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LOG77
山崎浩一さんって、書き下ろしの仕事をあえて「しない」、「コラムニスト」を貫いている人
なのかと思っていたのですが(一読者の印象論なので根拠はありません)。
デジタルデータ化の件ですが、たいていの新聞社はここで紹介されている日経と同じ運用を
しているのでは、と思うのですが。そしてそれは「自分でのアップロード」や単行本化を妨げる
ものではないのでは。
私が働いている新聞社は、社外筆者の原稿が紙面に出るのと同時に
筆者がHPにアップするのも妨げません。
私はこの運用には、HPでタダで読めるのなら新聞買わなくなる読者もいるんじゃないか、と
疑問に思ってます。
それから「編集会議」のニフティに関する分析、面白かったです。ニフティはフォーラムを
「安楽死」させるのかな、と思っていたのですが、別の形で志が生きている、ということで。
ただ、少額課金の仕組みをどう実現させるのか(実現してるシステムって、ありますか)、
とも思いますが。
以下削除。唐突すぎて意図が不明であり、不特定多数への説明義務を果たしていないと思われるので。
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新しい国家社会の建設を目指して 投稿者:列島改造連絡協議会 投稿日: 9月 5日(水)21時24分30秒
新しい国家社会の建設を目指して、広範多岐に亘る諸問題を総合的且つ多角的に検討し解決策を提示し、具体的には、世界最大の未利用資源の火山灰を活用した新素材技術や新思想を元にして、外交問題、種々の法制度の整備、行政改革、立法府改革、司法改革、憲法改正、民法改正、産業構造改革、国土開発、省資源・省エネ対策、放射性・産業廃棄物処理、コンクリート劣化対策、砂漠の緑化、自然と調和した環境造り、創造立国、創造教育、健全な家庭と生活、真の男女共同参画社会の在り方、夫婦別姓問題、少子化対策、霊魂と神仏の正しい概念、真の宗教と信仰の在り方等を提示し、文明史の大転換を図り、日本のみならず、全世界の窮状を救済していこうとするものです。
いちべぇさん、書き込みありがとう。
>武田さんが批評したいのは、政治家のあり方ではなく、日本社会のほうですよね?
>でも、モンギリ型で「日本社会はオカシイよ」と言ってみたところでいまさら無
>効、ということでしょうか。
「日本社会」の方が広いのでもちろんその範囲内には含まれるのですけど、この時は票集めの手法として利益誘導からキャラ化という流れはまずいんじゃないの?というつもりだったんですよ。
個人情報保護法案集会はとんでもないことになっているようで。宮崎学もどうかなと思うけど、共産趣味者ってのも、ぼくは「意味から趣味へ」っていうニーチェ=東=宮台的文脈で前に日経新聞に紹介したことがあるんだけど、宮崎学告発に趣味を超えた意味を求めてますよね。って、なんのことか分からない人は全然分からないだろうけど、あえて書くほどのこともないので知りたかったら個人情報保護法案集会関係のサイトかどこかで調べて下さい。
そうそう、日経新聞と言えば、日経ホーム社から過去記事のデジタルデータ化承諾依頼書というのが送られてきた。これは、ぼくは前から「承諾しない」で通しています。最初は無料でというのでとんでもないと返事して他の雑誌で批評もしたけど(だってそれを無料で読者に提供するならまだしも日経テレコムで有料提供するんだから。自分だけ儲けて、著作者にはタダでと言うのは倫理的な問題でしょ)、その後、当初の原稿料の2%払うとかになってその朝令暮改ぶりにもまた腹が立った。最初に許諾してたらどうしたつもりだったのか。
で、今回も許諾しません。ぼくの場合、自分でいつアップロードするか分からないし、それ以前に過去記事を元に単行本にもしているので、扱いが複雑になる。そんな事情を通り越して頭ごなしに許諾せよという官僚っぽいスタンスが気にくわないなー。というわけで、ちょっと私信めくけど、ここで批判されている当人か、そのごく近くにいる人は、この掲示板を絶対に読んでいるはずなので、こっちの立腹している理由を考慮して対応するように、そうじゃなかったらいつまでも許諾しません。武田徹
なんだかゴタゴタしているようですね。あちこちから断片的な情報だけ手にいれてます。
個人的には、宮崎さんには教えられること多いのですが。。。今後を見守ります。
>高支持率のわりに靖国問題や構造改革の実質に関心を持って小泉政権を見守る人が少ないという
>二重底状態が導かれたのだ。確かにキャラクターを使えば親しみ易さが演出される。しかし、
>キャラ人気を政策への理解や支持に繋げて行く作業は相当困難であることを政治家は思い知る
>べきだろう。
との記述、おっしゃるとおりだと思います。が、なぜ結論は「政治家は思い知るべき」なんでしょうか。武田さんが批評したいのは、政治家のあり方ではなく、日本社会のほうですよね?
でも、モンギリ型で「日本社会はオカシイよ」と言ってみたところでいまさら無効、ということでしょうか。
カンケイないですが、宮部みゆき『模倣犯』読みました。ある種のジャーナリズム批評、という部分もあって、興味深かったです。
個人情報保護法案反対集会が2日の日曜日にもあったらしくて、ぼくも賛同人名簿に名前を入れて良いかという確認の電話が先週に来ていた。
しかし、老婆心でいうけれど、個人情報保護法案問題は絶対に集会をやるようなスタンスで扱うべきじゃない。普遍的な問題なのでマスメディアベースでの言論戦として、出来ればそれもTVのような匿名的なメディアで、論理よりもむしろ感情に訴えて告発をやるべきだ。久米とか筑紫をおだててでも乗せるべきだ。そうではなく集会とか市民運動的にすればするだけ、おまえ達だけの利益誘導運動なのだろうと勘ぐられる。実際、今回だって宮崎学が出るか出ないかでもめたりしてサイテーである。宮崎の動向に興味があるのなんてほんの一握りの「事情通」だけだろう。そんなことで一喜一憂している集会だと分かれば絶対に大衆は腰が引けて行く。マイナーな同好会的な反対運動だと思われることほど、この問題を議論する上で不幸なことはない。斎藤さんや宮台なんかが焦る気持ちはよくわかるが、焦らなければならない問題だからこそ、マスメディア経由がいい。とにかく政府守旧派が強権発動を目論んだ怪しげな法案であるという印象をなんとなくでもよいから空気として蔓延させること。小泉が人気を背景にしか動けない以上、法案の廃案を望むならその評判を下げることだ。間違っても反対運動家たちが自分たちの評判を下げることではない。戦略的であれ、そう望む。
武田徹
読売新聞カーブミラー2001に書いた原稿。
原稿ではキティがウサギだと書いていて、担当者も見落とし、校了直前で発覚して助かる。
小泉論としてはある程度は異色で存在価値はあると思うんだけどさてどうだろうか。この趣旨の原稿は前から書こうと暖めていたが、今回、書いた直接の引き金は中央公論に許月珍という台湾のカルチュラルスタディーズ研究者が書いていた日本政治のキャラクタービジネス化についての記事を読んで。
確かに小泉が自分をコイズミと呼ぶような段階でキャラクター化は始まっていて、そうした傾向は小渕時代から続いている。それについての指摘は正鵠を射ていたが、キャラクター化一般ではなく、日本のキャラクター文化に焦点付けをしたより細かい議論も補完の意味合いで必要だと思った。それにしても日本の政治現状に紋切り型ではない視点を持ち込むのが台湾のカルチュラルスタディーズ学者だったというのはどういうこと?
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夏休みに地方の観光地を訪ねる。土産物売場には特産品に混じってキャラクターグッズが多く並ぶ。動物や神話の登場人物をキャラクター化したものあり、宮崎駿作品など人気のアニメやマンガのキャラクター商品あり・・・。こうした光景を見ると日本人が無類のキャラクター好きであることを改めて感じる。
そして最近ではその人気にあやかろうと政党までがキャラクター作りに熱心だ。たとえば自民党は小泉首相のイメージキャラクターとして「シシロー」を登場させ、民主党も「ゆきおちゃん」を披露した。かくて右も左もキャラ頼みの情勢だが、日本人はなぜキャラクターにかくも惹かれるのかを検討しておく作業は必要だろう。
たとえば精神科医の斎藤環は欧米のキャラクターと日本のキャラクターは違うとし、前者を「隠喩的」、後者を「換喩的」と指摘する。言語学の知識に少し深入りするが、隠喩とは質的類似を媒介とする表現。確かにディズニーアニメの動物や妖精たちや『ET』の宇宙人は基本的に擬人法の産物であり、姿形こそ人と異なるが表情や感情の現し方はいたって人間的だ。そんな「人間」に類似したキャラクターとなっているからこそ、ディズニーやスピルバーグの映画の観客は同じ人間として彼らに感情移入し、共感できる。
それに対して日本の人気キャラクターは違う。サンリオのキティは、たとえば耳のかたちからかろうじてネコだろうと察しがつくが、それは「柔道の有段者」を「黒帯」と呼ぶのに通じる「部分で全体を表す」換喩的な表現だ。生き物としてのネコとの質的な類似性はキティにはない。ノッペリとした記号的な顔にいたっては表情が皆無なので感情移入や共感はできない。
しかしーー、そんな共感を拒絶するキャラクターが「かわいい」と絶賛され、愛される。そんな逆説が日本のキャラクター文化を特徴づけていると斎藤は考える。コミュニケーションの可能性があらかじめ断ち切られていてこそ、自分の「かわいい」という思いを勝手放題に膨らませられる気易さがあるのだろう。
そうした構図は政党キャラにも及ぶはずだ。自民党の小泉関連キャラクターグッズは約3億円もの売り上げを達成。キャラクター戦略が支持層を広げ、参院選勝利に貢献した事情は確かにある。
だが、シシローを「かわいい」と感じて自民党に投票した人は、キティに惹かれる時と同じく、キャラクターになんらかの感情移入したり、キャラクター(の背景に控える小泉首相本人やその政権)とのコミュニケーションを期待しているわけではない。そんな支持層が広がった結果だったからこそ、高支持率のわりに靖国問題や構造改革の実質に関心を持って小泉政権を見守る人が少ないという二重底状態が導かれたのだ。
確かにキャラクターを使えば親しみ易さが演出される。しかし、キャラ人気を政策への理解や支持に繋げて行く作業は相当困難であることを政治家は思い知るべきだろう。
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政治史学者のM先生のお誘いで池袋ジュンク堂で開催された島田裕巳の新刊記念トークショーに。
内容的にはさすがに柳川門下の宗教学者らしい分析の片鱗も見せたが、気になったのはその語り口だ。島田氏は相変わらずというか飄々とした話しぶりで、自分の置かれている状況を踏まえて行動する切実さは感じられない。ぼくも、調査分析のためにはむしろコミットを浅くして情に流れるのを避けるタイプなので、ある面では近いキャラクターなのかもしれないが、彼の場合、生まれつき現実へコミットしている手応えを感じられないタイプ、だからこそ切実になれないのではとも思った。で、周囲が問題なく転がっている限りでは良いのだが、オウムの事件のようなものに偶然、巻き込まれると世間のバッシングを受ける。おそらくこの後を考えれば彼も過去を一度精算したそぶりだけでも見せた方が良いのだろうか、切実に現実に関わった手応えがそもそもないので精算してみせる必然性も感じられない。
なお彼の名誉のために付言すれば「麻原の弟子」と書いた日刊スポーツは事実無根であり、訴えて事実無根と言うことで勝訴したらしい。
最近の活動報告。『東京人』に慶応SFCルポ、『Oggi』で町山広美と小泉政権対談。
武田徹
発言を続けていくことが、大事なんじゃないでしょうか。>武田さん
ご自分のことを「ずるい」と形容なさるのは、非常にそのお気持ちは察することができるんですが、それでも、それは批判されるべき「ずるさ」ではないと思います。
山崎さんはボクも少し読んだことがあって、とゆーか、『噂の眞相』でコラムを持っておられたころは真っ先に読んでました。まとまった本としては、タイトル忘れましたけど書評集を読んだのですがこれもとても良かったです。
山崎浩一さんがほめられていて、うれしいです。
以前、私は、週刊ポストに連載されていた、山崎浩一のコラムを、毎週、楽しみに読んでいました。
単行本になると、それも、買いました。
ファンだったんですよ。
批評の事情で、山崎浩一さんをぼくが気にしたのは、彼がある意味で雑誌業界の不遇を体現していたからかもしれない。彼のコラムの仕事は敬服に値する。TV論を書く上で、さっき『リアルタイムズ』を読み返してみて改めてそう思った。『なぜなにキーワード図鑑』に続く宝島連載で、イラストまで自分で書いていた前連載に比べるとテンションが下がったかなと思える作品でも極めてレベルは高い。
山崎さんように自分の主張があるコラムは貴重だ。他のコラムの多くが慰みものであり、世間に変わってバッシングをしたり、成功者をからかったりで鬱憤晴らしをするだけなのだから。彼のコラムには常に新しい情報があり、新しい見方があり、したたかな批評があり、クールな洒落があった。そんなコラムニストはぼくは彼以外に知らない。『一人大コラム』など血沸き肉踊る気持ちで読んだ。雑誌の売文業者としてのぼくが一番影響を受けたのは実は彼かも知れない。
ただ辛い仕事ぶりだったろうとは思う。彼には書き下ろしの仕事がほとんどない。それもそのはずで、これだけテンションの高いコラムを量産していれば、自分の自由になる時間の殆どはそれだけで費やされただろう。しかし、そうして身を粉にして書かれたコラムはどの程度、人々に真摯に読まれたのだろうか。雑誌を買う殆どの人はまっとうな批評に立ち会ったりしようとしない。文意をくみ取るまともな読解力もありゃしない。慰みものとして雑誌を買うのであり、自分のレベルに記事を合わせて読む。TVに出るわけでもないし、爆発的に売れた本も持たない山崎さんは多くの読者にしてみれば印象の薄い書き手であり、そのコラムは読み飛ばす候補だったのではないか。
良いコラムを書こうとすることが、無駄な才能の浪費となり、それがまた読者を失わせる不幸な悪循環のようなものを感じる。
80年代ー90年代を通じて山崎さんの仕事は文句なしに第一級の完成度を持っていたと思う。もちろん全てに共感は出来ない。しかし多くの作品を感心して読んで来た。
ぼくはずるいから雑誌の仕事を少し手を抜いて、本の仕事をしてきた。『紛い物考』『偽満州国論』『隔離という病』・・・・、ぼくの方が少しは書き下ろし率が山崎さんより多いのはそうした狡猾さの産物である。
ただ最近は少し変わってきてぼくも小さな記事やコラムへの入れ込みを強めている。しかし、そうするととたんに書き下ろしが滞る。身をもってそれを経験する。誠実な、自分で納得のゆく仕事はそう多くは出来ない。
日経平均株価が1万1千円を切って、数字だけ視るとやはりショックがあるが、平均株価が1万円を突破したのはそう過去の話ではなく、せいぜい80年代初頭だったと記憶する。その後、プラザ合意があって、バブルがあってという流れを思えば、むしろ2万以上あったことの方が偶然の結果と思うべきなのであって、あまり危機感をあおるのもどうなんだろう。もしろ80年代から何があったのかを改めて思い起こしてみることの方が建設的ではないのか。
たとえば80年代の頭には電力消費量はいまよりも30%ぐらい少なかった。原子力発電所の発電量分がない状態だったのだ。で、今、株価が下がって80年代波になっても電力消費量は減らない。これって何なんだろう。クーラーとかの普及はもちろんあるけど、ITも結構消費電力が多いってこともひとつにありそうだ。消費電力だけでなく、ブロードバンドに十分に対応できるCPUは今の延長上に考えると相当の熱源になって温暖化効果が出るという話も聞いたがどうなのか。注意力を傾けるべきものは、新聞やTVであまり触れられていないところにある。ジャーナリズムが経済活動から完全に独立していない(たとえば広告収入依存というのはそのひとつだが)と、目先の経済動向の反映からチェック機能が弱くなる部分は絶対に出る。そのへんは個々人のメディアリテラシーの充実でカバーするしかない。
あー、一日が48時間ぐらいあればいいのにと本当に思う。限られた時間の中で出来ることは少ない。広報誌の仕事と雑誌の仕事でここ数日は終わっちゃうだろう。本に向けた自分の仕事が出来ない。焦る。大学、学校間系がないのにこれじゃ先が思いやられる。
今日は(昨日か)ホンダに取材に行った。電気自動車ってもう研究開発してないんだって。ハイブリッドと低燃費内燃機関と燃料電池車。電気自動車フェイドアウトややっぱり給電施設が出来そうもないのがネックだったのだろう。しかし燃料電池をこれから開発生産するのと給電インフラを作るのとどっちが社会コストは少ないんだろうか。
武田徹
書き込みありがとう。でもね、確かに90年代で、云々と書いてはあるんだけど、だったらぼくだって90年代デビューじゃないですよ。浅田彰だって違うし、田中康夫だって、小林よしのりだって違うし、違う人はいっぱいいますよね。というわけで、そのへんはあんまり厳密じゃないみたいですよ。というわけで山崎さんが入らないのは90年代云々だからじゃないんではないかなとぼくは思いました。
>オバタカズユキ「言論の自由」(93年)、すが秀実、高澤秀次、宮崎哲弥「ニッポンの知識人」>(99年)を私は思い出すのですが、両方とも山崎氏は出ていないですね。なんでかなー。
オバタはけなせる相手しか入れない。スガは視野がちょー狭い。宮崎は・・・ よくわからないけどセンスが違う感じか。山崎さんを知識人と見れるかどうかは一種のリトマス試験紙で宮崎は感応しないタイプだったということでしょう。
東大本郷の生協は古典とか岩波、東大出版会系は確かに厚いでしょう。でもいくら東浩紀特集だからって『広告』のバックナンバーまではないでしょ(たぶん)。東と斎藤環がメインのライターだった時期の『広告』は抜群に充実していました。ぼくが書店主だったら『不過視なものの世界』を置くよりそっちを平積みにしますね。で、早稲田の本屋でその山をみて、自分の思うところがかたちになっていてぼくは正直驚いたです。しかし考えてみれば平積みの山って100冊弱ですよね。早稲田の学生が10万人にて100冊ぐらいしか売れない。そんなヒット率を相手にするのが書店業なんですよね。
武田徹
永江氏の本に山崎浩一氏がいないのは90年代デビューでないからでは。この手の本では
オバタカズユキ「言論の自由」(93年)、すが秀実、高澤秀次、宮崎哲弥「ニッポンの知識人」(99年)を私は思い出すのですが、両方とも山崎氏は出ていないですね。なんでかなー。
あと、大学と本屋、ですが、大学生協書籍部で済ましてしまっているのではないかしら。
東大の本郷書籍部はかなり充実しているようですし。
今日、ゆえあって早稲田の本屋をのぞいたんだけど、先に紹介した永江さんの『批評の事情』とか、大塚英志の本だとかが、他の本屋で見る村上春樹の新刊のように平積みになっている。それどころか『広告』の3年前の号が新刊雑誌以上の高さで平積みでそれは東浩樹特集だったりする。ゲーム理論やゲーデルの不完全性定理の説明書も、中公新書で復刻になったウィトゲンシュタインの『倫理哲学論考』も平積みだ。思わず目を疑ってしまった。
自分が読みたい本、自分だったら探すだろう本が多く売られている本屋を良い本屋と評してしまうのはあまりにも我田引水的だが、少なくとも、どこの本屋にもあるベストセラーを少な目に押さえて、その分、しっかりした手応えのある、「今っぽい」本を多く備えているというとは言えるだろう。
早稲田、高田馬場は本屋に恵まれていると言わざるを得ない。それはジャナ専のせいではなく、もちろん早稲田大学のせいだ。一学年1000人以上の学部を10近く擁するマンモス大学が、他の場所の本屋と異なり、全国区型ベストセラーに頼ることなしに本屋を自立させる。東大は神保町の本屋に影響を与えられるほど近くにないし、慶応も日吉と三田と藤沢にキャンパスを分けたのが不利となった。早大だけが本屋を育てた。いや、東大や慶応すら本屋を育てられないことをもっと重く受け止めるべきかも知れない。本屋に多くを望む人、探している本がなかなか買えないと愚痴る人は多いが、早稲田大学くらい巨大な消費力を持つ後背地がないと本屋の品揃えに影響を与えるまでには行かない。そこに本をリアルスペースで売る仕事の難しさがある。そうしたリアルな認識から本の文化は論じないといかんなぁと改めて思った。
武田徹
以下、削除(メールアドレスなし)。
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タイトル思いつかず 投稿者:ふうま 投稿日: 8月26日(日)00時49分41秒
武田殿の言う通り私は無学・無能ですが無知では無いつもりです。武田殿は必死にな
る事を勉強することで補えるように書いています。確かに理性の部分についてはその
通りでしょう。しかし、感情については当てはまらないと私は考えます。そして社会
とは理性と感情の両方で成り立っているはずです。武田殿は感情面の認識について大
きく欠落しているように感じてしまいます。そしてそれは映画に出てくるようなマッ
ドサイエンティストの様に映るのです。これは中国の事についても当てはまります。
今の中国では軍事力でアメリカに大きく差をつけられています。その軍事力はアメリ
カを恐怖に陥れる力は無いはずです。感情的に脅威を感じない相手にどうして敵対す
るのでしょうか。せいぜい付き合いの難しい相手位にしか映らないはずです。
私の考える対立は、アメリカが21世紀はのローマ帝国になる事を肯定する集まりと否
定する集まりです。具体的に言えばアメリカ対EUです、今はまだ対立する為の大義
名分が見つけられない為に表面化していませんがEU圏がアブラ圏まで広がれば否が
応でも表面化するはずです。
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感情と理性という二分法は、ためにする議論には役立つかも知れませんが、現実にはどうでしょうか。それこそよく現実社会を見定められる透徹した理性と、そこで起きていることをきめ細かく感じる繊細な感性があればそんな二分法のむなしさはわかるように思いますけど。
ぼくは感情面では劣っていますか? そういう面もあるんだろうな。でもふうまさんもちょっとかたくなな感じも。前のように優しく扱わなかったからかな。でも、あなたにはぶつかる壁、反射して自分の姿が見える鏡のようなものが必要のように思っているのはこの前と一緒。第二ステージという感じでしょうか。で、時間があるかぎりつきあおうとは思ってます(沈黙しちゃったら、ごめんなさい、忙しいからです。悪気はないので)。直接会って話したほうが何倍もいいんだけど、なんとか掲示板でもやってみたいと思います。
マッドサイエンティストとはお褒めの言葉と受け取っておきましょう。
EU対アメリカの対立軸ももちろんありますよ。でも対中国という対立も考えた方が国際政治は分かり易いと思います。中国は脅威ですよ。軍事の文脈で言えば、核があってICBM技術が在れば、軍事力の量的な多寡を超越して脅威にはなれます。だからこそブッシュはABMに躍起になっているのではないですか。たとえアメリカに着弾しなくても台湾に向けて発射した時点で、アメリカはやっかいななんらかの対応を強いられます。加えて軍事以外の文脈で言えば、中国が脅威なのはそこが巨大な未開市場でもあるからです。EUとはそこが違いますね。EU圏がアラブまでカバーすることはあるでしょうが、イスラム原理主義まで内包することはないと思いますよ。そうである以上、EUの核ミサイルが表だってアメリカに照準を合わせたと表明することはないでしょう。
あと「殿」とメールアドレス書かずはそろそろ止めないですか? 殿と書いているうちはあなたは自分の構えを解けないでしょう。止めてみると別世界が開けると思うんですけどね。掲示板でアドレス公開がいやなら直接メールくれても良いよ。
以下、削除(メールアドレスなし)。
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な〜にいってんだか 投稿者:ふうま 投稿日: 8月25日(土)01時57分56秒
私の思いつきを陰謀と言うがごとく。というのは冗談ですけども、人は人の事を驚く
ほど理解していないものです。だから凡人は人に誤解される事が無いように必死に
なって生きています。武田殿はその辺を超越してしまっているように人に感じさせる
ところから、凡人にはまねのできないような生き方という意味で危険な思想家の言葉
が出てきたのでは無いでしょうか。
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「誤解と理解」の問題は原理的な話をする場合と、日常的な話をする場合でずいぶん違います。原理的な言語論、意味論の次元ではすべてのコミュニケーションは誤解である(というか、コミュニケーションは成立しない)という極端な唯我論も可能(前期ウィトゲンシュタイン)だけど、そんなことをなぜ本に書くのかといえば、読んでくれるヒトに通じることをどこかで願っているわけで、日常的にはなんか理解されるんだろうと思って行動するのはごく自然ですよね。だって理解を前提としないと誤解の話も出来ないと言うパラドックスがあるし、生活の中で買い物すら出来ないと死んでしまうんですから。後期フッサールの現象学とかアルフレッド・シュッツの間主観性の社会学とかはそうしたレベルから逆に原理的な次元に遡ろうとします。本なんか読む必要ない、オリジナルの考えが大事と主張される人もネットにはいてぼくには驚きでしたが、同じ問題について先に真剣に考えた人たちがいて、にわか仕込みの考えでは絶対においつけない深さまで彼らは考えてますから、考えを深めようとしたら役に立ちます。ま、自分の考えを深めたいという気持ちが少しでもあったらお読みになると良いですよ。
ちょっと厳しいことを言うと「武田殿はその辺を超越してしまっているように人に感じさせる
ところから、凡人にはまねのできないような生き方という意味で危険な思想家の言葉
が出てきたのでは無いでしょうか」という推測を、原典(永江さんの本)を読まずに書くというのは誤解とか理解以前の問題で、あなたの意見ではあるけれど、それが永江さんの意見と合致する可能性は偶然任せであり、その意味で相当に低いだろうと言わざるを得ないですよね。ぼくの書いたモノに対する感想、コメントとしてはありがたいですが、やはり限界はあります。そういえば、こうした構図は先の中国の話とちょっと似ているのかも。陰謀史観と言う言葉がどう使われているかも、自分の語感から理解したつもりにならないで、その語を含む文献に多く当たって文脈で読んだ方が良いと思います。そうしないで自分の認識だけに閉じこもっていると、理解、誤解以前に、他の人との間に理解も誤解もありえない自分だけの狭い世界に入っていってしまう恐れがあるのではないか。「凡人は人に誤解される事が無いように必死になって生きています」っていうけど、「必死」とは思えないなぁ。やるべきことをやっていないと感じてしまう。ふうまさんの議論するときの「構えの癖」は少し自覚されるといいように思いますよ。ご指摘のぼくの「構えの癖」も、ふーん、そうなんだろうかと意識しますから。お互いに、ね。
武田徹
永江朗氏の『批評の事情』を贈って頂いた。永江さん、あんなに雑誌も書いているのに書き下ろし出来るのはすごい。若手の書き手を網羅的に論じた内容で、人選に永江さんらしさが窺える。小林よしのりは敢えて言わなければならないこともあると苦渋の選択で入れたようだが、彼に書いて貰えるのが嬉しくて一緒に行動していた小判鮫みたいな連中は省いている。ただなぜ山崎浩一氏がないんだろう。そこはちょっと意外。
ぼくも入れていただいていて拙者の項のタイトルは「遅れてきた世代の危険な思想家」だそうである。全体的なスタンスからは誉め言葉なのだと思わせて頂く。
ただちょっとまずいかなとも思ったりした。なぜ危険な思想家なのかは、拙著に逆説的な表現が多いからのようだ。たとえば『隔離という病い』でぼくはハンセン病療養所こそ家族共同体や血縁共同体ではなく、そこに居合わせることになった偶然の結果、地縁のみで繋がり、互いの弱さを前提として暮らす都市共同体のモデルになりえているという指摘をしている。これは隔離療養所を強制隔離の産物、悲劇の骨頂とみなす視点とは確かに随分と異なる。で、ともすると療養所を理想視していると誤解させる危険も、この部分だけ取り出して読まれれば確かにあるだろう。
そして同じ論理が満州国にもありえ、それは満州国はアジアの理想を追求した壮大な実験なのだと謳い上げたい見直し派のヒト達を共鳴させるものにもなる、つまりこれまた危険だと永江氏は書いている。永江氏は前々から拙著をよく読んでくれているので、もちろん拙著の真意がそうした断片的なものでないことは理解してくれているはずだが、ただ結論だけを読みとりたい人はどうだろう。
以前に宮崎哲哉がハンセン病文献を取り上げたときにも『隔離という病』の都市共同体云々の下りしか引用していなかったし 、それを読んだのか、自分でもそういう理解をしたのか、前に対談で同席した日垣隆も拙著をそうまとめたうえで話を始めていた。
確かにそう書いてあるんだが、掉尾の部分だけ取り出して結論づけられるような構造で拙著は書かれていない。左右を問わずに思い入れさせる甘美さと、ふと気付いてみればどちらの立場の人たちも実は梯子を外されていたのだと思い知る根元的な不安の両方を味あわせたいと意地悪く考えながらぼくは本を書いている。そうした姿勢を拙著から読みとって欲しいと思うのだが、拙著を読まずに永江さんの本を読んで「危険な思想家」という表現に最初に出会う人にもうまく伝わってくれるのだろうか。ま、どう思うかは、ぼくの本の場合も、永江氏の著作でも、もちろん読者の勝手ではあるのだが。
武田徹
昨日は台風の中、エスティマ・ハイブリッドに試乗していた。プリウスも前に乗っているが、相当の進化を感じる。乗用車から乗り換えるとミニバンは車体が大きい分、慣性Gが大きく、何をするにも車体を振り回す感じが伴うことを避けられないが、このハイブリッド版はむしろ普通のエスティマよりもドライバビティは自然ではないか。全体的にトルクに余裕があるのと、後輪のモーター駆動のオンオフの敏捷性やトルクの掛け方の妙が効いているのだと思う。
ただ、ああ、やはりそうなんだーと思う瞬間があった。クルマを止めてパーキングにセレクターを入れてしまうとバッテリーへのチャージの必要がない限りエンジンは止まってしまう。そこでアクセラレータペダルを踏んでもクルマは何の変化もない。つまり空ぶかしという動作が出来ないのだ。これはハイブリッド車の場合、アクセルペダルとエンジンは繋がっていないから。エンジンは走行に必要なトルク量をモーターでまかなえない場合に、その不足量に応じて回転数をあげて行くのであって、ドライバーの指揮下にはないのだ。
こうした機械と人の「間接性」が、クルマの世界でもそれが進化してゆくにつれて増えて行くのだろう。電気自動車になってしまえば、アクセルペダルは電気スイッチになり、踏み角度を演算してモーターへの通電量が変わる。ここでも空ぶかしはありえず、モーターが回れば車体が動いてしまうので、停止中は予期せず暴走を避けるためにもアクセルの操作をデッドにするようにするだろう。
こうした事情を思うと内燃機関の自動車とは幸福な機械だったのだとつくづく思う。決して小さいわけではない、危険極まりない重量と速度を持った機械を思い通りに操作できた。その直接性が移動のための道具としてではなく、クルマのファントウドライブ性を演出してきた。そんな幸福なーーある意味で野蛮ですらあったーーー機械と人間の直接交感は消えて行くのだ。内燃機関自動車とは産業化の過程に登場した奇形の機械として伝説になってゆくのだろう。
武田徹
書き込みありがとう。
その地方紙がどこか分かりませんが、記事は共同通信配信です。枚数は12枚はおろか3枚です。でも取材モノではなく、論評なので、もちろん紹介だけではないですよね。でも時間がなくてなくて(苦笑)。前にも書いたように13日夜発注の15日アップですから。
枚数が少ない場合は、部分的になるのが覚悟の上です。別のところにまた別の視点で書くまでです。それと通じる問題意識の別バージョンで読売にも記事を書きました。これは東京版は金曜日掲載かな。地方版はかわるようです。
武田徹