりいいかと思った。
これには事後談があって、取材の時にうまく自社の考えが伝わらなかったようなのでもう一度食事の席を設けて欲しいと言われたが拒否。ゲラチェックして自分都合で訂正を要求するような、「公器としてのジャーナリズム」を理解しない人と二度と会うつもりはございません。
初めから批判するために取材に行っているわけではない。この、エレファントデザインの時だってそうだった。しかし話を聞いているうちにどうも納得できない点が出てきたのでそれを書いた。それは単に揚げ足を取るような批判ではなくて、この場合は工業デザインをどう考えるかという極めて根本的な立場の違いに起因するものだ。
ぼくは彼らが考えるデザインは工業デザインの名に値しないと思う。それは細かい部分の事実誤認だとか、説明不足だとかそういう些事とは別の次元の、価値観の相違だ。それを読者に訴えて判断を仰ぎたいのでぼくは書く。彼らは彼らの仕事を通じて、彼らの価値観を世に問うている。互いに表現の世界で仕事をしているのだから、表現で戦えばいい。どちらが支持を得られるか。そうした勝負に臨む前に、こちらの表現活動を封印しようとするのはフェアじゃない。そう思っている。事実確認のためのゲラチェックは必要な場合もあるが、思想のチェックは許されない。
しかし・・・改めて思うんだけど、ビジュアル雑誌で対象に対して批判的な記事って最近殆どないんじゃないですか? 対象を批判する記事は活版雑誌のみと棲み分けが完全に進んでいる。そんな状況の中で、たとえばメーカーの方も甘えが出てきて、取材記事と宣伝の区別がつかなくなっていて、取材に対する姿勢もなんでも自分の望むことを書いてくれると誤解したモノになるのではないか。と、考えると、メディアの側にも問題が明らかにある。

↓↓ 投稿者:武田徹  投稿日: 8月31日(土)09時26分50秒

うん? 定期借「家」権? そんなのもあるんですか?
借家であれば下に書いた借家借地人法の改正で、更新時に家主側から契約継続かどうか選べる範囲が増えたように思いますが、あらかじめ期限を区切って貸すってことなのかな。今まででも転勤中の家を貸すとかはあったと思うので、契約書に書き込めば出来るように思いますがあらためて制度化するのでしょうか。

 投稿者:武田徹  投稿日: 8月31日(土)00時06分17秒

えーと、定期借地権という考え方はこれからというよりも少し前からあるように思いますよ。基本的に住宅価格の低下を狙ったもので、未来永劫に土地や家屋の所有権を取得するのではなく、有る一定年月に限って権利を持つという制限を加え、その分だけ安くマンションとかを売り出す。実際、家族構成が変わったりして家を売って他に移るケースはあるので、売るのではなく、初めから手放すことを前提に家を手に入れるという前倒しの考えだったと理解しています。一方で住宅不足解消のために地主が住宅用に土地を提供することを促進させる意味もあったはず。完全に手放すのではなく、一定期間だけ提供し、その後は戻ると言うことで住宅用に土地を供出させると言うことでしょう。実際に住宅供給がこれで増えたのか、住宅所有の選択肢が増えてメリットが出ているのかはわかりませんが、制度的にはここに書いたような意図で作られたものだったと理解しています。
借あと家借地人の立場は確かに弱くなっていて、以前は家主、地主が貸している家に住むしかなくなった場合のみ、借家人に出ていって貰うことを認めるという法律だったのが、もう少し家主、地主の権利を強く認めるというように借家借地人法が改正されたのがもう10年以上前でしたっけか、なんか記事書いた記憶がありますよ。
確かにこの法改正で弱者保護がどうなったかが問われますが、実際問題として借家借地人が常に弱者ということではなく、むしろ借家借地人に居座られて困っている家主地主が弱者であるケースもあるので一概には言えないというところでしょうか。
いずれにせよ、住宅関係の専門家に話を聞きたいところですね。

ご無沙汰しています 投稿者:さらん--けえ  投稿日: 8月30日(金)04時37分03秒

近々、定期借家権というものが導入されそうです。借家人として生きている俺らは相当暮らしにくくなる。実質的に借家権がなくなっちゃいそうで憂鬱--。

今、二年ごとにアパートを更新して暮らしていますが、この定期借家権が導入されると、更新時に大家の都合で一方的に店子を追い出すということが可能になるそうです。なんのこっちゃ、です。

うちの場合は来年の二月で今度の更新がきますし、個人的に、もうそろそろ引っ越したいなと思っていますから、そういう気分で街の不動産屋などを時たま覗きます。もし掘り出し物の賃貸物件などを見つけたら、今までならば即決ですね。でも、これから先、定期借家権のもとではこんなことすら複雑になりそうです。なぜかというと、俺に例えれば、残りの契約分の、来年一月いっぱいまでの見越し家賃を大家に払う義務が生じるそう----。

はっきりいって参る…。先駆けてこれを導入したEU諸国では、賃貸の家賃が五十%近くも上がっているらしい。これでは、新たな引越も二の足です。もう何から何まで不自由です。

今後、契約時に何の説明もされずにこの定期借家権で賃貸契約させられるわけで、これだと、更新時に家賃の値上げを先様にいい出されやすくなります。逆らいたくとも究極的には「不満なら出ていってくれ」の大家の一言でお終いです。

物価を上げなきゃ、物価を上げなきゃと、わいわい騒いでいる官は、上記の「定期借家権」導入に積極的のようです。というか、旗振り役みたいです。不良債権の回収に役立てようということのよう。借家人保護制度を撤廃して、ディベロッパーが土地を更地にして転売する助けにしようという話です。右から左へと土地を転がして金を生もうとする行いの上では、借家権などは邪魔だという話。

帳簿ですか……。あくまで、それだけなのか。
官が机上の数字と付き合ってるだけなんだというのがよく判る気がします。生身の人を目の前にしてたら、まず出てこない発想じゃないでしょうか。

今後、どうやって我が身を守ろうか? 銀行を騙すか。
築二十年くらいの安い中古マンションでも、家賃並設定のローンをかまして買うか。それくらい考えないとなんの防衛にもならないかも。適当に古ければ評価額も低いだろうし、固定資産税もなんとか払えるかな。考えがくるくると頭を巡る。

責めて守るしかない。
思案にふけるこの頃です。
編集済

近況 投稿者:武田徹  投稿日: 8月29日(木)19時33分36秒

『編集会議』でビデオジャーナリズムについて久しぶりに短い連載をすることになっていて(前々から決まっていたのだが、なかなかスタートできなかった)、今日はMXに取材に行ったのだが、恐るべき事実を知った。前の担当者は別の出版社に移ってしまい、今日から新しい担当編集者が取材に立ち会ったのだが、彼女に聞いたら今や編集部員は減るに減って一名なんだそうだ。つまり花田御大と彼女だけ。活版の月刊誌だったらあるいはその体制でも作れるかもれしれないが(やれと言われたら断るけど)、写真の手配とかが必要なビジュアル誌ではどうやれば毎月出せるのかちょっと想像出来ない。それをやり遂げている編集者と花田御大に感心し、あんな綺麗な本社ビルを建て、ライター養成学校とか何かと派手な活動をしつつも、そんなミニコミのような体制でさもマスメディアのような威張り方?の雑誌を出させている経営陣に感心するという屈折した気持ちを抱いた。これもまら出版の現状の氷山の一角ではあるのだろう。
久しぶりに訪ねたMXはずいぶん普通の地方局のようになっていて、取材を受ける方はビデオジャーナリズム構造の停滞状況に批判的な記事を書かれるのと予想したのか神経質な応対だったが、個人的にはなんだかほっとしたりする。ここもまたバブル東京の怨念に当てられていたのかもしれない。地上波デジタル化でMXはようやくUHFの呪縛を逃れ、よの地上波局と横並びになる。他の局に関してデジタル移行がはたして良いのかは疑問だが、MXに関しては良かったのではないか。
ゆりかもめから見た船の科学館のプールは夏の光にきらきら光って綺麗だった。そういえば屋外で泳いだ最後はいつだったんだろう。

ご迷惑かけました。 投稿者:KAO  投稿日: 8月25日(日)23時13分52秒

本当に、ご迷惑をおかけ致しました。亨氏のアドレスに送っても届かないので無礼を承知で、カキコさせて頂きました。メンバーの皆様、場違いなヤツが横入りしてきて、さぞやムカつかれた事と思います。幻覚と思って意識からポーイと捨て去って下さい。
『日経新聞』も、満足に読めない私が、何考えていたのでしょうね・・・黄昏てますね。
うわあ〜〜〜〜〜〜っと正気になると恥ずかしいですねー!!お邪魔しました。御免なさーい!!!!

削除しました。 投稿者:武田徹  投稿日: 8月25日(日)22時48分51秒

メールアドレスはあるのですが、これは私信でしょうか?
私信でしたら掲示板ではなく直接メールで送られた方がよいと思いますよ。ちょっと判断に迷いましたが、削除し、再掲しておきます。
以下*****

意外な再会・・・????? 投稿者:KAO  投稿日: 8月25日(日)16時53分58秒

10年ぶりですねえ武田 亨さん。メル友さんに教えられて、ココにアクセスしました。
まーさーかー、ココでも嵐を呼びまくってる模様! レスが今、頭の中でまだまとまってないので
近日中にレスします。どーでもイイけど、絶版で、もう手に入らない私の単行本返してよお〜!
武田 徹さんの疲労度が、ヒシヒシと・・・。では、また近日中に!

*****

戻ってきました 投稿者:武田徹  投稿日: 8月25日(日)09時37分31秒

戻ってきました。
北海道にフェリーで上陸して、走って戻ってきた行程だったのですが、印象的だったのは宮澤賢治の花巻かな。賢治の愛すべき点を認めつつも、その危険性、問題性をぼくは嫌われるのを覚悟で述べてきたつもりですが、賢治を中心にした町おこし、さらには岩手県おこしの期待をこめて土建中心で大きく変貌しつつある花巻の状況には、エコロジストにして自然改造主義者という分裂を孕んだ賢治を生んだ土地の痛烈な皮肉を感じないではない。その報告はまたいつか。

さてさて、ヨブ氏がNHK『変革の世紀』について言っていることは全くその通りです。(以下、ほんの少し内部情報を含め、説明を書いてみたのですが、うまく書けないし、ぼくの立ち位置も内部なのか外部なのか分からないので消しました。偶然目撃された人はラッキーだったということで。この仕事は悩みが多いです)。

編集済

http://t-job.vis.ne.jp/Nikki/N0208_l.htm


チョムスキー 投稿者:武田徹  投稿日: 8月19日(月)11時33分28秒

 酒井邦嘉『言語の脳科学』は内容が相当に高度で大変だったけれど、考えさせられるところが多かった。ぼくはチョムスキーは学部時代の一時期にまとめて読んだが、そのあとはしっかり原典に当たるような読み方はしていない。そのころになると指導教官の関係からフランス系の言語論を主に読むようになっていたし、トウリオ・デ・マウロというイタリアの学者を架橋役として後期のウィトゲンシュタインも読んだ(そうそう、下に書いたビデオドキュメンタリーの撮影で大学の図書館に行って、昔読んでいた本を手にしたら、20年前のぼくが貸し出し票に書いたサインが本の奥付に残っていてひどく懐かしかった。自分の名前を発見したのはデリダが解説しているフッサールの『幾何学の起源』とウィトゲンシュタイン全集の8巻『哲学探究』。『哲学探究』はあんまりよく引いていたので結局、後で自前で買った。学生には高かったなぁ)。で、ヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の間は「遠かった?」と改めて思ったが、ソシュールやウィトゲンシュタインを通して理解したチョムスキー像はどうも正確でなかった。用語の使用の仕方に統一性がないので同じ用語でもその意味するところを考慮しながら、比較検討するのだが、力足りずだったことを改めて痛感した(って20年遅いんだけど)。ソシュールやウィトゲンシュタインは言語学にコペルニクス的転回をもたらしたと言われる(チョムスキアンからはチョムスキーこそがコペルニクス的転回と言われる)。言葉の意味とはそれが指示する対象としてのモノであるというアリストテレス以来の考え方を否定し、いかにその語が言語の体系の中で使用されているかこそがその語の意味だと考えるようになったからだ。意味はモノには還元されない。それがソシュール以後の言語学の基本的立場だった。
で、チョムスキーはといえば下にも書いたけれど言語能力は生得的だと言う。これは言語を社会の中でどう使用されているかというコード=体系に還元しようとしたソシュールからむしろ逆行する考え方のように意識された。社会が決めるという立場ではなく、生来受け継がれている何かのモノに還元するという立場だと言うことで。チョムスキーが『デカルト派言語学』などと言い出すのでその印象は更に強まって、チョムスキー(とその信奉者)の言語観は前ソシュール的なという意味で近代的な、そして更に遡ればアリストテレス的な伝統に追随するものだと思った(デカルトの神の証明は、どうしようもなくアリストテレス的言語観を踏まえていた)。
しかしどうも違ったみたい。チョムスキーは「普遍」文法と意味論とを完全に切り離す。そして相手取るのは文法だけだ(実は生成文法一派からは生成文法意味論という立場を打ち出す人もいて、ぼくが批判したのはその考え方だった。当時のぼくは生成文法意味論はチョムスキーの流れを汲んでいると思っていたので生成文法意味論批判はイコール生成文法批判になると思っていた。しかし生成文法意味論はむしろチョムスキーにしてみれば鬼っ子のようなものだったようだ)。こうしたラディカルな切り出し方はソシュールにはないので、そこでぼくは誤解した。ソシュールとウィトゲンシュタインの、意味論と統語論が混在している文法概念を通してチョムスキーを見ていたので、チョムスキーの文法に対する独自な姿勢が見えにくかったのだ。ま、端的に言って愚かだったと言うことだけど。

チョムスキー2 投稿者:武田徹  投稿日: 8月19日(月)11時29分53秒

 チョムスキーはひとがなぜ文法的な文章と文法的ではない文章を区別できるのかを考察する。そして、それを社会的な学習の成果だと考えることが出来ないという認識を自説の出発点とする。たとえば「誰が学校にいったの?」とは言えるが「誰は学校に行ったの?」とは言えない。実際に「は」と「が」の使い方の法則を説明する文法理論は相当に高度のものだが、そんなことを知らない人も「誰は学校に行ったの?」という文章がおかしいことは分かってしまう。そんなことを学習していないのに。「誰は学校にいったの?」なんて言葉に出会うことはないだろうから、繰り返し触れることで学んだ訳でもないはずなのだ。ここにあげた例を即チョムスキーの普遍文法論に繋げるのはやや問題があるが、なんとなく雰囲気は分かって欲しい。どうも文法は(という文法的な正しい表現の在り方を見分ける力は)人間のインプットされており、成長とともにそれは確実に開花する、そう考えなければ人間の言語活動は説明できないというのが生得説だ。
で、従来、この生得説は「そうと考えなければ説明できない」という論理でその正しさを間接的に主張されてきたのだが、実際に「文法」(の受け皿のようなもの)が脳の中で具体的に存在しているというのことを脳科学は証明しようとしているらしい。ポジトロン撮影装置や磁気共鳴撮影法で、脳の活動を観察できるようになった技術が大きく寄与しているらしいのだ。つまりチョムスキー仮説は正しいようなのだ。
 そう分かって改めてチョムスキーに興味を感じる。ぼくは脳科学の実験研究には携われないので、思想史的にもう一度チョムスキーを検討し直してみたいとは思う。その政治活動ももおそらく横断的かつ統一的に位置づけられる彼の思想は、いわばポスト構造主義の修正型人間中心主義とでも呼ぶべきものではないかーー。
 閑話休題。今週はぼくは夏休みです。涼しいところに出掛けますので、ここの更新はしばらくお休みすると思います。結局、完全オフには出来ず、今週はこの酒井本の書評や、SPAのニュース解説の締め切りがあるのだけど、それは出先からなんとか送るつもり。ではまた。

言語の脳科学 投稿者:武田徹  投稿日: 8月17日(土)10時23分14秒

書評の候補作を探していて酒井邦嘉『言語の脳科学』を読む。言語能力は生得的(つまり生まれながらに既に備わっているものであり、学習によってゼロから構成されるのではない)というチョムスキーの仮説を実験的に確認しつつある脳科学の世界の紹介で、ぼくは発見があったし、新書でこれを書いておきたかった(世間に広く知らせたかった)著者の気持ちは良く伝わってきたが、いまの読書人の科学的思考に対するこらえ性のなさ(ちょっと読んで難しそうだと投げちゃう。で、逆に誰でもいっぱしの議論が出来そうな靖国とか有事とかの話の方に惹かれる。ぼくは人間の言語能力を考えてからのほうが、戦争の問題も考えやすくなるとは思うが)をリアリズムで思うとちょっと無謀かも。
一点、へー、そうなんだと思わせるエピソードが乗っていたので紹介。シカゴトリビューンの調査によるとチョムスキーは古今東西の人文科学系学者、作家などの中で引用される回数が8位であり、ベストテンに入る中で唯一の生存者らしい。ちなみに10位までのリストはマルクス、レーニン、シェイクスピア、聖書、アリストテレス、プラトン、フロイト、チョムスキー、ヘーゲル、キケロだとか。

千畝 投稿者:武田徹  投稿日: 8月16日(金)00時21分05秒

ちょっと古いけれど気になった記事を見つけたので引用。
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“日本のシンドラー”、ねつ造本で提訴
杉原千畝氏の妻が版元を訴える

 ナチスに迫害されていたユダヤ人にビザを発給して命を救った外交官として知られる杉原千畝氏を題材にした著書に曲解やねつ造があり名誉を傷つけられたとして、同氏の妻が14日、清水書院(東京)に出版販売の差し止めと1000万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 訴えによると、清水書院は1998年8月、米ボストン大のヒレル・レビン教授が書いた「In Search of Sugihara」の邦訳本「千畝」を出版した。

 しかし、同書は杉原氏が個人の判断でビザを発給したのに「杉原はなぜ政府に背いて行動したと主張しているのか。英雄になりたくて虚偽の主張をしている」と記述するなど300カ所以上にわたって事実と異なる記載があるという。

 杉原氏は40年、日本の外務省の意向に反して在リトアニア領事館でユダヤ人に大量のビザを発給。戦後、外務省を追われて86年に死去したが、生誕100年の2000年に政府から顕彰され「日本のシンドラー」とも呼ばれている。
ZAKZAK 2002/08/14
*****
このヒレル・レビン本はぼくも読んでいる。調査過程を一人称を多用して同時進行的に書いた歴史ものでそこそこに説得力があると思った。当時の状況や杉原の戦後の行動などを思うと、彼の有名なビザ発給のエピソードはどうも巷間流布している美談をそのまま鵜呑みにしにくい感があったので、調査の結果報告された内容の幾つかは、やはりそうだったのかと思わせるものだった。清水書院だってヨタ本ではないと考えて出したはずだ。
ただ、ここで杉原の遺族とレビンのどちらが正しいのか云々についてはここでは深入りしない。気になったのは書き方。「杉原氏は40年、日本の外務省の意向に反して在リトアニア領事館でユダヤ人に大量のビザを発給」の部分が原文では「」なしで地の文になっている(書き方が面倒だ)。しかしここで争われているのはまさにこの部分の内容が事実かどうかと言うことだろう。これを地の文で書いてしまったら、記者自身が杉原は政府の意向に反してビザを発給したということを事実だと認めていることになってしまう。となると、この記事は訴訟の報道ではなく、レビンが事実に反することを書いたことの報道になってしまうではないか。
「」を大事にすべきだと前に書いた。それとまったく裏表の関係にあることだが、地の文も大事にしないといけない。ここでは「」を使うべきだったのだ。そうしなかった理由は、たぶん、もっとすごくくだらない話で、この記者はレビン本を読んでいない。だから『知ってるつもり』とかで流布された杉原美談が歴史的事実だと思い込んでしまい、それを「」で括る必要を思いつきもしなかった、のではないかな。また濡れ衣だったら申し訳ないが、そんな気がしてしまう記事の書き方だ。

誤植と米 投稿者:武田徹  投稿日: 8月15日(木)19時00分15秒

また誤植の話。斉藤美奈子さんの『文壇アイドル論』に出てくるけど、名前が誤植ですよと編集者に教えて貰った。
ぼくは自分に関する誤植は嫌いではない。って、変な言い方だけど、たとえば前に週刊ポストにコラムを書いたとき、生まれが1985年になっていて、なんとわずか数才にして週刊誌に寄稿という天才少年みたいだったし、その後に平凡社のWEBに書評を書いて貰って著者紹介が1558年になっていたときは、デーモン小暮よりは短命だが人間離れした長寿で、こういうのに対して怒る人もいるのだろうが、ぼくは可笑しくてなんとなく嬉しくなってしまうタイプなのだ。
で、斉藤さんのはどうかと書店で見てみると、確かに武田薫さんになっている。これは実在する人なのでちょっとまずいですね。再版で直して貰えると良いのだが。
斉藤さんといえば『戦下のレシピ』という本が同じく岩波から出ていて、これは面白かった。どうも戦前の日本人は大量に米を食っていたらしい。1920年代には一人一日3合から3合半を食べていたという資料が掲載されている。これは茶碗にして9−10杯。毎食おかわり2回で3杯きっちりたべていたらしい。宮澤賢治などは一日4合食べていることを詩に書いているとか。
これは台湾や朝鮮半島から安い白米が入っていたから出来たことらしい。周辺国を続々と植民地化していたのは米の調達という意味も大きく、石油の確保が必要だったのは米の海路輸送がそれなしには出来なかったらしい。植民地での生産なので名目上は国内生産・消費だが、日本は実質的には米輸入国だった。そして米の輸入が途絶えて飢えて敗戦した。
そして戦後、今度こそは米を自給するのだと誓った。そして現在の農協制度が確立され、「米こそ日本人の命」云々の神話まで捏造して米の自給を守るべく、輸入を拒んできた。かつてその殆どが輸入だったことを思えばいかにもねじまがった構図である。そんな事情は斉藤さんの本で勉強させて貰った。

 投稿者:武田徹  投稿日: 8月15日(木)18時59分44秒

ええ、たぶんこれだと思います。撮影は終了。こんなかたちで記録に残るのは相当恥ずかしいー。

しごと館 投稿者:袋小路  投稿日: 8月15日(木)17時45分21秒

下記って
http://www.shibuyashigotokan.jp/watashi/index.html
のことでしょうか。
結構大きな施設のようですね。内容、展示方法次第で面白い博物館になりそうな。
立地は関西学研都市なんですね。

本の山 投稿者:武田徹  投稿日: 8月13日(火)09時07分40秒

京都に仕事館という博物館が出来る予定で、そこには現代の働き手の姿をビデオに収めてアーカイブ「しごとライブラリー」化する計画があるらしい。ま、現代版の「働くオジサン」シリーズですね。活字で言えばターケルの『仕事!』に近い。
そこで、なんと・・・ノンフィクション作家としてぼくが記録されちゃうらしいのだ。一人ではなく、若手、中堅、ベテランと三人(これはどの職業でもそういうパターンで収録して構成するらしい)のうち中堅役。メールで打診されたとき「なんでぼくが」と正直思った。もっとノンフィクションっぽい書き手は他に幾らでもいるのに、と。
しかし聞くところによるとバリエーションを出すために敢えて取材中心型ノンフィクションではなく、分析型の書き手を選んだのだとか。で、それを強調すべく、図書館とかうちの書庫とかで取材収録したいのだという。まず図書館が撮影許可しないだろうと思って、この企画は流れるなと踏んでいたのだが、なんとぼくの母校の図書館に許可を取ってしまった。そんなに外に向けて親切だったのか>ICU広報部。で、撮影可能だと言うことで明日ロケをするらしいのだ。大学で撮影してからうちにも来る。
前によくTVのコメントを家でしていた時には、ロケ隊が来るたびに掃除をしていた。TVに出ることなんか名誉でもなんでもないけど、「外圧」によって部屋が定期的にきれいになるのは、掃除嫌いのぼくにとっては有り難いことで、そんな理由で取材を受けていたのだ。しかし、だんだん掃除しても手に負えないくらいめちゃくちゃな、佐高信さんの事務所(笑)のような状態になってきて家で取材を受けられなくなった。
 ところが今回は押し切られてしまって、久しぶりに家までロケ隊が訪問してくる。片づけようかなと一瞬思ったが止めた。無理だ。で、本がやたらめったら積んである状態で撮影されてしまおうと思う。調べる仕事をジャーナリズムという急ぎ足のメディアの世界でしているとこんな風になっちゃうという事実を記録に残すのも良いだろうと居直っている。
 大宅壮一は本よりも雑多な雑誌の中にこそ時代は記録されていると語ったそうだ。本がダメだというつもりはなくて、本だってものによっては雑誌と同じくらいビビッドに時代を表す。で、本か雑誌という区別を超えて、世間がくだらないと思うものにこそ時代が反映されているという大宅の意見には共感する。たとえば『脳内革命』なんてもう古本屋でもとらないだろうが、時代の甘えた気分を見事に示していたように思う。著者の春山茂樹(だったっけ)はどこかに消えてしまったが、担当編集者は今度サンマーク出版の社長になったはずだ。
 ぼくの部屋には、旬を過ぎてしまえばもはや誰も振り向かなくなったその種の雑多な本が多くある。最近はまとまると古書店に売る(引き取って貰えない場合は捨てて貰う)ようになって随分減ったが、それでも一度手放したらもう読めないだろうと思う俗書は残している。
 サイズや装丁のまったく雑多な本の山は蔵書家の書庫とはまったく異質の光景をなす。本棚をしつらえてきとんと蔵書しようなんて気にならないそもそも雑多な本は床に積まれている。山には統一感が無く、正直言ってきたない。駅前の放置自転車の山とか風俗産業の看板とかを撮っている金村修(だっけか。これまた)の写真のようだ。そして今の季節だとなおさら暑苦しい。しかしどこか今の時代の内臓を見ているような光景でもある。

植田正治  投稿者:武田徹  投稿日: 8月12日(月)01時11分17秒

先日亡くなった植田正治が土門拳を撮影した写真がある。植田の庭先とも言える鳥取砂丘で。土門拳は助手に後ろから大きな蝙蝠傘をささせている。黒い蝙蝠傘と白い砂丘のコントラスト。まさに植田ワールドである。
 この作品が印象的なのは、そこに写っているのが土門でなくてもまったくかまわないということだ。土門はまだ自分で自由動けた頃で、半身不随になりながらシャッタリレーズを押しつづけた古都巡礼の晩年ほど鬼気迫るものはないが、それでも激しい気性ゆえ(名取洋之介との確執の一件などを資料で読んでみると彼の激しさが窺える)に助手の人はさぞや大変だったろう。
 傘の作る影の中で土門はローライフレックスのファインダーを覗こうとしている。腹に載せて構える二眼レフを使っているために、中年太りで腹が出だした体つきがよけい目立ってしまう。傘の中の二人。腹が出た中年の小男と、影の中に溶け込んでしまいそうな黒っぽい意匠のひょろりと背の高い男。傘を中心にした対称の位置に、そんな非対称的な二人がいて、そのかたちの面白さが写真の全てだ。
 植田がなぜこの写真を撮ろうとしたのか分からない。高名な土門が鳥取に来たので会いに行ったのか、あるいは撮影中の土門を記録する仕事でも引き受けていたのか。もし仕事だとしたら、おそらく他のカットがあって、そこには若き日の「写真の鬼」の緊張感溢れる撮影行動が記録されているのかも知れない。しかし植田自身が自分の作品として残し、美術館に収録されたのは、土門が別に土門でなくても良い写真だった。被写体の社会的意味を無化させて、自分の写真にしてしまう。そうした力が写真家の力の一つだとしたら、この時の植田はすごいと思う。
 雑誌の仕事としてカメラマンと一緒に行動することも多いが、カメラマンの多くは作家以上に被写体の社会的意味を気にする。洒脱な文章で知られる作家なら飄々と軽い表情を、硬派の作家であれば厳しい表情を、バッシングされている人物なら傲慢な表情を撮ろうとする。それはある意味で予定調和だ。なぜ自分からその人の表情を発見しに行かないのだろうーー、ぼくはそう思ってしまうのだが、カメラマンにしてみればそうもいってはいられないのだろう。そこには編集者にも問題があるのかもしれない。新しい表情を写真に撮っても紙面には使わない。あまりそういう「変な」写真ばかり撮ってくるようだとカメラマン自体を使わなくもなる。そんな結果になったら生活が不如意となるのでどうしても社会的に流通している文脈に沿って写真を撮る。そんな繰り返しになってしまうのだ。こうしてイメージが再生産される。
 土門拳の特に初期のドキュメンタリー写真は、今でも被写体との肉薄ぶりがさすがだと思うが、写真作品と言うよりも過去を記録した映像資料として見てしまう。その点、植田の作品は違う。昔の、おそらくライカの不正確なファインダーで苦労しながら撮った構成的な構図の写真でも時間を感じさせない。いや、写真だと思いにくくさえある。写真とはやはり具体的な被写体が必要なメディアであり、瞬間を定着させるそのメカニズムからして、記録の機能を持つ。いかに写真家センセーがこれは芸術なのだと強調しても、記録の機能から離れることは難しい。時間が経てば経つほど写真は時代考証家や歴史家の対象にと傾いて行く。アジェのパリの写真が辿った軌跡をみればそれ明かだろう。シュールレアリストを自称していたブレッソンの作品や、マンレイでさえも(被写体がモノでしかないレイヨグラフ以外の作品は)同じような軌跡を辿って歴史研究の俎上に載せられて行く。
 しかし植田の写真はそうはならないだろう。そこからは社会性が見事なまでに抜かれている。社会の匂いがしない。そのカットオフオペレーションは後世の歴史家を嘲笑するかのように徹底的だ。写真の意味を考える上で植田は大きな存在だといえる。

編集済

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