
武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG70
これは2−3年前には確かに存在していたけれど、今はもしかしたら絶えてしまっているかもしれないが、若狭湾周辺(の一部)で名物として謳われている特産品にウソバというのがあった。原発の取材でうろうろしていたときになんだろうと惹かれて店に入って食べた経験がある。
で、ウソバとは何だったかといえば、その名の通り、うどん+そば、なのだ。といってもよくある「あいもり」ーーうどんとそばを一緒にせいろに盛ったものーーではない。表面がそばで裏面がうどんという(逆かもしれない)裏表二色のきしめんみたいな、けったいなものなのだ。たぶん製麺するのは相当に手間がかかると思うのだが、その手間に見合うかたちでウソバは・・・・うまくない。というかまずい。これは少し考えれば当然で、うどんとそばではゆで時間が異なる。あいもりだったら別々にゆでればいいが、一つの麺にしちゃった以上、一方に合ったゆで時間をとると、もう一方がかたいか、やわらかいかになる。知恵者がいて、張り合わせる厚さとかを微妙にコントロールすれば同じゆであがりになった・・・・かもしれないが、知恵者はいなかったか、そこまでの工作精度がなかったかで、単純に同じ厚さでうどんとそばが合体しているので、ゆで上がり感が悪く、喉越しも非常に良くない。
このウソバは絶対に昔から当地もあったものではないはずだ。新しい産品だと思うが、自然に作られるようになったものでもないだろう。おそらく村おこしとか、地域振興とかで予算が組まれて(タインミング的には原発の交付金が入った時の発明品ではないかと疑われるが、それは未確認)、特に必然性もないところで、頭でひねり出されたものだと思う。
そしてこれは、残念だが、「貧すれば鈍する」の典型的なパターンではないかと思う。こんな話題性だけしかない、明らかに食材としては劣っている商品が、長く愛される特産品になると本当に考えたのだろうか。もし考えたとしたらその見込みの甘さが哀れだ。
都市の過密と地方の過疎は紙の裏表だ。地方出身代議士が地域振興を謳って新幹線や高速道路を誘致すればするほど若者は都会に出かけ、帰って来なくなる。原発を作って送電線を逆に辿って都会から金を送らせようと言ったのは電源立地への交付金のパイバックを決めた電源三法を作った田中角栄だったが、金は送られて来てもそれを生かせる知恵者がもはや残っていない。そんな事情をウソバは感じさせた。
ちなみに東京で、このウソバの話をすると、10人中9人がこう言う。「ソドンじゃないんですね」。
武田徹
下の書き込みをして、しばらく考えたんだけど、記者クラブを諸悪の根元とするだけで済ませている世間の風潮もどうなのかと思ったりしました。たとえば下にも書いたように確かに記者クラブは取材拒否の言い訳になっているケースはあるし、ぼくもそれを経験したことがある。しかしやりようはあって、それでも取材を受けさせる方法はある。そこまでやらないのは自分の怠惰を記者クラブのせいにしていると言われても仕方がない面がある。
記者クラブを乗り越えて取材してもたいした話は聞けないというのは、もちろん守秘義務の問題とか、個々の担当者が自分の仕事の位置づけを大局的に見られていないとかいうこともあるし、記者クラブで通常接触している担当者と記者の間の人間関係、信頼?関係という経路を伝わらないと情報が伝わらない心性の風土があるとか、様々な理由が考えられるけれど、それにしても乗り越えられないわけでもない。力足らずを記者クラブのせいにしているのは見苦しいと、自分の側に捉え直して考えるべきかなとも思いました。
なんでそんなことを思ったかと言えば、ジャーナリズムの問題を記者クラブに帰着させるっていうのは、今までもずっとそうだったわけでしょ。それこそジャーナリズムに関心のあるひとはみんないうわけですよ。それでも全然改善の目処がみられなかったというのは、そうした問題設定が実は不的確だったのではないかと思う。そこに問題があるのは間違いないんだけど、その問題を解く方法はその問題とは離れたところにあるというか・・・。そう考えると田中康夫の選択も評価しつつ、それで快哉を唱えておしまいというだけに終わらせない姿勢が大事のようにも思えて来ます。蛇足ながら。
武田徹
いちべぇさん、書き込みありがとう。
脱・記者クラブ宣言は前に軽く言及だけはしたように思いますが、確かにきちんとは書いていなかったですね(と、ここまで書いて、ログ管理者から5月17日に書いているというメール着信。この掲示板は優秀な裏方ボランティアに支えられている)。
記者クラブの問題性は既に何度も指摘されていて(たとえば本郷美則さんの『新聞があぶない』など)、それに新しく何かを付け加えることはないと思います。記者クラブ加盟社側が何を言おうと、今の記者クラブが情報開示の主導権をジャーナリズム側が握ることには決してなっていない(記者クラブに参加しているメディア機関が果たしてジャ−ナリズムの名に値するのかという根本的な疑問を含めての話ですがーー)ことが問題なのであって、「知る権利」とか言う言葉が上滑りしているのは確かに鼻白む感じがします。
先の個人情報保護法案問題でもそこが問われていたわけですよ。
ただ、内容的には他の文脈で前にも書いたことの繰り返しになるかもしれないけれど、ちょっと嫌な話もあって、確かに田中さんの脱記者クラブ宣言は雑誌ジャーナリズムでは歓迎されていて、週刊文春なんか大々的に支持を謳うわけですよ。ぼくも個人的に警察取材などで「記者クラブを通さない取材は受けない。それが記者クラブ加盟社との約束だから」と言われて拒否される経験を何度もして、記者クラブってのはなにより取材拒否の隠れ蓑なのだと思っていましたから、門戸開放に期待するところはある。
ただ雑誌ジャーナリズムは記者クラブに入れないので、それに全く頼らない取材をしているかというと、そうもいえなくて、記者クラブに入る権利を持つ新聞記者がバイト的に情報提供しているおこぼれを貰っていたり、あるいは彼らにペンネームで記事を書いて貰っている側面があるわけです。「有森隆」問題とかあったですよね。
実際、記者クラブ経由だと情報が出るけど、それ以外では情報が殆ど出ない。それは箝口令とかもあるけど、そうした次元に留まらず、いわゆる法人資本主義的というか、集団無責任体制というかなので、個々人の裁量権が少なく、裁量した実感も乏しく、言葉も際だっていなくて、記者クラブの頭越しに個々に取材したとしても、たいした話が聞けないという事情もあるのではないか(いちべぇさんはもしかしたらそんへんはよくご存じなのでは?)。記者クラブは加盟社との阿吽の呼吸の中で情報を集約し、咀嚼し、公式声明化する役割を、もちつもたれつの関係の中で果たしている。そんな日本では『大統領の陰謀』はおそらく書けないですね。
そう見て行くと、記者クラブ問題は新聞や放送局だけの問題かと言うとそうでもなく、より普遍的に根を下ろした、日本の社会と報道の関わりに巣くった宿病みたいなものだとも感じます。いかがでしょうか。釈迦に説法を覚悟しつつ、とりあえずレス。
武田徹
うっかりしていて、武田さんの「脱・記者クラブ宣言」に関する当掲示板でのコメントを読み落としていたわい、と思ってログを遡ってみたら、見つけられないんですけど。毎日チェックしてるし読み落としたわけではなくって、書いておられない??
本日、長野の県政記者クラブが「脱・記者クラブ宣言」に関する見解を発表しました。正論として、権力側が情報開示の主導権を握るというのは、やはりモンダイなのかもしれないと思う反面、「国民の「知る権利」に応えるのが報道機関の使命です」などと嘯かれてしまうと、「その使命を果たすことなく惰眠を貪っていたのは何処の何方様?」と鼻白む思いもします。
フリーというお立場から、武田さんは今回のこの騒動、どうごらんになっておられるんでしょう?どこかのアナログメディアに書いておられるのであればポインタだけでも示していただければ。
円戸津さんのレスを待つ前に、みなさん、基本知識のお勉強をしましょう。日外アシストから。甘糟さんの方は逆引きで何か調べられちゃいそうな項目はぼくの判断でカットしたけど、これでも個人情報保護法成立後だったら有罪? だったら日外はどうなる? 保護法成立前夜の今は日外から怒られるかな(日外は公開済みの情報を再編集しているだけという建前になっているけど、それで著作権主張できるのか)?
まぁそう多くない名前なので血縁はありそうだけど、直系ですかね。2チャンで一回、「甘粕の孫」説が出てたけど、すぐ消えている。それぐらいしかぼくは思い当たらない。本人がどこかで「おじいちゃんの話」を書いていた(話していた)のだろうか?
***
人名 甘糟 りり子(アマカス,リリコ)〔経歴情報:1998年4月現在
最新文献:2001年2月〕
職業 ファッションライター
職歴・経歴 アパレルメーカー勤務を経て、ファッション雑誌のスタッフに。平成
6年ごろからブランドや美容、車など幅広いジャンルの流行をテーマ
に執筆活動を始める。CD‐ROMに「東京夜遊びガイド・完全保存
版’96」、著書に「最新明解 流行大百科」「東京のレストラン」
がある。
人名 甘粕 正彦(アマカス,マサヒコ)〔故人 最新文献:1999年1
1月〕
職業 陸軍憲兵大尉
肩書 満州国民政部警務司長;満州映画協会理事長
生年 明治24年1月26日生 出生地:宮城県仙台市 出身地:山形県
没年 昭和20年8月20日没(54歳 ピストル自殺) 没地:新京(長
春)
学歴 陸士(第24期)〔明治45年〕卒
職歴・経歴 明治45年歩兵少尉、ひざの怪我で大正7年から憲兵に転じ10年憲
兵大尉。11年渋谷憲兵分隊長、12年8月麹町憲兵分隊長兼任とな
り、関東大震災直後の9月16日、アナキスト大杉栄と妻の伊藤野枝
、大杉の甥で7歳の橘宗一を隊内で扼殺した。軍法会議で懲役10年
、部下の森慶次郎曹長は3年の判決。軍部の密命という推測もある。
2年余で出獄、昭和2年フランスに渡り、4年帰国。5年大川周明の
手引きで満州に渡り、満洲事変、満州建国の黒幕として謀略活動。7
年満州国民政部警務司長、満州国協和会中央本部総務部長。14年岸
信介の推薦で満州映画協会理事長。満州国の首都・新京(長春)を根
城に関東軍をもしのぐ実力をふるい、“満州の夜の帝王”と恐れられ
た。20年8月ソビエト軍の新京侵入直後、自決した。角田房子著の
伝記「甘粕大尉」がある
家族 弟=甘粕二郎(元三菱銀行社長)
そうか、自分で書き込んだ後に分かった。甘糟りり子=甘粕正彦の孫ということですね。お祖父さん=甘粕大尉なんだ。確かにそう書いてありますね。その関係が読めず、とんちんかんなコメントをしてしまってしみません。でも、そうなんでしたっけ? 甘糟さんのお父さんは知っていますが、じゃあ。彼は甘粕正彦の子? 甘粕ってそもそも子供いたんだっけか。満州国論を書いていた頃の記憶はすでに処分しちゃった(一冊終えると殆ど忘れちゃいます。ぼくだけでなく、そういう書き手は多いようですよ。有名どころではドゥルーズもそんなこと言っていた。「著者インタビューほどやっかいなものはない。書いたら忘れちゃうので、また自分の本を読み直さないといけない(笑)」と)もので資料を引っぱり出さないと分からないです。
で、となると、後段の
>簡単に人を殺すのは止めて、生きる個人の権利を大切に。
は甘粕の大杉栄殺害とかを意識して書かれているのか、甘糟りり子批判とはどう関わるのか。
武田徹
円戸津さん。書き込みありがとうございます。
>いやお祖父さんはきっと重信と同じ経験を、そして旧日本軍への貢献をされた方です。
お祖父さんって誰ですか? 掲示板読者が知っている人ですか、それとも円戸津さんの知り合い?
>しかし今となっては浅知恵と思えるかもしれません。
これは何が?
>いずれにしても、時を経て学ぶことと、それに値しないとがあります。
これは、その通りですよね。こういう一般論として理解できる内容だと分かります。
>ある人曰く、田中義三が10年して出てくれば、きっといい仕事をしてくれますよと。彼の言に>よれば重信はもう、お仕舞いだねとの事でした。
どういうことなんでしょうか。田中義三と重信はどう違うとその人はおっしゃっていたのでしょうか。もっと聞きたい感じですね。ちょっとチラリズム(古い!)っぽい書き方です(ぼくもよくするけど>反省)
>彼女の父が薩摩の出であったことで、私としては支えてあげたい気持ちですが。
御同郷なのですか? たとえばぼくは一応プロフィールがこのページに連動して存在しているし、昔話みたいな記事を書くこともあるから、読んで下さるかどうかは別としても、ぼくの出身地ぐらいは調べることが(もしやろうとすれば)出来ます。でも円戸津さんのように書き込んでくださるかたは、しようにもそれが出来ません。で、もう少し丁寧に書いていただかないとせっかくの書き込みも理解しにくいまま終わってしまうと思うんですよ。もったいないですよね。
>ともあれ、時間の経過の中で見えることを楽しみたいですね、簡単に人を殺すのは止めて、生き>る個人の権利を大切に。
これは単純に重信などのその後を見守りたいということですか? それともここで書き込まれた甘糟りり子の書き込みに対するレスなのでしょうか。タイトルはなんだかそんな感じですよね。でも、そうだとしたら、どこがどのようなかたちで絡んでくるのでしょうか。ぼくは散文の世界では意味連関にあくまでもこだわりたい偏執狂っぽいところがあるので、すみません、気になっちゃいました。「ありがとう」なんて始めておいて、なんだか文章技術のクラスの添削みたいな書き込みになってしまいましたが。あしからず(笑)。
武田徹
いやお祖父さんはきっと重信と同じ経験を、そして旧日本軍への貢献をされた方です。しかし今となっては浅知恵と思えるかもしれません。いずれにしても、時を経て学ぶことと、それに値しないとがあります。
ある人曰く、田中義三が10年して出てくれば、きっといい仕事をしてくれますよと。彼の言によれば重信はもう、お仕舞いだねとの事でした。彼女の父が薩摩の出であったことで、私としては支えてあげたい気持ちですが。
ともあれ、時間の経過の中で見えることを楽しみたいですね、簡単に人を殺すのは止めて、生きる個人の権利を大切に。
これはまだ水面下の動きで、もしかしたら水面上に出るかどうかも微妙なところだけど、そういうことも書けるのがこの掲示板の良さだと思うので一筆。
bk1に大月隆寛が田口ランディの書評を書いた。その記事がしばらくして消えた。田口ランディはネット界では最近盗作疑惑が盛んに議論されており、その真偽はともかく極めて評判が悪い。で、この大月の一件も、田口が圧力を掛けて批判的な書評を削除させた事件として、ネットの世界で話題になりそうな気配がある。
ぼくは当の大月の書評は見ていないので、それについてはコメントできない。bk1側は「書評なのに本について論じておらず、個人攻撃的な内容になっていたので不適当と考え削除した」というような説明をサイト上でしている。
さて、どうなんだろうか。これから書くことは、この件に直接関係すると言うことではなくあくまでも一般論として考える上での参考にして欲しいのだが、ぼくも大月に書評を書いて貰ったことがある。ケーソー書房から出した『ジャーナリストはどう<日常>を切り取ればいいのか』が彼の批評対象であり、その本は電通報に連載したコラムをまとめたものだった。その書評を読んで驚いたのだが、大月はぼくの本の内容にはいっさい立ち入らず、引用してあるのは編集者が書いた帯の文句だけ。そして、連載媒体が電通発行の広告界向けの新聞であること、そして著者であるぼくがビジネス誌などに比較的多く書いている書き手だったと言うことが気に入らなかったようで、広告とかマーケッティングとかいう浮ついた業界の連中は困ったもので、地に足ついておらんという彼のお得意の論法が繰り広げられる。
内容についての批評だったら幾らでも受ける。しかし書いていないことを批評されたらどう対応すればいいのか。言うまでもないがぼくは広告業でもマーケッターでもない。そう言われてもなぁと正直困惑した。で、これはあんまりだったので、書評を掲載した『ミュージックマガジン』に連絡を取ると、編集部も不適当な書評だと考えるという返事をくれた。もちろんすべては後の祭りなのだが。
そんな経験をしたことがあるぼくにとっては、大月が書評で本について書かず、ランディの個人攻撃に終始したという話は、なんとなくそういうこともあるかなと思ってしまうのだ。もちろん過去にそうした例があったからと言って同じことが繰り返されると言う保証は一切無いので、それは類推の域を出ないのだけれど。
大月について思うのは、彼のスタイルと彼のファンとの関係だ。彼のスタイルが「批判的」と形容されるものであることは一応認めても良いだろう。前に「つくる会」に関わっていた関係か、自衛隊の見学をして隊員をやたら歯が浮きそうに誉めている記事を読んで、なんだこりゃーと思った(誉め殺しってことはないよな?)が、それは例外で、よくもまぁこう人にくってかかる人だと思うほど、彼はいつも喧嘩腰である。
しかしその「批判的な」記事を批判的に読むことを忘れてはならない。書評であればその対象になっている本と読み比べて批評の的確さを確認してみる。そうした作業を経た上で、なおまっとうな批評が大月の仕事の中にどれくらい残っているか。そうした確認作業を経た上でファンになるのはいいが、どうも大月のべらんめぇ調だけに惹かれて「戦う人=大月」のイメージに酔ってはいないか。
大月の全ての仕事を否定するつもりはなくて、たとえば『厩舎物語』の本文部分は優れていた。ぼくはそれを誉めた書評を書いている(ただ、序論と結論の理論的考察はあまり良くなかった。厩舎ルポルタージュとしてローデータの収集とその言語化処理において著者の才能は生かされているというように評した記憶がある)。日本語のリズムを生かした文体は好き嫌いはあるが、やはり一つの個性を確立している。丁寧に書かれた記事は面白いものがある。しかし当然のことだが、全てがうなづけるものではない。最近書評だけまとめた本を出したようなので(ミュージックマガジンのも入っているのかな?)、いい機会だから大月ファンは彼の批評家としての誠実さをぜひチェックして欲しい。
彼は本当に権力に立ち向かっているのか。権威に立ち向かうというポーズで、より大きな匿名的な権力ーー批判を無化するような文化風土の力に巻かれてはいないか、そのあたりは要検討である。出来の悪い、依頼仕事の最低限のレベルに達していない書評がボツになり、しかし、その結果として巡り巡って不評の田口を叩く正義の人というイメージが強化されることになったら、実は大月自身にとって不幸ではないか。
武田徹
糸井さんの取材(これはプレジデント。請うご期待)を終えて、麻布十番から大江戸線で新宿。マクドで夕飯を済ませながら『朝日』原稿。取材が延びたので今晩入稿分が火の車になる(笑)。なんとか目鼻がたったので送稿しようと思ったが、なぜかモデムが無反応。結局、家に帰ってから入稿する。ヨドバシの前のマクドでは前も経験したんだけど、電子機器の異常がよく置きませんか?ヨドバシのぎらぎらのネオンサインとかからの電磁波のせいではないかと個人的には踏んでいるんだけど全く根拠はなし。
前に戻るがドイツ製カーナビは結構新鮮な経験だった。操作体系が日本のものとは全然違っていて、情けないほど使えないのだ。ぼくたちは知らず知らずのうちに知識や経験を蓄積し、その上で生活している。たとえばRPGなんかも明文化されていない約束事があって、それを共有しているからこそ遊べる。マンガだって慣れていないと全然読めないもの。
さてさて、甘糟りり子のところで書いたS社M誌は世界文化社のミス家庭画報だそうです(前にも書いたけど、なんで相手には分かるのに伏せたんだろう。もしかしたら光文社側の配慮か。ぼくも前に実名で新聞批判をしたらカットされていた経験がある。そのときのカットマン!は日経新聞から日経トレンディの二代目編集長に出向していた人で、ぼくが文句を言うと「新聞社同士は批判しないの」という印象的な説明をしてくれた)。「戦っている」とか書いて本掲示版の貴重なテルアビブ在住寄稿者・山森さんの不興を買ってしまったようですが(笑)、確かに「戦う」とか以前の雑誌でしたね。政治性を出して、本人は高級化のベクトルを辿っているつもりかもしれないが、政治=高級なんて図式自体がもうアウトオブファッションで、かえって低級化になる場合もありえる。残念ながらその例になっているようにぼくも思う。
武田徹
朝一で編集会議原稿を入稿し、午前中は海浜幕張でこんど日本に入ってくるらしいドイツ製カーナビのモニター。京葉線、日比谷線と移動して今、六本木ウェンディーズ、これから糸井さん取材。日比谷線の車内で電通PRの知人に会う。と、こんな移動中記をリアルタイムで書くとこれがきっかけになってまた何が別のことが起こらないかと期待。
武田徹
山森さん、こんにちは。ご無沙汰しています。いつも貴重な現地報告をイスラエルから寄せて下さってありがとうございます。
甘糟りり子にはご立腹のようで。おっしゃっていることは理解できます。
彼女はミュウミュウのパーティに出かけた経験がとても印象的だったようで、それを端境期として発言スタイルが変わったようにも感じます。アナキズムへの無垢な憧れについては下に書きましたが、テロリズムへも(頭のいい人ですからそんなものではないと一応は煙幕を張ってはいますが、その実)かなり個人的に再解釈した形で感情移入しているようですね。
雰囲気としての政治性というのもおっしゃるとおり。ファッションのひとつになっているという意味では元NAVIのスズキさんとこれまたよく似ているところだと思います。
と、まずははとりあえず感想まで、寝不足続きで妄想を見そうなのでこれぐらいに。
武田徹
甘糟りり子の「政治性」について
武田さん、お久しぶりです。テルアビブ大学教員の山森です。
甘糟りり子が昨年『週刊朝日』の連載で「重信房子、ミュウミュウ」という記事を書いていました。一読してあまりのことに、コピーしてテルアビブ大学3年(最上級学年)のテキスト講読クラスと大学院クラスのイスラエル人学生たちに日本語でそのまま読ませてしまいました。
記事の内容は、「重信房子の逮捕が非常に気にかかる。自分には政治的思想などまったくないが、多くの人が彼女についてお呼びじゃない的発言をするのには非常に抵抗がある。私は単純に、あそこまで信じられるイデオロギーがあることがうらやましいと思った。テロを肯定しているつもりも、美貌のテロリストのプロフィールに酔っているつもりもないが、興奮の質に、ブランド物と美食で欲望を埋めて生きている自分には、決して経験できないものを感じる」という前半から、プラダの妹ブランド、ミュウミュウのパーティがパリの共産党本部で行われたという後半に続いています(ヘブライ語に逐語訳しつつ二つのクラスで読んだので覚えてしまったのです)。
テロを肯定しているつもりがないのに、重信房子がうらやましいというのはいったいどういうことなのか? 学生たちはそもそも前半と後半のつながりが論理的に分らないというので、日本のエッセイというのは、そういう政治的なら政治的という雰囲気をもった話を何となくつなげて感覚的に読み流すのだと説明したのですが、みな頭を抱えていました。
その程度の政治性が「戦い」の基盤になるぐらいなら、ブランド物と美食で欲望を埋めて生きていてくれたほうが遥かにマシだと思ってしまうのは、私が多くを望みすぎているのでしょうか。すみません。甘糟の名前を見たとたん(この記事以外に何を書いている人なのか全然知らないのですが)、先学期の思い出し怒りに襲われて、つい書いてしまいました。
前に確認中と書いた6割返本は新刊配本での統計らしい。4割は新刊+注文品の加重平均値だが、今の出版量は4対6で新刊の方が少ないので結果的に加重平均を取ると返本率が下がって4割になる。つまり(4割の新刊×返品6割)+(6割の注文品×3割の返品)=42%という計算らしい。昨日の新聞にも取り次ぎの共同返本作業の試みを紹介しつつ、4割返本データが取り上げられていたが、新刊に限っては直截的にもっと数字が悪いし、注文書でも3割の返本があると言うことは書店のミスリードや客が引き取りにこないなど相当のすれ違いがあることが窺える。
武田徹
光文社の『DIAS』は週刊宝石を潰したときにあくまでも「復刊のための休刊」を臭わせて格好をつけるためのブラフかと思っていたけど、本当に出ちゃった。なんか社風に似合わないまじめな作りで、イメージ的には時事通信が『週刊時事』をリニューアルして出した『エル何たら』いう週刊誌を思い出してしまった。あれは数号でつぶれてしまったので、光文社の人たちからは不吉な連想だと怒られそうだが。
立ち読みしかしていないのであまり詳しい印象は書けないけど、後ろの方にあった甘糟るり子のコラムは面白かった。プレスカンファレンスのあまりの不手際さを書いて、広告部からお定まりの圧力がかけられ、ふにゃちん編集部がそれに抗いもせずにあっさり連載が中止になった話。彼女も戦っているだなぁと感心する。実際に戦うどころか、戦う必要性すら認識できない書き手が増えているように思うので。
ただし、こちらが女性誌業界にうとくなっちゃったせいかS社のM誌とか書かれても分からない。実名告発して欲しい、どうせ当事者には分かっちゃうんだし、建前的に遠慮することもないでしょ。あとアナーキズムとは「いかなる場合でも団体よりも個人が優先することを指す言葉だと理解している」云々の部分はやや甘い。ヒロイズムで陶酔的にアナーキズムを語るとそのうち壁に当たるはず。ちょっと旧NAVIスズキさん的レトリックかな。仲良いみたいだし。
武田徹
てるてるさん、書き込みありがとう。絶版や書籍流通のゆがみと戦う個人の試みは来月にでもまとめて取材しようと思っています。
佐野さんは本の世界がダメになったのは「劣化した読者」のせいだとか言っているらしいけど、反感買うよなー、そこまで言っちゃうと(笑)。読者が劣化したとしたら「最高の読者に向けて書く」努力をしなかった書き手の劣化のせいでもあると思うけど。
さて、大阪の小学生殺傷事件の容疑者は法律関係書に続いてカーナビまで使っていたとかという情報が出てきた。なんだか、よってたかっていかに彼が正常で、責任能力があるかを示しているようでなんだか気味が悪い。うがった、とても、うがった見方だけど、立件したいのは警察の希望でもあり、既に実名報道してしまったマスメディアの希望でもあることは気になる。両者の利益が一致するところに、警察発表した情報が得られない状況も相まって、なんだか妙な結果にならないといいんだけど。
それに、ひとつだけ忘れたくないことは、小学生を立て続けに殺せるというのはやはりどう考えても異常心理ですよ。その意味に限って彼は「弱者」でもあるのだ。そうは思いたくない気持ち、なんとしても彼を裁きたい気持ちは十分に分かるけど、一方でなぜ彼のような壊れ方を人はするようになったのかを考える視点を忘れずにいたいと思う。
武田徹
はじめまして。以前より、ときどき、ここを読ませていただいていました。
>基本は研究者なり著者(あるいは著作権者が許諾した愛読者)なりが自分で
>アップしちゃう方法を進めるための方向付けが必要ではないか。たとえば
>出版社は既に書店で入手不可能と言うことになった段階でデータを囲い込まずに
>著作権者に譲って欲しい。ワープロで作製していても刊行時に朱が入ったりしている
>場合があるし、ルビをふるだけでも手に余るテキストよりも出来れば
>組み版データで出せた方がこれからはいいだろう。で、著作権者自身
>(かその代理人)が自分の仕事を残すために自発的に作業をする。
>これで絶版問題のかなりの部分は解決するのではないか。
御承知かもしれませんが、大阪府立大学教授の森岡正博さんが、絶版になった
著書を、kinokopressという電子出版の個人企業(?)と協力して、ホームページに
アップしています。PDFファイルで、閲覧は無料ですが、プリントアウトは有料に
なります。論文も、雑誌に掲載された後、どんどん、全文公開しているので、
とても助かります。
↓
この土日はルマン24時間レース。実はぼくも確か88年に取材に行っている。といってもレース専門記者じゃないので、なんだかよくわからずに現地入りして、見るもの全てが目新しくてそれはそれで面白かった。あのレースは偉大なる草レースだし、結局は、フランスのお祭りですからね。ちなみにその時の取材はNAVIと週刊ポストに書いた。その後、レースに少し凝っちゃって鈴鹿8耐とかも行っているし、そういえば日本F1もその年から再開で、こちらも流れで結構取材している。技術と興行の関わりとか見るのは面白かった。バブル直前の熱気もあったし。
ルマンに関してははちょっと個人的には面倒くさい事情があって、博士論文執筆資格試験というのがあって、そのために提出する論文の締め切りが迫っていて、プレスルームで原稿を書いたりしていたし、せっかく来たのにーと同業者達からはブーイングされながらも、徹夜観戦はしないでさっさとホテルに帰ってまた原稿を書いたりしていた。で、ひどく忙しかったけれど、心身共にハードだっただけに、レースを含めて印象は結構鮮烈に思えている。6月半ばの気候は日本が最悪なので、フランスの田舎の心地よさ良さが一段と際だつ。隅々まで光が溢れて回る感じ。
取材はマツダとのタイアップで、読者参加のツアーに二人分余裕があるので同行するというものだった(読者参加ページをNAVIでマツダの広告扱いで作ったんだと思う)。基本的には往復のスケジュールが一緒なだけで、別にばっちり同行する必要はぼくにはなかったんだけど。先にも書いたように当時のぼくのレース知識はレースファンの読者よりも遙かに劣っていた(行く前にカーグラでルマンの記事の翻訳をしている。フランス語を読める人がいなかったので。でもこっちも読めるからと行って専門知識はなく、ずいぶん副編集長だった高島さんに直して貰った)ので、彼らと一緒に行動しているといろいろイベントがあって、寺田陽次郎の案内付きでバスでコース内を走ってくれたりして参考になったので、ぼくはプロのプライドなんてどこふく風で結構、読者の人たちと一緒に行動していた。そのうち参加者の中からカップルが出来ちゃったりとか、ありがちな人間模様も、見ていて面白かった。
今年はメーカーの参加もアウディだけで、余裕綽々のレース運び。でも、だからどうなんだと思うくらい個人的にはレースから離れちゃったが、もう10年以上経ったんだなぁとは思う。そういえば現地にプレスパスを請求するのにテレックスを打ったな。FAXの普及がまだで、もちろんパソコン通信もダメで、ぼくは二玄社のテレックスマシンと格闘した記憶がある。あれ一カ所間違うと穿孔テープなのでぜんぶだめになる。
年に何度か、月日の経つ早さを感無量になる記念日がぼくにはあるが、6月半ばの満月に一番近い週末、つまりルマン・ウィークエンドもその一つだ。
武田徹
下の書き込みもその派生物なんだけど、最近、本の販売の世界を取材している。
思うのは、ネット系のビジネス全般にも関するものだけど、収益型のビジネスモデルを諦めた方がいいというものがきっとあるだろうということだ。
電子データ本は前々からビジネスになると言われていてでもまだまだ道は遠い。というのも、よほど世みたい場合を除いてわざわざデータで取り寄せて読もうとは思わないだろう。数が出ないし、値段も高くできないので利益なんかでっこないののだ。
ベストセラーがデータ本の世界で出来るとか思えない。ドラッジレポートのようなものはありえるけれど、そうした話題作品を除けば、データで提供するのは学術書とかがよりふさわしいし、論文集の一部分とかを取り寄せられるということならそこそこ需要はあると思う。けれど、オリジナルが本で売られている場合、そうした提供方法だと権利関係が結構難しいし、需要はあると言ってもまさにそこそこで、それを販売するサイトを運営して黒字を出すのもたいへんなはずだ。
で、そうした提供方法は、もはや収益を求めないと諦めちゃった方がいいのではないか。
基本は研究者なり著者(あるいは著作権者が許諾した愛読者)なりが自分でアップしちゃう方法を進めるための方向付けが必要ではないか。たとえば出版社は既に書店で入手不可能と言うことになった段階でデータを囲い込まずに著作権者に譲って欲しい。ワープロで作製していても刊行時に朱が入ったりしている場合があるし、ルビをふるだけでも手に余るテキストよりも出来れば組み版データで出せた方がこれからはいいだろう。で、著作権者自身(かその代理人)が自分の仕事を残すために自発的に作業をする。これで絶版問題のかなりの部分は解決するのではないか。
ブッキングのように絶版復刻を仕事にしている会社もあるが、これは過渡的存在で、著作物の最終的な寿命は著作権者が決めるというふうにしちゃったほうがすっきりするようにも思うのだ。著作権が切れたら青空文庫に引き取って貰う。無縁仏じゃないけど。そうして本の命を繋いで行くほうが、いつまでも儲かったとか、つぶれたとか右往左往している電子本業者に混乱させられるよりもいいと思う。数売って儲ける世界で提供されるのにふさわしいものとそうでないものは歴然とある。いつまでも未練たらしくビジネスチャンスをねらっていなくて、あっさり諦めてオープンソース運動ではないけれど、経済活動を超えてしまう領域に任せる。そうした視点も含めてゆかないとせっかくデジタル技術が用いられても本の世界の健全化はありえないのではないか。
武田徹
と書いちゃったが返本率6割は高すぎるような気もする。たとえば佐野さんの『誰が本を殺したか』では書籍の返本率は4割になっている。ただぼくの方もある販売系専門家(しかも相当の要職の人)がデータソースで、言い間違えの可能性もあるが、もしかしたら統計の取り方とかでこういう数字がでるのかもしれない。で、ちょっと確認中。4割でも十分に多いけれど。
武田徹