
武田徹Official Web
Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG103
書き込みありがとうございます。
なんとなく見えてきますね。
ただ、みなさん、もちろん裏が取ったうえで書かれているんでしょうからいいですが、実名が出始めるとぼくは性格的に少し心配になってしまいます。
>街角で募金を募る人々って怪しいと思いません? これはもしかしたら御存知の方がいる
>かも知れないので教えて欲しいが、町中で募金を集めている人の、もちろん全てとは言わ
>ないが、一部の人はどこか怪しさを感じる。ピンハネしているという疑惑ではない。ぼく
それって、やや目線の定まらない若い男女が「一口千円」と値段を指定してくる団体じゃないですか。だとしたら「日本ボランティア会」かもしれません(僕は街頭で確認したことがあります)。「緑の党」を名乗る政治団体も持っているようです(同じ名前で迷惑している団体もあるようです)。検索エンジンにかけると、彼らに批判的なサイトがたくさん出てきますよ。
書き込みありがとうございます。色々あるようですね。こちらこそよろしくお願いします。
ぼくは統一教会だからとか、オウムだからとかいう立場で何か言うのは好きではなく、この種の問題でも、福祉と医療サービスが的確に知的障害者に届いているか、彼らの生きがい生成と授産のメカニズムとして今の在り方が適当かを問題視したいと思っています。
さてマスコミはカルトに踏み込もうとしないと言う一面もあるのですが、以前、竹内まりやの記事を書いたときに彼女が某新興(とまだ言えるだろうが比較的ポピュラーになっている)宗教信者であることに編集者がどうしても触れたがって困ったこともありました。信仰が活動に具体的に反映していれば、もちろんタブーにするのはおかしく、しっかりと考察したい問題ではありますけれど、内面的な問題を軽々しく扱うのはどうも抵抗があります。このように新興宗教を触れることをいたずらに好む傾向もマスメディアには一方ではありますよ。現象面では正反対ですが根の部分では同じ問題から派生しているのかも知れないですね。
が怪しいという問題ですが、実は探偵が30代の時にも知的障害の方が募金活動をしていました。
15年位前の話、当時はカンボジアの内戦の時だったので、彼らが「カンボジアのベトナム侵攻で難民になった人たちに募金をお願いします」という名文に違和感があり、批判的に話したら彼らは
怒った顔で探偵を威嚇した。
後に茶谷さんというルポライターの本で統一教会が知的障害の人たちを使って募金活動を行っているとか知人からも同じようなことを聞いた。
探偵の実家などにも学生風の若者が北海道の珍味を売りに来たと言う。そういうセールスは能力が
必要なので普通の信者が行っていた。
いずれにしても問題になったケースであるが、流行に敏感なマスコミは統一教会などのカルト活動(実は宗教ビジネス)を全く追及していないので情報がとまっているままなのだろう。
初めてですが、よろしく。
ははあ、募金ですか…。何だか読んでて、さもありなん--という感想です。
物事全てに理由有りですね。
武田さんの書かれている金属細工売りは日本の暴力団の元締めと、それにコネのあった現イスラエル住の(イスラエル人)人間が当初組んで始めたもののはずです。売ってるイスラエル人の若者は闇社会の人間でも何でもないはずですよ。彼の国の若者が兵役後に保証(社会慣習として)されている一年に近い自由期間を利用して安く海外を見て来る----という習慣に上手く合致した「事」らしいのです。各地でアルバイトなどをして旅を続けるわけですが、彼らの日本滞在中の旅賃稼ぎとして、この事が上手くニーズにはまってるわけですね。まあ、…なんだか、面白いです。
イスラエルには先述の業者が一括経営するツーリスト向けの会社があって、その手続きに順番待ちをしているイスラエル青年達の映像を、俺、昔ドキュメント番組で見ました。件の寄付も何かからくりがあるかも知れませんですよね。仰るように、変にシステマチックで、ノウハウ絡みの感じが素人目にも映ります。
余談ですが、ここ四、五年東京で増えた、黒人が街頭でやってるスポーツウェアの販売は「金属細工販売」に近い風がありますね…。同じような事情がある気がします。携帯電話でやりとりしながら、ワゴン車で四、五人がシフトしながら来たり去ったりしていますが、こっちは、上記の日本暴力団と海外コネというよりか、新宿などで日本の暴力団と入り乱れているチャイニーズ・マフィアと、それの海外コネの可能性もあるかなあ、なあんて空想している俺です。
久しぶりに来ては、変なこと書いて失礼しました…!
街角で募金を募る人々って怪しいと思いません? これはもしかしたら御存知の方がいるかも知れないので教えて欲しいが、町中で募金を集めている人の、もちろん全てとは言わないが、一部の人はどこか怪しさを感じる。ピンハネしているという疑惑ではない。ぼくの感覚ではピンハネされているというか・・・・語弊を恐れずに言うと、どうも知的障害者とかが募金活動に当たっている感じがするのだ。昨日も銀座で三宅島避難民への募金を訴えていた若い人たちと遭った。そしてぼくは疑惑の思いを更に色濃くしている。前から募金活動がどのようになされているのかは疑問で、ここにも書いたような気がする。以前にも実際に募金を募っている人に話を聞こうとしたことがあったがどうも埒が明かなかった。それはうやむやにされたというよりも、説明できる能力がないという感じの印象だった。そのときの違和感がぼくの疑惑を決定づける。
たとえばベトナムのホ−チミンシティを訪ねた旅行者は子供の押し売りに閉口した経験があるはずだ。子供たちは、しかし、おそらく高度に組織化されている。元締めがいて、身よりのない子供たちを街に出して押し売りをさせ、そのあがりの幾らかを徴収するシステムが絶対にある。そうでなければ子供たちが一様に押し売りの物品を扱えるはずがまずない。
東京の路上で金属の細工を売る外国人(イスラエル人だという説があるがどうなんだろう)にも前に話を聞いたことがあるが、海外を放浪旅行中に金を稼げるよう、ストリートで物販する商品を提供してくれる元締めがあるのだと言っていた。
ぼくが怪しいとみている募金活動の一部も、ベトナムの子供の押し売りと近い構図を持っているように感じられてならない。知的障害者を使って募金を募らせ、その上前をはねている人がいたりするのではないか。
もしそうだとすると、これは、上前をはねた後にそのお金がどこに行くかで問題は大きくも小さくなり、もし自分たちで消費してしまうのであれば良心で募金をした人たちを大きく裏切る結果になるし、使われている人たちがどのような立場で関わっているかも問題だ。ベ
トナムと同じく弱者が不本意なかたちで闇経済に利用されているのだとしたら、なんとか改善の努力をすべきだろう。
全てが推測含みで書かなければならないが、実際のところどうんなだろう。
午前中は首都高速中央環状王子線の「接続セレモニー」に出る。王子線は首都高川口線の江北ジャンクションから首都高5号線の板橋ジャンクションをつなぐのだが、飛鳥山公園下のトンネルも完成して全線が接続される(あくまでも道路の基礎構造がの話で、実際の供用は今年度末からか)、その記念の式典。記事にするわけではないので、忙しかったらいけないかなと思ったが、運良く締め切りの谷間に入ったし、最近の習慣で朝寝坊もせずに5時には起きちゃったので、いそいそと出掛ける。
式典なのでテープカットかと思ったが、打鋲式。要するにスパナーでナットを締めるまねごとをする。
係員が「わたしが1,2、3と声を掛けますので、それに続いてえい、えい、えいと三回締めて下さい」と説明。地元区長らがスパナ(金メッキ)でボルト(金メッキ)を締めるで、本当に「えい、えい、えい」と発声するんですね。 まぁ、セレモニーらしくするのに他にどうするんだとも思うが、取材者として少し引いて見ているとなんかおかしい。海外だとどうするんだろうか。鏡割り(こっちもせーのの掛け声で「えい」と樽を割る)もあって日本酒がふるまわれた。おかげで朝から酔っぱらいである。
道路関係の記事をよく書いている清水草一さんも来ていた。地味な公団と地元区役所関係者の中で金髪がひたすら目立っていたが、この種の地味な祭典もきちんとおさえていてなかなかだと思う。ちなみに彼は日本酒は飲んでいなかったが、それは仕事中だからではなく、二日酔いだったらしい。
式典後、工事中の道路を公団のバスで走って見学。隅田川に架かる橋梁と、飛鳥山トンネルの換気施設をみた。換気塔の最上部。風が渡り、ほろ酔い気分に心地よい。換気塔のエレベータは使用頻度の少ない点検作業員用なのでエアコンの設備もなく、乗り合わせた新聞社のカメラマンは汗くさいというのか、雨に濡れたまま乾かしてしまったというのか据えた臭いがした。この季節になるとこう人とよく出会う。ぼくは物見遊山感覚だから気楽なものだが(今回が記事を書かないからというわけではなくて、たとえ記事を書く場合でも気分的には実はあんまり変わらない。やりたい仕事しかしていない。自発性という意味では「心」がなければなりたたないので、どんなに忙しくても、「心」を亡くすことだけはぼくにはありえないだろう。ボランティアで時々原稿料が付いてくるというのは、へんな感じだが、正直なところで実はそれに近い仕事ぶりなのかも知れない。それがいいのか、悪いのかわからないが、少なくともこんなことのんきに言っていられるうちがハナだというのは確かだろう)この人達は会社の仕事で、着っぱなしのシャツを気にしてられないほど、気持ちの余裕を持てない状態で働いている。学生たちには人気のマスコミ業界だが実体はこんなものだ。
昼前に見学は全部終わったので、一人で王子の駅の近くの日本蕎麦屋に。上から見て目星をつけていたのだ。ここで飲んじゃうとすっかり永井荷風だ。午後はまた別の取材なので我慢する。
朝のテレ朝の番組を見ていたら日垣隆と小林照幸が田中康夫知事不信任問題で対論を張っていた。しかしTVはいかなる問題をもブラウン管のサイズに縮小させてしまう気がしてならない。活字界の宝?であるこの二人の論客を持ってしても、限られた時間で、時間の進行のレールに乗ってしか情報提供できないメディアでの議論は致命的に浅くなる。
「ジャーナリズム批判としてのニュージャーナリズム」的な意味合いで、TVメディアの特性を相手取り、相対化した上で、情報を流すニューTVの試みがあってよいようにも思うが、そうした姿勢はなかなか定着せず、それでいて他メディアへの浸食、たとえば雑誌メディアの人材をTVがからめ取る速度はどんどん速くなっているように思う。そして有田氏や岩上氏のように二度と還らぬ人?になったケースも多い。
午後から台風一過の渋谷でNAVIうち合わせ、アジアプレスの野中氏を取材。朝の番組の印象も個人的にはあって、いかに日本のマスジャーナリズムが劣化しているかの話に花が咲く。しかし話が盛り上がるのはそれだけよくある話、紋切り型を反復しているだけだからだろう。実際、批判は幾らでも出るが、既存メディアを乗り越えるオルタナティブな方法をぼくもまた持てていない。野中氏は来年始めにも新しいプロジェクトを発進させるようだが。
夕方から陶磁郎の原稿。オーウェル、小野二郎の「紅茶を受皿で」について。少し前まで陶器と磁器の区別も付かなかったやきもの音痴のぼくがこんな超趣味的な雑誌に寄稿などとは少々気恥ずかしい。
小野二郎は大学時代に強く影響を受けた荒木亨先生と東大時代に同じく島田門下だった。島田キンジ氏(どんな表記だっけ?)は比較文学でも英文学系だったはずだから、これは小野二郎の方が正統である。小野二郎が死んだときに仲間内で発刊された『巨きな顔』という非売品の追悼本を、荒木先生が学園祭の古本市に出した時、ぼくはすかさずゲットした。
夜、空気公団「約束しよう」、ゴンチチ「メイドインウクレレ」を聴く
駅の自動改札で不意に止められるとき、びっくりしませんか?
乗り越しかなと本人もこわごわ通るときは予想しているのでいいけれど、正規の運賃を払っていて切符の磁気情報が読みとれずにひっかかるときなどは、予想をまったくしない状態で低い位置で足の動きを遮られるので本当にびっくりするし、恐怖すら覚える。
そんな感覚を覚えるのは、ぼくだけではないはずだ。車内の携帯電話使用よりも心臓に疾患のある人には悪影響を及ぼすのではないか。
普段はゲートが閉まっていて、切符や定期を入れると開く方式にした方が、ゲートが開いたのを確認してから進めるので心臓に悪くないように思うが、そうすると時間当たりの処理人数に制限が出てしまうのだろう。ラッシュ時などはたいへんなことになる。そもそも東京のように膨大な乗降客がある都市で降車時に改札を行うこと自体が世界的に見れば奇跡的(ヨーロッパの一般鉄道は車内改札が普通で駅舎は公共空間として地域に完全に開かれているし、地下鉄などは相当の範囲で料金を均一化し、乗車時だけの改札で済ませている場合が多い。ドイツ最大の都市のベルリンだって人口は300万程度しかないのにもかかわらず、だ)で、最初から相当な無理があるのだが、それをハイテクで対応してしまったところが日本的だが、さすがにすべてはうまくゆかない。せいぜいがキセルのルール違反者や、その容疑者をゲートを締め切ることで身柄拘束をする、その際にたとえ心臓に悪影響を与えてもそのリスクは織り込み済みで考えるような非人間性が露呈するということか。
今後、非接触型の定期券が普及し、ホットスポット化して更に自動改札は進化するのだろうが、定期を持っていたつもりで疑いもなく改札ゲートに突進し、実は不所持だったために急に止められて仰天するなんてことも今まで以上に増えそうだ。自動改札を乗り越えたりしない非常に穏和な国民性なんだから、乗り越しなどもゲートをしめるという物理的な方法ではなく、アラームで告知して精算を促す程度の方法にまかせられないものか。それにそもそも人口が多いし、鉄道運賃だって高いんだから儲かっているはずで、少々のキセルぐらい無視してもよさそうだし、完璧を期して設備投資するより、見逃し覚悟で設備投資しない方が結局は得という計算だってなりたちそうにも思うけど、もはやそうでもないのだろうか。直接は関係ないが、確かに欠席していた授業でも出席していたことにするように様々な偽装工作をする学生の異常なまでの熱心さを思えば、もう日本でも性善説を前提にした精度設計じゃ済まなくなっているのかもしれない。が、なんやかんやで結局は生きにくい社会になっている感がある。
山崎浩一さんが朝日新聞に新聞ジャーナリズムを書評して下さった。非常に好意的な内容で感謝。「邦題は茫洋としているが」の件には苦笑。その通りなんです。実はこの訳書は1ー2月ぐらいに出せるはずで、大学の教科書需要を狙った。今年うまく売れれば毎年、少しずつ定番的に買われる物になるのではないかと。で、広めの題名は、教科書には選び易いのではという下心があった。
内容的にはタブロイド紙の編集現場の歪みを指摘する特殊な視点から普遍的なジャーナリズム論へと議論を広げて行くものなので、もっと絞ったタイトルももちろん可能だったのだけど、あまりピンポイント的にすると実際に目を通さない人には特殊なだけのものだと思われて食わず嫌いされてしまう恐れがあるように思って。ところが実際にはハミルの書き下ろし序文が遅れて教科書需要という思惑は果たせなくなってしまい、広めのタイトルをつけた狙いの一部は失なわれた。これだったらもっと短期的な話題の盛り上がりを狙った方が良かったのかも知れない。そんな事情を山崎さんはもしかしたらお見通しだったのかも。
茫洋と言えば思い出すのは中原中也だ。小林秀雄は、不幸にして山川健一にまで愛されてしまうという滑稽な結果を辿ったが、それもそのわきの甘さ(要するに散文じゃなくて詩なんだな、評論なのに。これは日本の売れる評論の必要条件でもあって吉本もそう。柄谷もそう。蓮実はそれを悪意をもって反復している。つまりみんな立場や文壇との距離は違えどもそう)なのだが、中原に関する小林のエッセーは彼と女を取り合った若き日の個人的な経緯もあって、思い入れたっぷりでいい味だしていると思う。「茫洋」が出てくるのは、確かもう死期に近い時期の中原を描いたもので、中原が昼間からビールを飲んで「あーボーヨー、ボーヨー」なんて言っている。確か小林が「ボーヨーってなんだよ」と問いかけるのではなかったか。
思えば音と意味のイメージが近い言葉だ。詩人・中原がその言葉に惹かれた理由もそんなところにあるのだろう。音だけ聞いてもイメージの広がりがあって、改めて「茫洋」の字を知って納得する。そんなプロセスを小林も辿ったのだろうか。ああ、茫洋、茫洋。そうつぶやいてみたい気持ちになることはぼくにもある。昼間からビール飲んでしまいたいこともね。
ぼくのシステムノートのポケットには30万画素の小さなデジタルカメラと録音もできるMP3プレイーヤーが入っている。いずれも玩具っぽいものだが、今のデジタル機器らしくそこそこの性能はある。なんでこんなものを持っているかというと、いつでも記録が出来るように、なのだ。いつ大惨事に遭遇するかわからない、そのときに備えてと言うとジャ−ナリストの処世のようで格好が良いが、それだけではなく、不意の大惨事とは対極的に、前々から予定されていた取材でも、うっかりテープレコーダーをもって出るのを忘れてしまううっかりをぼくはやりかねない。そのときの保険の意味もある機材なのだ。
しかし、どちらも最低限の性能であり、もう少しレベルアップできないかというのは常々の願望だった。カシオのエクスリムのMP3対応機が発表されたとき、これだと思った。130万画素のデジカメで録音もできる。これで今まで二つの小道具が必要だったのがひとつにまとまる。デザインもなかなかだ。
で、発売を心待ちにしていたのだが、改めてスペックを確かめてふたつ問題点を発見した。まず電池が専用の充電地だと言うことだ。専用充電地の方が性能的に有利なことは百も承知だが、それでも出先での電池切れへの不安は大きなものがある。しかしこれは我慢できるかなと思い直そうとしていた。しかしもうひとつ欠点があった。近接撮影が効かない。最短撮影距離1mでは資料の複写とかこの種のカメラにもっとも必要な役割が果たされない。で、購買を断念した。
しかし次にまた欲しいものが出てくる。今度はソニーのサイバーショップUー10だ。MP3機能はなくなったので録音機としては使えないが、カメラとしては近接も効くようだし、電池も市販の単四なので期待が膨らむ。発売予定は7月20日なのでもう楽しみでしょうがない。バカである。まるで子供だが、新製品を心待ちにしている時間はなかなか楽しい。しかし楽しさに紛れて時間が経って行くことを良しとする感覚はまずい。もう幾つ寝ると・・・と無垢に歌えた子供時代と違って残された時間はそう多くないのに。
粥川さん。確かに「クローン人間」の問題をおどろおどろしく取り上げる傾向は目立ちましたね。御推測のような力学で出来たPR映像の使用だったのかもしれません。しかしPR映像使用の場合は、制作者クレジットを必須にするとかルール作りして欲しいですよ(そんなことしっこないと分かりつつもつい愚痴りたくなる)。
粥川さん、書き込みありがとう。専門家の意見としてありがたいです。
ひとつ、昨日書いて、少し怪しいなと思ったのは、妻は白人(これは確か、しかもなかなか美人?でした)で、夫は黒人と書いたところで、夫は確かにアングロサクソンではない印象を持ったのですが、そう肌が黒いわけではなかったです。このあたりはビデオがないもので確かめられません。
> クローン技術ハンタイというと市民運動的なイメージがあって、PRとは縁遠い印象を
>持つが、作りがあまりに手慣れているとかえって怪しく思ってしまう。で、ここからは仮
>定法の話だけど、PRだとすれば出資者がいるはずだが、クローンにハンタイして利益が
>上がる団体というとどこなのだろうか。よくわからない。しかし、もしPR映像だったこ
恥ずかしいことに見逃してしまったのですが……この番組が批判的に扱ったのは、おそらく「クローン人間づくり」だけではないでしょうか。クローン技術には、「クローン胚づくり(を通じた再生医療)」というもう一つの大きな側面があります。そちらについては言及がない、もしくは難病治療に役立つという視点ではなかったでしょうか。つまりクローン人間ハンタイ、クローン胚サンセイ。だとしたら、産業界や患者団体などがからんでいる可能性は否定できないと思います(以前、大手製薬会社がスポンサーになったそんなスペシャル番組がありました)。アメリカ上院では両者が手を組んで、クローン胚づくりを認めさせるためのロビー活動を展開しています。
また、NHKの「クローズアップ現代」などもそうだったのですが、死亡率の高さや先天障害を強調してクローン人間づくりを批判するといういまのマスコミの主流は非常に問題があると思います。
なお、ニュース素材ビデオを含め、科学技術における企業や政府のPR戦略については、ジョン・スタウバーほか『リスキービジネス』(角川書店)が詳しく説明しています。
> そして、もうひとつの疑問は番組の最初に紹介された不妊カップルなのだけれど、妻の
>側が卵巣子宮両方ともないという。そこで妻はクローン技術の利用に関心を持っており、
>「クローンを使えば夫もやっと子供が持てる」とかコメントしていた。しかしこの場合、
>どういうクロ−ン技術の応用があるのだろうか。妻の卵子生成能力がないのが問題なの
>で、妻の体細胞クローンを作り、代理母の子宮で育てるのだとすると、父親の遺伝子は残
>らない(専門外なので間違っていたら教えて下さい)。これはクローン技術の不妊治療一
卵巣も子宮もないならば、卵子(未受精卵)も第3者から提供される必要があるし、代理母も必要です。ご指摘の通り、夫の精子を代理母に人工授精するのが一般的だと思います(それはそれで大きな問題ですが)。おかしいですね。どうしても夫より妻の遺伝情報を優先する必要があるという事情があるのでしょうか。
今晩のニュースステーションは「クローン人間」についてのコーナーを放映していた。時期的には適当だと思ったが、二つほど疑問を感じた。
ひとつめは、内容として「出来過ぎ感」があったことだ。アンティノリ医師とかこの世界の著名人を網羅的に登場させて語らせている。アメリカ議会の聴聞会などの映像も散りばめた。時間を掛けた取材と、丁寧な資料映像収集の勝利、といえるのかもしれない。
しかし、これってオフィス21の制作なのか。印象批評的な言い方だが、どうも違うような気がする。国内取材は一切ナシというのもそう感じる理由だ。あとうまく言葉に言い表せないが、作りが日本的ではない感じ。で、コンテンツはアメリカ製で、日本語のナレーションをかぶしたのではないか。
しかし、だとすればアメリカの誰が作ったコンテンツなのか? 濡れ衣だったら恐縮だが、これはドキュメンタリではなく、クローン技術ハンタイのPRコンテンツのような感じがした。これまた印象批評的で恐縮だが、そんな匂いがしたのだ。
日本でもテレ東は(たぶん?)PR会社制作の映像をニュース番組の中でかなり使っている。WBSの新製品紹介のコーナーなどはニュースのような作りだが、おそらくかなりのものがPR会社製ではないか。出来合いの映像を使えるので楽だし、見映えがある作りにもなっていて視聴率も取れると言うことから、報道の中にPRが紛れているのがアメリカでは問題になっているが、日本でも確実にそれに追従する動きがあり、もしこのクローンのコーナーもそうならニュースステーションよ、おまえもか?という気がした。誤解なら良いのだが。
クローン技術ハンタイというと市民運動的なイメージがあって、PRとは縁遠い印象を持つが、作りがあまりに手慣れているとかえって怪しく思ってしまう。で、ここからは仮定法の話だけど、PRだとすれば出資者がいるはずだが、クローンにハンタイして利益が上がる団体というとどこなのだろうか。よくわからない。しかし、もしPR映像だったことが事実で、その制作依頼主などが調査の結果、分かってくるとクローン技術を巡る勢力図が見えてくるように思う。映像に対する違和感を切り口に、クロ−ン問題に切りこむ角度が確立できると良いのだが。
そして、もうひとつの疑問は番組の最初に紹介された不妊カップルなのだけれど、妻の側が卵巣子宮両方ともないという。そこで妻はクローン技術の利用に関心を持っており、「クローンを使えば夫もやっと子供が持てる」とかコメントしていた。しかしこの場合、どういうクロ−ン技術の応用があるのだろうか。妻の卵子生成能力がないのが問題なので、妻の体細胞クローンを作り、代理母の子宮で育てるのだとすると、父親の遺伝子は残らない(専門外なので間違っていたら教えて下さい)。これはクローン技術の不妊治療一般の宿命で、一方の親の遺伝子しか引き継がれなくなる。よく例として引かれるのは、精子の作れない夫の体細胞から遺伝子をとってクローニングする方法で(この場合、妻の細胞の細胞質に核移植すれば少なくともミトコンドリア遺伝子は妻のものになるが、そうした側面を抜けば)夫の遺伝子しか引き継がれない。しかし妻の子宮が健全なら、そこに戻して育てることもできるので、そこそこ夫婦二人の子供というイメージは持ちやすいだろう。
しかしTVで紹介していた例は、子宮も代理母のものになるので、子供を作るという実感面でどうか。しかも不思議なのは夫は健全のようなので、どこかから卵子の提供があれば(それもまた多くの問題を孕んでいるが、ここでクーロンと比較する限りでは、クローンも除核のために受精卵を必要とするのでイーブン)、クロ−ン技術まで使わなくても人工授精で夫の遺伝子を引き継ぐ子供は作れる。技術の社会との齟齬を相対的に評価すればそちらの方がよほど風当たりは少ないように思うが(もっといえば養子を貰って、血縁を超えた親子関係を築く方がよほど挑戦しがいがあるし、健全だと思うが)、どうしてその方法は採用せず、母親の遺伝子を引き継ぐ子供がクローン技術を使ってまで欲しいのだろうか? 妻が白人で、夫が黒人だったのが少し気になったが、さて、どうなのだろう。なぜクローンに頼るのかの部分までヒヤリングして貰わないと状況判断が難しい。
しかし・・・・、もしかしたら出演者も制作者も全然クローンについての知識なんてなくて、クーン技術でなんでも出来ると思っているだけなのかも。テレ朝も同じでチェックできなかったのかも。そんな可能性まで視野に入れないといけないほどマスメディアの科学関係コンテンツは抜けてる場合もあるので、ようわからんですわ。
ある年輩の編集者・評論家から、全共闘運動盛んかりし頃を振り返って、当時の「闘士」たちが「自分たちは反体制なのだと盛んにいうけれど体制についてどの程度知っていっているのか疑問だった」と言うのを聞いて妙に感心した覚えがある。体制の現状を批判する必要、乗り越える必要は常にあるけれど、それが体制に対する無知からスタートしているのだったら、建設的な乗りこえは難しいだろう。
こうした構図は色々なところにある。昨日、エレファントデザインという会社に取材に赴いた。ここはデザイナーと契約して、家電製品をデザインさせ、購買者を募り、商品化を実現させるという「空想家電」という仕事を進めている。ブルータスなどで紹介されたりして、一部では評価が高い。日本の家電にはデザインがないという不満を踏まえて期待も高まっている。ベンチャーを成功させているその手腕はぼくも評価したい。しかし問題は、日本のデザインの現状を正しく踏まえていないと感じられてしまうところだ。
工業製品のデザインは素材選びや新しい半導体基盤の設計、パワーエレクトロニクス技術の導入など、技術的な背景を踏まえてなされる。デザインだけが一人歩きするものではない。インハウスのデザイナーは当然、現状でどのような技術が利用できるかを念頭に置いてデザインするし、外部のデザイナーを呼んでくる場合もそう事情は変わらないだろう。機能と形態とはコストや性能だけでなく、環境問題などまでも踏まえて相当に深い関係がある(もちろん、デザイナーがしたかった全てがコスト要因や社内力学などのせいで実現しない場合も多くあるだろう。その結果、デザインが不十分になっているのだとしたらそれを改善する必要はもちろんある。しかし、それはここでの議論とはやや別の話だ)。
日本の工業製品の形態にセンスが感じられないという評価に、ぼくは全面的には賛成しない(その理由は後述)。多くは単なる愚痴、紋切り型なのではないか。ただ、確かにヨーロッパの工業デザインのほうが線や面の処理が整然としているとは思う。それを好む感性が育っているのなら、それにむけたデザインは、あり、だとは思う。
しかしーー、空想家電のようなやりかたで優れたデザインの家電ができるかといったらそれは違う。それは現状のデザインのレベルをあまりにも低く見積もっている。空想家電の契約デザイナーに工業製品の技術レベルを深く踏まえることまでは期待できない(最先端の技術や素材の知識を習得できる場にいないから)。結果としてそれはただかたちだけ整えることだけに終始する。言葉は悪いが、機能(単なるスペックを超えて、環境対策なども機能のうちに踏まえて)と関連しない形態を、その時々の「洒落た感覚」に応じて提供するだけだ。
確かにそれはブルータスの誌面映え?はするかも。しかしそのカッコ良さは見事なまでに表層的であり、それを「デザイン」と呼ぶことは「デザイン」という言葉の深さを自ら否定することになるのではないか。最先端の、最善の技術を正しく踏まえてそれを人間にとって使い易いかたち、生活を豊かに彩る様々なかたちの中に位置づけるのが工業デザインの使命のはずだ。上辺の化粧直しではない、そうした総合的な作業が伴ってこそ(工業デザインの名に値する)デザインは成立するのだと思う。そんな観点なしに語られるデザイン家電ブームとやらはいかに薄っぺらなものか。そこでは絶対必須な手続きがずいぶん省略されている。それは体制知らずの反体制運動の軽率さと同じ構図だ。確かに体制に問題点はあり、改善の必要性は逼迫しているのだが、問題点のなんたるかを知ろうとせずにただ表面を糊塗するだけなら、更に悪くなる。
最後に先に触れた日本の工業デザインは本当に地に落ちているのかということだが、たとえば多くの人が「子供っぽい」と評する日本の携帯電話のデザインをエリクソンやノキアのインハウスデザイナーは羨望の眼差しで見るのだそうだ。彼らから見るとそこには「自由」がある。ロラン・バルトが日本に感じた「自由」に通じるものだろうが、高い生産力を背景にし、妄想をそのまま具象化したような、遊戯の美学、突き抜けたポップさがあると感じるらしい(それは日本人にしてみると過分な評価か、むしろ勘違いとも思えるものだが・・・)。ある意味でそこには屈折した鏡の映しあいの構図がある。我々がヨーロッパデザインをよしとしてみてしまう背景にもまた根深いコンプレックスがある。デザインコンシャスを自任するような人ほど、そのコンプレックスは深く屈折していて、自覚されていない、そんな可能性も視野に入れて置いた方が良いように思う。無知からスタートしているという問題は横断的にあって、そういである以上、単純に優劣を論じることは危険だ。
開高健『輝ける闇』の中の一節。特派員として働いている作家という著者本人を彷彿させる主人公にアメリカ人の大尉が問いかける。
「日本に帰ったらこの国を舞台に小説を書くんでしょう?」
主人公が応える。
「いや、まだきめていません。小説を書くためにきたのじゃないんです」
「われわれのことも書くんでしょうな」
「もし書くとすれば匂いですね。いろいろな物のまわりにある匂いを書きたい。匂いの中に本質があるんですから」
アメリカ人大尉が言う。「私なら使命を書く。匂いは消えても使命は消えませんからね」
「使命は消えませんか?」
「消えませんとも」
「使命は時間が経つと解釈が変わってしまう。だけど匂いは変わりませんよ。汗の匂いは汗の匂いだし、パパイヤの匂いはパパイヤの匂いだ。匂いは消えないし、変わらない。消えないような匂いを書きたいんです。使命も匂いを立てますからね」
田中康夫不信任案後の支持率調査はなかなか高めで、ある意味、意外だった。
一つに彼の記者クラブ改革でメディアがもはや好意的な扱いをしていないことから、浮動票層は離反するだろうと思われたこと。そしてもう一つに彼の姿勢が反保守的なひとつの硬さを持ち始めて、自分でいうほど「しなやか」にはなっていないように感じられていたことだ。
と、まぁ、こういう政治評論的な言い方だと他の誰でも出来るので、あまりここであえていう意味もないのだが、ぼくはひとつだけ特権的に「庶民」の田中康夫観を知るすべを持っていた。
同姓同名問題はここで何度も指摘してきたが、今回はそのおかげというか、同姓同名者の一人が信州放送でラジオ番組を持っている。その番組当てのメールがかなりうちにくる。番組そのものを聞いているのではなく、あくまでも誤配メールからの推測なのだが、同姓同名キャスター氏は田中知事寄りの人らしく、脱ダム宣言も支持のようだが、そうした発言に対する視聴者からのメールが最近は批判的なものが増えていた。たとえば脱ダツとばかり言うがダムの公共的価値もあるだろう云々のものが結構あったのだ。こうした予想もしない回路を通じて情報が届くインターネット時代ならではの「郵便的」状況から、ぼくはそろそろ田中さんへの逆風もあるのかなと思っていたので、先の支持率が案外高かったという感想に繋がる。
確かにダムの問題も、さて、どう考えて良いのか、今の公共事業体制に問題があるのは絶対に確かだが、全ダムに対して一律「脱」というのもどうか。そのあたりが「しなやか」を謳う県政改革が「しなやか」でなくなっているのではないか、そう感じさせているのではないかという懸念に繋がる。それはたとえば神戸空港反対運動の時にも感じことで、ぼくも神戸空港はハンタイで反対署名に名を連ねたがが、もちろんすべての空港や公共事業ハンタイではなく、実状を踏まえた調査があって、それぞれに判断すべきだと思う。当然だけど。しかしいるんだよね、国がやることは全部税金の無駄使いだという論理でハンタイするような人が。
ダムにも一利ありという批判は、というわけで論理的には正しい面もあるのだが、ここにはもう一回屈折があって、番組聞いて、ネットで検索かけて、他人のWEBを発見しているにもかかわらず、チェックもせず、偉そうに自説をたれるのも立場はちがえどそうした単純さに通じるもので、それが意地悪な言い方だけど。「庶民」のひとつのキャラクターでもある。そんな彼らを田中知事は相手取らなければならない。
支持率はとりあえずまだまだ人気が持続していることを示したが、さてどうなるか。
ぼくはさすがに年齢とともに体重は増えてきたが、それでもウェストサイズは変わらず昔の服が着れていた。
しかし・・・・、最近、ワールドカップのVIP席観戦とか社会人向けの講義とか、NTT殿(下請け企業は書類にそう書く。呆れる封建主義的風習)御出席の審査会参加など、ネクタイを締めて出掛ける機会がひさしぶりに続いて痛感したのだが、首が太っているのだ。しかもかなり・・・。
ぼくは前から首が太く、おかげで頭のでかさも目立たない得な体型で、「F1ドライバーの首」とか、どんなに仕事しても肩こりをおこさない不死身の首とか、自分で冗談めかしていっていたのだが、その首が更に太くなった。というのも以前に着られたワイシャツの首回りがきついのだ。
そして同時に最近、スーツを着なかったことを思う。そこそこの盛装を要求されるときでも冬ははタ−トルネックばかり着ていた(自由業で、クリエイターだという記号?)。夏はといえば、これは偶然の結果なのだろうが、Tシャツに薄手のジャケットとか、相当いい加減な格好でここ1−2年は幸いに通せてきた。ぼくは確実にスーツを着る人生から外れつつある。それを改めて思い知らされて、感慨もひとしおあったが、首の肥満にも気づかなかったらしい。
ところが今年は様子が違った。で、首回りのきついシャツにネクタイまですると、もはや息が出来なくて死にそうになる。
明日にでもサイズを合わせたシャツを買おうかとと思っている。しかし首が太るって、あまり聞いたことがないが、よくあることなのだろうか。
午前中はジャナ専。今福龍太のサッカー論を読む。この人の文章の旨さは中沢新一以上か。ニューアカの中で、結局、サッカー好きと文章が旨い人だけが残った、これはどう考えればいいのだろうか。
午後から経済産業省で原子力関係の研究会に出席。日経から東京工業大学に移った鳥井氏の話を聞く。
古巣くん
書き込みありがとう。確かにそうなんでしょうね。以前、東芝のダイナブックがラップトップ機で始めてHD内蔵をしたとき、高さ2cmに傾けてそこから落としただけでHDは壊れると言われていたのを聞いたことがあります。それじゃとてもじゃないが持ち歩けないなぁと思っていましたが、いつのまにか耐久性も少しは向上したようで、平気で持ち運び、時に油断して壊すようになったということでしょう。ちなみにぼくの最初のラップトップ機はNECのPC98LTで、これはHDなかったからやたら丈夫でしたね。フランスのルマンとか鈴鹿サーキットとかで原稿書いた記憶があります。しかも漢字辞書もソフトに依存しないで本体内でROMで持つという変わった設計で、やたら電池持ったな。博多から東京まで、飛行機が取れなくて新幹線で帰った時に、ずっと仕事できた。もっとも全部連続ではなく、こういう場合、壊れるのは人間のほうで根を詰めると船酔いになってしまって、少し休んではまだ仕事を再開するという感じでしたが、標準のバッテリーのみ予備バッテリーなしで5時間はゆうにもったように思います。CPUが遅かったこと、画面がバックライトなしのモノクロ液晶だったもあるんでしょうね。今でも壊れないで長く電池が持つマシンが欲しいです。
電源オフの習慣がついたのはいいんですが、電車の中で仕事をしていて駅に着くときには。パワーオフって時間が掛かるので電車が止まっても作業が終了せず、仕方なくマシンにショックを与えないように蓋も開けたままで中腰でパソコンを持って電車から降りることはよくあります。笑われているんだろうな。