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LOG76
8月21日付けのある地方紙で、武田さんの「靖国参拝」に関する、書かれたものを読みました。
このような新聞でも、武田さんに原稿を依頼する事もあるのかと、少し見直しました。
感想なんですが、この書かれたスペースが武田さんにとって、仕上がりは12枚なのか16枚なのかはわかりませんが、私は、わかりやすく良かったと思います。
“小泉人気を追うテレビメディアは、異常なまでの高支持率を作り上げた共犯者”とし。“参拝
に関しての報道”に関して、「テレビ視聴者を意識してか、耳ざわりの良い表層的な報道や議論
が氾濫し、はたして深層にある問題を取り上げ、有意義な議論が出来たであろうか。問題の本質
がむしろ見にくくなったように思う。」と評し、「こうしたテレビ経由の情報で初めて「靖国」
に触れた若い世代は、今後どう云うかたちでその問題と向き合って行くのであろうか。」と心配
されている事など、良く問題点を著わしていると思いました。
若い世代だけではなく、無党派といわれる国民の意識も、“小泉人気”が創出されてから、どの様に変化をするのか私も気がかりです。
小泉首相に向かって「なぜ参拝を」の言葉に対し「国の為に戦って死んで行った人達に、哀悼の
気持ちを持って参拝する事がなぜ悪い」「あなた達は、そんな気持ちがわからないのか」と切り
捨てられる、報道を見せられると、無党派といわれる国民の大勢や、若い世代は、どう捉えただ
ろうか心配です。
以前書き込みしたように、参拝決行以降も支持率はあまり変化しないだろうと思っていたのですが、やはりあまり下がりませんでしたね。
話は変わりますが、最近多くの政治家や評論家がぶち上げている、言葉“痛みを伴う改革”は、
今では世論も、怖いが受けねば良くならないと思い始めています。(何が良くなるか深く考えずに)
何か同じような事を思い出しませんか。以前“消費税導入”の時もそうではなかったでしょうか。
導入時は、税の不公平性も問題もあるが、徐々に改善して行けば良い事、決断が先だと断行されま
した。けれども食費や教育費などの課税が、いつになってもそのままになってしまっている事から
して、不安に思います。
個々の銀行が、資金受け入れによる信用不安が怖く国の促しを躊躇していたが、皆で受ければ怖く
ない状態で各行が資金注入を受けたと同じで、今大手企業も“痛みを伴う改革”に乗じてリストラ
を断行しています。経済界も国も真の贅肉をとる事は良いのですが、先を見越して、見かけだけで
はなく真の改革を望みます。国民も一人一人事に流されずに、ものごとをしっかり見つめ考えなけ
ればならないですね。
TimeやAsiaweekには載っているけどブルネイがたいへんなことになっている。石油のおかげで王様はビル・ゲイツよりお金持ちとか言われたが、さすがにカネを使い過ぎちゃったようで資金繰りがショート。今まで買い込んだものをオークションにかけて急場を凌ごうとしているらしい。で、オークションに出されたモノがすごい。ブルネイらしく金ぴかの食器とか調度品はまだ理解できるとして、エアバスA340用のフライトシミュレータとか、おっぱい1号、2号なんてネーミングのヨットとか。
ロイヤルブルネイエアのトイレの便座が金だとかいううわさを聞いて、ぼくは前にブルネイってどんなところか単純に好奇心で見に行ったことがある。道路とかは整備されていて小綺麗なんだけど、人間味がないなぁと思った。物価も高いし。当時はシェラトンしかなかったけど、今はこれまた王室の気まぐれで大きな観光ホテルが建っていて、それも焦げ付いているとか。
確かに観光といっても熱帯雨林と油田ぐらいしか見るところはない。ぼくは初めて大規模な油田をみて感動したけど、そういう感性の人はあまり多くないだろう。 マレーシアの人にこれからブルネイに行くといったらなんであんなところにと怪訝な顔をされた。あ、そうそう、これも王室が作ったディズニーランドみたいなところもあったな。子供達はちゃんと勉強してから来るようにと、昼は閉園していて夕方からオープンする。しかも王様のおごりで入場料はみんなタダ。でもそこも人気がなくて、中性子爆弾爆発後の風景みたいでそれなりに楽しめたけど、一般向けの観光スポットになるのはどうだろう。少しは混み始めたのだろうか。
武田徹
いえいえ、普段目先の批判をやらかしているのはぼくのほうですから、お気をつかいなく。人に言われて改めて自分の振りを省みたと言うことですから。
武田
ご教示ありがとうございました。気が進まないことをお願いしてしまい、すいません。目近なところばかりに目が向いて、疲れているようです。「世間の感情や価値観を上書きしているだけではないか」とのことですが、僕は「世間の感情や価値観」のある部分に対しては確かに(結果的に?)上書きしているので、ちょっと耳が痛いです。あとは自分で考えます。では。
ネットワーク上では分からないと思うのだけれど、実はしばらく東京を離れていて、さきほど戻った。一応夏休みのつもりだったんだけど、取材しないで済むこういうときにこそ原稿を書き溜めようとする貧乏性のためかえってワープロの前にいた時間は長かったかも。
さぁて、粥川さんに返答をせねばならんですな。といっても実名を挙げてと言うのは気が進まない。それぞれの書き手が自分が書いている言葉が果たしてどこから来たものか考えてくれればいいと思うんですよ。取材相手の良くも悪くもスポークスマンになっていないか、世間の感情や価値観を上書きしているだけではないか、とか。
批評ってのは「反対する」とか「危機感を呈する」とか言う(あらかじめ方向が定まった)ことではなく、いかに既に言われている言葉と違う言葉を必然性をもって語れるか、他者の言葉を乗り越える自分の言葉と語り口を説得力を伴って持てるかということにつきると思います(その結果として反対のトーンが強くなったり、危機感を表明することになる。ただ新しい技術やメディアに対して庶民が警戒するのはよくあるのでそれを上書きしているのでは情けない)。とはいえ「おれが」「おれが」と強調する主観に走れと言う意味ではなくて「必然性」とか「説得力」は必要条件。それに無垢なオリジナル幻想に陥るのも問題で、誰かが使った言葉を新しい文脈に着床させるとか、様々な応用や再生を駆使して、その時点で自分にしか言えない言葉使いというのが作り出されて行くのだと思います。ま、このことはぼくもおいおいもう少し考えながら書いて行くつもりですからゆっくり考えてみて下さい。
>「彼ら」とは、寺園眞一、金子隆一、森健、大朏博善など各氏。「若手」に限りませんね。
って、そんな目近なところで考えない方がいいんじゃないですか。疲れちゃいますよ。それもあって抽象的な話を書きました。
『朝日』の選択の舞台裏を明かすのもあまり乗り気はしませんが、本を選ぶので本としてのまとまりを重視したこと(いかに著者の問題意識が一貫していても記事の集合というものよりは本のかたちにうまく収まっているものを選びました)。団塊世代以降の書き手であること(文壇の力学に既に着地点を持ってしまっている書き手よりも、ノンフィクションの「これから」に対する貢献を期待したかったもので・・・・)。あとやはりコラム本文との関係(ここは大きなポイントで、コラムがひとつの視点を呈示しているのでその視点に入ってくるベスト5です。逆にベスト5を選んでいる過程で視点が定まってくる事情もあるのでそこは相補的なのですが、それにしても正直言ってあまり文脈的に突飛なものは選びきれないでしょう。コラムの方も分量的に無制限に書けるわけではないので、それは現実的なところ摺り合わせがある事情をご理解いただきたい。だからノンジャンルの総当たり戦の結果のベスト5ではないですよ、もちろんそんなことは出来ないし)。それから刊行時が01年上半期に限定されています(ぼくはすこし幅があってもよいのではと思ったのですが、そこは厳密でした。でも逆にその時期に出たものはおおよそ目は通したつもりです。ですから選ばなかった作品が落ちた作品ですね)。
武田様、みなさま。「朝日」で「可能性に期待するという評価」をいただいた「若手」粥川準二です。その節はありがとうございました。「彼らが12枚記事が増えているメディア状況の中で修練を積まざるを得なかった弊害ではないかとぼくはにらんでいるが、どうなんだろう」とのことですが、それもあると思います。僕自身、普段は12枚記事(実際には8枚記事?)ばかり書いており、事実関係を書くだけで誌面がつきて、不満を感じることはたびたびあります。というか、文章の量以前の問題ではないかという気もします。何かの「紹介記事」を書くことは求められても、批評性を含む記事を求められることがほどんどない、というのが現状なのです。情けないことに。だから僕は単行本を書くに当たっては、そうした12枚記事をいくつか組み合わせて、加筆する部分で批評性を出そうしました。しかし、必ずしもそれに成功しなかったことは「あとがき」に書いたとおりです。
ちょっとだけ言い訳させてもらうと、拙著の分野では、ほとんどの書き手は技術の解説に徹しており、批評性を出そうという努力すら感じられず、結果としてただの現状追認に終わってしまっていると思うのですが、僕は少なくとも彼らよりはほんの数歩だけ先に行けたのではないかとうぬぼれております。(ちなみに「彼ら」とは、寺園眞一、金子隆一、森健、大朏博善など各氏。「若手」に限りませんね。)ただのうぬぼれでしょうか。理想を実現できる力量がないことをもどかしく思う今日この頃です。
もしよければ、ベスト5に漏れた作品を含め、若手作品の実名を挙げてご指摘いただくと参考になるのですが。
ぼくにとって400字12枚の原稿と16枚の原稿は水と油ほどの違いがある。12枚の原稿は事象の紹介で殆ど紙幅が尽きてしまう。16枚、あるいはそれ以上の長さになってようやく現象を紹介した上で分析し、自論を展開させる物理的なスペースが与えられる。そんな感覚がある。もちろん12とか、16に具体的な意味はない。紹介に分量を使うことになれたひとなら20と30との間に質的差異があるという場合もあるだろう。要は取材だけで書けるか、書けないかの境界をどこに置くかの問題だ。
で、「12枚以下的」な、事象紹介型の記事を元にして単行本にする場合があったとして、そのときには分量的には大きな余裕が改めて与えられることになるのだが、そこで新規に自論を展開しようとするとなかなか難しい。これはなぜかといえば、12枚記事は取材なり資料なりで書けるわけで、それは他者の言語を使うと言うことだ。もちろん他者の言語をどう編集するかで自分の個性は出せる。しかしそれにしてもやはりそこには自分の言語はない。批判をしようとしたら他者の批判意識を借りるか、あるいは編集した範囲で反映させられる市民的な感情を踏まえるかに留まる。その延長上で単行本にしようとしても、自分の言葉の用意はないからそこに付け加えることが出来ない。「最近の若者」の記事にしろ、クローン技術の記事にしろ、このままいいのか、何かあぶないんじゃないかという不安を想起させる余韻を残して終わらせるとか、ま、そんなところだろう。そこで書き手自身も完結してしまいがちなのだ。
こうした小さくまとまってしまう傾向は、最近の雑誌で12枚以上書ける機会はなかなか稀になっているという物理的な事情もあって強まっているように思う。その結果としてルポルタージュの世界でも、情報的には新しいものが出ていても、全体のメッセージとしては市民的感情、根拠のない反感や、漠然とした不安などを後追いして確かめるだけの仕事が多くなっているのではないか。無難さをよしとするサラリーマン編集部はそうした無難なまとめかたを喜ぶという事情もある。
しかしそれではジャーナリズム、特にルポルタージュのように書き手が攻め込んで行けるカテゴリーの可能性は生かし切れないと思う。確かに12枚記事でもそこそこ批評的な雰囲気は盛り込めるし、問題意識も書き込めるだろう。しかしそこまでで終わりで、その先に論が進まないのではなんのために批評的に書いたり、問題提起したのか分からない。ジャーナリズムが単なる慰戯になってしまう。
そこで書き手に16枚以上のスペースを与える。つまり、ただ市民的感情を上書きするだけでは済まされない原稿の分量を課して、自分なりに考えさせる。そうなると、ただ当該分野の資料をいくら詳しく当たっても、いまだ他の誰もが書いていない自説を展開することはできず、たとえば政治学や哲学などに遡行して、しっかりした世界観を構築しつつ書くことが求められるだろう。そうした書き方を、特に若い書き手はするべきだし、編集者はさせるべきだ。市民社会の間尺に合わせた記事を書いているだけだと、根元的な批判がないので耳さわりはよく、とりあえず重宝される作品になるがやがてはこんな物ならあらかじめ分かっていたので要らないということになるだろう。そうならないためにもジャーナリストは論者として確固たる独自性と、力量を持つべきだ。
朝日のノンフィクション評を書いた時にすこしはしょってしまったが、特に若手の作品はそうした眼で見ると十分に満足のゆくものはなかなか見あたらない。すこしでも建設的な方向に向かいそうな気配を察知して、可能性に期待するという評価の仕方しか出来ない。繰り返しになるが、それは彼らが12枚記事が増えているメディア状況の中で修練を積まざるを得なかった弊害ではないかとぼくはにらんでいるが、どうなんだろう。
純文学に対して通俗文学があるという二分法で言うとノンフィクションは通俗文学には該当するが、純ノンフィクションとでもいうべき、カテゴリーの可能性を臨界させる攻めの作品は滅多にない。そこがもどかしいところだ。ジャーナリズムとは基本的に他者の言語に依存する言語形態である。既に書かれたこと、語られたことを事実として取り上げるのであり、そこに脚色は許されない。しかしだからといって他者の言語や価値観の紹介者役を辞任しているだけでは敢えて署名で書く意味は本当はない。そこにジャーナリズムの限界の中でいかに自分の言語を重ねて行けるかは困難だが問われているのだと思う
武田徹
近所の古本屋でゲイ・タリ−ズの『汝の隣人の妻』を発見してゲット。これは原書は持っているのだが翻訳は図書館で借りて読んだことがあるだけで、なかなか見付からなかった。ニュ−ジャーナリズム研究を始めたこの3ー4年間、おりあるごとに古本屋を探してようやく買えたという感慨がある。あとがきを読んで知ったのだけど、邦訳は原書のゲラから作られていたらしい。これは最近では多く売れる翻訳書でよくやる手法で出来るだけ原典が話題になっているうちに邦訳も出してしまおうという戦略だ。しかし20年以上前にこの手法が取られていたとは・・・、この本が相当の話題作だったということだろう。その話題というのも、日活ロマンポルノのような書名からも分かるようにエッチな本だと期待されていたのだと思う。実際、ゲイタリーズは自分で性風俗最前線を体験取材している。ヒュー・ヘフナーの性的奇行の描写も細かい。期待の産物として邦訳の表紙想定は相当エッチだ(原典は全然地味。タリーズの顔写真)。しかし全般においてはまじめなノンフィクションレポートであり、日本人の期待は概ね裏切られたのではないか。それがおそらく版を重ねなかった理由になり、ぼくが入手に苦労した原因にもなる。
ニュージャーナリズムと言えば、『国文学』からノンフィクション論を書いてくれと言う依頼を受ける。アメリカのニュージャーナリズムの末裔をという注文だ。『国文学』だから日本のノンフィクションを扱えばいいのにとも思う(特に私小説文化においてフィクション作家のノンフィクション性が面白い)が、とかく二流文学と思われてきたノンフィクションが関心領域にはいっただけでも、まぁ、前進には違いないと思う。
というわけで、なんか着々とノンフィクション評論家になってゆく感じ。文芸批評家はいるのにノンフィクション評論家がいないのは、ノンフィクションのレベルを高めないということでも問題で、自分にできることはやっておきたいが、一方でぼく、実は実作者なんですがと思うことも・・・・。いかに書いていないかってことですね。
中国はハルピン市郊外の旧731部隊跡を世界遺産に申請しようとしているらしい。
嫌悪感を示す人がまた出るのだろうが、このこと自体はぼくはとてもいいことだと思う。嫌悪感を示す人は東京裁判史観的だとか言うんだろうし、確かにここで人体実験で殺された人の数が3000人と言われているのは歴史的に遡行して確かめられる種の数字ではないので、ある種、政治的なニュアンスを帯びる可能性はある。しかしそう狭く考えなくても良いと思うのだ。731部隊は国家と医学(科学)の関係のひとつの達成点を示している。もちろん人体実験は日本軍だけでなく、ナチもやったし、アメリカだってやった。ここで研究開発された生物兵器はアメリカが朝鮮戦争で使った。だから731部隊跡を遺跡化するなという論理はおかしくて、731部隊跡も近代史遺跡化すればいいし、たとえばロスアラモス研究所だってすればいい。731部隊跡はそうした国家と科学の関係の極致を示すものを歴史の証言として残して行く嚆矢になればいいのだと思う。
ただ気がかりなのは、ニュース23の映像で見る限り、かなり改修されている。ぼくが見に行ったときは殆ど昔のままでそのほうが証言としてはリアルで良かったと思う。改修の方法によってイデオロギー性を帯びるのは望ましくない。中国は平頂山の人骨館もそうだけど歴史的出来事それ自体に語らせるのではなく、どうも展示者が語ってしまうところがあって、かえって批評の射程を短くしていると思う。そういうところが作る会あたりと五十歩百歩で「好敵手」になっちゃうんだな。
小熊英二がナショナリズムという病を治すために歴史家は必要だと『インド日記』で書いていた。その通りだと思う。近代史の描写が詳しいようで恣意的なスカスカさがある作る会教科書よりも『日本人の国境』や『単一民族ーー』ははるかに近代日本の姿をリアルに描き出す。歴史に根を下ろさないナショナリズムに鼓舞された気になるよりも、歴史事実をわきまえることが、遠回りのようで居て日本人としての誇りを回復する近道だと思う。
次の読売のコラムで何を書こうかと思ってコンビニで立ち読みして気づいたんだけど、そういえば
トレンディを最近送ってきてないな。確かに連載終えて1年以上経つので提起発送を見直されても仕方がないんだが、10年も連載して、サントリー学芸賞を取るというあの編集部にて見れば、おそらく二度とないだろう話題も提供してあげた(ちょっとイバリが入ってますな)のにこの扱いかよーとか思った。まぁ、尾島とか金子はじめじめと嫉妬深い男だったから、仕方ないか。この雑誌とは人事が総入れ替えするまでつきあいが再開することはないだろう。美穂長田なんかはもっと書ける人材だと思うけど、狭苦しい枠にはめられているようで窮屈そうに思う。斉藤貴男氏の評価が高まれば高まるほど尾島は立つ瀬がなくなっていっているはずなのだが(この掲示板の過去ログを見るとその意味が分かります)、それも考えないふりをしているのだろうか。
武田徹
ばんまいさん、職人さん、書き込みありがとう。
小泉に替わってぼくは15日に靖国に参拝してきました、というのは冗談で、ちょっと用事まで時間があったので夕方の靖国神社を散歩してきた。神保町が近いし、近くの大学で教えたりしていたので靖国は時々来ていたけど、この日に来るのは初めて。慰霊祭式典はとっくに終わっていて仮設テントなどを片づけていた。時間が遅いせいかもしれないけど、ウヨっぽさびんびんではなく、けだるい夏の夕方って感じ。参拝者もごくごくゆるい感じ。今日に限ってはだらしない雰囲気になんか安心したりする。坪内『靖国』を読み直して、仕入れた知識を現地で復習する。
外から見る視点をどうやって持ったかというお尋ねですが、ぼくの場合も、海外経験は結構あるし、連れ合いは相当に濃度の濃い帰国子女で、会話していると常に外部の視点を持ち込んでくれるますから、ばんまいさんほど本格的かつ持続的ではないですが、やはり物理的な異動として外に出てから日本を見返して来た経験の積み重ねの結果かもしれません。
ただ確かに実際に外に出なければ外部からの視点を持ち得ないと言うことではなく、日本にいながらにして日本的なものに強い違和感を感じている人は多くいると思います。本だってよく選ぶば相対的視点を与えてくれる優れた作品ものがありますしね。
難しいのは根拠無く日本が特別だと信じる考えが時としてこの種の議論に忍び込むことです。たとえば、あらかじめ日本は違うんだという前提に立って日本を批判するというのは、批判的なように見えて、実は自分の依って立つ前提条件を信じて疑わないかなり根源的な批判精神の欠如によっていますよね。そのへんに注意しつつ、内から、外から、眺めたり、触れたりしつつ、日本の特殊性の輪郭を描き出せればなぁと思います。
日本は先進国ですらないとのことですが、浅田彰が日本を「土人の国」と言っていたのを思い出しました。ぼくが彼と田中康夫の対談を編集していたときにもこの発言があって土人は差別用語なので扱いに困りました(前にも書いたように思います)が、確かにハイテク機器に溢れる土人の国という矛盾した状態がありえてしまうところが「不思議の国」の面目躍如というところでしょうか。
職人さん、小泉は無脳ですか(笑) ま、これは簡単には結論でないでしょう。というにも、あれだけTVに映っていて情報量を多く得ているように見えても、実際にぼくたちが知っているのは彼の本当に一面だけです。ぶらさがっている政治部記者とかならもう少し正確な人物像に迫れるのでしょうが、ぼくたちには無理ですね。ぼくは田中真紀子を外相に据えたあたりは案外とバランス感覚があるのかと思ったりもしてしまいますが、確かに職人さんが不安だとおっしゃるように、単に直情的に決断しているだけなのかも知れません。少なくとももう少し見てみないとダメですね。
経済政策については、先日、公共投資10%減と聞いて肩すかしをくらいました。なんだー、えらくちょっとじゃないのという感覚です。でも、10%減でも一大事だというところに政治の現状が見えますね。量的緩和も日銀は本格的に始めるようで、しかし、国債を日銀が買うことで市場に流れ始めたお金は、正しい経路を通って景気回復のツボを押してくれるのでしょうか。買うに値するモノがない社会で、貨幣流通量を増やしたら、無駄なものを買ってみすみすカネをドブに捨てる奴が出てきて、バブルの再燃にならないかという懸念はぼくはあいかわらず強くあります。なぜ量的緩和策の評価がエコノミストの間で高いのか、経済通の人に納得のゆくかたちで教えて欲しいですね。
とりあえず書き込みのお礼まで、また。
武田徹
15日という事で、武田徹さんは、首相靖国参拝の事で、どう評すのかと掲示板を尋ねました。
「靖国」 投稿者:武田徹 投稿日: 8月 6日(月)
で書かれている以下の武田徹さんの書き込みをに対し、私も小泉首相 評を書いてみます。
>推測だが、ぼくは小泉は土壇場で靖国参拝をキャンセルする方に賭ける。なぁに言動が不一致
>になったって、そんなことは誰も今や気にもしまい。日本人の忘れっぽさはたいしたものだ。
>それを担保に、アジア関係に波風立てないことを小泉は選ぶように思う。そしてそれは国内対策
>でもある。人気しか頼めない彼にしてみれば、数の論理は冷厳だろう。自らの過去の言葉に忠実
>に行動して一部保守勢力の好感を買うよりも、むしろドタキャンで話題と、熱狂の維持を図るの
>が得策だと言うことくらい計算できるだろう。逆にそんな9回裏逆転が出来なければ、これから
>先が思いやられるというところか。
私は、(ひょっとして、今では武田さんもそう思っているかもしれませんが)首相のとった行動
からして、国民がどう思うかより、自分の直感的に考えた事や思いを、大切にする方だと思う。
色々な方面から考え熟慮すると、マイクを向けられる度に、語っていましたが、一度思いや考
えを決めた事に対しては、客観的に考える事や、再考するなどと云った事が苦手なのではないで
しょうか。武田さんが思ったような、ドタキャンする事で話題と、熱狂の維持を図るのが得策だ
と言う計算は、頭からなかったと思います。支持率に関しても、その高さを維持させたいと考え
るより、自ら決めた思いや決断を通す事が大切。また、「当初の発言を覆した行動で、中途半端
なイメージを持たれる事を恐れる」と云う考えすら、思考の領域には少なかったのではないで
しょうか。国民はそう云う小泉さんだと考えたから期待したのでしょう。首相の立場で参拝する
事の意味を考えるより、自分の信条を貫く。そんな、首相の地位にある小泉さんには、不安を感
じます。また自民党政治家に無いものを小泉さんに過剰期待するあまりに、そう云った不安材料
さえある事を考えない国民(この事による支持率の低下は少ないと想像)の多さや、近隣の諸国
からの非難の声で、開き直りや、妙なナショナリズムを沸かしてしまう政治家や国民に不安を持
ちます。特に、財政健全化のための歳出削減、公共事業見直し一辺倒(ではないと云うが、その
他に妙案が出せていないからそう見る)国民に説明しやすくわかりやすいし、支持を得やすい事
を御旗に掲げ改革・改革とおっしゃるが、公共事業の見直しだけ見ても、優先性や取止めの判断
決断する、新たな機関を設けることから始めなくてはならないのに、改革の実績をあせるが為、
断行するだろう政策。等など、経済建て直しの政策手腕に対して、私の不安が的中しない事を願
うのですが。
武田さま、当所を御覧の皆さま、こんにちは。
不思議の国ニッポンなどと世間で言われるとおり、日本は不思議なところに見
えます。 私は現在日本国外に住んでいるから余計にそう見えるのかも知れま
せんが、自分では、日本を離れる前から日本での物事で奇異と感じることは
あったように思います。 武田さんは、「外から見れば最近の日本は相当変な
国ですよ」と指摘できるような視点をどのようにしてご自身に培ったとお考え
ですか? 私は、そうした日本に対する客観視は、物理的に日本から離れてみ
なくては不可能とは思いませんで、何というか、外から見れば最近の日本は
相当変な国であると指摘されて開き直ったり憤慨したりする日本人の態度は、
各々における”精神的井の中の蛙”具合によって支えられているような気が
します。
奇異の国という視点から言えば、日本はまた、先進国と呼べるのかどうかと私
には疑問です。 日本には注目に値するものが多数あれど、それらを総じた
日本は未熟なところと感じ、先進的人民の国であるとは思えません。 最近、
科学界の学術雑誌に、日本には日本国外からの研究者を受け入れる(特に英語
圏と欧州からは大歓迎であると、特記してある)資金が豊富、と紹介する記事
が幾つか掲載されました。 どの記事も欧米人によるもので、「実際の日本で
の研究レヴェルは我々(欧米人)が想像するよりも高水準にある、だから、
*日本の土壌に馴染めれば*、彼の国に働きに出掛けていって学術的成果を
あげることも可能である」という内容でした。 日本人グルウプから投稿され
た学術論文を頻繁に掲載する学術雑誌がそのような記事を掲載し、また、それ
らの論文を日常的に自分の仕事の参考文献として引用・参考しているその類の
雑誌の読者が、これらの記事を読んで「へぇ、そうなんだ。」と言うわけで
す。 日本が(恐らく)無自覚に発散している未熟さは、国外で、日本で想像
される以上の感度で受け止められているのだなぁ私は感じています。 そし
て、その未熟さは、技術や言論・学問や教育の相対的水準などというものは
もろともせず、日本を奇異の国として見せるだけのチカラを持っているのだと
思います。
日本にも欧米のような成熟を!とは私も思いませんで、武田さんのご指摘通
り、日本が発散する未熟さは是非を問う対象ではないと考えます。 中途半端
に奇異・何となく不思議な姿を晒すよりは、明確に記述できる特殊性を備えて
いたほうが、国の存在は魅力的で小気味よいものとなると想像します。
共同入稿。分量が少なかったので結局TVメディアの特性と靖国問題のように歴史性が反映したものとの相性の悪さを指摘するに留める。
で、以下は書けなかった視点なのだが、「神社への参拝は、海外から見れば明らかに宗教的行為に映る。そして世界三大宗教以外のマイナーな宗教がたとえ儀礼面だけであれ残り、国家元首がその儀礼に熱心に参加しようとする国というのは、靖国がどうしたという議論以前に、先進国の中で極めてユニークであることは確かだ。オウムというカルト宗教を生んだ前例もあり、海外の人達は日本の精神風土に改めて理解を超えた特殊性を感じるだろう」。
靖国参拝が中国・韓国との国交問題に発展すること、それについて経済的な問題が発生するだろうことは、ぼくも含め指摘する人が多い(確かに誰だって簡単に言える話だ)が、日本の精神風土的な不可解さに輪をかけるという視点はあまり見られなかったと思う。外から見れば最近の日本は相当変な国ですよ、正直な話。認めたくないだろうけど、日本人であり限り、そうした奇異の目を逃れられない。
もっともいかに奇異だとはいえ。一国の文化はその国の勝手(というか歴史的生成物なのでどうしようもない)であり、変な平準化の強制は逆の意味で問題(帝国主義的ユートピア主義者>ノージック)もあるので、文化論としてその是非は論じられない。ただ、そこから再び経済的に立ち還った話をすると、そんな神の国、神道原理主義の政教未分化な国に海外からたとえば労働者が来てくれたりするかな。自分がイスラム原理主義の国に出稼ぎに行きたいか、仮定法で考えてみると良い。ぼくは労働市場完全解放主義者なので、そうした文脈でも靖国の位置づけは考えて行くべきだとは思う。対中国、対韓国のように戦争犯罪問題に関わる相手だけでなく、対世界全般の問題としても靖国はあるのではないか。おおげさで文字にするのは難しいけど。
武田徹
確かに左右両陣営から突き上げ食らって失策のようですが、さて、どうなんでしょうね。ぼくは一日経って少し考え方を変えて、案外、長い射程で効果を考慮した決断だったのかなと思ったりもします。自民で次がいないってのもあるし。
武田徹
こんにちは。小泉前倒し参拝は、私も大ハズレでした。
日本は相変わらず奇襲戦法がすきだなあ、と思いました。
いきなり奇襲戦法じゃあ、小泉内閣もこの先きつそうだなあ、とも。
以上、すべて直感的な雑感にすぎないのですが。