
武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG71
サエキさん。書き込みありがとう。
正確な知識の提供ありがとうございます。大月書評にはたぶん他にも不正確なところがあるんでしょう。なんで不確かな、自分の知らないことまで書いて人のけなしたがるんでしょうかね。
さてサエキさんというとエシュロン。以前、『宝島』で取材してくださったのは、ぼくがエシュロン恐怖説は都市伝説に過ぎないとこの掲示板に書いたことに興味をもって頂いたことからでした。
で、そのエシュロンですが、最近、EUがアメリカに文句を言ったりして、なんだか急に一般人も知るところになってきています。
これはちょっとまずいなと思っています。というか、ここに来て突然エシュロンに関心を持った人がネット通の人に尋ねると「エシュロンという通信傍聴システムがあって、全ての通信を傍受しているだ」と都市伝説でしかない俗説を聞かされ、鵜呑みにしちゃう。実際、ぼくのところにもエシュロンの脅威について書いてくれなんてとんちんかんな依頼が中公から来る始末。
ひとつだけ明らかな事実を書いておきます。今、デジタル情報の暗号化の技術はとても進んでいる。世界最高のスーパーコンピュータを使い、世界最高の数学者が作り出した暗号解読プログラムを使っても解読できない強力な暗号が、そこそこのパソコンレベルでも使えてしまいます。これはコンピュータがノイマン型という構造を持っていることが理由で、ノイマン型コンピュータだと計算量爆発という結果に至るタイプの数学問題が既に幾つもみつかっているんですね。この種の問題を利用することで、いかに早い計算力をもったコンピュータでも現実的な時間内に計算が出来ない暗号が簡単に作れてしまう。2億年後とかには答は出ますが、待ってられないですよね。
というわけで現状では暗号と暗号解読だと、前者の方が圧倒的に強いというのがコンピュータサイエンスの常識です。エシュロンがいかに強力な通信傍受システムであっても、暗号化されたデジタル情報は解読できない。アナログの電波で送ったり、暗号の鍵が人的な理由で盗まれていたり、暗号化しないで送れば、それは読めてしまうかれど、それは送る方があほ。
というわけで、もしもきちんとした情報秘匿方法を採用すれば、エシュロンがあっても情報傍受は出来ない。アメリカが秘密裏にやっているとか言うと、陰謀史観とかにも通じる「なんだかすごそうだ」というわくわく感から、すさまじく強力なシステムを妄想してしまいそうですが、リアリスティックに考えればインターネットの全てのトラフィックが読まれているなんてことは、解析の量的能力としても(これはサエキさんが宝島で紹介してくれたロジックです)、暗号技術的にもありえない。エシュロンをEUがいまになって言い出したのは、おそらくは政治的文脈において。きっとアメリカに大衆社会は反感を持つだろう(その意味では無知な人たちはまんまとEUの戦略に乗せられているわけです)と読んであえて言い出した。あるいは、もしかしたらエシュロン脅威論者がコンピュータサイエンスの無知故に恐怖を訴えているのが、チェックの甘いメディアによって広く伝えられているのかもしれないが、これまた無知な日本のマスメディアがそれに載るのだとした滑稽ですな。
以上、エシュロン問題と、コンピュータサイエンスの理解になれば、と。
武田徹
この掲示板、初めまして。サエキと申します。武田さんのインタビューを昨年宝島誌で
行った者です。このHP大変興味深く読んでおります。
さて、下記書き込み・・大月書評2 投稿者:武田徹 投稿日: 6月27日(水)19時06分54秒 という文章の中で、(大月さんご執筆のものですが)
「香山リカがもともとナゴム系のバンドねえちゃんだった、って聞いた時と同じように、」
という記述がありますが、これは事実誤認であります。
香山さんがいらっしゃったのはTACOというバンドで、山崎春美さんが1983年頃やっていらっしゃったノイズ、フリーインプロビゼーション系のアバンギャルドなバンド。アルバムが
1枚出ておりますが、ナゴムレコードではありません。
ナゴムにはノイズ系はほとんどおりません。歌曲中心の手作りなポップスアプローチであります。
大月さんのお知りあいが思い当たられたのは中尊寺ゆつこさんでは?と思われます。
彼女はロシアバレエ団というケイトブッシュ的な楽曲のインディーズバンドでナゴムから
レコードをおそらく86〜7年頃出しています。
ナゴムの活動時期は84年頃から始まっていると記憶しており、TACO、パンゴ、あるいは
グンジョーガクレヨン(これもおおざっぱなくくりではありますが)
などといった80年代前半のフリーキーなバンドシーンとは時期的に
スライドする形で出てきており、
ようは80年代後半のバンドブームの中核をなす(有頂天、たま、筋肉少女帯など)
手作りなポップ感覚が主体であるところがポイントと思われます。
以上、ロック理解の助けになれば(笑)と思いまして一筆取らせていただきました。
朝、民放の朝番TVを見ていたら『very』絡みで読者モデルのことを特集していて「オカサーファー」というのは自由が丘の街を「まるでネットサーフォンするようにサーフすること」なのだそうだ。
オカサーファーといえばサーフィンしないのにサーファーっぽいスタイルしたり、ボードを赤いファミリアに積んで町中を走る人のことだったのに、そうした意味の痕跡はなく、全く新しく用法となっている。なにしろかつてのナガティブな語感はまったくないのだ。
流行語の寿命が短くなっただけでなく、過去が断ち切られている。「ネットサーフォンするように」なった時世は様々な過去の情報アーカイブに様々にアクセスして現在の中に歴史性を強化するようになるかといえば現実はまったく逆だ。
しかし不思議ではある。『very』の読者モデルとやらはブランド好きのニューリッチ主婦らすいいので、少なくとも30歳前後だろう。ということは。「オカサーファー」が陸上サーファーだった頃を知っているはずなのだが、どういう生き方をしていてればその語感を全く記憶せずに生きられるのか。
最近の若者を論じるのに「心(動機付け中枢)がない」という説明の仕方をすることがある(三森創『プログラム駆動症候群』)が、脳=記憶中枢が無いというのはそのバリエイションなのかもしれない。そこそこ生活力ある夫と結婚し、こぎれいなブランドに身を飾る、日常的にはむしろうらやまれることの多い女性が、しかし、無脳の人である。これはちょっと日本社会の病は深いのではないか。
『e+b』という雑誌に小さな記事の連載をしているのだが、今回はちょっとひやひやものだった。小泉政権人気について書いたのだが、その末尾にこんな記述がある。
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たとえば今後の選挙でも小泉支持のつもりで自民党に投票した結果が、むしろ党内の守旧派に力を与え、小泉改革を阻害する逆説もありえる。有権者はこれまで以上に戦略的に選択、行動することが求められているのだ。日本人はどうも「改革」の二文字に弱く、たとえば先のインドネシアの政権交代でも、これでいよいよ民主化達成だと、条件反射のように安易に信じてしまう能天気さがあった。言葉のレベルで「改革」に惹かれるのは「小泉」より「巨泉」の方がデカいから良さそうだと判断しているようなもの。もっと政策の実質を見る目を鍛えたいものだ。
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この「言葉のレベルで「改革」に惹かれるのは「小泉」より「巨泉」の方がデカいから良さそうだと判断しているようなもの」というところが問題で、我ながらくーだらないギャグだと思うのだが、思いついてしまうとやっぱり使いたい。しかしこの程度の出来だと誰でも思いつきそうで、果たして雑誌が出る前にデイブ・スペクターとかスポーツ新聞とかに先を越されてしまわないかと心配だった。もしかしたらデイブはどこかで言ったかもしれない(笑)が、幸いにも少なくとも世間に膾炙した手垢の付いたギャグにはならないまま推移し、昨日、『e+b』に掲載誌を送って来たので、もう大丈夫かとほっとしている。
こういう場合、この掲示板で先に書いてしまって知的所有権を主張するのが良いのか、そうするとかえってパクられて良くないのかと、今までだったらありえない悩みもあったし・・・・。くだらないギャグが原因のくだらない悩みだが、ぼくはそんなことに気をやみつつ生きている。
で、本当にとんでもない我田引水なんだけど、ぼくはジャーナリストって、もっとくだらないことに心を砕くべきではないかと思うのだ。最近、自称フリージャーナリストが多く出てきて、基本的にワンテーマ追求、告発型の仕事ぶりの人が多いんだけど、姿勢が堅すぎるように感じる。ひとつの立場を代弁しているスポークスマンになっているだけでしょ。それでジャーナリストって名乗って良いのかなと思ったりする。
確かに世の中にひどい問題はあって、酷い目に遭っている人はいて、まじめな書き手ほど彼らを救いたいと躍起になってしまう事情は分かる。それは分かった上で、なお対象から一歩引いて全体を見渡そうとする姿勢がジャーナリストには必要ではないか。
そうした大局観に至る途上で、ギャグが言えるような心の余裕が欲しいと思ってしまう。これって見当はずれのようで、案外、正鵠を射ているのではないか。
おもろいことを言って人気を獲りにゆけというのではない。むしろ逆で、ジャーナリストを名乗る以上は、厳しさ、堅さを強調した方が営業上よさそうだ。ギャグを言う高山文彦なんか想像できない。あ、彼はノンフィクション作家でしたね。ま、大差ないが。小泉を巨泉と泉の大きさで比べるような不真面目さは営業上、致命的に不利なのだとぼくは経験的に知っている(吉祥寺パルコブックセンターで高山のコーナーができていて愕然とした(笑))。
しかしぼくは取材対象を本当の意味で突き放す姿勢がジャーナリズムには必要だと一方で思っている。ギャグや駄洒落はジャーナリストと取材対象の密着を切り裂く「くさび」になるかぎり、大きな意味を持つと思うのだ。
ぼく自身の仕事で言うと『紛い物考』や『偽満州国論』にはそうしたくさびが打ち込まれている。それらの作品はやっぱり一般的な評判が芳しくないが、めげてはいけないと思っている。
武田徹
下で言いたかったのは、本の購読がコンテンツ内容の情報的やりとりーーそれは怖いモノみたいさの好奇心でも、なんらかの下心でもいいんだけどーーではなく、ある種の投票行為のようなものになっているのではということ。
少し関係ありそうな話だけど、悪役俳優って「通」受けしたり、業界では評価されるけど、一般的には人気が出ない。役柄と役者の生身の区別が、TVの視聴者はいまいち出来ていないところがある。それはTVを見る上でとても未熟な姿勢なんだけど、現実にはそうみたいだ。
人気現象って何だろう。そこには自分と自分の好き(嫌いな)対象の関係がうまく分離されていない、夢の中の恋愛感情のような部分がある。そういう愛し方、嫌い方が本の世界でも支配的になってゆくのか。それは本が文字(記号)による間接的な伝達だったという根本を揺るがすことではないか。なんで、ぼくがこんなおおげさに言っているのかってちょとわかりにくいと思うけど(ひとえに書き方のへたくそさのせい)、すこし考えて行きたいモチーフではある。
直接データを見たわけではないのでもしかしたら全く誤解で書いてしまっている可能性はあるけど、本屋の話とかを総合するとどうも『楯』はあんまり売れていないようだ。あんだけ週刊文春であおったのに売れないとは・・・・。
理由を考えたんだけど、あまり合理的な説明は出来なのだけど、もしかしたら郷ひろみが人気があるからではないか。もし郷が落ち目でバッシングされている状況だったら、『楯』はもっと売れていた。読者にとって本を買うことは、制裁に加わることなのだ。
しかし今は郷に好感を持っている人が多く、彼らは『楯』は買わない。あえて読まなくても良いのだ。
内容を知りたいからという、今までだったら「しごく当然の理由で本は読まれなくなっているような気がする。書き手を応援したり、批判対象を自分でもバッシングしたりするために買う。これは本との関係の取り方が変わっていると言うことなのだろうか。そんなことを、平積みになっているけど、なんとなく生彩を欠いているような『楯』の本の山を見ながら考えた。
武田徹
この掲示板の本体ページの方で、昨年に続いてぼくがICUで教えていた学生のルポ作品を掲載した。ごらん頂ければと思います。彼らがメールで送ってきたテキストを単にHTML化しただけで、読みにくいと思うけど、レイアウトに凝るまでの時間的な余裕はなかった。そこはご容赦を。
武田徹
をお持ちでも、他人の声に耳を傾けるつもりはない、オレ様の言うことを拝聴せよ、
ということなんでしょう。ネットでも実社会でも、よくこういう人に会いますよね。
今日は誕生日だったのでお酒の変わりに(?)ケイキを二つ。
食べ過ぎたので短めで失礼します。
以下の書き込みはメアドなしだったため削除しました。
しっかりしたお考えがありそうなのですが、なぜメアドを書かないでしょうか。まぁ、個人の勝手と言うことではありますけど。武田徹
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どう思う? ディズニー映画「パールハーバー」 投稿者:夜鷹 投稿日: 7月 2日
(月)02時20分56秒
私は腹が立つ!
国内では東京ドームで試写会実施のバカ騒ぎ
米国での試写は航空母艦で、招待客2,000人に艦内見学・飲み物付き、日系人と日系マ
スコミを排斥して!?
その空母が浮かぶ海には、学生と教員あわせて9人が行方不明ちゃうんかい!
目の前の海底には米海軍の営利とずさん・怠慢の犠牲になった、「えひめ丸」が未だ
引き揚げられずにいるんちゃうんかい!
(そしてその中には9人の同胞の“水漬く屍”が閉じ込められ、成仏できないままに
小魚やエビ・蟹・シャコにその身をついばまれているのかもしれない)
ろくに原因も責任も追求せず、何よりも捜索すら完了していないのに金(賠償)で済
ませようとしている姿勢や認識は許せん!
未だ船体の引き揚げの目途はたっていない。
被害者の家族(「遺族」ではない。その言葉は用いるべきではない)や関係者の心情
を思うと…許せん!
そうした方々の中には(殆どゼロに近いと解っていながらも)生存に一縷の望みをつ
ないでいる方もあるだろう。
私も生存の可能性はゼロではないと信じている。
そんな中、日本でも公開して“¥”をゴッソリ持っていこうと破廉恥千万、許せん!
米国は「独善」(「偽善」とも言える)に満ちている。
米国では「利益」が最優先され、「正義」は後順位でしかない。
米国は自国の利益の為には何でもする。
米国は最たる保護主義貿易の国でもある。
世界一の軍事力と農業生産力を以って資源を欲しいままに浪費し、地球を汚してい
る。
何が「世界の警察」だ!?自国の利益と主義主張を広める為に派兵し、小国を属国と
していく。
自国の利益の為には環境も対人地雷廃絶も軍縮も軽視し、国連さえも好きに操る。
結果、国連難民高等弁務官事務所は国連軍の庇護も受けられず、善人が次々と襲撃を
受けて命を落としていく。
手を付けかけた中東情勢も自国の利益を考え放りっぱなし、問題をより複雑にしてい
くばかり。
米国は歴史的にも文明的にも「わがまま放題の幼児」に等しい。
日米関係に目を転ずれば、外圧然り基地問題然り「えひめ丸」問題もまた然り。
マッカーサーが厚木に降り立って以来、やはり日本を「属国」としか見ていない。
最も顕著なのが「核兵器持ち込み」。
我が国が世界に誇れる数少ない一つの「非核三原則」も無視。
戦後、中東・アジアへのあらゆる米軍派兵に日本は中継地として使われてきた。
横須賀他は戦略空母やミサイル巡洋艦・戦略潜水艦の母港に、嘉手納他には戦略空軍
さえ駐屯している。
が、過去一度として核兵器持ち込みの通達や事前協議がなされた事はない。
米国は日本の事を、インディアン居留地や核実験施設程度にしか認識していないのだ
ろう。
私は米国が嫌いなのではない。
むしろ南部文化やサザンホスピタリティは好きだ。
戦争映画も好きだし、兵器には機能美を見出せる。
映画「パールハーバー」では「翔鶴・長門、99式艦上爆撃機」「P-40ウォーホーク」や
防空施設がどう再現されているか楽しみであった。
だが今のこの公開には我慢ならない!
配給会社とそこに勤める者の良識を疑わざるを得ない。
なぜ「えひめ丸」問題が決着するまで待てないのか?
たとえ資金回収が遅れ金利が嵩もうと、それは当然の事。
むしろそれに因り米国を真に動かす者(産業界やそのロビイスト)の一端に日米問題
や「えひめ丸」問題を認識させる事が出来たかも知れないし、米海軍にもっと真摯な
態度で問題解決にあたらせる事が出来たかも知れないのに…
「パールハーバー」は予算と人気の獲得に躍起の米海軍がディズニーと組んだ宣伝映
画。
不況下で流通乏しい貴重な“¥”を、この映画を通じて米国へ持ち出させるなどもっ
てのほか!
この映画で米海軍の思いあがりを助長させる事はない!
↓の猪瀬センセーの出演番組『ウォ!チャ』放映日。さすがに企画会議から参加しているだけあって、確かに有田や岩上よりは確かにつっこみもするし、腰掛けコメンテーターではないところがあって、そこは評価する。ただ、つっこむだけでなく、センセーは訪米直前の小泉から直接電話があったことを述べる。まぁ、嘘ではないだろうけど、そういうのを自慢気に言っちゃうところがこの人なんだな。権力との距離感がない。だから信じられない。小泉に政策顧問になってくれとか言われたら断れないでしょ。ジャーナリストが政治の近くに入ることが即よくないとは思わない。アメリカでもリップマンはそこそこジャーナリストしか出来ない貢献をしたと思う。しかし「誘われたら嬉しく成っちゃって断れない」性向を持ったジャーナリストが政権の近くの位置に収まるのはどうかということだ。
週刊文春でネクタイなしがトレンドだと書いてあったのを読んだのか、今日はノーネクタイ。
前に猪瀬が着ていたのがベルサーチだったかどうかで田中康夫との本人との間で論争があって、殆どの人はなんでそんなことでもめるのかと思っていたみたいだけれど、この人の人間性を示すという意味では結構、本質的なことだったように思う。田中康夫はさすがだと思う。
番組は鈴木宗男が出演。この人は外交族とか外交のドンとか言われていて、実際そうなんだろうけど、メディア論的な視点で言うと、この人の場合、TV出ちゃったらもうダメじゃないかと思う。手癖の派手派手しさは外交委員会でもうっとおしかったし、今日の番組でもそうだったんだけど、相手の言い分に対してうなづきながら聞く癖がある。あとで自分の発言番にあんると否定するんだけど、そういう紳士的な対応はTVのような野蛮なメディアにはなじめない。うなづいた時点で視聴者の心証はもう決定されていて、何を言ってももうだめだ。
田原総一朗とかTVの百戦錬磨の連中はそれを心得ていて、遠慮なく相手の発言の中に割って行く。そういう下品さがTVでは必要なのに鈴木は裏方的でTVアイドル政治家ではなかったのでそれが分からない。TV画面というフレームの中にこの人を引っぱり出してイメージ的に消耗させるのがマキコの真のねらいだとしたら空恐ろしいが、さすがにそこまではないだろうけど。
しかし、鈴木宗男って人はどう考えてもたたき上げ的なキャリアなのに、なんで外務省の超エリートキャリアに食い込めたんだろう。外交官試験組の土着日本コンプレックスに訴えたのか。しかし本人のもコンプレックスがあってTVでは上品に振る舞おうとしてしまうところもあるとしたら、なんか構図は結構複雑だ。
・・・・と思ってみていたら、鈴木宗男は番組終了時にはすっかり田原的なTV世論制御手法を繰り広げるようになっていた。おそるべき修得力。たたき上げでやってきた人の力を感じる。で、小泉内閣の代弁者としての猪瀬と、経世会代表・鈴木の結構アツイ論争になる。なんだかなと複雑な印象。
武田徹
岩上安身は、朝のフジTVワイドショーのレギュラーコメンテーターになったのか。見るたびに出ているが、偶然ではなさそうだ。有田さん化? 人は収まるところに収まるんだなとなんとなく感心。
そういえば週刊新潮がTVコメンテーター批判特集を組んでいた。それへの反論が週刊文春に載っていて(そういえば文春の連載陣や関係者にはTVにコメント役で出ている人が多い。その点、週刊新潮は意外なほどTV人脈が薄く、だからこそコメンテータバッシング特集が出来たのだし、文春は受けてたたなければならなかったのだろう)、猪瀬直樹が「おれは土曜日の番組のために火曜の企画会議から関わっているので、いい加減なコメントだけしている奴らと一緒にするな」という趣旨で怒っていた(文脈からして火曜日の会議と土曜日の本番だけという意味ではなくーーーだったらそんなに自慢できない、火曜日の企画会議から番組の制作にずっと関わって本番にも出演しているという意味だろう)。それはそれは猪瀬センセイTVへの取り組みとしてまじめでご立派ですけど、ってことはいつ文字系の調査の仕事をなさっているんですか。そっちはもうぜんぶデータマン任せですか?
そうそう、朝日新聞の今年の夏の読書特集でノンフィクションのコーナーを執筆する。上半期ベスト5なんてのもやらないといけないので、少しずつつまみ食いを始めているが、大家は停滞気味ではないかな。このベスト5は読者のみなさんの推薦も受けたいところ。新聞の書評欄は売り上げにあまり影響しなくなったというけれど、本の紹介メディアとしてはやはり強力なので、良いモノをフェアに選びたいものですね。この種のランキングはどうしても自分の知っている範囲から選びがちで最初から偏りがあることが多い。全てを同じスタートラインに並べて選びようなことをしないと、良い本が正しく話題になって売れて行くことにならない。
武田徹
宮崎勤の控訴審は、宅間の影響を受けているんじゃないか。タイミングが悪かったような。
司法の独立というのは結構難しい。裁判官ほど新聞や雑誌に目を通す人種はいないという話も聞いたことがある。で、マスメディア(第四の権力)と司法が相関的になる。マスメディアの風向きを気にするのは国会議員や、官僚もそうだろうから、なんか全部が共振構造を持って動くようになる。だからこそマスメディアの在り方が問われる・・・ということもあるだろう
武田徹
こちらは今週の『週刊読書人』向け『小林よしのり<台湾論>を超えて』のぼくの書評。精度と言うことではこれもちょっと低めかもと反省している。もっと分量が多ければ内容紹介に割けたんだけどな。鶴見俊輔の書評がいいのか紹介の義務をきちんと果たしている点。これはその義務を果たすことより、メディア論的視点からの評価をみかけなかったので「ならばおれが」という主張が言勝ってしまっている。
ま、それはご容赦いただくとして、WEBでもよく話題に出る著書を巡るものなので、みなさんどう思うんだろうか、聞きたいところもあり、敢えて掲載します。(「すが」は外字のためパソコンで書けないのでひらがな。掲載時には他の誤字などと共にちゃんと漢字にして貰えたはず。まだ見ていないので不明ですが)武田徹
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批判は極めて正確だ。『台湾論』の歴史理解の浅さ、現状認識の一面性を具体的に指摘して行く本書に対して、小林はもはや論理的な反駁は殆ど不可能だろう。そこまで周到に鍛えられた批評が展開されている。
しかし、それでも本書はアジテーター小林の命脈を絶てていない。少なくとも批評の実効性に期待して本書が書かれたのだとすれば、これはゆゆしき問題であり、その理由を考えるべきだろうーー。
かつて小林と被差別部落問題で論争したすがひでみが大西巨人の「俗情との結託」という概念を引いたことがあった。その論争は部落出身の女性歌手を小林が特別視して過剰に美人に描いたかどうかを争うという、なんとも珍妙で些末な展開に終始したが、もっと本格的に発展させられても良かった。というのもマンガというメディア自体がそもそも「俗情と結託」し易いものなのだ。特に広く支持を得るマンガは、大衆的感情の風土に受容可能なかたちで善悪愛憎の記号性を絵柄にあらかじめ刻み込んだ上で描かれている。
小林の作風がまさにそうだ。彼の主張が「大陸中国=悪」「親日台湾人=善」という二分法に安易に陥っていることを批判する本書の姿勢は正鵠を射ているが、その二分法が言葉以前のマンガ表現のレベルにまで根を下ろしていることには留意すべきだ。マンガを読み慣れた層は論理を越えて小林の絵柄からメッセージを受け取る。そうして小林と深いレベルで一体化している読者を、批評の論理で引き剥がそうとしても勝算は乏しい。俗情と結託し易いマンガを、文字で批判する困難はもっと重く受け止めるべきだろう。
そして多くの支持者がいる限り、小林はその数の力を背景に強気の発言を繰り返すだろうし、出版社もその作品の販売に力を入れ続ける。そうした趨勢に歯止めをかけたければ結局、小林自身の方向性を変えさせるしかないが、そのための妙案がここで提案できれば苦労はない。ただ、こんなことを書いておきたい。筆者はかつて『おぼっちゃまくん』がヒット中の小林に長時間のインタビューをした経験がある。当時の小林は奇抜なギャグの生産に命懸けで臨む気迫があった。そんな小林は、しかし、マンガの世界に内向していたわけではなく、たとえば国家予算規模の小遣いを使って勝手放題する「おぼっちゃまくん」にしても「私性」の徹底的な戯画化であり、その馬鹿馬鹿しさの極致において作品に一種の社会批評性を持たせていた。
今の小林はギャグ漫画家から随分遠い存在になってしまったが、このインタビューの時の、ギャグの可能性に懸ける彼の真摯さがあまりに印象的だったためか、筆者は今でも密かに願ってしまうのだ、小林が『戦争論』や『台湾論』は「言論界を踊らせたギャグだった」と突然言い出すことを(確かにそれは悪趣味ではあるが、言論界のくだらない一面を浮き彫りにした奇抜なギャグなのだ)ーー。そして、そんな宣言が出される日が早く訪れるように、小林の心奥に眠っているはずのギャグ魂を揺さぶる言葉はどうあるべきか考えることがある。そんなことまで夢想してしまうのは、イデオロギーの鎧を小林が自ら脱ぐことはなく、外からそれを脱がさせざるを得ないと判断した本書の著者たちが、(マンガからのコマ引用の正当性を訴訟で勝ち取った上杉聡の努力は大いに評価するが、それでもなお大枠においては)固い言葉で小林を刺す方法しか選べていない違和感と無関係ではない。旅人のコートを脱がそうとして、太陽と北風が競い合う童話を本書を読んでいてふと思い出す。「アジテートする漫画家」という厄介な存在を前に、よりしたたかな批評方法を考える視点がもっと出て来て良いと思う。
前にちょっと触れた大月のボツ「田口ランディ書評」原文がサイバッチ経由で配信されてきた。こういう内容のものだったようだ。サイバッチは転載オッケーだし、大月自身も広く知られたい一見だっただろうから、(田口と何の関係もないのに登場させられていて、やぶへびみたいな人もいるのでそこは気になるけど)転載します。さてさて、ボツの問題とは別にこれは書評の名に値するかどうか。見るべきポイントは書評としての精度の問題。また批評の論理が天に唾することになっていないか等々。みなさんよおく考えてみましょう。
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★大月隆寛の独立書評愚連隊 電脳遊撃編 第2回
「不幸の書評、てか」
前回、引っ越し先を探してる、って話をした『サンデー毎日』の連載「ハナ丸書評通信簿」(しかしこれってタイトルと中味とが全くそぐわない連載だったなあ。こんなほのぼのしたタイトルつけてあんな中味をごまかしきった担当のIさんがエラい……てか)なんですが、ありがたいことになんと、『本の雑誌』が引き受けてくださることになりました。五月発売の号から転居新装開店
、ということになります。これからもひとつ、ご贔屓によろしくお願いいたしますです、はい。
とは言え、決まるまでは正直、難渋しました。というか、はっきり言って相手にされなかったですね、ほんと。
みなさん特に編集者とかライターとか、こういう活字稼業界隈の方々は結構な割合で読んでくださっていたらしくて、「ああ、あれおもしろいですねえ、頑張ってください」とまで言ってくれるシトもそれなりにあったにも関わらず、ですよ。ならば、おたくでひとつ引き受けてやってくれませんか、てなことになると、たいていはものの見事に腰引かれちまうありさま。う〜ん、そりゃ
まあ、世の中そんなもんだとはいい加減わかってるつもりですけど、もうちっと心意気っつーか、おのれの仕事を自らオモシロくするやんちゃなココロってやつがあっても、みなさんバチはあたらないんじゃないっすかねえ。
実はこの連載、その行く末が見えてきた頃になって、それまでまな板に乗せた書評の書き手がふたりもバタバタくたばっちまいました。しかも、おふたりとも女性ですがな。
ひとりは久和ひとみ、もうひとりは井田真木子(共に敬称略ね)であります。
久和ひとりならまだしも、井田まで急に亡くなるとなると、そっか、こういうのってやっぱりなんか意識しないところでの暗合ってあるのかも知れないなあ、とか。
以前、ナンシー関と『クレア』誌で対談している時に、彼女にネタとして取り上げられてツラ彫られたやつはその後かなりの割合で不幸になってる、ってことを発見したんですが、そのデンでいけば……あ、いや、別にだからってやたら気に入らない奴をとりあげようとか、そんなことはしないつもりですけど、一応。
ただマジメなハナシ、書評ってのはそこらの文章などよりずっとナマに書き手の自意識っていうか、自分をどのように見せたいと思ってるのか、ってあたりがさらけ出されたりする、その意味では結構神経使わなきゃヤバいジャンルだったりします。ほら、書評ってつまり読書感想文みたいなもんでしょ、だったらあたしにも書けるわ、程度のゆるい認識でホイホイ書評仕事請け負うとえ
らい目にあうってのは実にそのへんなわけで、ほんと、他人の思想や言論ダシにしててめえを売り込もうなんてのは、よっぽどこちら側に器量が備わってないことにはあぶなっかしいことこの上なし、なんですけどねえ。どうもそのあたり、無謀というかスッポンポンな方がこのギョーカイにも少なくないようです。
ともあれ、ここまで不吉な事態が続くと、はて、あたしゃこの連載中、オンナのシトで取り上げたのは他に誰が……と、これまで書いた原稿ひっくり返してみたら、あらら、なんと最後の最後に中野翠の名前があったじゃないですか。いかん、二度あることは何とやら、万一、翠のオバちゃんに不幸がふりかかったりしちゃあ、こりゃいくらなんでも寝覚めが悪い、と、滅多にかけない電
話などあわててかけたりしてみたところ、ご安心あれ、ひとまずお元気でした。今日さっき歌右衛門さんが死んじゃったのよ〜、と悲しんでらっしゃる最中でしたが、ああよかった。でもって、その後は三谷幸喜や森まゆみや某有名紙書評委員会界隈の悪口なども流れでひとしきり。どっちがどの悪口にどう加担していたかについては、営業上の高度な機密事項に属しますのでご想像にお任
せします(笑)。
え、その他とりあげたオンナの書き手に誰がいたのか、って? え〜と……島森路子、田口ランディ、蓮紡、香山リカ、それに……あらら、斎藤美奈子もいたぞ、とにかくそういった面々ですねえ。う〜ん、こうやってみると別に今すぐくたばっちまったって天下国家に影響なし、それどころかむしろせいせいするってもんで、どっちにしてもあたしゃ全く構やしねえや、ってな物件も混
じってたりしますが、まあ、そこはそれ、それらが今後どういう事態に遭遇することに相成るか、ひそかに注目していましょう、へっへっへ。
定期的に仕事させてもらうようになってマメにのぞくようになったから言うんですけど、このbk1って、知らない間にいろんな人がいろんな形で関わって、仕事するようになっていますねえ。
安原顕のおっちゃんが元気いっぱいで「文学」のコーナーで頑張っているのは以前から知ってましたが、その後、山形浩生に宮崎哲弥、なあんていささか座りの悪そうな御神酒徳利から、斎藤美奈子や永江朗のブンガク界隈の小姑、最近じゃ猪瀬直樹のおっちゃんまでが出張ってきてます。いずれ活字のメディアで看板張って商売してきた手練れたちなわけで、また、そういう連中が寄っ
てたかってこそ、ネットもまた活気づくってもんです。 その意味で、あたしゃネットから生まれた才能、なんて能書き、全く信用しませんね。ましてそんな能書きを言い訳にしたがるバカタレなんざ、目ざわりだからとっととくたばっちまえ、であります。
活字のメディア、紙の媒体の厖大な蓄積の上に初めて「文字の文化」ってやつは成り立っているわけで、好きか嫌いか、なじめるかなじめないかとは別に、眼の前にある〈いま・ここ〉ってのはとにかくそういうもん、です。その厳然たる事実の前に素直に謙虚になれない、なるつもりもないまま、抑えもきかない自意識持て余して好き勝手なつづり方垂れ流していいと思い込む、それこ
そが最も悪い意味での「シロウト」なんだと思いますね。
だから、活字=プロ、ネット=シロウト、って図式はきっと間違ってる。依拠する場所がどこだろうが、言葉に忠誠を持って仕事をする人間かどうかってことだけが重要なわけで、それ抜きに単なる図式で理解するから逆に、ああ、もう活字はダメだからこれからはネットで、てな勘違いも平気で宿る。ほら、こういうこと平気で言うオヤジとかって、メディアの界隈にもまだ結構いるで
しょ? ネット出身のもの書きってのが、これだけ資本その他が懸命に旗振って情報によるドーピングかましながらも、たかだか田口ランディ程度のポンコツ(取り巻きも含めて)しか出てこれない現状(でしょ?)ってのは、ネットというメディア自身の限界というよりも、むしろそれ以前、そういう活字の、さらには文字の文化に対する信心もロクにないようなポンコツたちが先を争ってネットにながれ込んで、そういう経緯に原因があるってだけのことなんじゃないかなあ、とか思いますね。他でもないあの田口自身、十年ばかり前は「パソコン通信から作家を生む」てなうわごとぬかしてオヤジ転がしなバブル系編プロやってたタマですがな。いや、これはオバタカズユキに言われるまで気づかなかったんですが、なんだよ、田口ってあの田口かよ、とひっくり返りました。そう言われて顔写真よく見たら、トシは食ってるし顔つきも変わってるけど確かにあいつじゃないの。香山リカがもともとナゴム系のバンドねえちゃんだった、って聞いた時と同じように、ああ、ほんとにごく限られたせま〜い世界でわれわれゴソゴソ生きてきてるんだなあ、と、その後にわかにクラくなっちゃいましたよ、あたしゃ。
田口の書いたものって、あたしも商売柄、多少は辛抱して読ませていただいてますが、これってアタマの中味はひと頃よくいたニューサイエンストランスパーソナル系「何か大きな存在が世界を、アタシを動かしてるわ、これって宿命なのね、どうしましょ」な妄想大炸裂の代物でしょ。まあ、最近は宮台真司あたりも「サイファ」なんて言い出して完璧にイッちゃってますから、このテ
のキ●ガイぶりはいまどきのネット界隈にこそなじみやすい風土病ってことなんでしょうけど、でも、これってもしもネットから出てきたってウリがなかったら、でもってそのネット界隈独特の「あ、それアタシのことだわ」的同病の取り巻きがゾロゾロくっつかなかったら(なんせメルマガ出身っすからね、こいつ)、いきなり活字の間尺で計測したんじゃ、もはやほとんど相手にもされ
ないようなトンデモなポンコツじゃないですか。電気のコジマじゃあるまいし、コンセントだのアンテナだのって物言い使ってリセット煽ったところで、しょせん真っ昼間いきなり往来に出てきた日にはイタくて正視できない要保護観察物件な代物なわけで、その距離感がわからなくなってるほどにいまどきのブンガクその他の世間がロフト・プラスワン化してるってだけのこと。
まあ、ビョーキこそ見世物になるってのはメディア商売の基本技のひとつですから、柳美里だろうが乙武だろうがネタにするのは稼業としてありとは思うけど、でも、ビョーキやトンデモにも質ってのはあるよねえ。(大月隆寛/民俗学者/2001.04.13.)
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もう昨日になってしまったが記念日として記憶しておきたくらい忙しい日だった。午前中ジャナ専門ふたコマ。旧枢軸国の近代化の中でなぜ差別排除が激しくなったかを、ナチのユダヤ人迫害、日本のハンセン病患者迫害を例に語る。終了後タクシーで駅に出て新宿へ。日垣隆氏と対談。新聞ジャーナリズムの問題点について。無署名性言語問題とか語る。日垣氏は触法精神障害者への保安処分が気になるようで、その報道の問題点を挙げる。
まったくこちらの都合で申し訳なかったのだが、予定の時間で切り上げさせて貰って新宿駅から京王線で八王子に向かう。目白台駅からタクシーで法政大学。今日はゲストスピーカー東京大学付属原子力研究施設教授を招いての特別講義なので自分の準備はないのだが、色々気を使うし、事務手続きなどでかえって負担は多い。出席調査と、期末試験に出題するという脅しをかけた結果、出席者がかなり多かったのは救いだった。せっかく遠路はるばる来ていただいたのに閑古鳥では申し訳ないので。この講義では原発推進者、反対運動家をそれぞれ招いて持論を展開して貰うというイベントを毎年やっている。
終了後タクシーで目白台駅に戻り、都心に帰る。「東京会」というのに出席するため。これはマスコミで働く東京出身、東京育ちの人が集まろうという趣旨の会。市ヶ谷で降りてタクシーで神楽坂へ。よくタクシーに乗る日だ。二次会までつきあい、三次会はパスして、一人、飯田橋から電車で帰る。それが現在時点で、車内でパソコンを打っている。帰ったらもう寝るしかないだろう。明日は午前中から取材で締め切りが一本あるがまだあまり出来ていない。寝ちゃってどうなるかという不安はあるが。
「恋はタクシー待ちに似ている」と江角のナレーション、そしてベートベンのピアノソナタ。さぁて今回は視聴率はどれくらいなんだろう。『Love Revolution』
で、次は触法精神病者の扱いの問題。これはケース・バイ・ケースなので難しいとは思うけど、少なくとも医療と司法が連動して対応すべきことは確かだろう。
たとえば今、触法精神病者の受け入れ先は松沢病院に代表される公立精神病院(当然、扱いが難しいことが予想されるので私立病院は能力不足を理由に受け入れていない。仕方なくという感じが強いらしいが、公立病院が受け皿になり、たとえば松沢では受け入れのための専門病棟があると聞く)が、法的な裏付けがないので、入院後はとりたてて特別扱いできず、通常の措置入院扱いとなって、退院を認めるかどうかは医師にまかされるらしい。措置入院や長期入院が経営上不利になる医療政策が一方にあり、よほど強い意志がなければ触法患者といえども長く入院させるのは難しそうなことが予想される。特に人格障害的な、普通の生活が出来てしまうようなタイプの場合にはなおさらそうだろう。このあたりはぼくはどうしても医療関係者からの聞き取りをまとめて書かざるを得ないが、実際に触法患者病棟担当医が現状を報告すべきだろう。松沢病院のその担当はマスコミでも発言機会の多い人なのだが、発言するのは他の件についてばかりで、もっともホットは触法患者の件については慎重に発言を控えているように見受ける。
ぼくは触法患者がいかにとんでもないことをしたとしても、彼らが弱者であることは認め続けたい(被害者ももちろん弱者であり、様々な方法で救済されるべきだ。それは刑事訴訟の問題で書いたことも一つの方法としてなんとしてもすぐに実現すべきだ。で、被害者と加害者である彼らがどっちが弱者かという議論はしたくない。そんな比較することは被害者に対して冒涜だろう)。しかし弱者だからこそ、法と医療によって手厚く守られて、再犯させないようにしてやるべきだと思う。その際、精神病施設のQOLを高めることが必要なのは感染症隔離施設と同じ事情。他にも法制度、医療制度の充実が望まれる。
で、更に言えば少年犯罪についても同じ論理が適用されるのかもしれない。彼らの人権を尊重し、その可塑性を信じるからこそ、しっかりした再発防止教育が行える施設なり、制度が用意されるべきだし、少年法の理念をぼくは尊いと思うからこそ、その延長上にそうした施設や法制度の充実が必要ではないか。
『隔離という病い』で考えた感染症患者の人権侵害を最小化したうえで、権利変換の考えで保証するという枠組みをいかに触法精神病者、少年犯罪者に拡張するか、そんなことを最近は少しずつ考えている。
で、繰り返しになるけど、これはメディアの実名報道とはまた別の問題。
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週刊文春で宮崎哲哉がハンセン病関連書籍で、『隔離という病い』を取り上げてくれた。横が『火花』だったのはご愛敬だが、目次見出しと写真はこっちが獲った(ってそんなこと自慢してもどうしようもないのだが)。
個人情報保護法案反対運動の時は、集会は全部さぼってWEBと雑誌記事だけで発信し、その内容も「個人情報の保護は必要であり、個人情報暴露型の報道は制限されるべきだ」という主張に終始したため、すっかり報道規制論者的に見られているような感じを、原稿とか記事の依頼の傾向から察する。規制の的確化と最小化の努力をすべきだとは思うが、なにがなんでも規制ではないんだけどなー。
一つ付け加えておきたいけど、個人情報暴露が価値を持つ場合がある。それは刑事事件の加害者情報の報道で、これはよく言われていることだが、日本の刑法下では被害者が蚊帳の外(差別用語?)に置かれ、当事者としてなんか特別に扱われないことによる。ぼくは門外漢だが、これは明らかに問題だと思う。で、その点において刑法改正を主張する人にぼくは共感する。こうしたおかしさの結果として被害者が得られる情報も非当事者と変わらないというのはひどい(この辺りのことは日垣隆氏が本当に丁寧に問題を報じている。ちょっとゆえあって彼の仕事を読み直しているが、問題の所在を知る上で極めて優れたテキストが書かれていると改めて思った)。
その情報を報道が与えているというのが現状である以上、被害者をほんのわずかであれ救済する方向に報道が貢献していることは認めなければならない。高山もその意味では貢献をしたのだ。
しかし、これは法の問題が先である。報道を経由してしか加害者情報を被害者が得られないと言う構図に問題があるのであり、そこから、だから報道は個人情報を報道する権利があると短絡させることは出来ない。あったりまえの話だ。被害者の知る権利を満たすために、不特定多数の知る欲求まで満たしている現状のおかしさは意識すべきだろう。そうしたおかしさを自覚した上でなお現行法体系の不備から被害者のためを思って確信犯的に報道に関わる記者もいるだろう。しかし、もちろん全員がそうではないはずだ。被害者の知る権利を謳って、実は自分たちのメディアの売れ行きを延ばすために個人情報報道を正当化するのは汚過ぎる。
個人情報法保護法案反対運動はフリーライターへの適用除外が一応明言されたことで職業別闘争色の強かった第一フェイズから、表現の自由と個人情報保護の齟齬の問題を扱う第二フェイズに入って行くが、汚らしい詭弁が入り込むことをいかに避けられるかが重要になってゆくだろう。
武田徹