
武田徹Official Web
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LOG85
仕事がはかどらないのをいいことに流星雨を見る。確かに多い。東京育ちのぼくが今までの人生で見た流星の総数はおそらく十指に入るくらいだけど、今晩は15−6分でその記録更新の勢いだ。明るいものは薄雲をぼんやり照らして流れて行く。晴れ間に流れたものの中にはガスの跡を光らせて行くものもある。
いつも思うけど「星に願いを掛ける」というのはいい諺だ。これほど他力本願(仏教的に正確な意味でなく、慣用的な他人に頼るという意味でーー)が意味ないことを教えてくれるものもない。
あれは流星ではなく彗星だったけど、大学院の頃に同僚と4人で伊香保まで見に行ったことがあった。山頂についたころには雲が出てしまって果たせなかったけれど、今、思い出すと妙に懐かしい。そのときの1人はイスラエルにいる。1人はインド研究者になったはず。もう1人はニーチェの研究者だったけど、どうしたかな。
今日は、ぼくは結婚記念日なんだけど、クルマの中のラジオで高塚光が言うのは土木の日でもあるらしい。「土」が「十」と「一」。「木」が「十」と「八」に分解できることにちなんで、だとか。髪は長い友だちってのと同じですね。なんとぼくは「土木の日」に結婚してしまったのだ。この土木の日の設置団体が何かは高塚さんは語っていなかったけど、国土交通省とか、ゼネコンの業界団体だとか、まぁ、そんなところだろう。
土建国家というのは最近あしざまに言われまくりであり、小泉改革の行方も最近では道路公団民営化が出来るかどうかに掛かりつつある。道路公団民営化反対の会を設立し、政策論を交わすようなそぶりを見せる一方で、田中外相更迭で内閣小改造をやらせ、組閣人事からも土建国家離脱を遅らせたいのが橋本派の思惑だろう。しかしあんまり構図がはっきり見えてしまうと世論の反発を食らうのでどう進めるか。
確かに土建依存は評判が芳しくない。がらがらの高速道路は見るからに無駄である。過疎対策になると言われるけれどとんでない。交通の便が良くなればなるほど地方の人は都会に出ていってしまう。道路や新幹線工事の立ち退き料で豊かになった農家、固定資産税で潤った地方自治体は農業の近代化に着手し、それは人手を不要とするので、人口流出を支える動きにもなる。道路とか鉄道を造って、それが自治体の成長のジャンピングボードになったのは経済成長期、人口増加期のほんの一瞬であり、もはや日本の近代化はその段階にない。
しかし、だ。日本に土建以外になんの産業があるんだろう。ここまで人件費が上がってしまえば製造業はどう頑張っても中国に勝てない。サービス業も人口が飽和し、更に減り始めている以上、成長は望めない。
最近、日本からの屑鉄の輸出が好調だとサンデープロジェクトで竹村真一が「明るい話題」として報告していて、中国の建築ブームで屑鉄材の需要が増しているせいなのだという。電気炉で溶かして鉄骨材にするんだろう。これは逆に日本では土建すらダメになった結果であり、屑鉄を使う当てもないのだ。ただ明るいかと言えばおおげさで1トン3万円だと竹村氏も言っていた。解体・輸送コストを考えたら雀の涙もいいところだろう。
結局、日本は大きな箱モノを作り、その支払いを取りっぱぐれがないように公共事業費で充てるしか、多くを安定的に雇用する可能性はない。サービス業が頭打ちで、土建に頼らずにはいられない要請はむかしよりも更に高まっているかも知れない。
しかし先にも書いたように今、土建で箱モノを作っても、まともに利用されることはない。新しい鉄道や道路が新しい交通容量を誘い、産業を育てるようことはもはやない。ということは、あらかじめ使われず廃墟になるモノを確信犯で作り続けるしかないのか? そんな惨状をリアリズムで認めて、更にどのようなシナリオを書けばいいかを考えるべきだろう。ぼくは労働市場の開放しかない、日本を活性化する道はないと思う。中国並は無理でも、そこそこ人件費が下がれば、依然として少々割高でもクオリティコントロールが出来ている日本製なら売れる道が開かれるだろう。それになにより新しく参入してくる労働者は新しい消費者になってくれることが大きい。出来上がって使い道のなかった箱モノを使ってくれる人でもある。土建国家からの離脱を謳うのは易いが実行は現状では難しい。だから抵抗勢力のほうがリアリスティックだという支持も寄せられる。土建のみの国家からの離脱には根本的な構造改革が必要だろう。道路公団すら民営化できなくてどうするとは思うが、それだけに問題縮小してしまうべきものではないと思うし、それで解決の目が見えるほど事態は甘くないと思うのだ。
昨日、渋谷で井の頭線に乗り換えようとマークシティの2(3?)階コンコースに上がって行くエスカレータに乗ったんだけど、前の人がみなつんのめっている。なんでだろうなと思うまもなくぼくもつんのめって理由が分かった。エスカレータが止まっていたんですね。で、最初の一歩はみんなつんのめる。予想外に下半身が前に進まないので(エスカレータの速度が加算されないので)上半身だけ前に行っちゃうのだ。動く歩道が停止しているときもそうなる。
で、その後は、なんだ止まりやがってと思いつつも、普通の階段のようにガシガシ上っているときには問題ない。だけど、エスカレータの端で、もうこれは階段と同じものだと分かっていても、やおっぱりまたつんのめる。いつもならエスカレータの速度を加算したかたちで着地するのに、今回は速度がないので身体はついてゆかないのだ。
こういう経験をすると今更ながらに我々の身体がエスカレータの速度に慣れているのだと思い知らされる。視覚の中にエスカレ−タが入っているときは、もう速度をそれにあわせてしまう。これはもう反射レベルの反応で、頭の中でエスカレータが故障していると理解していてもダメなのだ。
これに類することって実は他にもたくさんあるんだろう。エスカレータのように故障することがないので気づいていないことが。文明は身体を変えてしまう。たとえばネットもそうなんだろう。体内時計のようなものの進みかたを変えて行く。そういうことの研究ってもっときっちりしておくべきじゃないか。
小中学校のコンピュータ普及政策に、僕は強く異を唱えてきた。その影響の本当のところがわかっていないからだ。もちろん新しいメディアをまるで狐を畏れるかのように根拠なしに警戒するのはおかしい。必要なのはイデオロオギーや未知への不安に目を曇らされることのない、「影響」の過不足のない評価である。
たとえばワープロの幼児期からの使用が子供の漢字記憶能力に不足を来すことはまず間違いないだろう。これは認知工学でかなり信憑性のある実験データがある。ただし、これにしてももう漢字は内部記憶しないで、ワープロ辞書に頼るという合意が出来れば問題ない。小学校でもポケット電子辞書持ち込みで試験とかさせるんだったらそれはそれでいい。どこまでの能力を保持するべきかという考えは社会的な合意の産物である。
しかし、まっとうな効果測定なしに、むやみにコンピュータが子供の心を荒廃させると畏れてみたり、逆にこれからの国際社会では物心着く頃からコンピュータに触れて慣れて行くようでなければやってゆけないとかという強迫観念やら、幻想やらを抱いたりするのはともに愚かだ。
*エスカレータが途中からエレベータになっていたので訂正して再投稿(教えて下さった人ありがとう)。
武器商アメリカは、展示会場で核兵器をデモンストレイションするらしい。
http://antiwar.jca.apc.org/NewsItem/aml24403#yamasaki-cont
大国の言動には、真義も美しさも無い。
書類と紙幣しか触ったことがなければ、世界も経済活動としか映らないか。経済とのみ扱えば、矮小化される。
こんなもののために、何十万人も死ななければならないのだろうか。
旅客機と燃え上がるWTCに現実感が無い、そうだろうか。大国の思惑の方が、リアリティを欠かないか。
アフガンにミサイルを落とせと命令を出す前に、アフガンの人に触れていてくれたら。
柔らかく、傷付き易い人の体に、自分の手を重ねたことがあれば。
別にアフガンでなくて良い。隣の他人でいい。
どうしようもない酔っ払いや、言葉がまずくて会話にならない人でもいい。病んだ体に触れる。手は精神と直結している。彼にも語ることのできない身体の精緻な言葉を聴く。細部を漏らさず見る。時間が流れ、自分が洗われる。怒りや衝動は消える。
指導層の、感覚と心の鈍磨。身体性の欠如。
戦争死亡統計は、コマの集まりだったろうか。抽象化された数字は入れ替え可能であったのか。彼は本当に知っているのか、一つ一つ名前と顔が在ったことを。
彼らにとって入れ替え不可能な生は、唯一自分だけだ。彼には、やられる側に立たない自信がある。あれらは入れ替え可能な大衆で、私は彼らとは別格である。私はこの死亡統計の一数字には決してならない。
日本では、痛みを知らないひとが、文化住宅に住む人に「痛みに耐えろ」と言う。
イスラエルがベツレヘムで病院を砲撃している。イスラエルの銃口が語る。我々は新生児室を攻撃する、パレスティナを絶望させるため。どこにも安全な場所など無いと分からせる。我々はお前を抹殺する。
http://antiwar.jca.apc.org/aw/NewsItem/aml24788
同朋が繰り返す行為、相手が弱ければ殺す。説明できるか。弱い者―社会システムを作れなかったことも含めて、遺伝子を抹殺する。生物種としてより強力な遺伝子が残る。生物としては合目的的な行動と、種としての自分を肯定してみる。医療者としての個人とは対立する。
もう十分強くなった。増えすぎたネズミはハーメルンで集団自殺した。人間は増え戦争で自殺する。
軍隊と石油の関係は?
軍は石油に奉仕している。
石油確保は安全保障。大手を振って戦争できる、千載一遇のチャンスを逃すな。
石油が出るなら駐屯したい。戦争出来ると尚良い。
嘘でもいい、砲撃できる敵を作れ。
大衆はテレビに張り付かせろ。どんなスローガンでも叫んでみせる。
抽象論で煽れ、物を考えさせるな、印象付けろ。
日本政府、よく見て参考にせよ。
民主主義はこうやって運用するものだよ。
金に糸目はつけるな、パッと使え!後から幾らでも納品する。戦後権益で他国より一歩リードする為にも、是非。
徹底的に破壊したあと、優しいアメリカが、国造りをゼロから指導してあげよう。
礼には及ばぬ、石油があれば。
単純だ。石油の出る国は占領したい。
属国にしたいのか、今のサウジのように。自分の物に、出来ないならいっそイラクのように。採掘権はどうした、ソマリア?。輸送ルートもぬかりなく、アフガン。
非難を浴びそうになれば、国連がある。
絶好の、隠れ蓑だ。
以前に読売のカーブミラーでJPRSという私企業がアドレス登録事業を行うことについて批判的に指摘したことは、この掲示板でも報告したのでご記憶かも知れない。その後、JPRS/JPNICはこちらの批判もおそらく一つの刺激となって公共性をいかに担保するかの検討作業を行ってきた。以下がその検討結果だそうです。
ココカラ*****
JPNICは、今回の業務移管にあたり、「JPドメイン名の公共性の担保」をどのような形で実現するかについて継続的に検討を行って参りました。その結果、昨年12月の総会決議の内容に加えて、さらにJPNICと政府の役割・位置づけを明確にし、次のような形でその実現を図る方針でおります。
JPRSは、諮問委員会の答申、及びそれに対するJPRSの対応などについて、JPNICに対し報告を行い、JPNICはその内容を精査する。
JPRSは、財務及び経理等に関し、JPNICに対して少なくとも年1回報告を行い、JPNICはその内容を精査する。
JPNICと政府は、JPRSがJPドメイン名の登録管理組織として果たすべき責任事項に違反しているかどうかについて相互に協議を行い、違反があると判断をした場合は、JPRSに改善を勧告する。
上記改善勧告が、JPRSがJPドメイン名の登録管理組織として果たすべき責任事項に関する重大な違反によるもので、JPRSが正当な理由なくしてその是正をしない場合は、JPNICと政府は相互に協議の上、JPRSに対して他組織への再移管の予告を通知し、さらにこれを受けても是正がない場合は、再移管を決定する。
これらの方針は、今後締結される「JPドメイン名登録管理業務移管契約」、「ccTLDスポンサ契約」に反映される形となります。なお、これら2つの契約を結ぶにあたって、JPNICとJPRSは、業務移管の基本的事項に合意し、去る11月9日に「JPドメイン名登録管理業務の移管に関する覚書」を締結いたしました。上にあげた方針は、この覚書の第七条にも反映されております。
JPドメイン名登録管理業務の移管に関する覚書
http://www.nic.ad.jp/new-org/20011116-MOU.pdf
http://www.nic.ad.jp/new-org/20011116-MOU.html
****ココマデ
さてここで気になるのはJPNICとJPRSの独立性だ。特に人的な独立性がなければ「勧告」や「移管」が茶番劇になるおそれは濃厚にある。このへんはこうした展開の黒幕である村井純の倫理感が問われるところだろう。ネットを自分の利権とみなすか、それこそ公共のものとみなすか。
触りたい欲求というのは誰にでもあるのではないか。
子供はそれこそなんでも触りたがる。うちの妻もインスタレーション系の展覧会などにゆくとすぐに触ろうとして警備員に怒られるくちだ。ぼくはよく躾けられた大人?なのでそれはないけれど、家から駅まで歩く途中、餌を探して下流の川に来ている井の頭公園の鴨が朝の光の中でのんびりと浮かんでいるのを見ると、抱き上げて朝の光のその胸の辺りの毛羽の質感を確かめてみたいという強い欲求にかられる。
前には夏の日に酸素不足からか、暑さからか、珍しく底から水面近くまで浮かんできていたナマズの背中の感触が確かめたくて公園の橋桁から手を伸ばしたら、当のなまずにかじられたことがある。結果的になまずの歯の感触も直接の接触経験をつうじて知った。
昔の恋人が相応に年を経て、肌の質感が変わっているのであれば、それを触って時間の経過を確かめてみたい。ヨーロッパの技術博物館には時々レプリカが老いてあるチャールズ・バベッジの階差装置が動くメカニズムを、直接。触ることでその作動の重さや渋さを確かめてみたい。などなど、触ってみたいものはたくさんある。(余談だけど、逆に触れない、触りたくならないのはレンズだな。赤瀬川さんが小さいときに、知り合いのカメラのレンズを唾をつけて吹いて上げたのに怒られた話をどこかに書いていた。透明で難そうなものって改めて触りたくならない。柔らかかったら少し違うけれど指紋を残して汚してしまうことへの恐怖があるから?)
きれい事をいうつもりはない。この欲望は恋人の身体をずっと触っていたがるバカップルや更には触ることに社会的生命を賭ける電車内の痴漢にも通じるものだろう。しかし、なぜそこまで触ってみたいのか。触ることによって得られる情報は、他の回路を通じて得られる知識とどう違うのだろうか。鷲田清一はなんと書いているのか(って、調べてない状態での疑問だけって雑誌の記事じゃ書けないスタイル)。指先というインターフェイスは触ることにおいてどう機能しているのだろうか。たとえばぼくの左右の指は弦楽器を長く弾いてきた経験から、指先の硬化度が異なっている(左手の方が皮膚が厚く、硬くなっている)。しかしそれでも触り心地が左右で変わるということは気付かない。となると指先ほど微妙な感触を感知できる部位は他ないけれど、それでも案外、鈍感なのか。皮膚上の触覚点のようなもので感じているのではなく、摩擦係数などを、指先の動きで察知し、それを変換して触覚を感じているのか。皮膚の接触面ではなく、皮膚を通り越して感じるようになっているのか。
昨日の夜にやっていた『水曜日の情事』で本木雅弘と石田ひかりが喫茶店できわどい会話をするシーンがあって、そのBGMがなんとピンクフロイド『Shine on Crazy Diamond』(たぶん1975年ぐらい? 題は正式には少し違いかも)。イントロが延々続く長い曲なんだけど、会話のBGMとして、というか喫茶店で流れているBGMという設定なのか、ずっと使い続けた。殆ど曲頭からボーカルが始まって少しのところまでだったから、たぶん3分ぐらいはあったんじゃないか。でもグラスがアップになるところとかにデイブ・ギルモアのギターのリフがちゃんと重なるようにシンクロさせるとか、単なるBGMではなくて、編集も含めて意識的に使っている。芸が細かい。
この曲はピンクフロイドが商業的にもっとも成功していた時期で、その前のアルバム『Dark Side of the Moon』もそうなんだけど、彼らは自分たちの歴史というか、初期メンバーのシド・バレットが狂って脱退したエピソードを暗示するような歌詞を使っていて、それにファンも結構無邪気に思い入れしていたのだ。『Darkーー』の邦題は『狂気』だったし、『Shineーー』の入っているアルバムのタイトルは『Wish you were here』でアルバム全体の邦題は『炎』、表題曲の邦題は『あなたがここにいて欲しい』。これも仮定法で書いてあるので、「あなたはここにいないけれど、いてくれればよかったのに」的なニュアンスがあって、やっぱりほのめかされているイメージはいなくなったシド・バレットなのだ。こう書いている僕も当時は高校生だったので、シド・バレットってなんか惹かれるキャラだった。最初期のフロイドの作詞作曲担当者でサイケデリックな曲調はまさに彼の独壇場。『See Emily play』とか(記憶で書いているのでこれも正確じゃないけど。英語としてもなんだかなぁ)は後にサロンミュージックがカバーしてましたね。ドラッグのおかげかもしれないけど才能はあったと思う。
でも一枚目を作り上げた後に狂いだして脱退してしまう。そんなシドが精神病院に入った後に作ったソロアルバムもぼくは持っていた。シド以後のフロイドを率いたロジャー・ウォータースがプロデュースしているんだけど、ギター一本の弾き語りとかあってそれがリズムとかが明らかに普通の生理的なものでないヘンなノリで鬼気迫る感じがあった。
ただ、そのソロアルバムを聞いちゃうと、ーーいまさらいうまでもないんだけど、当時のぼくとしては一種の新鮮な発見としてーー人が狂うっていうのはすごいヘビーなことなんだ(って形容がむちゃくちゃ足りないけど)というのが分かるような気がして、その後のフロイドが「狂気」の雰囲気でビジネスしているのはいやな感じをもった。その曲が更に換骨奪胎されてトレンディドラマ(死語)のBGMになる。長く生きているといろいろある。
すみません。ちょっと更新さぼりました。おしかりとか(当然ですよね)、ありがたいことに心配して下さっているメールを戴いています。火曜は講義で忙しかったのと、水曜は終日原稿を書いていたので(一日二本だと他のことできないですねー)。一本の方はある雑誌(まだ広告の絡みとかあるので名は出せないのですが)連載なのですが、今回のが最終掲載分になるそうです。要するに休刊になる。結構、雑誌業界は厳しいように思います。日経も相当減収みたいだし、ちょっと見ない間に尾島がゼロワンまでやっているし(笑)。ああ、そういえばあれ!から一年か。早いものだなぁ(なんだか分からない人は過去ログを見て下さい。この掲示板が瞬間最大風速的に一日アクセス数千を記録した時期があったのでした)。
さぼっていた間に起きたことといえば、うちも遅ればせながらADSLになったのでした。今更1・5メガで、モデム処分のための格安キャンペーンみたいのに乗った。あとブロードバンドの取材をしているので大学とかの早いコンピュータの使用経験はあるんだけど、自分で経験もしないとやっぱりまずかろうということで。忙しかったんであんまりチェックできていないけど、ADSLのパフォーマンスだすのが難しいと言われるのは本当なんだと実感している。基地局から遠いのか。相手のサーバーの問題もあるんだろうけど。それでも少し重めもファイルを落とすのは楽。普段見ているのは軽いところばかりなので殆ど恩恵はないし、だから高速化に二の足を踏んでいたんだけど、速くなってしまえばそれに慣れて行くんだろう。皮肉な話でヤフーBBの取材は呆れるほど対応が遅かった。サービス提供状況も送れて射るみたいだけど、取材対応もまともに出来ないんだとしたら末期的ではないか。
読売に書いたルーマンを引いた1ch.tvの記事(先週金曜日掲載)は、元管理人と言う人から感想のメールを戴いた。少し時をおいてここでも掲示してみようと思ってます。
ビンラディンが核を持っているとか、それがスーツケース型だとか言うけど、記事を書いている人はその意味が分かっているんだろうか。
まずそれはウランの原爆ではないと思う。ウランでは臨界量が大きくなるので、そこまで小型化出来ない。で、プルトニウムならある程度は小型化出来るらしい(マーブミサイルでは多弾頭化出来た)が、今度はプルトニウム性核爆弾独特の爆縮方式の設計が難しいので爆弾として作り上げるには相当の技術力が必要だ。計算のために大きなコンピュータが必要だし、爆縮に関する実験データがおそらくかなりいる。となると作れるのは旧ソ連とアメリカぐらいではないか。もちろん旧ソ連からの流出はあるけれど、ミサイル用ならともかくスーツケースに入る小型核爆弾を作る必要性がソ連にあったのだろうかというと首を傾げてしまう。テロぐらいしか使い道がないと思うからだ。だとすると、このスーツケース型核兵器とは本当に実在し得るのだろうかと思ってしまう。そこまで考えた上でなおスーツケース型核爆弾の可能性を記事にしているのだったらいいけれど、そうでなければかなり無責任だ。
もちろん出来の悪いものならイラクとかパキスタンでも作れるかも知れない。しかしその場合、爆発させようとしても爆縮設計のまずさから核反応はごく部分的となり、それでもその爆発力で爆弾自体が吹き飛び、以後の核反応は止まってしまうので使用したプルトニウム量に見合った威力は望めないだろう。もしかしたら通常のプラスティック爆弾の方が破壊兵器としては有効なくらいかもしれない。となると核だからとしてやたら騒ぐのはどうか(核については、ぼくはそれなりに調べた経緯があるので知ってる範囲で書いたけれど、通常兵器に関してはぼくなんかよりもよほど詳しい人がいるだろうからコメントして欲しい)。
でも、いやな話だけど出来損ないでも結構な被爆被害を与えることは可能だとは思う。東海村の臨界事故がたったコンマ数グラムのウランの臨界で起きたことを思えばその予想は難くない。というわけ放射線被曝(しかも汚染による長期的な)を狙って使うんだったらスーツケースサイズまで小型化された核兵器でも意味があるのかもしれない。しかしそんな汚い手まで使うメンタリティなのだろうか。炭疸菌もどうもアルカイダではなかったようだし。
談合坂のSAがすっかり新しくなっていて驚かされるが、中に入ってみて更にびっくりする。セルフサービス方式の軽食コーナーはこの種のSA/PAの定番だけど、ここは最新式らしく、食券を買った時点でオーダーが厨房にオンラインで届き、食券に書かれた番号を呼び上げられた時にカウンターに料理を取りにゆくという新しい方法だ(他のSAにも例があるんだろうか?)。
で、まず驚くのはキツネソバが500円以上もすること。ベーシックメニューが5ドルなんてちょっとひどいんじゃないか。SAは一種の根源的独占であり、そこで食事しないと他に選択肢がない。そういうポジションの場合、最低メニュー料金はなるだけ低く押さえるのが倫理ってもんじゃないか。しかし、ここはむしろ逆を行くのだ。そうすれば売り上げには確かに貢献するはずで、この種のSAを経営して複雑な利権を交錯させている特殊法人の収益になるんだろうが、相当問題がある。こんなかたちで稼ぐんじゃなくて、無駄な道を造らない方がよっぽど大事で、これは行革のなんたら諮問委員に任命されてよほど嬉しかったのか異常にハッスルしているイノセ先生に大元締めの日本道路公団解体に向けて頑張って貰うしかない。
もうひとつ、オーダーをオンラインで厨房に伝えるシステムを組んで自慢気なのかも知れないけど、番号を日本語でしか呼ばないんじゃ、外人は永遠にご飯が食べられない。なんかもうひと工夫できなかったのか? 台湾の飲茶料理屋でも最初に注文を書いて、順番を呼ばれるまで待つところがあって(新宿高島屋タイムズウスクエア店に出店してますね、ここは)、中国語がわからないとえらく往生したけど、あれは昔からそういうシステムなんだから仕方がない。それに対して新しく作ってコミュニケーション弱者を視野に入れていないと言うのは、あまりにも内向的な共同体的発想ではないか。言葉が通じないからこそファーストフードに頼りがちな気持ちを無視している。自衛隊出して国際貢献したつもりになったり、ワールドカップサッカーで盛り上がるのは百年早いのではないか。
糸井氏のWEBから派生した「ほぼ日ブックス」がラインアップされて本屋でも良い棚に並んでいる。前に糸井氏本人からこのプロジェクトの話は聞いていたので、ああこういうかたちになったんだと思って手にとってみたりしていた。
しかし・・・これって杞憂だといいんだけど、売れてますか? 「ほぼ日」から生まれた本は「豆炭とパソコン」など多くが過去にはベストセラー化しているんだが、なんとなく今回は書店で様子を見ていても今ひとつ引きが弱い感じがしてしまった。これは誤解だった方がぼくはいいと思うんだけど、もしぼくの不安が的中しているのだとしたら、その理由はぼくたちがいよいよ無料コンテンツに慣れてしまったということではないだろうか。
コンテンツは無料で手に入れられるものという価値観に強く支配されると、本のような有料コンテンツはどうしても手が伸びなくなる。ほぼ日ブックスのような知名度の高いコンテンツですらそうなったとしたら、ちょっと事態は深刻なのではないかというのがぼくの不安の理由だ。
インターネット上のビジネスは全然うまくいってなくて、ヤフーですらぼくはそろそろファイナルカウントダウンではないかと思っている。これはADSLに比重を移してもだめで、要するに先行投資し、格安サービスで数を稼いで勝ち逃げするというビジネススタイルが相当難易度が高かったと考えるべきだろう。というのも同じく勝ち逃げをする会社が多く名乗り出て、その間の競争で消耗してしまう。ネット上の無料コンテンツ配信も格安サービスの極みだけど、うまくやればアクセス稼いで広告で食えるかなと期待したんだが、大量にライバルコンテンツが現れて需要が分散し、全然稼いでくれない。そして勝ち逃げを狙ってどんどん投資していてやがてカネがつきて息絶える。そんなことの繰り返しだ。
で、そんな愚かな競争を脇目にしっかりコンテンツを有料化して、本道で稼ぐ方法が生き残るかというとそうでもなくて、無料で勝ち逃げを狙う人は次々に出てくるので、そうした無料コンテンツと競争しなくてはならない。これはちょっと勝ち目がない。多少内容に遜色があってもタダに惹かれるのは人情だろうし、タダを見て回っているうちにもう使える時間はすっかり使ってしまっているのだ。ほぼ日ブックスも面白いんだが、他にタダで見れるコンテンツがあるんだったらまずそっちをという優先順位の中で本という有料コンテンツが縁遠くなっているのだとしたらちょっと困る。
ほっておけば滅んで行くのだが、とりあえずやけになったかのようにタダで商売している人の登場が色々なところでひずみを生んでしまった。ヤフー的ビジネススタイルが登場したのは、パンドラの箱を開けてしまったのであり、これからはタダもだめ、有料もだめというダブルバインド的状況に至るのではないか。だとしたら、いやですねー。そんな道を選ばずに良いコンテンツには代価を払ってそれを支えてゆくには、今まで以上にコンテンツの優劣を正しく見る眼が必要になる。滅んでも滅んでも雨後の筍のように現れて来る大量の無料コンテンツに包囲されても、それに眼を奪われずに、正しくコンテンツを見切るという、今までにないとんでもな難しい作業が要求されている。出来るかな>ぼくたち
この掲示板でも、雑誌に書いた原稿への反応でも、あるいは人と出会い話していても感じるのだが、テロへの無垢すぎる共感は気になる。
クラウセヴィッツに倣って戦争が政治の手段だというなら、テロもまた確かに政治の手段だ。日本国は戦争を再び政治の手段として合法的に認める道を歩み始めているが、そこでテロが否定されるのは暴力の主体として(近代)国家のみをみとめるホッブス=ウェーバー的な価値観の反映に他ならない。確かに国家を、その様々な共同幻想の縛りから解き放ってみればテロと戦争の差異はかぎりなくなくなる。テロによってしか正義を主張できない、国家たりえない共同体にっとって、テロは必要な暴力になる。それは論理的には正しい。
しかし問題になるのはそうし大ざっぱな同一性ではなく、むしろテロや戦争のそれぞれに差異を見て行く微分化の視点だろう。
詩人の石原吉郎は「1人の死を無視するが故に数を告発するヒロシマを憎む」というエッセーを書いていた。ヒロシマでは人は一人一人の死を死ななかった。数としてしか死ねなかった。そこにこそ人間の尊厳への侵犯がある。WTCの犠牲者たちもまた数としてしか死ねなかった。人を数としてしか死なせないテロは許容できない。その種のテロを許容することが大量虐殺としての戦争や、個人の尊厳をしらぬままに置かしてゆくグローバル企業の経営効率最優先の方法の許容に繋がる。
アメリカの力に任せた方法に反感を感じ、ビンラディン支持を表明したり、そこまでしなくても密かなエールを送る人が多いように思う。最近の反戦気分、反米気分の多くは他愛のないものだろう。しかしそうした状況を積分するかのように差異を埋めてしまう単純無垢な考え方は、巡り巡ってパックスアメリカーナを維持するための戦争やグローバル企業の横行を許容してしまうことに繋がる。そこに批評性がいかに欠如しているかは、戦争報道や、ネット上での戦争論の氾濫の影で、本当に人々が知っておくべきより足下の問題、身近な危機の問題が殆ど知られずに進行している今の日本のどうしようもなく腐敗し始めている状況をなすすべもなく許容していることからも明かだろう。
戦争にもいろいろあるし、テロにもいろいろある。情けないくらい凡庸な、当たり前の話だ。しかしそんな当たり前の思考の立脚点が蔑ろにされることが多くないか。先に起きたテロがどんな種類のテロか、今、目の前で起きている戦争がどんな種類の戦争か、差異を見る必要がある。それを見ようとする視線は、今、自分たちが生きている社会の輪郭を改めて見極めようとする視線として返ってくるのだと思う。
午前中はゲーデルとチューリング、ノイマンの絡み合いについて調べる。ゲーデルの不完全性定理は、ぼくにとって大きな存在。大学時代にその存在と数学史。科学史の中での意味を知って、数学基礎論をかじってみようかと思った。その先にぼくは言語哲学に漂着するわけで、なんとなくこのへんが今のぼくの、具体的にさかのぼれるルーツなのかと思ったりする。
そんなゲーデルの証明を支える形でチューリングのチューリング機械のアイディアが出てくるというのは最近知った。そしてチューリングマシンがノイマンによって今のコンピュータとして現実のものに作り上げられる。で、ノイマンはそれを使って核技術とゲーム理論を極めようとしたし、チューリングは暗号解読技術に貢献するし・・・で、ゲーデルから広がる波紋が今の社会をいかに規定しているか知ると、その思想史的経過をもう一度おさらいしたくなった。IT系ライターは数多くいるけれどこのへんのことまで視野に入っている人はどれくらいいるんだろう。その欠落があるからエシュロンとか暗号について素朴な考え方をしてしまうのではないかと思ったりする。ゲーデルもチューリングもノイマンも複雑な人物であり、その複雑さはこれまた複雑に入り組んだ形で彼らの思想や研究成果に反映している。科学の発見それ自体は誰にでも開かれているものだが、その発見がどのような文脈の中でなされるかというのは時代性と科学者の個性の拘束を受けていて、歴史的にはそうした拘束が大きく影響を残すように思う。
午後からは藤沢に取材。事故や先天的な異常で四肢が奇形となっている人に、生まれつきと見まがうほど自然な外観の人工の指や手を作る仕事をしている工房を訪ねた。はじめは本物そっくりの指や手が机の上に転がっている光景に違和感があったがだんだん慣れてしまう。
夕方は秋葉原を散策。PDAについてのシンポにパネラーとして出るので下調べ。ぼくはPDAといえば数年前にザウルスを買ったけれど結局使わなかった。その後、PDAはずいぶん便利になったようだけど、はて自分は再び使う日が来るのだろうか。最近のぼくはスケジュールとかを電話で決めてもメモ帳にすら書きこまなくなっている。全て記憶で勝負している。もちろん事故もないことはないのだが、面倒くささが勝ってしまう。よほど混乱してくると喫茶店でメモ帳に書き出しながら整理したりするけれど、そんなに混乱するスケジュールで動くことは滅多にない。PDAもモノとしては面白いのだが、買ってもきっと三日坊主になるだろう。
最初のサウルスに関しては鮮烈な思い出があって、それはPDAの機能とは全然別なのだが、買った翌日にぼくはザウルスをスープの中に落下させてしまう。どこぞのホテル謹製の「伊勢エビのスープ」とかいうもので缶詰から出して鍋で暖めて、スープ皿に入れて飲もうとしていた。その時に行儀悪いことに買ったばかりのザウルスをいじって食事をしていてそれを皿の中に落とすのだ。さすがに電子機器は水分には弱く(当たり前か)あっけなく活動を停止した。幸いなことに販売店で保険に入っていてそれは落下とかでも適応されるものだったので、翌日、店頭に持って行き、新品と交換して貰った。店員はぼくの持っていったザウルスを何か汚いモノでも触るように扱っていた。というのも外側は拭いて綺麗にしたけど、エビ臭さは取れなかったのだ。エビ臭い電機製品ってなかなかない。
というバカ話しか書くことがない。ちょっと低調、なのかな。
たぶん、もう出回っていると思うのだが、コーネリアスの新譜はみなさんもう聴いたのだろうか。
CDRが焼ける体制になってから、レンタルできるメジャーなCDはレンタルで済ませ、絶対に買わないと聴けないCDの購買費にと、とぼしい予算を回す習慣がついてしまったぼくは、今回の新譜も、もちろんまだレンタル解禁になっていないので聴けていない。しかし雑誌なんかでみるかぎり前評判はいいみたいだ。
小山田の新作リリースのペースはなんだかだんだん遅くなっていて、しかし出ればで出たで話題になるところは大滝詠一みたいだ。実際、第二の大滝になってゆくのかもしれない。そうなれる資質は最近のアーティストの中では珍しくあると思う。ぼくは前に雑誌で小山田をインタビューしたことがあるのだけれど、神経質な感じはさすがにあったが、すれていない、まじめな音楽好きの少年っていう感じだった。カヒミカリイとの関係は女性週刊誌ネタになったが、彼女とは別れ、今は別の女性と家庭を持ち、もう子供もいるはずだが、芸能ジャーナリズムの射程からはもう外れている。その点、小沢健二(どこにいった?)ならおそらくまだ芸能ジャーナリズムが食らいつく価値が残っているはずで、そうした結果の違いは、結局は彼ら二人の音楽に対する真摯さの違いなんじゃないかと思ったりもする。そんな小山田の作品に対するスタンスは音楽だけでなく、物作り一般において非常に参考になるものではないか。
で、新譜が聴けないので、彼のソロ第一作『ファースト・クエスチョン・アワード』を久しぶりにレンタルした。これは出た当初にやはり借りて聴いたけど、当時はCDRもなかったのでアナログカセットしか家には残っていないのでもう一度という判断。小山田にしてみれば青臭い、無に帰したい作品らしいし、確かに小山田らしさが薄いことは認めるが、69/96以後の激しい作り込みのアルバムよりもおおらかで、これはこれでいいと思う。
で、家に帰ってみてみたら小山田ではなくクラムボンのファーストが入っていた。確かにこれも聴こうかなと迷ってはいたんだけど・・・・。最近、自分で買ったつもりのないものが買い物袋に入っていたりすることが多い(万引きじゃないよ。盛大な斜視のようなもので、Aを手にしたつもりなのに視線が斜行していて実は横のBを掴んでしまう、みたいな感じなのだ)。ボケ始めているんだろうか。
てないうわけで予想せずに聴いたクラムボンだけどこれもなかなか良かった。「まちわび」しか聴いていなかったけどデビューした頃からもう完成されていたんだなぁと思った。確かにこのメンバーは専門学校で出会ったんだよな。専門学校生の生きる道として、これはありだろう。技巧とか、才能の強度ではなく、力の抜き加減の微妙なセンスとか感性で勝負をかけるというのも。ジャナ専でもそういう学生が出てくれればいいんだけど。
武田徹
『偽満州国論』を書いていたときの「導きの神」は法理学者ハートだった。言語論を専攻していた僕にとって、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論をひきながら法を説く方法は入り易かった。これも法の基礎論にだって応用できるしたたかでしなやかな世界観を呈示してくれたウィトゲンシュタインさまさまである。
で、『隔離という病』の時は政治哲学者ノージックに救われた。ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』なしにはあの本は書けていない。これも感謝である。ちなみにノージックを発見させてくれたのは風の谷のナウシカであり、稲葉振一郎氏である。
そして今はルーマンを踏まえて「信頼」の問題について考えている。科学技術社会学のような位相で書いているものがあるんだが、ロールズの『正義論』も参考になったが、それ以上にルーマンの「信頼」論は科学的世界観の位置づけを説明する上ですごく役に立ってくれている。
これはちょっと意外だったんだが、大学の頃、ぼくは言語の喚起力の機能論的分析というのを手掛けており、ヤコブソンを少しは援用しているけれど、殆どオリジナルでうんうんうなりながら考え出したものだった。で、それは若き日のすごくよい経験だったけれど、今、ルーマンの社会システム論を読んでいると機能論的分析のスタイルがぼくの目指していたものと似ているのに驚かされるのだ。ということは、もしも大学時代にルーマンを読んでいたら・・・・。あの頃は社会学ってあんまり魅力的じゃなくて、そっち系の文献にはそそられなかったなぁ。でも偶然に出会っていたら、すこしは楽が出来たかもしれないと思う。ま、過ぎたことは仕方がないんだけど。
それにしてもどうして日本のノンフィクションライターはハートやノージックやルーマンに興味を持たないんだろう。社会を論じる上で役に立つと思うんだけど。
前に野村進、岩上安身、井田真木子と鼎談をしたとき、ぼくがノンフィクションの領域はフーコーの『言葉と物』や『狂気の歴史』ぐらいまで及ぶものであるべきだと言ったら、野村進が後からぱくってエスクワイアのコラムに同じ趣旨のことを書いていた。しかし野村進はフーコーを本腰入れて読んだのかな。パノプティコンぐらいは知ってると思うけど。フーコーを思想の歴史を(独特の文法を駆使して)綴ったノンフィクションライターと見る一方で、思想の歴史の中にフーコーを位置づける視点がないといけないと思う。パノプティコンとかいう概念を単品で引用するのは易いんだけど、批評的な引用は、そうした両面通行的な図式が踏まえられていないと出来ないのではないか。
人形峠を越えて三朝温泉へ。ここはラジウム温泉が売りだ(った)。一度はブームが去った後に莫大なウラン残土(劣化ウラン弾と似た性格のものになる)に悩まされている人形峠と同じく原子力への逆風の中でこの温泉町がどんな軌跡を辿ったかを見るのも今回の旅の目的のひとつだった。
訪ねたい場所はふたつ温泉街の中にあるキューリー広場と、温泉街を見下ろす三朝高原に作られていた広大な遊園地施設だった(らしい)ラジウムガーデンだ。
キューリー広場の方は綺麗に整備されていた。レントゲンのように医療利用だとイメージが良いのだろう。もうひとつラジウムガーデンは・・・・。訪ねてみると看板はさび付き、草に覆われて殆ど見えない。ガーデンを所有していたホテルは倒産したのか、荒れ放題だ。閉鎖の仕方が尋常ではなかったようで、立ち入り禁止措置も取れなかったまま入り口のガラスが割れている。玄関ドアは飽きており中に入れた。一時期によくあった温泉ホテル風で、広間にバーカウンターがあり、喫茶スペースがある。不思議だったのは中性子爆弾で被爆でもして、急に人だけがなくなったかのように、机の上にコーヒーカップが置かれたままなこと。ほんと、どういう倒産の仕方だったのだろうか(あとで地元で郷土史の本でもないかと思って鳥取駅前の大きめの書店を探してみたが見つからなかった)。当然ラジウムガーデンも昔日の面影はない。最後の活路は巨大迷路に賭けたようで、その残骸が残っている。ラジウムゆかりの内容と言うことではなく、名称だけだったのか。
三朝を通過して、日本海側にゆくとハワイに出る。あー、もういやになっちゃうんだが、羽合という地名があって、そこは音が英語表記がhawai(さすがにiはだぶってないけど)になることをこれ幸いと、地元の福祉センターをハワイアロハセンターなんて名乗っているのだ。ラジウムのつぎはハワイなのだ。ちょっと意地悪な言い方をすれば、こうしてはしゃいじゃうのも過疎地区の貧しさのせいなのだろう。海岸沿いにあったハワイ風土センターなる展望台には山陰道完成の青写真が誇らしげに張り出してあったが、道が出来ればさらに人口は流出するだろう。村おこしというと、道をつくる、新幹線を誘致するというのが定石だが、それで過疎が止まったという幸福な結果になったケースを知らないのはぼくが寡聞すぎるせいか。
保守派と民族派を区別する必要があるのではないでしょうか。
昨今の新右翼は反米を標榜しています。
小林よしのり氏が、ビンラディン氏支持を打ち出したとしても、
私は違和感を感じませんが・・・
もっとも、革命的本能から、私は小林よしのり氏の主張は唾棄すべきものと思っております。
土星を見た。それも「わっか」つきのである。
僕は今、鳥取県の佐治アストロパークに来ている。超絶職人芸集団として名を馳せる三鷹光機製の天体望遠鏡がここにはいくつか納品されており、それを実地で見るというのが目的だった。
先に書いた人形峠周辺の見聞は仕事とは直接関係なく、こちらが本命だ。
望遠鏡は昼間の間にじっくり見た。しかしその本領が発揮されるのはやはり夜だ。今晩の鳥取地方は薄曇りで最初は望み薄かと思ったが、9時前に雲が切れて土星が見える。そこに照準を合わせると、口径103cmはダテでなく、くっきりとした輪郭で土星が見える。その姿はイメージとしてはさんざん複写されているわっかのついた星そのものだった。それをライブで見たのだ。
しかしぼくはわっかつきの土星を見るのは最初ではない。まだ小学校に上がらない頃だったと思うが、祖父が天体望遠鏡を買った。そのとき、操作を教えるためにメーカーの営業部員か販売店員かが我が家を訪れ、天体望遠鏡を宇宙に向けた。「ほら、これが土星」と彼が言い、妙な角度でついていた接眼部をのぞき込むと確かに輪のついた星が見えた。望遠鏡の性能が低く、輪は星の本体と分離して見えず、楕円形の星のようにしか見えなかったが、それでも十分だった。子供心に宇宙の脳裏で立体空間として感じることが出来たし、宇宙の広さ、ーーー太陽系などのそのほんのご近所一帯にしかすぎないのだがーーを思い知らされた。そして自分達が生きている地球が宇宙の中に浮いているひとつの天体に過ぎないことについて、深い孤独感と共に思いを馳せた。
祖父の天体望遠鏡は赤道儀ではなく、土星はすぐに視界から外れてしまった。そしてそのあと二度と見られなかった。月ぐらい目標が大きいとよく見えるんだが、惑星は難しい。恒星は時々偶然に視界に入ったが、どの星を見ているだかよくわからなかった。そんなわけで天体少年にはなりそこねたが、いま、ぼくが僅かでも科学的な精神を持ち合わせているとしたら、それはこのときの経験が大きいように思う。遠くをみることは、成長のある時期にぼくはとても必要だと思う。遠くにいければないさらだけど、それが難しい場合には遠くを見る。広さに打ちのめされるためには、作りものではなく、本物を見る。それは遠くから見返す視点を持つことに繋がるように思う。
朝日の書評欄はぼくも書いていて、そういえば、デジタル化許諾の意思確認書が送られていました。ぼくの場合、まだ許諾していないのでこういうふうにWEBには入らないわけです。新聞や雑誌に書く短い書評は「旬」があるので、後から本にまとめることはおそらくないでしょうから、これは許諾しようかと思っています。
明日(もう今日)から鳥取出張。本来の目的な全く別件なんだけど、近くで行くので人形峠のウラン鉱山後と、ウラン成金たちの夢の跡を見てくるつもり。
武田徹