
武田徹Official Web
Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG101
いつも面白く拝見しています。
職業としてではなく「ジャーナリストとは職業である以前に生き方」というところをもう少し知りたく、書き込みします。猪野健治が実践した有職者ジャーナリスト集団(それぞれが個々に生活の糧を持ちながら何らかのテーマを形にしてゆくというグループ)や丸山実のいうジャーナリズム二元論(金銭の部分はどうあれ、内容にのみ責任を持つという考え方)のように職業としてのジャーナリスト、ジャーナリズムについての考察は数多くあります。この二つの例が適切かどうかは分かりませんが影響を受けざるを得なかった方法論なので。
方法論ではない武田さんの考えるジャーナリストという生き方を聞かせてください。
職業としてジャーナリストを選べなかったジャーナリズム志向者としてはぜひお伺いしたいのです。よろしくお願いします。
DGさんもどうもありがとう。精神論、出がちですよね。ワールドカップの悪影響というか、振り子の振られ過ぎ、反動などは他にもいろいろこれから出てくるのだと思います。閉口しますが、なんとか耐え、しのいで、自分にとってプラスになるように戦略的に振る舞っていただければと思います。
Mihokoさん、書き込みありがとうございます。
色々な意味でお答えしづらいのですが、他にもぼくがどう答えるか楽しみにしている人もいると思いますので、なんとかマジに試みてみようと思います。
まずMihokoさんがa:職業として成立するジャーナリストになりたいのか、b:そうではないのか。そこが大きな分かれ目になります。
就職活動中と言うことなのでおそらくaなのだと思いますが、この場合、映画関係のメディアにお勤めになるというのが基本でしょうね。映画評論家と自称している人は多くいますが、無名の人がすぐに評論で生計を立てられる可能性はゼロといってよく、それよりは映画関係のメディアに就職することの可能性はゼロではないと思います。たとえば映画雑誌を発行している会社に所属し、運良く編集なり制作なりの部署に配属されれば映画について文章を書くこともできると思いますし、TVで映画関係の番組制作に携われば、やはり映画について社会に報じる仕事をするわけでその仕事は映画ジャーナリズムと呼べるでしょう。そうした宮勤めの身分で仕事を重ねて行くうちに人脈も出来、表現能力も鍛えられれば、映画評論家、映画ジャーナリストとして独立して生計を立てることも夢ではないと思います。
もしもMihokoさんが職業として成立する映画ジャーナリストを想定していないのなら、より易いです。とにかく映画について社会に向けて発信すればいい。メディアは自分のWEBでもいいし、同人誌でも良い。映画関係の商業メディアにレビューを投稿してもいい。ぼくはジャーナリストとは職業である以前に生き方だと思うので、こうした活動でも映画ジャーナリストと呼んで良いと思いますよ。こちらは生計は立ちません。志だけです。しかし、こうした活動を重ねて行くうちにaへの道が開けることもあるかもしれません。
とりあえず、こんなところでしょうか。月並みですが。映画ジャーナリストと絞る前に、もしジャーナリズムとは何かを考える経験を積んでいなかったら、そちらをなされることをお勧めします。世の中で映画について論じている人の中にもジャーナリストと呼ぶに値しないひともいますので。
こんばんは、初めて書き込みをします。
ワタクシの勤める会社では、ロシア戦の後あたりから、Wカップのちょっといやな影響が出てきたように感じます.
日本チームの勝利はすばらしかった.特に、何が何でも勝つぞという気迫.これをわたしたちも見習いたい.無理だと言わず、絶対に納期に間に合わせるんだ、このコンペには絶対に勝つ、何が何でもこの仕事を取ってやる、そんな風に仕事をしていただきたい。やる気のない人はすぐにでも辞めてけっこうです。
これらは実際に朝礼の中で聞かされたフレーズです。
勝利には、綿密な作戦と実践が欠かせないはずですが、具体的な作戦・プランなしにいきなり精神論が出てきてしまうのには閉口しました。でも、閉口しているのがばれると、やる気がないとみなされて退職に追い込まれるかもしれません。ボーナス支払日近いですし。
愚痴みたいになってしまいました、すみませんでした。
私は、現在大学4年生で就職活動を行っております。その中で、映画の
ジャーナリストになる方法を探しています。何かご存知でしたら教えてい
ただければ幸いです。
るかさん、書き込みありがとうございます。見てきました。なるほど。
ストレートなW杯批判ではないですが、舞台裏情報としては先月(号になるのかなもう)のFORSIGHT(新潮社)に乗っていた元電通の方の記事がなかなか読みでがありましたよ。もし興味があれば図書館ででも。
武田さま
こんにちは。Yahoo の掲示板で、ここ連日ですが、W杯批判の書き込みを連載している方が
いらっしゃいます。結構、濃密な内容なので、当掲示板の読者の方々(過熱したW杯報道に
辟易している方々)にも、紹介します。
98年フランス大会のロナウドのことや、サッカーボールが作られる工場のことなどは、
(本当かどうか、チェックがいりますけど)、はじめて知りました。
下記に「W杯批判」で検索すると、でてまいります。
ヒロさま。
メールアドレスアップしないということなので、代理であげておきます。
書き込みありがとう。
*****ココカラ****
投稿者 ヒロ
メールアドレス
題名 RE:w杯
ワールドカップに対する考察、ぼくもおんなじようなこと、サッカー好きの連中
に言って、
水を差しては嫌われてます(笑)
味方がいてよかった(笑)
南米の貧乏ぶりや、イギリスなど欧州の階層システムの維持、
サッカーの熱狂と関係があるのでは、
というのは以前からぼーっと思ってたんですが。
サッカーの熱気に直接巻き込まれるとわかりますね。
あんなの流行ったら誰も仕事をせん!!(うちの会社の中でもいっしょ)
しかも、
欧州の下層階級も、途上国のひとびとも、
ワールドカップで内なる外なる「南北戦争」に
勝てちゃったりする可能性があるわけですから。
勝っても負けてもたいへんなカタルシス
実際の革命はいらなくなっちゃうよなあ。
ほんとかどうかわかんないですけど、
イギリスではワールドカップがあるたびに国内総生産が1か月分減るとか。
工場労働者が機能しなくなり、事実上工場が開店休業状態になるかららしい。数
字はたぶんジョークでしょうけど、
武田さんのおっしゃるとおり、
サッカーは、消費には効くけど、生産には大いなるマイナスファクターではない
か。
しかも試合が終わった後はバーンアウトしちゃうし。
そう考えると
世界的に隆盛をほこるサッカーというスポーツは
結果論でしょうけど、
テレビの発明と普及、そして衛星放送の普遍化、
それにくわえてオリンピックやF1同様、欧州の富裕階級ギルドのシステムFI
FAが
金儲けのシステムとして定着させた「天下一武道会」たるワールドカップの人気
により、
欧州帝国主義システムの一番洗練された大衆意識の安定機能に
なっちゃったのでは?
サッカーが流行っていない(いなかった)国が
アメリカに日本という
欧州帝国主義から離脱したところで成長した2国である、
というのも
こりゃ偶然じゃないですね。
実はアメリカでは、草の根ではいま非常にサッカーが流行っているそうです。
しかも、南米系の移民社会だけでなく「一般アメリカ家庭」で。
向こうの知り合いに聞いたところでは
子供向き、若者向きのクラブチームがずいぶんあって
非常に盛んで、子供たちにもバスケ、野球以上の人気があるとか。
今回のアメリカチームの強さも、偶然ではないらしい。
でも、アメリカでは、いま一番の話題は圧倒的にNBAで
ロサンゼルス・レイカーズの三連覇達成です。
サッカーの話は、スポーツニュースでも
たまーにかかるだけ、だそうです。
要はテレビとサッカーの食い合わせが、よくないのかな(笑)?
はは、陳腐な結論になってしまった。
そろそろいいんじゃないかと思ったりした。日テレのサッカー中継+スタジオ製作番組はいかにもくどくて、現地レポートの一茂とテニスの松岡の素人臭い掛け合いを聞かされてそれこそ何十回もゴールシーンの再現映像の繰り返しだ。もうさすがにうんざりして嫌みのひとつでもいいたくなる。
サッカーはGDPの低い国のスポーツだという説がある。他に遊び道具がなくて道ばたでボール一つで遊んでいた子供達が名選手に育って行くというのはよくいわれるが、ここで紹介したいのは視聴環境の話だ。サッカーは1点差で勝負がつくゲームだ。しかもその一点はゴールポストのどの部分に当たってボールがはねかえるかで点になる場合もあるし、ならない場合もあるというように非常に微妙だ。そんなサッカーはどこで点がはいりかどうかわからない、常に目を離せないスポーツだ。つまり試合中の90分は観衆は何もできないのだ。
スポーツを鑑賞するとはそんなものだろうと思うかも知れないがそうではない。野球は違う。野球の得点は積み重ねである。得点圏内にランナーが出ていなければ点は入らないし、ホームランという可能性はあるが、ホームランが出るバッターとピッチャーの組み合わせはそう多くない。ということは試合が動く瞬間というのはかなり限定されており、そこだけ見れば試合の流れは終える。サッカーのように目が離せないスポーツではないのだ。
日本高度成長期が巨人軍の連続優勝によるプロ野球人気高まりの時代と重なっていたのは偶然ではなく、TVで野球をちらちら見ながら働くことが出来た。その程度の視聴だとかえって仕事がはかどったりする。プロ野球は経済成長と相性のよいスポーツなのだ。
サッカーは違う。全身全霊をそそぎ込んで見る必要がある。それでは働くなんて出来ない。サッカーが人気の文化圏では90分単位で毎週何度も労働不能な時間が発生する。それでは経済成長など見込めまい。
確かにブラジルやアルゼンチンはこうした説明が可能だ。しかしドイツやオランダはどうかといえば、これは階層化が明確で、サッカーを熱愛する層は社会的に限られる。これが一方でフーリガン問題になる。
日本の状況を見ればワールドカップの経済効果の3000億円があくまでも消費であり、生産面でどの程度上向くかは未知数である。全日本の活躍を見て元気を出して、不況から脱すのか。今のところ応援にうつつをぬかし、幻想の一体感に酔って、無為の日々を過ごしている感が強い。小淵だったら大衆的な政治監視能力の落ちているこの時期を最大限の勝機としていただろう。小泉で良かったのかも知れない。
瞬間最大視聴率8割を超えるイベントの力量を実感。午後から講義だったんだけど出席者が普段の半分だし、こっちがテキストを読んでいるとどんどん学生が逃げて行く。ま、予想とおりではあったので前半の時間だけはいちおう話をしたが、その後は、ちょうど学期末で授業評価をする日だったので、どこで授業評価を書いても良いと言うことにして拘束を解く。教室から走って出て行く学生が何人かいた。
こちらもすることがなくなったので、TV観戦しようと学内をうろついていると食堂に大モニターがあって、歓声のうずだ。結局、最後列に椅子を出してその上に乗り、後半10分ぐらいから最後まで見てしまった。人数の多いところで見るのは楽しい。隣の女の子が学生だと思って話しかけてくる。
しかしこれが今日の授業評価は散々だろう。ぼくところの出席率半分はまだましなほうで、全然出てこないクラスもあり、授業評価表のほとんどが白紙だったという話を事務の人から聞いた。魅力においてサッカーに負けたという評価を下されるのだろうか。
朝のフジのニュースバラエティ『とくだね』の木曜日コメンテーターは岩上安身で、ナンシー関の急逝についてこんなことを言っていた。
「ナンシー関は最初、ぼくたちの仲間だったえのきどいちろうがすっごい面白い女の子がいるって連れてきて、彼がいろんな雑誌に紹介していた」。
そうなんだ。そんな時代があったのだ。えのきどいちろう氏は大学時代に『中大パンチ』というミニコミやっていて注目されて、早い時期から雑誌にコラムを書いていたように思う。そんなえのきど氏が同世代の物書き志望者と一緒に作ったプロダクションが「しゅわっち」で、板橋雅弘とかいたはず。岩上も確かからんでいたのではないか。ぼくは仕事をしたのがもう少し後になるので、たとえばえのきどさんと関係が出来たのも既にしゅわっちは出来ている段階だっただったが(最初はNAVIだったんだけど、思い出すのはえのきど氏がダイムに連載していた、ほんのわずかな人にアンケート調査して独断的なコラムを書くという企画で、世界のどこの国民が一番バカかという質問アンケートに対してイタリア人が多かったことを彼が面白可笑しく書いたらイタリアの新聞が憤慨して取り上げ、なんとなくやばそうな雰囲気になったことがあった。そのときぼくはイタリア人のジャーナリストを知っていたのでえのきど氏とあって貰い、真意(のようなもの)を書いて貰おうとした)、それも含めてえのきどさんと連絡しようとしてしゅわっちに電話すると女性が出て、それがナンシー関だったと思う。電話口で自分で名乗るわけではないので定かではないが。当時、彼女は確かに岩上のいうようにえのきどとペアで語られることが多く、「えのきどの妹分」みたいに言われていたと思う。
まだまだみんな海の物とも山の物とものつかない頃だった。デビューが早かったカーツ佐藤は独特のポジションをを得ていたし、いとうせいこうも天才ぶりが際だっていたが、それ以外はみんなまだまだアマチュアぽかった。えのきど氏は既に大量のコラムを書いていたけど、それは年長の編集者に若くて変わった奴と、面白がって使われていたにすぎなかったように思う。やがてダイムからは木村和久が出てきて、このへんからだろう、仕事ぶりがプロっぽくなっていったのは。木村は文章の才能であきらかにえのきどさんの下の下だったが、打ち合わせの約束時間を守る、取材はまじめにこなすなど、手堅さで評価を得ていった。でも最終的にその周辺から出て一番、大きな仕事をしたのはナンシー関だったように思う。取り替えることの絶対に出来ない個性で、テンションを落とすことなく、あれだけの仕事をこなした。
『とくだね』では出演者がナンシー関に書かれた思い出を語っていた。笠井アナは書かれた当時相当凹んだらしいがもう恩讐の彼方になっているが、前田忠明がいまでも、本人の訃報を前にしても許せていないようだったのが印象的だった。そんなところに人間の質みたいなものが出る。
新しいミニクーパーSを試乗。BMW製のミニは一ヶ月前にミニワンとクーパーに乗ったちょっと幻滅していたが、今回はクーパーS。軽くふけあがるエンジンではないが、さすがにBMW製(でもドイツ製じゃないんだよな、確か)でよく回り、スーパーチャージャーの効きも自然なのが好感。260万円でこのエンジンならいいかもと思った。
ただ自分で買うとなると内装のあくの強さがやはり辛いか。ミニの神話に依存するのも煩く感じてしまう。しかし、ここはなやましいところで、無印的なスモールカーで、そこそこパフォーマンスが優れたクルマがあったとしても果たして買うだろうか。過去にもカルタスターボとか、シャレードターボとか、東京で乗るにはサイズ的に適当でそこそこ動力性能に優れたモデルがあったけれど、助手席に誰かを乗せた時、安いクルマに乗っていると思われるのが怖くて手が出なかった。これ小さいけれど速いんだとか弁明しながら乗るのもみじめだし。
かくもスモールカーを思い入れを持ちつつ所有するのは難しい。その困難をクリアするためにBMWはミニの神話を利用しようとした。普通のクルマじゃないことを一目瞭然に示すために。しかし、それが煩くも感じる。一種のダブルバインドか。
日産ギャラリー前で編集者に広報車を返して、夕方からマリオン上の朝日談話室でうち合わせ中にナンシー関の訃報を聞く。ショックで動揺していたが、動揺を隠すために「太りすぎていたから」と冗談めかして話している自分がいやだった。
太りすぎは彼女の場合、冗談めかせることではない。こういう言い方はどうかと思うが、彼女が才能に恵まれず、消しゴム版画がアマチュアの趣味の領域に留まっていたら、虚血性心不全?になるほど太りすぎることはなかっただろう。才能が彼女から消しゴム版画とコラム執筆以外の殆どの時間を奪った。とはいえ、これは所詮は無い物ねだり的なのかもしれないが、メディア側に彼女の健康を気遣う人間的な優しさが少しでもあったら違う結果にもなっていたのではないか。人気があるから彼女に仕事を依頼するメディアがあって、自己実現の一貫として律儀に仕事を受ける彼女がいて、雪だるま式に仕事量が増えて行くプロセスに何も歯止めが入らなかった結果が彼女の若すぎる死だったような気がしてならない。ご冥福をお祈りします。