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LOG93
パレスティナは本当にひどいことになってきた。現地からのルポを頼みます>山森さん。以前、比ヤングというネット界ではいろんな意味で有名な人が、イスラエルに攻撃をさせる口実を与えないためにパレスティナ側からのテロは絶対にやめるべきだ、というようなニュアンスの発言をしていて、その通りの状況になってきているということか。
数日前に朝日に出ていたアメリカは核保有国に向けての核使用のシナリオを製作しているという記事もなんとも後味の悪いものだった。確かワーモンガーというのだと思ったけれど、戦争異常愛好者が増えて、その1人や二人がもはや政府高官として務めていても問題を感じなくなっているのか。
こうした動きは、その更に数日前に朝日に載っていたソンタグのインタビューとの響き合いも感じた。ソンタグは文学者の責務として現実の多様性を語るにふさわしい言葉、「単純な声に反発する」言葉を用いるべきだと考えて来た(その姿勢が大江と通じる)が、ボスニアから今に至る紛争の現場に滞在した経験から、彼女は「虐殺を停止させるには戦争もやむなし」という立場を表明した。これはソンタグにしてみれば赤面ものの「単純な意見」だろう。しかし敢えてそれを述べた(そのあたりの葛藤の軌跡は、『この時代に想う、テロへのまなざし』によく刻み込まれている)。だが、案の定というか、そうしたソンタグの姿勢は反戦平和主義者に厳しく批判されてしまった。「好戦的、反戦的の立場の違いを問わず、単純で粗暴な議論こそが問題だ」と朝日記者へのインタビューで応えていたソンタグは、おそらく自分を批判している平和主義者が自分ほど検証に検証を重ねた言葉を使っていないことを指摘する「反批判」を試みているのだろうと思う。
しかし、ノージックにも通じるソンタグの夜警国家主義的な価値観を認めるとして、どこまでの戦争を許容すればいいのか(ノージックの最小国家論とパラフレーズして言えば、それ以上でも以下でも許容できない必要最低限の「最小戦争」とはどのようなものなのか)? ソンタグは国際法他のルールの遵守を条件づけようとしているが、彼女が問題視するキューバでのアルカイダ兵捕虜の扱いだけでなく、アフガン侵攻自体がそもそもおそらく国際法的には大きく問題がある(たとえば戦争において国家以外の当事者が想定されていないし、合法的な戦争行為とするには宣戦布告がなされてないなどといった欠格条件もあるとか)し、更にどこまでの兵器なら使用を認めるのだろうか。核はないだろうと思うのだが、既にバンカーバスター爆弾とか言うのは通常兵器なのにそこらの核以上の実力を示しているらしいので線引きにまた困る。
あと全く関係ないけれど、タイトルを書いていてポルシェは911の名前を変えるつもりはないのかなと想った。ずいぶん悪名高くなってしまったから。911は確か最初は901だったんだけどプジョーがX0Yというような数字並びの名前のクルマを既に作っていて、クレームが付いてそれではと911になった。しかしそれがまた予期せぬテロの実行によって芳しくない数字になってしまったのは、よほdp悲運のネーミングだったのか。
駅近くで買い物中、携帯電話で捕まる。ちょっと面白げな内容だったので受けてしまったけれど、ここにも書いておきます。聞けば「ケータイのマナーとルールの標語作り」ってのをやっていて、公募から優秀作を選ぶのだそうで、その審査員をしないかという話。ぼくところに声が掛かったのはこの前の本を出したからだと思う。他の審査委員は野中ともよ、ジョージ・フィ−ルズ。中谷彰宏だそうでそうそうたるメンバーですな。この方々は毎年のレギュラー審査員で、ぼくは一回だけの参加らしい。どんな応募作が来るのだろうか。
審査員歴はぼくは少ないながらあって、前に世界都市博のシンボルキャラクターの審査をやった。これはおすぎとかコピーライターの某氏とかのメンツだった。あとニフティの10周年記念論文の審査をやったことがある。これは僕以外は佐々木かおりさんとか、ジョン・カビラとかだったな。選ぶ方をやってみると選ぶ難しさが分かる。ぼくは結構、真剣に誠意を持って審査に当たった方だと自負していて、ニフティの時も10点満点で採点する条件だったので、ぼくはフルスケールで点を付けた。その方が良い悪いが明確になると思ったからだ。しかしいざやると悩む。応募作にはそれぞれ良さがあるけれど、それを理解するのは限られた時間の中ではやはり難しく、理解できている自信はなかなか持てない。で、圧倒的に優れたものがある場合を除いて、どう審査しても不満が残る。何か重大な見落としをしているのではという気持ちがつきまとう。それでもなんとか10点の中にきとんと分布するようにした。しかし他の人はなんか80点主義というか、みんな6−9点ぐらいに散らばらせて採点している。そう付けた気持ちは実はよくわかる。選ぼうにもよくわからないので穏当な選択をするとそうなる。しかし結果として同点が多くなると、そこから優秀作を選び出すのが難しくなり、最終的にくじびきなんて妙なことにもなる。そうは頭で分かっても、80点主義の彼らの方が選ぶ難しさを踏まえて正しい態度のようにも思ったし、複雑な気分だった。
そうした選ぶ側の難しさが分かると、選ばれる側に回っても少し気分が楽になるのではないか。自分が全否定されたわけではないことが、なんとなく分かるからだ。審査員なんてどうせわかっちゃいないぜと、そっくりかえってしまうのも問題で、選ばれなかったことをせっかくだから自分を振り返る機会にするのが大事だけど、それにしても自分のどこがダメなのかわからなくて、徹底的に自信喪失してしまう度合いは減るだろう。限られた条件の中ではうまく選ばれなかったのだなと状況を察することが出来るからだ。
学生なんか若い頃から選ぶ経験をさせると、これからの人生で何度も何度も選ばれる身の彼らにとってはいいのではないかと思ったりする。
ハミル序文、解説を校正、増補する。夜に宅急便で戻す。
昼間はソンタグ『この時代に想う、テロへのまなざし』書評。大江健三郎との往復書簡が含まれている。もちろん人選は偶然の産物だったのだろうが、そういえば確かにこの二人、資質は似ているのかも知れない。表層的には言葉の選び方、レトリックが日英の言葉の相違を越えて、どこか似ている。ソンタグが文学と言うものを重く捉えているのは本書で初めて知ったが、文学の言葉たる表現のイメージが二人は共通しているのかもしれない。存在論的(とはややおおげさだけど)に言えば、戦後の時間に強く規定されているところも通じるものがあるような気がする。大江が戦後民主主義者だとすれば、ソンタグはあくまでも戦後アメリカの良識的な知識人だ。
911直後の反米的発言を撤回したことで評判を落としているように想うが、ぼくはそれは彼女なりの誠実さの現れだったと思う。大江も愚直なまでに誠実な人間だと思うが(だから俗っぽくもなる)ソンタグも自分の信念を貫いた。反テロ、反大量虐殺の姿勢を取るという大枠の中で、アメリカ政府に対して批判的でありながら、コソボへのNATO軍の侵攻や、アフガン空爆は支持するというのは彼女にしてみればスジが通っているのだろう。エルサレム賞の授賞式でイスラエルの自治区からの撤退を主張するのも。
今まで『写真論』とか『隠喩としての病』とか何冊か読んできたけれど、精密に読んだのは今回が初めてだった。そう嫌な感じはしなかった。これはもしかしたらぼくが年を取ってきたから、かもしれない。少し前までは共感していた辺見庸のほうがあざとく見えてくる。愚俗であることへの憧れ、か。
午前中は成田空港までお見送り。デミオは快調で140km/hの巡航も可能だ。これだったら、これより大きな排気量はもはやバブルだと改めて思う。以前のNAVIで前の鈴木正文編集長を筆頭に岡崎宏治氏とかカメラマンの小川義文さんとか12気筒ジャガーオーナーが4台の自前のジャガーに乗って京都に一泊旅行をする記事があって、ぼくはそれがとんでもなく不快だった。今出ているNAVIで中沢新一が言っているけれど化石燃料を大量消費する「自動車に対する愛を肯定することは出来ない」。クルマが文明の中で根源的独占を果たしてしまった必要悪のものなのだとしたら、せめて遠慮がちに乗る、控えめさこそが人間が人間らしく生きることの証ではないか。鈴木さんはENGINEに移り、この前はポルシェの試乗記で「反俗を気取りたい俗物のためのクルマ」と書いていたけれど、「反俗を気取りたい俗物」とは誰のことなのか、もう一度、僕自身を含めて自省してみる必要がある。
たとえば300km/h出るクルマで140km/hだすのと150km/hしかでないクルマで140km/hで走るのとでは余裕が違うと言うが、デミオの140km/hはストレスの貯まるような切迫感はなかった。ヴィッツとかフィットといったこのクラスの小型車に感じることだが、本当によくぞここまでと思う。むしろ300km/h出るクルマで140km/hでしか走れない方がよほどストレスフルだろう。ぼくは前に2ストのレーシーなバイクに乗っていたことがあるのだけど、バイクが速度を欲しがるというか、前へ前へ行きたがる。気が付くととんでもないスピードオーバーで、捕まって免停にもなった。このままじゃ命はともかく、免許はなくなると思って売ってしまった経験がある。
お馴染み成田の検問では、前のクルマが大使館ナンバーのレンジローバーだった。検問の警官、どうするかなと思ってみていたが、案の定、敬礼だけでフリーパスである。ま、これはまともなところであればどの国でもそうだろう(もっともまともな国だったら空港の入り口での検問が開港以来10年も20年も延々と続くこと自体がありえないがーー)。外交官は治外法権なのだ。日本の外交官の場合、そういう特権的扱いに麻痺して変になって行く人がいるから問題だが。それに検問だって日本だったら、先進国の大使館員にはルールを守るが、大使館ナンバーのクルマでも見るからに乗っているのが東南アジア人で、クルマもカローラとかだったら「トランク開けろ」とか平気で言い出しそうで、そっちのほうが怖い。
あまり知られていないけれど、たとえばタイから日本に旅行に来ようとすると結構大変だ。そりゃ風俗で働いてそのまま不法滞在に至りそうなケースだったら、日本国側もビザの発給条件をいろいろ厳しくしたい気持ちは分かるが、会社の経営者のような身元のしっかりした人が純粋に海外旅行に来る場合でも、日本側から招待状を出さないとビザが発給されないとかあるらしい。こちらからの旅行者は相当にあぶなそうな人でも大国は迎え入れてくれていることを思うと、非対称的もはなはだしい。タイ入国が大変になったらいやだけど、こうした非対称性にはちょっと義憤に駆られることがある。
これでベトナムなんかだと、むこうも入管だけは未だにしっかり社会主義しているので、金持ち日本人でも容赦されず、気分的には楽だ(これで楽というのも変な話だが)。
成田から戻りの足でそのままICUへ。恩師の先生が学士院会員になったお祝いの会に出る。スピーチをさせられたが、下手くそでやになる。なかなかうまくならない。
朝からの移動の途中、ファミレス二カ所でハミル本文朱入れ終了。あとは序文と前書きゲラ。
書評一本とNHKパネルディスカッション用資料。
桜、20日から開花だとか。異例の速さだが、
あと800>10万アクセスまで。
NAVIが終わって時間がすこし空いたので、やっとのことハミル訳文チェック。
車検に出しているクルマが予定通り仕上がらなくて、かといって足がないのも不便なので代車を出させる。この前は工場で下駄代わりに使っている営業仕様のドアとか全ててがペナペナのアルトだったので、そりゃあんまりだと思っていたが、今度はデミオ。またまた一番下のランクで、タコメーターとかない奴だけど、まぁ、このクラスの国産車の常として悪くはない。面白いかといえば全然だけど。しかし、車検通しちゃったのでまたクルマを変える機会が遠のいた。
下で公団のことを書いたけれど、ぼくは有料道路を公的組織が建設経営するのは悪くはないと思っている。財投のメカニズムとか、子法人、孫会社の組織とか奇々怪々なのは問題だが、道路は公的に運営されるべきだと思う。累積債務に関しても、金利負担だけでパンクするまでにそれを膨らませたのは問題で、即刻改善すべきだけど、有料道路という制度、通行料収入で建設費を償還するという構図自体にはあまり批判的ではない。道路が有料だということだけで、ヒステリックに反応する人が多いが、では一般道は通行料が無料だろうといっても各種の税収が注入されて道路は出来ているわけで、タダじゃない。料金の高さが嫌われるが、首都高のような道では、料金が渋滞発生をコントロールしている事情も視野に入れるべきだ(これはしかし空いているときには通じない論理で、だとしたら時価ってのもいいかも)。料金償還のプール制も非難が集中しているが、新規道路をどんどん作るための口実になるのではなく、薄く、広く償還を行うメカニズムとして正しく機能していれば問題がないと思う。
逆に民営化で手抜き工事でコストを浮かすような妙な競争をするようになったり、マイクロソフトのような独占道路企業がかってに通行料金を決めるようになったら、そっちのほうがよっぽど問題だ。こういうと公と私の対立軸がぶれていて公=官と誤解されている日本の現状ではいたずらに反感を買いがちだが、「私」で道路のような公共財産を扱うのはやはり難しいと思う。やるとしても第三者機関的なものをうまく組み合わさないと機能しないだろう。
そう考えているので、よけい最近の民営化論の勢いが気になる。公的運営の基本は変えないで、いろいろ制度疲労している道路公団、国土交通省のシステムを変えるということがベターな選択のような気がするのだが、そうした選択肢は全然考慮されない。しかし、実際には民営化の瞬間に強力な利権が成立するような、そういう民営化になるおそれはかなりある。国鉄も、NTTも、叩けば相当問題あるだろう。道路では同じ轍を踏んで欲しくない。
本四公団への税金注入要請などは確かに猪瀬さんも警告しているが要注意だ。しかしそれ以外の部分でも、公共の財産である道路を、民間企業に委ねる、質的転換には、事前に細かな戦略的な制度作りと、その過程における公正な監視が必要だろう。少なくとも、今の民営化の進捗状況はそうではあい、と思うのだ。
終日NAVI第二東名原稿。今回は猪瀬さんの特殊法人批判の仕事に随分助けられた。で、彼から教わり、原稿にも書きたかったんだけど、かみ砕いて説明するには分量的に入らなかった。でもでも、たとえば道路公団問題を考える上で踏まえておきたい点をひとつ。
それは財政投融資(財投)のこと。財投とは、郵貯、年金を原資とした資金運用のこと。税金とは異なり、政府(財務省理財局)はそれを金利付きで投融資する。一種の国営銀行だ。51年、つまりサンフランシスコ講和が実って、日本が独立を回復、今後は独力での戦後復興を遂げなければならなくなった。そこで乏しい国内資金を集中させ、なるべく効率的に復興に使う手だてが考えられた。それが財投だった。国民に郵貯に貯金をしてもらう。あるいは年金制度に加入して貰う。そのお金を政府が必要なところに投融資する。この財投はまずは製鉄など基幹産業の育成に使われ、日本の驚異的な戦後復興の原動力になった。(これも小学六年生問題と同じく知っている人はとうに知っていたのだろう。しかしぼくと同じく知らずに来た人も多かったのではないか)。
ところがーー、いまや財投の原資は増えすぎてしまった。運用残高は1955年には一兆円に満たなかったけれど、どんどん増えて85年には167兆円になった。そしてバブル崩壊があってもなお増え続けて95年には374兆円に、今や520兆円に達している。
財投原資は郵貯だったり、年金だったりする以上、金利をつけて貸し手に返さなければならない。しかし520兆円分の金利と言ったらそれだけで相当な額になる。そこで今や財投は原資の金利を捻出するために、どこかに投融資するという本末転倒した使われ方になっている。そこで貸し先として使われているのが特殊法人なのだというのが猪瀬さんの説明だ。たとえば日本道路公団は約2兆円を道路債権化するかたちで財投から借りている。道路公団が借りて、金利を付けて返してくれると言うことが財投原資の金利問題を解決する。道路公団は財投から借りれれば借りれるだけ、金利問題解決に貢献できる。となると、道路をたくさん、しかも高く造ることが、財投問題への貢献という意味では重要になる。道路建設にはやたら熱心だが利用者の方を向いていない道路公団の行動パターンは、この財投金利問題対応という観点から全て説明できるのではないかと猪瀬さんは考えている。ぼくはひとつの理由に還元するのはやや危険なようにも感じるが、猪瀬さんの説明が整合性を有していることは認めたい。
で、そんな状態に追い込まれている道路公団にはもはや期待できないから即刻、廃止、民営化すべきだとして猪瀬さんは「道路公団民営化試論」を書くわけだが、そこから先は全集『日本の近代』第一巻を一読されたし。
各論は必要だろうが、少なくとも第二東名についても、こうした特殊法人を巡る経済、政治的構造を踏まえた上で論じる必要があることは確かだろう。自動車雑誌も馬鹿みたいな試乗記、提灯記事ばかり載せて、その種の議論を避けていてはいけない。NAVIは(財投の詳細を除いて)ぼくが書いた。
『小学六年生』の取材を受けて、その時、見本誌を貰った。『小学六年生』が大人も顔負けの結構すごい編集になっているというのはもう数年前に話題になったことだけど、それは今でも続いていて、見本誌として貰った4月号でも発見が結構あった。ペイオフって71年からあった制度だったって知ってた? 1000万円分しか保護されなくなることで大騒ぎだが、全額保護するようになったことがむしろ96年からの特例措置だったって知ってた? マックOSやウィンドウズの特徴としてGUIとはよく言うけど、その反対語がCUI(キャラクタユーザーズインターフェイス)だって知ってた? ぼくは恥ずかしながらそういえばと忘れていたことに気づかされたり、あるいはそもそも無知だったりで、よぉく勉強させていただきました。つまり知識レベルが小学6年生以下だったってことだ。こんな人間が誌面上で偉そうにコメントして良いのかという疑問は残るが、それはさておき、雑誌の作り方について考えさせられた。さっきは「恥ずかしながら」と書いたけれど、たぶんぼくが知らなかったり、忘れていたことは、知識の凹凸の平均的傾向として、知らなかったという人がぼく以外にもある程度の数いると思う。
これは情報提供の仕方が知識の盲点を作ってしまうようにあらかじめ構造化されており、新聞や雑誌を読んでも触れられないデッドスポットのようなものが出来てしまっている。こうした凹凸は情報化がいかに進んでも基本的には変わらないのだろう。たとえば日本の新聞を幾ら読んでも触れられていない問題があり、それは意識にも登らずに来てしまうので、いつまで立っても対象化されえない。ところが海外の新聞でそれについて書いてあるのを読んで、青天の霹靂、初めてそんな問題があったのかと驚かされることがある。
小学六年生もそんな外国紙のようなスタンスを取れている感じがする。では、なぜ、そんなスタンスが取れるのか。おそらく学習誌は、(今では学校の勉強を取り上げたページはすっかりなくなってしまっているのだが、やはりこの年齢の読者を対象とする時の構えとして)限られた広がり、深さの範囲内で歴史的成り立ちや反対概念などを常に意識する、悪く言えば箱庭的な知識を求めがちな受験教育や初等教育の枠組みの中での思考方法に慣れており、特集記事でもその枠組みの中に現代社会的問題を位置づける結果、大人向けの新聞や雑誌とは違う情報提供の仕方が出来て、かえって大人の自覚できない無知を露呈させてはっとさせるのではないか。言ってみれば、その情報の在り方は純粋知識価値的だ。知ることだけが目的となっている。それに対して日本のマスコミ情報は情緒価値的というか、背筋が凍る話だとか、憤りを覚える話題とかが重点的に選ばれており、その意味でどれも似たようなものになる。
で、そんな情緒価値型情報社会の中で別の視覚を与えられるのであれば、受験教育モデルを、一つの問題発見法のスキームを作る上で検討してみるのも悪くないのではないか・・・・、と、ちょと考えて、そんなことを思ったんだけど、しっかり分析したら情報社会論として結構、面白い結果がでそうな気もする。
いえいえ。こちらこそ書き込みありがとう。
パレスティナについてメールをくれた知人を含めて、この掲示板でもっと踏み込んだ意見交換が出来るといいですね。今回はぼくがへたくそな紹介+コメント役をしたので話の見えにくくなってしまったように思います。
書き込んだ後、少しずつ、後悔+反省してきていました。
感情的だったし、武田さんが問題提起されてたこととずれてしまっていました・・・。
レスしていただき、ありがとうございました。
うん、ぴこたんさんの言いたいことはわかる(し、他でもない、ぼくもどちらかといえば「イスラエルの敵」的な発言をしてきた方ではある)けど、力量とか強弱関係を考慮して行動するリアルポリティクス的な姿勢と同時に、倫理的な判断として、スジのようなものをあくまでも意識する視点も大事だとは思います。「弱いものなら多少?の問題は見逃す」っていうのは、少なくとも言論の場においては出来るだけ避けるよう努力すべきことなのではないかしら。
>知人は「イスラエルはなにをしたいのか」と同時に「パレスティナ(アラファト)は何をしたいのか」が問われないのがおかしいと言う。
イスラエルの力のほうが圧倒的だから、「パレスティナが何をしたいのか」訊いたって仕方ない、って思ってしまいます。アラファトが和平を望もうが抗戦を望もうが、イスラエルが賛成じゃなかったらどうにでもひねり潰せるんじゃない、っていう感じがしてしまうんです。だいたい、アラファトを軟禁しておいて「テロを抑えることができない、努力してない」って、そりゃないでしょう、「何をしたいのか」もなにもありゃしない、って思うんですが、間違いでしょうか。
7時56分発ののぞみで京都へ。新幹線の中で仕事をしようと思ったが、花粉症で頭は重いし、眠いしで全然はなしにならない。結局、名古屋までは全面的に寝てしまった。名古屋、京都の間だけ、パソコンに入れたミニモニの音楽を聴く。明日コメントしないといけないのだ。
京都駅で妻とタイから来ている知人と落ち合って、彼のリクエストで桃山城。歴史関係に興味のある編集者なので見ておきたいと思ったらしいが、場末の遊園地と化していてがく然としている感じだった。
その後、タクシーで醍醐寺へ。つまり秀吉の花見ルートである。ソメイヨシノではなくてしだれ桜だけど。花粉症ひどくなり、昼食を済ませて醍醐寺を出たところで薬屋で薬を買って飲み足す。四条で分かれて、ぼくは河原町のエクセルシルカフェで原稿。東京と変わらない。二人は清水へ。数時間後に落ち合って祇園、建仁寺近くの料亭で懐石。むこうは仕事なのでカンパニーペイドだけど、ぼくのぶんは妻のおごり。最近、編集者にも見捨てられがちで、料亭なんてすっかり縁遠くなっているのを見るに見かねて(笑)。
もう一泊する二人を残して最終直前の新幹線で帰る。今度は結構仕事が出来たので嬉しい。と思っていたら、のぞみなのに静岡臨時停車。車内アナウンスに依れば名古屋で降りそこなった客がいたのでここで降ろすとか。相手は困っているのだろうから人助けではあるが、JRってこんなに優しかったのかと疑問にも感じる。要人か? 車内の電光掲示板でF1でトヨタ6位入賞を知る。なかなか手堅い。パレスティナの自爆テロ増加の報も。
あ、そういえば朝日書評、Thanks>斎藤美奈子さん
花粉症がひどくなってきたのか、自分の声が遠くから聞こえるように感じる。飛行機が高度を下げるときと同じだけど、あれほど顕著ではなく、しかし恒常的にそうなっている。なんか自分がここにいることの自覚が希薄に感じられたりして。なんか調子悪い。
打ち合わせとワークショップで昼間は殆ど終日、東大にいた。ワークショップではタリバン政権崩壊後、カブールで深部が6年ぶりに復刊されたことを告げた記事を元に分析。しかし細かく見て行くと新聞記事というのはやはり相当無理している。あの分量にある事件の総合像を収めること自体が無理なのだ。日本の新聞も欧米並に一本の記事を長くすることを本気で考えた方がいいのではないか。細々と報じたい気持ちも分かるが、二兎を追って一兎も得られないのだとしたら、十分に取材できた記事を載せて、それ以外を諦めるほうが潔い。妙な伝え方をするなら伝えない方がまし、というのはおおげさだけど、適材適所で他メディアにまかせてゆく姿勢も必要だろう。そんなことを考えた。
帰り道、新宿で降りて携帯電話の機種交換。昨日、液晶画面表示がおかしくなり、そのうち電源がはいらなくなる故障をして、一度はなぜか治ったけれど不安なので、機体が生きているうちに交換してしまった。ここで、いわゆるリリーフ的に間をつないでおけば次はFOMAになるのではないかとも考えている。
パレスティナ問題。掲示板だけ呼んでいる人にはわかりにくいと思うが、おとといからイスラエルとメールで連絡をしあっていて、その内容の差し障りないところだけをぼくがここに書いている。なるべく断片的にならないようには配慮しているが、わかりにくいのはご容赦を。
知人は「イスラエルはなにをしたいのか」と同時に「パレスティナ(アラファト)は何をしたいのか」が問われないのがおかしいと言う。アラファトの会見演説は英語部分とアラビア語部分がかなり違っており、アラビア語ではイスラエルがとうてい譲歩できない内容を語り、パレスティナの人々をアジるのだという。これはぼくにはわからないし、知人もヘブライ語は専門だが、アラビア語は専門外なので伝聞形でメールには書いてあった。しかしだからといって疑ってかかるのも不毛である。アラビア語が分かり、中東状況について冷静に分析できる人の意見を聞くしかない。
しかしこの2つの条件を満たす人が滅多にいないところが問題だ。アルジャジーラの放送もビンラディンの犯行声明ビデオも結局のところ、どこに真実が語られているのかわからなかった。専門家はいて翻訳は出来るのだけれど、その人の素性がわからない。中立と信頼できる人が登場するには相当の母体数が必要で、アラビア語は人数的に見て必ずしも少数言語ではないが、そうした翻訳者が出るまでには至っておらず、やはり相互の意志の疎通が極めて難しい言語だろう。そうした困難がはこういうシリアスな場面で如実に露呈する。わからないことが多すぎてまともな議論が成立しないのだ。
明日は京都。
先にパレスティナ自爆テロリストが原理主義的集団ではなく、世俗的集団の構成員になりつつあるという読売新聞の記事を紹介したらイスラエル在住の知人から原理主義と世俗という二分法はあまりに乱暴ではないかとご指摘いただいた。原理主義の定義を正確にしない議論は非常に危ういと。確かにその通りではある。それは認めるとして、ぼくは同時に読売の記者のーー宗教状況の理解は浅かったとしてもーー伝えたかったことも分かるのであって、要するにごく普通の人が自爆テロをするようになっているということでしょ。こう書くとまた「ごく普通の人」とは誰か、とか定義を問われると堂々巡りになってしまうのだけれど、そのへんは少し鷹揚に捉えて欲しい気持ちがある。要するに知りたいのはパレスティナの状況はどう変わったのか、読売記者が彼なりの語彙でこう書かざるを得なかったことに対応する状況の変化が本当にあるのかということだ。
花粉症のせいでたたでさえ少ない睡眠が更に浅くなっているせいなのか、午前中は調子がまったく出ない。結局、締め切りまでに望むレベルに達さず、そのまま入稿するという非常に不本意な仕事をひとつして(落ち込む)、その後、取材一本。猪瀬直樹事務所。帰宅後、二晩ハードだったので疲れ切り、少し寝てから立花隆『解読、地獄の黙示録』を読む。80年に諸君に書いた地獄の黙示録論が再録されていて、内容の分厚さに感服。最近批判にされられがちの立花さんだが、やはり大きな人ではある。しかし気になったのは、英語の解釈の細かさで、字幕翻訳の間違いを徹底的に洗って行くんだけど、立花さんのヒアリング能力はそんなに高いのか。以前、英語で取材しているところをTVで見たけど、その印象からだとちょっと不思議な感じだ。実はよほど英語の出来る人に聞き取って貰ってテキストベースで分析したのではないか。その協力者名が落ちているのでないか、細かいことだけど、こういうところからも立花神話が肥大していったのかもしれないと思った。
終日原稿、その間にSPAのコメントのゲラをチェックする。忙しい。一日が48時間あれば本当にいいのに。もっとまともなこと書きたいんだけど、能力不足でそこまで手が回りません。
小学五年生の取材依頼に続いて、沖縄の美原小学校と言うところからメールが来た。さてなんだろうと思ってみると、メールの中身がないじゃん? ウィルスですか>小学生。しかし添付ファイルはないし、バイト数もほぼゼロに近いし、パソコンをチェックしても感染はしてないようだし・・・なんなんでしょうね。単純に送信ミス? 他の人にも届いているメールだとしたらちょっと様子を知りたいところ。
昼間いっぱいかけてSPAのニュースコメント。一週間分の新聞と格闘するがなかなかいいコメントを拾えない。結局、夕方までかけても出来なかったが、夜は東大でジャーナリストワークショップ出席。行き帰りの電車の中ではグッズプレスの原稿を書き始める。これは明日(ってもう今日か)締め切りなんだけど間に合うかな。帰宅すると小学館の「小学六年生」編集部からミニモニ人気について解説せよと依頼メールが着いていた。意外な仕事なので嬉しい。かつて「微笑」にコメント依頼されたときに次ぐ喜び。話せばライターの人が小学六年生向けにまとめてくれるらしい。しかし小学六年生語ってどんななんだろう。
深夜にSPAの仕事を再開。キオスクで買ってきた読売夕刊にパレスティナの自爆テロリストは原理主義系から世俗系集団に重点を移行との記事を発見する。原理主義集団が選べる状況でそこに行かないというのはm明らかに原理主義的ではない人なのだろう。それが自爆テロで死ぬとは、かなり末期的状況ではないのか。アラファトの家が攻撃されたりもしているし、いったいどうなっているんだ、パレスティナは。どうするつもりなんだイスラエルは。
土日はテープ起こしに明け暮れる。ぼくはいつまでテープを起こし続けるんだろう。60になっても、70になっても作業し続けるのだろうか。テープを取らずに、自分の聞けた範囲の情報だけメモにして原稿をかけた世代の書き手たちがうらやましい。なまじ精密なジャーナリズムを、なんて考えるからろくなことはないのだ。時間ばかりかかるが、精密なのに現代とか月刊文春は起用してくれないし。きっとそういう雑誌の編集者は不正確な情報の方が好きなのだろう。しかしおいらくのテープ起こしはなんとも侘びしいが、その歳でも仕事があるというだけでも幸福かも知れない。
で、今日は朝から近所の図書館で雑誌新聞閲覧。毎月一回ニュース解説記事をSPAで書いているので横断的にメディアをチェックしなければならないのだ、大学やジャナ専があるときだと、出講ついでに図書館で作業出来るので楽なのだが休みなので結構面倒だ。しかし、ぼくはいつまでこんな調べものばかりの生活を続けるのだろうか・・・・、と同じパターンで弱音(笑)。
夕方からNスペ『変革の世紀』打ち合わせ。放映日が近づいてきたこともあって細かなツメが必要で、なんと4時間かかった。ぼくは口を開くと結構言い方がきついようなので、こういうシビアな会議でこそ遠慮してなるべく話さないようにすしていたが、最近は会議に出る事なんて滅多にないので疲れ果てる。明日は早朝から岐阜出張なのにー。
武田様
さっそくのレスありがとうございます。
リスクを分散させる現状認識と方法論については、考え方の違いがあるようですが、
技術的な情報に関しての正当性の議論は、また別の機会にさせていただこうと思います。
学習の良い機会となりました。
また、「稚気」という言葉を使って評される「背景」は、ようやく理解できたように思います。
「反定義」を読んでみるつもりです。それかた、また考えがありましたら、
投稿させていただこうと思います。おつきあいいただきまして、ありがとうございました。
>今回、坂本龍一氏が、どういう意図で発言されたのかは、読んでいません
ここまで言うんだったら読んで下さいよー(笑)。じゃないと
>これらのことを考え「石油メジャーの政策への関与を危惧し、太陽光エネルギーを主張す
>る」ことを、ただ「稚気溢れる」と一言で評してしまっていいとは思えません。
とか
>「非戦」という発想の延長に「ソーラー資源」という言葉が来るのは、ひじょうに理解できる
とまで踏み込んでは言えないでしょ。おねがいします。
資源問題が重要なのは当然のことで、しかし、大事なのはそれをどれくらい幅広い視点で考えているか、でしょう。総合的な環境負荷、コスト、現実性、法制度との兼ね合いなどなど・・・・。「太陽光はいい」「クリーンだ」「無尽蔵」云々だけじゃ済まないことはご存じの通りなのであって・・・・。坂本さんはメジャー支配への警戒感はあったが、資源問題の構造的在り方に対する視点の広がりが少なくとも『反定義』にはなかったので、ぼくは「稚気」と形容しました。ここに書いたこと、あと原典をお読みになってまたご意見をお聞かせ下さい。
これまた釈迦に説法であるかもしれないことを承知で少し敷衍すると、たとえば石油の50年枯渇説だって、非常に問題があって、可採埋蔵量を消費量で割った数字だけど、まず可採埋蔵量が相当に恣意的。コストをかけてもっと深い油井まで掘ったり、現在では使われていない質の悪い石油まで使うと言うことになると数字は大きく変わってしまう。一方の消費量も景気やコスト変動に左右される。極論すると、石油が枯渇し始めれば、値段が高くなり、普通では使えなくなって消費量が減り、結果として枯渇までのカウントダウンは引き延ばされ、ゼノンの矢のパラドックスのようにいつまでも石油がなくならないなんてこともありえる。これは極論ですが、ことほどさように資源問題を巡るパラメータは多いということの一例ですね。高くなるともちろん資源の奪い合いになったり、既得権を持っているメジャーや産油国が囲い込んだりして、それが紛争の火種になりかねないのは事実で、それを注意しなければならないのは理解していますが、その解決を今の時点でソーラーに期待を掛けることに短絡させるのはどうもという感じです。
太陽光のエネルギー利用で難しいのは、設備投資の問題や、効率の低さ、生産から廃棄物処理に至る環境負荷といろいろあって、それらが全て太陽光一本で行けない理由になりますが、その中でもやはり最大の難関は蓄電でしょう。風力、波と太陽熱起源のエネルギーに拡張しても、その問題はつきまとう。そこが解決できないと、ソーラー資源はまだまだ現実的とは言えないようにぼくは思います。たとえば蓄電は超伝導蓄電技術とかが出来ればいいのだろうが、これも変な金属を使うとなると廃棄物問題とか出るだろうし、超伝導に電力コストがかかると元の木阿弥だし。雲とか影響のない大気圏外の人工衛星で太陽光発電させて、マイクロ波で送電するとかも研究されている人はいるようですが、まだしばらくは難しそうですね。送電量が多くなると電磁波の問題もあるだろうし。地上局から送電する場合も距離が長くなるとロスが出るし。ヘルマン・シューアって人は蓄電はどう言っているんですか?
もし資源の偏在性が問題なのなら、原子力はどうですか? たとえばウランは海水から抽出できることが既に分かっていて、それまで使えばエネルギー資源的にはほぼ無尽蔵ですよ。石油がなくなってきてコストが高くなれば、海水から取ったウランによる原子力発電もおそらくコスト的に競合するでしょう。だったらこれも非戦的資源ですか? そうは思えないですよね。ぼくも一時、核融合(燃料の重水素は無尽蔵。分裂炉と違って暴走はしない。エネルギー効率は猛烈に高い)でなんとかならんかと夢をもったことがあったのですが、やはりそう簡単に技術のブレークスルーは出来そうになくて、今は国際関係の力学とか様々なファクターを見据えながら、現状で利用可能な複数の資源(太陽光を含む)を平和裏に適材適所使い分けて行き、紛争の回避は国際政治の技術でなんとかしつつ、(メジャー依存の弊害の軽減を含んで)リスクを分散させてゆくのが一番現実的なのかと思っています(それをエネルギー政策の変更というのであれば同意します。ぼくが気になるのは(気にしすぎかもしれないけれど)太陽光だけに特異的に多くの期待をかける姿勢です)。
もちろん理想を求めて技術開発や実験に取り組むのは大事なことで、ソーラー資源利用も基礎研究をどんどん進めて欲しいと思いますが、一方でひとつの方向にあまり過度な期待を掛けるのは、「理想の高さ」にかえって足を取られるような気がします。ちょっと厳しい言い方になるように思いますが、ぼくのように原子力技術の受容史を調べてきた立場から言うと、太陽光に期待をかける傾向が、原子力に無垢な期待を掛けた時代の再現のような気がしてしまうんですよ。放射線が出るし、軍事技術と紙一重の原子力とソーラーは違うんだととお思いでしょうが、未知の科学技術に対する姿勢の問題というように抽象化すると両者の相似性が気になります。で、原子力が夢のエネルギーではなかった事実を踏まえて、太陽光も今言われているような夢の技術ではなくなる可能性をも早めに織り込んで考えるべきではないかと思うんですね。こちらの言いたいことが、うまく伝わると良いのですが。