
武田徹Official Web
Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG91
写真の「自然な人間性」の件、掲示板でご返答いただきありがとうございます。
(掲示板ではすでにやや話題がずれてしまっていますね。すみません)
「カメラの前で出る「自然な人間性」」を読みとると同時に「そのカットを
選んで編集・発表するメディアの意図」も読みとりつつ映像報道を見る、
ということが視聴者に要求されるわけすね。
きっとマスメディアは「取材であることを常に視聴者に意識させる工夫」を
するどころか、より臨場感のある演出精度をますます向上させていくでしょうし、
ニュースを見るのも楽じゃないなあ、というのが正直な感想です。
(ぼくは毎日ニュースを見るために生きているわけじゃないので、
「客観中立」を信じさせてくれるメディアがあれば、ラクチンでいいなーと
思うのですが、いったん信じられなくなったものは元へは還らないですね)
追伸
武田さんのここでの写真についての話はいつも面白いです。
ぜひ、まとめて読んでみたいです。(すでにあるのでしたらぜひ
読んでみたいので失礼ながらご教示いただければ幸いです)
武田さん、お忙しい中、非常に示唆に富むご返信ありがとうございます。
> 正史を形成して行く権力。それは個別の体験をこぼれおちさせたり、無理矢理、正史に回収
> しようとする暴力的な力であり、ジャーナリズムはそれに抗うべきだということですね。
なるほど、つまり僕が言いたかったのは、そういうことでしたか!と思うくらい、的確なご指摘ありがとうございます。
僕は網野善彦さんのいくつかの著作や、船戸与一の諸作品に強く影響を受けていますから、まさに武田さんのご指摘のような想いが、抜きがたくあるのかもしれません。
少しだけ付言すれば、
> 事実を歴史的時間軸に位置づけないかたちで呈示するならよい
個人的には、ある事象を、時間軸から切り離すという行為自体が、すでにある歴史的イデオロギッシュな行為であり、それすらも「歴史性」という暴力から無縁であるとは思いません。
要するに鼻持ちならないのは、客観性・中立という無謬の立場を疑いもせず、正史の構築にチカラを貸しているマスメディアであり、どのようなものであれ、イデオロギー的色彩を帯びずに言論を公にすることはできないということに自覚的でない言論人である、ということを、蛇足ながら申し添えておきます。佐野真一、吉田司、斎藤美奈子、山崎浩一、中森明夫、など、今刺激的な文章を書いている人たちは、皆、客観中立などという寝ぼけた戯言はきっと言わないでしょう。武田さんからも彼らと同じ気概を感じています。これからも頑張ってください。
そろそろ機運は熟してきているのかなと思うことがある。
たとえば、ぼくの掲示板サイトも、このために特に取材をするわけではなく、日々の経験に基づいて書き散らし、しかも、こんなにだらしない更新ぶりだけど、結構、みなさん見て下さる。もっときっちりと取材して、まさにWEBを表現の場として腰を落ち着けて活動しているジャーナリズムサイトはかなりのアクセスになるだろう。
もしそういう個人発信のサイトを緩くグループ化して、ジャーナリズムサイトを立ち上げたら・・・・、トータルのカバレッジで、たとえば(引き合いに出してすまんですが)MXテレビ以上の発信力は今や持てるんじゃないか。MXかというなかれで、UHFだけと地上波を凌駕できる、それは結構すごいことなんじゃないか。
日本のジャーナリズムは大企業化していて、それが様々な問題を巻き起こしている。企業の論理は公共の論理と多くの場合に齟齬を来すからだ。しかし日本だと誰も疑わないジャーナリズム=企業という考え方は、実は自明ではなくて、たとえばルモンドやシュピーゲルの成立は、会社設立以前にジャーナリストの寄り合い的な意味合いがあったと聞く。ちょっとこれは要チェックだが、言いたいことは、初めにジャーナリストありきで、あとから組織がついてくるという順番だってあっていいということだ。
で、今だったらネット上でそういうことが出来るんじゃないか。ブロードバンド環境で動画も流せる。未だ未整備な放送法や許認可に縛られない段階でネット配信をばんばんやっちゃえば、政府のさせたいことではなく、ジャーナリズムのやりたいことのレベルでデファクトスタンダードを作れるかもしれない。
今はジャーナリズムサイトはそれ自体で稼いでくれるものではなく、だからこそぼくも取材までするのはなぁと正直悩むし、取材をきっちりされている人は持ち出しだろう。しかし合従連衡して、地上波TV局並のアクセス数が全体として稼げれば、広告収入だってある程度は望めるだろう。バナーはぼくは好きじゃないが、それは現在のネット社会には広告営業モデルしかなく、広告のために全てが回っているのがいやなのであって、うまくやれば今度こそジャーナリズムを支えるスポンサ−という関係が作れるかもしれない。なにしろ今まではタダでも報道していた人たちなのだから、スポンサーの圧力は怖くないはずだ。更に踏み込んで理想的には情報受益者負担となるけれと、課金はネットにはなじまないかもしれない。ただ投げ銭的なものならバナーと組み合わせて採用することもできるだろう。しかし、そうしたシステム作りも個々人のオンラインジャーナリストには荷が重い。
で、そういう個人ジャーナリズムサイトを合従連衡させる仕事に誰か名乗りを上げる人はいないだろうか。基本的には検索機能を含めた魅力的なポータルサイトの構築と、経営(できれば表現の自由と規制の問題をしっかり踏まえたネット時代に要請される新しい校閲セクションのようなものも横断的にかませたい。個人情報保護や人権被害対策セクションも政府が昨今勧めている報道陥穽三点セットのひとつとしてのそれではなく、まさに「持続的」報道のためのものとしていつかは作りたい)、そして収益を個々のオンラインジャーナリストへ取材運営費として再配分する仕事になる。言い出しっぺのぼくがやれればいいのだが、ぼくはいつまでも作り手の側にいたいし、とことん協調性がない性格だし、だらしないので無理なのだ。やっぱりこういうことは事務能力のある人じゃないと務まらないだろう。ただぼくはタイミングを見る眼には自信はあって、今なら、ネットビジネスの流れがゆるみつつもブロードバンドは普及し始めていてコンテンツは必要とされる。WEBベースならテキストと動画、静止画をジャ−ナリズムの必要に応じて配信するような(つまり放送時間が放送法で縛られていて、必要ないのに番組で埋めないといけないので、スキャンダルも報じるようなぶざまなことはしない)スタイルが取れるし、「官」の管理は後手後手に回っている。2チャンネルのような新しい(一面では暴力的な)オンラインジャーナリズムの実力ももうまくやれば取り込めるだろうしと、まさに今なら、案外、なんとかなるような気がする。もう少し後になるともう遅いかも。このタイミングに誰か・・・、いないか。
いちべぇさんへ
返答が遅れてすみません。で、これも返答と呼べるものかどうかはいささか不安ですが、「歴史による裁定」という表現にいちべえさんがひっかかるのは、そこに「権力」の関与を見ておられるからだと思います。正史を形成して行く権力。それは個別の体験をこぼれおちさせたり、無理矢理、正史に回収しようとする暴力的な力であり、ジャーナリズムはそれに抗うべきだということですね。
そうした視点は正当だと思います。現実に力によって正史は作られてきたわけですから。ぼくはこれまで書いたところで、歴史による裁定というのを、そうした権力の次元であまり強調せず、評価が定まるという面だけで語っており、そこがいちべえさんに「ちょっと待てよ」と思わせた理由だと思います。確かに政治家や、イデオロギー性の強い学者によって論じられる歴史はそうした強引な構成によっているところが多いでしょう。そして客観性を重んじるまっとうな学者のつくる歴史像でも、やはり「正史を作ろう」という欲求に裏打ちされたものである以上、みえない権力の支配下にあるといえるのかもしれない。歴史という概念自体が普遍的もっている権力を見なければならないということでしょうか。そう考えれば、正史に取り込まれない個々の人々の暮らしのありさまを記録できるジャーナリズムは歴史に抗うべき「ものだと定義することも出来るように思います。となるとジャーナリズムが「個人的な体験から歴史を照射する」マナーが問われるところで、歴史を指向せず、事実を歴史的時間軸に位置づけないかたちで呈示するならよいのですが、少しでも歴史性のようなものを意識すると歴史という権力の掌中に落ちるということにもなりかねない。良い歴史、悪い歴史ということを言い出すと、価値観、イデオロギーが問われる。
そんなことを思ったのはハルバスタムが『ベスト・アンド・ブライテスト』でジャーナリストは歴史家の目を持たなければならないと言っていて、ぼくはそれを座右の銘にしてきた。たしかにベトナム戦争報道の中ではハルバースタムの歴史認識は正しかった。しかしすっかり資本主義化し、誰もが等ドルを欲しがって狂奔している今のベトナムを見ると、「ベトナム戦争が植民地主義に対して戦う民族独立運動だった」という彼の歴史観、ホーチミンのベトナムの側に正義をみる見方は果たしてどこまで普遍性を担っていたのかと思います。もしハルバスタムが歴史云々を言い出さず、ベトナム戦争の個別の事件だけを報じていれば、こんな疑問を持たれることもなかった。ただ・・・歴史的権力への回収を嫌って、歴史を全く意識しないジャーナリストは刹那的に現象を報じているだけの気もするし・・・。悩ましいところですね。
ああ、そうか。ぼくがそう書いた部分に対してのコメントだったのですね(すまんです。自分が書いたことへのコメントにもまともに引用部分を踏まえてレスできないとは。とほほ)。なるほど。
引用面をチェックできなかったゆとりのなさの理由でもあるのですが、今、少し「火の車」状態なので、コメントいただいたことに対する検討は少し後にさせていただきますが、元の発言を書いたときに念頭に置いていた文章を引用しておきます。鶴見俊輔さんの「ジャーナリズムの思想」から
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歴史は過ぎ去ったできごとを、主として回想の次元においてとらえる。ジャーナリズムは現在起こりつつあるできごとを、それらの意味が判定できない状態において、未来への不安を含めた期待の次元で捉える。もちろん、すぐれた歴史家は、自分が扱う事件が同時代にいかなる意味の振幅をもっていたかを正確に再現する力を持つはずであるし、すぐれたジャーナリストは、今起こりつつ事件が歴史の中でどういう意味を確定的に持つか予測し得るだろう。そのかぎりにおいて歴史家の任務とジャーナリストの任務はお互いに重なる。にもかかわらず、それぞれには主なもちぶんがあることは避けがたい。ジャーナリストの活動は主として期待の次元において同時代を捉えることに向けられる。
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いちべぇ>「歴史の裁定の下り」た「事柄」とは、なんなのか
武田さん> これはぼくが「歴史的事実」と書いたことを指すと思う
ええと、「ウラが取れなかったらどうするか2」というタイトルの書き込みにある、
>ジャーナリズムは伝える使命に応えるべく、未だに歴史の裁定の下りていない事柄をも扱い、
>いわば未知性を含みながら状況を報告する作業だ。
という武田さんの書き込みからの引用です。
僕がひっかかったのは、「個人的な体験」=「未だに歴史の裁定の下りていない事柄」であると理解するならば、武田さんの意図とはきっと違うと思うのですが、個人的な体験は、すべて「歴史的事実である/ない」という一般性に回収されてしまうしかないのか?と感じられた点です。
歴史的事実とは、個人的な体験が「歴史の裁定」を受けて認められるようになったもの、というふうに感じられたので、それはちょっと違うんじゃないかなぁ、と思って書き始めたのが前回の書き込みです。相変わらず支離滅裂ですいません。
>「歴史の裁定の下り」た「事柄」とは、なんなのか。ちょっとひっかかりました。
これはぼくが「歴史的事実」と書いたことを指すと思うのですが、ぼくのイメージとしては「特定のものの見方、誰かの言語化(記号化)を介す前のナマの事実」という感じです。でも実際には「客観的事実」という(その在り方をあまり吟味されずに安易に使われる)言葉がはからずも指しているように、ナマの事実というのは理念的に過ぎず、歴史的事実の多くは、多くの人がそう認めてきた事実ということになってしまう。そのへんが「一般性に回収されてまう」ということとも関わり、ジャーナリズムが抗うべきということにもなるのでしょうが。もう少し言葉を正確に使えたら良かったんですけど、とりあえず一言だけ。
何度もお邪魔します。恐縮していただいて恐縮ですが、メアド記入漏れと、お名前変換ミス、重ねてお詫びしますです。
ドメイン名は、前の書き込みにも書いたJPNICのwhois Gatewayサービスで、所有者などが調べられます(当然jpドメインのみ)。けっこう重宝するんで、覚えておいて損はないかも。
http://whois.nic.ad.jp/cgi-bin/whois_gw
朝日の書評欄はずっと愛読しているんですが、なるほど、武田さんの挑戦の場でもあるわけですね。今後も楽しみにしています。
都内某大学でのワークショップにまつわる一連の書き込み、興味深く拝読しました。
武田さんの書き込みは、昔読んだ本多勝一の一連の著作を思い起こさせます。ルポでは、「Aは犯人だ」とは書けないが、「『Aは犯人だ』とBは言った」とは書ける。その発言をどのようなコンテクストに位置付けるか、そこにジャーナリスト精神(By 柳田邦男)が問われるんだと思います。
武田さんが「質問票」に書かれたこと、おそらく戦後ずっとジャーナリズムの世界で問題にされつづけていることなんだろうと思います。しかし、武田さんのような立場以外に、選択肢はないんじゃないか、と思うんですが。。。
奇しくも、ロス疑惑の三浦さんが、通信社の記事を配信した新聞社にも名誉毀損の責任があるという判決を勝ち取ったというニュースがありましたが、ここにも、「ウラが取れなかったときにどうするか」という方程式は当てはめることができるんじゃないかと感じます。
「語られたこと」はそのまま事実ではない、という武田さんのご意見にはもろ手をあげて賛成ですが、では「歴史の裁定の下り」た「事柄」とは、なんなのか。ちょっとひっかかりました。どこまで行っても、「語られたこと」は個人的体験を出ず、それを一般性に回収してしまうことに抗うのが、ジャーナリズムではないですか?
歴史学は、(たとえそれが色川大吉先生の民衆史のようなものであれ)、個人の体験を捨象し抽象化することに、その主眼があると思います。一方、ジャーナリズムは、個人の体験を集積し、そこから帰納的に「歴史」を照射する仕事だと思っています。照射はするけど、一般性に回収されない個別性は、保持し続けるからこそ、ルポが、時代を超えて生き残るんだと思います。
ちょっと話はズレますが、南京大虐殺の聴き書きをした本多勝一『中国の旅』は、武田さんの書き込みにあるように、「語られた事実」と「歴史的事実」を混同させないような名著だと思うのですが(その後の本多さんには少し「語られたこと」=「歴史的事実」とする見解が見られるようで、ギモンもあるのですが)、確か大月書店だったかで、唯物史観に基づく歴史研究家が中心となった団体の歴研が、本多勝一の聞き書きの仕事と、歴史記述との相違点、共通点を議論したような本が出ていて、「書かれたこと」と「語られたこと」の差異とは何か、など、歴史認識の根底にかかわる問題が提示されていたと思います。
また、テレビカメラにむかって襲いかかる安部英・帝京大学副学長の鬼気迫る表情はあくまでもカメラの前で出る「自然な人間性」だと言うこと、というご指摘にも、まったくそのとおりだと思うんですが、たとえば岡庭昇さんが実践されたような、隠し撮り(被写体にカメラの存在そのものを隠す)によって得られる「自然性」というものもあり、むしろ映像ジャーナリズムに期待するのは、そのような映像である、というのが僕の考えです。
よくある、取材するカメラの前で建前論ばかり話していた役人に「カメラ止まりました」と言った途端「実はさぁ」と本音を語りだす、それを本当はカメラを停めないで撮影を続けていた、という話に、僕は映像ジャーナリズムの可能性を感じます。
いちべえさん。あなたの書き込みが「ぼくの評そのものを否定している」とは思っていませんよ。ぼくは楽天的なので、単に短くはうまくまとめられなかったと反省しただけで、内容的には問題ないのになー、残念、と思っている。要するにうぬぼれです。そっちのほうがよっぽど問題だったりして(笑)。
朝日の書評欄は去年4月にリニューアルし、従来の書評委員方式の部分と、日経などが前からやっていた書評コラム的なものの二本立てになって、先の書評は後者です。これは文字量が400字とたいへん短く、書き手としては書評それ自体よりもその分量との戦いという性格が強くなりますが、ぼくはここでは誉めたい本だけを取り上げ、問題意識や、刊行の意義、そして内容の(一部の)的確な紹介に徹するスタイルで、実際にその本を読んだあとで、読者がううむと考えて貰えるようにどこまで勧められるかに挑戦するつもりで書いています。
で、そうした書き方におういてぼくは400字の枠に収めることには案外自信があって、他の人なら絶対におさまらない情報量を畳み込む技術を持っているつもりだったんですね。長く書ければいいのはもちろん当たり前なんだけど、400字でも技術を駆使すればなんとかなると思ってた。
でも今回はいちべえさんの直截な御印象を書いていただき、まだまだかい摘み方が不十分だったと思いました。正直、もっと精進せねばという気持ちです。ご指摘して頂き、ありがたかったのであり、お気にされることは全然ありません。むしろ↓の書き込みではこちらが恐縮します。
SPAMと返信の件は了解です。十分に参考になりましたよ。
会社から書き込めないのはなぜなんでしょうか。匿名サーバー禁止というモードで運営しているせいなのかな。
では。
相変わらず会社からは書込みできないので、プロクシ刺して試してみます。
消化不良という表現は、送信後に非常に反省しました。伝えたかったことは二点、
・朝日でのご活躍、きちんと読者である私たちに届いていますよ
・竹田さんにはもっと大きな枠で書いて欲しい
ということだったんですが、おっしゃるとおり、武田さんの評そのものを否定するようにしか読めないと、送信してから気づきました。本当にすいません。
なお、広告メールが増えたから、というのは僕の想像で、とくに根拠はありません。
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/Webcon_archive/000525183759.html
あたりを読むと(専門的な話なんで、読んでも面白くないでしょうけど)、
SPAM対策のためにエラーメールを返さない、という考えもあるようです。
この場合のSPAMは、単なる迷惑広告メールじゃなく、第三者サーバを不正中継に
利用しての大量メール送信、というぐらいで理解してください。
書き込みありがとう。編集会議はぼくはまた連載再開します。たぶん4月号(3月売り)から。
そうそう、今売りの編集会議、まさか全部林真理子だとは思いませんでしたよー。
武田さんのほか、矢崎さんや堤さんの昔話連載が好きなんですが。
最近「リーベンクイズ」という記録映画を見たんですが、下記と同じことを感じてしまいました。
「皇軍兵士」たちが中国での残虐行為を告白するんですが、最後の方で「彼らは戦後、中国で
戦犯となったが、人道的な暖かい処遇を受け、人間的良心に目覚め、自らの罪行を認めた」なんて
ナレーションが入っているんですよ。つまり証言内容にお墨付きを与えている。
こんなナレーション入れないで、ただ証言だけを淡々とながせばいいのに、と思いました。
それだけでも迫力はあるし、これだけの人たちがカメラの前でしゃべっただけで貴重なんだから。
戦後半世紀以上たっているんだから、記憶違いだってないとはいえない。
そこは別途検証すればいいと思う。そのためにも、批判に対して開かれた形で記録すべきなんだと思います(できれば、未編集フィルムにもアクセスできるようにすべきだと思う)。
ふうむ、そうですか。
広告メールの増加がエラーメールを戻さない設定を増やしている動機づけのひとつになっているという話は初耳で勉強になりました。asahi.co.jpって朝日放送だったの? まじー知らなかった。
朝日の書評の件、枠は与えられるもので、その中で最善を尽くすのがぼくはプロだと思っていますが、消化不良だってことはへたくそだったってことですよね。すまんです。
お久しぶりです。昨日の朝日の書評拝読しました。あれはもっと長く書いてもらわないと、こっちも消化不良になっちゃいます(^^;
で。お尋ねの件ですが、曲がりなりにもSEの端くれを名乗っているものですので、想像できる範囲で書いておきます。識者のコメントを待つまでの暇つぶしにどーぞ。
メール不達の場合、エラーメールが送信者へ戻ることが多いですが、戻らないこともあります。おそらくもっともメジャーな理由は、メールサーバの設定です。
ご存知のとおり、電子メールは、メールサーバが郵便局のような役割を果たしています。
武田さんの最寄の郵便局から、あて先の人の最寄の郵便局に届けられ、そこから個人へ届けられる。
ところが、あて先が不正確で配達できない場合、エラーメールを送信者へ返すことになります。エラーメールには大きく分けて二種類あります。
相手の最寄の郵便局までは届くんだけどそこから先が解らなくてとどけられない場合(@以下のドメイン名は正確、@の前のユーザ名が不正)、「相手の最寄の郵便局(メールサーバ)」が「そんな人おりません(user unknown)」という内容のエラーメールを返す場合が一つ。
もう一つは、相手の最寄の郵便局すら見つけられない場合(@以下のドメイン名が不正)で、このときは、武田さんの最寄の郵便局(メールサーバ)が「そんな住所わかりません(host unknown)」というエラーメールを返します。
で、武田さんがご経験された二つの事例が、どちらだったのか、ってのは、すぐにはわかりません。
武田さんがご利用なさってるメールサーバの管理会社に訪ねるのが一番だと思いますが、
xxx@detarame.co.jpみたいな、絶対存在しないドメイン名にメールを出してみて、「host unknown」と書かれたエラーメールが帰るなら、たまたま相手先のメールサーバがどちらも「エラーメールを返さない」という設定にしていたとも考えられます。
(存在しないドメイン名かどうかは、jpで終わるものはhttp://whois.nic.ad.jp/cgi-bin/whois_gwでチェックしてください)
ただし、asahi.co.jpは朝日放送のドメインですので、別の人のところに届いたという可能性もなくはないです。
また、考えにくいケースではありますが、From句の設定を間違っていると、エラーメールは出たんだけど、それがまたあて先不明で不達、ということも、たまにあるようです。複数のPCに環境を持っている場合などは、ご注意ください)
以前は、ほとんどのメールサーバがエラーメールを返す設定で稼動していたと思うんですが、最近は、メールのトラフィックが加速度的に増えていることと、おそらく、不特定のユーザに大量にばらまく広告メールが増えたせいで、そのエラーメールを出す処理の負荷がバカにならず、エラーメッセージは返さない、とする商用メールサーバも増えているようです。
そういう迷惑な広告メールは、From句を不正なものに設定していることも多く、上にも書いたように、エラーメールのエラーメールが不達でまたエラーメール、みたいなウルボロス的(?)状況を生み出してしまうことを避ける目的もあるんじゃないかと思います<エラーメール出さない設定の増加
ということで、
> 宛のないメールはサーバーが不達通知を返してくるというのはぼくの幻想
ではなく、各メールサーバの設定による、ということで、
> 最近、そうでもなくなったのか
そうでもないサーバが増えてきている、ということだと思います。
ビジネスでやりとりする場合、とくに重要なやりとりの場合は、「お手数ですが、お手元に届きまたら、一言メールなりお電話なりでご連絡いただければ幸いです」みたいに書き添える必要があるのかもしれません。
今回はお尋ねものではなく、お尋ねごとです。メールの不達通知について。
最近ぼくはアドレスの書き間違いで二度ほどピンチに陥った(ちょっとおおげさに書いています)。
ひとつは朝日新聞あてなんだけど@asahi.comと書くべきところを@asahi.co.jpと書いてしまった。もう一個はもっと単純で某誌編集部宛をやはり@の後でスペルミスした。と、不注意の恥を承知で告白したのは、この二通に関しては一週間経っても明らかに不達の通知が来なかったことだ。ぼくが不達の事実を知ったのは先方から「あの原稿はどうした」と言われてから。電子メールって相手が不在の場合は不達通知が比較的すぐに来るものではなかったのか。ぼくの経験ではそうだったんだけど。
メールがどこにいったか分からないのでは東浩樹の「郵便的」状況そのもので、仕事には使いにくい。
で、この場合どのような原因があるのだろうか、聞きたくてちょっと具体的に書いた。もしかしたら両方ともミスしたアドレスの宛先が実在していて、その人のところに届いちゃったから(.comを。cpmと書き間違うのとかとは違い、その可能性は少ないけれどゼロではない。でも@の前はそうよくある名前ではなかったんだけどな)か、それとも宛のないメールはサーバーが不達通知を返してくるというのはぼくの幻想で、そうでもないのか、あるいは最近、そうでもなくなったのか。更にはそれ以外の原因が推測されるのか。詳しい人、教えて下さい。
ちょっとこれはぼくも反省しているのだけれど、少し厳密に考えたい。
「自然」っていうことでカメラを意識しない、素の状態を指すとすれば。これはビデオでもスチールでも撮るのは無理でしょう。一瞬カメラを忘れると言うことはあるけれど。ビデオとスチールとで違いはあまり考えなくて良いと思います。35mmカメラとベータカムを照明つきで回す時にカメラをどちらが忘れやすいかの程度の差があるぐらいだと思う。
たとえばロラン・バルトというフランスの記号学者がいて、写真には撮影者も被写体も意識しなかったものが映りこむ。それこそが写真だけが写し取れる「自然」なのだというようなことを言っていて(ちょっとこの文脈に沿って言葉使いを変えています。詳しく彼の『明るい部屋』とか読んで下さい。「自然」ではなく、プンクトウム=刺す棘という言葉を使っています)、彼はこの記録機能を写真だけの力、写真を写真たらしめている機能だと考える。たとえばダイアン・ア−バスの撮影したフリーキーな人たちの写真を、奇形がどうしたとかいう、撮影者がその写真にこめ、見る側がそれを受け止めがちな一般的意味合いをこえて、その被写体の指に絆創膏が貼られているのを発見したりする。では、なんで映画で同じことが出来ないかというと、もちろん一コマごとにみれば写真と同じなのだけれど、見るときには時間が流れていってしまうので、そういう撮影者の意図を超える細部を発見しにくいから。写真だったらしげしげと見ていると、「こんな表情をこの時にしていたんだ」とか、「この手振りはなんだ」とか、おそらく被写体も無意識だったし、撮影者も演出したり、指示したりしなかった、その意味で「自然」な部分を発見できると言うことです。ただ、ここでして来たのはこうしたバルトの議論とはやや異質だと思う。バルトの言う「細部の自然」はジャーナリズムでは意味を持たない。それは社会的な意味から逃れて行くものでもあるから。アーバスの写真の絆創膏はジャーナリズムの対象ではないので。ここでは取材撮影において自然はないと一般的に考えることを一種のデファクトスタンダードにして良いんじゃないかと考えています。
しかし、カメラがある時にその人がどう振る舞うのか。カメラの前に出ると「自然」にどう振る舞う人なのかという捉え返しは出来ると思う。そして、そこにその人の「人間」が出るということはある。たとえばこの変な髪型のオジサンは、しかし、モデルを一躍有名にしてくれる魔法を使うシノヤマなんとかという写真家なのだから、頑張って『自然』で愛らしく写るようにしようとか考える。その結果の写真は『自然』に見えても実は人工的な演技なのだが、それでいてそのモデルの心性の自然が出ているということでもある。あるいはテレビカメラにむかって襲いかかる安部英・帝京大学副学長の鬼気迫る表情とか。これも自然ではある。
とはいえ、それらはあくまでもカメラの前で出る「自然な人間性」だと言うこと。その人について考える参考にはなるのだが、カメラがない時と同じ「自然」が出ていると考えるのは危険で、取材であることを常に視聴者に意識させる工夫が必要だろうというのはその文脈においてです。繰り替えしますが、ありのままを一人歩きさせるのは危険だろうというのが、スティールやビデオの違いを問わず映像報道についてのぼくの基本的考え方です。
こんにちは。
>被取材者の自然な姿はそこでは出ないとわきまえてかかる
に関連して、最近の「女の子の自然な姿」を撮っているようにみえる
一連のヌード写真は、ビジュアルとしては確かにかっこいいんだけど
「自然な姿」なのかというと判断は難しいような気がします。
武田さんはビデオではなく写真ならば被取材者(あるいは撮影のときに
初めて知り合ったモデル)の自然な姿の「瞬間瞬間を捉え」ることは
可能だとお考えでしょうか?
ぜひ、ご意見などぜひお聞きしてみたく、書き込んでみました。
↓の不完全燃焼を改善するため、というわけではないが、こんな質問票を書いてみた。というのもワークショップは今週末にも開催され、そこで前回の資料映像をもとに議論する。そのために事前に質問を出すと言う段取りになっていたのだ。しかし、これではくどくて、圧迫質問の重ね打ちか。
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論点です。いずれも表現レベルの問題に還元できるものだとは思いますが、どちらかというと原理的な話になるのでワークショップの趣旨からは離れるのかも知れません。あくまでも、もし時間が許せば、で結構ですが、ご意見を聞きたいところです。
質問1(長文ですみません)
先日の会場では「従軍慰安婦の発言のウラを取ったのか」と質問した者です。もしかしたら、口を開けば「ウラを取れ」と口癖のように繰り返したごりごり昔気質のジャーナリストのように思われてしまったのではないかと後悔しました。
少し言葉を足すと、ぼくのいいたかったことは実はもう少し違う部分にあって、確かにあの素材映像を拝見すると、元従軍慰安婦の女性の「語り」に距離感を置かず依存し、その上に番組を作っているようなので、よほど自信があったのだろうなと思い、どうやってウラをとったんだろうと好奇心を持ってそこから質問したのですが、それはぼくがお尋ねしたかったことの前段に過ぎず、
本当に聞きたかったのは、「ウラ問題」と関係はしますが、より表現のレベルでの技術に関わることでした。
たとえば、ぼくのように個人で調べものをしている立場ですと、調査力の微力さのため、ウラはとりきれないという前提で記事を書かざるを得ないことが多い。その時にいつも意識するのは、取材で聞けた「語りの事実」と、そこで語られていた「歴史的事実」を区別すると言うことです。
取材で聞けた言葉であること、それが語られたという事実は、取材者の立場で保証できます。しかしそれが本当に歴史的事実を語っているのかどうかは、ウラをよほど丁寧に取らないと確認できず、更に原理的な話をすれば、ある人が語った事実は、その語り手の言語表現の枠の中で意味を与えられたものであり、歴史的事実とぴったり重なるものとはなりえない宿命を持っているとも言
えます。
で、取材を受けた人が語る「昔話」を、そのまま歴史的事実として報じることにはやはり慎重であるべきだとぼくは考えており、慎重さの結果としての対応策が「語りのレベルの事実はあくまでもそれとして示し」、「それが歴史的事実だとは断定しないようにする」という方法です。表現のレベルにおいては「」(カッコ)のつけかたを厳密にし、誰がどのように語ったかを明確に示し、「地」の文に被取材者の語りが紛れないようにするというのが活字ジャーナリズムのこの問題に対する対応方法だと思います(月並みで恐縮ですが)。
で、映像報道でこれはどうなるか。あの従軍慰安婦のニュースに関しては、○さんは(原文は実名。プレゼンター)既にウラは取れており、事実性は疑っておられないということですが、一般論としてTVのニュース番組でもウラをとりきれないなどの理由で被取材者の「語りの事実」と「歴史的事実」を区別する必要が生じる場合はあるのではないかと思います。そういう場合は、映像表現のレベルではどういう配慮をし、工夫をすればよいのか。特にキャスターのコメントやナレーションの部分で、被取材者の語りからの引用とジャーナリズムの「地」の文章をいかに区別するかの処理方法について、お考えを教えていただければと思います。(下に続く)
質問2(これまた長文です)
「主人公(取材相手)を素材にせず、人間を出す」方法としてあくまでも「カメラがずっと回っていますが、気にしないでくださいと事前連絡する」、「今の表情良かったのでもう一度と演じさせて撮り直したりしない」という方法をあげておられました。それは非常に大事なことだと思いますが、それでも、まだ人間が撮れるとは言い切れないのではないか。カメラがあったら、それを意識するなというのがそもそも無理でしょう。
たとえば文化人類学の世界では「参与観察のパラドックス」という言葉があって、観察者が入ることで対象集団は変化してしまう。つまりナマの対象集団を観察できていると安易に考えるべきではないと指摘されます。これはジャーナリズムの取材においても該当するのではないでしょうか。
確かに話こんでゆくうちに、被取材者がカメラを忘れてくれて、「素」の自分が出るということはあるかもしれない。その瞬間瞬間を捉え、再編集することで「人間を出す」ことは不可能ではないと思いますが、そうした方法を採らない限りは、やはり取材という非日常的やりとりの中での撮れた映像であり、聞けた話であって、被取材者の自然な姿はそこでは出ないとわきまえてかかるぐらいの方が、取材の力を過大評価しないためにもむしろ良いし、被取材者の普段どおりの姿がそこに描かれていると視聴者にも錯覚させないために「これは取材に応じた時の姿である」ということを常に意識させるような表現を(たとえ興ざめであれ)あえて盛り込んだ方が、映像ジャーナリズムの情報の伝え方としては実はむしろ誠実なのではないかと思うことがあります。そのあたり、どうお考えになりますか。
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