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0.1% 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 8日(水)00時28分17秒

フランスのNGO組織ATTACがグローバルな投機マネーの暴走に歯止めをかけるべく提案しているトービン税0・1%とは果たして「薄い」のか。
最近、ATTACの紹介本が出ていたのでそこにもしかしたら0・1%の根拠が出ているのかも知れない。ぼくはそれを読んでいないのであくまでも私見だが、こんな計算をしてみた。
日本の消費税が5%でそれでも少ないと言われている現状を見れば、確かに0・1%は「薄い」・そこで、ぼくは変革の世紀のパネルでその「薄さ」の意味を考えろと指摘した。それは海外投資を減速させずに、ギャンブル資本主義的投資を制限するバランスを取る発想の産物ではないか、と。
アジアの通貨危機のようにバーツの価値が1/4になってしまうなどというのは例外であって、通常、為替差で儲けているような人たちは1−2パーセント程度の為替変動で投資したり、引き上げたりして儲けたり、損したりしているはずだ。それでも巨額の利益を生むように投資額を増やす。そうしたビジネスモデルであれば、国境を越えるたびに0・1%の税をかけられるというのは、損益分岐点をかなりシフトさせる効果を持ち、投機マネーの暴走にブレーキをかけることが出来るのだと思う。しかし為替差ではなく、本格的に現地の産業を育てるような投資の仕方であれば、こちらも一度の投資額は多ければ0・1%は相当の額になるだろうが、(日本の消費税に比べても分かるように)比率的には少ないし、所詮は一度納税するだけでいいので、さほど投資が減退することはないだろう。というわけで0・1%の税率設定は投資の仕方の質の違いを配慮したなかなかうまく提案なのだと思った。
そして日本のNGOにこういうしたたかな提案が出来るかなと少し挑発的に書いてみた。そうしたら・・・・、変革の世紀のパネルは(二回目はその仕組みがまだ登場していないので止めたのかも知れないが)共感するか反感を持つか投票できる仕組みがついている。基本的に行儀のよいサイトなので、パネラーの意見に反感票はあまり投じられていないのだが、このパネル発言には反感票率があきらかに有意に高い。
で、どこが気に障ったか気になる。ATTAC税率の評価についてか、あるいは日本のNGOについての視点か。

495 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 7日(火)00時53分03秒

連休はあれもやりたい、これもやりたいと欲張って臨んだが、終わってみれば、予定の1/10もこなせていない。自己嫌悪。
ひとつ収穫? ロードサイドビジネスの原稿を書いていたので『洋服の青山ーー急成長の記録』なんて本を資料で読んだ。よくある会社サイドからの依頼なり、ギャラ振り込みなりの条件で書かれた「よいしょビジネス本」なのだが、創業者の言葉が記録されているので、引用元としては役に立つと思っていたのだが、読んでいるうちに語りの部分にどれほど信憑性があるのだろうかと疑わしくなってきた。
たとえばロードサイド一号店を出すときに「消費者が望む品揃えを実現するには店の面積は495平米必要だと考えた」なんて青山社長は語っているのだが、この495という数字がこの時点で出たかどうかは怪しい。というのも78年に大店法が改正になって、500平米以上の出店は事実上出来なくなる。で、洋服の青山は495平米で大店法をくぐり抜け、出店を続けたのだが、その495平米が一号店を出した74年時点で、品揃えから計算されていた数字だったというのは、後の大店法くぐりの批判を避けるために、過去が捏造されたものだろう。
よいしょビジネス本を作る書き手も、ジャーナリスト魂まで悪魔に売り渡したわけではなく、立場上、悪いことには口をつぐむとかはするとしても、過去を修正してしまうようなことまではしないだろうと思っていたのだが、そうでもないのか。この分だと他の箇所も相当後智恵で手が入っているのかもしれない。
書かれたものであっても迂闊に信じちゃいけないと改めて思い知らされたが、これ、なんとか分析できないかなとも思った。この種の資料の信憑性を高めるのは通常ではクロスチェックで、この場合も青山社長に直接質すとか、当時のマスコミ資料をチェックするとかで真相を明らかにすることはできるのだろうが、そうした外部のでデータとの照らし合わせだけでなく、テキスト内部の情報だけでもう少しアプローチできないか。たとえば語りの現在形はどの時点をゼロ座標としているかを調べ、そこから取材がどの時点で行われたのかを推測する。地の文の中でいかに語られた言葉が入っているかを調べ、どこまでが取材によるものかを、その情報を知り得る立場のひとがだれか、どの視角で見られた描写になっているかなどを手がかりに分析して、構成の重層性を読み解いて行く。そうした、構造主義文芸批評ではおなじみだったいわゆるテキストクリティックの手法で、ジャーナリスティックな資料の信憑性を高めたり、捏造部分を浮き彫りにすることはある程度出来るのではないか。
たとえばパスカルのパンセがどのようなオリジナル構成だったかとか、旧約聖書なんかも、どの記述がどの資料群に基づくのか研究が進んでいる。そんな昔のテキストだってアプローチのしようがあるのだから、たかが10年ぐらい前に作られたテキストが解析できないはずはない。ジャーナリズムの世界だとすぐ取材しちゃえないいと思われがちだが、もう少し科学的分析の視点があってもいい。そんなことを考えさせてくれたという意味では収穫でした。

変革の世紀 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 5日(日)21時31分35秒

『変革の世紀』のぼくが参加したパネルは先週から停止したままになっている。一応、ぼくが返事を貰う「待ち」の状態になっているんだけど、そこでずっと中断している。もう一周往復書簡するという話だったんだが・・・・・、もう次のパネルが始まっているので、これはもうこのまま消え去るのかな。もし投票とかして下さった方がいたら、尻切れトンボになってしまうかもしれないこと(ぼくのせいではないんですが・・・・って言い訳がましいですね。WEBサイドはキャパの足りない体制で関係者皆さん忙しいようで仕方ないところでしょう)お詫びします。

さてさてそこではパネルが先行してオピニンボードで視聴者参加というスタイルになっていたんだけど、1人、ボードで、ぼくが番組と違うトーンの発言をしたことに不満で、「なぜこんな人間が番組のフォーラムメンバーになっているのか疑問を感じる」と述べていた。べつにぼくはNHKの人間じゃないし、たとえNHKのスタッフだって自分の意見を持つのは全く自由でしょ。番組を全否定するとしたらそりゃ立場をわきまえる必要もあるし、なんでNHKの仕事をしているのってことにもなるが、番組で扱えなかった視点を呈示して解釈や議論に厚みを出すのはむしろ建設的ではないか。当然のようにそう思うんだけど、案外、そうした考え方が通じない人がいるらしいってのは意外な発見だった。
これは、たとえば日本の報道に署名性が弱く、個人の印象や判断が会社の立場に吸収されがちなことをぼくはずっと問題として来たんだが、受け手の方が実はメディアが企業単位で一枚岩であることを信じて疑わない、ジャーナリストの署名性なんて不要だと思ってるってことか。

佐伯眸さんがインターネットは退出自由な会議だと喩えたことがあって、確かにその通り。会議室に縛られるのは苦痛だけど、自分たちで結論を出さなければならないという束縛が議論を建設的にする側面もある。インターネットは言いたいことだけ断片的に言うことが出来て、その発言に至る準備や踏まえや経験や発想力など、要するにその発言者がどんな人なのかも問われることがないので敷居が限りなく低いし、言いっぱなしですっきりして退場することが幾らでも出来てしまうので、あらゆる意味で弁証法的な議論空間が広がりにくい事情がある。もちろんその全てが悪いわけではなく、たとえば2ちゃんはまさにそんなインターネットの空間特性の産物であり、2ちゃんが玉石混淆である限り、インターネット的な空間にも意義があると言うことだろう。ただ玉はなかなか少ない。もちろん読む人の主観によって玉石混淆率は異なるだろうが、そうした変動を差し引いてもあきらかに石はあるな。『変革の世紀』ではそこに一石(また石だ?)を投じる仕掛けを作って、退出自由なオピニオンボードから退出不自由な「小部屋」を派生させる予定。これはぼくのアイディアではなく、スタッフと東大側もぼくと同じネット状況認識だったから出てきたものだと思うが、インターネットの議論空間の質を踏まえた意味のある挑戦だと思う。で、そこではよりリアル会議室に近い形での議論が行われるはずだ。さてこれはどうなるんだろうか、最終的には参加者次第だろうけど、期待です。

 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 4日(土)13時19分46秒

そうそう、イソターネットってあったですね。
四人囃子に関しては、当時では演奏力に相当の自信があったから最初の数枚のアルバムは殆ど一発録りでしょ。で、ライブでも音の構成上はアルバム通りに演奏できちゃう。しかしそれを繰り返しやられてもねーという感じなんですよ。
実は佐久間さんの気持ちも分からないではなくて、80年代末の再結成の時には新曲を作って、ライブで演奏もした(メンバーも岡井大二以外は新規調達した。その時点で既にメジャーな新盤を出すうえで望まれる音楽レベルに森園のギターは達していないと考えたという佐久間さんの言葉をぼくは聞いています)。しかしせっかく頑張って四人囃子の再解釈をしたのに、ウケるのは、一度だけの再結成と謳って余興で呼んだ森園や坂下を加えたオリジナルメンバーで演奏した昔の曲の方だったりする(ぼくはそれを目撃して痛々しく感じましたね)。で、今回はもう完全に昔の曲だけにしたんだろうけど、ぼくなんかは、昔の曲ばかり聴きたがる、昔を思い出して記憶を美化して淫する観客の欲望なんかにこびるなーと言いたくなる。同じ曲の再演でも良いけれど、今、自分がなんでこの曲をやるのかってことを考えた上での演奏であって欲しかった。今回は残念だけどそうじゃなかった。相変わらずCDと全く同じアレンジ。演奏慣れしていないのと、あとやっぱり歳くったせいか、岡井と森園のリズムのキレが悪くなっているだけむしろへたくそになっている。それじゃぁねと思っちゃう。逝って良しはそういう意味ですね。チャーには指がうごかなくなっている分を補って、聞かせる工夫があったと。そういうところに無駄に年輪を重ねていないと思わせますよね。生涯ギタリストってこんなものなのかと。

ンとソ 投稿者:いちべぇ  投稿日: 5月 3日(金)22時07分41秒

ご無沙汰です。「ン」と「ソ」といえば、インターネットとイソターネットなんてのもありましたね。この場合は、批判的揶揄的なニュアンスで対他的に使われていたように思いますが、自己韜晦的に使うのも面白いですね。

四人囃子、CD選書で買ってますが。。。そうですか「逝ってよし」(2ch用語?)ですか。
そのライブに佐久間さんはおられたんでしょうか?森園さんや佐久間さんがいてそんな
痛々しい状況になってしまうとしたら。。悲しいことですね。

憲法記念日に 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 3日(金)19時30分42秒

中国の東莞(だっけか)という地区は台湾のパソコンメーカーの生産工場が大量に進出していて、台湾の人がたくさんきているので、その子供向けに台湾の公立学校が進出している。今朝のTVでもやっていたが、この話は前にも聞いたことがある。つまりそこでは台湾史観で歴史とか教えているわけだ。公的な立場では「二つの中国問題」を激しく指弾する中国政府は、実質的に利益が出る部分では、限りなく寛容になる。こういう柔軟さって中国の強さのひとつだと思う。振り返って日本は・・・というような大雑把な議論は最近ヤになってきたのでしない。
山拓はアラファトと会見してなかなか仕事しているではないか。これも週刊文春がしつこく彼の醜聞記事を書けているおかげだと思えば個人情報保護法案の問題性が庶民にも理解できるだろう、ってことはないか。

スモーキーメディスソ 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 3日(金)12時34分53秒

更新が滞って済みません。忙しかったって・・・・ことはぜんぜんなくて、単にやる気が出なかったです。意気消沈の理由はネットがらみなのでここに書いても良いけれど、それもやる気が出ないのでまだやめときます。でも全然書いていないわけではなくてハミルのところをすこし更新していました。時々見て下さいね。

今日はみすず書房の編集者に誘われて四人囃子とスモーキメディスソのコンサートへ。「武田さん好きだと思ってチケット買っておきましたから」と言われる。この人はぼくのことを思って時々親切でぼくの分までチケットを買ってくれるという得難い友人で、確かに好きなアーティストを見事に当てられていることもあるんだけど、自分では絶対に行かない(笑)だろうコンサートにも時々拉致された(笑)。でも彼は日本ポピュラー学会所属?のしっかりした愛好家でもあるので、選択は間違っていなくて、結果オーライとなるので感謝している。
今回もそう。
今日の四人囃子は、もう再結成を何度かしているバンドで、はっぴいえんどとかと同じ頃(少しメンバーの年齢は若かったはず)に活動していた。80年末ぐらいに最初の再結成をしてそのときはぼくはパンフレットを作ったりして手伝った経験がある。その前に佐久間正英を取材していた縁だったな、たしか。
で、その後は全然関わりはないんだけど、グレイとかジュディマリとか(あ、ボウイーもそうだ)の記事を書くとプロデューサーがいつも佐久間で、なんか腐れ縁(?)気味だなぁとか思っていた。そうした経緯があって「武田さん好きだと思って」に繋がる。
対バンは金子マリとかチャーがいたバンドでこっちももう20年以上前のもの。本当はスモーキメディスンです。で、ここで数行遡って見てほしいだけど、今日行ったコンサートの二番目のバンドのクレジットはスモーキーメディスソ。キーボードプレイヤー(誰だったんだっけ、当時は。難波さん?)が抜けたままでの再結成なので、ンがソになっているらしい。エノケンじゃなくてエノケソという芸人がいて、読み間違える客相手に地方などでは結構人気を博していた(人気といえるのかちょっと疑問だが)という話を書いていたのは北杜夫だったか遠藤周作だったか。美空いばりというのもいたらしいが、これはちょっと落ちるかな。読み間違えの醍醐味はやっぱりソとンですね。なんでこんな似ている字形を採用したのか>過去の仮名文字発明者。
で、スモーキーメディスソは、すごくいいステージだった。チャーは早弾きとかイフェクトを駆使したトリックプレイとかであっと言わせるようなスタイルじゃないけれど、聞かせどころを知っている本当にうまいギタリストだと改めて感心した。金子まりも良かった。女性ボーカリストでタバコ吹かしながらステージに登場というのもちょっと最近にない刺激的なお姿。本当にタバコなのか? チャーのアコギだけで『イマジン』を歌ったのは時節を意識した選曲のような気もしたが、なにせメデュスソなので、なんちゃってトーンがあって、重苦しくならなくて、ぼくはかえってその方が歌舞音曲ならではの「無用の用」という回路を通した高級な批判になっているような気がした。歌はとてつもなくうまい。グローブのケイコがアカペラで君が代を鈴鹿サーキットで兵器で歌ってしまえる時代に、こうした旨さは社会的にはもう無用の長物なのだろうけど、少なくともその場にいた観客のハートに歌そのもののメッセージは刺さったんじゃないかな。
というわけで四人囃子より全然良かった。四人囃子はみていて辛かった。自分たちの過去の作品を一所懸命に自分でコピーして演奏するようになったプログレはもう逝っていい。海外でもフロイドもクリムゾンの残党はもはや目も当てられない惨状だ。再結成で稼ぐ?四人囃子もそう。時間が止まっちゃっている。たとえばベンチャーズのほうが観客のノリに合わせてコンサートを展開する柔軟さがあるだけよほど毎回新しい音楽をやっているのだと思う。同じ曲やるので時間が止まるというわけではない。曲を時間の中で育てられるかは多いな違いになる。
そういえばぼくが高校大学と一緒に音楽やっていたギタリストはクリームのコピーバンドでクリーマというのをやっていた。かっこいいってことはなんてかっこわるいんだろうというのは早川義夫の言葉だが、昔はもっとかっこいいことのかっこわるさに対するセンスがもっと鋭かったように思う。かっこういいことはなんてかっこうわるいんだってことを踏まえないことこそ、かっこうわるさの極致だ。四人囃子とメディスソをみて改めてそんなことを考えさせられた。

盆栽 投稿者:武田徹  投稿日: 4月28日(日)01時38分56秒

連休に片づけておきたい仕事のための資料を借り出しに午後は法政の市ヶ谷図書館に。大学図書館は場所によって資料の厚い薄いがあり、複数の図書館を使い分ける必要がある。こういう使用パターンはぼくのように複数の大学と横断的に関わっていると有利だ。
その後、せっかく市ヶ谷に行ったので盆栽美術館というのに立ち寄ってみた。これは明光商会(MSシュレッダーですね)本社に付属している施設で、同社の高木社長を理事長とする日本盆栽協会が運営するもの。樹齢500年で、一部が石のようになっている松とか、なかなかすごいものがある。
ところで盆栽って自然起源だって知ってました? 美術館の説明資料によると、岸壁とかに生育し、根が張れずに樹が大きく育てなかったものを採ってきてそのままの大きさに栽培したものが本物の盆栽だという。ふつう盆栽というと、小さな鉢に植えて根を広げさせず、剪定で枝を整えて大きさを制限する、いわば中国の「てんそく」のような、人工の極みだと思っていたが(実際、苗木屋で売っているようなものはそうだろう)、ここではその本来の出自は、自然に(というよりも偶然に)育てられたものだと説明されている。そうなのでしょうか。盆栽=人工とみる見方に対抗しようとする、なんとなくイデオロギー的な姿勢を感じてしまったのだが・・・・。
しかし盆栽愛好家ってなかなかすごくて、瀬島龍三とか小渕元首相とか岸信介とか、そうそうたるメンバーが協会の理事に名を連ねていたし、彼らの所有していた盆栽は相当のものだったようだ。ヒダリの人は全然いないというのがなんか面白い。

同姓同名 投稿者:武田徹  投稿日: 4月25日(木)23時54分56秒

このページの口上にも書いているが、ぼくはネット上の同姓同名問題に関心を持っている。たとえばアマゾンでぼくの名前で検索をかけるとリストの半分は僕以外の同姓同名の書き手の本が占める。で、うかつに信じて注文すると予想外のものが届く。
これはオンラインショッピングが出来ない頃にはあり得ない問題だった。というのもリアル書店には(青山ブックセンターなどを除いてぼくの本だって相当の希少価値だが)現実問題として他の同姓同名の書き手の本は滅多に見当たらない。そのため間違って買うことがなかった。ところがネットでは同じ名前であれば等価に検索できてしまうので間違えて注文する場合がありえる。
そうしたトラブルを防ぐためには同じ名前=記号で示される情報の中からどれが自分の欲しいものか、どれがそうではないか見分ける力を鍛える必要がある。具体的にはアマゾンで注文する前に、検索エンジンで「武田徹」で検索をかけ、WEBページなどを手かかりにどれが自分の探している「武田徹」の本かを区別してゆくという手続きになる。
これは注文だけでなく、調査にも必要な作業だ。欲しい情報と欲しくないノイズの情報が同じ位相で交錯している場合があるのだ。実際、ぼくはある雑誌記事の著者紹介コーナーで自分ではない本を著作として書かれたことがある。その編集者はネット検索で出たものをぼくの作品だと鵜呑みにしてしまったのだ。
このようにノイズとサウンドを区別できないと、特にネット時代の調査活動はひどく混乱を来すようになってきた。で、学生さん達にもそんな能力の大事さを知って貰おうと、先週の講義の課題で「ネット上には何人の<武田徹>がいるか」調べて貰った。
個人的にひまつぶしでやったことはあったが、人海戦術で徹底的に作業したのは初めてだったのでいろいろ出てきた。信越放送のキャスターの人はもうこのページでもおなじみかもしれないが、それ以外にも筑波大学の放射線医学の研究者や、近畿大学の農学部講師のひと、中京大学の体育学部の教員にも同姓同名がいるらしいし、全国朝日放送編成部にもいらっしゃる。『クイズ全書』を書いた人もいるらしいし、北九州商工会議所にも同姓同名者がいる。他にも関西学院大学三回生とか山形の高校の吹奏楽部の顧問をしている人とか、マウンテンバイクレースで勝った人とか、大阪市に住んでいてLinuxOS用のスクリーンセーバーの懸賞に当たった人とか、変わり種ではゲーム「ときめき天羅学園」の登場キャラクター(不良らしい)とか・・・・。いやはやなんとも、課題を出した方が呆れるぐらい沢山の同姓同名の方々がネット上にいらっしゃるらしいのだ。
同姓同名探しの怖さは、それがネット上で精密の検索をかけるという作業と全く手順を変えずにできることだ。もってまわった言い方だが、要するにぼくたちはネット上で検索エンジンを使って精査をすればするほど同じ名前の別物を調べてしまっている可能性があるのだ。
もちろん注意深く分析すれば。どれとどれが同じ対象に属する情報でどれが違うかはだいたいは分かる。しかし最終的には、たとえば実際に本を取り寄せてみて、書きっぷりやテイストなどから判断しなければ分かりきれないところも出てくるだろう。最後の最後では本人に聞いてみなければわからないこともある。
ことほどさようにネットでは全てを調べられない。その事実について謙虚に認めるべきだ。そうした方向に学生さん達も認識を改めてくれればいいのだけど。

ユニークな天引きシステム 投稿者:平成外骨  投稿日: 4月25日(木)13時05分14秒

武田さん、こんにちは。

>しかし日本の場合は、どうも版元が天引きするというのが
>慣例になってしまっているようだ。

>実際に本を作った個人よりも会社法人が前に出る配置は、
>特に表現に関わる分野では相応しくないと思うのだ。

至極ごもっともなご指摘です。日本の社会システム全般が組織中心でありその組織の一部として個人を見る。戦後自己申告制を基本に税制を変革したシャウプ勧告の目的は、企業による年末調整という方法論によって形骸化した。常に個人は徴収を受ける側であり主体性を持って自ら支払う存在ではないというところに日本の民主社会としての未熟さがあるように感じます。

個人を組織に集めることで、組織は個人が管理しやすくなり国も管理がしやすくなる。こうした伝統的慣習がごく自然に受け入れられているところに、今日参考人質疑を受けた辻元清美や依然疑惑が取り沙汰される田中真紀子のような秘書給与の不透明な問題も発生するわけです。建前論としての法の原則と、実態としての本音に基づく慣習社会とが著しい乖離を見せるのが日本の社会の特徴。

必要に応じて建前と本音を使いわけるうちに本質を忘れてしまう。メディア規制を巡る問題、現在の政治の数々の疑惑の問題、これらもまた建前と本音を行き来するうちに何がなんだかさっぱりわからなくなります。個人を尊重しない社会に、そもそも活力が生まれるはずがありません。

海外版権  投稿者:武田徹  投稿日: 4月25日(木)01時58分10秒

過去の著作の一冊の韓国版がもしかしたら今度出るかも知れない。オファーがあったことを版元からの連絡で知る。
で、とても有り難い話だと思うんだけど、ひとつ気になるのが、韓国版の印税を日本の版元と折半する条件になっていることだ。

確かに中には海外に出して欲しいということで版元に頼み込むという作家もいるだろう。そういう場合はもちろん印税の折半もしかたないだろうが、ぼくの場合はそうではない。オファーは向こうから来たもので、版元は売り込みや引受先出版社を探すなどの仕事は一切していない。にもかかわらず結構な印税が日本の版元に入る契約内容を平然と呈示してくる。

これは世界的に言えばまったくユニークな方法だ。もし本をそのままのデザインで言語だけ買えて出すのだったらいざしらず、普通、翻訳してしまえば元の本の影も形もなくなる。翻訳されるのは中身だけであり、通常は印税はすべて著者に入る(一部エージェントが手数料として引く)。元の本の版元の会社までが印税を取ると言うことはありえない。

しかし日本の場合は、どうも版元が天引きするというのが慣例になってしまっているようだ。
ぼく自身の考えでは、もちろん本文はぼくが書いているのだけれど、編集者も共同作業をしたのだから編集者個人に印税がわたるのは全然構わない。編集者の、企画を通すところから実務までの頑張りになしには、そもそも本にならなかったかもしれないのだから、むしろ環流はあるべきだと思う。しかし現状のシステムは印税は編集者ではなく、会社に入る。繰り返すが、それもかなりの印税率だ。自社で出した本の海外版が出るたびに、本作りをした編集者が所属している(フリーの編集者の場合はそれも該当しないがー−)という理由だけで自動的にその会社にお金が振り込まれると言うシステム設計は明らかにおかしい。会社の懐に入ればその社員でもある編集者のメリットにもなると言えば言えるが、そうした迂回路の先に個人が位置づけられるのではなく、表現の仕事は、まず表現する個人中心に、個人を起点にして考えるべきではないか。実際に本を作った個人よりも会社法人が前に出る配置は、特に表現に関わる分野では相応しくないと思うのだ。


日本の作家は海外で自分の本の翻訳が出ると言うだけで舞い上がってしまい、こうした印税のシステムに考えが及ばなくなりがちだったのだろう。だからこんなヘンなシステムが罷り通ってしまっている。しかし、これは問題だと思ったので、電話でこちらの言い分は伝えた。印税率の見直し等々については前例があるので飲めないと言う返事が来るように予想するが、だったらその「高い」印税率がどのような根拠で設定されているかも聞いてみたいように思う。もちろん会社と書き手の間に差し挟まれて編集者の立つ瀬がなくなる結果になるのは不本意なので、遠慮しながらだが、問題点を少しはクリアにしておきたい。結局、匿名的な会社だけが肥えて行く法人資本主義の一翼を担わされるのは気分のいいものではないので。結果はまた報告します。

しかし、この種の問題は文芸家協会とか日本ペンクラブとかがもっと考えておくべき事だったはずだ。作家や書き手の利益を代表しているんだから。

チョムスキー・辺見対談 投稿者:武田徹  投稿日: 4月24日(水)17時03分12秒

 で、改めて月プレ、チョムスキー辺見対談を読む。
これはいい仕事だと思った。辺見さんは基本的に良き聞き役に徹しているが、チョムスキーはやはりすごい。怪物的である。
 チョムスキーは現在のアメリカの、テロへの報復について異議を唱えられない雰囲気など大したことではないと言う。今までにアメリカが犯してきた犯罪の大きさに比べればほんのささいなことだと言う。
 対談では日本についても言及している。有事法制や、更に改憲も「ささい」なことだと。辺見さんは「ささい」という形容に大いに戸惑うのだが、ここでも今まで日本がしてきたことの巨悪さに比べればという比較法が用いられている。
 そして、たとえばアメリカと日本がともに関わった問題としてチモールでの虐殺への直接間接的関与とその政府とメディアの共犯による隠蔽があるのだという。こうしてチョムスキーが挙げる例は、はっきりいって裏が取りやすい性格のものではない。メディアが事実の報道においてまったく機能していなかった例として挙げられているので、既存資料の調査では歯が立たない。ネットで適当に情報をクリッピングして議論している限り、かすりもしない問題をチョムスキーは扱っている。
 その意味で「そういわれてもなぁ」と困惑することは確かだが、メディアの射程距離の先に広がる闇の中に問題がある可能性を示唆する姿勢は、その疲れを知らない舌鋒もあって極めて印象的だ。一読をオススメしたい記事。

ナッシュ2 投稿者:武田徹  投稿日: 4月24日(水)16時49分19秒

 昨朝も追記しけれど、『ビューティフルマインド』の精神病描写はやっぱり気になる。幻覚像と現実像がそれぞれにそれほどクリアに結像していると思わせる演出はどうなんだろう。クリアだから幻覚像と共生する生き方も選べるが、本当の分裂症患者はもっと混乱していて、恐怖や、憎悪に苛まれるのが普通なのではないか。だから本人も辛いし、周囲との摩擦もし烈なものになりがちとなる。その意味で正しい病像を伝えないと言う問題は明らかにあるように思う。病気の説明を細かくやっていると映画にならないとも言えるが、バランスを取る余地はあったはずだ。
あと奥さんの内面描写は薄すぎ。あれだけじゃ、なんでそこまで献身的に夫を看病するか分からない。そう思うと所詮はハリウッド映画ってことなのか。ぼくはナッシュ均衡とかに下手の横好き的にだが興味があって、ナッシュのの生き様を知っているし、他にも若き日の発見以来、なんら建設的な仕事も出来ずに晩年まで苦渋に満ちた時間を生きた数学者のことも知っている。ナッシュのように家族に恵まれていたらと悔やまれる、孤独の底でのたれ死ぬような数学者もいる。そして精神病の置かれた状況にも強い関心があって、やはり家族や恋人との関わりの重要性について考えることが多い。
 そこで情報を色々と補完してしまい、普通の人があの作品を観る場合とは全く違う映画をそこに観てしまうのかもしれない。実際のナッシュ夫妻の物語は間違いなく感動的なのだが、そうした予備知識がなく、補完せずに観た場合、あの映画は功罪の罪が勝るものになってしまうようにも思えてきた。
 月プレ、チョムスキー・辺見対談を読む。まだ一度ざっと目を通しただけだが内容的にはかなり濃密なのではないか。構成を辺見さん自身がやっているので実際のインタビューがどうだったかを誌面からだけで知るのは危険だが、少なくとも記事で見る限り辺見さんはパワー負けしなかったように思える。
 チョムスキーの映画の中にも黒板に書かれているところが出てきたけれど「色のない緑色のアイディアが猛烈に眠っている」という変形生成文法の世界では有名な例文がある。統語論的には無謬だが意味論的に破格のいわゆる「変格文」で、変形生成文法ではこうした異常な文の生成をいかに制御できるかを研究者は盛んに考えていたものだ。ぼくもその1人だった。
チョムスキーは正しい文を生成する言語能力は生得的だと言う。だから人間は理解し合えるし、正しい判断を持てるのだと考える。この生得的仮説はまさに生成文法における「コギトエルゴスム」なのだが、その仮説をぼくはかなり怪しいと感じていた。変格文はいくらでも生成されうる。無意味なのではなく、詩人はそれを詩として歌い上げる。
で、今、はっきり思うのだが、チョムスキーだって本当に言語能力が生得的だなんて考えていなかったのだろう。彼はそう信じたかっただけなのだ。そう信じ、共通の言語能力を共有することで、相互に理解し合える世界を作れると考えようとしたのだーー。前に911の書評を書いたとき、そんなことをちらっと書いたら、さっそくネット上のウヨ系の人に茶々を入れられていたのを先日、検索で発見した。「アメリカに報復する資格がない」というチョムスキーの本の副題の根拠になっているニカラグア侵攻のチョムスキー解釈をあげつらったりして、自説に都合の良い例証だけをこれでもかとあげるネットによくいるタイプの批評を展開していたのだが、ぼくの生成文法解釈にも触れて「そんなことを本気で考えていたのだとしたら、その学者はやはりろくなものではないですね」と結んであった。
 そう、ぼくも言語学者としてのチョムスキーはろくでもないと思う。しかし彼は個人的な信念から出たそのろくでもない学説で一時は学会を席巻し、地位を得た後、ある意味、その地位を利用して、権威として講演やインタビューに答え、一生を反戦、非戦活動に捧げてきた。そんな活動を、彼に可能たらしめたのが、そのろくでもない学説なのだとしたら、そのろくでもなさをどう評価すれば良いんだろう。実はチョムスキー自身がもはや自分が言語学者だったことを忘れてすらいるように思う。しかしもしチョムスキーの思いが通じたとしたら、長い迂路の果てに生成文法のテーゼが証明されることにもなる。勝算はいまでに見えていないが、身を以て生きられる思想とはまさにこのことを言うのではないか。今にしてそんな生成文法の「大きさ」を思ったりしている。
編集済

ジョン・ナッシュ 投稿者:武田徹  投稿日: 4月23日(火)09時31分51秒

昨日に続けて映画。今度はメジャーもメジャーで、ラッセルクロウ主演アカデミー賞総なめの『ビューティフル・マインド』を見る。良い映画だと思う(と22日の深夜に書いて一晩寝て思ったんだけど、もしかしたら精神分裂病描写には問題があるかも。治療方法の進化を報告していない点は熊井啓『愛する』と似た構図だという評価もありえるように思う。もししかてナッシュが晩年になって幻想と共生できるようになったのは、妻の愛の力ではなく、向精神薬の改善の結果かもしれない。そのへんは割り引いてというか注意深く見る必要がある。精神科医のコメントを待ちたいところ。ただそれにしても、ここで書いた前段の議論は、もう少し大枠の文化論としては通用するのではないかと思うーー4/23 9:00pm追記)。涙もろいぼくはすっかり泣けましたです。
とくに奥さんのアリシアが、精神分裂病で幻覚と現実の区別がつかなくなったナッシュの手を取って自分の胸に導き、「これは本物よ」と言うところがいい。本当に確かなこと、リアルだと思えるところからやりなおす。いつでも、どうなっても自分を抱き留めてくれる人の体温に触れて確かめることからもう一度始める。そうして世界を再構築してゆく作業が必要なのは、精神分裂病者もそうだろうし、たとえば宮台真司がいっている脱社会的存在もそうなのだろうし、あるいは平然と生きていながらも、インターネットのように敷居の低いメディアの登場で誰もが天下国家論から身辺雑記までとりあえずストレスなしに表出できるようになって、かえってどこまでがリアルな問題か分からなくなって結構色々とくたびれてきているぼくたちもまたそうなのだろう。

ひとつ、ナッシュ解の説明の仕方で、映画の中ではナッシュの指導教授に「きみはアダム・スミス以来の経済学を覆すつもりか」なんてセリフを言わせてたが、それはナッシュ解が伝統的な利己心仮説(ひとは自分の有利になることを選ぶ利己的な生き物であるという仮定の下にその行動を理論化する)を乗り越えるという意味合いなのか。確かにナッシュ解は、表現はなんだけど、利己心仮説に基づいた行動理論の最先端として登場したノイマン流のゲーム理論を修正し、互いにどこまで妥協して、相手にとっての効用を高められるかのバランスポイントを探るものだ(ぼくもゲーム理論、およびその改良の歴史はざっとなぞっただけなので違っていたらごめんなさい)から、概ねそうした解釈でいいのかもしれないが、それは大雑把だからいいのであって、しばしばこの映画の紹介でも引かれる、ナッシュがナッシュ解を思いついたシーンとして酒屋で女性を仲間内で選ぼうとする場面は、果たしてそんなナッシュ解の説明として適当なのだろうか。互いの効用を考慮しつつ、妥協点を探るものではないし、あれだったらナッシュ解でなくても、妥協型の思考法全てが妥当してしまうようにも思った。ま、娯楽映画なんだし、別にいいんだけど、個人的には「えー、これ、どこがナッシュ解なのかな」と考えてしまってしばらく映画に集中できなくなったもので、その恨みの溜飲をここで下げる。

そこはそれ、日本人ですから 投稿者:平成外骨  投稿日: 4月22日(月)21時33分47秒

武田さん、こんにちは。

私との議論でここを占領してしまうのは他の方に心苦しいのでここまでとしますが、

>総合的な人権侵害監視機関をというのは大いに賛成だけど、
>今、メディア規制法を通すことが、果たしてそっちの方向に
>歴史を推す力になりますかね。そこが最大の論点だと思う。

この点について言わせていただくと、基本的に多くの国民にとっては「他人事」なのですよね。その功罪両面はあるしむしろ罪の部分が大きいのかもしれないですが、まさか自分が取材対象にはなるまいと思うし、逆に犯罪者を情報源だからと秘匿する行為は司法関係者ならば納得できても一般の人には理解が難しい。同様の議論は通信傍受法のときにも語られていましたね。ですからマスコミ関係者と一般人はなかなか情報の性質に関して認識を共有することが難しい。

確かにこの法律によってメディアや情報提供者の権利が侵害される場合も出てこないとも限らないですが、基本的に日本人は何か不都合がおきてから騒ぎ出すのが常です。民主党と社民党が共同提出をしようとしている告発者の権利を守る法案とセットで考えれば、ある程度個人情報保護法案にも歯止めがかけられる可能性もありますね。報道上の告発権とでもいうようなところまで網をかけられれば。

ところで全て報道関係者は法律を厳格に守って報道しているわけでもないですよね。極端に公序良俗に反するようなブラックジャーナリズムは論外としても、ある意味では社会に対する挑戦というか、警世的な姿勢を持って報道しているはずです。私のHNのモトになっている宮武外骨のような言論家は何度も警察に捕まったりもしてましたが、けしてひるまなかった。そうしたひるまない言論の継続が法の不備を正す世論を作るのではないかという気もするんですが。

↓↓ 投稿者:武田徹  投稿日: 4月22日(月)17時28分10秒

 いやいや、「一般国民」と「メディア関係者」のような二分法が作業仮説としてであれ成立してしまうこと自体が、そもそも問題だったのですよね。「好きじゃない」は事実だけど、メディア関係者なんか「好きじゃない」と言われているのにオウム返しで応えても、それをいっちゃぁおしまいよだったのでした。ごめんなさい。
 しかし・・・・、もう今のマスメディアなんて、個人情報保護やら人権擁護法やらで包囲されて取材も出来なくなって、報道機関としての体を成さなくなって。すっかり消えて無くなった方が良いですか? なくなったあと今程度に「悪い」状態の社会を維持できますか。というのも、もっと悪くならないですかね。ぼくは相当厳しいマスメディア批判者だと自分では思うけど、そのへんは悩むところ。いかに双方向的だと言っても、インターネットだけしかない「未来」にはまだまだ任せられないように思ってしまう。そうなったらよっぽど個人情報漏洩されるだろうし。
 外骨さんがいうように。総合的な人権侵害監視機関をというのは大いに賛成だけど、今、メディア規制法を通すことが、果たしてそっちの方向に歴史を推す力になりますかね。そこが最大の論点だと思う。

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