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 投稿者:武田徹  投稿日: 4月22日(月)10時26分07秒

たぶんお詳しいと推測しますので、蛇足を承知で書きますが、個人情報保護法案では報道機関による取材活動は適用除外になっているので(これも線引きが曖昧なところがもちろん非常に問題のあるところですが)、少なくとも放送局や新聞社が社旗を翻しながら仕事をしているかぎり、法が成立してもマスメディア関係者は罪には問われないです。誰が罪に問われるかといえば、情報提供した「一般国民」なんですよ。たとえば政治家や、自分の会社の上司の不正を告発しようとしてメディア関係者に接触した人自身が罪に問われれる。これ、どうですか? これでも、この法案に反対することはマスメディア関係者が自分たちの利益を守るためだけでしょうか。法案反対しているメディア関係者たちの意識がどうかは別として、法案が不利益を及ぼす範囲は特殊メディア業界だけでなくもっと広いのは事実だと思います。
確かにおっしゃるとおりの面もあるのです(し、それは繰り返しますが、僕自身が散々言ってきた問題でもあるのです)が、そうじゃない面もある。そのへん視野に入れて、タイミングや法成立の功罪の両面を天秤にかけて戦略的に考えると言うのがぼくのスタンスです。
「動きが鈍い」とおっしゃるが、去年、出版関係者だけが反対運動していたときよりは少なくとも周知はしたでしょう。そして実は大きな大衆運動になればいいとまでは思ってもいなくて、国会議員へのプレッシャーになればいんですよ。そのために新聞、放送が動く必要があった。その意味で「良い傾向」と書きました。つまり、そこでぼくはある種「夢のない」、かなり割り引いた評価をしています。
そしてここでは平成外骨さんの呈示された枠組みに従って書きましたが、個人的に言えば「一般国民」とメディア関係者を分けて捉える視点は、好きではないです。確かに特権階級的な鼻持ちならない臭いをぷんぷんさせるメディア関係者もいますが、情報提供者と情報被提供者の役割はいつでも入れ替われるものだし、市民メディアみたいなものの可能性も広がっているので(これはもう止まらない動きですよね。いかにマスメディアが一方通行的な状況にあぐらをかいていても、メディアの構造自体が、産業的な要請もあって変わってしまう。もちろん新しい市民メディアに実質的な影響力があるかどうかは全く別の問題ですが)。そうした状況において要求される取材の自由と個人情報保護のバランス取りの問題は、少なくとも今の法案ではカバーできないと思っています。これはもしかしたら活発に発言されているTVや新聞関係者の考えとはかなり違うのかも知れませんが、現状法案の現国会上奏に問題ありという点では利害が一致するということです。

廃案ありきですか 投稿者:平成外骨  投稿日: 4月22日(月)04時47分31秒

武田さん、こんにちは。

これまで社民党や共産党議員は何かと言うと廃案ありきで反対してきたことが多かったように思いますし、そうしたときのマスコミからは「対案も示さず廃案ありきだけでは国会が形骸化するのでは」というような論調を目にすることが多かったように私は感じております。まあ、もちろんこれをマスコミ一般に総ぐるみして語るのはちと乱暴であり、心有るジャーナリスト諸氏には甚だ迷惑なことかもしれませんが。

これまでテロ特措法であるとか、新ガイドライン関連法とか、通信傍受法とか、マスコミは議論が不充分だという批判はしても、業界挙げてこれに反対し、シュプレヒコールをあげるなどという動きは示してきませんでしたね。報道は中立を旨とするからではあるでしょうが、これを今回の個人情報保護法に対する対応ぶりと対比させると、まるでそれまでのマスコミが戦前の産業報国会の傘下に収まっているかのようなデジャヴを感じるのです。自分たちのことには結束して戦うが国民の一般利益のためには戦わない?いやもちろん言論によって戦ってはきたのでしょうが、今回のような大掛かりな行動は初めて目にします。

私はかなり皮肉めかして書いているのかもしれませんが、少々違和感を感じさせられる出来事のような気がしておりますもので。業界にいる人間にしかこの危機感はわからないのだと言われればそれまでですが、その業界は果たしてこれまでマスコミュニケーションの安易さにあぐらをかきつつ、国民一般と双方向であろうと努力してきたとは言えないように思います。これで国民世論が動くのでしょうか。イマイチ反応が薄いようにも感じておりますが、それはたぶん、国民のせいではありませんよね。

同意の捏造 投稿者:武田徹  投稿日: 4月21日(日)23時35分30秒

夕方から国立のキネクッフェで『マニュファクチュアリング・コンセント』を観る。10年以上前のインディペンデント系16mmドキュメンタリーフィルムで、なんと日本語字幕付きのものが発掘されたとかで、これまたインディーズ系の上映会。911以後チョムスキー再評価のような(あまり歓迎できない)動きもあり、特殊な映画で、特殊なルートでしか宣伝されていなかったにもかかわらず、二度の上映は結構混んでいた。
チョムスキーは本当に疲れを知らない。普通の人々が持っている、物事を冷静に判断する能力を信じて(変形生成文法もその信頼によるものだった)、いつかは分かって貰えるとばかりに、あらゆる機会を通じて、アメリカ批判、資本主義批判、マスメディア批判を延々と繰り返す。その原理主義的ともいえる徹底ぶり(たとえば言論の自由の理念の下、教職を追われ、裁判に掛けられた反ホロコースト論者の擁護までしてしまう。何人も言論の自由を制限されるべきではないという考えなのだが、「ガス室はなかった」という言論まで守ってやるべきなのかという厳しい批判にされされる)が、ある意味、滑稽でもあって、またドキュメンタリーの作り手の方も、チョムスキーの伝道師のような姿勢を愛すべき愚直さと捉える視点があって、イデオロギーに硬直しない、したたかさとしなやかさを併せ持った作品に仕上がっていた。豊富な小細工(メディア批判を展開するのにペンシルベニアのメディアという町でインタビューしたりしている。撮影禁止だとかで、音声のみのニューヨークタイムズ社内見学も笑える)や、凝った演出もあってなかなかのセンスを感じさせた。古くなっていない。
先に妙な再評価について触れたけれど。911テロ以後の反グローバリズムの流れの中でチョムスキーを再評価しているような人こそ観るべきかも知れない。そうした即席めいた図式的な枠にはまる言論人ではない。グローバリズムなんかが出てくるずっと前からチョムスキーはアメリカ批判をやってきたのだ。そんな年季の入り方の違いに圧倒される作品が今の時期に上映されたのは歴史の妙というべきか。
ちなににマニュファクチュアリング・コンセントは「同意の捏造」の意味で、元々はウォルター・リップマンの用語。チョムスキーはそれを題に引いて本を書いている。メディアのそうした同意捏造力を通じて近代国家(彼によれば暴力的でしかありえない権力装置)は大衆から思考力、批判力を奪って「周辺化」し、制御して行くと考えるチョムスキーのメディア論におけるキーワードだ。

そうそう、会場で配られていた資料の中に月刊プレイボーイのチョムスキー・辺見庸対談の予告があったんだけど。これって実は『911』の書評を書いたり、言語学専攻だったという縁から、ぼくがインタビューに行くはずだったんだよな。諸処の事情があって辺見さんが途中から入ってきて、確かに雑誌の「売り」の企画になるという意味ではぼくよりも辺見さんだろうし、僕自身も二人の対談なら読みたいと思った。しかし10pも作ったというのは告知パンフを見て始めて知った。確か1時間だけの会見のはずだったが。
それはそれとして、映画のチョムスキーの強烈ぶりを観ちゃうと、あ、インタビューなんかしなくて良かったと、正直、胸をなでおろす。映画からも10年経っているから少しは老いぼれて丸くなっていてくれればいいけど、そうじゃないとパワー負けしていたかもしれない。『ゆきゆきて進軍』の奥崎みたいといえば分かって貰えるだろうか。自分の世界がもう堅牢としてあって、対話が対話の体をなさない。辺見さん、大丈夫だったんだろうか。
編集済

国辱っていったいナニ 投稿者:武田徹  投稿日: 4月21日(日)11時13分10秒

東天王ヨブ氏も日記で共感を持って引用している
http://t-job.vis.ne.jp/
けれど、コトノハシズクさんの以下のコメントhttp://www.yscompany.com/tomosaku/index.html#20020421
はある意味で極めて正鵠を射ていますね(たぶんびしばし反論来るだろうけど)。リンク先だけでなく、読みやすいように本文も張りつけさせていただきますが。
*****
【馬鹿はどっちだ?】
世界に恥さらした「日本のバカップル」(ZAKZAKより抜粋http://www.zakzak.co.jp/top/t-2002_04/2t2002042003.html
 ベツレヘムより日本の恥を世界に発信−。内部に多数のパレスチナ人が立てこもり、イスラエル軍が包囲して緊迫した事態が続くべツレヘムの聖誕教会。その教会を何も知らず観光しようとして、現地の人々をア然とさせた日本人カップルの姿が海外通信社に相次いで配信され、世界中に恥をさらしているのだ。
 BBCがインターネットのホームページで「ベツレヘムのパレスチナ人住民は、ナカノ君とガールフレンドが、明らかに戦争状態を示すがれきの中を、教会に向け歩いていくのを信じられない思いで見つめた」と、全世界に伝えた異様な光景を生んでしまった。
 2人の行動について、作家の麻生千晶さんは「今の日本にはマンガとバラエティー番組しか見ず、体だけ大人で頭は幼児の連中が闊歩している。中東のような生きるか死ぬかの地域に、そういう人が旅行に行くこと自体もってのほか。流れ弾に当たって懲りたほうがよかったのでは…。まったく情けない国辱もの」と手厳しい。

 これ、そんなに批判されるべきことかねぇ。
 日本人が平和ボケなのは良く分かっているけど、この二人って、とても重要なことを教えてくれた気がするよ
 つまり、いかに戦争状態が馬鹿馬鹿しい笑劇か、そして当事者以外にとってはいかに意味の無いモノであるか、ってことをね。
****
 実際に論理的に語ろうとするとこれは大変なので、多くを付け加えないけれど、ここで一見ふざけた口調で語られていることの射程のうちには、戦争(紛争、有事)との距離の取り方に関する、かなり根源的な問題が含まれているように思う。たとえば「笑劇」といういかにも「軽はずみ」な、深刻なイスラエル問題を語る上で使われるべきではないと考えられがちの語彙が、そこまでの深さを湛えて使用されているという事情を読みとれるかどうかが、解釈する人の人間の器の大きさを示すことにもなるのではないか(ちとおおげさだか)。それにしても麻生千晶(が代表しているらしい「良識」ってやつ)って一体ナニ?

 投稿者:武田徹  投稿日: 4月21日(日)10時52分55秒

 事実関係をご存じならあえて申し上げることもなういでしょうが、「個人情報保護が置き去りになっている」のは、メディア関係者の主張以前に、法案の改変過程がそれに当たると思いますよ。
実際に個人情報保護が置き去りになっていること、個人情報保護の必要が絶対にあることへの問題提起は去年の今頃ぼくはこの掲示板でもしましたし、いくつかのメディアでも発言しました(週刊プレイボーイ、朝日新聞、読売新聞)。メディア関係者がメディア規制法でもある個人情報保護法の意義を認めることに関して「後ろから銃を撃つと」いう批判も仲間内からないことはなかったのですが、あえてそうしたのは去年の小泉内閣がおそらくこの法案は審議しないだろうという読みがあって、法案の内容自体に対する検討を差し挟む時間的なゆとりがあると個人的に判断したからでした。今年はやや状況が変わっている(いた?)と思います。こうなると原理的な思考よりもまず廃案にさせる政治的な行動の方が重要度が高くなると思います。
 オンブズマン制度云々は廃案の後に検討すべきだし、検討しなければそれこそメディア側は個人情報漏洩の既得権益を守るために法案反対の狼煙を上げたのだというそしりを確かに避けられないでしょう。それほど個人情報をいかに保護しつつ、取材の力を維持するかメディアにとって重要な課題です。ただ繰り返しますが、そうしたことを議論している余裕がなくなりつつあるのが現状でしょう。「キャスターの反対集会は良い傾向」は以上のような現状認識に基づいて述べられています。

個人情報保護がどこかに置き去りになっている 投稿者:平成外骨  投稿日: 4月20日(土)23時46分04秒

武田さん、こんにちは。

>メディア規制三法については民放キャスターが反対集会だとか。これは良い傾向だと思う。

そうでしょうか。メディア規制がこの法案の主目的ではないはずで、本質は個人情報をいかに保護するかが目的であるはずです。しかしどうも個人情報の保護に関してはその重要性は認めてはいるものの、これに関する論評もそこそこに、メディアはメディア規制だけに焦点を絞り、法案本来の目的であるはずの個人情報保護をメディア規制に摩り替えているようにも思います。

メディアは果たして個人情報の保護が、業界の自主規制だけで問題無く対応できると考えているのでしょうか。日々の報道を見ても、犯罪の容疑者は匿名であるのに被害者の場合実名や果ては住所まで報道されます。果たして国民の知る権利とは、被害者の顔写真や実名を要求しているのでしょうか。しかもこうした個人のプライバシーは侵害されてはじめて人権回復のための提案がなされるわけで、申告せず泣き寝入りする場合も含めると、現状の自主規制が本当に機能しているのか疑問です。

さらには今後既存メディアのみならず、ブロードバンドメディアが発展していけば、一部メディアの業界自主規制では何の役にも立ちません。もちろん国家機関が人権侵害を審査することにさほど実効性があるとは私も思いませんが、総合的にメディアによる人権被害に対応する機関が必要であることは言うを待たないと考えます。個人的には法曹界や一般民間人も含めたオンブズマン組織を制度化して対応する方が有効だろうと考えますが、いかがでしょうか。少なくともニュースキャスターの面々からは批判ばかりが聞こえ、こうしたより効果的な提案が見うけられませんので。

ハミル紹介 投稿者:武田徹  投稿日: 4月20日(土)16時44分48秒


裏日本工業新聞の日記でハミル訳書を取り上げて下さいました。
http://www.asahi-net.or.jp/~wf9r-tngc/nikko.html

ニュースコンビニその2 投稿者:武田徹  投稿日: 4月20日(土)09時12分41秒

SPAそのものはようやく昨日見たんだけど(雑誌が多いもので読み始めるのが遅くなりがち)。巻末で田中康夫がやっぱり小沢一郎発言を挙げている。それによれば小沢の「日本の核武装は簡単だ」発言は、「中国の武装拡大路線に抵抗して日本も核武装する、それは簡単だけどそんな戦前に逆戻りみたいなことでいいんですか」という文脈の発言だったという。
 田中さんも書いているけれど新聞ではそうは読めなかった。そう読めるようには伝えていなかった。しかも小沢は「普通の国」論者なので改憲再武装には抵抗がないはずだし。というわけでぼくは新聞の読みに忠実にその発言を同じ号のニュースコンビニでは引いている。しかしぼくも小沢と言う政治家の愚直さは愛すべきだと思っているし、小沢が吠えても今の政局は変わらないしということでその発言そのものを問題にするのではなく、原発と原爆は違うと主張し続けてきた電力会社の広報政策との齟齬を皮肉るまとめ方にした。というわけで田中さんの書いたことと齟齬を来すようでありそうでないようでもありというなんか変なポジションの記事になってしまっている。
しかし田中さんは小沢の新聞の報じない「真意」をどうして知れたのだろう? すっかりいいお友達なのか。ぼくはそれを望むわけではなく、むしろそうでないことを望むけれど、田中さんがミスリード、判官贔屓、贔屓の引き倒しをしている可能性はないのだろうか。

それにしてもSPAよくなってきた感じがする(実売部数は知らないが、それとは別の存在感というか、手応えというレベルの話だけど)。政局が混迷してきたり、時代の不透明感が高まってくると、良くも悪くも恣意的な独自編集の「視点提供的」スタンスの雑誌の方が輪郭がしっかりしてくる感じ。有事法制の時期にやっぱ週刊アスキーの気分じゃないでしょ。よく似てると言われたけれど全然違っていたことが、情勢がかわってかえって見えやすくなった感じがする。一方で旧態依然の他の週刊誌群はムネオ、紘一、真紀子・・・・とかいう記号を通じてしか世間を見れていなくて、その延々と繰り返す同じトーンは辟易させられるし。

ニュースコンビニエンス・アフターサービス 投稿者:武田徹  投稿日: 4月19日(金)00時17分18秒

SPA!のニュースコンビニエンスで取り上げた件に、おとといの雑誌の発売と相前後して動きが。で、補足。
メディア規制三法については民放キャスターが反対集会だとか。これは良い傾向だと思う。辻本への対応で筑紫と田原はとんでもないケチが着いたと思うが、それはもう水に流しても良い。ここでがんばれなければ彼らの存在意義はない。
第三種郵便制度は郵政公社成立後も一転存続の見込みだとか。せっかくのカードだった第三種郵便を辞めるかなと思っていたら案の定、見直してきた。しかし第三種郵便の存亡を巡る攻防戦がなぜ起きているか分かる人は少ないだろう。
みずほのシステムはまだ治らない。これはもっと反発が強まると思ったけど案外と沈静化してしまった。
編集済

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 4月18日(木)22時39分12秒

まるさん、袋小路さん、書き込みありがとう。
EVFやっぱちらつきますよね>袋小路さん。AFは、デジカメのハイスペック機の全てに言えますが、少し律儀すぎますよね。あれソナーで距離測るぐらいのアバウトさであとは被写界深度でごまかすぐらいでいいと思うんですよ。焦点距離が短いからそれで十分じゃないですか。パンフォーカスの方が、afの作動待ちよりよほど有り難いときがありますよね。
MacPeopleはチェックしていませんでした。教えてくれてありがとう>まるさん。ハミル本もまた書評受けすると良いんですが。そろそろ書店に出始めます。
ぼくは風邪が今ひとつ治りきらず、喉に痛みをかかえつつ動き回っています。今日は法政@多摩でした(そういえばまるさん、昔、一緒にいったですよね。まるさんがぼくの推測通りの方であれば)。今まで西八王子から行っていたのですが、タクシー運転手の話では高尾の方が近いとか。確かに試してみると1000円弱安いのでした。しかし・・・・高尾かぁ・・・。赤い中央線の最西端駅まで出掛けているのかと思うと感慨深いですね。校舎から見える富士山が夕日に映える日が年に何回か訪れますが、家の近所で見る富士山と違ってでかい、でかい。さもありなんです。

本の紹介 投稿者:まる  投稿日: 4月18日(木)21時05分35秒

こんにちは。

いつも拝見させていただいてますが、ここでの書き込みは初めてです。書き込み量が多いので、十分についていけていませんが...。

『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』の紹介(書評?)が、今発売中のMacPeople(というMacの雑誌)に載っていました。

EVF 投稿者:袋小路  投稿日: 4月18日(木)01時53分47秒

たしかにDimage7のEVFはちらつきますね。「ずっと見ていると目が疲れる」という人も。
あと、欠点はAFが遅いことですね。7iでは改善されてるらしいんですが。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 4月17日(水)09時39分02秒

書き込みありがとうございます。ディマージュ7いいですよね。28mmから始まるところレンズもいい。使い勝手では最高ですよね。一眼レフいらないかもと思わせる最右翼モデルです。(オリンパスのE20とかだと広角側が不十分で、やっぱ1眼にしないとなぁと思わせます)。
で、EVFですが、確かに最適解なのだと思います。どうせCCDで信号取ってるんだから使わない手はないですよね。情報も豊富にはいるし、フォーカスも見れるし。パララックスもないし。電池は温存できるし。でもディマージュ7のEVFってちらつきませんか? ぼくは店頭デモ機のファインダー覗いてみて少し気になりました。ハンディカムだともう諦めていて気にしない方向で視神経をカットしているのだと思いますが、デジカメは光学ファインダーの延長上でみるのでなんか神経質になってしまいます。7iはどうなんでしょうね。
電池の持ちですが、初期ロットのディマージュ7は電池ケースの接点に余計な油分が回っていて、それを拭いて掃除すると格段に電池寿命が延びると聞いたことがありますよ。ご存じかも知れませんが。

でじかめ 投稿者:袋小路  投稿日: 4月17日(水)01時40分39秒

わたしが使っているミノルタのDimage7は背面の液晶のほかにEVF(アングルビューファインダー)をつけてます。いうなればちっちゃな液晶なんですが、光学ファインダーのような感じで使えます。大型液晶を使っているとあっという間にバッテリーがなくなるので、もっぱらEVFを使ってます。
なんでこれを買ったか、というと「夢遊病者のような」デジカメ一般の撮影スタイルに違和感があったから、というのも一因 。ブレるのやだし。一眼レフ買うほど金はないんだけど……という人に向いていると思います。
EVFって(露出など)できあがりに近い画像を見ることができるし、悪くないんじゃないかと思ってます。

カメラスタイル 投稿者:武田徹  投稿日: 4月15日(月)20時53分03秒

 全然関係ないですが、デジカメの撮影スタイルって間抜けていると思いません? 一眼レフタイプのは構造上光学ファインダーしか使えないので今までのカメラと同じになるけれど、普及機の場合は液晶が常時使えるから、光学ファインダーがあるモデルでも、たいていの人は液晶ファインダーをみながらシャッターを切るので、カメラを顔の前に離して構える例のポーズとなる。カメラの背面を凝視してみているみたいでおかしい。ブレないためにはカメラを構える肘をしめる必要があるけど、その構えではしめるどころじゃない。
 で、共同記者会見でデジカメ使用が一般的になると、カメラの背面を見ながら夢遊病者のようにふらつく記者ばかりで違和感を感じていたが、ちょっと最近考えを改めた。この間、ライカが復刻した最初期のモデルは、構えるときにデジカメと同じようなポーズになる。というのもファインダーが凹レンズ一枚の簡易的なものなので、10cm以上目から離さないとフレーム枠の全域を見ることが出来ないのだ。カメラ雑誌ではケ−スに入れ、ストラップを首にかけて前方に引っ張りながらカメラを構えるとぶれないと推奨していた。デジカメもそうすればいいのかもしれない。
 一眼デジカメもたぶん次に出るニコンD100が値段的にかなりこなれたものになって、銀塩と互角に選べる存在になるだろう。一眼は先にかいたように銀塩時代から使い方が変わらないが、これはこれで問題で、液晶で100%ファインダーが使えるのだから光学側はもっと簡易的なファインダーでもいいと思う(若干のファインダー情報があればいいと思う。今の普及デジカメはそれも不十分で光学ファインダーが使えない)。しかし交換レンズの互換性を保つためにフランジバックはミラーがあったときと同じにする(あるいは若干短くしてアダプターでどこのメーカーのレンズでも使用可能にするーーー実際には光軸の角度の問題があるようだが)。そんなカメラができればいいと思う。ミラーやペンタプリズム回りをはぶけば安くできるだろうし。

「変革の世紀」 投稿者:てるてる  投稿日: 4月15日(月)09時35分50秒

朝の7時のニュースのアナウンサーの三宅民夫さんが司会しているので、明るい感じがしました。

「映像の世紀」はよかったですね!
2ちゃんねるでもべたぼめで、主題曲の「パリは燃えているか」のファンも多いです。
というより、あの主題曲で、もっていた、という人もいるぐらいです。

WTOの会議をつぶした市民運動って、ちょっと過激、ぐらいにしか思っていませんでしたが、
きのうの番組を見て、見直しました。
でも、NGOも、USAのアフガニスタン攻撃を止められなかったじゃない、とも、思うのでした。
自分自身も、インターネットで署名するぐらいのことしかできなかったけど。

変革の世紀 投稿者:武田徹  投稿日: 4月14日(日)23時35分50秒

『変革の世紀』TV版第一回放映。部分的には見ていたけれど全編を通してみたのは始めて。あんなにWEB連動を強調しているのは、WEB側をやっていた当事者としても驚きだった。
この枠のNスペは「社会主義の20世紀」「映像の世紀」と一貫して人類の愚行を真っ向批判するのではなく、一種の諦念をもって眺めるような独特のもの悲しいトーンがあって好きだったが、それが今回のシリーズに繋がっていたのは正解だったと思う。もし911がなかったら実は今回はそれとは違っていたかもしれなかったのだが。結果オーライという感じか。
NGOアタックの代表がルモンドディプロマティックの編集長だったとは知らなかった。フランスのメディアの底力を感じる。朝日出身者で市民運動している人は何人か知っているが、取り組む問題がもっと矮小化している。もちろんそれが悪いとは言えず、千里の道も一歩からなのだか、一歩の踏み出す方向は問われても良いだろう。

 投稿者:武田徹  投稿日: 4月13日(土)19時46分33秒

宅配便を受け取りに出たとき、声が出ないことを発見。というとややおおげさでひどいかすれ声を絞り出すようにすれば話せるんだが、人前で話したい状態ではおよそない。相手も聞き取れないだろう。昨日、声が出にくくなっているのを無理して講義なんかした結果がこのていたらくだ。
このままじゃ困るので病院に行ったが、ポリープとかが原因ではないので、喉の炎症を取るしか方法はなく、通常の風邪の治し方以外に方法はない。つまり薬を飲みながらおとなしくしていること。しかし、ぼくのばあい、風邪の諸症状はもうすっかり良くなっていて、外に買い物に出ることだって十分に出来そうだが、声だけが使えない。
 しかし、こうなってみるとこれはこれでいろいろ考えさせられる。以前にある施設で白内障疑似体験というのをさせてもらってバリアフリーの必要性を痛感したことがあったが、今回は声が出ない経験だ。たとえばこのまま声が出なかったらぼくは職業を変えざるを得ないだろう。文豪や碩学の学者が晩年に視力を失うことはしばしば聞くが、声が出ないというのはあまり聞いたことがない。言葉の仕事なので声を失うのはかなり厳しいだろ初。言葉の仕事とはいえないけどホーキングは話せないが、ちょっと声どころじゃないので別格だ。あのすてきな音声合成装置も持っているし。取材に明け暮れるジャーナリスト家業は、視覚、聴覚が命だし、声がでなければ取材が出来ない。そう考えるとジャーナリズムの仕事はバリアフリーとは程遠い。乙武がスポーツキャスターやっているのは一種の絵空事で、彼の取材をセットするために何人かが働いている。通常はそんな余裕は時間的にも人員的にもない。自分で、その場すぐに反応するのが基本だ。乙武の場合はそこまでしてでも彼に聞き役をさせたいという考えがメディア側に無ければこれはもちろん成立しない取材スタイルなのだ。
 ハミル翻訳本の見本が届く、写真撮ってページを作らないといけない。

宣伝文 投稿者:武田徹  投稿日: 4月12日(金)13時13分47秒

おとといぐらいから風邪引いてしまい、喉が痛い。それなのに今日は5コマも講義するという絶望的な状況。ここの書き込みもしばらく間が空いてしまっていました。とはいえ新ネタもないので、新刊ハミル訳書の訳者からの宣伝文をアップしておきます。メディア関係でご興味がある方は私宛か版元へどうぞ。
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わたくし、武田徹は、このたび日経BP社より、ピート・ハミル著「新聞
ジャーナリズム 」を翻訳いたしました。
 この本は、ピートハミルの「新聞」への想いの産物です。ニューヨークを拠
点に小説家やコラムニストとして活躍し、日本では映画『幸せの黄色いハンカ
チ』の原作者として知られ、ファンの多いハミルですが、本職は40年間ニュー
ヨークのタブロイド紙を中心に働きつづけた 筋金入りのベテラン新聞マン、
でした。
 タブロイド紙業界は、90年代、メディア産業の構造改革の洗礼を受けます、
ハミルが編集長を務めていたニューヨーク・ポストもメディア王マードックが
買収。マードックは売らんかなのゴシップ中心の報道体制を貫こうとして、ハ
ミルと激しく対立します。ハミルは古巣の同紙を出て、数年後、ライバルの
ニューヨークデイリーニューズの編集長となるのですが、そこでもまたオー
ナーにゴシップ報道主体の紙面作りを強要されます。「古き良きタブロイド紙
の伝統――あくまでも生活に根ざした大衆的な目線で、社会問題を深く抉る」
を守ろうとしたハミルは、経営者との間で壮烈な争いを繰り広げますが、結
局、この新聞の編集現場からも去らねばなりませんでした。
 そんなハミルが「理想の新聞とはなにか」を語ったのが本書です。
 地域に根ざし、移民社会とも近いアメリカのタブロイド紙の世界は、メディ
ア関係者も 含め、日本の読者には未知の部分が多いでしょう。その意味でも
一読の価値があると思います。本書でハミルが展開する、ジャーナリズムとビ
ジネスをいかに両立させるかという視点(この視点に真剣に取り組んだこと自
体、勇気のあることだと感心します 。建て前と本音の乖離があって、みな口
にするのを避けがちなテーマなので――)から、新聞広告や新聞漫画の在り方
などについてまで論じる姿勢には、他のジャーナリズム論にはない幅広さがあ
ります。
 そして日本語版だけの特徴として、新たな序文「9.11米国テロは、ジャーナ
リズムをどう変えたか」が書き下ろされています。原書が1998年執筆であった
ため、あの「2001.9.11米国テロ」とその後のアメリカにおけるジャーナリズ
ムの混迷ぶり、偏向ぶりについて、ストレートな感想と、9.11以後のジャーナ
リズムがどうあるべきか について、ハミルに改めて加筆してもらいました。
アメリカではニューヨークの「ローカルレジェンド」とまで呼ばれ、世界一の
摩天楼がそびえる都市に根差し、あらゆる国からそこに集ってきた人々の暮ら
しの息吹を伝え続けたジャーナリストとして、伝説的な存在とさえなっている
ピート・ハミルが、日本語で9.11テロについて語るのはおそらくこれが初めて
です。その点でも貴重な文章だと思っています。
 さらに豊富に付け加えた訳註にもぜひお目を通して頂きたいものです。アメ
リカの新聞業界、とりわけタブロイド紙の過去と現在についてここまで網羅的
にフォローした訳註はおそらく前例がないのではないかと自負しています。
 既に新聞業界、メディア業界に関わっているひとや、これからそこで働こう
と考えているひとはもちろん、新聞というメディアに日々接している全てのひ
とに広く読んでいただき、新聞について改めて考えていただきたい、生涯現
役新聞記者<sートハミルの入魂の一作です。
 (武田 徹)

 著者紹介  ピート・ハミル Pete Hamill
  1935年、アイルランド系移民の長男として生まれる。ジャーナリスト、コ
ラムニスト 、作家として著名なハミルだが、「本業」は40年以上のキャリア
を誇る新聞マン1960 年ニューヨーク・ポストの編集に記者として参加し
たのを皮切りに、複数の新聞で、記者としてリライターとして従軍記者として
コラムニストとして活躍。90年代にはニューヨークポスト、ニューヨーク・デ
イリーニューズの編集長を務める。その一方で、ノンフィクション、フィク
ションの両分野に又借り、雑誌、書籍を舞台に健筆を振るってきた。ベスト
セラーになった青春小説『愛しい女』、短編集『ニューヨークスケッチブッ
ク』、ジャーナリスティックなコラム集『アメリカ・ライフル協会を撃て』な
ど著書多数。近年は 自らの半生をつづった『ドリンキング・ライフ』(新潮
社)を上梓。映画脚本も数多く 、邦画「幸せの黄色いハンカチ」の原作者で
もある。日本人ジャーナリスト、青木冨貴子と結婚し、2人の娘をもうける。
今も昔もニューヨーク在住。

1円 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 8日(月)19時47分22秒

PHSキャリアが新規客獲得に躍起になっていたときには、インセンティブ狙いの端末0円とか1円販売とかあって「世も末」感を醸し出していたが最近ではずいぶん常識的な値段に落ち着いていた(旧モデルのピッチは今でもとんでもない価格で売ってる場合もあるけど、明らかに何で買うのか分からないモデルの投げ売りであり、光通信の株価を高騰させた一時の熱気はもうない)。ところが今日、街を物色しながら歩いているとなんとキムラヤ店頭でNTTドコモPインマスター1円を発見。これももう既に次世代の16メガメモリー入りモデルが出ているので、ディスコンになった旧モデルなのだが、ぼくのようにパソコンでの使用ではメモリーは不要で、64kで繋がれないいのでなんら問題はない。で、買ってしまった。外で結構パソコンを使うのでPDC経由の接続ではちょっとなぁと思っていたのだ。
財布の中にちょうど1円玉があったので払う。回線工事後に引き取るので1円の受領証を店頭で貰う。なんか感慨深い。赤瀬川原平氏はかつて1000円札の芸術的模造で有罪判決を受けたが0円札というのも作っていた。こちらは貨幣価値がないのでおとがめはなかったようだが、以後、「価格の幻想性」をいじる作業は彼のライフワークのひとつとなっていて、20年ぐらい前に赤瀬川さんが担当していた美学校の考現学講座では1円の買い物をし、その証拠に領収証を貰ってくるという課題を一時出していた。当時、1円の買い物は案外難しかったはずだ。たとえば画用紙が一枚一円のものがあって、これはばら売りもしてもらえたはずだが、他には1円分だけばら売りというのは事実上困難だ。塩とかみそとかも、よほど懇意の店でもなければ1円分だけ売ってはくれなかっただろう。で、買えない額、使えない金額というのはなんだ、お金て結局なんなんだという「眩惑感」を覚えさせると言うのが赤瀬川流アートだったのだ。
しかし今や状況が変わった。電話機なら定価1円のものがあり、1円の受領証も堂々と貰える。とはいえこの場合も、1円に意味があるわけではなく、定価は定価であってそうではない。というこよで、要は零円札みたいなものなのだ。バブル以降の経済状況は、グローバル経済のデリバティブマネーもそうだけど、なんだか正体が怪しくなっている。赤瀬川さんが最近すっかりカメラ評論家になってしまったのは、経済のほうがむかしのように背骨がしゃんとしていなくなって、経済の幻想性をいじろうにものれんに腕押しみたいな状況だからだろう。横浜トリエンナーレの赤瀬川作品もあまりピンとこず、カメラ評論のほうが遙かに面白かったのを思い出した。芸術がこういうかたちで古くなると言うのもどこか21世紀的と感じられなくもない。

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