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ノートPCに関する回答 投稿者:古巣克也  投稿日: 7月 4日(木)10時44分19秒

 PCを扱うことの多い者からの回答です。

> 持ち運びたい時はケチらずにその段階でパワーを落とす。。。。関係ありますかね。
 大いにあると思います。私はどちらかというと、デスクトップのPCのハードをいじることが多いのですが、動作中のハードディスクにショックを与えることは、非常に危険です。経験的には、電源を落としているときのハードディスクに与える衝撃の比ではないほど小さなショックで壊れます。
 ノートPCのハードをいじることはあまりありません。持ち運びもプレゼンテーションをやるために、出張で持ち運ぶ程度です。が、ノートPCを動かすときは、どんなに面倒くさくてもOSをシャットダウンして、持ち運んでいます。サイバネーション機能や、省電源機能を信用していません。おかげさんで、5年以上も前のノートPCが壊れなくて、買い換えるにももったいなくて、困っています。

 あまり関係ないかも知れませんが、VAIOはこわれやすい、という噂もあります。

VAIO 投稿者:武田徹  投稿日: 7月 3日(水)00時04分11秒

うちの3代目VAIOーC1は一年以上壊れていない。いつもVAIOの悪口ばかり書いてきたので、誉めることもしっかり誉めようと思う。たかが「1年以上無故障」で誉めるのは価値観が歪んでいるのかもしれないけど、今まで短命ぶりで泣かされて来た身としては、使用月数を指折り数えてついつい感動してしまうのだ。しかも最近のぼくはファミレス王なので殆どの原稿をC1で書いている。三倍容量の長時間バッテリーをほぼ毎日一度は使い切るほどの使用頻度。これで壊れないのだから愛着も出てこようというもの。もう少しで名前をつけるな。
で、幸いにも壊れないために、実際には役に立っていないのだけれど、最近、ファイル喪失を防ぐ新しい習慣を使うようにもなったのでそれについて。
ファイルと言ってもエクセルすら使わないぼくにとっては100%ワープロ文書ファイルなのだが、執筆を終えて一段落した時には通信で自分宛に送っちゃう。そうすれば少なくともしばらくはメールサーバにはデータが残っているわけでハードディスククラッシュしても機体を変えてダウンロードできる。前はフロッピーに落としていたんだけど(実際、家のデスクトップ機だとぼくは今でも保存はFD派だ。FDに慣れていた世代だからだろうと思う。画像じゃないのでFDでも入るしね。そして杜撰なぼくにしては珍しく文書FDは通し番号と使用期間を期して全部残されている。売文業を始めて文書番号106にまで達した。このおかげで将来の全集編集者?は楽だな(笑)。手紙とかもワープロで作ったものは一応残っているから。ただ仕事の原稿もプライベートな文書も完成原稿じゃないものがあるのでそこは後世の人(しつこい)悩むかも)、C1だとFDDが外付けなので出先ではバックアップを取らず、その段階でHDクラッシュが起きるとデータがパーになった。前に単行本用のデータが失われた話は書いたけど、それは少なくとも避けられる。もしぼくと似たような状況の人がいたらこのメールサーバー保存作戦は案外便利ですのでお試しあれ。「本コ」の仲俣さんもやってるとか聞いたので、既にこの手法を愛用している人は案外、多いのかも知れないが。
あともうひとつ、C1が壊れなかった理由だけど、もしかしたら、まめに、かつ確実にパワーを切ることかも。電池残量の問題があるのでノードPCを使わないときにスリープにさせるのは常識だと思うけれど、スリープさせたつもりがフリーズして途中で止まっていたり、スリープ状態からなにかの弾みで動き出しちゃってそれがまたフリーズしたりで、HDからヘッドが抜けずに止まっていることがある。その状態で持ち運んじゃうことが将来のHDクラッシュの原因になるのではないかとぼくは思っているんだけどどうなんだろう。
で、安全のためにぼくは少しでも持って動くときはハイバーネート以上の状態にする。それもきちんと冬眠状態に落ちたのを確認する。フリーズした場合、あとで再起動するのが面倒なのでなんとかフリーズを解消できないかとも思うものだが、持ち運びたい時はケチらずにその段階でパワーを落とす。そうしてきて一年3ヶ月めの長寿?にいたっているのだが、関係ありますかね。

編集済

SUPERCAR 投稿者:武田徹  投稿日: 6月30日(日)23時45分33秒

NECパソコンのCFに使われていたSUPERCARの曲が気になったので、彼らの新作CD『HIGHVISION』を聞いてみた。使われていたのはその中の「ストロボライト」という曲のほんのごく一部で、曲全体の中では曲調が変わる頭のごく一部分。曲全体を代表するような部分ではない。そして前にCHARAの「マドリガル」を使うポカリスウェットCFで指摘したのと同じくここでも作りこみが重ねられており、フレーズはオリジナルと同じだがアレンジは変わっている。こういう耳障りのいい部分を選び出して、その素性をアレンジを変えて伸ばしてやって15秒の枠の中にうまくはめこんでくるCFクリエイターの才能には感心させられる。
曲全体を聞いてしまうとイメージが固定されてしまって、なかなか部分の使い勝手には思いがゆかないだろうと思うのだが、最近のCFの音楽は原曲の全体的イメージから完全に切り離されており、その部分だけで存在感があるフレーズなりがあれば積極的にカットして使うようになっているようだ。
「細部」という概念を人口に膾炙させたひとつは間違いなくロラン・バルトの写真論だと思うけれど、写真だけでなく、音楽でも「細部」が価値を持ち始めている。いや、いままでだってしゃれたギターリフとかで聞かせちゃうロックの名曲もあったけどーーめちゃ古いのだとクリームの「サンシャイン・オブ・ラブ」とかBOOWYの布袋のギターとかすぐに思いつくーー、それにしたって一見違和感あるリフと曲の総合の妙味を喜んできいていたということではまだ「細部」は音楽の中で自律していなかった。そうした流れの中でCFの側から細部を掘り起こすカットアップの手法のようなものが出てきたとして、一方で音楽家の方はどうなのか。ライダーズは凝った音をたくさん入れたがそれでも「細部」って感じじゃない。小山田圭吾でもまだ違う。現代音楽でも「細部」を自律させるという発想はコンセプトとしてはあっても、実際に機能していたかどうかは怪しい。音楽家は写真家と一緒でやはり作品の「細部」に裏切られる存在で、細部は音楽家ではなく音楽そのものに所属するのか。作家性とはなんなのだろうと考える。こういうのって少し作品が売れるとすぐに「作家」となのっちゃうような人は考えもしないことなんだが。

カーン続報 投稿者:武田徹  投稿日: 6月30日(日)02時49分28秒

下のカーンのドイツ語に関する書き込みには、他の方からも「聞き易い」との感想をメールで頂きました。その方はカーンの経歴も調べてくれており、アビトゥア取得者であることを突き止めてくれています。アビトゥアは大学入学資格(フランスのバカロレアにあたる)でギムナジウム進学者が取得し、エリートへの登竜門となるものです。
サッカー選手の場合、リトバルスキーがギムナジウム生だったことが話題になるくらい、学歴とは無縁だったの世界だったのですが、今はアビトゥア取得者もカーンだけでなく増えているようです。
ワールドカップの商業化を進め、良くも悪くもサッカーの格を上げたのはアディダスですが、そのお膝元であるドイツではサッカー選手の社会的地位も上がっており、ホワイトカラーのエリートとなるか、サッカーに生きるかが、やや極端ですが、選択肢として並び得る状況になりつつあって、その象徴的存在がカーンみたいですね。ワールドカップで通訳をした人によるとカーンだけでなく、他にもきれいなドイツ語を話す選手は多いらしい。
で、間違いなくカーンは良い家の子なのでしょうが、ドイツの大衆新聞によると「収容所生まれのモンスター」とか結構ひどい形容で書いてある。あの外見はドイツでもインパクトあるみたい。やはりゴリラとは呼ばれていて、実際にバナナを投げられたこともあるとか。決勝戦どうなるかな。

カーン 投稿者:武田徹  投稿日: 6月28日(金)22時51分20秒

ワールドカップも決勝戦と三位決定戦を残すのみだが、あまり伝えられていない話を。
ゴリラ、ゴリラとか、バナナを投げてみたいとか言われているドイツのキーパーのオリバー・カーンだが、聞く人が聞くと(ってうちのワイフなんですが)かなり格式の高いドイツ語で話すらしい。ドイツは階級社会化が進んでいて受けられる教育のレベルも階級によって異なる。そうした経験の違いが使用語彙や構文に反映しやすい傾向がドイツ語では強いので、話すのを聞けば所属階級が分かってしまいがちだ。
カーンは「簡単なことでもフォーマルに言える」表現力の持ち主らしい。ぼくはもうドイツ語は殆ど忘れてしまっていて、テキストだったら四苦八苦してようやく読めるけれど、会話では知ってる単語を拾い上げて聞いている程度しか出来ず、評価までは全く出来ないが、ワイフは長くドイツに暮らしていたので、とりあえず会話は自由にできる。そんな彼女がカーンのインタビューを聞いて感心していた。ベッケンバウアーも今は政治的に立ち回るようになってさすがに並のドイツ語を話すようになったが、むかしはひどい田舎臭い訛だったとか。
人は見かけによらないものである。しかしどうしてカーンはそんなにレベルの高い教育を受けられる社会層にいながら、あんな顔、もとい、サッカー選手になったんだろう。ちょっとパースナルヒストリーを調べたいところ。

真夜中の王子 投稿者:武田徹  投稿日: 6月28日(金)20時59分12秒

今週は下にもかいたような特殊な事情もあって結局、延べで7コマ(全部90分枠だよー)も講義してしまった。これでICUがあったら週10コマだった。もはや本業が教師? そんなつもりはないんだが、少なくとも今週は実体としてそうなってしまった。
でも、その一方で『核論』ついに入稿。まだまだ悩みはあるんだが、とりあえず一段落か。そんなこんなで忙しくて、ファミレスにいた時間もまた記録的だったように思う。ジョナサンは夜間帯のスタッフが殆ど変わらない。ちょっと顔を覚えられてきた不安が(笑)。ムーmライダーズに真夜中の王子って曲があって、厨房で料理している真夜中の玉子とかけている、文字面が似ているというビジュアル系の歌詞で聞いてどうやって理解するんだというライダーズっぽい世界なんだけど、夜のファミレスにいるとあの曲を思い出しますね。
で、一言書いておいた方がいいと思うのは、SPAでニュース解説を連載していたでしょ。あれ、ここしばらくはワールドカップ特別編でサッカー評論家が担当していたのでお休みを頂いていたんですが、そろそろレギュラー執筆陣に戻るらしい。先週、担当編集の人から「来週お願いします」と言われたんだけど、少しそれが遅かったので、こちらは心の準備が出来ておらず、今週が忙しいというのも分かっていたので、申し訳ないけど、もう一週先にしてくれと頼み込んだ。快諾して貰って、勝手言うことがなかなか許されない泡沫ライターとしては、こりゃもう感謝の極みなんだけど、申し訳なかったのは、次号予告がその時点では校了してたって事。今週のSPAには次の解説担当がぼくだという予告が出てしまっている。すみません、次はぼくやりません。出るのは再来週、作業は来週になります。
しかし、その来週はフタをあけてみたら雑誌新聞系の締め切り数がかなりになってしまった。も。近くになってみないと仕事の山がわからない働きかたなので仕方がないが、ニュース解説は順番通り今週やったほうがまだましだったかもしれない。後悔先に立たずですな。そんなことばっかりの人生。

26日 投稿者:武田徹  投稿日: 6月27日(木)10時20分08秒

昨日は雨の中、移動の多い一日だった。午前中、雇用保険受給者対象の職業訓練クラスで講義ーー日本語の作文技術についてーー。あいかわらず軽口、失言多く後悔しまくり。
その後、大宅文庫に移動し、資料調べ。ひさしぶりだったんだけど資料代が値下げされていたのは感心。収入と設備拡充などの出費を勘案して経営的に見直して下げられば下げると言うことらしい。公益性の高い財団法人はこうじゃなきゃね。だから収益増大というわけではないが、確かに混んでいた。メディアの総合的な女性週刊誌化?といっては失礼だが、なんとなくそんな気配を感じたりする。
その後、携帯電話マナー標語の審査会に出席。中谷さんは自分で出していらっしゃる本とおなじように流暢に話す方で改めて感心。たとえば「男はーーーで、女はーーーなんですよ」とすぐに言葉に出る。独特だけけれどこれもまた分析的といってよい資質なのだろう。選んだ結果は後日公開だが、際立ったものが少ないという印象は残った(審査員の総意もそうだった)。マナー標語を作りたくなるような尖った意識になりにくいということは携帯メディアがそれなりに社会に受容されつつあると言うことの裏返しなのだろう。この審査会、しかし驚いたのは、会の現場ではなくて電話でだったのだけれど「サインをくれ」と言われたこと。一度聞いただけでは理解できないで、請求書とかの問題かとおもって尋ね返すと、審査員は色紙にサインをして残すんだとか。確かにぼく以外のかたは有名人でTVでもおなじみだからサイン入り色紙も貰ったら嬉しいかも知れないけど、ぼくのなんか欲しいか? ぼくは本にもサインしない方針なんだけどどうするんだろう。ぼくの担当者は代理店員で主催者とこちらの間にはいってなんか苦しそうなので、つい受けてしまいそうな気もするが(そういうサラリーマンの悲哀に弱いのだ(笑))・・・。 
そんな一日で、移動しながら思い出して少し腹が立ってきたことがある。二つ下(だっけか?)の掲示板パスワード問題で、これは下にも書いたけれど、ぼくの出身高校関係の掲示板で、発言の安全性が守れないからパスワード制にしようという書き込みがあったことに端を発する。
ぼくは全然書き込んでいなかったんだけど、この期におよんでつい口をだしてしまった。だってパスワードを出した相手=身内だから安全なんて言えないでしょ。個人情報の漏洩は殆どが「身内」経由ですよ。どうして内=安全、外=悪意のある人がうようよ、みたいな単純な二分法発想をしちゃうのか。そういう発想がハンセン病隔離とかに繋がるんだよとまでは極論なので言わなかったが、掲示板の安全性を高めたいんだったらそんな単純思考から発言者自身が卒業して行くことが遠回りのようで一番の近道のように思う。ネットは危険とか、どこに悪人がいるかわからないでしょとか言っている(それ自体は論理的には間違っていないんだけど)人が、同時に昔の名簿とか平気でアップしちゃう。その矛盾はなんなのとやんわりと指摘したんだけど、それは不問にふされて、しかも、ぼくの発言なのに名前まで間違えられてちょっと立腹(笑)。

石井様 投稿者:武田徹  投稿日: 6月25日(火)20時01分33秒

こんにちは。そうですね、前にお電話で話して以来ですね。
朝日の記事って出たんですか? ごめんなさい。まだ見ていないんです。ゲラも見ていないので、ちょっと怖くて見たくない気分(笑)。

その記事は御厨貴先生の中公新書『オ−ラルヒストリー』のあとがきに、大学の研究者とジャーナリストが顔を揃えてインタビューという方法論、口述記録の取り方を議論する研究会をぼくが主宰している云々と書いて下さったことから端を発しています。ぼくもインタビューの方法には関心があるので取材自体は歓迎なのですが、研究会については、ぼくがその会にお招きする講演者、発表者の人選と司会をやることが相対的に多い、いわば幹事みたいな役どころだと言うのがことの真相で、御厨先生は「主宰」と書いて下さいましたが、それほどのものではないです。

で、その研究会ですが、朝日にどう書いてあったかは先にも書いたようにまだ見ていないのですが、ごめんなさい、これ非公開なんですよ。ただ成果報告書(といっても講演の口述記録にぼくの解説が付くという簡単なリーフレットですがーー)は刊行しつつあって、それは政策研究大学院大学のオーラル情報プロジェクト経由のしかるべきルートで、入手とか、少なくとも閲覧はできるんじゃないかなと思います。
では、勇気を出して朝日見てみますか。しかし、これもメールでお話した方が良い話題だったかも知れないですね。

オーラルヒストリー方法論研究会 投稿者:石井政之  投稿日: 6月25日(火)09時54分39秒

ライターの石井政之です。
以前、この掲示板に書き込み、吉祥寺在住の編集者と酒を飲んでいて、武田さんに連絡させていただきました。覚えておられるでしょうか?

本日の朝日新聞でオーラルヒストリーについて興味深い記事を拝見し、そのなかで、武田さんが「オーラルヒストリー方法論研究会」を主宰されていると知りました。
興味があります。
もし同研究会の予定が決まっているようでしたら、参加して勉強したいと思います。

郷に従います 投稿者:古巣克也  投稿日: 6月24日(月)22時56分28秒

この掲示板へアクセスする皆様へ。
大変、失礼な、というか場違いな書き込みをしたことをご容赦下さい。武田君のいうように本来メールで書くような内容でした。
 前にも書きましたように、私は工学系の研究に携わる者です。計算機を用いたシミュレーションをやっておりますので、敢えて過言すれば、毎日が数字とのにらめっこであることは確かです。シミュレーションと言っても、コンピュータグラフィックをやっているわけではなく、あくまでも工学的な現象を数学的に解く、という作業になります。
 このページを読むと、私の携わる領域と全く異質な領域があることを感じます。いろいろな心の動きや普段何となく感じていることを言葉にすると、こういうふうになるのか、と思えるような気もするし、反面、こんな難しいことは考えてないよな、とも思うのです。
 (と、こんな文章を書くだけでも、頭が疲れる。。。。)
たまにはアクセスしております。郷に入っては、郷に従いますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

古巣クン 投稿者:武田徹  投稿日: 6月24日(月)12時39分48秒

古巣クン、書き込みこちらころありがとう。個人名の件は、容赦もなにも全然気にしないですよ。
しかし、これ↓じゃ他の人はなんのことか分からないよ。この掲示板は投稿者の所属が限られているわけではないので、もう少し一般化してくれないと本当は困る(笑)。どっちかといえばメールでやりとりすべきことだったんじゃないかな。

で、ぼくがこちらではこちらの郷に従って管理者義務(と思うので)であえて敷衍しますが、古巣クンはぼくの高校時代の同窓生(元生徒会長!)。で、彼もアクティブなメンバーの一人になっている掲示板に、彼がぼくのことを書いてくれたというのが「指摘」。それに直接答えたわけでなはなく、別の内容でぼくが一件書き込んだというのが、「例え、何であれ、書き込みして下さったこと」。

ぼくが書いたのはたいしたことではなくて、掲示板にパスワードをかけるかどうかという議論へのコメントでした。ここで、その掲示板のリンクを貼っちゃえばこんな説明しなくて良いんだけど、そっちの掲示板はメンバーから検索にかかって外部に見られると「悪意の個人情報利用利用があったら怖い」という意見が出ていて、どちらかというと内に閉じようとしている(だからパスワードとか言っている)流れのようなので、具体的な紹介もしなければリンクも貼りません。

書き込みに感謝 投稿者:古巣克也  投稿日: 6月24日(月)10時15分13秒

武田様。某掲示板活性化委員長の古巣です。
例え、何であれ、書き込みして下さったことに感謝しております。また、個人名で指摘申しましたことをご容赦頂きまして(と、思ってます)、有り難うございます。
こちらのページは、工学系の私には、難しすぎて、読んで理解するのが大変なページですが、たまにはアクセスしております。

お返事ありがとうございます 投稿者:DG  投稿日: 6月24日(月)00時09分59秒

武田様、W杯精神論についてお返事ありがとうございます.
そのあたりがきっかけなのか?ちょっと気持ちが沈み気味というか、大人として当たり前の判断ができにくくなっていました。
自分にとってプラスになるよう戦略的に というのがきっと励みになります。また少しがんばってみようと思います.

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 6月23日(日)11時26分12秒

松浦さん、書き込みありがとうございます。
猪野氏や丸山氏の立場も、職業として成立しないジャーナリズム活動まで視野に入れていると言うことでは、「職業としてジャーナリズム」論を超えるベクトルがあると思うし、それはぼくが「生き方としてのジャーナリズム」と書いたことと重なると思いますよ。
で、重複もあるでしょうが、ぼくなりの言葉で改めて言ってみるとこんな感じでしょうか。

ベルギーのマンガの中にこんなセリフがあったそうです。「現代人は、かつてのように何でもなんでも信じてしまうわけではない。彼らは、テレビで見たことしか信じないのだ」(アンヌ・モネリ『戦争プロパガンダ10の法則』)。
こうした知識状況については、テレビ関係者も知っているはずです。そして無根拠に信じられることがジャーナリズムの情報に対していかに危険であるかも。
しかしそうした状況を批判的に捉え返そうとか、改善に向けて何か行動するとかはしない。信じて貰える方が御しやすいから、と思っているかどうかまではわかりませんが、少なくともこうした状況を放置していること自体がジャーナリストの姿勢として歓迎されるものではないと思います。例として相応しいかどうか別として、「職業としてのジャーナリズム」というのはこうした矛盾を孕むものです。
こうした矛盾を考える上で必要なのは、原理的な地平に遡行することではないかと思います。
少し青臭い考え方をあえて書きますが、ジャーナリズムとはそもそも何なのか。問題意識をもって状況と対峙し、記録しておくべき事実を記録し、下しておくべき判断を書き留めておくことだと思うんですね。鶴見俊輔も書いていたけれど、ジャーナリズムの語源はジャーナルであり、これは日記ですよね。ぼくは日記(的)なものこそジャーナリズムの原点だと思います。ジャーナリズムの問題としてはたとえば主観報道とか客観報道とか、色々出てきますが、それはあくまでも二義的な問題で、原理的にはその原点からいかに逸脱したかでジャーナリズムは検討されるべきであり、先の職業としてのジャーナリズムの問題もこの視角で論じられるのではないか。先に職業としてのジャーナリズムがあったわけではない。たとえば新聞をモデルにジャーナリズムを考える習慣がいつしか根付いてしまっているが(とくに職業経験のあるジャーナリズム論者はそした縛りから逃れられなくなってしまっている)、それは問題を見えにくくすると思います。
記録しておけば、もしかしたらそれが誰かに伝わるかも知れない。記録とは公共的な記号を使って事実や判断を定着させることであり、たとえ私的な日記であれ、公の側に開かれる最初の一歩を記したことになるのだと思います。
「問題意識をもって状況と対峙し、記録しておくべき事実を記録し、下しておくべき判断を書き留めておく」ことこそ、ぼくは「生き方としてのジャーナリズム」だと思います。ここに存在する二つの「べき」をどう価値判断したかということこそが、その人が生きていた存在証明になるのだとも思います。
たとえば「テレビで見たことしか信じない」人が増えている状況を放置す「べき」ではないとぼくは思います。テレビで見たことしか信じない人が増えている状況を記録し、批判的に考察し、出来ればその問題点を社会に広く訴えて行くべきだと思います。それは、このWEBでも出来ることで、ここは全然儲かっていない(どころか、締め切りあるのにこんなこと書いてサボっててむしろマイナスの経済効果。というわけで、もうすこしじっくり書くべきことだったようにも思いますが、諸般の事情があってご容赦を)ので職業としてのジャーナリズムではないのだけど、ぼくはそれをすべきだと思う。これは生き方としてのジャーナリズム。たとえば清沢冽の『暗黒日記』は生前には一切公刊されなかったですが、戦時下のすぐれたジャーナリズム作品になっていると思います。そしてぼくの場合は、その先にメディア論のような仕事が商業メディアで成立するのだとしたら、それは職業としてのジャーナリズム。でも、そのふたつはあくまでも同心円的であるべきだと思うのですね。それはぼくの二つのジャーナリズムのイメージでしょうか。大事なのはまず状況をウォッチし、問題を孕んでいたり、記録しておくべき事実を見定め、考え、記録して誰かに受け渡す体制を取っておくことだと思います。
「純粋まっすぐクン」的なちょっと照れくさい話まで書きましたが、そんなことを内心では考えてはいます。書いてしまうと素朴すぎるようにも思いますが、ぼくが批評の仕事をするうえでは、こうしたシンプルな図式が案外と足場を確かにしてくれているようにも思っています。

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