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ウラが取れなかったらどうするか1 投稿者:武田徹  投稿日: 1月24日(木)11時00分58秒

昨晩は都内某大学で開催されているジャーナリストワークショップに出た(完全に公開ではないようなので一応匿名にする)。これはジャーナリストのリカレント教育の在り方を考えるワークショップで、昨日はTBS出身のアナウンサーが16年前に自分が作った報道番組をテキストとしてプレゼンした。内容的には日本人従軍慰安婦を扱っており、その時点では施設に入っていたある女性がかつて従軍慰安婦だったことを告白、死んでいった仲間達のための慰霊碑を作ろうとしていることの紹介。ワークショップは映像報道の表現技術について議論するもので、内容を論じる場だったのだが、どうも我慢が出来なくなって質疑応答の時間の最後になって質問してしまった。「これってウラ取りましたか?」。
番組はその元従軍慰安婦の人の語る内容の上に構築されている。その女性は自分が入っている施設(病気で障害者になってしまっていた)で刊行されている会報に手記を書いて過去を告白し、それを知ったある学識経験者がラジオ番組で紹介し、まずTBSのラジオが彼女を番組化、そしてTVが後を追ったということらしい。
しかし気になったのはそれが単なる紹介ではなく、TBSは局をあげて慰霊碑建設の募金運動を視聴者に訴えるまでに至っていることだ。そこまで大事になるのであれば、1人の証言、1人の物語に依存するリスクは意識されて当然ではないか。で、その人の語りの妥当性を一応は疑ってみる姿勢がどの程度あったか、その疑問にどう対応したか聞きたくて先の質問になった。

たぶんワークショップ会場ではぼくの質問意図は誤解されたと思う。ウラを取れと迫る圧迫型の質問だと思われたのではないかと懸念している。もちろんウラがとれるんだったら取るべきだろう。しかし報道の現場では時間的物理的な理由があって、いつもウラがとれるとは限らない。そもそもウラを取る回路が閉じられているような証言もある。で、もうひとつ選択肢はあるのだと思う。ウラをとっていないのだったら、使用するコメントを歴史的事実かどうか定まらないレベルで扱うこと。事実性をその人の語りのレベルに限定し、歴史的事実であるかどうかの判断は保留することだ。ぼくはそのニュース番組をみて、後者の可能性を模索すべきではないかと思った。実際、制作した人の答えは「ラジオのディレクターはうらを取ったと思う。しかし自分自身はラジオのディレクターを信じてウラはとらなかった」だった。だとしたらやはりその語りに依存する比率は減らすべきではなかったか。それは表現のレベルでもやりようがあったはずだ。そしてもうひとつ、ウラがとれないということも含めて、募金キャンペーンの一貫に組み込まれることをジャーナリストとして拒絶すべきではなかったかと思った。(下に続く)

ウラが取れなかったらどうするか2 投稿者:武田徹  投稿日: 1月24日(木)10時54分00秒


ぼくは従軍慰安婦問題はもっと検討されるべきだと思う。最近では(昔からか)その歴史的事実性を疑う人もいるが、たとえばコンドームの生産量は戦時下に激増している。しかも当時コンドームは民需用に回されず、すべては軍が調達した。大量のそれが戦地でどのように使われていたかは想像に難くなく、これがウラといえるかわからないが、従軍慰安婦問題の置かれていた状況を理解する上での一つの傍証にはなるだろう。そうした周辺事情をぼくなりに総合した結果では、そのニュース番組に登場した女性の証言を根本的に疑うわけではないが、テーマが微妙なだけに扱いの慎重さはあって良いと思う。ささいな報道のミスが致命的になる場合だってあるのだ。事実無根ではないにしろ、1人の語りに依存することで歴史的事実が偏向してしまう可能性も常にある。
そして慰霊碑を作る運動もジャーナリズムがそれを方向付けることにはやはり抵抗がある。良いキャンペーンならジャーナリズムでもどんどんやるべきだという考え方もあるのだろうが、問題はそこに価値判断が含まれていることだ。ぼくはラディカルな(逆にいうとあまりにもオプティミスティックな)中立公正客観報道主義者ではないが、それでもジャーナリズムが事実報道の領域から踏み出すことに摩擦を感じる感性は持っており、「良い」か「悪い」かはジャーナリズムの側が判断すべきこと、判断できることなのだろうかと悩ましく思ってしまう。
ジャーナリズムは伝える使命に応えるべく、未だに歴史の裁定の下りていない事柄をも扱い、いわば未知性を含みながら状況を報告する作業だ。そこに歴史学とは異なるベクトルがある(もちろん両者に重なるところもあるが)。そうである以上、価値判断を下すのだとしたら、「今、手持ちの情報の範囲ではこう思う」という範囲の限定を明示すべきだし、その情報をもとになにか社会的な動きが起きるとしても、情報を受け取る側の判断に任せる姿勢が大切だと思う。自分たちの伝える情報から行動に短絡直結しないように、たとえキャンペーンの効果は減算されるかもしれないが、ジャーナリズムは最終判断を下すものではないというメッセージをあえて意識的に盛り込む必要すらあるのではないかと思っている。こうした考え方は報道機関の企業としての論理にそぐわない面があるのだろうが、ジャーナリストとは公共への奉仕を企業への奉仕より優先すべき職業であるという原理原則から問題を考えてゆかないと埒が明かないのではないか。
こうした考えが、わすかな質疑応答のセッションで理解されたとは思えず、不完全燃焼状態で帰宅した。

近況 投稿者:武田徹  投稿日: 1月23日(水)23時52分16秒

またまたSPA!に登場。写真が前回と同じ海坊主なのは事前に聞いていたので別に驚かない。このほうが、たとえ近所でエッチな本とか買っても分からなくていいのかもしれない。しかし最近の「合掌づくり」ヘアスタイルもみなさんにお見せしたいところではある。それにしてもあまりに髪型とかひげとか、メガネとかを変えるのでぼくの顔写真でパラパラマンガを作ったら面白いのではとさえ言われている。
で、そっちはいいのだが、プロフィールの「最近、井の頭公園の変化に注目している」は、ページの担当者がこの掲示板を熱心に読んでいてくれている人だったのでこうなったようだが、果たしてこの掲示板読んでいない人には意味が通じるのだろうか。本人がいうのもなんだが、活字になったのを見るとちょっと心配になる。謎めいていて良いと言えば言える?かもしれないが。
で、今回もこともきかっけとしてやや考えを変えたところがあって、この掲示板もだいぶパブリックになってきたので、あんまり「飛ばす」ような書き方はそろそろ自粛しないといけないのかとも思っている。引用される場合への配慮とかももっとしないとダメだろう(本当は今までもそうだったんだけど、正直、アクセス数も限られていたので甘えていたところはある。なんでも行っちゃう野放図なスタイルのほうが面白かったし)。マス媒体で書くのと質的に近づけば近づくほど、書き手としては醍醐味に欠けるのだけど、ネット状況一般やこの掲示板を巡る状況の変化もあるのである程度は仕方がないかもしれしない。
とはいえ、大文字のジャーナリズムを目指す気持ちは毛頭なくて、理想は正木ひろしの「近きより」か。個人に根ざしたジャーナリズムがまだまだ育っていない状況の中で個人ベースの「小さなジャ−ナリズム」の在り方を目指すひとつの拠点になればという考えは変わらないし、変えようがない。
武田徹

弱さについて  投稿者:武田徹  投稿日: 1月23日(水)17時56分56秒

ひさしぶりに山根一眞『変体少女文字の研究』を読み直した。日本のノンフィクションの中で社会科学として通用するのは、残念ながら猪瀬直樹の仕事ではなく、数少ない例外として山根のこの作品があると考えている。取材対象と社会の関係を構造的に浮き彫りにしながら同時代の質を描き出して行くマルチメソッド的手法は鮮やかで、後の山根自身もまたそれを全く凌駕できていない。
その中で山根は丸文字(変体少女文字)を使う少女たちが弱さを「擬態」していると考えている。変体少女文字とは「かさいい」という言葉に括られる弱さ、幼さの象徴であり、それをコミュニケーション・コスメティクス(対人関係において化粧のように自らを演出するコミュニケーション技術)として使うことで彼女達は自分たちを弱いものと定義したがっているのだと。
 その本のあとがきで山根が予言したように「21世紀は誰もが変体少女文字を使う」ようにはならなかったが、それについてふと思うのだ。「癒しブーム」もまた弱さを擬態する流行ではないか、と。どう考えても日本人はカンボジアやアフガンの人たちほど弱くない、疲れてもいない。だから癒されるべき存在ではない。しかしそうした外に向けて計量する視線は持たれることなく、互いに互いの辛い状況を認めあい、傷を嘗めあうように自分が癒されるべき存在であることを相互に確認しあうだけ。それこそが癒しブームの実体だった。変体少女文字こそ書かなくなったが、そこにはきわめて内向きの「弱さ」の共有がある。
 たとえばーーとここからかなり話が飛躍するのだけれど、産業社会を支えていた時代の資本主義社会には一つの建前があった。イギリスはインドや中国から労働力や生産物を搾取したが、そこには時間差伝説というか、イギリスは先に豊かになったが、近代化は徐々に世界の周辺に及び、インドや中国もやがては豊かになるのだと思われていた。ちまり弱者としての第三世界を強者の欧米列強が助けるのだと。たとえばイギリスの植民地開発はその流れに貢献しているのだと考えられ、それが一種の免罪符となった。
 しかし消費社会化を遂げた段階の資本主義社会ではそんな建前すら失われた。自分たちが「弱い」ものだと考えて、癒されるべく、たとえば日本の若い世代が盛んにアジアのリゾートを訪ねる。現地の労働力や産物や性までを搾取する構図は変わらずなのだが、救済に貢献している建前だけが失われた。というより救済されるべき存在という地位までも自分たちで独占してしまったのだ。
そんな「他者のいない」構図の上で、たとえばアフガン復興会議は正しく位置づけられるのだろうか。環境問題の地球規模での検討はどうか

ベルルスコーニとセリエA 投稿者:武田徹  投稿日: 1月22日(火)00時43分56秒

「もう次の選挙はなくなるかもしれない。イタリアはファシズム政権になったのだから」。イタリア人の友人がそんなことを言って嘆いてみせる。彼女は首相のベルルスコーニの批判を蕩々と語る。
確かに強力な支持母体のカトリック教会および超保守的なカトリック勢力への票確保のための利益供与策は目に余るものがあるようだ。国の舵取りには殆ど失敗しており、経済状態は悪い。しかし巨大メディアコンングロマリットのオーナーであるために批評が封殺されている。
そして注目すべきは、そんなベルルスコーニがACミランのオーナーでもあることだ。サッカーが経済状況が悪化したり、正常が不安になっている国で人気を持っていることは留意に値しよう。サッカーもそのひとつだが、スポーツの語源は「方向をずらす」という意味のラテン語で、まさにスポーツは大衆社会が日々の不満を忘れ、溜飲を降ろすために機能していることが事実上多い。中でもサッカーは試合中ずっと視線をくぎづけにするスポーツであり、日々の憂さの忘却効果は他のスポーツ以上に高いと思う。
経済状況が悪化した国や政情不安な国でサッカーが人気なのはサッカーで夢中にならなければやっていけない辛い日常があるからで、また逆にサッカーをみて憂さを晴らしてしまうので経済状況を悪化させている政治、政情不安な政局に本格的にNoを突き付けることなくやってこれてしまう両面があるのではないかと思うのだ。
ベルルスコーニがメディア王でセリエAを牛耳っているのは、まさにそうした政治とスポーツの悪しき共犯関係という観点から見るべきではないか。しかし、ワールドカップが近づき、盛り上がる日本でセリエAとベルルスコーニの関係について指摘する視点は見たことがない。ぼくの知人の中にはとても知的なファンもいるのでもちろん乱暴に一括りには出来ないが、日本のサッカーファンの多くがイタリアのサッカーの非政治性を信じて疑わないだろう。ジャーナリズムもそんなことまったく触れないわけで、長野五輪の時もそうだが人気沸騰中はそれに便乗する風見鶏的ジャーナリズムの悪い癖がここでも出ているのだろうか。

削除 投稿者:武田徹  投稿日: 1月21日(月)21時33分15秒

以下、削除(理由:メールアドレスなし。価値観の異なる不特定多数を配慮した書き方だと思えないので)
−−−−−−
リトル・ペブルに与えられたメッセージ 投稿者:紅雀  投稿日: 1月21日(月)18時20分34秒

白い十字架はすでに空にあります。それはロザリオの祈りの始めからずっとありました。聖ミカエルは、いつもそうするようにその右側に立ちます。皆さんのために描写するのはとても難しいです。あたかも地球から離れたところに立っているかのような角度から私はそれを見ています。聖ミカエルはもちろん地球より大きいのですが、地球と空のとても深いところ、十字架がそれ自身でぶらさがっているところの両方の上に立っています。

 今日私は、白い十字架の後ろに太陽系が見えます。皆、動いています。惑星は太陽の周りをまわっています。太陽はとても大きく、まるで脈動しているように見えます。爆発から太陽内部に反射熱が中にあります。そこから多くのエネルギーが発生し、太陽系全体におよぶ衝撃波を起こします。それが惑星とその衛星を乱しています。

 このたびの白い十字架には、銀の内張りがあり、十字架の後ろの太陽から光輝く光の槍がやってきて、十字架の横木の中心を突き刺します。その槍が十字架を通過すると黄色い光となり、十字架から下る炎の光線となり、ここ私達の聖堂の方へ来ます。それは炎の道です。私は以前にそれを見たことは一度もありません。

 聖バラキエルがいます。聖なる大天使で、いつも両手に白い十字架を抱えています。3回十字をきります。私も彼が十字をきるたびにそうします。十字架は燃えています。しかしいつものように、梁の中心の上で今開きます。ドアがあらわれます。ドアの向こうには天国があるかのように思われます。そして私には、それがどのように作動するかを本当は理解できないのですが、十字架はその中に認識可能な次元を全然もっていないようなのです。その空間は無限で不定形のようで、雲の中に入り、別の次元に入るのに似ています。

 すでに聖なる天使たちが、一列になって十字架から出てくるのが見えます。私達の方へやってきている炎の道の上を滑ってきます。今、聖主が見えます。天使たちと共に浮かんでいます。そこには多くの天使がいます。多くの異なる種類の天使達で、異なるサイズで、様々なタイプのトニカをまとっています。ある天使たちは翼の先端が金です。どんな天使かわかりませんが、とても美しいです。

 多くの天使たちが翼の一部として両翼にアルファとオメガの印を持っています。それは美しいものです。聖主は真っ白なトニカの上にライトブルーの美しいマントをかけています。聖主は月桂冠のような形の王冠をかぶっています。シーザーの時代のものに似ています。聖主はとても素早く私達の方へ動き、− そして今、私達の聖母が見えます。どういうわけか、いつもよりずっと後ろにいます。大多数の天使たちと滑ってきます。聖母は美しい白いドレスを着、そしてまた青いマントをまとい、髪のまわりに非常に独特に形作られた花輪をかぶっています。聖母の髪がこれほど自由に見せられているのを、私が見ることはめったにありません。それは金 − ブロンドがかった金で、私は彼女の髪が足首まで達するという事実を知っています。それはめったに見ることは許されないのですが、私は聖母の髪がその長さなのを、以前見たことがあります。

 聖母はすみやかに聖主に追いつき、いつものように聖櫃の上に浮かぶために、聖堂の中に入っていらっしゃいます。聖櫃の上には小さな薄い雲があります。私が彼らが歩くのを見ることは非常にまれです。彼らは天使がそうするように、いつも滑るのです。もちろん彼らは歩く必要などないのです。

 聖主も聖母も微笑んでいます。聖母は聖主の右手にいらっしゃって、お二人の背後、天使から離れたところに私の最愛の兄弟ロバート・ボスが見えます。彼は聖主の左手に行きます。シャーリー、そしてまたグエンとシスター・ヘレンも見えます。聖母の右手にトーマスが見えます。ベールの向こうに行ってしまった愛する人々皆にしばらく会いませんでした。彼らは全く幸福な群れです。みんな聖シャーベル修道会の修道服を着ています。聖主と聖母は彼らを見ていて、それから私達に振り返ります。

 今、聖主と聖母の後ろにやってくるのは、小さき花の聖テレジアです。彼女はロバートと聖主の間に割り込みます。彼女は全く晴れやかな様子です。彼女にもしばらくの間会っていません。聖主と聖母お二人とも今、十字の印をなさいます。

立花隆の環境ホルモン論 投稿者:粥川準二  投稿日: 1月21日(月)11時44分25秒

 すいません、2重に投稿してしまったようなので、お手数ですが、上のほうを削除して下さい。
>立花隆の「全て環境ホルモンが悪い」説は中央公論に彼が環境ホルモン問題を書いたとき
>にへんだなぁと思ったことがあります。でも当時は誰もそれは指摘しなかったですよ。ぼ
>くも疑問を公式に書いてはいないので同じ沈黙の罪にはあたるかも知れないけれど、粥川
>さんはいつごろから立花ウソ八百に気づいたのでしょうか。
 お話ししたかもしれませんが、僕は以前から、環境問題を憂える思想は優生思想を導きがちであると考えています。環境ホルモンブーム(?)のとき、市民運動家や食品評論家が「キレる子どもは環境ホルモンが原因」とか言っていたのが気になり、いろいろと資料を読んでいたときに立花の発言も引っかかったので、同じ時期だと思います。僕も公式に書いたのは今回の『別冊宝島 立花隆「嘘八百」の研究』が初めてなので、同罪(?)です。立花を含む環境ホルモン言説のおかしさを最初に指摘したのは、北原恵さんだと思いますが(『現代思想』99年1月号)、誰も注目しませんでした。その後、『買ってはいけない』などの関係もあって、日垣隆さん、斉藤美奈子さんが後に続きました。
 では……。

http://www2.diary.ne.jp/user/91038/


ビデオジャーナリズム 投稿者:武田徹  投稿日: 1月21日(月)01時18分24秒

昨日の深夜というか今朝というか、渡井さんというアジアプレス所属のフリーのジャーナリストのアフガン取材の様子がフジ系のニュース番組の中で取り上げられていた。多くのビデオジャーナリストがアフガン入りした割には、彼らのジャーナリストらしいフットワークを生かした映像が表に出ていたわけではなかったと感じていたので、こういう番組はとても良いと思うのだけれど、取材苦労話を伏線とするような作りなのは仕方がないのか。
たとえばタジキスタンから持って入ったお金が幾らで、クルマのチャーターと通訳に幾ら掛かって残金がいくらかなどが刻々と報告される。最後のシーンも領収証の山が映し出されるというものだった。なんか『深夜特急』の沢木みたいだ。
もっともこれも、フリージャーナリストの生き様を伝えることも番組の魅力として、企画を通すという戦略だったのかも知れない。フジのこの番組のプロデューサーなりディレクターなりはTV報道の限界を知っており、またビデオジャーナリズムに理解のある人で、企画さえ通してしまえば大手メディアでは撮れない映像、すくえない情報が出るのだからいいのだという政治的判断をしたのかもしれない。
確かにまだビデオジャーナリズムの立場は弱い。それこそ大手局関係の正社員では保険代やら組合やらがうるさくて使えない戦争報道だからこそビデオジャーナリストの入り込む隙間があったわけで、これでもましなほうだと思わなければいけないのだろう。平時の状況でプロフェッショナルな8というのは稼げるという意味ではなく、いわゆるホームビデオではないという意味で)ビデオジャーナリズムが地上波に登場するチャンスはほぼない。
よくしたものでこの渡井さんという人も自分をよく撮っている。三脚立てて顔出しレポートをしたり、誰かに頼んでカメラを回して貰っているわけで結構手間のはずだが、そうした映像があったからこそ、こうした番組作りが出来た。
しかし、一方でせっかく遭遇できても死体はぼかしがかかっている放送されていた。死体が映ることにはジャーナリズムの伝える機能においてはそれなりの意味があったはずだ。露悪趣味に傾くのも問題なので、難しいところだが、これでいいのかという気持ちは残る。撮った方としても苦労してアフガンまで行って撮した映像にぼかしが入るってのはなんとも残念なことは確かだろう。
TVのジャーナリズムの論理はビデオジャーナリズムとあまりに異質なのでやはり水と油だ。TVをアウトプットメディアとするのは無理かも知れない。ならばWEBでのビデオジャーナリズムの配信はもっとできていいはずだ。そのためになたぼくはブロードバンド化を支持する。サラリーマン金太郎がネットで読めるようになってもしょうがないと思うけど。

情報提供ありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 1月20日(日)23時13分35秒

粥川さん。書き込みありがとう。さすがにお詳しいですね。状況は分かりました。
立花隆の「全て環境ホルモンが悪い」説は中央公論に彼が環境ホルモン問題を書いたときにへんだなぁと思ったことがあります。でも当時は誰もそれは指摘しなかったですよ。ぼくも疑問を公式に書いてはいないので同じ沈黙の罪にはあたるかも知れないけれど、粥川さんはいつごろから立花ウソ八百に気づいたのでしょうか。

情報提供:ホルモン剤と巨乳? 投稿者:粥川準二  投稿日: 1月20日(日)21時14分47秒

 ごぶさたしています。『スロー〜』は未読なのですが、僕が数年前に調べたところでは、小さな男の子に「女性化乳房」が見られたり、小さな女の子に突然、胸が大きくなるなどの第2次性徴が始まったという症例の原因として、食肉に含まれるホルモン剤が疑われたことが2件ほど報告されています(学術雑誌に論文として載ったもの。1977年のイタリアおよび1985年のプエルトルコ)。この件について、原因はホルモン剤だと断定していた単行本もありましたが、論文を読んだ限りでは両方とも疑わしいとしか書いてありませんでした。なおホルモン剤は、いずれも成長ホルモンではなくて性ホルモン。天然型雌性ホルモンのエストラジオール、合成型雌性ホルモンのDES、ゼラノールなど。組み換え型成長ホルモンのBSTなどでは別の副作用が報告されています。EUは、ホルモン剤を投与されたアメリカ産の食肉を拒否しているぐらいだから、もっと大規模な調査報告や事例があるのかと思ったら、子どもの第2次性徴との関連では以上の2件しか見つかりませんでした。僕の調査不足かもしれません。
 僕自身は、市民運動家や食品評論家が少年犯罪から同性愛まで(巨乳は初耳です)なんでもかんでも食品汚染(環境ホルモンなど)に原因を求める傾向(食物決定論)に、とても危ういものを感じ、表情が深刻になってしまいます。なお僕は、立花隆の環境ホルモン論について『別冊宝島「嘘八百」の研究』(宝島社)で批判しました。以上、ご参考までに。

http://www.jca.apc.org/~kayukawa/


メディアクリッピング3点 投稿者:武田徹  投稿日: 1月20日(日)09時03分42秒

 昨晩の『アイ×カチ』に小池栄子が出ていて、「巨乳タレントの共通項ってなんだか分かります?」なんて言い出す。「みんな鶏のからあげが好きなんです。私もそうだし」。
 そうなんだ? いや、なんでこのセリフが印象に残ったかと言えば辻信一『スロー・イズ・ビューティフル』に飼料に混ぜられている成長ホルモンが女性の巨乳化を進めていると書いているのを思い出したからだ。『スロー』は地道な生活を静かに提唱しているように見えて、実はイデオロギー的な性格の強い本で、そこが鼻についたんだけど、引いてある事例もイデオロギーを補強するための恣意的なもの、実証されていない話も多いように思って、この巨乳の話などはその一例のような気がしていた。しかし小池の話はなんとなく巨乳=食物原因説を裏付けているような・・・。深刻な表情で食物汚染問題を追求しているジャーナリズトとか市民運動家は巨乳とかいう「ふざけた(ぼくはそう思わないし、若い子達の身体が(もしも)変わっていて、それがしかもいいこと、美しいことのように語られる風潮があったらそれこそ深刻な問題だと思うが)」テ−マはあんまり論じたくないんだろうけど、ちょっと調べて欲しい。
『サイゾー』最新号では山形浩生がいわゆる「同時多発テロ緊急出版」本について言及している。「多くの人がうろたえているのはわかる。特にこれらの本の収録文が出たのは事件があったかなり直後だったろうし。でももうひとつわかることは、多くの人はこの一件について考える枠組みも構築力も何もなく、ただひたすらからっぽなだけだということだ。・・・とりあえず戦争反対、とりあえず人殺しのテロはいけません。なんだか知らないけど戦争らしいから戦時経済(註:榊原英資の発言)、だからが言ってたからグローバリズム」。「言うことがなければ、だまっていればいいのに。胸をはって<自分とは関係ない>と言えばいいのに」。 
 ぼくも週刊読書人で『非戦』の書評を書く予定があるのですこし考えてみようと思う。
 今朝の朝日新聞では吉田司がベストセラー評で「世界が100人の村だったら」を取り上げている。彼の言うことをぼくなりに敷衍すると「世界」を「村」に喩える暴力性に気づくべきだということだろう。世界は多様(でしか現実にはありえないの)だが、現実の「村」は均質であることを構成員に共生する同調圧力を持つ。両者は成立の原理が異なるのにもかかわらず、「世界」を小さな「村」にたとえてグローバリズムが力を持った世界のせちがらさを批判したようななんとなくいい気持ちになっていることにはぼくも反感がある。「思考上の遊び」とは言って済まされない危険な無神経さがあるように思ってしまう。

バーゲン会場でゲラを見る     投稿者:武田徹  投稿日: 1月19日(土)09時44分42秒

金曜日の午前中はゲラをもって外に出て(家の中じゃ他にすることの選択肢がありすぎて、こういう作業は出来ない)、さてどこか喫茶店で見ようかと思ったんだが。最近、忙しくて胃が悪いのであまりコーヒーは飲みたくない。で、どうしようと考えを巡らせていて、ふと思いついた。あ、そういえば今日からコムサデモードのバーゲンじゃないか。
なんでバーゲンとゲラが関係あるか。そのココロは、こんなものだ。
吉祥寺の伊勢丹に入っているコムサデモードは地域特性を考えてかレディースとキッズの比重が高い。男ものは1/4以下だ。つまり多摩地区にたくさんいる子供のいる若い母親がメインターゲットで、平日からのバーゲン開始なんだがこれがめちゃくちゃ混むのだ。レジの行列だけでもとんでもなく長くなる。というのが分かっていたので、バーゲンで買い物してレジで並んでいる間にゲラを見れば時間の有効活用で一挙両得じゃないかと思ったのだ。ゲラを見るぐらいなら座らなくてもできる。ペンで書き込む時は鞄でも台にすればいいのだ。
で、いざ実行すると計画は成功(笑)。殆ど朝イチの入場だったんだけど、あまり多くない男もののセール品の中からジャケットを買ってレジに並ぶ。列は既に長蛇に伸びており、しっかり30分以上は待たされた。普段だったらいらいらだけど今回は他になにも出来ない不自由さがプラスに出てゲラチェックもしっかり出来た。やる気が出ないとか、集中できないとかいう症状を呈する人(軽いうつなんじゃないかと思う)には、これが本当にいいかどうかわからないけど、選択肢を敢えて減らすように自分をし向ける方法をお勧めしたい。そういう状況に入ってさえしまえば、案外とやる気も出るし、集中できるものだ。もちろんこれは対症療法的で、長期的な影響は未知数。あくまでも自己責任でお願いします。
それにバーゲン会場の狂乱もひさしぶりに体感できた。子供にブランド服を着せることにかける情熱のすさまじさったらない。このひとたちは80年末に丸井のバーゲンとかに並ぶことで大人になっていった世代なのだろう。三つ子の魂百までってことか。しかもコムサはイズムで格安系ラインを確立し、彼女のたちがおそらく感じているだろう最近の懐具合の寒さにも適合している。ぼくの前に並んでいた主婦なんで、レジへの列に並んでからも未練たっぷりで商品棚に手が届くところに列が進むと、またまた手を伸ばして棚の上の商品を抱え込む。きっとずっとずっと前から値段チェックして、待ちに待ったバーゲンだったんだろう。だから一度買い物かごに商品を収めても、未練が全然断ち切れていないのだ。
コムサのバーゲンの値引き率が高いのは80年代から有名で、実はバーゲン価格でも儲かる原価なのだという話は聞いていた。つかり正価で買うのは相当のお大尽なのだ。と。無印やユニクロに近接するイズムでもそうなのかはわからないけど。安く出ているものは確かに安い。
しかしそれにしても専業主婦の情熱はこういうところで消費されているのだなと今更に実感。というか、情熱を消耗させるシステムが彼女たちには必要だということもあって、バーゲンと言っても以前ほどの熱狂が感じられなくなった中でもここは健在なのだろう。これもいわゆる「郊外問題」とかの一翼を担う光景なのではないか。
いやー、社会勉強にもなりました。ゲラも見れたし、服も買えたし(こちらは研究不足でどの程度ディスカウントされていたかは不明。安物買いの銭失い、だったりして)。

遺されるWEB 投稿者:武田徹  投稿日: 1月18日(金)09時54分04秒

注目しているサイトがある。なくなった西井一夫さんが作っていた国際写真旅団のWEBページだ。これは西井さんが写真評論家として活動するにあたってひとつの足場にしようとしたもので、当初は熱心に更新されていた。しかし病気が重くなった夏頃から更新が途絶えたままだ。いつか家族か関係者が亡くなったことを書き足されるかと思って時々見ていたが、今のところのその動きもないようだ。

ぼくは以前にニフティサーブ10周年記念論文公募の審査員をしたことがあったが、そのなかにWEBに遺言を残すという趣旨の作品があった。実人格が失われてもネット人格は残り得る。それが墓石に刻まれた言葉のように生き残った者には故人をしのぶ対象となり、本人にしては後世に申し送る思いとなる。だから、そんな機能をWEBに積極的に与えられないかという趣旨の論文だったのだが、西井さんのサイトはまさにその実現の一例になっている。
しかし、今後どうなるのか。本人の銀行口座が閉じられ、(この場合は)ニフティが使用料を徴収できなくなった時点でURLも停止されるのだろうか。それとも家族なり関係者がこのままのかたちでサイトを残すために使用料金を払い続けることになるのか。
これは他人事ではなくて、このページだってぼくが突然死んだらどうなるか分からない。そこが既存の表現と異なるところだ。確かに墓石銘的機能まで視野に入れたらWEB使用に永世契約とかも検討されるべきなのかも知れない。しかし技術が絡んでいる難しさはそこにもあって、たとえばTCPIPの仕組みが次世代になったときにどうするとかいう問題がつきまとう。
武田徹
PS 論座で坪内祐三さんが西井さんの追悼文を書いていて、ぼくがここで西井さんのことを書いているのを読んでくれていた論座編集部の方が雑誌を送って下さった。感謝します。

http://homepage2.nifty.com/bpbrigade/index.html


9万アクセス突破記念駄文 投稿者:武田徹  投稿日: 1月17日(木)23時56分39秒

近所のマックで原稿を書いた後、買い物のために町を歩いていた時、耳がかゆくなって指を耳の穴に入れたら、なんか手に着く。ぼくは耳垢掃除は趣味なので耳垂れなんてはずはないので、なんだろうと思ったら、黒い物体。虫? ひえー、頭の中に虫が湧いて耳から出た?
アルツハイマーなんかよりももっととんでもない事態の可能性に仰天するが、よくよくみたら黒い物体はゴムのリングだった。そうか、マックで仕事をしたとき、パソコンのHDに入れてある音楽をヘッドフォンで聴いていたのだ。そのヘッドフォンのスピーカー部分を押さえていたゴムのパッキンのようなものが取れて耳の中に残っており、それを指で取り出しちゃったのだ。あー良かった。
家に帰ると宝島、SPA等、年末年始に取材を受けた仕事の掲載誌が続々(ってほどでもないけど)届く。しかし宝島は、あんなに話したのに「こんな人に話を聞きました」てな一覧表の一部になっているし(急遽ページが減ったらしいので仕方がないんだけど)、写真がぼくだけ露出不足で毛が立っているのはなぜ? SPAはよくまとめてくれたと思うけど、こっちも写真はおととしのもので毛がなくて海坊主だし・・・・。同じ週にこんなにヘアスタイルが違う写真が出ると読者はどう思うんだろうか。しかし髪の問題をおいといてもぼくはビジュアル系にはなれないですねー。
でも、ぼくだけでなく、SPAの他の記事の写真を見ると東浩紀が身体的にもおたく化していたり、斎藤環さんも顔がえらく太っていた(撮し方の問題?)。
前に『噂の真相』で若手文化人はなぜみなデブなのかという特集があって、もちろん差別的だし、内容もさしてない記事だったんだけど、デブに関しては、どこか若手文化人の性向や社会的位置づけを暗示しているようなところもあって思わずふーんとうなってしまったことがある。岡田斗志夫は洋服を脱いでも「おたく」だと永江郎さんが書いていて笑ったこともある。人間はパンツをはいた猿だったはずだか、パンツを脱いでもおたくとはねぇ。
東とか斎藤さんとかはデブでない稀少な存在だったんだけど、例外たりえなくなってゆくのか。ぼくも他人ごとではないんだけど、ちょっと太るとジムで無理矢理押さえてなんとかやってきている。
と、くだらないことしか書くことがないんだけど(明日からは心の余裕が出来るのでまた何か書きます)アクセス数がいつのまにか9万突破、みなさんに感謝。
武田

告知 投稿者:武田徹  投稿日: 1月15日(火)21時56分35秒

新刊書コーナーを追加してます。なお一時、旅先通信がリンクの張り間違えで読めなくなっていたことをお詫びします。

アメリカ 投稿者:武田徹  投稿日: 1月15日(火)15時14分27秒

これはぼくが聴き逃していたために新発見となったのであって、前に聴いていた人にとってはまったくもって旧聞なのだが、YESというプログレロックバンドがあって、一時の流行りで、彼らも過去の曲を集めた4枚組ボックスセットを作っている。
ぼくはYESはアナログレコード時代に聴いていて、だいたい制覇したつもりがあったので、このセットはたぶん10年前ぐらいまえに出たのをパスしていた。それをひょんなことで今日聴いたんだけど、DISK2の2曲目でびっくりこいた。YESがポール・サイモンの『アメリカ』を歌っているのだ。YESらしいとは言えるけど、なんかドタバタしたリズムで、オリジナルより良くなっているとはまったく思わなかったけれど、ふーんこう解釈したんだと興味深くは聴いた。
この『アメリカ』という曲はグレイハウンドで旅をするカップルを主人公にして「アメリカって何なのか」と惑う気持ちを歌っている。アメリカとは何か知りたくて、「みなニュージャージーターンパイクでクルマの数を数えている」というサビの歌詞はまさに圧巻で、この豊かな国はどこから来て、どこに行こうとしているのかが分からくなっているのだ。その不安や欠如感をせつせつと歌い上げるポール・サイモンらしい非常に繊細な歌だ。
彼の作品の中でぼくは一番これが好き(まえに来日したときに、指を怪我したとかで弟にギターを弾かせていたけど、アンコールでこれを歌ったのはすごく良かった)で、ソングシンガー・ライターである(シンガー・ソングライターではないんだけどーー)自分でも歌う。無理矢理へたっぴいな歌を聴かされた人(特に昨年のサントリー学芸賞パーティ参加者の方はご迷惑をおかけしました。あのときは会場で声張り上げてしゃべっていて、歌うときまでにすっかり喉がやられてました。上が出ないならカポでもいれて音を下げて歌えば良かったんだけどね)がぼくの回りにも結構な数いて、たとえばこの前の同時多発テロの原稿依頼をしてきた担当者の1人も「武田さんも『アメリカ』を歌っていたことですし」とか鬼の首を取ったように言うのだ(この人は先のパーティよりもややましだったバージョンをやはり無理矢理聴かされている)。まぁ、依頼の仕方はさておいても、確かに同時多発テロ以後のアメリカはこの歌に示されているようなナイーブさはすっかり影を潜めてしまったように感じる。そんなことを思っていたものだからジョンアンダーソンが突然あの超高音で歌い出したのはびっくりした。クレジットを見るとシングルでアメリカ国内だけ発売されていたらしい。どおりで聴いたことなかったはずだ。しかしアンダーソンもこの歌が好きだったんですかね。あんまり似合わない感じだけど。
夜になって明日ジャナ専で読もうと思っている吉見俊哉『遊園地のユートピア』を予習で読む。「ディズニーランドは実在する国アメリカのすべてがディズニーランドだということを隠すためにそこにあるのだ」というボードリヤールの文章が引かれている。自らテロ国家になってゆくのはポール・サイモンのアメリカではなく、ディズニーランドのアメリカ(あるいはディズニーランドとしてのアメリカ)なのだと思う。

近況 投稿者:武田徹  投稿日: 1月12日(土)23時45分05秒

午前中は4月から始まるNスペ『変革の世紀』の手伝いをしている関係でその準備の仕事をし、午後から東大社情研のジャーナリストワークショップに参加。こちらはジャーナリスト教育についての公開シンポ。11月に実際に、TVと新聞の記者へのリカレント教育の実験をしたのでその紹介と討論。しかしジャーナリストというとやはり新聞とテレビで、出版系は二の次にされがちだ。確かにベースになっているのは出版の場合やはり娯楽出版だし、ジャーナリズムとしては一部週刊誌を除いて組織的ではないし、特にノンフィクションの書き手に至っては「職業」といえるかどうか微妙なところですらある。一作だけ書いて思いの丈を伝えて消えて行く書き手や、自分の実経験を作品にする非ジャーナリズム系以外の職業の人相手にリカレント教育もへったくれもない。
しかし、たとえばノンフィクションの作品性、書名性の高さ(高過ぎがむしろ問題。作家性が暴走して文学にあまりに偏るとジャーナリズムとしては通用しなくなるし、署名性についても著名作家だからいいジャーナリストだというわけにはゆかないので)は、基本的に無署名的だし、作品的ではなく散文的になる新聞やTVのジャーナリズムの輪郭を浮き彫りにする鏡としての役割は果たすだろう。出版ジャーナリズムも視野に入れることでジャーナリズムの問題はよりクリアカットに見えるのではないかと思う。そう発言したら、案外と賛同する人が多くて、新聞やTV業界の人もそうだったんだけど、本当に分かってるのか? 個人情報保護法案の時にも積み残されたんですが(笑)

と、出版ジャーナリズム擁護的な発言はしたものの、実は正月が明けてからぼくはまだ締め切り仕事を一度もしていない(大丈夫か>おれ)。こうしたどちらかというと折衝や話す側の仕事が多く、書く方では単行本用の原稿と、商売用の原稿ではない文章ばかり書いている。実はさすがにそろそろ締め切りもあるのだけれど、なかなかエンジンが掛からない。原稿書きはペースにはまると楽になるんだけど、一度ペースが狂うと苦労する。休み明けというのは調子が狂って、最初の原稿はいつもしんどい思いをする。
ああ、そういえば、『若者はなぜ繋がりたがるのか』は見本が出来た。奥付は相当先になっているので書店に並ぶのはまだなのかもしれないけれど。新刊紹介のWEBページを作ろうとして本とデジカメを持って東大に行ったんだけど、いい背景場所を探す時間がなく、その後、シンポであった人に持っていた一冊はあげちゃったので撮影は明日以降ということになってしまった。

一足遅かった? 投稿者:武田徹  投稿日: 1月11日(金)17時09分28秒

専門家の方々に本格的に検証して貰おうと、今日はデジカメもって井の頭公園に行ったのですが、カモ(メ)はもういなかったです。行った時間が悪かった(夕方になっていた)のか、あるいは本当に一過性の移動だったのか。
武田徹

カモ(メ)? 投稿者:武田徹  投稿日: 1月11日(金)10時37分15秒

下の井の頭公園のカモ(メ)の件だけど、情報提供を頂いた。ぼくの書いた情報は(素人の文字による描写だけで写真もなく)限られているので、みなさん推測の域を出ないけれどとおっしゃるが、カモメの可能性はあるそうです。というのカモメ(の仲間)の鳥が内陸部まで入ることはそう珍しいことではないらしい。ユリカモメは多摩丘陵にいるし、ウミネコも「河川部づたいに内陸に入」るそうで、ある動物ウォッチャーの方は「去年の冬、関越道(埼玉県嵐山)あたりでオオタカ調査中に目撃しています」とのこと。
ただし「一過性や単年だけの場合だったら、生息バターンの変化とはいえない」らしい。持続的な観察が必要だと言うことですね。井の頭公園の池は、ほかよりも餌の状態が相対的にはかなり良い方だと思う(来訪者が年内を通じてかなりある。公園内に鯉の餌(殆どカモが食べていた)を売る店があって給餌を推奨しているところがあり、そのせいもあって来訪者の給餌習慣も確立している)ので、定着する可能性はあるのではと、ぼくは素人判断では思うのですが、その時、旧来のカモはどうなるか。

少し敷衍して言うと、地球は優しいとかいう言葉が流行ったけど、自分の足下の地球を見ているひとは(ぼくも含め)あまり多くないように思う。たとえば都市部だって人間以外の生態系があって、たとえばカラスやネズミは相当にいるわけで、そういう事情を踏まえれば文明対自然の単純二分法が出来ないのは当然のこと。しかしそういう認識は、環境問題に意識的な人が増えたり、大学で環境関係学部が増えても、育っていないように思えて、たとえば宮崎駿がマンガ版『ナウシカ』や『もののけ姫』であんなに自然対文明の二項対立構図の無垢ゆえの「罪」をいじってみせてもぜんぜんその悪意に気づかずに、無毒な国民的娯楽としてジブリ作品を消費してしまう。こうした聴取者側の主体的な無毒化作用があって、いつまでも自然の実質はみようとしないで「やっぱり自然はいいわよね」の薄っぺらな感動で終わってしまうのはどうしたものか。
ペットブームが同時に動物虐待ブームだったり、ペットはかわいがるけど、人は殺すとか、ペットに餌はやるのに、なんでホームレースの人にはごはんはあげないのか?とか、考えてみるとこの問題系ではなんかへんなことは多いですよね。

カモ? 投稿者:武田徹  投稿日: 1月 8日(火)11時16分29秒

これは誰か専門家とか、詳しい人の意見を聞きたいのだが、うちの近所の井の頭公園の池の様子が例年と違う。
井の頭公園池は野鳥の生息地で、特に冬場には多くの鳥が池にいる。それでも年毎に変化はあって、おしどりは最近はすっかり姿をみなくなった。ここ数年はオナガガモが多数でスズガモ(だっけ? 小柄でむっくりしたやつだ。牡は頭が黒い)が少数いるだけになっている。
ところが今年は違う鳥が大量に来ている。大きさはオナガガモと同じなんだけど羽根が白いし、頭の羽毛も白い。これって・・・、カモメ科の鳥? もしかして海猫? うーん、専門じゃないのでわからないけど、野鳥図鑑なんかで見た記憶ではそんな感じもする。まさかとは思うんだが、確かに鳴き声とか飛びながら餌を取る行動パターンなんかは海猫に似ているような気もする。
しかし海鳥が内陸の池に来るんだろうか。ぼくが見たことのない新種の鴨なのか。ちょっと気になる。炭坑のカナリアじゃないけど、生息パターンの変化は何か原因あってのことではあるだろう。そんなおおげさなことではないとしても。
先にも書いたけどこの白い鳥は餌の取り方が違って、人間が餌を投げてやると、それが着水する以前に水面から飛ぶ立って口にくわえて、飛び去ってしまう。普通の鴨はそうしないので、連中は、ここのところ餌取り競争では負けっ放しだ。この池の鴨はかなりの部分、公園に遊びに来る人の餌に依存して生きているようなので、このままで大丈夫なのかと心配になる。別の池に移らないとだめになったりしないのだろうか。こうしてぼくは生態系の変化を目の当たりにしているのだろうか。麻布大学獣医学部野鳥観測会(でしたっけ?)の人たちもNHKホールではなくて、こっちにも見に来て欲しい(笑)

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