
武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板LOG78
>間違いを訂正するシステム」って「反証可能性」ってことだと思うのですが、だとしたらこれも>科学に内包されているように思うのですが。
確かにそうですよね。相当に言葉が足りなかったと思います。「あらかじめ間違う可能性を前提にして対応するシステム」と言い換えたらどうでしょう。ぼくがイメージしているのはこういうことです。取材で手に入れられた事実が、いつの時点で、どのように聞き出された、誰の証言かを可能な限り明示する。それはその事実が後に否定される可能性を含んで、暫定的な事実であることを示すものです。速報性が要求される中で、報道された時点で、もっとも確からしい事実、誰かに確かに語られたという意味で言葉として確かに存在した事実を相手にする。ここに科学的な指向性との違いが出てくる。科学は「その時、その場で」の事実よりも、もっと客観的で、普遍的な事実を追おうとしますよね。
たとえば新学説が出されたらそれを追試して確かめる作業をして、普遍性の側に近づける貢献をすれば科学の論文になる。追試もしなくて新学説の紹介だけでは論文とは呼ばれにくい。その点、ジャーナリズムは追試はしなくて新学説を紹介するだけで成立する。それは普遍的な事実を扱うことを相対的に免除されている度合いが高く、その分、早く、広くカバーして動向を伝えることが求められているからだと思います。しかしそういうジャーナリズムだからこそ、その時、その場での事実性を可能な限り正確に求め、同時にそれはその時、その場の事実に過ぎないことを明示すべきだと思う。それはいかに、その時、その場では正しくても後から見直される可能性は高いので、その道をあらかじめつける必要があるから。で、間違い訂正、反証可能性ということが出てくるのですが、それは科学でもそうですよね、反証可能性に道を開くことは科学的態度の原則である。その意味で社会科学も科学としてのジャーナリズムもともにその原則が適用されると思います。ただジャーナリズムの場合、今書いたように間違いを訂正する反証の実際ににいたる前段階からして違うシステムが組み上げられている必要があるというのがぼくの考え方です。
>あ、社会科学は科学じゃない、ということになるのかな。
いや、そうじゃないです。ぼくは社会科学ももちろん科学だと思いますよ。さっき書いた反証可能性を必須条件とするとか、無矛盾性、論理性を追求し、誰でも議論に参加できる公開性を原則とするとか、公共への奉仕を大上段に構えるとか、そうしたムード、エートスにおいて科学的である。で、更にジャーナリズムもその科学的なエートスを、(相当に?)カスタマイズして自分のものにすべきじゃないかと思うのです。
武田徹
私自身は、社会科学にはできない、ジャーナリズム、とりわけ「新聞でなくては」という仕事とは、
○リクルート事件のように、(権力が)隠してきたことを暴くこと
○旧石器ねつ造事件のように、学問のディシプリンでは明らかにしにくいこと
○世の中に起きている出来事のインデックスづくり
○暇つぶしの娯楽
くらいかな、と思っています。
「間違いを訂正するシステム」って「反証可能性」ってことだと思うのですが、だとしたらこれも科学に内包されているように思うのですが。あ、社会科学は科学じゃない、ということになるのかな。
佐藤さんの「フィールドワーク」は私も読みました。確かに、文化人類学者や社会学者のフィールドワーク本は参考になります。
午前中に山梨の勝山村から台風の大雨の中を中央道を走って東京に戻る。それにしても日本の高速道路は透水性舗装をもっと全面的に使うか、せめて道路を強く蒲鉾型にして、散水能力を高く出来ないものか。冠水しているところに飛び込むと車速ががくんと落ちるぐらい衝撃があるし、ハイドロプレーニングになっているんだろう、ハンドルを取られる。視界は水しぶきで失われているので相当に危ない。前のクルマの様子を見ていて、来るぞと覚悟して飛び込んで行くからまだ良いけど、そうじゃないとそれが事故のきっかけにもなるんだと思う。反対車線では中央分離帯につっこんでいるワゴンとか、雨の高速道路につきものの事故車をよく見た。雨でも晴でも同じ深さでアクセルを踏むドライバーも問題だが道路にも原因の一部はある。
こうした雨対策の必要性は台風に定期的に襲われるモンスーン地方独特のものかもしれないが、それを考える上でも田中康夫がイタリアの高速道路を誉めていたのは傾聴に値する。石原構造改革大臣もイタリア視察したらしいが、たぶん気づいていなかったと思う。田中康夫がほめたのは中央分離帯の作りだ。イタリアの高速は中央分離帯が巨大な植木鉢であり、工事の時などは移動がきくのだ。で、小さい工事の場合は少し移動して上下車線とも少しずつ車線幅を小さくして車線数を減らさずに対応する。大きな工事の場合は、空いている側の車線を減らして渋滞を避けるなど柔軟な対応が可能なのだ。こんなことは別に民営化しなくても出来ること。発想さえ変えれば。散水性確保も含め、クルマの流れを安全に保つことに関して何をするのがもっとも適当か、そんな原理的な考え方が必要だ。
スタバ・ジャパンは来月ナスダック・ジャパンに上場とか。マザース避けられてますな。しかし一番わりを食うのはタリーズジャパンか。あそこは背景に大企業がないのでIPOして出店攻勢を掛ける軍資金稼ごうとしたけれど、スタバも同じ条件とあればむこうに投資家は流れますよね。
一晩の間にスタバ値段情報は色々な人が教えてくれた。インターネットの実力に改めて感心! 僕自身でもニューヨークの店(土日でもやっているので)に東京から値段を聞くという荒技で調べてみた。
で、分かってきたのは「本日のコーヒー」(ハウスブレンド)に関しては1・4ドルから1・57ドルぐらいまで。幅があるのは都市の違い。おそらく税制などが反映しているのだと思われる。カフェラテで2・50ドルから3・25ドルぐらいまで(ってことはぼくがニュ−ヨークで飲んだのはカフェラチェではなく、別のモノだったのか?)
こうしてみると本日のコーヒーは日本より安い(でもアメリカのコーヒー相場から言えば結構高級なコーヒーだろう)か、ほぼドトール並。カフェラテは日本の方が安い。このへんの微妙な価格設定はやっぱり「日本化」の産物なのだと思われる。そのへんの価格操作について、詳しい人がいたら教えて欲しいですね。ぼくは以前にサザビーの鈴木陸三インタビューをしていてそこで少しそのあたりの話を聞いている。ドトールより高く、4−500円はしない価格で「半歩先をゆく豊かさを」が彼の考えだったようだ。
武田徹
袋小路さん。
ぼくは社会科学の中に方法としてのジャーナリズムは入るという立場です。その意味では人類学と社会学が違うようにジャーナリズムも違うとは思いますが、科学vsジャーナリズムという対立では考えないですね。売文が成立するという意味でジャーナリズムを規定する場合には、もちろん学問とは違ってきますが、それはまた別の話ですね。
で、違いと言えば、おっしゃるように速報性もあるでしょうが、いかなる社会科学者だって人より先に研究を進めようとしているわけで(実は早さは科学の宿命?)、これも所詮は量の大小なのかなと思います。
で、考えて来たのは、間違いを訂正するシステムを自らのうちに持つかどうか。誠実なジャーナリズムはそれを持つべきだと思います。というのも速報性が「強く」要求されるので、間違いは多くあり得るし、公共性の名の下に公開されるのが原則なので、人権への侵襲も強くありえるので。
で、そうしたフィードバックシステムの確立があり得れば、他の社会科学領域との際立った差になると思うのですが、未熟もいいところなので差が見えにくいですね。
それから、ぼくがルポの実習の授業で教科書に使っているテキストの一つが佐藤郁哉の『フィールドワーク』です。取材の技術を学ぶために、新聞記者の書いたよくある苦労話、自慢話の類よりも役に立つと思います。聞き取りだけでなく、方法的に多様なのがいいですね。
宮台、佐藤はぼくは優れたジャーナリストであると思っています。ぼくなりの拡張されたジャーナリズムの定義だと、ですが。
武田徹
>>ジャーナリズムは社会科学である。というか社会科学であるべきだ。
てことになると、ジャーナリズムと社会科学の違いはどこにあると考えられますか。速報性の有無なのでしょうか。
私はすぐれた社会科学の仕事がジャーナリズムの仕事を凌駕しているように思ってます。特に文化人類学とか社会学あたりの、フィールドワークを丁寧にやっている人たち。具体的に名前を挙げると都立大の宮台真司や一橋大の佐藤郁哉(「暴走族のエスノグラフィー」「現代演劇のフィールドワーク」)といった人たちの仕事。「現代演劇のフィールドワーク」なんて演劇担当記者がやらなきゃいけない仕事だった。
「現場を見てるのが学者にはない、自分たちの特権だ」なんて新聞記者は自負するのだけど、学者の方がよっぽど現場みてるよ、と思うことが多くて、となると私たちの仕事には何が残っているのだろう、と考え込むわけです。
しかし準備をせずにインタビューなんて……。間が持つんでしょうか。
野暮用配達人さん、教えてくれてありがとう。さっそく意見掲示板と言うところに書き込んできました。ちょうどコーヒーの話題があったのでグッドタイミングです。情報交換板はなぜか書き込めなかった。書き込みを送れないんですよ。
武田徹
ここのHPは庶民感覚でアメリカを覗けます。
http://www.kaigailink.com/
今日はぼくも共同研究員をしている政策研究大学院大学のシンポジウム「学としてのオーラルヒストリー」に出掛ける。午前中のセッション終了後、質問に立ったのは『正論』編集長で自分のオーラルヒストリー=インタビュー経験を披露。いわく「最も楽しいインタビューは準備をまったくしないインタビューである。自分も一度経験した。作家にインタビューを依頼したが今からすぐに来いと言われたので、何の準備も出来ずに話を聞いた。全てが新鮮で面白かったが、これはジャーナリズムのインタビューであって、学としてのオーラルヒストリーではない」云々。呆れてしまう。まず依頼する前には相手を知るための準備をしないのか。準備しないインタビューもジャーナリズムでは許されると言うのは百歩譲ってよしとしよう。どういう条件で取材が成立するかわからないので準備できない相手だっている。しかしジャーナリズムのインタビューが学としてのオーラルヒストリーと異なるという認識には絶対に合意できない。ジャーナリズムは社会科学である。というか社会科学であるべきだ。速報性が要求されるので曖昧さが多くなるが、それは近代科学だってそうでしょ。曖昧さの量の多寡だけで質は変わらず。無矛盾であろうとする精神に支配されている以上、科学的と形容されるべきだと思うし、その名に値するように、不可避な曖昧さをいかに無矛盾性の中に改修できるか、もっと努力もすべきだと思う。ぼくが誠実なジャーナリズムと言っているのはそれと殆ど同義だ。
しかし、この人の頭の中ではジャーナリズムとは学からは程遠い。出たとこ勝負の、いい加減なものなのだろう。そしてそんなジャーナリスムを自分で生きているのだ。だからあんなへぼな誌面しか作れないのだ。イデオロギー的に先鋭的な人の全てが低脳だとは言わない。しかし低脳が理由でイデオロギー的に先鋭なポジションに立って恥ずかしさを感じない人が絶対にいる。
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で、この研究会は最後まで出たかったのだが、昨日のコーヒー一気のみの弊害が出て、前夜寝られず、今日の昼間になって眠気で身体がだるくなってしまったので、最後のセッション前の休憩で申し訳ないが中座する。今はその帰り道途中なのだが、またスタバでテイスティング(なんと仕事熱心な!)だ。もしかしたら家に帰ったらfaxが来ているかもかもしれないが、少なくとも今の時点でメールは届いていない。というのはアメリカのスタバからの返答のことだ。先に日本のスタバに取材したとき、アメリカのスタバより日本の方が値段設定は安いという話題になった。ぼくはそう記憶していたので、日本の広報の女性に尋ねるとアメリカのことはアメリカの広報でないと答えられないという(本当かなー。実は知らなかったけどそうは言えなくて、とはいえ英語しゃべれないとか、実は本社とコミュニケーションなんかしたことないとかじゃないのか)。そして聞くんだったらと、なんとアメリカのスタバ本社の代表番号!を教えてくれる。そんなの教えてくれなくても分かるよー。もっと的確な番号はないのか。
しかし、メニューの値段を聞くだけで国際電話かよー、しかもシアトルは17時間(だっけ?)時差があってまともな時間には電話できないし、広報に繋がれるまで結構大変そうだし、明日はシンポジウムだしと思って、webをうろうろしていたらスターバックス本体のページに取材受付フォームがあったのでそこにシアトル市内で「今日のコーヒー」のトールサイズの値段を尋ねる内容を送ってみた。その返事の返答期限が今日まで(だって値段だけですよ。公開してるというか、自分で売ってるものでもあるし)だったのまだ来ないのだ。
アメリカのスタバのメニュー値段を調べるだけでこんなに苦労させられるなんて。 ちょっと問題というか、どこかで世界が歪んでいるというか・・・。これは自力でなんとかしようとは思っている(しかし土日は絶対に休むしなぁ、アメリカ人は)が、もし最近アメリカに行った人がいたら、スタバとタリーズの現地価格を教えて欲しい。ぼくの感覚だとカフェラテのトールサイズで3・8ドルぐらいだったんじゃないかと思うんだけどどうだろう(そういえばと思って見てみたら、このページにも繋がっているニューヨーク日記では4ドルになってますね。自分で書いていて忘れていた。ただアメリカでスモールとあるのはトールサイズに当たります。)これだとよほど円高にならないと日本ではカフェラミル並で、絶対にドトールの牙城を崩せない。そこで値段を戦略的に変えてきたとぼくは推理している。「ドトールなんて眼に入ってないわ」とかいうんだけど絶対違うと思う。
武田徹
袋小路さん、縮刷版は著者了承済みってこともあるだろうけど、図書館とか以外の一般市場には殆ど売られていなかったという事情もあったのではないでしょうか。ま、厳密に言えばそれでも確かにおかしいけど。
さて今日は、朝まで翻訳をして、昼からは雑誌の仕事。マスヒロみたいなことやってる。でも相手は料理ではなくてコーヒー。外資と民族系(っていっこしかないか)飲み比べ。舌に残る飲み物なのでテイスティングは難しいと痛感。でもやっぱりタリーズが一番上質かなと思った。異論があったらみなさん寄せておくれ。
あと小学館文庫『スターバックスマニアックス』と『タイトル』のスターバックス特集号がタイアップではないって本当? 出版界の資本主義的状況からいってちょっと信じがたいんだけど広報の公式コメントだとそうらしい。これも事情通の人は教えて欲しい。
粥川準二氏が自分のサイトでぼくが『e+b』で書いたクローン技術に関する記事に「面白い」とコメントしている。世間もジャーナリストもクローン技術の安全性に懐疑的だったり、「神の領域に踏み込むのか」なんて根拠のない脅し文句を惹いてはご満悦になっているだけで、その制御方法について踏み込まないので、むしろ全面的に自己決定論+行為責任論を押し進めて、腰が引けるところまで追い込んだらどうかと試みに提案したコラムだ。その論理は実は破綻している(自己決定論は、たとえパレート最適性を根拠にしても社会的決定論には拡張されない。これは次の本で書きます)けど、小出しにするとなんとなくうまくいきそうに思えちゃうところがミソなんだけど、クローン問題を考える人に少しは刺激になればなぁと思う。
武田徹
ずいぶん社によって、個人によって対応が違うんですね。
自分の勤め先しか知らないもので。
>一応、執筆後にデジタル化許諾の依頼状みたいなものを送ってきたりは
>しますが「会社のきまりで送っているだけで、別に許諾なんかしなくて
>もいいんですよ」とかのんびり構えている担当者が多いように思います。
私もこれです(笑)。催促するのもねえ……。
ところで新聞の縮刷版には特に筆者の許諾もなく再録していて、なんでいいの、と思ったら「縮刷版には100年以上の歴史がある。筆者も依頼を受けた段階で、再録は承知しているはず」という理屈みたいです。だったらデータベース化も100年黙って続ければ許諾はいらないのかな、と思ったものです(まあ、その前に文句が来るでしょうが)
今日面白いと思ったニュースはニフティのfshisoの逆転判決。2ちゃん等の運営にも影響があるのでは、と思いました。
袋小路さん、書き込みありがとう。
お言葉ですが、書名原稿のデジタル化対応は内容的には新聞社によって(というか担当者によってというべきかもしれないけれど)そこそこの違いはあって、朝日学芸部なんかは、会社よりも書き手に近い立ち位置感覚の担当者が多いようで、一応、執筆後にデジタル化許諾の依頼状みたいなものを送ってきたりはしますが「会社のきまりで送っているだけで、別に許諾なんかしなくてもいいんですよ」とかのんびり構えている担当者が多いように思います。そもそも依頼状自体を送ってこない担当者もいます。事務的に何度も何度も許諾依頼状を送りつけてくるのは、ぼくの知る限り日経ホーム出版社だけですね。日経BPでもそんなことは絶対にない。あの会社独特の問題性を感じたりもします。
もちろん最近はWEB配信があることは事前に分かっているわけで、その意味では依頼する段階でデジタル化への承諾も取るのが普通になって来ており、確か読売で連載を始めたときはそうだったように記憶しています。それはそれでいいんですよ。書く段階で条件として提示されているんだからいやなら寄稿を止めればいい。問題は過去に遡ってデータベースに入れたいというケース。今回はそれなんですね。
ぼくの場合は、日経ホーム出版の媒体に書いた原稿は一部を除き殆どが本になっています。その内容がデータベースでも引けてしまうと本の売り上げを侵害しないか。実際にはそんなことは殆どないというのは体感的に分かっていますが、本を出してくれた出版社に対する仁義として別のところでもアクセスできるようにはそう簡単に許諾できない。それに本にした段階で加筆修正もしており、自分としてはそっちが決定稿のつもりなんですよ。もちろん雑誌初出時の原稿がどうだったか知りたいのは読み手の勝手であり、そちらを焚書扱いするつもりはないです。でもそれほど知りたいんだったら大宅文庫あたりで調べて貰えばいいのであって、ちょっと読んで見たいと軽い気持ちでアクセスする人が、最初に本の決定稿バージョンではなく、電子データベースで雑誌のために書いた古い稿に触れてしまうというのは書き手として嫌なものです。で、妥協案としてたとえば本になっていることを示すような一文をつけて電子データベース化するとか、ぼくのWEBや版元のWEBへのリンクをつけるとか、なんらかの対応して欲しいわけであって、そういう細かなマッチング作業なしに、ただデータベースに入れるから許諾しろと言われてもねぇということです。
デジタル化権の独占は出来ないというのはそうみたいですね。契約書に敢えて盛り込めば別でしょうが、特に明言しない限り、現状では著者自身がデジタル化し配信してしまうことは法的に押さえられないようです。音楽のMP3ファイルの海賊版が多く出てしまったことに対しては、公衆へ送信可能にした段階で著作権違反という考え方を著作権法に盛り込むことで防ごうとしていますが、それは第三者が著作権者の人格権、頒布権を侵害する恐れがあるからであって、著作権者自身が公衆に送信可能にすることまで押さえようとしたらそりゃファッショっぽい。
ただ、たとえば自分でもWEB化して、たとえばそっちは無料で出ていて、一方は日経が有料で提供しているということになると少し変じゃないですか。先の版の異同問題とかもあると更に複雑になる。著者としては配信方法や利用料金まで含めて出来れば、自分で管理したいのはやまやまで、データベースに入れてしまうとそこから先は相手任せですよね。現状では改竄のプロテクトもかけられないわけですし。だったら自分で全部やるよと思っちゃう。
というわけで許諾したら自前のデジタル化が出来なくなると言うことではない。しかし自前でデジタル版の管理を一括的に行うことは出来なくなる。そこにも問題があると思うのですが。
武田徹