武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG94

戻る


書評レス 投稿者:武田徹  投稿日: 3月27日(水)15時05分54秒

 少し前の本だけど書評を発見したので、レスをつけます。
>『ポスト・ジェンダーの社会理論』を読んでいると引き込まれすぎて危険なので、ほかに年
>末に購入して積ん読状態になっていた本の一冊を読み始めたらこれが止まらない。半日で読
>み了えてしまったその本は『デジタル社会論』。インターネット社会を従来のジャーナリ
>ズムの手法で読み解こうとするノンフィクションである*1。フリーのジャーナリスト・
>評論家である著者のこの試みというか姿勢には引きつけられるが、如何せん姿勢が題材に
>追いついていない感がある。
>もっとも原稿が書かれ、校正が終わり、印刷・製本がされている間も変化・更新し続けるハ
>イパー・テキストが対象では相手が悪いとも言えるが。
> 著者はこの変化し続けるハイパー・テキストに独特の「儚さ」を感じるという。そしてそ
>の「儚さ」を纏った「デジタルの早い動きを捕獲し、普遍的な文脈に位置づけ」「儚い幻の
>ように?明滅する情報にリアリティを与える」もくろみの最初の結実が『デジタル社会論
>』という一冊であるという。しかしわたしはこの本を一読後、著者こそ「デジタルの早い動
>き」に呑まれ、「明滅する情報」に惑わされてしまったのではないかと感じている。ひと
>つには著者がデジタル社会をその外の社会と十分に関連づけて論じることが出来ていないと
>いう印象がある。本書の六章は「世紀末のデジタル宗教改革」という項目であるが、わたし
>はこの章を読んで楽観的すぎるという感想を持った。この章で語られる眼目は、日本におけ
>る宗教関係者のインターネット利用の増加であるが、その視点はHPを開設している宗教関
>係者寄りで、明るい面が意識的にか無意識的にか打ち出されているように感じられる*2。

で*2で引用されているのはぼくが書いた次の箇所。
>*2:「なぜ、今になって古い宗教の枠組みが意味を持つのか−。(略)たとえばプロテスタ
>ントは近代的な社会生活を律する文化装置としての役割を強く担うことで、合理主義の時代
>にあっても生きながらえた。こうした伝統宗教の臨機応変さは今も発揮される。個人化の果
>てにあらゆる社会的規制力が無力化して生じた欠落にぴったりはまる倫理の枠組みを呈示
>し、情報化の趨勢の中で傷ついた魂に憩いの場を提供できるのは、まさに歴史に鍛えられて
>伝統宗教が獲得した懐の広さのたまものなのだ。(略)幸いインターネットには宗教関係情
>報が増え始めており、判断材料には事欠かない。多角的に検討され、相対化されてなお信ず
>るに値するとみなされる宗教こそ、インターネット時代の宗教の名に相応しいのだろう。そ
>の意味ではインターネットは宗教に試練を与えるものでもあるのだ。」前掲書、p.110-111
 ここで引かれていた章は、続編としてもっとヤバイ新興宗教編を書くつもりが編集部が許してくれなかったいわくつきの部分で、この書評を読んで改めて苦笑してしまったが、もちろん単発になったとはいえ、プロですから一応完結した作りになっているつもり。で、ちょっと反論しますけど、この引用箇所って「明るい面が意識的にか無意識的にか打ち出されて」ますかね。徹底的に相対化されて生き残れる宗教なんて今はないですよ。宗教について考えたことがあればこの箇所の含みに気づくと思うんだけど。「宗教の危険性」をもっとびしばし書くべきだというのがこの書評家の主張らしく、アメリカでは宗教サイトが増えて、若者を取り込んでいるというエピソードを紹介、拙著がそれに触れていないことが「デジタルの社会で起きていることに自覚的に向かい合うのであれば、同時にその社会での出来事に対応する現実社会での出来事に、もっと向かい合う必要があるのではないだろうか」という結論に繋がって行く。
 この人が書いていることは、ぼくは抽象的な批評の文脈でははずしていないと思う(ぼくも同じようなことを書いたことがある)。しかし、具体論として、たとえば「宗教の危険性」について、この人が何を考えているのか分からない。で、一般論で返すしかないのだが、「事実に触れる」=「現実に向かい合う」ことではもちろんないと指摘しておきたい。選択的に事実に触れるようなジャーナリズムは、お粗末な新興宗教の広報コピーとか自己啓発セミナーの宣伝文と同じになってしまう。引用してくれたことの繰り返しになるが、いかに事実を普遍的な文脈の中に位置づけられるかがジャーナリズムでは問われている(書評だってそうだ)。その意味で、ぼくの書いたもののほうが、この書評よりも、限られた取材範囲と紙幅の中でそうした課題に少なくともまともに応え(ようとし)ているように思えるけれど、これは著者の欲目でしょうか。
http://www.ne.jp/asahi/midnight/library/chevre/deji.html

入力予想変換  投稿者:武田徹  投稿日: 3月27日(水)12時19分51秒

 ソニー系の携帯電話に載っている「入力予測変換」機能はなかなか感動的だ。他の人が持っている機体を少し使わせて貰っただけなので、細かなチェックまではしていないが、およそケータイで書きそうな文章をよく研究してあって、一般的な使用法なら入力の手間はかなり減るのではないかと思えた。「メ」を入力すると、幾つかの変換候補が表示されるがトップは「メールアドレス」で、それを選ぶと次に続く言葉の候補例トップは「変わりました」だったりする。要するに機体が選んでくる変換候補を繋いで行くだけで、文章が出来てしまう。それが自分の書きたい文章と一致する確率がかなり高いのだ。テンキーでの入力はキーボードに比べてかなり効率が落ちるが、これはそれを補う試みとして面白い。PDAとかにも応用できると思う。
 しかし、どうやってケータイでの言語表現行為サンプルを収集したのだろうか(あるいは変換パターンそのものもサンプリングにもとづかないアルゴリズムの産物なのか)。それが分かるとこの技術の可能性や限界についてももう少し突っ込んだ話が出来ると思うのだが。メモリーやCPUの技術革新は、機械言語処理を変形生成文法的な「生成」の視点ではなく、大量のパターンとマッチングさせてゆく「選択」の視点によるシステム作りへとシフトさせていると聞くが、ここでもそうした変化が反映しているのだろうか。こういう日本語言語表現の実情に鋭く迫ろうとする技術革新を目の当たりにすると、調べてみたい好奇心がうずく。ソニーで言語処理というと、かの北野<ロボカップ>博士をすぐに思ってしまうが、もしかしてこれも彼の仕事?
 先に『メディアとしてのワープロ』のことを書いたけれど、あの本以降、日本語の電子化について、文化論的な考察をしたものがあっただろうか。ぼくがデジタル系テクノロジーライターに対して深い幻滅を感じているのは、そうした仕事をしようとしないし、する力もないことだ。

近刊、最近の仕事など 投稿者:武田徹  投稿日: 3月26日(火)02時59分20秒

95年にぼくは主著の単行本4冊(翻訳含む)と共著10冊というとんでもない刊行数を実践した経験があるが、年末まで働いて、さぁ、休暇だと思った瞬間にぎっくり腰になり、立ち上がれなくなって文字通りしっかり寝正月になった。
今年は14冊まではいかないけれど、たぶん3−4冊の主著(翻訳含む)が出せるのではないかと思う。加えてテレビ関係もやっているし、大学とかもあるし。おかげでこんな時間までゲラを見て、まだ終わっていない。明日は「戦争とメディア」のシンポなのにー。でもここでふんばれば4月にはハミルの『新聞ジャーナリズム』が出せる。もう装丁デザインも出来ていて、最後のツメである。請御期待。

しかし、冊数は95年よりも減っているが、体力も減っているので、やっぱりなんかお恥ずかしい結果に至るのだろうか。ちょっと不安な日々。忙しくなると太るというのも前にはなかった傾向だ。デブ「若手」文化人の仲間入りは絶対したくない。

NAVI『車輪の下のリアリティ』一回目掲載(ただし隔月連載。理由は前述)。読んで下さいね。しかし、そこらのコラムよりもたくさんの分量を書いてるんだから目次に名前ぐらい乗せてちょーよ>編集部。

公共充電池ってどうよ 投稿者:武田徹  投稿日: 3月25日(月)19時37分15秒

 携帯電話の電池の消耗は確かに激しくなっている。ぼくのも二日持てばいい方だ。原因はメールだ。メールを書いている間はバックライトはつきっぱなしなので電池の消耗は激しくなる。で、携帯用小型燃料電池の開発に各社がしのぎを削っている。その現状についてはグッズプレス4月頭売りの号にレポートを書くので読んで下さい。
しかし燃料電池しかないのか、というか燃料電池であれば、どっかで燃料カートリッジを買い足すわけで、その手間を考えれば他の方法だってあるのではないか。
たとえばコンビニを電池充電場所にする。といっても今のように10分単位で充電するのではない。フル充電の電池をコンビニで買えるようにする。新しい電池を入手したら古いのをコンビニに返す。そして充電して置いて貰う。充電地を社会の共有財産にしてしまい、僅かの充電コストと、手間賃でうまく回すようにする。そうすれば電池が切れた頃にコンビニに寄って替えればいいので、電池消耗の激しい電話機でも幾らでも使い続けられる。
 しかしそんな方法が可能になるには、充電地を電話機メーカーの壁を超えて、更にはキャリアの壁も超えて共通化する必要がある。そうしないとうまく電池が回らない。今の「一機種一充電池」的な状況ではとてもじゃないが無理だ。
 競争があってこそ、技術は進化すると言われる。確かにそういう面もある。小型化競争は電池デザインで勝負が付くところがあり、メーカーが独自開発したい気持ちもわからないではない。しかしもういいんじゃないか。携帯電話、これ以上小さくならなくてもいいよ。これからはメモリーカードの使用がトレンドであり、むしろサイズは大型化するだろう。だったら次は技術の進化のために独自の電池デザインまで動員して競争するのではなく、ユーザーのメリットのために電池のような部品を共通化するステージに進んでもいいのではないか。
 共通化とかいうと企業の自由な競争に棹を射すと言うことでどこか社会主義的なイメージがある(?)のかもしれないが、そうした固定観念は捨てるべきだろう。むしろ共通化に熱心な企業の方が支持を獲て、延びて行く、そういうこともあるのであるはずだ。

メディアとしてのワープロ  投稿者:武田徹  投稿日: 3月23日(土)23時10分41秒

 ぼくには随分前に出した『メディアとしてのワープロ』という本があるのだが、それがいよいよ絶版になるという。版元のジャストシステムから連絡が来た。ぼくのような売れない作家の本はなかなか重版にならない。比較的よく売れると版元在庫がなくなるが、重版してもどれだけ売れるか疑わしいと考える版元は「在庫切れ。重版予定なし」の状態で放置し、結局、後から欲しい人が注文を出しても入手できなくなる。
 それに対して今回は在庫が版元にまだ残っているが、もはや手間をかけたくないので版元から絶版を通知してきたというケースだ。これは出版業界の慣行からして珍しい。「在庫切れ。重版予定なし」の本は大量にあるが、なかなか絶版とは言い出さない。絶版にしてしまうと、版元は出版権を放棄することになる。もし後に何かの出来事(たとえばノーベル賞を取ったりして(笑))その本が売れる可能性が出ても手が出せなくなる。そこで絶版とは言わずにそのままにしておくのだ。
 その意味でもわざわざ絶版通知をしてくるのは、ぼくにとって初めての経験だった。そして初めてはそれだけでなく、その通知状も、これって出版社のやり方か?と思った。4月7日までにに同意書を送れという手紙が配達証明付きで送られてくる。その手紙には同意書が同封されておるい、それを4月6日までに返信しない場合は、自動的に絶版に同意したものと考えるという文面まで添えてある。要するに同意書を出そうと出すまいと絶版は確定しているが、あとでもめるといやなので手続きをしっかりしておくということだ。
 こうした事務的な文面の手紙を出す習慣は出版界ではなかなか見られないものなので驚いた。
 しかし絶版にしないでくれといっても聞き入れられる雰囲気ではないし、売れないのはぼくの力足らずのせいでもあるので、絶版は仕方がないと諦める。しかし、かわいい我が子のような本なので、絶版で断裁される前に少しでも自分で引き取っておこうと思って連絡を取った(もしこの掲示板の読者のみなさんも入手したかったら最後のチャンスですぞ。書いたのはずいぶん前になったが、日本語の電子化の問題の考察は古くなっていないと思っています。あとぼくの修論の抄録が付録に付いているのもコレクターズアイテム的)。電話をすると出版部長が応対し、原価でお分けするとの返事。どうせ断裁しちゃうんだからタダでもいいだろうと思ったが、そういう決まりなのなら仕方がないと思って了承する。しかし後に本と一緒に送られてきた請求書を見てまた驚いた。原価は本の定価の70%だというのだ。70%が原価で、この上に著者印税10%に更に流通費、書店の儲け、そしてなにより出版社の儲けを載せるというのか。だとしたら、書店も出版社の儲けもとんでもなく薄くなる。ちょっとこれはおかしいと思った。
 で、もう一度確認をする。これは原価ではないのではないか?と。可能性としてひとつあるのは、著者印税が70%の原価に含まれているのではないか。しかしこれかこれでまた問題で、著者が自分が取る分の著者印税を含めた代金で版元から買うというのはおかしい。初版印税10%は既に頂いているが、それを再び版元に環流させることになってしまう。
 そうした疑問を質すと、出版部長の返事は「当時は現職ではなかったので詳しい事情は分からないが、うちは贅沢な本の作りをしていたようでそれが原価らしいのです」。
 そんなことあるのか? 常識的におかしくないか? もうひとつ驚かされたのは、絶版の条件として、ぼくはデータを提供して貰えないかとお願いしてみた。データがあれば、ぼくのサイトからでも、青空文庫のようなところからでも本の内容が提供でき、絶版後にも参照したい、読んでみたいという人の期待に応えられる。ジャストなら、電子出版に当然関心も知識を持っているはずだと思い、あえてお願いをしてみたのだ。すると印刷に使ったページの画像データは印刷所が持っているので、そちらに問い合わせてくれとのこと。確かに電算写植が当然になっている今や印刷所はページの画像データを持っているのだろうが、それが欲しいわけじゃない。ぼくが欲しいのは編集者が入稿に使ったテキストデータの最終版だ。青空文庫の例を出して説明したのにわかってくれていないのだ。
 本のことを知らない人が今や本を作っていると言うことなのだろうか。
 原価の件でも納得がゆかなかったので、ぼくは最初20冊を確保しようと思ったが、冊数を半分に減らした(だって高いんだもの)。そうしたら「それくらいなら献本ということで帳簿処理する」だそうで。そりゃ、有り難い話だけど、そういう問題とはちょっと違うんですが。あくまでも適正な原価での算定を望むと言いたいところだが、何度もかみつくのもなんかクレーマーみたいだし、困ってしまった。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 3月22日(金)23時43分30秒

Kouyaさん、書き込みありがとう。

>他人を評価することは自身の評価の鏡である,ことも認識してもらえたら,講義評価
>は2重の意味で役立つと思います。

そうですね、そうあって欲しいです。期待過剰ではないと思いますよ。

さて「深い内容」についてはおっしゃるとおりの面もあるのですが、ぼくの書き方が少しまずかったところもあるようです。「深い」=「生硬」ではない場合も、相手にしたいと思っています。数学ではなく、ジャーナリズム論を例にしますと、この分野ではテキストが一面的にすぎるという問題があります。端的に言って研究畑の人の書いたものは理想主義的すぎるところがあり、現場の人が書いたものはギョーカイ的な対応集のようなもので泥臭過ぎます。それを使って教えていると、こんなきれい事では済まないんだよなとか、これはあまりにもローカルな解決法でジャーナリズムの可能性を矮小化してしまうなと思わされる経験をたびたびします。
ぼくは現場経験があり、それも個々の報道機関のやり方を越えて、公共的なジャーナリズムとは何かを常に考えながら仕事が出来る立場だったもので、理想を求めつつ、現実に実現可能な道を選ぶという、かなり微妙な選択を余儀なくされて来ました。そこでそうした経験をなんとか踏まえてテキストを敷衍したいのですが、これが案外と難しい。ケースバイケースで対応方法は違い、そうした違いを総合する大きな枠組みを構想し、呈示するためには、本当に多くの言葉が必要です。もっと時間があれば色々な角度から話をして説明したり、コミュニケーションを取りながら学生さん(ぼくも敬称にしました。確かに呼びつけはいかんですね)にも通じる言葉で表現もできるのにと思うことが多いです。
しかし、時間が足りないことを理由にそうした説明を最初から諦めるべきかというと、ぼくは初学者向けでも場合によってはやはりした方がいいと思うんですね。テキストに書いてあることは、厳しく言えば嘘です。入門者向けに整理して書かれているといえば聞こえはいいが、本来のジャーナリズムの在り方とは実は断絶がある。分かりやすく書かれていますが、ジャーナリズムはそんな小さな器に収まるものではない。初学者とはいえ、そのレベルで理解して済ませて貰っては困るのですね。特にその入門用の授業だけでジャーナリズム論から離れてしまう人が、いい加減なジャーナリズム観だけ持って社会に出ていってしまうというのは、メディアリテラシー的に問題だと思います。で、テキストをいかに敷衍するか、教員の料理方法が問われざるを得ない。
その場合、確かに教え方が生硬でいいはずはないです。全知全能を傾けて易しく説明すべきです。しかし時には、その時点での学生さんにしてみれば消化不良気味になりかねないところまで踏み込む内容であるとしても、初学者用テキストがごまかしてしまっている問題の所在だけでも知って貰い、いつかそれについて自分で考えるきっかけをつくってやることも必要ではないでしょうか。どこまでそれをやるかは、それこそ教員の能力から誠実さまでが様々な要素が問われるところなのでしょう。
で、先の書き込みでは、このように学生さんにとって知る必要があると思われる場合に消化不良を時には恐れずに、問題の深さの存在だけでも知らせる、そんな授業スタイルを取った時、授業評価でどう評価されるかのかが心配だということがが言いたかったのでした。その時点で評価できることは、授業の可能性のほんの一部なのではないかということです。
ただその一方で先に書いた「問題の深さをうまく教えられる」ような能力と誠実さを持った先生を、内容までは分からないなりにも学生さんが評価して支えることもありえるし、もちろんおっしゃるとおり、学生生活を続けるうちに可能性含みで評価できる学生さん自身の能力が伸びる面もあるでしょう。それについては教員の側からそうした能力を評価することでコミュニケーションを取って、よい方向に進めて行くことも出来ると思いますし、授業評価と一言で言っても、そこに関わる様々なファクターは結構多いのだと思っています。先の書き込みは少し単純でしたね。反省します。

Re: 授業評価 投稿者:T.Kouya  投稿日: 3月22日(金)12時30分19秒

 いつも楽しく(?)読ませて頂いています。静岡と横浜で大学の講師をしているものです。

 私が講義を持っている大学では,それほど厳密にではありませんが,講義の評価はそれ
なりに行っています。最初のうちは「態度が悪い(もっと具体的に書いてくれよなあ)」と
か「用語が専門的過ぎる(君たちはその専門家になるために聞いていたんだろ?)」などの
言葉に過剰反応して落ち込んだりしていましたが,最近は慣れてきたせいか,全体的な数
値を見て「それほど悪くないからいいか」と,ちょっと開き直り的に捕らえるようになっ
てきました(良くない傾向・・・かな?)。

 個人的には,第三者評価というものを取り入れざるを得ない状況は理解しているつもり
ですし,思っていたよりは肯定的な意見も散見できていて,講義の評価はともすれば視野
狭窄に陥りやすい(それは専門家として必要な資質であると思ってますが)教員にとっては
プラスの面が多いと考えています。

 ご懸念の,深い内容を秘めた講義ができ辛くなる,という点についてはある程度は首肯
できます。が,入学したての学生にやたらと生硬な内容だけを押し付けるのもどうかと思
いますし,学年が進行するにつれて,学生さんもそれなりに「深い内容」を求めるように
なってきますから,あまり心配していません。講義内容にも拠ると思いますが,「深い内
容」に気がついた学生には高得点を,それなりの学生さんにはそれなりの得点を,という
ことも不可能ではないでしょうし。

 私はむしろ,講義評価によって,学生さんが「教員を評価しているのだ」としか考えら
れなくなることを心配しています。部外講師にかなり評価の高い講義をお願いした時に,
学生さんがどのような評価を下すのか,そっちのほうがハラハラドキドキものです。「A
大学では評判が良かったのに,ここでは・・・ねぇ」なんて嫌味を言われたりして。

 他人を評価することは自身の評価の鏡である,ことも認識してもらえたら,講義評価
は2重の意味で役立つと思います。・・・期待過剰かな?

http://member.nifty.ne.jp/tkouya/


村上春樹・共生論 投稿者:武田徹  投稿日: 3月22日(金)12時11分33秒

3月20日は地下鉄サリン事件の日だったので、多くのメディアではそれについての特集記事が組まれる。たいていが被害者の追跡取材だが、共同通信ニュースでは村上春樹に森達也『A2』についてのエッセーを書かせるという意欲的な試みをしていた。以下に、A2に直接触れているところより一般論の方が面白いと思ったので、個々に言及しつつ抜粋します。
****
「我々の住んでいる一般的な社会はいわば「開かれたサーキット」であるが、その社会の中にはいくつもの「閉ざされたサーキット」が並列的に存在している」と村上は書き始める。そして「逆説的な言い方だが、我々はそういう閉鎖性を呑(の)み込み許容することによって、その開放性の原理を維持しているわけだ」と。
 村上は「閉じたサーキット」を批判する。それは「一般的に言うなら、閉鎖されたサーキットにあっては、「意識の言語化」は「意識の記号化」に結びついていく傾向がある。彼らはもちろん意識の言語化に対してきわめて熱心である。しかし彼らが言語と考えているのは、言語というかたちをとった記号にすぎないことが多い。狭い緊密なサーキットの中では、情報の記号化が簡単だし、その方がずっと伝達効率がいいからだ。記号化された情報を仲間と同時的に共有することで、連帯感も強まる」傾向を持つからだとされる。それがなぜ問題かと言えば「そのような記号化は長期的にみれば、確実に個人のナラティブ=ヒストリーのポテンシャルを落とし、その自立性を損なっていく。それが小説家としての僕が彼らとの対話をとおして、かなり切実に感じたことだった。言い換えれば、それはとても危険なことなのだ」と。
 ここまではすごくよく理解できる。オウムだけでない、アムウェイだってそうですよ。
 で、本題はこうした「閉鎖的サーキット」といかに「共生」すべきかなのだが、「それに比べると我々はひどく効率の悪い、混沌(こんとん)とした社会の中に生きている。その事実は日々の新聞をごらんになれば簡単に理解できるはずだ」。「そこにある混沌は、他者として障害として排斥すべきものではなく、むしろ我々の内なる混沌の反映として受け入れていくべきものではないかと、僕は考えている。そこにある矛盾や俗っぽさや偽善性や弱さは、我々自身が内側に抱え込んでいる矛盾や俗っぽさや偽善性や弱さと実は同じものではないのか? 海に入ったときに、身体のまわりを包んでいる海水と、我々の内なる体液とが成分として互いに呼応しているように…」。
 さすがに比喩はうまいと思う。そこから結論めいた言及へ。
「そう考えていくと、我々の気持ちはいくぶん軽くなるかもしれない。我々の皮膚の内側(自己)と外側(社会)がうまく通信し始めるかもしれない。我々の抱えている個人的なナラティブが、両者のあいだを結ぶ装置としての必然性を持ち始めるかもしれない。そこに有効な出し入れが生まれ、我々の視点は複合化し、我々のとる行為はいくぶん重層化していくかもしれない」。
「我々は好むと好まざるとにかかわらず、この社会に存在するいくつもの「閉鎖されたサーキット」を自らの一部として、いくぶんメタフォリカルに、受け入れていかなくてはならないのかもしれない。もちろん犯罪は犯罪として裁かれるべきだし、教団は自らの行為の責任を引き受けなくてはならない。しかし犯罪事件の実行犯の何人かを絞首刑に処しただけで、我々の社会が内側から受けた傷は果たして癒やされるのだろうか? おそらく癒やされることはないだろうし、またそんなに簡単に癒やされてはならないだろう。我々はこれからもずっとその痛みを、自分の痛みとして引き受け、感じ続けていかなくてはならないだろう」。
「彼らを痛みとして許容すること―それがつまりは彼らと「共生する」ということの意味ではないか、と僕は考える。そのような許容をとおして我々というナラティブは厚みを増していくかもしれないし、またその集合体としての社会の組成も、同じように厚みを増していくかもしれない」。
****
『アンダーグラウンド』はおよそノンフィクションとはいえない代物だったが、こうしたエッセーは、繰り返すけれど、うまいなぁと思う。ただこの強度のエッセーを書ける作者の取材によって現実を描き出そうとした実作(UG)が破綻した(あれは閉鎖的なサーキットに墜ちた作品だと僕は思っている)のはある種暗示的で、ここで書かれていることは紙上の論理の枠を果たして超えられるのだろうか。もしそれが出来ないとしたら、このエッセーは何のために存在しているのだろう。たとえば「メタフォリカルに受け入れる」というのは耳障りが良いけれど、どういうことなのかーー。と書いて、批判めいて読まれるのは本意ではない。やはり言葉で表現する者の端くれとして、少しマジに考えてみなければと思ったのだ。

http://www.kyodo.co.jp/kyodonews/2002/aum/a2-1.html


授業評価 投稿者:武田徹  投稿日: 3月22日(金)12時09分56秒

ぼくが今、関わっている大学は二つあるのだが、その一つにちょっと気になる動きがある。この大学では学期末に授業評価をやる。学生による授業評価は、ぬるま湯につかって毎年同じ講義ノートを音読するだけの大学教員にカツを入れるなど、教育の質の向上のために必要とされ、最近では多くの大学で採用されている。
その大学もそうした試みに取り組んでいる一例なのだが、授業評価の徹底さにおいて相当特徴的ではないかと思う。たとえば授業評価のさせかたは緻密にマニュアル化されており、担当教員の直接・間接の圧力が絶対に及ばないように細かく工夫されている。たとえば教員は授業評価に立ち会えない決まりだ。学生の代表を選ぶまでに関わりだけで退席しないといけない。評価用紙を配ったり、回収したりするのは学生の代表が行い、封印して直接、教授会に提出される(そうしないと担当教員の心証を気にし、成績が悪くなるのではとか心配して正しい評価が出来なくなるからだと説明されている)。
そしてその評価の結果は集計され、相対的に評価され(つまりA−Dのようなもの。もう少し詳しいが)、グレードをつけられるし、学生の自由記述のコメントも含めて公開される。まさに教員も厳しく採点される時代なのだ。

こうして公開された評価を一番参考にしているのは現役の学生で、来年度に自分もその授業を登録するかどうかの参考にしているという。これはいいことかもしれない。大学側が制度的に公開しなくても、授業の評価や噂は広がって行く。根も葉もない噂が広がるよりも、とりあえず定量的・定性的調査として型にはまったものが利用できる方が参照する側としては役に立つだろう。

ただ、ぼくが懸念するのは学生の評価力、表現力にどこまで信をおいていいのかということだ。といっても誤解して欲しくないが、ぼくは彼らの可能性を評価している。その大学は偏差値的にも非常に高いし、海外での学習経験を積んだ学生も多く、出来る学生の能力の高さには舌を巻かされることがある。しかし、それでも学生はやはり学生であり、その社会経験には絶対年齢的な限界があるし、潜在的な才能を十分に発揮できていない生硬なところがまだまだある。事業評価はそうした彼らを通して行われている。
たとえば、いまだに解決されていない難問を熟考している最先端の数学者を、彼らはどう評価するだろうか。その教員の研究内容について彼らはもちろん理解できない。理解できないことを正しく評価するのは無理だろう。そう書くと反論が出て、学生相手の授業はそうした自分の最先端の数学研究とは別の、「教えられる」範囲のものだと言われるかもしれない。確かにそうだ。しかし、そうした「教われる」範囲の講義にしても、どこででも教われる内容だけでなく、一線の研究者でもある担当教員が日々格闘しているテーマの深さを反映した授業になっていることこそが大学教育の一つの醍醐味のはずだ。
僕自身、学生時代はその種の意味がわからず、なんだか教員が1人で逡巡しているようで退屈していた授業が、後になって、そこに踏まえられていた思索の深さを改めて発見し、唖然とした経験が何度もある。自分でも解決困難な問題と格闘した経験をつめば、他人の取り組む問題の「わからなさ」に理解を示したり、わからないなりにもその意味合いをおよそ推測したりすることも出来るだろうが、二十歳前後の大多数の学生にそこまで求めるのは無理だろう。そして授業評価用紙のを目の前にすれば正直にわかりにくかったと記すだろう。
もちろん若い学生だから見通せる本質直感のようなものもある。それを重視し、彼らの意見には大いに傾聴すべきだ。しかしその一方で彼らの「若さ」ゆえにどうしても、授業評価には限界が伴うこと、そしてそれが大学教育のある種の潜在的可能性との齟齬を来しかねないものであることも自覚しておくべきではないか。
大学側は授業評価は教員の査定には使わないとしている。しかし学生の評価が公開されるということが、教員へ心理的な影響を与えないとしたら嘘になるだろう。自分が到達できる最大限に深いテーマを視野に入れるような授業スタイルはおそらく自粛されるだろう。それは大学教育においてかけがえのないものを失うことに繋がらないか。
いかに授業評価を建設的に使うか。これはまだまだ課題が多いと言わざるを得ない。(オリジナルは21日に掲示。ちょっとあんまりな誤字が発覚したので、訂正して再掲示)。

雑報 投稿者:武田徹  投稿日: 3月19日(火)15時55分08秒

「繋がり」はあまり著者本人としてはプロモーションしなかったんだけど、先に紹介したものを含め、幾つか書評が出てきた。たとえば昨日の毎日新聞余録に拙著への言及が。で、こちらは良かったんだけど、日経ビジネスでの書評はどうしたもんでしょうか。書評なのに自分のこと書いちゃう人っているんですよね。で、この人は自分が銀行とかに届けている電話番号も携帯電話で登録していることを持ってケータイは公共性に繋がっているということの証にしたいようだが、ぼくがケータイには他者がいないと書いたのは、ちょっとそういう次元の問題とは位相が違うのではないか。実はそうした具合に自分に都合良い次元にひき付けたかたちでしか、問題を考えられないところが、若者ではなく、日本人一般(特に若者論とかケータイ論が大好きなオヤジたち)の内に向いた傾向の現れであり、斎藤美奈子さんが「ワシ」という言葉で揶揄した対象でもあるのだ。
 とはいえ、もとを糺せばぼくがちゃんと書いていないことが、ちゃんと読まれないことの原因であってそこは自省。
 余録の載った毎日新聞の一面記事はアメリカ軍の盗聴について。確かに音声だったら、海底ケーブルの増幅装置脇に潜水艦を張り付けて傍聴することも出来るかも知れない(電話会社から符号化のキーを押収できていたり、あるいは盗んでいれば)。しかしその方法では個々に暗号をかけてくるネットでのやりとりは盗聴できないんだってば。何回書いたら伝わるんだろう。唯一抜け道があるとしたら、事前に相手のパソコンへネットバスみたいなキー操作を盗み出すソフトを密かに送り込んで、公開鍵暗号をかける手順を傍聴しておけば、なんとかなるか? しかしそれにしても相手がまめにウィルスチェックとかする人だったら駄目だ。まめなウィルスチェック、まめな暗号化といったネット市民にとって模範的な行動をすればそれで公安目的の盗聴も出来なくなるところがこの問題の厄介なところなのだが、そうした複雑な構図は相手取られていない。
 次作のハミル翻訳は編集担当者Yさんの大車輪の活躍(こまかな註の整備)で刻々と完成に近づいている。これは「繋がり」とちがってぼくも積極的にプロモーションに関わるつもり。

ムネオ的とは俺のことかと角栄言い 投稿者:武田徹  投稿日: 3月18日(月)18時16分31秒

筑波学園都市への取材のバスの中で日経新聞を読んでいたら、論説委員の田勢氏が「田中真紀子は国会に宗男的な議員がまだいるというが、宗男的政治家の最たるものは、他でもない、父の田中角栄ではないか」と書いていた。これってぼくが先週のSPAで話したことと同じだ。とはいえ著作権を主張できるものではない。こんなことは歴史を省みれば誰だってすぐに分かること、教養として押さえておくべきものである。にもかかわらずそんなことお構いなしに真紀子の武勇伝に喝采を送る人が多く、真紀子自身もこれなら支持者はだませるとふんだのか、鬼の首を取ったかのように宗男(的)バッシングに明け暮れる。そんな愚かな状況に少しでも水を差そうとぼくはあえて当たり前の歴史的事実を取り上げて語った。SPAなんてきっと読んでいない田勢さんも同じだろう。
 しかし筑波からの帰り道、電車の中で前の客が読んでいる日刊ゲンダイをみると、今度は安部官房副長官がやっぱり「宗男的な者とは角栄ではないか」を述べている。これはぼくや田勢さんとは異なり、真紀子に批判された官邸側からの居直りとも思える文脈での発言だ。歴史を踏まえずに真紀子にエールなんか送っているから、こんなことまで言い出される。そこになんともこの国の貧しさがあるというところか(日刊ゲンダイ第一面見出し風)。
 で、昨日の日経新聞は真紀子が泣き、宗男が涙の会見をしたが、外務省はまだ涙を流していないと書いていた。なんでも三方一部損(でしたっけ>小泉語録)になりゃいいというものではないが、確かに外務省は逃げ切ろうとしている感じだ。この省がここまでダメになったのは、やっぱり外交官試験の弊害ではないかと思う。司法試験も難しいけれど、司法試験合格者は大学4年まで終えてから司法修習生になる。それにたいして外交官試験は3年で受かると中退しちゃう。この外交官試験一発合格、三年中退というのが、東大生の間で最高のステイタスだということを、ぼくは前に取材していて知った。つまり外交官試験は、いかに困難な課題を解くかが人間の素晴らしさのバロメータだと信じて疑わずに育ってきてしまった偏差値秀才の東大生にとって挑戦しがいのあるものであり、格好の標的になっている。
 こうした受験スタイルが確立されてしまうと、合格はしたが、さて何のために自分はここにいるのかわからないという外交官が増えてしまうことは眼に見えている。理三が難しいから受験して、いつのまにか医者になってしまった学生と同じだ。専門性を問われる試験で、専門性に対応できる学生が採用できるかといえばそうではない。試験で問われる専門性はあくまでも専門性のシミュレーションであり、シミュレーションに適性の高い学生であれば専門分野に適性がなくても合格は可能だ。で、シミュレーション上手な彼らは、外交官になった後も、彼らなりに困難な課題をみつけてその傾向を分析し、シミュレートして、挑戦を続ける。それは、人事評定であったり、出世レースであったり、大使館赴任中の蓄財だったりと多岐に及ぶのだろうが、やるべきことはたくさんあるしかしそれは外交という作業と重なるようで微妙にずれてゆく。
 今まで、それこそ宗男や、ノンキャリアの犯罪が話題になっているが。それは間違いなく氷山の一角である。ノンキャリやたたき上げの泥臭い政治家は彼らに出来る範囲でしか頂点を目指していない。それが機密費やODAをいかに使い込むかとか言うケチなものだったのから簡単な社会問題として追求されたが、彼らの先には、外交官試験突破後に見出された「頂点」を目指そうと躍起になっているキャリアの官僚達がいる。外務官僚達の頂点指向は犯罪的でないとしても、原罪的なことは間違いないのではないか。
 そしてそれは元を糺せば、付きたくて外交の仕事に就いたのではなく、日本で一番難しい試験を突破しようとしていたらいつのまにか外交官になってしまっていたという最初のボタンの掛け違いにきっと端を発しているのだ。とはいえ、ぼくは試験の難しさそのものを否定しない。過酷な受験戦争にも人を鍛えるという意味で一理あると思うし、原罪の外交官試験ぐらい通れる能力のないひ人に外交なんかまかせたくない。ただ難関を突破することが純粋目的化してゆく、一種の抽象化の傾向は、どこかで止める必要がある。「偏差値秀才的な受験方法で突破できる/偏差値秀才しか突破できない」ような選抜になりそうな時点で制度を変え、難関突破自体が自己目的化しないようにする配慮が必要だろう。時間が経つと、選抜方法を決める責任者も偏差値秀才に取って代わられ、制度疲労には歯止めがかかる機会はもはや失われる。外交官試験の方法はたしか今度変えるはずだが、果たしてうまくゆくだろうか。
 閑話休題、『鳩よ』書評サンキューでした>永江さん

 投稿者:武田徹  投稿日: 3月18日(月)01時33分21秒

 サクラは例年よりかなり早めの開花を予想されていたが、それを更に上回って早くに咲き出した。
 そういえば去年の今頃はオランダとイタリアにいて、珍しく取材もない旅行で、原稿も抱えていなかったのですっかりのんびり過ごしていたのだった。その旅では長距離の移動は飛行機だったけれど、それ以外は鉄道をよく使った。なにしろスキポール空港についてすぐにその地下にある駅から途中一度乗り換えでアイントホフェンを目指した。成田空港も地下に駅があるけれど、あれは空港専用線なのに対してスキポールはごく一般の鉄道が空港の真下を通過しているので交通の便はすごく良い。たしかフランクフルトもそうじゃなかったか。でもあそこはSバーンしか止まらないんだっけか。取材旅行だと経費が使えるのでタクシーを利用してしまうことが多く、鉄道のことはわからないままになってしまう。その点、ポケットマネーの旅行の方が遙かに現地の通になるものだ。
 スキポールだけが地下駅ですぐに地上に出る。オランダは水面下の土地が多く、ダムで海水を堰き止めているので、他のヨーロッパの国とはやや景色が異なる。しかしダムで作られた風景も内陸部に入るとなくなり、フランスに似た広大な平野の中を列車は行く。
 車窓に工場が多くなるとアイントホーフェンだ。というのもここはフィリップスの町なのだ。古い工場建築は東欧などだと異様な雰囲気があるが、豊かなオランダでは煤塵にくすんだ感じはだいぶん薄れている。それでもプレハブかと見まがう日本の工場と違い、重厚な建築物が増えて行く。
 列車で駅に近づく、そのときの昂揚した気分がぼくは大好きだ。それは飛行機の着陸前とは明らかに違う。上から見下ろす景色はどこか実感から断絶されている。船では旅したことはないのでわからないが、列車の場合、特に長距離を走る欧米の列車は駅が近づくと、ずいぶんながい距離を徐行して進み、車窓に町の景色や人々の暮らしがよく見えて、これからの旅への期待がいやがおうにも高まるのだ。
 すっかり陽が暮れ、窓という窓に懐かしい白熱灯の明かりがともっているのを見ながら長春駅に着いたときもえもいえぬ感覚があった。小雪の降る夕方にベルリンのツォー駅に着いたときには分断された都市の哀しさが満ちていた。ウィーン駅では黄色いガス燈と石畳の歩道とどこかから漏れ聞こえるワルツのBGMが出迎えてくれた。フィレンツェ・サンタマリア・ノベッラ駅、ムッソリーニ建築のミラノ中央駅、バルセロナのフランス駅。新大陸のニューヨーク・ペン駅・・・・、懐かしい駅の記憶が次々に溢れる。日本だと、門司港なんかは好きな駅だ。

個人情報保護法案 投稿者:武田徹  投稿日: 3月17日(日)11時55分02秒

個人情報保護法案の審議が今国会でなされるらしい。これは小泉内閣の支持率低下と無関係ではないと思う。支持率に支えられていた時期には少しでもそれに翳りが生じるのを避けようとした。しかしもはや支持率も下がったのだから、そろそろ自民党政権に役立ちそうなこともしようかという判断がなされたように推測する。そしてそこにはメディアの問題が影を落としてもいるのだと思う。支持率が高いうちは、大手メディアは閣僚の下半身事情を洗ったりはしない。そうすることが決して部数の上昇に繋がらないことをメディアの作り手は生理的にわきまえている(本当にそうかどうかは用チェックだと思うが、とりあえず)多くが愛している者も「いじる」のはやめようという姿勢は皇室報道から芸能報道までに通じるものだ。
小泉内閣に対してもそうだった。しかし支持率が下がり、真紀子を放逐し、宗男と紘一の問題でゆさぶられている小泉内閣は、こうなったら自分たちへのバッシングのために報道が様々な個人情報追求に動き出すと予感し、森内閣同様に個人情報保護法案の「必要性」に改めて気づいたということではないか。
今回の動きに対しては、他の報道規制的法案(人権救済、青少年保護育成)も俎上に上っていることもあって、個人情報保護法案では既に適用除外されている新聞も問題提起に熱心なことは力強い。しかしとうの出版ジャーナリズム側は宮崎学問題で疲れ、一種の燃え尽き症候群的状態のような感を覚える。宗男問題のようなおもろい報道も出来なくなるんだよといえば、今だったら世論にも支持されるのに・・・・、宗男問題はそんな戦略的な使い方をしなければ報道の価値がないのではないか。

10万突破  投稿者:武田徹  投稿日: 3月15日(金)23時31分22秒

 ゆえあって第二次大戦中のジョージ・オーウェルについて調べているのだが、当時は政治体制に選択肢があったのだと改めて思う。ソ連は健在だったし、全体主義だってまだまだ一つの選択肢だった。実際、スペイン内戦時代の経験から共産主義を徹底的に危険視するようになったオーウェルは、ヒットラーが民族ごとにスペインを分割自治させる計画を持っていると聞くと強い誘惑をそこに感じてもいる。またオーウェルはインドの独立を影に日に支持しているが、植民地側にも独立するかどうかの選択肢があった。
 そうした政治多様性がありえた時代に惹かれるのだとしたら、それはアメリカ型資本主義しかない今の世界情勢に息が詰まっているからだろう。ただ、そこにはたぶんにノスタルジーやセンチメンタリズムの毒が含まれている。現在の世界情勢について批判的である人ほどその毒に自覚的であるべきだろう。たとえばエシュロンの脅威を語る者が、技術へのリアリズムを欠いているという点で、もっともエシュロン的なものに対する抵抗力がない。グローバリズムの毒を語る者が、豊かさを背景に語ることの暴力について意識的ではないーー、そんな事例はそれこそ幾らでもあるのだから。
 さて・・・、少し留守をしている間についに10万アクセス達成。みなさんのおかげです。ありがとうございました。タイミング良い書き込み、援護射撃で、掲示板を盛り上げて下さった方々、海外や御専門の立場などからの投稿で、新鮮な視点や情報を届けて下さった方々には特に感謝します。そしてここでは特にWEBの制作管理でお世話になった方々についても改めてお礼申し上げたい。彼らはぼくのように自らの名を不特定多数に曝して活動をしていないので、ここでは名前ではなく、イニシュアルなどによる説明で替えさせていただきますが、ページの骨格を作って下さったSさん、過去ログの管理をして下さっているTさんありがとうございます。これからもよろしくお願いします。
 次の10万アクセスは改めて(サイバッチや2ちゃんとは異なる希望を感じさせる)オンラインジャーナリズムの一つのかたちの確立を目指して、がんばりたいと思います。前に書いた横断型オンラインジャーナリズムサイト確立の話も諦めずにこだわりつづけてみたいと思っています。
武田徹


書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 3月14日(木)02時23分28秒

てるてるさん。書き込みありがとう。恐縮などして頂いたらこっちがかえって恐縮します。「荒らし」を罵倒というほどの強い意味でお使いになっていないことは文脈から察しが付きますよ。ただ「荒らし」と書かれた本人はおだやかではないのではと心配になっただけです。逆にぼくの書き方が暗に批判めいて読めるようでしたらごめんなさい。

補足 投稿者:てるてる  投稿日: 3月13日(水)21時31分35秒

まったく蛇足だと思いますが……

>あの連続投稿以前に、昼間、中村哲さんを批判または非難する投稿をして削除され、
その後で、NHKの京都支局のたてこもり事件と思われることについての「名無しさん」
の投稿の転載をさらに転載して、削除されていました。

これは、+さんのことです。
私のことではありません。
まったく余計な念の入れようですみませんが、それでもやっぱり、念のため。

武田さんへ 投稿者:てるてる  投稿日: 3月13日(水)21時27分44秒

ていねいなお返事ありがとうございました。いささか、恐縮しています。

今、森岡掲示板を見に行ったところ、+さんの連続投稿は削除されていました。
武田さんがここの掲示板で紹介された、比ヤングさんのパレスチナについての意見は、
確かに、耳を傾ける価値があると思います。

ところで、森岡掲示板での連続投稿を、私は、「荒らし」といいましたが、罵倒する
つもりではなかったのです。無視するつもりでした。
ただ、あのまま連続投稿が続いたら、他の人の投稿が流されてしまうかもしれないので、
そうなったら、いつでも再掲できるように、過去ログをとって待機していました。
もともと、私は、森岡サイトの脳死・臓器移植専用掲示板の過去ログハウスというものを
作っているのです。

でも、「荒らし」と表現すること自体が、罵倒なのかもしれません。
そうだとすると、申し訳なかったか……
私としては、あのように連続投稿が続くと、意味がとれなくなるのです。
あの連続投稿以前に、昼間、中村哲さんを批判または非難する投稿をして削除され、
その後で、NHKの京都支局のたてこもり事件と思われることについての「名無しさん」
の投稿の転載をさらに転載して、削除されていました。
最初の中村哲さんについての投稿は、それまでの他の人の投稿のなかでも中村医師の
なまえが出ていましたし、議題が、同じようにアフガニスタンにいた人でも中村医師や
オバハンレポートのオバハンさんや写真家の長倉さんのそれぞれが、タリバンや
マスードやUSAの爆撃に対する評価が異なる、というような話でしたので、
関連がありました。ただその書き方が、罵倒または中傷という感じでした。

その後の投稿は、連続投稿も含めて、掲示板で話題になっていることとの関連が
読み取れず、むしろ、2ちゃんねるなどで見慣れた、NGO批判や辻元議員批判の
羅列のように思えました。
これまで森岡掲示板で辻元議員のことが話題になったこともないのに、なんでかな、
と思いました。
まあ、+さんも、夜の12時には連続投稿を終えてくれたので、過去ログが全部
流されることもなく、それなのに、おおざっぱに「荒らし」とくくるだけでは、
何も得られず、もったいないことをしてしまったのかもしれません。
でも、ああいうときには、無視してレスをつけないのが、一番だと思っていまして。
こちらでたまたま同時期に比ヤングさんのなまえが出たので、連続投稿のことを
書きましたが、武田さんほど深くも考えていませんでした。
今後は、「荒らし」という言葉を使う前に、もっとよく考えようと思います。

(出来る限り)各論で行きましょうよ    投稿者:武田徹  投稿日: 3月13日(水)10時46分58秒

てるてるさん書き込みありがとう。
見に行ってきましたが残っていましたよ。向こうにも書き込みがありましたが、ハンドルネーム「+」という人の投降内容は以前から「比ヤング」という人がしてきた主張ですし、ぼくのように事情にそう詳しくない者が見た範囲でも、書き方に連続性を感じます。しかしそれは最後の最後でわからないし、もし同一の人だとしても、そこではどういう理由かは分からないですが、「+」というハンドルで書き込んでいるわけで、だとしたら「+」というネット人格の人だと考えておく、発言への距離感というか、ゆとり?があってもいいのではないでしょうか。
(今回の投降内容がどうかという判断も含めて)犯罪領域に入ったときにはもちろん実人格が(司法権力によって)問われますが、それはまた別の話で、犯人探し的な作業はぼくは好きではないし、あまり意味もないのではないかと思います(犯人探しを誘発させるような書き込み、別のハンドルで書いて事態を混乱させているので、論理を整理するために別ハンドルが実は同一人格であることをつきとめる必要がある書き込み等々があるのは事実で、鶏が先か卵が先かの話になりますがーー)。また「荒らし」とのことですが、確かに連続投降は威圧的ですけど、同傾向のものが含まれるとはいえ、同じ文字列を重複投降しているわけではないし、これを「荒らし」とみなすことが、他の掲示板などで「比ヤング」と言う人を巡ってそれこそ「報復のスパイラル」的な状況を導いてきた事情を思うと、そうした評価にも出来る限り慎重であるべきかなと思います。
ネット上でのやりとりで求められているのは、各論から始める姿勢だとぼくは思います。注目すべき言及があれば、そこから議論を始める。比ヤングと言う人の発言をぼくが引いたのはそうした作業のつもりでした(ぼくはこのハンドルネームの人に「似非ジャーナリスト」と書かれたことがあります(笑)。ま、似非でないと自分で言えるほど恥知らずな性格ではないのでそれは謙虚に受け止めるとして、それとは別にイスラエルとパレスティナの関係についての言及は、判官贔屓的にパレスティナのテロを語る風潮がある中で傾注に値すると思いました)。もちろんその言及がなされた文脈へと視野を広げて行く必要はあります。どのような意図で発言されたものなのか。そして、それは単なるコピペではないかとか、注意深くチェックするべきです。その意味でてるてるさんが教えてくれた発言の行方も、もちろん別ハンドルとはいえ、参考にしなければならないと思います。教えてくれてありがとう!
ただ、そうした順番は逆ではない。誰それの発言だから馬鹿げていると決めつけて、テキストレベルでは注目すべき内容があっても罵倒したりするという、総論から始める姿勢をネット上でもとってしまうのはもったいないのではないでしょうか(その意味で比ヤングor+?という人の発言それ自体が実は辻本や重信の全否定に傾くかたくなさがあって、総論から始める典型になっているのですが)。
これはネット上だけではないですが、情報はモザイク状に絡まっています。部分的に賛同できるが、部分的には賛同できないという是々非々論で世界は成立しています。しかし、実世界だとそうした事情はあっても、やはり総論での評価が優先されざるをえない。田中真紀子さんがいかに良いことを言葉では言っていても、その言葉自体を父親と経世会の確執の中で評価せざるをえないとか、そういうことですね。
しかしネットでは実社会の文脈をとりあえず離れた書き込みが出来る。だからこそ部分的な賛同、部分的な対立から議論を深める姿勢を押し進める(実験的な)関わり方も出来るのであり、そうした一種「純粋議論」的な理想を(実際には理想からは程遠いドタバタぶりですが、出来る限り)求めてみる価値はあるのではないかなと、ぼくは個人的には思っています。実際、みなさんそこに微かな希望をみて書き込みをしているのではないかとも思うのですが、いかがでしょう。

メールアドレスを忘れました↓ 投稿者:てるてる  投稿日: 3月13日(水)08時49分00秒

すみません。

比ヤングさん? 投稿者:てるてる  投稿日: 3月13日(水)08時48分00秒

きのう、森岡正博さんの掲示板で、連続投稿による荒らしがありましたが、
それをやっているのは比ヤングさんだという投稿が、混じっていました。
ほんとうかしら、と思います。
武田さんが御覧になる頃には、もう、削除されているかもしれませんが。

http://6113.teacup.com/lifestudies2/bbs


戻る


[PR]アナタのウラ県民性をチェック:こっそり一人で?ワイワイ皆で?診断しょ