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LOG79
アメリカ同時多発テロについては少し休む。ここで展開できるのは新情報や未確認情報の呈示ではなく、どう考えるか、先にも書いた「補助線」を引く作業であり、今時点でぼくが言うべきことは言ったと思う。蛇足めいたおさらいをするなら、原理主義、あるいは帝国主義的ユートピア主義について考えよとういこと。その場合、イスラムのみならず、アメリカ、そして日本の歴史と文化も視野に収めよということ。舌足らずのところもあるだろうけど、少しじっくり読んで考えてみて欲しい。テロリストおよびその予備軍、支援者を地上から抹殺しようと思ったら、地上に人間がいなくなっていた、なぁんてブラックジョークがあっけらかんと笑えるようになればいいのにと切に願う。武田泰淳の『ひかりごけ』の首の後ろの青い光の輪をなんとなく思い出したりする。
で、今日は横浜トリエンナーレ2001に行った。美術に批評性を感じるのは言論が批評性を失っているせいか。人間の輪郭を描き出すいい仕事が多く集まっていたと思った。美術史的には断絶した作品が明らかに増えているが、それらが、明らかにたいして考えたり、吟味されていないくださらなさにおいて批評的になりうるという逆説的な回路が生まれつつあるのを感じる。美術家はやはり初めに死を持って危機を知らせるカナリアなのだろうか。
たとえば孫原(スンユエン)は人体から脂肪を吸引して柱『文明柱』を創った。同じモチーフはバクシーシ山下も挑戦しているがあれはルサンチマン臭くてだめだった。それに対して孫原の脂肪柱はただ肥え太った近代を直示する。そのおおらかに開かれた姿勢が、内省への指向性を閉ざして劣化する言論の狭さを際だたせるように感じられたのは、キャンプデービッドの会議室に、この期に及んでもウィークエンドだからという「お約束で」カジュアルな服で集まる連中の姿をTVで見るときのどうにも言えないおぞましさの感覚がシンクロしているんだろうか?
武田徹
1959年、ボブ・ジンママンはハイスクールを卒業した。卒業文集には「リトル・リチャードになりたい」という言葉が残っている。歌手になりたい気持ちは本物で、高校卒業後の夏休みにはコーヒーショップで働きながら、シャドウズのピアノプレヤーの空席を狙うなど積極的に就職活動をしている。もちろん夢の実現は易くなく、両親の希望もあって秋からはミネアポリス大学に進んだ。ユダヤ人寮に入り、最初の頃は英語学の勉強をしていたが、すぐにミネアポリスのディンキータウンという地区のコーヒーハウスに入り浸るようになる。そこにはビートジェネレーションの最後の世代のボヘミアン達が集まっていた。そしてフォーク・ミュージックが盛んに聞かれてもいた。ボブもウディ・ガスリーやピートシーガーを好んで聞いた。そしてギターを抱えて体制側の不当を告発するスタイルこそ自分の望むところだと考えるようになる。やがて大学を退学することを決意。ひと夏かけてデンバーに旅し、クラブやコーヒーショップで歌手としての働き口を探した。そして再びミネアポリスに戻ったとき、ボブ・ジンママンは別の名前を名乗るようになっていた。新しい名はーー、ボブ・ディランだ。ジンママンではユダヤ系と言うことがすぐに分かってしまう。ディランなら響きが良いし、何よりアメリカ的ではないかとボブは考えた。そしてその思惑は当たる、ヒッチハイクでシカゴに、そして61年冬、大雪のニューヨークにたどり着いたディランはグリニッジ・ビレッジで歌を披露する機会を得る。
何回弾丸の雨がふったなら
武器は永遠に禁止されるのか?
いくつの耳をつけたら為政者は
民衆の叫びが聞こえるのか?
何度ひとは顔をそむけ
見ないふりをし続けられるのか?
その答えは、友よ、風に吹かれている
答えは風に吹かれている
60年代アメリカの反戦運動の最初のよりどころとなったこの歌をアメリカの多くの人が
アメリカ人によって歌われていると考えた。ユダヤ人と気取られることが嫌で、それでは
とても成功はおぼつかないと考えて改名した青年の歌としては聞かなかった。もしもボブ・ディランが差別され、世間に無視されることをなにより恐れていた小心なユダヤ人青年だったとうい事実が踏まえられ、アメリカの文化が内省されていたら、その後のベトナム反戦運動には違う展開があったのではないか。内省はどのような機能を果たしていたのか。そんなことを今になって考える。
武田徹
哲学者の鶴見俊輔さんがよく書いている話で、戦争中、彼はもし自分が人を殺さなければならないとしたら、自殺しようと思って毒薬を密かに携帯していたという。幸い、その毒薬の出番はなかったわけだが。
この話を読んでぼくは強い違和感を覚えたことがある。自分を殺すこともまた殺人と同じではないかと思ったのだ。それに、それは地分が死ぬことで自分の信念が果たせると考える点では、特攻で死んで行ったり、犬死に等しい戦闘行為に敢えて臨んだ兵士の心情とどこが違うのか、とも考えた。当時連載していた新聞コラムで一度それを短い原稿に書いたことがあるが、その稿は新聞に掲載されなかった。その後、単行本に収録する際に復活させた(『ジャーナリストはどう日常を切りとればいいのか』)。
そうと書いていないが、鶴見さんもまた悩んだのではないか。ハーバードでプラグマティズム研究に没頭し、捕虜交換船で日本に戻った彼にしてみれば、当時の日本を覆っていた「報国滅私」の考え方は全く理解できないものだったはずだ。しかしそんな自分が最後の最後には「滅私」に通じる選択をしなければならないと考える。その矛盾が解決できなかったからこそ戦後の鶴見さんは深い鬱病の底に沈んだのではないかとぼくは考えたことがある。
もしそうだとしたら、鶴見さんは悩まなくて良かったのかもしれない。今はそう思う。ぼくの原稿も思いつきから更に踏み込んでいない問題があったと思う。その意味では掲載されなくて良かったのだ。
ロバート・ノージックはユートピア(=理想)の求め方をみっつに分類する。世界中を自分の信じるユ−トピアにすべく、暴力の行使すら恐れない姿勢。それを帝国主義的ユートピア主義とノージックは呼ぶ。それに対して、自分の信じるユートピアの素晴らしさを人に語るだけという姿勢がある。これを伝道的ユートピア主義という。そして自分の信じるユートピアを人に押しつけることも、語ることすらもなく、ひたすら自分で理想を追求する姿勢がある。これを実存的ユートピア主義とノージックは名付ける。
多文化的共生を考えるとき、帝国主義的ユートピア主義だけは排除されなければならない。多文化的共生を阻害するからだ。 しかし伝道的ユートピア主義は許容される。その違いは別の理想なり価値観を持つ他者の生存を許容できるか否かによっている。
帝国主義的ユートピア主義とは自分の信じるもののために人を殺す立場だ。バジラヤーナ以降のオウムがそれに当たるし、あらゆるテロリズムもこれに該当する。
では視点を変えて自分を殺すというのはどう考えられるか。自分を殺すことによってしか自分の信念が完遂されないと言うことで自害を選ぶのは実存的ユートピア主義の選択だと言える。自分を殺すことは多文化的共生を阻害しない。これは常識とはなかなか相容れないかもしれないが多文化的共生の維持を条件とする場合、自殺は否定されない。他者の権利を侵害しない自己決定と言うことで肯定される(もちろん具体的には労働力を失う共同体の問題とか、残される家族の問題など様々な関係性を考慮しないといけないのでそう綺麗には割り切れない。ただ作業仮説的には今書いたようなことが言える)。
で、今、敢えて考えるのは自分も死ぬが、相手も殺すという自殺テロの在り方だ。これはやはり帝国主義的ユートピア主義だろう。で、多文化的共生の視点からは、それは認められない。ただ人を殺さないければいかなるユートピアを信じようとそれは勝手である。このあたりのさじ加減というか、両者の差異の認識が距離感を取る場合において考えておくべきことではないか。
自殺テロに驚き、同じく帝国主義的ユートピア主義を信奉するテロ集団を報復する。それが更に帝国主義的ユートピア主義の実践になってはならない。自分の理想のために人を殺す主義を上書きすることは多文化的共生を実現する方向ではない。すべきことは帝国主義的ユートピア主義者を伝道的ユートピア主義、あるいは実存的ユートピア主義の状態に引き戻すことであって、それ以外ではない。
鶴見さんは自分自身を対象としてこの引き戻しをしようとした。自ら帝国主義的ユートピア主義の片棒を担ぐことなく、実存主義的ユートピア主義になる。それが自殺という方法しか選べない状況はあまりに不幸で、それ以外の選択肢を選べるよう最大限の努力をすべきだったとは思うが、とりあえず図式的には二種類のユートピア主義の間の移動をしようとしたということは言えるだろう。
そして、このノージックのユートピア主義分類の図式を利用すると、原理主義の在り方、原理主義に対処する在り方を考える上で、ずいぶんと見渡しが聞くようになるのではないか。あるいは図式が単純すぎると感じるかもしれない。しかし、問題の構図は、少なくとも理念的には案外と単純なのではないかとも思うのだ。やるべきこと、やるべきでないことはおそらく案外と簡単に決められるのだ。しかし、現実にはそのやるべきことがやれず、やるべきではないことばかりをやる、そこに愚かな悲劇の拡大再生産が続く。それを堰き止めるためにわれわれは、単純だけれど的確な理念の枠組みを通して、不透明な現実を整理して見る習慣を少しでも付けることが必要ではないか。そこから現実を動かす力がある世論が育つつのではないかと思う。ここで書いた枠組みは単純なだけで的確ではないかもしれない。しかし、そうだとしても単純にして的確な理念枠を得る上での踏み台になればと思う。
武田さま、皆さま、再度こんにちは。
戦略という語から感じるズルさや、抹消という過去の試みを繰り返そうとする
気持ちや、何にも増して、自分の感傷からどれだけ距離を置けるかが、我々
には問われているような気がします。
どうせ米国では真珠湾/原爆が引き合いに出されているのだから、ここは
各国、各種の過去についての謝罪の好機だと、私も思います。 これを機会に
各人の自省の様を表明しあえれば、以前書いていらした、「歴史的事実の
遺跡化」が可能になりそうです。
presentation(=提示?)の行為をどう捉えているかには東洋西洋間で
かなりな違いがあるとはいえ、威勢のよいコメントだけ発表する日本は、
相変わらず不可解な国と感じます。 自国の歴史的事実の遺跡化のためにも、
ここは日本が率先して発言したらよいのに。 公的に国を代表できる者が
何も動かないのなら、我々が発言しましょうよ。 「戦略」的には、米国が
撃って出たりなどして動いたらまた一騒動ですから、その前に。
とはいえ、日本は未来永劫、のらりくらりとした不可解なところであることが
似合いで、そんな中途半端さを極めつつあるのかなとも思うのです。 マッド
と指摘されるには根拠があるかな?
最近、危険な思想家、マッドサイエンティストと立て続けにとても有り難い称号を頂いているので、その言葉に恥じないようなとんだ提言を。
アメリカがすべきなのは空爆ではない、謝罪という戦略!である、というのはどうだ。
戦略研究で最も進んでいてしかるべきアメリカが分かっていなかったら、それこそちょっととんでもないけれど、世界に散開しているテロリスト集団をアフガニスタンへの空爆で制御できるわけはない。それこそ最悪、一人一殺の暴挙に出ることだってありだろう。
ただこのままではメンツはたたないということでアメリカは報復をする(だろう)わけで、その場合の駆け引きとしては、自分(の政権)の体面を保つこと、圧倒的な軍事力を見せつけて、出来ればこれ以上の戦意を喪失させること、そして少なくともテロリスト予備軍を自暴自棄に至らしめないことの、三つのバランスを取ることが望まれる。
で、これは希望的予想だが、たぶんブッシュはこのバランス取りの難しさを知っていると思う。彼の演説の言葉は一見激しいが、手続き的には「これは戦争である」の世論作りや、議会とNATOの合意を取る選択など、非国家組織のテロに対して国家単位で軍事行動をとることへの合法性の(建前としての)確保に周到に配慮するだけの冷静さは持ち合わせているように見える。
だが、だったらもう一歩踏み込んで、もっと効果的な戦略を選んでもよいのではないか。アメリカがイスラエル寄りというのは明らかで(たとえば、ぼくはユダヤ人のジャーナリストの友人は多くいるが、イスラム教徒の人とはあったことがない。メディアは明らかにユダヤ系である。ただし、ユダヤ系知識人がユダヤ支持とはもちろん限らない。そこは要注意)、特に自分の名を歴史的に残したいがためだが、中東和平に貢献しようとしていたクリントン時代からブッシュ政権に移って、その印象は強まっている。だからこそ今の時点でテロもあったわけだが、こうした緊張感の布置に建設的な混乱を与える戦略として、ブッシュがイスラムの大儀に敬意を表するコメントをし、今までのイスラエル寄りを謝ってしまうというのはどうだ。イスラム原理主義はイスラムの大儀が汚されているというルサンチマンから暴力的にまでに燃えさかる。あらゆる原理主義が過剰さの病であることは言うまでもないが、それを押さえつけることでは病は癒えない。病を根治するには多文化的な共生をはかることしかなく、原理主義の過剰に至らせることなしにイスラム的世界観の生きる余地を世界に創り出すことだ。一つの価値観として、文化として、イスラムの大儀への敬意を示すという戦略は、たとえそれが表層的であれ、そうした共生への道を模索する方向とベクトルを同じくするものである。いいじゃないか、別に口先だけだって。言葉には力がある。それがアメリカ自身の病をも癒すかも知れないのだから
アメリカの病は多文化的共生への寛容さに時として欠けることだ。言っておくが国内の現実においてアメリカほど多文化性を内包した国はない。そもそも移民の国であり、移民の出自は多様だ。ブッシュが民主主義とか自由とかいうのはその文脈であり、そのかぎりにおうてぼくはアメリカに強い敬意を持っている。すごい国だと思う。犯罪は多いがあの程度で押さえられていることは素晴らしい。
しかし、そんな多文化的な国でありながら、いやそうだからこそ、アメリカの「敵」を、あたかも世界の敵のように意識させて、様々な出自の人たちの気持ちをひとつにまとめようとする傾向が強く出ることがあるように思う。
ばんまいさんはJFKに言及されていたけれど、冷戦もキューバ危機もそもそも自分たちにとって都合の悪い敵を、世界から排除すべき絶対的な悪だというようにみなす、アメリカの過剰な排除主義ーーそれも実は原理主義的の一つではあるーーがなければ、あそこまで至っただろうか。
確かニクソンの時だったと思うが、共和党本部ではアメリカの地図を広げ、自分たちが大統領選で勝ち取った州にアメリカ国旗のついたピンを、そして民主党に敗れた州にソ連国旗のピンを刺したと聞いたことがある。こうした狂気を孕んでいるのがアメリカだ。そしていまはイスラム原理主義の旗がかつてのソ連の役割を担っている。
排除主義がここまでイスラム原理主義の火に油を注いでしまった。もしもアフガニスタンへの空爆を行えば、いかにブッシュが先の3つのバランスに配慮したとしても果たしてうまくゆくだろうか? 確かに数ヶ月は良いかも知れないが、長い目でみてそれは得策か?
そして日本はどう対応すべきか。原理主義についていえば、たとえば北朝鮮を嗤い、イスラム原理主義を脅威に感じてみせる日本人の姿勢ほど、世界の中で浮いて見えるものはないだろう。なぜなら国やイデオロギーのために死ぬという方法を選んでいたのはつい55年前までの日本なのだから。そしてそうした原理主義的なメンタリティを対自化せずに今に至っている人たちがいると言うことは、たとえば先の靖国参拝問題の時の対応ぶりにも明らかだろう。原理主義という病は日本において特に対岸の火事ではない。だからこそ日本は原理主義という病に対して、ほかでもない自らを癒す姿勢も含めて、もっとも効果的な治療法を提言するべきだ。小泉は早々とアメリカ支持を述べてしまい、愚かだなと思った。ほかの国は哀悼の意を表したが、そこまでは言わなかったはずだ。あの小泉発言でイスラム原理主義は日本を敵とみなす根拠を得たといえる。日本がすべきなのはそうした敵対関係の緊張度をたかめることではなく、むしろ緩和することだったのに最初の最初から違う方に踏み出している。さすがは靖国参拝首相だ。自分の原理主義的行動に対する自覚がない人は、そもそも原理主義がなんだか理解もできていないのだろう。
こういう時期になるとメディアで戦争おたくや落合信彦的国際謀略妄想患者が盛んに発言し始める。しかし、彼らは湾岸戦争の時の興奮よ再びと言うことで、最新兵器のパフォーマンスがみたいだけであって、国際政治の本当の秩序作りに関心もないし、ビジョンもない。そんな発言に影響されないことが大事だ。
たとえばエシュロンとやらの実力も今回よくわかったはずだ。おたくはその脅威を盛んに語ったわけだが、所詮はこんなものなのだ。ユーゴ空爆での誤爆でもハイテク兵器のお粗末さも露呈した。平和は、「隣の人はちょっと考え方とか風習が違うけど、まぁ、けんかしないようにしよう」という、あんまりかっこうよくない、泥臭くも現世的な秩序維持努力の日常的な積み重ねの上にあるのであって、ハイテク傍聴網やミサイル防衛技術の延長上にはない。
武田徹
武田さま、当所を御覧の皆様、こんにちは。
先日の米国での事件を伝えていた特別番組中での仏人のニュウスキャスタ氏
の言中、事故発生当日米国時間夜の大統領の演説を「これは1944年のド ゴー
ル演説みたいですね。」としたコメントがありました。 勿論、たまたま歴史
上に類似内容の演説があったからできた発言ではありますが、この一言で、
仏人視聴者と彼の事件との距離がぐっと縮まったように思います。 事件を伝
えるLe Monde紙社説の出だしも、1962年のJFK演説を鋳型としています。
日本には確かにド ゴールもJFKも居なかったのかも知れませんが、今回の
一件と照らし合わせてみることで今また何事かを学べるような過去は、豊富
にあるのにと私は思います。 ネット上ではそのような、自分たちに照らし合
わせて世界の動きを感じ取ろうとする傾向は読みとれないのですが、他の
意志疎通媒体では如何なものでしょうか? この一件を足がかりに何をか考え
ようというとき、その一件を伝える中に、考えることへのきっかけがあれば
よさそうなものです。 が、ライブ映像ですらそんなきっかけとし得ないのが
昨今の社会ですので、やはり、言論が萎えていてはいけないと思います。 自
分たちの持てるものを生かした言論を展開できるか---こんなときに、その国
を文明国と呼べようか判断できそうな気がします。
今、ピートハミルの翻訳をしていて、新聞育ちの彼はいかに新聞が必要かと言うことを示すのに、常に画像で時間を埋めないといけないTVは必要以上に同じ画像を反復したりm未確認情報でも流すために情報に触れる人の感覚の振幅が大きくなり過ぎるというようなことを何度も書いている。
確かに今回もそう。一番気になったのはWTCビルが崩壊した時に逃げ去りながら映像を撮っていた6と8チャンネルだ。雲仙の土石流の一件もあり、記者が見苦しいまでに慌てて危険から逃れたとしても、それを批判してはならないと思う。しかし、それにしても6.8チャンは逃げすぎではないか。横ではのんびり歩いていた人もいたぞ。で、それはそれとしても、そのブレまくりの映像を何度も流さなくても良いと思うのだ。あれが臨場感がある良い映像と評価されていたとしたら問題だ。
ハイジャック11機を初め、多くの誤報もあった。そのへんは少しずつでも説明をする姿勢が欲しい。どこからの情報だったのかとか。それが実は事件の輪郭をしっかりと描くことに繋がるかも知れないのだし。
ベトナム戦争の時もアメリカ政策を批判して自らの身体に火をつけて自殺する仏教僧侶がサイゴンに多く現れた。アメリカ人にしてみればこうした抗議の方法は狂っているとしか思えなかったのだろうが、死生観が違えばそうした方法だって十分にありえる。そしてそうした方法を採らせているのが自分たちだという自覚をアメリカは持つべきだった。そこが欠けたまま今に至って、こんなに犠牲者を出している。ブッシュが演説でまず口にした、彼らが尊重する「自由」ってやつは、果たして世界のいかなる価値観の人にとっても同じように自由なのか。イスラム原理主義とはアメリカの強引さのネガなのではないか。そこを考えるべきだ。
もはや報道されることもなくなったが、アメリカはイラクに今なお定期的に空爆を続けている。もちろんサダム・フセインにも問題があるが、それにしても定期便のような空爆が解決の方法なのか。そうした議論に進めないのは、アメリカのやり口を伝えないメディアや、知ろうとしない世界の趨勢の責任でもある。
武田徹
ちょうど最初に一機目がつっこんだ映像を見ていた時に二機目の激突をライブで目撃してしまい、書き込みを始めてしまったが、そのため「今後どうなんでしょう」とかいうメールを結構貰った。
ぼくは軍事評論家でも中東評論家でもないけれど、アメリカ国内での具体的被害に関してはもう今後はそう大きなことは起きないだろうと思う。メディアは把握していないが、軍はハイジャックの状況を掌握しているはずだ。CBSなどが言うようにハイジャックされた総数が11機だったとして、現在までで4機が自爆テロに利用されたようだが、もしまだ残っている機体があったっとしても「無策のまま」人口密集地へ落とさせることはもうないのではないか。そもそもどうやって世界貿易センタービルやペンタゴンにぶつけさせたか(パイロットはもちろん自分自身が死にたくないので最大限に抵抗するはずだ)が分からないが、その方法次第では今後も墜落事故はあるかもしれないが、それによる被害者数は今までに比べれば相対的に少ないだろう(今までが多すぎる)。単発的なテロもまだあるかもしれない。だがこれも世界貿易センターを崩壊させるような大きさでは起きないと思う。
逆にアメリカ側の報復はどうなるかだが、タリバンが犯行を否定する表明を出している以上、アフガニスタンやスーダンへの攻撃もそう大々的には出来ないのではないか。DFLPも否定している。じゃ、誰なのか?という問題はあるが、いずれにせよ、相手が特定しきれず、やられたからすぐにやりかえす報復が出来ないので、時間が少し経てば冷静な判断力も戻るだろう。既にパウエルも意外なほど冷静なコメントを出している。ブッシュはまだ不明だが、いずれにせよブッシュ政権は、ここまでの惨事を目前にして対イスラム原理主義政策に置いて自らがいかにあやうい橋を渡っていたか思い知るだろう。本当に高い勉強代だったと思うが、それもあって一般市民まで巻き込んだ報復のようなひどいことはしていないのではないか。亡くなった人命の重さがむしろ重石になることを望みたい
で、そこまでは対岸の火事でいいのだが、気になるのは世界経済への影響とその日本への波及だ。アメリカ長期国債が高騰して明らかに戦時モードになっているとも聞いた。これは先にも書いたように戦争状態にしようがないので思うので、たぶんすぐに鎮火すると思うが、ナスダックや日経平均は株式市場がふたを開けた時にどう動くか。そのへんはぜひ投資家サイドに冷静な対応をと望みたいし、投資家以外にもパニックを避けて欲しい。報道でも配慮があって欲しい。
11機の航空機がハイジャックされた、と<TBSテロップ
にわかに信じがたい話ですが。。。
本当に、ブッシュ大統領の短絡的な報復がありませんよう。。。
貿易センタービルは少なくとも1本の上部は倒壊した。果たして何人亡くなったのだろうか。全壊、それも2本ともだとしたら、ちょっと想像するのもおそろしい。
しかし少なくとも3機をほぼ同時にハイジャックさせてしまうほど、アメリカのセキュリティは低いのか? しかもNYの二機目は軍用機だとも言うし。そしてここまで組織的なテロを予測できずに許してしまうほど防諜能力は弱かったのか? よくわらない。
ニューステーションでは萩谷氏がアメリカ政府がどう対応するかのコメントをなぜしないのだ、それが国民を安心させるだろうにと言う。しかしブッシュがフロリダからワシントンまで飛行する時間を考えれば正式なコメントはしばらくは難しいだろう。機内にTV中継部隊は乗せていなかっただろう(フロリダ側にそうした機材を持ったスタッフ部隊がいたとは思えないし)。大統領以外でも対応が難しいだろうし。
ちょっと心配なのはブッシュは何か短絡的な報復するんじゃないかということ
一機目の衝突は映像がなかったので「攻撃しただけ」と思ったけど、CNNで目撃証言をしていた。それがアメリカンエアの767便という情報もある(二機目という説もある)。ということは30分感覚で二機衝突したというのは間違いなさそう。
テロ説が出始めている。テロの可能性の言及はニュースステーションよりぼくのほうが早かったと自慢してもしょうがないが。
しかし自分のいのちを犠牲にしても公的な目的を遂行するってのはいやですね。それがいやだと思う感覚が育っただけでも日本は敗戦した甲斐があったよ。
今、ニューヨークの世界貿易センタービルに航空機がつっこむ映像が流れた。しかも一機めがつっこんでビルが燃えている映像を放映中にもう一機が更につっこむ。
なにこれ? 一機目は事故だとしても、二機目は? 取材用機? それとも一機目とともにテロ?
それとももしかした一機目と言われているのは攻撃?
なんがなんだからわからなくて映像だけ生中継で流れている。