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LOG104
誤字問題でドタバタした罪滅ぼしに、こちら側の誤字問題、つまりなぜワープロでは誤字が発生しやすいかについての考えを述べたい(ちょっと言い訳がましくもあるが、ご笑覧あれ)。
これはかつて『メディアとしてのワープロ』に書いたことの再録だが、井上ひさしが『文芸春秋』(92年3月)に一年間ワープロを使ってみた感想としてこんなことを書いている。
「漢字はよく忘れる。ぞっとするのはその忘れ方で、<苦渋>を手書きにすると<苦汁>になったり、<不振>を<不審>と、<原稿>を<原鉱>と書いてしまったりする。ワープロで漢字変換ばかりするのでそうなるのである」。これははっきりいって井上ひさしの「ふくらまし」だと思う。手書きでこうした間違いはないだろう。たとえば<絶体絶命>を<絶対絶命>と書き間違えるケースはあるが、それは例外的な用法である<絶体>よりも<絶対>の方が親しみがあるからだ。ちなみにワープロでは「絶体絶命」を一度に変換すれば「絶対絶命」になることはむしろありえない。この種の慣用ゆえの間違いはワープロ辞書では注意深く回避されているケースが多く、ワープロを使っていたために「絶体絶命」を「絶対絶命」と変換する癖がついたとは思えない。
手書きで間違うのは、たとえば「週刊誌」を「週間誌」と書くように、覚え違いのケースであり、ワープロの誤変換とは間違いの系統が異なると思う。で、いかにワープロに慣れても手書きではワープロの間違い方を繰り返すことはあるまい。その意味でワープロの誤変換と同じように手書きでも漢字を書き間違えるようになったという井上は相当「作って」いると思う。
で、問題はワープロの誤字だ。ワープロで書かれたレポートを見ると斬新な!間違いと出会い、感心することがある(ひとのことは言えない)が、こうした間違いはいつ出現するか。
まず書いた文字列を確認しながら進む傾向が、手書きの場合よりも弱い。手書きであれば、確実に書く文字を目で見てフィードバックしながら進む。目を閉じたら書けない。その点、ワープロは完全なタッチメソッド習得者なら画面表示を目で見ながら書き進むのだろうが、ぼくは自己流のタイピングなので、時々キーボードを見ており(見ないとミスタッチという別の問題が一定頻度で発生する)、その間は書かれた文字を目で確認していない。そこに隙が生じる。そして、その隙に入り込んでくるのがワープロ辞書の学習機能なのだと思う。
続く↓
ワープロで文章を書くのに慣れて来ると、この入力をして変換すればこの漢字列とだいたい見当がつくようになる。同音異義語が頻出する用語以外で、ほぼ一通りに使っている単語であれば、学習の結果、画面でいちいち確認せずとも予想通りの変換をしている。こうしてワープロ変換辞書がある種「身体化」「血肉化」を遂げるのだ。だからキーボードを見ている間にどんな変換になっているか気にしなくなる。そしてだいたいはそれでも問題がない。
ところが、そうして変換の予想がついている言葉と同音で、違う漢字に変換せざるをえない場合がある。そうすると学習機能によってワープロはその変換を最初に選んでくるようになる。ここで体で覚えている変換と、実際にワープロで行われる変換がずれ、誤変換が起こる。
今日も昼間はある写真展の解説文を書いていた。そこで「写る」という言葉を使っていたのだ。夜にメールで「移る」と書いたとき、送った後で気付いたのだが「写る」になっていた。身体の感覚としては「移る」と変換したつもりで敢えて確認しなかったのだが、実は「写る」になっていたケースだ。身体化されている変換のほうが油断しやすく、より確認がおろそかになるだろうから、学習機能が妙な介在をすると「斬新な」間違いすらありえる。
しかし、これは逆手に取れば、文学研究に役立つかも知れない。文学者の生き様を辿るのに、手書き原稿まで調べる厳密さが必要となる場合があるが、ワープロ時代だと残っているのは無味乾燥なプリントアウト紙か、データだけだったりする。しかしそこに書き手の生の痕跡が暗号のように隠されている可能性はあり、それが誤変換なのだ。そこには書き手がその直前に何を書いていたか調べる手がかりが残されているかもしれない。前にもこのアイディアは少し触れたが、国文学で表現上のインターフェイス(道具=メディア)を視野に入れた研究が出て来た話は聞いていない。メディア論側からやってももちろんよいのだが。
あと、書く行為と考える行為の関わり方がワープロ使用によって手書き時代と異なったということも、誤字の発生パターンと関わっているかもしれない。手書きは既に固定された思考の「清書」的な正確が強いが、ワープロで書く場合、考えがまとまらない段階からまず書き始めてしまうし、書きながら考えている傾向が強い。「考えながら」書けば当然、書くことへの集中度は乏しくなり誤字は増えるが、さてこれはやや単純化しすぎた説明か。
もちろん、せわしなくなったということは書き間違えの大きな要因だろう。メールが来たらついすぐに返信したくなる。しかし他の仕事もしているので急いで切り上げると誤変換を校正仕切れずに送ってしまう。郵便だったら一日一通しか来ないし、それに返事を書くとしたらそれこそ決意をしてじっくり取りかかるので間違いも起こりにくいだろう。こうした事情に還元してしまうと急に面白くなくなってしまうのだが、偽らざる実状とはいえそうだ。
さて、また何か間違っていないかな。
↓で書いたことは、やはり誤字ではない可能性が高くなりました。
書き込みしてすぐ講談社の社員の方からメールを頂きました(書き込みから一時間も経たないうちに。この種のレスポンスが速くなりましたね)。それによれば
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昨年9月に東京ディズニーシー(TDS)がオープンした際、株式会社オリエンタルラ
ンドは、東京ディズニーランド(TDL)、東京ディズニーシー、ディズニーアンバサダーホテル
等の周辺施設の集まる一帯を総称して東京ディズニーリゾート(TDR)と名づけました。
おそらく「TOKYO1週間」に頻出した語句は、この東京ディズニーリゾートのことを差しているのだと思われます。ただ、「東京ディズニーリゾート=TDR」という図式が読者に浸透していないのに、説明なく使用しているのは編集者の不親切に他ならず、貴重なご意見として深く反省いたします。
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とのことです。ただその方も現物を前に書いて下さったようではないので、「説明なく使用」かどうかは依然として不確かで、もしかしたら「説明して使用」だったのかもしれない。まったく落ち度のない冤罪の可能性は残ります。ちょっと拙速でした。その点についてはお詫びします。
本当に凄まじく久しぶりに週刊誌に原稿を一本書いた後に『週刊ポスト』編集者他と会う機会があって最新号を貰った。で、ちらちら見ていて気になったのが田中康夫と田原総一朗の対談記事だ。表紙、目次にーー田中康夫「再選してもペログリだ」ーーーとあるが、対談本文にそれに該当する発言はない。唯一、田中康夫が「就任以来、県内の業界や業者から盆暮れの付け届けは皆無。私にプレゼントしても効果がないと知っている。下手に贈れば「ペログリ日記」に書かれちゃう」との発言があるのみだ。これは「再選してもペログリだ」の記事タイトルになるだろうか。
と、回りくどいことを書いたが、実はそんなに難しい話ではなくて、田中康夫は時期的に女性支持層の乖離を防ぎたいので出来るだけ下半身関係の話題を避けたい。しかしポスト編集部の側はアイキャッチングな記事にしたいのでなんとしてもタイトルを下ネタ風にしたかった。田中が再選されようがどうか関係ないというスタンスであり、結局は編集部が本文には関係ないタイトルを付けたと言うところだろう。
ぼくはあまりお行儀の良いジャーナリズム論は、現実から遊離していて役に立たないと感じている。清濁併せ呑む境地はジャーナリズムを語る上で絶対に必要であり、低俗さがしばしば指摘されがちな週刊誌も、商業誌である以上、タイトルなどの煽りもある程度までは許容されるべきだと思っている。しかし、それでも「やっていけない」こともある。「」の使い方についてだらしなくなることはそんな「やってはいけない」ことの一つだろう。「」は引用元の発言に還元出来る内容以外では使ってはならない。そこで不正確な引用をするようになると、どこまでが言及された発言としての事実で、どこからが書き手の判断・評価かの区別がつかなくなる。それはジャーナリズムの伝える機能を脆弱にして、結局は自分たちの首を絞めるだろう。あざといタイトルはその号の売れ行きにもしかしたら少しは貢献するかもしれないが、10年先の雑誌の売れ行きにはマイナスにきっとなる。こんなあざとい作りをしていると読者は「たかが週刊誌」とは思っても「されど週刊誌」とは思ってくれなくなるからだ。倫理云々の問題を超えて、ジャーナリズムメディアを存続させるという意味でも「おやめなさい」と言いたいのだ。
週刊誌ネタもう一本。髪を切って貰いながら店にあった『東京一週間』をちらちら見ていたら「TDR周辺では」とか「TDRに行くには」とかいう表現があって、さてTDRってなんだろうと考えてしまった。ぼくも流行に疎くなって知らないものが出てしまったのだろうか、と。
しかしどうもおかしい。その表現が出てくる記事は東京ディスニーランド関連の特集で、ははんと思いつつ、ページをめくっていると、扉には東京ディズニーランド(TDL)とあるのを発見した。なんてことはない、LがいつのまにかRになっていたのだ。
しかし、これって校正漏れなのだろうか。ぼくもこの掲示板では狂ったような誤字脱字を繰り返しているのであまりたいそうなことは言えないが、それにしてもこの掲示板と雑誌とでは違うだろう。こっちは著者校正もまだの状態の文章が書き連ねられている。実際、書いてから誤字脱字に気付けば都度なおしている(最近、次の発言が書き込まれた後でも編集可能になったので、時々前の発言の訂正もしている)。これが校正のステップに当たるものだろう。しかし雑誌は書店に出るまえにゲラが出て校正をしてということをしているはずだ。しかも刷り部数だってまだまだ多いはず(こちらは少ないから甘えていると言うことではないので念のため)。そんなに沢山の人が見るメディアでLとRをこんなにたびたび間違えるだろうか。ぼくが雑誌編集やっていたときの感覚では信じがたいし、ぼく自身、講談社で本を出しているが校閲部の実力には舌を巻かされたことがあるので、その印象とも隔世の感がある。
確かに雑誌どころか、数百万人が見ているTVでもテロップでとんでもない誤字が出る場合がある。たくさんの人が見ているということは、誤字脱字を減らそうと言う動機付けとか緊張感を強いるプレッシャーにはもうならなくなったのだろうか。偉そうに言いたくないがメディアの作り手が、不注意を通り越して「劣化」し始めてはいないか。特に大手。
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と、書いて5分後にTDRってもしかして東京ディズニーリゾートなのかしらと思いついた。これは好意的に過ぎる解釈かも知れないが、TDR=TDL+TDS(東京ディズニーシー)なのかもしれない。そうした略称の説明図式をぼくが見落としていたのかも。なにぶん立ち読みに等しい状況なので確かめられないので「冤罪」の可能性をあらかじめ書いておく。ただとんでもない誤字が増えている状況はあると思うので、本本そのものは訂正せずに残します。
週刊新潮8.15−22号の中に、28歳の女性獣医の自死の内容を桜井よしこ氏が書いていて、なるほどと背景を納得した思いです、だからと言ってH嬢の命は返ってきませんが。こんなからくり行政は全く日本ハムだけでなく、つぎつぎいわゆる欺瞞的な現時としての「不祥事」というやつを生み出すことでしょう。
18日青山葬儀場で「藤本敏夫」のお別れ会、彼が本当に一番早く全共闘から改宗し、「食」の世界で人間界を開こうとしていたのに早い死、悔まれます。
ともあれ桜井氏の書いた「レンダリング処理」のからくりをもっと新聞メディアは大書して我々に知らせるべきではないでしょうか、BSEは科学者の予言どうり、潜伏期を経て発病が世に顕著になって初めて問題になるのでは。
ぼくは一日の時間のかなりをスタバやファミレスで過ごしている。取材以外の時間、つまり原稿を書いている時間の殆どはそこだ(と書いていて、取材をしているか原稿を書いているかのどちらかに端的に単調化されている毎日を改めて思う。なんか最近忙しいな)。なぜそうした場所に惹かれるか。それはそこが人間のいない場所だからだ。
相当の出没頻度のはずだが、ぼくのことを個体識別できるスタバの店員はいないだろう。というか識別すること自体が意味を持たない。ぼくも店員の顔は覚えていないし、覚えようとする気にもならない(例外的に深夜のジョナサンだけはいつも同じ店員が働いており、客数が相当少ない時間帯に毎晩のように行くのでなんとなく互いに分かってきてしまっている。向こうの表情でもそう感じる。それはきわめて特殊な例だろう)。客と店員ががいかなる意味でもなじみになること、個性を持つ一人の人間と人間として出会うことを禁じる、それを無意味として初めから拒絶する雰囲気がチェーン展開のコ−ヒーショップやファミレスにはある。
だからこそぼくは一人になれる。ヘッドフォンをかぶってパソコンのいれたMp3の音楽を聴き始めてしまえば、もう原稿に集中することを邪魔するものはない。
人間がいない場所、ならば何がいるのか。ずばり幽霊である。といってもこれは後期デリダの概念としての「幽霊」。幽霊とは「再臨するもの」、記念日のようなもの、と説明を少々重ねてもかえって分からなくなるのが後期デリダなので、もう少しここで幽霊の言葉を引いたニュアンスが知りたい人は原典に当たって欲しい。東浩紀の『存在論的、郵便的』でもいいかも。
さて今日は新説をきいたので少しおすそわけ。フォーククルセイダーズの(なぜかアルフィーの坂崎を加えての)再編があって発売禁止になっていた『イムジン河』がなんとなくリバイバルしているが、あの発売禁止の経緯は朝鮮総連からの抗議ではなかったらしい。というか朝鮮総連の主張はイムジン河の原詩は北朝鮮籍の著名な詩人なので(これは事実らしい。日本語作詞の松山隆は『イムジン河』の原曲を在日の人から聴いている。そのひとが北の人だったと言うことだろう)、原作詞者名に「朝鮮民主主義人民共和国」と入れて欲しいというものだった(国の名を掲示せよと言うのも奇妙な話だがこれもわからないものではない)。つまり発売禁止にせよというものではなかった。しかし東芝EMIはこれを北朝鮮から圧力を受けて発売が出来なくなったということにした。原作詞者名=朝鮮民主主義人民共和国と記した曲を出すことに躊躇した結果だったらしい(『URCアンソロジー』より)。発売禁止、放送禁止が多くの場合、情けない自粛であることを示したのは森達也の『放送禁止歌』だったが、この場合も自粛(それも自分たちの責任を隠蔽して北朝鮮の印象を悪くするという欺瞞に充ちたーー)らしい。
もうひとつおすそわけ。
ふと後ろをふり返ると
そこには夕焼けがありました
本当に何年ぶりのこと
あれからどの位たったのか
ひとつ足を踏み出すごとに
影は後ろに伸びてゆきます
悲しい毒ははるかな海を染め
今日も一日が終わろうとしています
ぼくはいま、阿佐ヶ谷の駅に立ち
電車を待っているところ
何もなかったことにしましょうと
今日も日が暮れました
ああ中央線よ空を飛んで
あの娘の胸に突き刺され
友部正人『一本道』。これも『URCアンソロジー』から。懐かしさとその他の事情があって涙がでそう。ぼくのような殆ど幽霊化した人間でも少しは正体をにじませることもある(苦笑)。
住基ネット用の番号が郵便で届けいていた。昨日から運用開始なので昨日の時点で届いているのがスジなのか、運用開始になって送付手続きにはいるのがスジなのか分からないが、まぁ、いずれにせよ、ついにこれが来たかと感慨はある。
ところで、この番号はどうやってコード化されているんでしょうか。報道ではそんなこと触れていたっけか? ぼくは住基ネット問題は記事を書いたことが無くて、ごくごく一般人レベルの知識しかないのだが、どなたか知っていたら教えて欲しいものですね。
たとえば免許証番号は、一番前の二桁が発行公安委員会のコード(東京は30)、次の二桁が取得の西暦(元号法制化で問題ないのか?>警察庁!)そのあとが個人番号だが、最後のケタは免許証の再発行回数である。故人番号の部分はたぶん公安委員会ごとの発行順だと思うが、もしかしたらもう少し操作があるのかも知れない。
で、住基番号はどうなんだろう。番号を送ってきた封書によると無作為に生成されていると言うが、検査番号に一桁当てられているところみると、正しく存在しうる番号かどうかとかのチェックが可能なくらいには、何かの関数になっているのではないか。ということは、その「無作為」な数字生成関数が漏洩すれば、色々なことが出来てしまうかも知れない。クレジットカード番号の生成プログラムによるネットショッピングのように。初期値がもしも生年月日とかであれば番号から逆に辿ることもできるのか(さすがにそこまでは間抜けではないか?)。
あと家族で一覧表にして送ってきたけど、これって問題ないのか?
さて、これは前に記事に書いたことがあるんだが、ぼくは警察勤務の小学校時代の同級生がいる。彼はクラス会の名幹事だった。というのも殆ど30人近く前のクラスの殆ど全員の現住所を網羅した名簿を作り上げたのだ。方法は明白(というか自分でも話していたが)運転免許証さえ持っていれば端末経由で調べられるのだそうだ。しかし結婚して姓が変わっている人も調べ尽くしていたので、おそらく警察には戸籍とリンクして旧姓から逆引きも出来る個人情報データベースがある。そして、それはぼくの友人のようなノンキャリの警察官でも仕事以外に使えてしまうらしい。
つまり既にぼくたちの個人情報は警察経由で既に相当が漏洩している。別件で私立探偵の取材をしたこともあるが、彼らは警察(とNTT)にいかに懇意の職員を確保するかが、仕事の成否の鍵を握ると言っていた。
だから住基ネットになったからと言って、これでもう個人情報の保護は終焉を迎えるというような劇的な変化はない。が、漏洩の機会が今までより増したことは確かだろう。アクセス可能者が単純計算でも増えたわけだから。あと接続の問題。他のデータベースと接続して個人情報の一元管理は出来るようになる利便性は一元的に個人情報が漏洩される危険と完全に二重に重なっている。今までは個人情報データベースがあることは、おおっぴらになっていなかったので接続するにも遠慮?があったが、合法的に接続できてしまうことは、官僚マインド(フーコーのいう牧童的な権力の)持ち主が倫理の不在ではなく、むしろ職業倫理の結果としてその過剰な利用へと暴走する事態を導きやすくなって、空恐ろしいのは事実だろう。
これは多くものに通じることだけど、住基ネットに対しても「正しく恐れる」必要がある。もはや個人情報の保護はなされていないという事実を踏まえ、利便性もあるということも視野に入れ、それでもどこまではきちんと制限されるべきかはもっと冷静な議論が必要だろう。漏洩を防ぐ実質的な抑止力を持つ法制度も必要だと思う。
日曜日にクルマのラジオを聴いていたら福山雅治が住基ネットに強い嫌悪感を示していた。反対運動家の方々は彼のようなタレントこそ仲間に引き入れるべきだ。そういう戦略を考えないのは、実は芸能人差別なのかもしれないとふと思ったりもする。
父親の見舞いにいったら病室の名札が空白になっている。日曜だったからかもしれないし、個人情報保護の観点からそういうふうにしたのかもしれない。もちろん一般の外科病棟では名札があってもそう人権被害にはならないだろう。気にすることは大事だけど。
それをみて思い出したのは『隔離という病』を書いていた頃だ。あの頃が、取材記者としてはぼくが一番油が乗っていた頃だったのだろうか。ある国立病院に併設されたエイズホスピスの取材を申し出て、断られ、ならばと強行突入しようとした。許可なしでの見学は許されることではないのは承知していたが、それでも確かな情報が無い中、なんとしても自分の目で見ておくことが大事のように思えた。
で、まず来客駐車場から施設内の道路にクルマで入って、外から外観のチェック。病院内地図に載っていないので建物の構造を知る必要があった。そして外来入り口から今度は徒歩で見舞客を装って入って、廊下づたいに目的の場所まで突破しようとする。しかし、この計画は結局失敗に終わる。病棟入り口までは辿り着いたのだが、ドアが内部に連絡しないと開かないようになっていた。で、内部へ入ることは出来ず、「プライバシー保護のために病室に患者の名札はない」とかいう情報の真偽は確認できなかった。
でも収穫がないわけではなかった。この病棟は病院の最も奥にあり、結核療養所が前身の病院だったのでかなり重傷の結核患者が入っている病室の先にある。廊下に出ている患者に酸素ボンベを使っている人が多くなるので、重症エリアに近づいているのだと分かる。これは自分にも感染するかなと不安にもなった。以前にカルカッタでマザーテレサの死の家を見に行ったとき、そこで働いているアメリカ人ボランティアが結核になるのは避けられないと語っていたのを思い出す。排菌している患者がいる場所に近くにいれば運が悪ければ感染はする。そして三種薬剤対応の結核はかなり治しにくい。
しかし自分の不安は置いておこうと思った。問題は結核エリアのすぐ先がエイズホスピスなのだ。ということは・・・・、免疫力の落ちた末期エイズ患者は結核菌に至近の場所で入院生活を送っているのだ。もちろん対策は打ってあるのだろうが、リスクマネージメントの観点からすれば決して好ましい配置ではないだろう。以前、結核専門医師に聞いたのだが、エイズと合併した結核はすさまじい急性化を遂げるらしい。体内の抵抗力で拮抗させているがそのバランスが崩れると慢性病のイメージが強い結核はまったく病状をかえて患者を襲うらしい。エイズホスピスの位置はそんな結核エイズ合併の可能性を増やしこそすれ減らすことはない場所にあった。これは行ってみないとわからないことだった。そして一度、記者に公開したときの記事では、見学者が感染症に知識が乏しかったのか、そうしたことに言及したものはなかった。
そんな場所にしか専門病棟が造れないのもエイズ差別の屈折して現れたかたちなのだろう。それが確かめられことは実りがあったと思う。見てみないと分からないことはやはりある。
他にもこの時期には都立病院のエボラ出血熱専用病棟も見ている。これはちゃんと広報を通しての取材だったが、この後には許可が下りなくなり(取材を申し込んだという同業者から聞いた)、更に都立病院の予算縮小のあおりか、エボラ病棟は閉鎖されたらしい。
患者のQOLを一切考慮していないひどい設計の病棟だったが、エマージングウィルス対策として内部の負圧処理など、二次感染被害を防ぐ設備をもった病棟を持っていること自体は(エボラ出血熱には過剰設備だったことが分かったが)、未知の空気感染型感染症への備えとして悪いことではなかったと思う。
先にも書いたがそれもなくなった。もしも新規の極悪性の感染症に教われたとき、隔離施設もないし、この国の国民は冷静に対応できるのだろうか。ハンセン病英断に沸いたが、感染症対策は真摯に検討されていない。このまま日本の感染症対策はどこに進むんだろう。そんなことを考える土台になるのは当時の取材経験だった。もっと取材しなければと思う。そして見たものの責任をとる。最近のぼくはスタバで原稿を書いてばかりいすぎる。ジャーナリストとしての自分の血と肉は取材で培われたことを改めて省みる。
次に用意している戦争報道論のための調べものをしていて、「民族浄化」「多文化国家」という言葉が人口に膾炙して行く流れのひとつが仕組まれたものだったことを知る。マイナスにしろ、プラスにしろ感情に訴える情価型の言葉は論理的思考を麻痺させる効果があるので、人々を動かそうとする側にしてみれば使い甲斐がある。「民族浄化する国家」は空爆されても仕方がないと納得するし、「多文化国家」は可能性を感じてしまう、それが人情だろう。
しかし、それじゃダメだ。あなたを操作したいと思っている相手の思うツボなのだ。言葉からいかにイメージが喚起されているか自覚的になる必要がある。言葉のイメージ喚起力の機能分析と意味伝達作用に於ける定式化はぼくが大学時代にやっていた作業だった。吉本隆明は国家を共同「幻想」という言葉で論じたのは、「幻想」という語彙の情価を意識してのことだったはずだ。そんなことを入り口として文化批評の基礎になる言語論を作ろうと奮闘していた頃。巡り巡って元の場所に出る、そんな不思議な感じがした。
実話系週刊誌記者から「携帯電話などにまでもカメラがついて盗撮などでプライバシーが侵害される危険について」コメントを求められる。ぼくは自分だって電話取材しか出来ないケースにおいやられる場合があるので、なるべく依頼は受けるようにしているのだが、結論から言うと、これは断った。ただ無碍に断るのもなんなので少し雑談はした。その内容は「デジタル化で現像処理が要らないと言うことが奔放な映像を撮りやすくする機能を果たすことがあり得る。以前では現像所が一種の映倫的な役割を実際に果たしていたし、現像焼き付けを第三者に任せることが撮影行為に社会性をもたらしていたが、そうした要素が無くなったことは野放図な撮影に傾斜させる原因にはなるかもしれない。携帯電話のように大衆的に普及した製品にデジタル技術を応用した撮影機が搭載されることはそうした傾斜に拍車をかけることはあるだろう」。と、ここまではたぶん向こうが聞きたかったこと。しかしこれだけで済ませては話にならないと思う。この説明の仕方はプライバシー侵害の欲望があって、今まではそれを押さえていたフタがあったが取れてしまったという図式に即している。この説明の図式は「そのことが悪いんだったらフタをどこかで再びすればいいではないか」という議論に対して免疫がない。ぼくはそうした地平で議論したいわけではなくて、問いたいのは、そもそもプライバシー侵害の欲望がどこから来るかということなのだ。
たとえば「フタをすればいい」という議論だと、プライバシーを侵害した写真を転送したところを押さえられるようにネットを検閲すればいいとか、盗撮しているところをおさえられるように公園に監視カメラをおけばいいということにすぐになる。そんなことをしたら、公権力がプライバシーの侵害をすることに一歩踏み出すことになる。そうではなくてプライバシーを尊重する文化風土を培ってその侵害を根本的に断つこと、携帯電話カメラのプライバシー侵害も、公権力のプライバシー侵害も同時に断てるような制度を作る必要があるし、文化・習慣を確立する必要がある。繰り返すがそれはどちらか一方ではなく両方をいっぺんにしなくてはならない。少々おおげさになるが要は個々人の尊厳をいかに守れるかという問題に帰着するのだと思う。
しかし実話系だからとはなから軽蔑して雑誌の悪口を言うわけではないが(前に廃刊される直前の『微笑』の取材を受けた経験があった。記者はとても丁寧だったし、女性誌らしからぬ社会分析的な記事だったがその作りも素晴らしかった。そんな経験もあって雑誌の世間一般の評価はぼくは判断停止しようと思っている)、記者の説明を聞いている限り、そうした広がった文脈でコメントが使われる保証はない(どうも「夏の公園、盗撮にご用心!」とか、「こんなにある盗撮サイト」とか銘打ってモザイク入りで画面を紹介する記事を考えていたのではないか? そういう記事でぼくのコメントというのはどうなんだろう)ように感じられたので「」の中で自分の発言が使われることは断った。
そもそもこの種の構造的な内容の話は電話でちょっと聞くだけじゃ、やはり把握できないと思う。電話は最後の手段にすべきだろう。しかし、電話でコメント取って記事を作ることは実話系だけではなく、一般的な雑誌メディアでも平気でする。もちろんいつもコメント取材だけではないだろうが、ここで問いたいのは、むしろ具体的な作業内容よりも背景にある価値観で、電話取材のコメントを切りばりして雑誌が出来ると信じて疑わないこと、雑誌をそんなものだと見くびっているのだとしたら問題だ。そんなことをしていると雑誌メディアは遠からずして死ぬんじゃないかな。
ブルーハーツの原稿が終わったので、久しぶりにブルハ以外の音楽を聴く。やっぱりぼくはくるりなんかの方が相性がいい。
昨日は歯医者に行った。詰め物をしていた奥歯の周辺部分がかけてしまい、ついに金属をかぶせることになった。その治療が終わった。うちは歯が弱い家系なのか、小さい頃から虫歯が多く、歯医者には多くかかっている。その「遍歴」の経験からの印象だが、人間一般と同じく歯医者にも二通りのタイプがあるように思う。つまり現実派か理想派か。現実派は人工の歯を作るときに現状維持を旨とする。だから治療の後の違和感は少ない。それに対して理想派は正しい噛合の在り方を意識して、治療のたびに理想に向けて方向付けようとする。最近かかっている歯科医は理想家肌の強い人のようだ。「かみ合わせをするうえで大事な歯だから、紙一枚分高く作っといたよ。最初はヘンだと思うけど慣れるはず。もし一週間ぐらいたってそれでも慣れなかったら言って下さい」。そう言われて歯医者の門を出た。確かに違和感が強い。歯を食いしばると治した歯が最初に当たる。これは治療前にはなかった感覚だ。
で、昨日は終日、ものを食べる気がしなかった。うまく噛めないので辛いのだ。一週間で慣れるのだろうか。不安さえ感じた。
一晩寝たら状況が変わった。違和感が消えたわけではないが、かなり減っている。面白いものだと思った。まるでパソコンである。寝ることはパソコンの再起動のようだ。新しいハードウェアを入れたら再起動することでそれがちゃんと機能するようになる。身体メタファーで機械を語ることもできるが、機械メタファーで身体を語ることもできる。
で、今日は終日、虎ノ門病院。医療機関づいている。今度は自分ではなく、父親の付き添い。頸動脈狭窄の手術日だったのだ。血管を切開し、内膜剥離する手術そのものは簡単なもので、2時間程度で問題なく終わったが、まれに術後、脳梗塞に至る場合がある。医師にもそう説明されていたので、危険が高いと言われる術後の6時間は病院にいた。
麻酔からさめると案外と元気で、様子を見に行くと顔をこっちに振り向けて話そうとするから困る。切開した頸動脈の縫合が開いてしまったら困るじゃないかとこちらが気が気ではない。
昨日書いた祖父の時もそうだったけれど、ぼくは自分は入院経験すらないのだが、結構、病院に縁がある。祖父の付き添いの時には病院でヒマを見ては卒業論文を書いていたことを思い出した。今日も面会スペースでずっとブルーハーツの原稿を書いていたのだ。
ぼくの亡くなった祖父は教員だったんだけど、病気を理由に職場を早く引退した後、長い隠居生活を送っていて、そのころは新聞にコラムを書いていたらしい。とはいえ大新聞ではなく、出身地の地方紙だけど。
この前、実家に帰ったとき、その作品を切り抜いてまとめたスクラップブックをみつけて読んでみた。本名とペンネームと半々なのだが、ペンネームがよく分からない。礫素斗とあるがはたしてなんと読ませたかったのか。エラスムスとかが好きだったようなので、あるいはそのあたりと関連があるのだろうか。生きているうちに確かめておくべきだったと思う。
亡くなったのは、ぼくが大学院の受験をしていた年だ。付き添いのために入院先でよく徹夜したので覚えている。入院生活が約一年弱、最後の半年以上は呼吸管理までされていて辛そうだったが、スクラップをみると死ぬ二年前の原稿は少なくとも残っていた。当時は家にいてとりあえず元気だったはずだが、一度脳溢血で倒れていて半身不随となっていて、不自由な左腕をかばいながら書きもの机に向かっていていたはずだが、それでいてこんなものを書いていたのかと、正直驚きがあった。刀鍛冶のの話や、庭に来る鳥の話を書いていて全く屈託が無く、悲壮感も感じられないのだ。
いつ死ぬかなんて誰にも変わらず、二年後のぼくがどうなっているかもわからないので意味のない想像だけれど、死ぬ二年前にぼくはこんなに屈託のないコラムを書けるだろうかと思う。メメントモリから程遠い、能天気な状態で生きている今でも、やたら重苦しい原稿しか書けないのだから。昔の人は強かったのか、ぼくが弱いのか。
クルマで環パチ(都道:環状八号線)を走っていて気付いたんだけど、マツダのM2ってもうやってないんですか? バブル経済盛んかりし頃、ギリシャ神殿風の奇抜な意匠をまとって登場し、話題になったビルだ。マルダスピードの看板がついていたが、営業している風ではなかった。もう18時を過ぎていたので営業時間後なのか、あるいは土曜は休みなのかも知れない。
しかし、もしやっていたとしても相当に荒れている感じだった。M2が休業においやられているか、やっていたとしても荒れてしまっているのはマツダ自身がフォード陣営に組み込まれたことと無関係ではないだろ。不採算部門整理の過程であり、切り捨てられるたか、切り捨てられようとしているのだろう。
とはいえ、こういう場合、建築家の責任って無いのだろうか。不採算部門だって器が魅力的なら買い手がすぐに着いただろう。高く売れるんだったらフォードから来た経営者は喜んで売却のハンコを押したはずだ。しかしここまで荒れた印象なのは、買い手がつきそうにないことの証だろう。もちろん権利関係の複雑さがあるのかもしれない。しかし即座に買い手が着くような魅力的な建物でないという事実には敢えて注目したい。(あれは作ったのはたしか隈で)隈研吾はよくメディアに出ていた。確信犯的にポストモダン建築を作った云々の話をしていたように思う。あえてグロテスクに、あえて表現過剰にしたのだと、これが時代の気分なのだと。
そんな建物が売れない。確かに隈のアイディアにゴーを下す経営者なしには実現しなかったアイディアだ。隈だけの責任とは言わない。しかし隈にも責任はある。露悪趣味の商品性の短さを見抜けなかったとしたら建築のプロとして批判されてしかるべきだし、具体的に公共空間に異物を残した罪は残る。ポストモダン様式が確信犯だった延長で、こうなることを予想していたというのだとしたらさらに罪深いはずだ。
週刊文春なんかばバブルの遺物を批判するとき、行政だとか施主を嘲笑するけれど建築家だって批判されるべきだと思う。モノ作りというのは真剣勝負なのだ。作った後始末も責任のうちだろう。建築雑誌は作ったときには奇抜さ、設計上の冒険を散々もてはやすけれど、こういうケースだと沈黙してしまうように思う。社会性が欠けている。建築家にアーティスト顔ばかりされていては困る。都市の未来によきこともすれば悪しきこともする、実際に手を汚す実践家としての矜持を持って貰わないと、ね。隈には、あんなパルテノン神殿みたいな建物を造って、バブルがはじけたら誰も寄りつかないことなどわかっていたはずで、「どう落とし前をつけるんだい」と改めて言いたい。いや、責任と言っても負債を受けおえ、とか道義的な責任があるとかいうつもりではなく、より抽象的な、クライムではなく、スインに関わるというか、はてまた社会の公正さに対する責任というか・・・、そういったものに注目する視点が一般社会側にあって良いと思うし、建築家の方にもあるべきだと思う。
たとえば建築家が時代の変遷について自らの存在価値や仕事の一部を断罪する姿勢を含めて語るような場があって良いのではないか。作るって言うことの、歴史の中における厳しさのようなものがもう少し認識されて良いのではないかと思う。
ところが・・・・、この話にはさらにオチがあって、今度、汐留貨物駅跡地に出来るJRAの建物はこれまたパルテノン神殿風なのだ。懲りない人はいまだにいると言うか。だったらM2にJRAが入ればいいのに、というわけにゆかないところが悩ましい。
午前中はマイケル・ルイス『ネクスト』についての書評を書く。週刊ポスト用の原稿で本選びも編集部によるので、さてどうかなと思って読んだがなかなか面白かった。ネットで武装するティーンたちの話だが、一方で大人たちの保守化、特にJavaのビル・ジョイの反動化についての章を加えたことで子供と大人、内部者と外部からの挑戦者のコントラストがはっきり示されて良かったと思う。マイケル・ルイスは『ライアーズポーカー』を出した直後に少し会ったことがあった。LSE出身の毛並みの良さに加えてベストセラーを生みだした後で、まさに前途洋々という感じだった。読書人口を思えばやはり英語圏の作家は恵まれている。嫉妬というわけではないのだが、少々複雑な気分になった記憶がある。
午後から開高健とその評論を読む。こちらは秋以降に出す本のため。小田実や吉本らの開高批判も目を通す。基本的にぼくはそうした批判から開高を擁護したいと考えているし、彼のベトナム報道をもう一度再評価できると思ってもいる。その作業の過程でぼくはハルバースタムを批判しようとも企てている。ハルバースタムを一時良く引いたのでハルバスタムに私淑しているような印象がぼくにはあるようだが、アメリカニュージャーナリズムの歴史的価値は認めるものの、そこで報じられたことの全てが真実だったとは思っていない。ニクソンを辞任させたウッドワードのスタンスだって相当危ういし、ハルバースタムだってそうだ。ハルバースタムの場合、『ワンアンドフォーエバー』を誉めた姿勢がどうも距離感のないもので幻滅したというのもあるが。
途中、アスキーから2ちゃんねるの使い方について取材依頼の電話。2ちゃんにアップされる情報はよくもわるくも「2ちゃん化」されている。その独特の位相を踏まえた上で使う、2ちゃん化のベクトル自体を分析対象として視野に入れるのならよいが、玉石混淆の玉をどうやって探すかとか、よくある情報収集活用マニュアルのような話を聞きたいとしたら、自分はそれが出来るとは考えていないので応じられないと一度は断るが、こちらの考えを述べてくれれば良いと言うことで結局、受けた。
前にニュースステーションのクローン関連コーナーの作りに疑問を呈したけれど、そのうちの一点、母親の体細胞を使うと言うことに対して、ぼくは母親側の遺伝子を残したい願望が何かあるのかと疑った。たとえば白人の遺伝子を残したいという具合に。しかしもっと簡単だった可能性がある。要するに女の子が欲しかったってことじゃないのか。父親の体細胞クローンだと生物学的には当然、男の子になる。逆は当然、逆だ。
粥川さんがクローン技術による不妊治療?は男女生み分けを内含するという趣旨のことを自分のWEBページで書いていて、なるほどと思った。「人間を作る」というと大それているし、デザイナ−ベビーというと各論に踏み込んで行きすぎる印象が(ぼくには)あって、その間で基本的なことを見落としていた。抽象的な「人間」を作ることは出来ない、まず男か女かが作られるわけだが、そこも当然、恣意的な選択肢になる。
小林秀雄も形而上学的な「人間とは」云々の議論に辟易して確か「人間なんていない。いるのは男か女か」だとかいっていたけど、ぼくも抽象思考に少し足を取られていた感がある。気付いていないのはぼくだけだったのかな。
男女生み分けは、ある意味で「確立された」欲望だ。万人が許容しているわけではないけれど(少なくとも日本では)そういう願望を持つ人もいるのだろうと思われている。そうした「確立された」願望がクローン技術と底流で繋がっている。そのことの意味は案外と大きいように思う。
今週の日曜の朝日の書評欄で高橋源一郎が片岡義男『七月の水玉』を取り上げてこう書いている。
「片岡義男をきちんと評価できなかったこと、それは日本の文芸評論家や批評家といわれるひとたちの最大の失敗、いや怠慢だった、とぼくは思っている」。「片岡義男を読んでいると、ぼくは、遠く、日本語に近代の散文の力を与えることに始めて成功した二葉亭四迷の翻訳『あひびき』を思い起こす」。
しかし、源ちゃんよ、ぼくは文芸評論家ではないが、片岡義男を論じたことがあるのだよ。しかもかなり本格的に。最初に書いたのは今は『文学界』の編集長をしている細井秀雄さんが担当編集者だった頃の週刊文春書評欄で拡大版書評の形で三回連載させて貰った。そしてそれを加筆して『紛い物考』という本に収めた。売れない本だったし、版元がCBSソニーという思想系の本のイメージと全くそぐわない出版社から「脱臼」的に出てしまったものだったので気づかれにくかったことは確かで、それを読んでいないことをきみの最大の失敗、いや怠慢とまでは言わないけれど(笑)。他にも室謙二が(たしか82ー3年だったんじゃないかな)編集した『ブルータス』の片岡特集号も優れた「文芸評論」だったと思う。それも源ちゃんの視野には入っていなかったようだ。
と、かみついてはみたが、片岡の評価についてはまったくもって同感。散文家として非常に優れている。その資質が衆目にも明らかになったのは片岡が小説を離れて評論?の域に本格的に踏み込んだ『日本語の外へ』以降だろうが、ぼくは以前から、たとえば片岡の小説の抽象化の強度や、その作品内に多用される語尾「た」がフランス語の単純過去=物語化のジェネレーターだと見て、その小説の時制を現実の時制から切り取る力量をも評価していた。後者もまた高度の散文技術の一貫だと思う。
こう書くと『紛い物考』、読んでみたくなるでしょう。他にも村上春樹論から尾崎豊論、「ヘーゲル著作集を暗記してそらんじられる子供を哲学者と呼べるか」論まで、珠玉の論考が多数収録されている。しかし残念ながら絶版。読みたくなったら迷わずにブッキングの絶版書復刻HPへゴー!だ(笑)。
日経ゼロワンの副編集長だった草野令絵さんが亡くなったらしい。メーリングリストで以下の葬儀の情報が流れていたのでここでも掲示します。
> お通夜 7月21日(日)午後6時から7時
> 告別式 7月22日(月)午後1時から2時
> 場所 港区高輪3-15-18 高野山 東京別院(03-3441-3338)
ぼくは直接、担当して貰ったことはなかったが、一度、匿名で取材を受けて貰った恩があるし、新年会とかではよく話しかけてくれた。書き手に一定の敬意をもって接してくれるのが嬉しかった。
ぼくより若いのに早過ぎだよ、つれないじゃない>草野
死因については聞いていないので、言及は避ける。ご冥福を祈ります。
名無しの探偵です、ジャーナリストではないので一部訂正しておきます。統一教会がらみで「街頭募金」活動していた知的障害者という書き込みは訂正の必要があります(失礼しました)。
ネット上での名誉毀損行為が問題になるかもしれないので、もう一度書き直します。
「あのカンボジア難民に愛の手を」やその他の募金活動はいろいろな噂が飛び交い、「統一教会らしい」という噂のレベルを超えていません、したがってサイト管理者の武田さんが削除すべき「書き込み」になるかもしれません。
20年近い以前のことなので記憶で書き込んだのがまずかった。謝罪します。
それと、障害者への労働問題などの配慮を著しく欠落させている政府と企業社会では募金活動も
一定の意義がありと思えるので、再度考え直しています。
久しぶりに電気屋にいって発見したんだけどソニーからMZ−B100というMDレコーダー/プレーヤーが出ていて、これって取材用としてなかなかですね。MDLP対応で最長320分まで録音時間が伸ばせるし、出先でも入手しやすい単三電池一本で駆動するし、本体だけでステレオ録音出来る。再生も+10ー−20%で速度調整できるみたいだし、なんとフットコントローラまで別売で用意されている。これはあきらかにプロの需要をノーマルカセットからMDに移行させようとしているモデルでしょう。操作スイッチも誤操作のない押し込み式になっている。まるでぼくに要望を聞きながら作ったような(笑)細分まで取材者と配慮した設計だ。
たぶん音質的にはノ−マルカセットの比ではないだろうから、問題はMDの耐久性、信頼性だけか。このへんは長く現場で酷使して確かめないとわからない。どこでもいいんだけど、たとえばこの掲示板が、長期テストレポートの情報集約の場になればいいと思います。(誤字修正)
確かに検索で出てくるページの中にはずいぶんしっかり調べた感じのものがありますね。参考になります。確かに「緑の党」のように耳障りの良い名称なら、もう少しメジャーに使われても良いのでしょうから(絶対に使おうとした人はいると思う)事情が色々ありそうなことは少なくとも推測できますね。
ぼくが気になるのは、たとえ○一教会がかかわってかなり無謀な雇用や勧誘をしているとしても、そうした関わりで社会的弱者の「生きがい」形成や就職が出来ないのだとしたら、その雇用や勧誘の不公正さで○一教会を批判する一方で、そうしたかたちでしか生きがい形成や就職を与えていない社会全般にも批判を向けるべきではないかということですね。