武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
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ありがとうございます 投稿者:小林賢治  投稿日: 2月24日(日)12時38分55秒

武田様
さっそくのご返答ありがとうございます。化石資源発電に比べて、現状の太陽光発電が、限界も問題もあることは理解できます。しかし、さまざまな調査でも、石油があと50年ほどで枯渇する発表されている現実を考えたとき、化石資源に依存しなくては成り立たなくなっている現在のエネルギー政策の変更を考えるのは、極めて現実的な視点だと思います。
また、「太陽光発電」を、より広く、「ソーラー資源」の活用と捉えたとき、太陽熱、バイオマス、風力、波・・とその選択肢としての現実度も大きなものとなると思います。
そして、現在の「化石資源」へのアクセスが劇的な紛争を引き起こしている90年代以降の流れ(湾岸戦争、チェチェン、そしてアフガン・・東ティモール)を見てみると、残り少なくなった資源をめぐっての争いは、今後ますます激しくなることが予想されます。
残された時間をふまえ、予想される混乱を考えると、「ソーラー資源」という選択は、エコロジー的な問題だけではなく、経済、平和政策からもきわめて、「現実的戦略」だと思います。(ここまでの考えは、多くをヘルマン・シューア『ソーラー地球経済』によっています)
今回、坂本龍一氏が、どういう意図で発言されたのかは、読んでいませんが、これらのことを考えると、「石油メジャーの政策への関与を危惧し、太陽光エネルギーを主張する」ことを、ただ「稚気溢れる」と一言で評してしまっていいとは思えません。
「非戦」という発想の延長に「ソーラー資源」という言葉が来るのは、ひじょうに理解できる気がしています。

おこたえ 投稿者:武田徹  投稿日: 2月24日(日)09時39分53秒

太陽光発電の確実(持続的利用可能)性と安全性は未だ確立されていません。釈迦に説教のような気もしますが、光がないときの蓄電をどうするか、現在の光ー電変換効率はまだまだ低く、太陽電池はかなり大きなものになるが、その製造時に発生する環境負荷問題をどうするか、光電素子の寿命はまだそう長く望めないが、その場合の廃棄物をどう処理するかといった問題は山積みなのはご存じですよね(何を読めとえらそうなことは言えませんが、たとえば太陽光発電の欠点については、原子力発電推進派の本などによく書いてあります。原子力発電推進の論理はむちゃくちゃで読むに値しない場合が多いですが、太陽光発電の欠点を指摘するところはそんなに間違っていないと思います。逆に石油依存の危うさは太陽光発電推進の本によく書いてあります。自分たちが正しいと思うことの主張はどこかイデオロオギーがかって論理性を失いがちですが、その主張の正しさを言いたいがために「仮想敵」をやっつけようとするところは、よく勉強してそれぞれの弱みを付こうとするので、案外、傾聴すべき意見があったりっします。いずれにせよ、論理の一貫性に気を付けながら読めばどんな本でも「ここまでは正しい」という領域があるはずです)。

石油への過剰依存の問題ももちろんあります。しかし、だから石油がだめだから太陽光発電にすべきだという論理は、鈴木宗男が嫌いなぶんだけ田中真紀子の支持率を上乗せしてしまうというのと似ています。どちらがより悪い(良い)かの相対的評価でダメージを減らす(メリットを増やす)現実的な戦略的選択をしつつ、同時に個々の固有の問題性も見てゆく多眼的視野を持たないとやっぱり「稚気溢れる」と言われませんか? 

おうかがい 投稿者:小林賢治  投稿日: 2月24日(日)01時45分59秒

武田様
ときどき、こちらのサイトを拝読させていただいています。
下の方での坂本龍一氏に関してのなかで、詳細をおうかがいしたいと思う箇所があり、投稿させていただきました。
>アメリカの石油メジャーの政策への関与を危惧する余り、太陽光エネルギーへのシフトを警戒心なく主張する辺りはいまだに稚気溢れているが
私は、坂本氏の意見を読んでいませんし、またファンでもありませんが、現在のエネルギー政策のあり方に、疑問を感じています。特に、日本の現状を考えた時、輸入に依存しすぎる石油と食糧は、これで大丈夫なのか、と心配になります。ここでの坂本さんの意見の詳細をしりませんが、太陽光エネルギーへのシフトを主張することが、どうして「稚気溢れる」となるのか、よろしかったら教えていただけませんでしょうか。お忙しいところを恐縮です。何を読め、というようなポイントを示していただけるだけでもけっこうです。

目指せピュリツァー章(笑) 投稿者:武田徹  投稿日: 2月23日(土)23時31分21秒

斎藤茂男さんの追悼文集『ジャーナリズムの可能性』を読んでいて仲晃さんが書いた一文の中に99年からピューリッツァー賞がオンラインジャーナリズムも評価の対象に加えたことが書いてあった。あ、そうなんだ。活字系の賞だと思っていたが。
前に東大の水越さんを訪ねてコロンビア大学ジャーナリズムスクールに行ったとき、彼に学内を案内して貰っていたんだけど、ピューリッツァー賞応募作がうずたかく積み上げられている一角があった。『サン』で近代大衆新聞ジャーナリズムを作り、イエロージャーナーリズムと悪評も買ったジョゼフ・ピュリツァーの寄付金の半分で作られたのがコロンビア大学ジャーナリズムスクールで、残りの半分がピュールツァー賞の基金になった。そんな経緯で賞の審査もコロンビア大学で行われている。ぼくが目撃した応募作品はたぶんもう審査が終わったものだったのだと思う。薄暗い一角に、応募者の思い入れがオーラのようにゆらゆらと漂っている感じで、ただならぬ印象を感じた。アメリカ人のジャーナリストは上昇志向が強く、ピュリッツァー賞もその格好の標的になっている。やる気やら思惑やら希望やらが濃縮されているのだ。
そんなピュリッツァー賞はずっと活字系ジャーナリズム、あるいは活字系の写真ジャーナリズムの賞だった。たとえば日本人では沢田教一がベトナム報道で受賞している。文字ではまだ日本人はいないんじゃないかな。ぼくが目撃したのもタイプ打ちのものや雑誌の切り抜きが多く積まれており、メディアはあくまでも「紙」だった。
しかし今やオンラインジャーナリズムでも対象になるという。マテリアルを超えても良くなったというのは、ちょっと驚き。しかし、どんな受賞歴があるのだろうか(寡聞にして知らなかったもので)。オンラインと言っても。紙新聞のオンライン版を対象にすると言うことか。それとももっと本格的にオンライン臭いもの、たとえばドラッジレポートのようなものも対象になるのだろうか。アクセス状況だとかを考慮するのか、記者の本人認証とかで問題は起きないのだろうか。この掲示板で応募したらどうなるか(笑)

近況2 投稿者:武田徹  投稿日: 2月23日(土)14時00分21秒

NAVIの仕事で、一日掛けて第二東名の工事現場を見に行く。140km/h走行の実験に使われるために先行的に掘られて既に完成しているトンネルに入ったり、橋脚の上でやじろべえ状態となり(まだ前後が繋がっていないのでーー)地上70mの高さでバランスを取っている橋桁に登った。この種の見学はいつも面白くてたまらないが、今は季節柄、スギ花粉の多くなる場所に長くいることにもなるのでそれはきつい。
帰路のクルマの中で編集部のTさんが国土交通省への取材アポを入れてくれる。後部シートで前席で彼が電話でやりとりしているのを聞いていたが、すごくしっかりしていて感心。取材もののパートナーとして安心して任せられる編集者はだんだん少なくなっている。取材先の顔色ばっかりみていたり、難易度の高い取材だと最初から諦めてしまったり・・・・。前に片山修『NHKの知力』を読んだとき、本自体は片山の企業シリーズものらしい、80点主義的でそう際だった印象はないが、中で若いディレクターがベトナム戦争当時の国防長官だったマクナマラに出演交渉をするところがあって、これはなかなか感動的だった。「おれがやらなきゃ誰が」と思って、こんな大物相手でも物怖じしない。それどころか編集後のビデオを見せろと言うマクナマラと対等にやり合ってノーチェックで合意させてしまうのだ。本人はまだまだ若輩の、それもサラリーマンだけど、まさに「おれがやらなきゃ」という意識でぶつかる。メディア関係者も公務員とは立場が違うが、公僕なのだ。取材でひるんだり、ゲラチェックを受け入れたりしちゃうときに、必要な情報が届かなくなる読者や視聴者のボリューム、重さを思い浮かべられるかどうかは分かれ道だろう。
高井戸でクルマを降りて駅まで歩く途中で古本屋を覗く。環八ぞいなので停車が難しく、いつもは自分のクルマで横を素通りしていた店。珍しく二本足であるいていたのでゆっくり見られたが、これはちょっとした大収穫。トケイヤーの「河豚計画」の訳書発見。これは原典しか持っていなかったもの。あとユリイカのアメリカのノンフィクション特集号。他にも、あれもあり、これもあったと、積年探していた本の幾つかを一つの店で発見した。古本ってどこか人を呼ぶよう面があるに思う。なんとなく胸騒ぎのようなものがして店を覗くと発見がある場合が多いように感じている。これは根拠もなくて、ちょっと神秘主義っぽいが。
帰宅後、宅急便で荒木経惟『東京日記』が届く。ご本人とは面識がないので送本頂けたのは編集者の方の采配だと思う。81年から9年分の日誌を集めたもので厚さがクロニクルと少し似ている(こっちは写真入りだけど)。もしかしたらストリートレベルから見上げた同時代風景論とでもいうことで内容も似ているというのが編集者氏の考えか。内容面はこれからチェックしますが、とりあえず落手のお礼を。

近況 投稿者:武田徹  投稿日: 2月22日(金)00時23分14秒

NHK衛星放送のインターネットディベイト番組の取材というか、企画の相談を受ける。
ケータイ電話が若者をどう変えたか、ケータイに関する新しいルール(たとえば電車の中では携帯電話を使うのをやめましょうとか)が出来るのかとかをテーマとして番組を作りたいらしい(実はここに書いていなかったが、NHKではもっと大きな番組にも関わっており、そこでも今回相談を受けたのと通じるようなテーマを扱っている。NHK内で情報共有してくれれば一度で済むのでいいんだが、大所帯なので無理なのだろう)。
相談事項から易く想像できるように担当ディレクターは『若者はなぜ繋がりたがるのか』を読んでいる。で、話を聞きに来たのだが、ぼくは、これは大きく言えば日本の近代化の問題であり、近代日本社会が公私の空間をどう設計しようとしてきたか、その公私の分離を大衆社会がどう受け入れてきたかの問題であると、ひどい大風呂敷の話し始めたので煙に巻かれたような表情をしていた。
ちょっと申し訳ないと思ったけれど、これはぼkぅなりに誠実に対応したつもりで、ぼくはこの種の問題は、現在の時制の中で局所的に考えても意味がないと思っている。僕の本の中で言えば実は『隔離という病い』を読むことが電車内のケータイ問題を考える基礎を築くうえで最も役に立つと思ったりもする。NHKの人たちはもちろん読んでいなかった。会う前に少しでも調べようとすればどんな本を書いてきたかすぐに分かるはずだが、今回の企画に近い『デジタル社会論』すらチェックできていないので、まぁ、無理もない。忙しいのは分かりけれど、ちょっと弛緩してますね。甘く見ていい相手だと思われるぼくの仕事ぶりも悪いのだけれど。

紀伊国屋の書評紙に『反定義』書評を書く。この掲示板にも書いたメッセージではなく、自分自身で人を充足させる音楽作りを目指すという坂本龍一の決意を評価した原稿を入稿し、TVをつけて見たら矢野顕子との離婚成立だとか。なんか妙なタイミングだ。

午後は60年代に世界に先駆けてカメラ用水中ハウジングを作っていた人の取材。資料が残っていない世界なので、初めて記録に残す責任を感じながら2時間かけて丁寧に聞き取りをする。記憶が薄れているのを思い出して貰いながらの取材なので疲れる。その後、夜は銀座。

ドラマとジャーナリズム 投稿者:武田徹  投稿日: 2月20日(水)00時56分57秒

ゆえあって山崎朋子さんの『サンダカン八番娼館』を再読した。これな参与型ジャーナリズムの傑作である。「からゆきさん」を取材したいと思っていた山崎さんは天草を訪ねた時まったくの偶然から元ボルネオ島のサンダカンで売春をしていた「からゆきさん」と出会い、その家に三週間滞在、濃厚な聞き取りを行う。
その結果が作品化されたものだが、偶然の出会い、取材対象となった「おサキさん」がにわかに信じがたいほど寛容で心が広く、山崎さんが「なぜ話を聞きたがっているのか」問うこともなく、もちろん疑うこともなく、家に迎え入れ、淡々と語り続けるくだり、そして彼女のからゆきさん仲間への聞き取りに於ける様々なエピソードに、それぞれ強烈なドラマ性があり、引き込まれる。山崎さんは女性史研究家とも名乗っているように、この作品もかなり学術性の高い仕事だが、読ませると言うことでも見事な出来で、ベストセラーになった事情もよく理解できる。
しかしぼくが悩むのはまさにこのドラマ性なのだ。このドラマと出会う運、あるいは能力はジャーナリストにとってどのような意味を持つのだろうか。事実は偏在している。しかしドラマティックな事実は限定されている。ドラマティックな事実と出会えるまで取材を続けることがジャーナリストの使命なのか。コマーシャリズムとの関わりで言えばドラマはあきらかに売りの要素になるし、売れる売れないと言った生臭いレベルでなくとも、ドラマがあれば人の関心を繋ぎ止められるので広く読まれる作品を作れる。しかしそこからドラマティックな事実ほど報道に値すると考えるようになるとジャーナリズムが扇情的になる流れには歯止めがなくなるようにも思える。

本探し 投稿者:武田徹  投稿日: 2月18日(月)23時19分16秒

書評の仕事をよくしているので、本屋でそのために本を探している時間が長い。しかし探すことに関しては後悔ばかりである。
書評はそれでなくても後手に回ることが多い。書評が掲載されるころには本屋店頭からその本が消えているということになりがちなのだ。そこでなるべく新しい本を旬のうちに紹介しようと心掛ける。で、面白そうな本があると奥付を確認する。そこでがっかりするのは思いのほか刊行日が古かった場合だ。要するに新刊時に見逃していたわけだ。そういう本はそこでは幸いにして在庫に収められたが、他の本屋では残っていない場合が多い。そうなるとそれを紹介した書評の読者がいざ自分で読んでみようと思っても手に入りにくい。客注を出してくれればいいが、そこまでする人はよほどの本好きか、注文で購買することに慣れている人だろう。ふつうは店頭で中身を見てから買いたいはずだ。となると、やはり書評しにくいので、奥付で少しでも古くなっていると敬遠してしまう。
しかし新刊書を探すのは難しい。平積みになっている場合が多いが、それだとかなりの部数を刷った本しか探せないことになる。大規模店はいいが、中小以下の憂いかの書店の平積みはベストセラーばかりでもはや意味を持っていない場合が多い(一部、例外的に良い本を並べてくれている本屋もある。そういうところの平積みセレクトはずいぶん刺激を与えてくれる)。しかし、新刊時から棚差しになっているような本は、見出すことが出来ないわけではないが、相当に困難だ。
そこで流通会社の新刊情報も活用する。新刊広告も目を通す。で、努力したつもりなのだがそれでもやはり見逃している。題名だけだと食指が動かないものが、実際見てみると良い本でがっかりしたりする(逆に新刊情報でネット書店で買ってがっかりということもあるのだが)。新刊時に発見していれば、いい書評が書けたし、良い本を紹介できた本をみすみす見逃していると悔やしい。
みなさんはどう本を探しているのだろうか。ああ、そうか、新刊を探さなければならない因果な仕事についているのは、悲しき書評家ぐらいのものか。ぼくも書評用ではなく、自分用に本を探すときの開放感と喜びは大きい。しかし、それにしても書評のシステム化は、前にもここに書いたけれど、なにか建設的なアイディアを出す必要があるのではないか。今のままだと良い本が報われない傾向は払拭されない。

再定義 投稿者:武田徹  投稿日: 2月18日(月)22時53分54秒

辺見庸×坂本龍一『反定義』を読む。
先に『非戦』には、辺見には見られる「原罪への自覚を伴う当事者感覚」に欠けると批判的に書いたが、この本を読む限り、坂本龍一も世界の現状をそう単純化していない様子がうかがえる(アメリカの石油メジャーの政策への関与を危惧する余り、太陽光エネルギーへのシフトを警戒心なく主張する辺りはいまだに稚気溢れているが、ま、そういう細部は目をつぶって)。
となると『非戦』が能天気な印象を与えたのは、ぼくはそこに「編集上の問題」があると指摘したけれど、これは編者としてクレジットがある坂本を宛先とする批判であるべきではなく、クレジットのない、字義通りの編集者の限界だったのかもしれない。ま、売り上げ以外、深く考えているとは思えない版元ではある。
坂本に関しては特に音楽についての再定義はさすがだと思った。
「音楽にのせて何を言うかじゃない。音楽にメッセージをのせて何かをいわせるというのはだめだと思うんです。元来ぼくはそれが嫌いなんですけれど、音楽自身がなにかをいう、つまり世界が戦争をしてるときは、みんな音楽なんか忘れていますし、音楽なんか楽しめる状況じゃない。そのときに、人類には音楽というものがあるよということを、音楽自身が訴える。ぼくたちに思い出させてくれる。それが音楽だと思う。そういうものを作りたいと、いまは痛切に思っています」
「元来ぼくはそれが嫌いなんですけれど」のくだりには、彼の最近の行動を見ていると思わず「そうだったの?」と茶々を入れたくなるが、改めて自戒を込めてこう語ってくれているのだと思いたい。

ぼくらはもう死んでいる 投稿者:武田徹  投稿日: 2月15日(金)22時31分12秒

以前ヨーロッパで狂牛病が問題になっていた頃、ぼくはこの掲示板で狂牛病を対岸の火事のように思っている日本人の「怖がらなさ」を批判した。的確に怖がり、的確に怖がらないことの重要性を寺田寅彦を引いて書いた。この国のハンセン病へのヒステリックな反応をみれば、過度の怖がらなさは一気に過度の怖がりに転じるだろうと予言した。
そして実際にそうなった。
予言は当たったとかいって自慢するつもりもない。むしろ、それでもなお考えが浅かったような気もしている。適度に怖がれることからこそ、確実な安全対策が導かれる。そのときはそう考えていた。我ながらまじめで建設的である。しかし今はもう少し諦念を持っているというか、狂牛病的なものはもはやぼくらの社会の中に織り込まれているように思ったりする。それは交通事故に遭うのと同じように、ある確率で、ぼくたちを襲うものなのではないか。自分の食べ物を自分で作れるのならいざしらず、今や農業も物流も、販売も他人任せだ。もちろんそこで「信頼」性を高めることは必要で、武部農水相は明らかにミスばかりしている。
しかしそうでなくても信頼性はある程度高められこそすれ完璧には出来ないだろう。流通にはもはや国境すらない。ヨーロッパで狂牛病が出た時点で、もはや世界中がリスクを抱え込んだのであり、地域ごとにリスクに多少の濃淡があるだけだったのに過ぎない。多くの人が関わり、これだけ便宜性を追求し、しかも私利私欲を求める資本主義の経済社会でと、条件が折り重なって行くと、これはもうそんなものだと諦めて受け入れるべきなのではないか。
肉骨粉の問題とか、流通の、たとえばラベル張り替えの問題とかいう次元ではなく(もちろんその次元で対策はありえるが)、もっと深い位相で、文明がリスク含みでしかありえないことをぼくたちは想像力の中で捉えるべきなのではないか。文明はリスクをある種の固有値として持つ。
今、先進国に一般的に流布している(と感じられる)文明観は明らかに無垢すぎるように思う。もちろんそこでまた怖がりすぎてユナボマーのようになっても問題なのだが、文明の中に宿っているリスクの固有値、それは「死」や「病」に通じるものなのだろうが、それを常に感じ取る構えのようなものが必要なのではないか。固有値の適当な値を知ること、それが大事で、低すぎる固有値を想定して社会設計すると様々な問題が起きる。リスクマネージメントが出来なくて、今回の日本の狂牛病騒動のようになったり、逆に無理にリスクを減らそうとして別の問題を持ち込んでしまう場合もあるだろう。たとえば清潔を求めすぎてハンセン病隔離をしてしまうようなものか。高すぎる固有値を想定して、過剰な警察国家にしてしまったりも嫌だし。適度に怖がる以前に、あるいはその前提条件として原罪の文明状況における固有リスクの実際値を的確に知る必要があるということだろうか・・・・。朝出掛ける前に書き始めて、青森出張の雪の中で時々考えなおして今また書き足したけれど。ちょっと抽象的でしたね。

ヒット力 投稿者:武田徹  投稿日: 2月14日(木)08時25分35秒

長田美穂さんの『ヒット力』を読んでちょっとした感慨に耽る。というのもそれはかつて僕も
連載していた日経トレンディのモノクロページでの連載をまとめた本だからだ。
すごく力が入っていると思った。最近は雑誌の送付が止まっているので読んでいないが、少なくとも初期の連載時より格段に良くなっている。ただ、これは時を追って良くなったというのではなく、雑誌掲載時から書き足して再編集した部分の出来の良さのようだ(追加部分で唯一、気になるのは、証言を拾い上げてクローズアップする編集上の工夫で、ぼくには文章のリズムを遮る感じで読みにくいと感じられた。それに、そもそもちょっと違うかなと思うのは、ぼくだったら個々人はこれほどは重視しないだろう。個々のセリフが洒落ていれば、見出しにするとか、利用するとは思うけれど、ぼくはヒットは時代や社会が作るのであって、個人はあくまでも媒介なのだと考えている。もちろん人を介してしか時代は力を実現させられないのだが、だからといって人にスポットライトを当て過ぎると、月並みなサクセスストーリーの紋切り型に書き手が誘い込まれてしまいがちで、この種のルポを社会批評として成立させなくしてしまう危険があるのだとと思う)。
逆に言うと、正直、連載当時はいまひとつだと思っていた。単に流行紹介に留まっていて、著者の思考が現実にからみついてゆく感じがしなかった。つまり、言葉がは悪いが、誰でも書ける記事だった。しかし、本にする時には、雑誌掲載時に書けなかったことを補充し、その原稿が本来、書かれるべきだった姿に戻そうと書き手は努力するものだ。だとすればこの著者は実は当初からなかなか批評的なスタンスで流行現象に迫っていたということになる。たとえばアイボの土井=天外伺朗へのアプローチなどは典型的である。しかしその批評意識は雑誌掲載時には十分に発揮されなかった。確かにソニーの顔色うかがっている小心な雑誌編集サイドは土井=天外だとは書かせないだろう。カルト資本主義化を危惧する斎藤貴男的批評を一番嫌うはずだ。そう思うと、この本がなかなか出来がいいだけに、かえって流行情報誌とかコンシュマーマガジンとか名乗っているカテゴリーの雑誌の力の衰弱を思ってしまう。記者クラブでの会見をそのまま書いたり、プレスリリースを丸写しにするだけで済ませる(それが報道の仕事として意味がないわけではないが、それだけはまずい。これはジャーナリズムとなんだとかいう議論を経ずに過酷な部数競争や広告獲得に奔走せざるをえない状況に突入してしまう新しい報道メディアほどそうで、バブル以降創刊の雑誌はちょっと情けないものが多いし、インプレスのオンラインニュースなんかに至ってはまさに「それだけ」であることに全く問題意識がなくなっている)のを発表ジャーナリズムなんて呼ぶが、それは形容矛盾で発表ジャーナリズムはジャーナリズムではない。

非戦と単独発言1 投稿者:武田徹  投稿日: 2月13日(水)00時27分06秒

掲載号の発売が終わるので『週刊読書人』に書いた、スインとクライムの区別を含む、『非戦』『単独発言』書評を再録。少し言葉を足してあります。『非戦』にはややきつい評価になっている。あれはもちろん善意の産物だとは思うけれど、(個々の寄稿の評価はとりあえず別として)全体として淡泊すぎると言うか、人を深いところで動かさない印象を感じてしまった。その理由を辺見を通して考えた見た評。
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『非戦』はアメリカ下院でブッシュの報復決議にたった1人反対票を投じたバーバラ・リーや、ペシャワール会医療サービスで活動してきた中村哲ら、40人以上による寄稿、または既発表稿の転載によって構成される。テロ撲滅を旗印にアフガニスタンに侵攻したアメリカの選択を批判、「報復は犠牲者を増すだけだ」「戦争が答えではない」「報復の連鎖に陥る愚は避けよ」というメッセージを伝える姿勢は明確だ。加えて「もしも世界が100人の村だったら」の「原作」とされるダネラ・メドウズ『村の状況報告』のグローバリズム批判や、アメリカの軍産共同体が辿って来た世界戦略の軌跡の調査、ガンジー、オノ・ヨーコらの歴史的な「平和へメッセージ」も収録し、歴史・空間的な広がりの中で「9・11」以後の情勢を見渡せるように工夫されている。
 それだけではない。『非戦』では坂本龍一を監修者に立て、村上龍にも寄稿させている。TAKURO、桜井和寿らJポップ・ミュージシャンの談話も収録した。編集サイドはこの本を国際政治おたくの慰みものに留めず、幅広い読者を得られるよう執筆者の顔ぶれにも最大限の配慮をした。
 その評判や、書店での本の動きをみる限り、そうした努力は概ね報われたと評価できそうだ。しかし・・・・、こうした出来の良い、広く受け入れられた本だったにもかかわらず、その出版で現実社会が変わったという手応え、将来きっと変わるだろうと言う確かな予感は感じられなかった。それはなぜだったのか。
 もちろん、これは『非戦』だけを責められることではない。マスメディアの主流は日米共にブッシュ、小泉支持に染まっていたが、そのカウンターである『非戦』的メッセージは、インターネットの世界で数多く唱えられていたし、街角でもインタビューを敢行すれば「戦争は解決策にならない」という意見がおそらく多数派を構成していたはずだ。にもかかわらず、その一方でブッシュ追随、アフガン制裁支持の小泉政権の支持率は9・11を挟んで殆ど変化しなかった(田中真紀子更迭で下がったが)。この分裂した状況は果たして何なのか。(下に続く)

非戦と単独発言2 投稿者:武田徹  投稿日: 2月13日(水)00時26分33秒


 そんなことを考えながら、辺見庸『単独発言』を読む。『非戦』掲載の朝日新聞への寄稿「道義なき軍事攻撃の即時停止を」はこちらにも収録されている。しかし、その印象は随分と異なる。それは前後の文脈が異なるからだ。特に興味深かったのは巻末に収録された『視えない像、聞こえない音』だ。これは死刑制度に反対する2000年6月に行われた講演の口述録なので当然、同時多発テロへの言及は一切ない。しかし、そこで繰り広げられている論考は、まさにテロ以後の現状を考える上で示唆に富んでいる。
 たとえば死刑執行プロセスの下方に行けばそれだけ死の具体性が増し、上方に遡ればのぼるほど抽象性が増すという指摘は、空爆の決定のプロセスでも同じだろう。「法務省のキャリア官僚たち、法務大臣はおそらくさほどの痛みを感じていないだろう」という件は「法務省」を「アメリカ国防総省」に、「法務大臣」を「ブッシュ」に置き換えても支障なく通用する。
 ただ辺見の場合、そうした問題を指摘するに留まらず、スイン(sin)とクライム(crime)を隔てる見方をそこで呈示する。たとえば殺人事件は犯罪として罪に問われる。この場合の「罪」はクライムだ。それに対して人間は誰もがスインにまみれていると辺見は言う。これはキリスト教の原罪を彷彿させる考え方だが、社会を安定させるために痛みなしに殺人が実践できる死刑のシステムを作り出すことから、根源的には他の生命を殺して食わずには己れが生きてゆけない生物の業にまで遡れるとすれば、特殊キリスト教に限定されない普遍性を持っていると考えられる。眼にしかと視えるものではないが、深さにおいてクライムの比ではないスインを凝視すべきだと辺見は書く。
 クライムとしての罪を問うのは司法の領分だが、こうしたスインを問うのは、たとえば音楽や文学など芸術の仕事だろう。そうでもしなければ煮ても焼いても喰えない芸術などという代物には、およそ存在価値がない。辺見はスインを相手取り、言葉の表現者としての責務を果たしている。それに対して『非戦』はどうかーー。「ブッシュやアメリカには正義がない」と強調したいがために、人間存在の全てに偏在する原罪の深さまで降りることなく、無罪性を装った位相にメッセージを留めようとする「編集」となっているように感じた。象徴的なのが坂本龍一のあとがきで、同じ「人を殺すな」のメッセージを伝えつつも「生き物を自分の利益のために殺すな」という生命のリアリズムから分離した能天気な言葉と共にそれを羅列するだけでは、スインを踏まえて死刑反対論を展開する辺見との間に、相手取るものの深さにおいて絶望的な違いがあると言わざるを得ない。
 おそらく坂本を含め、寄稿した人の多くが、他の場所では辺見同様に深い位相で人間性をえぐる仕事をしているのだろうが、『非戦』にそれは反映されていない。「アメリカとブッシュの罪を無罪のわれわれが裁く」構図を明確にした「編集」は幅広い支持を即席に得るには効果的だろうが、分かり易さとは両刃の剣で、感情により直接的に訴えるために深さを捨象した言葉は、ブッシュの演説同様、興奮と熱狂が冷めてしまえば無惨な骸と化す。
「状況の危機が言論の堕落から始まる」と述べた丸山真男を辺見は引くが、その批判の射程は、言葉を「根」から切り離すことを平然と行う『非戦』的言論が横行している現状にも実は及んでいるように思えてならない。人が誰しも担う原罪の位相にまで降り立つことなく、いかなる具体的な罪を問うても実は虚しい。それは表層的な告発の連鎖を生むに留まり、無垢な善意の産物としての戦争反対のメッセージも現実の上を滑って行くだけになる。

お言葉 ほか 投稿者:武田徹  投稿日: 2月10日(日)13時09分24秒

ちょっと多く書く時間がないので引用形でお茶を濁させて貰います。
コミックモーニングで今週から新連載になった『ブラックジャックによろしく』。研修医の主人公はバイトで街の病院に当直勤務している。修羅場と化す夜間の救急救命病棟で奮闘する救命医の献身に感動した矢先に、その病院が自由診療で儲けの多い交通事故患者しか受け入れていないことを知る。人を助ける医学とは何なのか青臭く悩む主人公に対して病院長が述べた言葉。「正しいってのは弱いことだ。強いってのは悪いことだ」。

『地獄の黙示録』完全版でジャングルの王になったカーツ大佐が、軍の命令を受けて彼を処刑に来たウィロビー大尉に述べた言葉。「裁きを求めるものはやがて敗れ去る」。これは完全版以前からあったはずだけど、今の状況だとなんとなく意味深に感じられる。

ついでに書くけど20年ぶりに『地獄の黙示録』を観たらいろいろ発見があった。コッポラはおそらくラオスとカンボジアの区別がついていない。河を登ってゆく設定だけど、川がメコンだとすれば川幅からしてカーツ大佐のいる場所はカンボジアではありえないように思う。ラオスのかなり北に行かないとあそこまで細くははならないのではないか。それとも先にも触れたが、それが実話であることを公に出来ないなんらかの事情であって、わざとずらした?

スインとクライム  投稿者:武田徹  投稿日: 2月 9日(土)00時28分23秒

辺見庸の『単独発言』を読んでいて、彼がスイン(sin)とクライム(crime)を分ける必要があると書いている箇所に激しく同意。クライムはまさに刑法の対象になる罪。スインは原罪と訳すとキリスト的だが辺見さんはもっと普遍的な意味合いで、人間が生命として自己と自己の同類を守りつつ生きる上でどうしても犯さざるをえない罪という意味で使っているようだ。そんなスインは方によって裁かれない。というよりも罪を裁く刑法自体が、社会秩序を守るために痛みを感じずに人を殺す死刑制度まで許容する、スインにまみれたものだと辺見氏は考える。
同時多発テロ以後、戦争を手段とする姿勢について批判する様々な言説が語られたが、このスインを踏まえようとしているかどうかでずいぶん印象が変わる。いわゆる「非戦」主義がきれい事として上滑りして感じられるかどうかの違いは、そこにあるように思った。この主張について興味あれば今、出ている『週刊読書人』をご覧あれ。

エンロン 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 7日(木)12時37分29秒

今日の日経には比較的まとまった量の解説記事があったけれど、それでも問題のカバーエリアがあまりに広すぎてエンロン事件の全貌は今ひとつ見えてこない。そんな状況の中でエンロン問題への関心をそらすために同時多発テロを敢えて起こさせたという説まで流れている。

たとえば田中宇さんの国際ニュース解説の2月4日付を以下に部分的に引用します。
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 アメリカ政府が911テロ事件の発生を防ぐことをわざと怠っていた可能性が大きいということを、これまで2回の記事で説明してきた。
http://tanakanews.com/c0128wtc.htm
http://tanakanews.com/c0124wtc.htm
 ブッシュ政権がそんなことをしたのはなぜなのだろう。それを考える際、参考になりそうな汚職疑惑がアメリカで起きている。昨年12月に倒産した「エンロン」をめぐる事件である。
(・・・・・)
 カリフォルニア電力危機が起きたのは、ちょうどクリントン政権からブッシュ政権に交代する時期に起きた。カリフォルニア州知事は、ブッシュ新政権に対し、連邦政府がエンロンなど売電会社に命令し、高くない値段でカリフォルニアに電力を供給させてほしい、と要請した。だが新任のブッシュ大統領は「自由市場の原則を曲げる政策をとるわけにはいかない」という立場をとり、救いの手を差し伸べなかった。
 経済問題を解決するには、自由市場の流れに任せて「自然治癒」させるのが一番いいという「自由市場主義」(新自由主義)の考えを持っている人がアメリカには多く、その考えからすると、ブッシュの方針はあながち間違いではないという評価を受けた。
 ところが、その後エンロンが倒産し、2002年に入って、ブッシュ政権とエンロンとのつながりがマスコミなどによって精査されるようになると、見方が変わってきた。ブッシュ大統領の経済面でのアドバイザーとして最も高い地位にあるホワイトハウスの首席経済顧問となったローレンス・リンゼーは、政権入りする前はエンロンの顧問をしていた人物である。
 ブッシュ政権がカリフォルニアに対して緊急対策を何もしなかったのは、電力相場の高値が続き、エンロンが儲かるようにしてあげることが目的だったのではないか、との疑惑を持たれている。
 カリフォルニアの電力危機が一段落した昨年5月、ブッシュ政権は電力危機をふまえ、アメリカのエネルギー長期政策を見直した。エンロンのような会社だけが儲かり、一般家庭が停電してしまうような事態の再発を防ぐことが政策見直しの目的であるはずだった。
 ところがここでも逆に、エンロンのさらなる利益につながる方向で新政策が定められた可能性がある。昨年4月、新政策を立案中のブッシュ政権に、エンロンのレイ会長が出した3ページ建ての要求メモの存在が、エンロン倒産後に明らかになり、その内容が実際に発表された新政策とそっくりだったことが報じられている。(・・・・) こうして立案された新エネルギー政策は、環境保護をある程度無視して発電所建設や石油・ガスの試掘をやってよいという、エンロンなどエネルギー業界にとっては朗報となる項目が盛り込まれた。その一方で、消費者団体などが求めていた、電力価格に上限を定めるプライスキャップ制をとることは、市場原理を壊すものだとして盛り込まれなかった。(・・・・)
 この新エネルギー政策を打ち出す少し前、ブッシュ政権は地球温暖化に関する京都議定書を破棄したが、議定書に盛り込まれていた二酸化炭素排出規制も、エンロンのレイ会長が以前から反対していたことである。ブッシュ政権が、これだけエンロンの言うことを聞く態勢にあったということは、京都議定書の破棄も、エンロンの要求に応じたものだった可能性がある。(・・・・・)
*****
 こうした経緯への追求の手を緩めさせるためにテロ撲滅に向けてアメリカを一丸となって奮い立たせる必要があったのでは・・・。と、なるわけだが、今の時点では確証に欠け、陰謀史観的な、深読みにすぎる印象も拭えない(もちろん田中さんもそうした未知性を孕んだ情報であることは承知の上で書いておられる。他の配信記事も含め、ネットジャーナリズムの領分をしっかりと押さえた仕事ぶりだと感心している)。ただ、いずれにせよ大きな問題ではあり、これは(特に今のアメリカの)国内ジャーナリズムでは追求ににくい部分もあるようなので、日本のメディアが本格的に取材チームを派遣するぐらいのこともあっていいのではないか。
ぼくは原発をずっと調べてきているので、エンロンと日本の電力政策との関係なんかも気になるところ。

地獄の黙示録     投稿者:武田徹  投稿日: 2月 6日(水)10時26分01秒

今、出ているSPA!の町山智浩氏による『地獄の黙示録』完全版解説記事は驚きだった。
『地獄の黙示録』はアフリカ奥地で原住民の王となった象牙職人カーツを主人公とする小説『闇の奥』をジョン・ミリアスとコッポラがベトナム戦争物に換骨奪胎させたと言われてきたが、実はアフリカを舞台とする小説ではなく、ベトナム・ラオス国境地帯で実際にあった実話に基づいていること、そして現実のカーツ大佐ことアンソニー・ポシュニーなる男は映画を超えてとんでもない人物であったことが、そこではかなり詳細に調べ上げられている。
それによればアンソニー・ポシュニーはホーチミン・ルート遮断を命じられてインドシナに派遣されたCIA特殊工作員だった。彼はラオスのジャングルに住むモン族をゲリラ兵として訓練し始めるが、それが次第にエスカレートして行く。たとえばパテトラオ(ラオス共産軍)か、北ベトナム軍の兵士を殺し、耳を持ってくれば10ドルの賞金をやろうと彼らに命じた結果、ポシュニーの住む家には大量の耳が届けられる。それを彼は誇らしげに門に飾ったという。
 山岳戦を繰り広げながら、ポシュニーは約6000人のモン族を従え、ラオス・ベトナム国境かtら更に中国国境までを転々とした。やがて彼はモン族の王妃と結婚し、本物のジャングルの王になってゆく。「あいつはジャングルの中で何をしているのだ」。心配する在ラオス・アメリカ大使館にポシュニーは「成果報告だ」として兵士の耳を送りつけたこともあった。やがてポシュニーは耳のコレクションを辞めた。モン族の中に耳のない子供を多く見るようになったからだ。カネほしさで仲間の子供の耳を売る輩がいたのだ。依頼、ポシュニーは生首だけにしか賞金を出さないことに決めた。かくして彼の部隊は本格的な首狩り族になって行く・・・・。
 町山氏は、ポシュニー氏が映画の中のカーツ大佐同様にCIAに追われたものの、多数のモン族と共にタイに亡命、さらにアメリカに戻っていまだ存命だと知り、連絡を取って断られるところまで迫っている。
 その話を読んで、自分が『地獄の黙示録』の舞台と近いところをうろついていたことを改めて知った。以前にベトナムを最初に訪ねた時、フエから17度線に沿ってラオス国境近くまで行ったことがある。それは旧ホーチミンルートを横切る行程だった。そしてラオスを訪ねた時には、モン族と直接相まみえてもいる。ポシェニーと共にタイ国境に逃れずにラオス国内に残ったが、既に投降したモン族で、彼らはルアンパパンの街で特産民芸品を売って生計を立てていた。
 しかし、そうして投降したモン族はまだごく一部で、多くが未だに山岳部に残っており、パテトラオの設立した現ラオス政権に抵抗し続けている。だからこそラオス国内を陸路で旅するのには未だに危険がある。で、ぼくもルアンパパン・ビエンチャン間はオンボロ飛行機の恐怖に駆られつつも、陸路ではなく空路で移動したという経緯があった。
 これは別に自慢するわけではなく、ベトナムの山岳部やラオスに行けば「モン族問題」には簡単に触れられる(ホーチミンシティでベトナム雑貨を買い漁っているだけの最近ブームのアジア旅行ではそれも望めないが)。そして、それがベトナム戦争の傷跡のひとつであることまでは誰にもすぐに分かるだろう。しかし、そのモン族がたった1人のアメリカ工作員によって組織化されていたということは初耳だった。しかもそれが『地獄の黙示録』として既に映画化されていたは・・・。地獄の黙示録を初めて観てから約20年以上の時がたっているが、その映画と自分がインドシナで見聞きした光景が改めて結びつく。それはとても不思議な感じがする経験だ。
 しかしそれにしてもラオス・タイ国境というのはディープな場所だ。ベトナム戦争だけでなく、第二次大戦後にもそこは中国から逃れた国民党軍が自治区を形成していた場所だ。そうした国民党軍のおそらくは末裔であり、いわゆるゴールデントライアングルの麻薬売買で権力を得たクンサーについてぼくは『偽満州国論』で少しだけど触れた。そのとき、ぜひ現地を訪れてもみたいと思ったが、いまだその夢は果たせていない。そこはなぜか桜が群生していて2月、つまり今頃に満開になっているはずなのだ。

家庭菜園と洗濯物の干し方    投稿者:武田徹  投稿日: 2月 5日(火)00時26分23秒

むのさんのことを書いたので、敗戦前後の新聞の話をもうひとつ。
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日本がポツダム宣言受諾の申し入れをスイス、スウェーデン両中立国を通じて行ったのは、1945年8月10日のことだ。それを伝える外電を新聞社は傍受していたが、極秘扱いとされていた。14日夜遅く、戦争終結の詔書が首相官邸で発表される。これによって新聞社は初めて終戦を前提とした紙面作りを余儀なくされる(それ以前はポツダム宣言受諾は「知らないこと」になっていたので、対応できなかった)。その時のエピソードとして語り継がれるのは毎日西部本社版の対応だ。終戦の詔勅を載せ、それ以外は白紙で新聞を出したのだ。「昨日まで鬼畜米英を唱え、焦土決戦を呼びかけたつづけた紙面を、同じ編集者の手によって百八十度の大転換をするような器用な真似はとうて良心が許さなかった。終戦の詔勅をはじめ公的機関の発表と推移のありのままを紙面に載せるだけが、私の良心の許す最大限だった。その結果は紙面の半分以上が白紙にならざるをえなかった」と西部本部の編集局長は回顧している。
しかし、毎日西部本社は例外中の例外だった。他の社は戦争遂行を勇ましく伝えるストック原稿がもはや使えないとなると、あわてて家庭菜園の作り方とか洗濯物の干し方と言った愚にもつかないストック原稿や写真を使って紙面を埋めたという(茶本繁正『戦争とジャーナリズム』より)。
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終戦の日の新聞そのものを見ながら書いているわけではないので、チェックは出来ていないが、この弛緩した対応ぶりが本当だとしたらちょっとすごい。後に省みられるべきだったところは戦前・戦中の翼賛報道という表層の現象だけでなく、もっと深層に潜むメンタリティというかエートスのように思ってしまう。

むの・たけじさん 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 3日(日)22時16分04秒

先に鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』を引いたので、そこからもうひとつ。敗戦を機会に朝日新聞を辞めて郷里の秋田県横手に戻り、タブロイド版の週刊新聞『たいまつ』を発行したむの・たけじについて鶴見はこう書いている。
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むの・たけじの方法上の特色は、小さい新聞に写ってからも朝日新聞入社当時に教えられたとおりに、新聞記者は足で歩いて記事を作るという信条を実行しているところである。小さな発表機関に移って妥協のない社会批判を試みる時、ジャーナリストは、同時代に完全に背をむける方向にむかいやすく、同時代のできごとについてゆくというジャーナリズム本来の機能を捨てやすい。こうしてジャーナリストは、その日その日とつきあってゆくというジャーナリストとしての至上命令を忘れて、詩人となり、思想家となり、説教家となる。そうした誘惑をしりぞけて、どんない舞台が小さくなろうと、ジャーナリストとしての本来の活動をつづけてゆくところに彼の本領がある。
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自戒を込めて読みたいところ。

さて↓のお問い合わせですが、写真について論じたものをまとめた本はないです。大学院生時代に『ロラン・バルト写真論と喚起力の意味論』という論文を書いていて、それがバルト写真論としては唯一。ただその論旨の一部はそれはこのまえのフォーカス休刊を論じた読売新聞「カーブミラー2001」で約20年ぶりに陽の目をみました。あと『流行人類学クロニクル』の巻末三章に映像ジャーナリズムを論じたものがあるのと、『20世紀の1000人』で何人か写真家を論じていますね。点在していてちょっと把捉は難しいと思います。

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