
武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG84
こないだの日曜の朝日新聞の読書欄に、中村哲さんのご著書が取り上げられていました。
WEBでも読めるようなんでご紹介しておきます。
http://book.asahi.com/rev/rev01103005.html
劣化ウラン弾の次の書き込みがこのテーマだと不謹慎だと思われると困るが、本人はいたってシリアスなつもりなのでご理解を。
カンパニー松尾というAV監督がいる。この人の存在をぼくはひょんなこと(彼のAV監督仲間であるバクシーシ山下についての速水由紀子の原稿を巡ってちょっとトラブルがあった。その節は申し訳なかった>関係者諸氏)で知って、その作風に非常に惹かれた。いってみればAVという建前を隠れ蓑にする、ひりひりするほどリアルな同時代のドキュメンタリーなのだ。
で、一度、インタビューを申し込んだことがある。ビデオでは自ら男優を務め、顔どころかお尻だって出しまくっているのに、雑誌の取材だと撮影前にサングラスをかけさせてくれというのはなんかおかしかったが誠実な人柄が感じられる人物だった。
そんなカンパニー松尾の(たぶん)最新作『2001年テレクラの旅』はすごい。ちょっとすごすぎる。日本がいかに腐っているのか、凄まじい臭いの溶けかけた腐肉(しかもアフガニスタン人の百倍は脂肪が混じっている)を手ですくい上げて見せてくれるような感じだ。とりあえず豊かで平和になったこの国独特の時間と空間と情報の淀みの中で歪み、病み、狂い始めている女達と、彼女たちとシンクロすることで自らも壊れて行く監督自身の姿を記録したドキュメンタリーであり、AVの必要条件!は一応満たしてはいるが、どう好意的に見てもAVではない。実は『A2』の森達也監督とは深い部分で共通する指向性があるように思うのだが、監督自身が最終的には性病をうつされるところまで記録し、まさに身をもって時代と触れ合った迫力では、こちらの方が圧倒的に上だろう(『A2』は逆に森の健全さがたのもしく感じられた。その意味では監督としての質は水と油なのかも知れない)。彼が本気で作った他の作品と同じく、下品な演出ももちろん介在せず、思想性とかイデオロギー性を誤解させる可能性が微塵すらない作りに、ぼくには潔さを感じる。山形ドキュメンタリー映画祭に出していれば、『A2』以上の評価を得たかもしれないとも思うが、そうした世間の評価に繋がる回路をこの監督と作品が未だに持っていないのがつくづく惜しい(っていうお行儀のよいかきたかたはなんか居心地も悪いのだが)。しかし、同時にこれは一般に見られたりしない方がよいのかもと思ったりもする。なにしろ見てしまったことを後悔する作品なんて滅多にない。しかし、そんな紹介の仕方がこの作品の性格の説明として一番合っているのかもしれない。
でも勇気がある人はレンタルビデオ屋で借りてみるといいですよ。とてつもなくいやーな気持ちに絶対になる。吐き気がするかも。しかし、この気持ち悪さの延長上に、インタ−ネットの匿名掲示板の繁盛ぶりや、小泉内閣人気とテロ特別措置法があるのだと思うと深い部分で共感(のようなもの)が味わえるかも。
武田徹
ジュンさん書き込みありがとう。劣化ウラン弾の問題は時々蒸し返されたように報じられますね。もっと本格的に調査追求すればいいのにと思います。
ぼくは分からないんだけど、どれくらいの線量があるんだろうか。というのもウランなどの半減期の長い物質はその気の遠くなるほどの数字を聞いただけで普通の人は驚いてしまうんだけど、逆に短時間に与える被爆量は半減期の長さに反比例して少ないことにもなるので、危険性に関しては一考を要します。原発のウラン燃料イエローケーキは殆ど防護服なしで近寄れるんじゃないかな、確か。
ただ内訳としてはウラン238が多いのでしょう。アルファ崩壊する元素ですので長半減期とはいえ、体内被爆は結構深刻になると思います(アルファ線は紙一枚で遮断できてしまうほど透過力が低いのですが、直接被爆する体内被爆の場合には質量を持った粒子線なので影響が最大になります)。そのあたりしっかりしたデータとニュートラルな専門家のコメントが欲しいところですね。
下記のアドレスで、劣化ウランに蝕まれた人々のレポートを読むことが出来ます。
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/uran
湾岸戦争で使用されたアメリカ製劣化ウラン100万発が壊したのは、イラク軍だけではありません。100万人規模の被爆者を生んだ。爆発したウランは千分の一ミリの埃となって、半径40kmに舞い散った。軍から劣化ウランは安全といわれてアメリカ、イギリス両軍兵士は戦場に送られた。重金属ウラン微粒子の舞い飛ぶ「死のハイウェー」に。彼らの肺に沈着したウランは彼らの肺、腎臓、骨、骨髄、生殖器を体の中から被爆し続ける。半減期は45億年。イラク南部で白血病や乳癌が多発し、人口1万人の町バスラでは99年だけで500人以上の市民が癌で亡くなる。湾岸戦争前の15倍である。脳や皮膚の無い新生児が、何度でも生まれて来ます。同様にマサチューセッツ州の軍需工場の隣で、20代の若者が肺がんと乳がんで死んでいます。
1940年代からアメリカには50万トンの劣化ウランが溜まり、50個所の研究施設、軍需工場がこれを砲弾に作り変え、アメリカは世界中に売った。アメリカ政府は、核兵器製造労働者が被爆するのを見過ごし、ウランを垂れ流す軍需工場を取り締まらず、湾岸戦争であるだけ使い、危険を隠してコソボでも使用した。健康を失った自国の兵士は使い捨て、他国なら大地と遺伝子まで徹底的に破壊する。通常兵器と偽って世界中に何百万発を売り、世界中を劣化ウランと嘘で汚すつもりである。
開発開始から50年後の2000年、アメリカは核兵器製造に従事した民間人の被爆に対し政府の監督責任を認めました。
その後、劣化ウラン弾を使わないと、アメリカは宣言したのでしょうか。
アフガンで、またもや使用されないでしょうか。
空爆に使用している兵器名は公表されていますか。
NAVIにSUVに乗ってアメリカについて(もちろん批判的に)考える趣旨の記事を寄稿。この記事はおそらく中央公論より右のオピニオン誌には載らない種のものだが、それでも編集部サイドはもっとアメリカの方法を激しく告発する原稿を所望していたようで、あんまり喜んで貰えなかった(印象がある)。蝋人形館に陳列したいほどステロタイプだった左翼編集長御大は新潮社に転進したが、彼なき後もこの雑誌の何かあると左旋回する傾向は健在だった。
しかしここはもどかしいところだが、今回のアメリカの選択が完全に悪いとも言えないし、テロが正当性を持つとも絶対に言えない。この掲示板にもWTCの映像をみて「スカっとした」なんて書き込みがあったけれど、あんまり単純に善悪の図式を採用する思考法は、絶対にいつかその単純さに足を取られる。どこまでが妥当で、どこからが問題か、線を引く必要があると考え続けているぼくは、かくしていつも孤独感を味わう(?)のだ。
昨日、反テロ愛国法について書いたが、日本でも最短審議時間記録を達成する勢いでテロ特別措置法が成立したのはご承知の通り。これで国会事後承認で自衛隊員は海外に送り出されることになった。しかしこれで更に建て増しに建て増しを加えた温泉旅館みたいな状態となった自衛隊関係の法体系はその醜さからしてまず問題ではないか。自衛隊とは何なのか、何を国は自衛隊にさせたいのか法文からはちっともわからない。わからない状態で存在させられている組織というのは浮かばれまい。
TVで何かというとアフガニスタンとその周辺の地図が映されるが、そのたびに感慨を持つのはアフガニスタンではなく、パキスタンとインド国境が一部で点線となっている事実だ。ここは国境線が確定しておらず、日常的に交戦状態となっている。そんな地域がまだ地球上にはあるのだ。
この地域の帰属問題があったからこそインドもパキスタンも核保有に躍起となり、それで経済的封鎖など制裁を国際社会から受けていたのだ。アフガニスタン戦争の勃発以来、アメリカなどはパキスタンの支持を獲るために経済制裁を解除した。核の問題は棚上げになった。もしかしたらそのほうが後世に憂いを残す、ということにはならないか。
アメリカの核兵器開発がドイツに先を越されないためにと加速させられていたことはよく知られているが、ナチスドイツ降伏が近づいた時、ドイツの原爆計画が西側に伝わる。それはどうみても原爆ではなく原子炉を作る計画だった。そこでロスアラモスの科学者達はドイツは原子炉をアメリカに投下するつもりなのかと考え、その破天荒の計画にむしろ脅威を感じたという。というのもウラン原爆ですら当時のB29で運搬可能な大きさに収まるか不明だったのだ。もっと巨大な原子炉を投げつけるとはいったいドイツはどういう方法を考えているのか、と。
もちろんそれは誤解で、当時のドイツは原子力利用は実験室レベルを出なかった。ただ本当に原子炉を投げつけられていたら、それは原爆ほどの瞬間的な破壊力はないにしても相当の放射線汚染被害をアメリカに及ぼしていただろう。核技術は、たとえ弾道ミサイルなどハイテクと組み合わせなくてもローテクだって兵器的に十分に利用可能だ。そして核実験を成功させたパキスタンには明らかに放射性物質を大量に生産できる原子炉が存在している。そうした事情を含めてアメリカの戦略は検討されるべきだろう。もちろんここでもいたずらに不安に駆られるだけでもいけない。何をパキスタンやインドに対して国際社会はすべきなのか考えるべきだ。
アメリカの反テロ愛国法ってのは相当にすごい。「テロの疑いのある外国人を司法の手続きなしに拘束できる」などは、外国人であるところが「愛国法」の裏返しなんだろう(英語だと愛国法はなんと言うんだろうか)が、こうした超法規的な手続きを法的に認めてしまう矛盾を未来のアメリカ人はきっと恥じることだろう。おそらくマッカーシズムの時代と並び称されることになるのではないか。あんまりなので清水幾太郎の『愛国心』を改めて読んでしまった。おかげで単行本の書き下ろしの作業が少し進んだ。そこには清水幾太郎論が加わる予定なので。
それにしても時限立法ながら電子メール傍受を技術的に可能かどうか検討もせずに決めちゃう拙速ぶりもすごい。電子メールは暗号化されたらもう傍受できないだってば。デジタルの世界では傍受技術よりも暗号技術のほうが圧倒的に強いという非対称の構図がある。少なくともアメリカはキーエスクロー制度導入がクリントン時代に不評で見送られた段階で電子メール傍受は不可能だと識者は認識していたはずだが、今回はそんな経緯など一切無視して国民の安全のためとあらばなんでもかんでも法律に盛り込んでいる。
しかしそしてそれについて指摘を一切なしに法律の文面をそのまま紹介しちゃう朝日の記事もすごいぞ。暗号化の技術が解読を勝っていることをリアルに認識してかかるべきだという話はぼくがエシュロンを例に引いて読売で書いたでしょうが。ぼくごときの記事は読まないのか、あるいは技術に踏み込んだ話はさっぱり理解できないので読んでも忘れちゃうのか。しかしテロが生物科学兵器を利用しはじめ、反テロ側も通信傍受を行うとあれば、それらに関する技術の理解は必須だろう。そうした「教養」なしにまともな記事はかけなくなる。いつまでもエシュロン幻想に惑わされているようではテロについても反テロについても正しい距離をおいた報道は出来ないとおもうのだが。
これはきっとぼくが目撃する前からなんだろうけど、我が吉祥寺では自転車が渋滞しているのだ。東急とかユザワヤの駐輪場に入るのを待っている人たちが、駐車場に入れるのをクルマの中で待つドライバーのように自転車にまたがったままじっと列を作っているのだ。最初に書いたようにこれはぼくがウォッチしていなかっただけで、今日からと言うことはないと思うが、そう前からあったとは思えない。
たぶん原因は吉祥寺で最近、自転車の路上駐車を相当厳しく管理するようになったせいだ。自転車が止められそうな場所は市が管理して、登録した自転車だけを停める。管理している高齢者がいてその賃金は登録料から回っているのだと思う。で、もはや自分の意志で自由に自転車を停めて買い物というわけに行かなくなっている。で、登録していない人は仕方なく東急やユザワヤの駐輪場に停めるのだがそこがキャパを越えてしまって待ちの行列になるのだ。
しかし自転車が渋滞している街なんて他にもあるのだろうか。だいたい欧米は自転車がそう多くないし、アジアでもクアラルンプールやシンガポールはなんかは自転車をあまり見かけない。中国の街とかだとものすごい数の自転車が走っているが、駐輪場入場渋滞というのは見たことがない。今の上海ぐらいだったらそういうこともあるんだろうか。
いずれにせよ、自転車が渋滞するって言うのは、やはり考えさせられる光景だ。都市設計のまずさだと思う。自転車で街に出てくるのは、環境コンシャスの人もいるだろうけど、現状では殆どが自動車は不便だからとかいう選好だろう。自動車が下駄がわりにならないのは、繰り返しになるが環境問題的にはむしろ積極的に評価できる側面もあるのでそれを一概に批判することは出来ない。しかし自転車が自由に停められない街というのは、自動車が下駄代わりにならないならばなおさらまずい。
歴史的に周辺人口が爆発的に増えるのが水田耕作を行う東アジアの都市の特徴で、東京もそうした経緯を辿ったが、今の吉祥寺もその延長上にある。今や吉祥寺とか下北沢が休日に人出で賑わうのはおしゃれな街のイメージがあったり、買い物に便利だからで、水田耕作云々とは関係ないように思えるが、その前提となっている周辺人口の厚みはやはり農閑期の都市流入人口が大きかった結果だろう。となると避けがたい問題でもあったわけで、やはりそれに見合った交通インフラ整備というか、駐輪場整備をしなかったのはまずいと思うのだ。
自転車上でじっと渋滞に耐えるっていう姿はなんかけなげだ。お行儀がよい吉祥寺の住民を誇りに思うが、その時間コストはやはりもったいない。自転車ぐらい自由にとめられるべきだろう。市は路上駐車問題解決のために管理を始めたが、登録者は定期的に自転車で駅までやってくる通学や通勤の人が多く、休日の買い物客は毎日の利用ではないので登録しない。実際、登録駐輪エリアは休日は逆にすいている。しかしそこに停めようものなら自転車オジサンに怒られる。だから買い物客はあぶれて、いつでも入れる駐輪場に殺到する。そんな需要の凹凸を平均化するなら簡単で、少し柔軟さを持てば良い。怪物的な人口を相手取る都市政策はヨ−ロッパを前例にできないので、もっと智恵を使ってわれわれ自身で住み易くする技術を編み出すべきなのだ。
ベトナム戦争末期のアメリカの劣勢を決定的なものにしたのが、テト攻勢を前にした敗走だったことはよく知られている。テトとはベトナム人にとっての正月であり、アメリカ軍はベトナムの習慣を重視してテトの期間に攻撃の手を緩めた。南ベトナム人民の支持はアメリカの作戦遂行に不可欠だったからだ。
しかしホーチミンはテトを祝祭ではなく、勢力盛り返しの好機とした。当然、休戦が実現すると信じていたアメリカ軍はホーチミンの軍隊の予想外の攻撃を受けて各地で致命的な被害を出す。そしてそれがインドシナからアメリカが撤退することに繋がる。
今回のアフガニスタン攻撃でラマダンはどう影響するか。アメリカはイスラム圏からの非難を避けるために休戦したいところだが、それがテト攻勢の二の舞になることはないか。イスラムのことはよくわからないが、ホーチミンは自分たちの戦いが自分たちの民族の独立を勝ち取る「聖戦」だからこそ、聖なる期間に戦うことの正当性を訴えられた。自分たちの民族を祝福するための戦いとしてテト攻勢を捉え返すことがベトナムサイドだからこそ可能だった。アメリカはそうした思考回路に介入し得ない。外部者はその点で圧倒的に不利なのだが、それと同じ轍をアフガンでもアメリカは踏んでいないか。
考えてみれば相手の文化・習慣に配慮せざるを得ない戦争というのがそもそも矛盾しているようにも思う。ビンラディンはイスラム対アメリカの構図に持ち込みたい。アメリカはそれを避けたい。しかしラマダンを考慮せざるを得ない時点で、既にイスラム対アメリカの構図は成立してしまっている。アメリカは自分たちの側にいると信じているアルカイーダ・タリバン以外のイスラム勢力を意識して、その懐柔策を撮らざるを得ない。かつて南ベトナム人を配慮したのと同じだが、そうなった時点で、文化的摩擦を実際の戦闘を超えて内側に抱え込んでしまっている。正義の普遍性を振りかざそうとし、テロリストと自由社会の戦いだとか言い出しても、そうした単純化にはやはり無理があり、その矛盾がアメリカの戦闘行為を根底から危うくする。軍事力では文化の壁は超えられない。文化の壁を意識せざるをえない時、単なる軍事力の多寡以外のファクターで戦局が左右されることがありえる。そんな結果になることはわかっていたはずだが、ラマダンまで残り時間が減っている状況で、しかし新しい局面にも至っていないような状況が報じられると、アメリカはベトナム戦争の歴史を正しく踏まえた上で戦争を始めたのか疑いたくなる。テキストにすべきは湾岸戦争ではない(あれはボードリヤールの言うように「戦争」ではない)。ベトナム戦争だろう。湾岸戦争開戦前夜、シュワルツコフやパウエルは泥沼化し、惨めな結果に終わったベトナム戦争の経過記録を何度となく読み返していたという。そして戦争の難しさ、戦争という手段への畏れのようなものがあったからこそ、湾岸戦争は非戦争的な戦争になったと言えるのかもしれない。しかし今回、そうした歴史を振り返る作業がどの程度なされていたのか。むしろ湾岸戦争が歴史的視界を遮る邪魔になっていないか。「負けた戦争の記憶」(生井英考・三省堂に同名書あり。今こそ参考になる)をどれだけ血肉化しえていたかが問われているのではないか。いや、それは日本にいる我々にも課題であるのだろうけれど。
『ゴーマニズム宣言』小林よしのりはビンラディン支持だそうだ。原爆投下を忘れるなってメッセージに反応したらしい。リアルポリティクスを考慮すると結構難しい保守+反米の組み合わせに、さて彼のファンはどう動くのかな。
サイードに批判され、更には浅田彰にまで時代遅れの烙印を押されたボードリヤール『湾岸戦争は起こらなかった』だが、ぼくは未だにそんなに悪い本じゃないように思っている。湾岸戦争に出兵した兵士がもしもイラクに赴かず、アメリカ国内に留まっていたら交通事故でもっとたくさんが死んでいただろうという指摘の皮肉っぽさには笑った。今や戦争の方が日常よりも安全なものになった。それを「戦争」の名で呼べるか、湾岸戦争は戦争ではなく、戦争は起こらなかったのだというボードリヤールの論理は、全くの詭弁というものではなく、それなりに納得できると思う。
そんな湾岸戦争に比べれば今度の戦争はブッシュが「新しい戦争」と呼んで危機としている割には古典的な戦争概念に当てはまるもののように思う。地上戦に投入された兵士たちは、交通事故よりも多いか少ないかはともかく、これからその何人かは殺され、犠牲者となって死亡率をカウントできる眼に見える戦争を生成させて行くのだろう。戦没者として補償されるのだろうが、アメリカ人はいのちの値段が高いからそれだけでも大変だ。では日本は? 戦争地帯には出さないのがテロ法案の骨子らしいが、それにしても国内にいるのと死亡率の多寡はどうなるだろう。PKOやPKFなんて言葉がなかったころ、自衛隊員が「憲法9条は我々の守り神です」と言っているのを聞いたことがある。本音かポーズかギャグもつもりか確定できないし、する意味もないが、少なくとも今までの自衛隊は危険はないし、各種資格は取れるしで、なかなか魅力的な職場だったことは事実だろう。ボードリヤールの言葉にならえばそれは「兵隊」ではなく、自衛隊成立後も依然として日本に兵力はなかったということになるのかもしれない。
しかしこれからはどうなるのか? ぼくは政府与党が見逃している部分と思うのだが、果たして現在の自衛隊に志願者がどの程度出るのか。職業選択の自由の下で、今の自衛隊は果たして魅力的だろうか。不況だから自衛隊でもと言う選択もあるのだろうけれど、果たしてそれは今の日本社会の「雰囲気」の中でどの程度ありえるものなのだろうか。そうした推移を見てみたい。もしも自衛隊が人的に維持できなくなったら徴兵制?とか・・・・、ボランティア強制義務化もあったので、もう一声のところなのだろうが、ちょっとそれは論理的以前に生理的にぼくはいやだな。そこに至ってついに戦後日本の背骨のようなところまで本当にだらしなく溶けてゆく感じがする。
ひとつ下の記事がらみだけど、日本の新聞報道が無署名性言語と呼ぶべき独特の言語形式で書かれていることを指摘したのは玉木明氏で、その分析は、研究は得意だがジャーナリズム経験のない研究者と、一方でジャーナリズム経験は豊富だが学問的研究活動のトレーニングがない記者上がりの大学教員が議論しても全くかみ合わず、多くの場合、床屋談義に終わるという驚くべき不毛な状況にあった新聞論の世界に新風を吹かせた。ぼくもそこから多くのものを得させて貰った。
ただ、最近考えるんだけど、むし無署名性言語で書くのでなければ日本の新聞記者の8割は仕事が出来ないないではないか。無署名性言語で書くという作業は、ベルトコンベヤのラインの脇にいて部品を組み立てて行く作業、あるいは全てがマニュアル化されているマクドナルドやスタバの店で働く作業と通じるとところがある。誰が記事を書こうと変わりはない。どう感じ、どう論じればよいかはあからかじめレールが敷かれており自動的に記事が出来て行く。
そういう流れ作業にしか関われない資質の記者が新聞社にはかなりいる。今日の日経記者だけではない。信じられないほど世辞に疎かったり、調査能力が乏しかったりする記者は少なくない。無署名性言語による新聞作りは、そんな彼らでも雇用し、働かせるための必要条件でもあるのだ。
もちろんすべてがそうした記者ではなく、一部には力のある人もいる。そういう人は「無署名性言語生成工場」の工員達をあごで使う立場になるか、そうでなければ無署名性言語の記述では収まりきれない自分の能力を他で発揮しようとする。たかりに精を出す記者もいれば、月刊のオピニオン誌にペンネームで取材の成果を書いて小遣い稼ぎする記者もいる。
様々な問題が新聞ジャーナリズムにはわき出ているが、それは新聞が二分化された階層社会化を遂げていることの反映でもあろう。もし日本の新聞が本当にクオリティペーパーを目指すのであれば、こうした階級差を埋めて行く必要がある。そのためにはもっと良い人材を(偏差値秀才をというわけではなく、署名で取材し、調査し、表現できる能力を持った人材を)雇用し、うまくその力を生かして行く人事を行うと同時に、彼らに相応しい表現の舞台を与えなければならないだろう。そう考えて、これは斎藤貴男氏が指摘していた日本の教育界の階層化と同質の問題なのだと思った。
順番が前後しているけれど坂本さん、書き込みありがとうございます。
ワシントンの郵便局員の感染・発病者がまた報じられたりしていることと、ぼくが書いたメディア関係者の出張自粛、そして坂本さんが書いてくださったファッションショーの日本企業の欠席をまとめて考えてみることが出来ないかと思います。
要するにどれも不特定多数相手の仕事なんですね。郵便というメディアも開かれたものだし、マスメディアはもちろんそうだし、ファッションショーもパブリックリレーション活動の一貫でしょう。開かれている以上、リスクは避けられない。そしてそうしたリスクを相手取り続けつつも、なんとしても開かれたもので有り続けること、そうした姿勢こそそれらの職業の核に踏まえられるべきことなのだと思う。
特に大手出版社を例にしていえばとんでもなく高給のわけだけれども、それはそうしたリスクを相手取ることも含まれているのではないか。そう説明しなければ、多忙ではない部門の社員まで、読者が聞いたら呆れてしまうような給料を貰っている体制は共感を持てるようなかたちで説明できない。危ないからメディアが報道辞めちゃうというのでは本当に必要なときに必要な情報が届かなくなる。だからそうした有事にも報道体制を維持できるように保険をかける意味も含めて我々はメディアに金を払っているという事情があるのではないか。特に日本の場合には再販制度とかで制度的にも守っている(ということになっている)わけでしょう。だからこそ、テロが起きたから出張辞めますというのが問題になる。開かれているというのは公共性の高い仕事だということだが、突然、公共性を放棄して私的な保身に走るというのは「権利は主張するが義務は果たさない」片翼飛行のように思えてしまう。
ファッションとかも程度の差はあれ、公共相手の仕事ということでは実は同じような要素を持っているのだと思います。開かれた活動をしている以上、反感を買う場合もあるかもしれない。そのときにいかに開かれていることを止めるというのではない対応策を取れるかが問われている。川久保令が原爆孤児のイメージの服で欧米デビューをしたとき、もちろん反感を持った人はいたとおもうが、そういう人をあらかじめ排除してファションショーをしたわけではなく、そうした自分のメッセージを広く伝えて行く強さに欧米のファッションジャーナリズムは喝采したのではなかったか。
同じ視点から郵便サービスもなんとか開かれたものとして持ちこたえて欲しいと思う。気になるのは感染者、発病者が時をおいて出てくるので未だに生物兵器テロが続いているように思えるが、感染チャンスは今のところ最初の一回だけでしょ。で、今回程度の感染者が出るのは前にも書いたけれど、そして言葉使いには注意したいが、そう「不自然」なことではない。繰り返すけれど、そこは冷静に。しかし肺炭疸は医学では助けられないのだろうか。薬物耐性菌ではないようなのに。
下に雑誌だって所詮こんなもんだと書いたが、やっぱり新聞も新聞なのだ。
新宿をうろついている時にケータイが鳴った。着信を見て見たことない番号だと思ったらICUの人事部から。なんか問題が発生したかなと思ったら、「日経新聞の社会部の記者が連絡先を教えてくれと言っているがどうしよう」とのこと。なんで日経がぼくの連絡先知らないんだと解せない。連載までしているのだから社内データベースに絶対に記録が残っているし、そうでなくとも過去に接触のなった担当者を調べれば分かることだ。マスコミ電話帳など外部にデータベースに頼ることだって幾らでも出来る。要するにそういう調査の習慣がなくてすぐに人に聞けば済むと考える記者だったらしい。で、事務の邪魔になるのでほっぽっておいてかまわないし、今度電話が来たら教えてくださってかまわない。そのときには「調べればすぐに分かることだと言っていましたよ」と皮肉の一つでもかましておいてくださいと伝えると、人事部の人は「こちらからかけることになっているのだ」と言う。なんて奴だと思った。お願い事だったら自分の経費負担が原則だし、どうしても相手に迷惑をかけるのだからせめて、それを最小化しようとするのが礼儀だろう。そうした事情が全く分かっていない。で、相手の電話番号を聞いてぼくが直接かける。出てくると「中高年のケータイ電話事情について記事を書いているんだが、何か知らないか」と、連絡が相手から来て当然のごとく切り出す。手間をわびるどころか「こちらからかけ直しましょうか」の一言もない。こんな無礼な相手には知っていたって何も教えて上げません。すると「誰か詳しい人は知らないか」と全然後に引かない。ひさしぶりに新聞記者らしい(笑)新聞記者に会えて、キレましたね。日垣さんの怒りが改めて分かる。「そんなことは調べればすぐわかる。研究者でも携帯メディアの専門家はいるが、その人の論文なりを読んでからたのむのが筋だろう」と応えた。冷たいようだが、ここでうかつに名前を出すと迷惑の連鎖になるとしか思えなかった。
ぼくだって取材先の相談を持ちかけることはある。でもそれはあくまでも自分で調べられることは調べた後でのことだ。そして、先にも書いたように相手の負担を最小化する努力は忘れたくない。
新聞は速報性が命で忙しいので論文なんか読んでいる時間がないと言うのかもしれないが、言っちゃ悪いが、そんな即製の記事がいいものになりっこない。そんな何の価値もない記事のために、自分の時間を割いて協力させられる人はまったくうかばれない。
で、最初から変だと思ってこたことが一つあって所属を聞いたら、成田空港記者クラブらしい(電話番号が0476から始まっていたのだ)。空港公団持ちの電話代で他の取材をするのはスジが通らないと言う正しい思想の持ち主(?)だから、相手から電話貰うことにも躊躇しないのか。成田空港記者クラブ所属の日経新聞社会部の堀という人でしたので、ご存じの方は武田が立腹しているとお伝えください。この掲示を下げて欲しかったらICUとぼくのところに菓子折持参だな。あ、そういえばヨミウリウィークリーの記者の方もウィンドウズXPからみの記事に協力したのに掲載紙を送っていただいておりません。急に雑誌に異動になってIT担当になって何もわからないというので『IT革命原論』を謹呈までしたのに、コメントを使っておきながら、なしのつぶてはないじゃないの。おかげでマイクロソフトの広報から「コメント拝見しました」といわれて、「そうですか、ぼくは見てないんですが」と応えるお間抜けぶりだ。
はじめまして。
フランクフルトのブックフェアーに出展されなかった出版社の方々
には,本当に失望です。
こちらフランス,パリ,モード関係の展示会でも同じく、
大手の会社はほとんど来仏キャンセルでバイヤーの方々の数も激減。
もちろん、大手の場合責任問題がついて回るのでしょうがないんですよーという
声も聞いてますが,要するにこの世の中で一番面白いのは、絶対日本人です。
他の国の人達はいたってノーマル,もしくは
ノーマルを装い淡々とお仕事です。かっこいいです。
なにぶん日本は隔離されたお国です,未確認情報に惑わされて
生活するのもいいけれどー、極端すぎておかしすぎますよ。
そー思いませんか?武田さん?
フランクフルト・ブックフェアで日本の大手出版社が軒並みドタキャンしたことを朝日新聞が今朝の朝刊で報じていた。この掲示板では既報であり、ぼくにとっては新情報はなかったけれど、広く、しかもドタキャンしなかった出版社と並べて実名で知らされたことは、出版社経営者に恥を知らせて反省を促すという意味で良かったと思う。
ぼくは小泉とかブッシュが「テロに屈してはならない」と盛んに繰り返す姿勢の背景にマッチョイズムの危うさを感じているけれど、言論機関が言論装置としての機能維持よりも自分たちの保身をはかる(しかも状況認識がおかしいし、対応も幼い。他の国の出版社は殆ど来ているし、出張をやめたアメリカの出版社なども現地スタッフでなんとかブースの運営はしていたようだ。しあkし日本の出版社だけが、「諸般の事情で出展を止めます」というなんだからわからない政治家の玉虫色の答弁みたいな理由を書いた紙だけを貼り付け、ただイスだけが並んだブースを衆目に曝すというキャンセル方法をとった)というかたちで「逃げ隠れ」したというのは相当に恥ずかしいことだと思う(テロの犠牲者にお悔やみ申し上げるなんて言い訳がましく書いた張り紙もあったようだが、犠牲を悼むんだったらなおさら言論機関として何をやるべきか考えた方が良い。こうして800万部の新聞で、鬼の首を取ったように書かれないと、いかに自分たちがはずかしいことをしたか分からないみたいだから、なお情けない)。前に日垣隆さんと新聞批判対談を前にスパでやったとき、彼が新聞はだめだけど雑誌はいいとかあまりに無根拠に言うので気になったけど、雑誌社だってこんなものですよ。前にも書いたけど、ポストやサピオの勇ましい記事は相当引き算して読んだ方が良い。茶番ですね、あれは。
さて、その記事でひとつ思ったことを。文中でも都築響一氏がコメントしているし、写真も彼のものだ(木村伊兵衛賞写真家だけど、彼のクレジットが入っている写真を見るのは実に珍しい。自分の編集物では撮るけど、写真単体の依頼なんか受賞前も後も受けたことないと本人も言っていた)。ということはおそらく彼がかなり有力なネタもとになっている記事だろうと推測される(もうひとつのネタもとは室謙二氏のようだ)が、なんで都築氏がフェアに行っていたかといえば、自著の出展のためだとか。実際、海外での評価も高い人だが、自分の作品を常に伝達の回路の中に置くことにかけるエネルギー密度の高さは印象的だ。ぼくもうつうつしてちゃダメだなぁと改めて思う。
武田さん、転記ありがとうございます。家のPCが復活したので、家から書き込みます。
>以前に時々書き込みして下さった
別に引退したつもりはないので(^^;、もちろん毎日ここはチェックしていますし、これからも書けることがあれば書くつもりです。
で、今書けることと言えば、アデランスの話題くらいかな、ということで出てきました。
ジマンじゃないですが、アタシ、年の割に髪は少ないです(泣)
武田さんにはきっとご理解いただけないであろう辛い思いもいろいろ味わいます。
しかしやはりヅラにはしません。だって高そうなんだもん。
今の日本ぢゃ、「ハゲ」ってのは人格の全否定に近い罵倒の言葉のような気がします。
かと言ってかつらで自分を偽ってビクビクすごすのも辛いので、開き直るしかないんだけど。
包茎手術と並んで「値段はわからないけど、男として魅力的であるためにはしておいたほうがいいこと」みたいな価値観を押し付けられている気がします。被害妄想?
TVCMもガンガン売ってるし、やっぱ儲かっているんだろうなぁ、と思います。
ハゲはダメって価値観は、増毛・育毛系大手資本の情報操作のタマモノかもしれませんね。
万国のはげよ団結せよ!
江戸時代の月代は、やはり儒教思想の反映なんでしょうかね??年上は敬えという。。でも儒教の本場中国ではちょんまげはないなぁ。。
>薄毛をあえて売りにするようなヘアスタイル
山田五郎さんや所ジョージさんがそんな感じでしょうか。
ハルキさんのアデランスのルポは、『日出る国の工場』であってますね。春樹さんもかつらはいらなさそうな感じだけど。。
なんか徹底的に無内容な書き込みですいません。。。
一昨日、生まれて始めてヘアチェックというのをやってもらった。あの、井川遙ちゃんが、TVCFで優しそうに誘っている、あれである。
ぼくは外見的には申し訳ないほど頭髪が多く、自分からアデランスにゆく理由は今のことろない。で、なんで行ったかと言えばやはりというか取材です。カツラ市場の記事はかつて何回か書いたことがあるんだけど、今回は若い編集者のリクエストで再び。興味あるみたいですね。あの世界って。片やテロがらみの報復戦争取材でパキスタンに行っている人もいるのに、ぼくは新宿で薄毛に関する心理について話を聞き、ついでヘアチェックを体験させて貰っている(笑)。この天と地のような差はなんだ。
ヘアチェックに出てきたのは井川遙ほどではないけど、なかなか放漫なボディの持ち主の若い女性スタッフで、まず毛根の拡大映像を見せてくれた。ぼくの毛根はひとつの根から太い毛を数本はやしていて、なかなか元気らしい。あと頭皮の温度を測って、場所による差がないので血行障害もないのだとか。しばらくははげの心配はないでしょうとのことで、外見的初見を裏付ける診断結果だった。
でも、ここで絶望のどん底につき落とされる人もいるのだと思うとちょっと複雑。頭髪の状態なんて気にしなければいいのにというのは、はげと無関係な人の無責任な立場の発言で、本人の耳には届かないんだろうが、それでも、薄毛をあえて売りにするようなヘアスタイルとか、ファッションとかにするという手は絶対にあるはずだといいたくなる。昔の日本でちょんまげをゆっていたのははげでも気にならない優れた知恵の産物のファッションだったと浅田彰が昔言ってたけど(ポストモダニストははげについても洒落た言及をしていた)、その通りだと思う。志村けんなんか今風のちょんまげでうまくやっていると思う。ヅラと長いつきあいになるのは、どうもぼくはあんまり幸福な人生じゃないような気がしてしまう。隠し続けるのは無理だし、何かと気になるだろうし、お金のかかる。アデランスでそうは言えなかったけど。
なおアデランスについては『日出づる国の工場(だっけか、ちょっと題名が不正確だ)』で村上春樹が優れたルポを書いている。その本にはコムデギャルソンについてもいい作品が収録されおり、村上春樹はノンフィクションでは昔のほうが圧倒的に良かった。「偉く」なるとノンフィクションを書くのは難しくなる。取材相手との関係、世界との関係が問われる作業だからだろう。「偉く」なりかたによっては、聞ける話も聞けなくなる。それは猪瀬直樹なんかみていても分かる。
湾岸戦争の時に、日本が金だけしか出さなかったから、日本大使館高官の子供がアメリカの学校でいじめられ、この轍は二度と踏んではならないと思ったとかいう話がまことしやかに流れているけれど、いじめられたのは本当に「日本が金しか出さなかった」からなのか。性格が悪い子供だった(笑)とか、汚いとか、社会性が乏しいとかなかったのか。あるいは親がタカビーとかで嫌われていると子供もとばっちりくらうものだが、そういうこともなかったのか。それにしてもその高官はそういう摩擦がどうしても嫌なら日本人学校に入れて、海外にいてもそれを感じさせない無風状態の中で子供を育てればとかったのだ。官僚の海外赴任なんだから、お金はうなってるんでしょ。それにどうせ現地校に入れても、受験の邪魔にならないようにある年齢で日本に転校させるような妙な習慣が在外日本人の間にはあって、それも反感買ってると思う。ようするにいじめの理由は大人が思うほど単純じゃないはずだ。
それでも百歩譲ってもし本当に「日本が金しか出さない」ことが原因になってアメリカの学校で日本人がいじめられるるとしたら、「公」の問題が「私」の領域に影響しているわけで、その公私混同ぶりこそが問題視されてしかるべきなのに、そうせずに、今度は「私」の問題を「公」的な行動(テロ法案成立)の根拠に平気でしちゃう。これは「公」「私」の領域が曖昧な社会なんだと改めて思う。公私を橋渡しする必要はあって、ぼくは何度か公私混同の勧めの原稿を書いている。政治とは基本的に公私の利害調整だろう。けれど、ぼくが言ってきた公私混同は今のようにだらしのない混同ぶりのことではない。
以前に時々書き込みして下さった「いちべぇ」さんから。会社のパソコン経由だと書き込み拒絶されるとのことでメールで内容を戴きました。サーバーの相性が悪いのかも知れないですね。
ここで書かれているように、タリバン対アメリカに民族紛争の構図が折り重なって重層化している事情はあると思います。それに北部同盟への好感は、判官贔屓の要素もやはりあるだろうし、原理主義への生理的嫌悪感の裏返しもあるでしょう。かつてソ連と戦って民族自立を進めた勢力であるということで、スターリニズムへの反感や、民族独立へのロマンティシズムも重なっているのかもしれません。色々な価値観の交錯を少しでも解いてみて行きたいものですね。
<--- 書込みここから --->
日経ビジネスの購読者向けWEBサービス、日経ビジネスエクスプレスで、中村哲さん
のインタビューが紹介されています。
中村哲さんについては、こちらでも10/8の「アフガンは攻撃された」という書込みで
お名前が登場していますね。
そのインタビューの中、かなり驚きでした。「市民は北部同盟を受け入れない」「タ
リバンは訳が分からない狂信的集団のように言われますが、我々がアフガン国内に
入ってみると全然違う。恐怖政治も言論統制もしていない。田舎を基盤とする政権
で、いろいろな布告も今まであった慣習を明文化したという感じ。少なくとも農民・
貧民層にはほとんど違和感はないようです。」
9/17に武田さんが「続11」という書込みで触れたマスードについても以下のような言
及があります。
「今もてはやされている北部同盟の故マスード将軍はハザラという一民族の居住区
に、大砲や機関銃を雨あられと撃ち込んで犠牲者を出した。」
<--- 書込みここまで --->
波乗り休業中さん。書き込みありがとう。その先の2件は誤解を含んでいると言うことだったので御指示に従い、消しておきました。問題あったらまたおっしゃってください。