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LOG69
最近では委託配本される新刊の返本率は、平均で6割にも達するのだという。平均で、ですよ。中には『楯』みたいにそこそこ売れる本もあるわけで、それでも平均で6割というのは、かなりのタイトルが実は一冊も売れずに版元に戻っているケースがあるということだろう。これは相当に異常な事態だとは言えないだろうか。
新刊委託制度もそうだけど、本の世界は作り手の側が主導的だ。作ったので流通で流します、というのが配本が主流であり、欲しいので流して下さいという客注の流れはそれにくらべ遙かにか細い。電子データによる販売なども検討されているけど、それも出版社側の都合ーーIT革命に生き残りたいーーが主であり、読者の側からこういう本がこのように欲しいので、こんな販売法を検討して下さいというリクエストに応えて進められているものではない。。
読者側の不満はといえばやはり欲しい本が買えないことだろう。こちらは書店を訪れた客の2/3は欲しい本が手に入らず、そのうちの半分は絶版だという。これが新刊返本率6割と裏表をなす現象としてある。読者の欲しい本をカバーしようとすると極めて他品種少部数的に広がるのであまり真剣に耳を傾けないで、適当に絶版にしてしまう。ひどい話だ。しかしこうして読者ニーズを無視し続ければ本離れが進んでも仕方がないだろう。
そうした版元と読者のすれ違いを解消する可能性をデジタル技術が担っている。DTPで少部数注文印刷製本が出来る。オンライン販売をすれば小回りも利く。しかしそれがうまく使えるかどうかもニーズを正しくつかめるかどうかだ。本の世界の病は深い。本の世界で仕事をしていてそう思う。
構造的には教育の世界に近い感じかもしれない。問題は分かっているんだけど手が出ない。政策決定機関がうまく機能しないところも似ている。教育の場合、小中学校の数が猛烈に多くて「民主主義」がうまく機能しないという声は、大学の教育関係者から聞く。意志決定が遅れたり、事なかれ主義になったりするとかいう。それはそれでまた一方的な見方かもしれないが、改革が遅れがちな傾向は確かにある。本の世界もそうだが、わずかな変化でも小さな書店にとっては存亡の問題になる、小さな書店の数は多く、「票」としてはかなりの数になるので着手されにくいと言うことはあるのだろう。でも、このままではだめになってしまうのは間違いないんだけど。
武田徹
最近、書き込みさぼっているなぁと思っていたのだが、読者の人から「大丈夫ですかぁ」なんてメールを貰ってしまった。家に滞在している時間が短くて、なかなか書けなかった。今ももう外にいて。携帯電話でアクセス。月・火はご存じ社会教育の日で、昨日の水曜日はアマゾンジャパンの取材。ベソスが来ていた記者会見では知り合いにたくさんあった。夜はイタリア人、フランス人の編集者とご飯。今日はまた別件の取材なんだけど、そんなことんなで落ち着いて原稿を書いている時間も取れてなくて、ちょっと進行が遅れ気味。今日の午後は久しぶりに家でじっくり働こうと思っている。ゲラとか電話とかしないといけない相手もたまっているし。本当は今日の夜もスティーブン・レヴィに会える話があったんだけど、それは本当に後髪をひかれつつパス。
しかしレヴィは違うけど、ベソスにしろ、ちょっとまえのリーヌス・トーバルスにしろ、IT絡みの人の来日が続く。そのつど派手なカンファレンスなどがあって、なんだか外タレみたいだ。マクナマラとかアイアコッカとかも来日したらこんな感じだったんだろうか。企業人のスター性が高まっているってこと?
武田徹
書評を頼まれているので『小林よしのり『台湾論』を超えて』を読む。『戦争論・妄想論』の時にも感じたけれど、かなり正確で精密な批判がなされている。訴訟も辞さない漫画家が相手となると批評する側の気分も引き締まるということか。
ただ、常に不公平だと思うのは、こうした小林批判書は小林の著書の数十分の一しか普及しないということだ。たぶん『超えて』の読者はまじめだから批評の宛先になっている『台湾論』そのものを少なくとも目は通すだろう。しかし『台湾論』の読者はその批判書まで目を配ろうとしない。部数の差は批判に傾注する人はどうかの差でもある。フェアな批評活動とアンフェアな流通状況。結果として、いかに精緻な議論を繰り広げてもその言葉が届かない。
これは端的にマンガというメディアの裾野の広さに活字メディアが負けていると言うことだ。小林のキャラの立て方のうまさもあるが、そうした技術でカバーしている領域はそう多くあるまい。要するにマンガだったら読めるけれど、文字は「ちょっと」という層が肥大してしまって、サピオなんかはそういう層に明らかなようにおもねっているわけで言論の世界まで変わってゆく。リテラシーの偏りという思想とか主義とは無関係だったはずことが、実は思想や主義の意味論的なものよりも遙かに重大だったということだ。
「電車の中でマンガを読むこと」への批判が繰り広げられたとき、マンガがイデオロギーの伝達メディアになったときの爆発力、その怖さを予想できた人がいて、その文脈で批判を展開できていたら、その後の展開は少しは変わっていたのだろうか。
さて、ICUは三期制なので早くも今日で一学期目がおしまい。通年制の大学とは隔世の感がある早さだ。学生時代もそういえばずいぶんせわしなかった、そんな記憶がよみがえる。あとは課題の到着を待って採点するだけだ。どんな作品が出てくるか楽しみ。
武田徹
週末は富士山麓へという毎度の「自発的缶ヅメ」パターン。通り道に地元の公立小学校があって、ここは校庭と道路との間に塀どころか金網すらないとても開放的な作り。ここもこのままではやっていけなくなるんだろうか。
今回のケースは容疑者に措置入院を求めた最初の鑑定を信じるなら、宮台いうところの「病気ではないが平気で人を殺せてしまう」脱社会的存在の域をやや越えるようにも思うが、程度の差こそあれ、彼のようなタイプの人が起こす犯罪は今後も続くだろう。脱社会的存在は「万引きするのと同程度の簡単さで人を殺す」す。彼は「万引きしているほどのスリルもなく、人を殺した」のかもしれない。こうした事件の場合、成人男子は抵抗力が強いというごく物理的な理由で、浅草の短大生のような女性とか、今度のように子供が犠牲になる。そうした被害を避けるためには、たとえば学校では警備を厳重にしたりとか、塀や金網を作ったり、地域への開放をやめるとかしかないんだろうか。
宮台も言うように、いかに彼らに人を殺さないでいて貰うか。その方法を考える姿勢が重要だと思うのだ。というのは現時点で具体的に被害を避ける方法はすべて社会の管理強化と重なる方向となる。精神障害者の隔離の強化や、危険予防という名で不特定多数に行使される行動の制御。いたいけな女子供も守るためにという大義名分が、いつのまにか個人の自由を制限するものにすり替わってしまう可能性は少なくないし、実際そうなっているのではないか。それよりも加害者を出さないための原理的な方法、ーー物理的な隔離のような強制策ではなくてーー、を考える姿勢を諦めたくないのだが、絵空事なのか。
帰り道の中央高速で前を走っているクルマのリアウィンドウに茶色い物体が見えた。ああ、犬が窓から顔を出しているんだと最初は思った。犬ってよくそうするでしょ。でも高速道路でまでそれをするかなと思い、どんな犬かと追い越しをかける。近くまでゆくと茶色の首下には衣服が。なんだぬいぐるみだと一瞬思った。ところがそれもまた思い違いで、追い越した瞬間に見ると金髪に染めたヤンキーのにいちゃんが窓から首を出したままで爆睡しているのだった。高速道路で窓から頭を出して寝るか? ふつう。風当たりが結構強いはず。他の乗員は全員窓をしっかり閉めて行儀良く乗っていたので、起こすと暴れるような男なのだろうか。
30年前にマクドナルドを日本に導入した藤田田が「これを食べていればやがて日本人も金髪になるだろう」と発言して当時のメディアから失笑を買った。後に彼自身もあれは比喩的に述べたと弁明している。
しかしその予言は今や当たっている。面白いのはその藤田のコメントをジャナ専で紹介した時だ。学生は「馬鹿なことをいってらー」と笑う。しかし彼らの頭髪は女の子の場合は間違いなく茶髪であり、金髪なのだ。「笑っているけど、それって君たちのことじゃない」というと、突然、不安そうな表情になる。自分たちが自分で編み出したつもりの価値観が実は30年前に予言され、培われてきたアメリカ化、マクドナルド化(週末はリッツァの『マクドナルド化する社会』を読んでいたのだ)の文脈に位置していると「再発見」する驚き。しかし再発見しなければそう思わないという方がぼくにとっては驚きだ。マクドナルド化する社会と脱社会的存在を生み出す社会とは、一部が重なっている(一部は重なっていない。当たり前、ですが)。
武田徹
大阪の小学校で起きた事件はちょっといたたまれないですな。
ぼくは『隔離という病い』で提示した理論モデルは感染症に関する隔離を考える上でほぼ完璧だという自負がある。ただ精神障害者を対象にするモデルではない。自己決定権に依存できない場合は、やはり全く異質のモデルを考えないといけないんだけど、それはまだよくわからない。前に別冊宝島の『精神かがあぶない』で少し調べてみたけどその時点ではお手上げだった。
ただひとつだけ。宮台真司が『動機検索』『病名検索』では何も解決しないし、それに世間が夢中になることでむしろ重大な問題ーーー社会の教育プログラムの根本的な不備などーーを隠蔽してしまう結果になると言う意味で犯罪的だというよく言っているけど、全くその通りだと思う。容疑者が精神異常者かどうかが問題になり、今後、おそらく精神鑑定が行われ、なんらかの診断名がつく。その結果、もし責任能力がなくて不起訴になると、そんなことで被害者が救われるのか云々の少年法論議と同じ発展をするだろう。そして問題の本質がどんどんずれていってしまう。それは被害者の人権を考えているようでいて実はそうじゃない。だってそんな議論を幾らしたって次の犯罪は防げないんだから。実際、少年Aに対する少年法の「過剰庇護」を問題視し、司法が裁けないんだったらオレがとばかりに、週刊誌が顔写真を出したり、個人情報を出したりしたって、豊川の事件やバスジャック事件を防げなかった。結局、第二第三の被害者を出しているんだから。結局人権侵害でしょ。動機を検索したり、制裁を抑止力にする方法では実効性が乏しいことは、実証されているんだから方向を修正しないとダメだ。
たとえば報道に関して言うと、今回は当初から実名報道に終始しているし、だいぶ個人情報を出しちゃっているけど、 今までだったら今回のような精神鑑定マターになることが濃厚な事件だったら実名で報道しなかし、少なくとももう少し配慮しようとしたんじゃないか。それはそれで弱腰でしかなかったから問題なんだけど、逆にさっきいった自分たちがまず社会的制裁を与えるという姿勢が強まっているようなのも気がかりだ。精神障害者の人権に配慮しうる隔離システムが考えられていない段階で、排除、差別、処罰の方向で世論が強まるのは気になる。それについて異議を申し立てるのは、被害者を悼む気持ちと両立すると思う。
武田徹
教える仕事について若い人たちに触れられることは、ぼくにとって本当に良い刺激になるんだけど、辛いこともある。彼らはこれから世の中に出て行くわけだが、希望通りの就職や、留学を果たして行く子ももちろんいるけれど、時として前途を阻まれる人も出る。その報告を聞かなければならないのが辛い。最近では期待していた一人が二度目の司法試験に失敗した。今日も、ある教え子から志望先の出版社には入れなかったという報告を受けた。なんでだー!と思う。わざわざぼくにまで報告なんてしたくなかっただろうに、と彼らの心境を思うと泣ける。
彼らは間違いなく人間的には高級ですよ。確かに大学で東大や京大にストレートに進むような環境に育っては来なかったかもしれない。でも、よく感じる心をもっているし、自分の頭で考えることが出来る。それがなにより重要ではないか。大学時代にもよく自分を鍛えて、そうした優れた資質を延ばしてくれたと思っている。それは内輪に甘い評価ではない自信あり、ですよ。ぼくは仕事柄、弁護士など司法関係者も知っているし、もちろん出版社には知り合いが多い。そうした人々は遙かに人間的に低級なのが大半なのに、なぜ我が教え子達はあっけなく前途を阻まれてしまうのか。世間というのは、どういう評価をしておるのか。
もちろん彼らは失敗を踏み台にしてもっと高いところまで上ってくれると信じているし、それは絶対に有意義な人生にになることをぼくは微塵も疑っていないけど、ぼくは欲張りだから、彼らがもしも最初に望んだ道に進めていたらどんないい仕事をしてくれていたかと思い、惜しくてしょうがない。未練たらしいのは、彼らよりもぼくのほうがよほど重傷かもしれない。しかし、ああ無情というか、不条理というか、運命は残酷というか、なんというか・・・・。と、他にアタるところがないので自分の掲示板で恨み節炸裂。
久しぶりに本日のBGMは『TEAM ROCK』QURULI。『ERA』中村一義。『Harlem Jets』Blanky Jet City
報道目的の取材ならフリーも法案の適用を免除されるという答弁書が出た話はもう書いたが、もしもその答弁書の通りに進むのなら(って小泉は今国会では成立を見送るといっているので、来国会以降のことを言うと鬼が笑うが)、これで話は現時点では全て振り出しに戻ったことになる。放送も新聞も出版のフリーもみな報道である限りはみな平等に個人情報にアクセスできるようになった。良かったじゃないか、平等で。これで新聞は許されているのに、自分たちなんでダメなのー、なんて文句いいっこなしだ(笑)。
で、どうやってアクセスする? やばい取材をすると、そんなの報道じゃないって言われてやっぱり捕まったりするのだろうか。ということで結局、ここもまた振り出しに戻って何も解決していない。報道かどうかをどう制度的に線引きするか(あるいは線引きする機関をどう作るか)。そしてその一方で「これは報道である」と言って通用するだけの信頼をマスメディアがどうやって回復するか。おそらく先に書いた線引き制度や機関は作られないだろうから世論で守られるしかない。sのためには単なる個人情報暴露のための報道だと思われるような活動を止めて行くことが必要だろう。と考えると更に単なる暴露趣味か、社会性のある報道かを線引きして行く制度(かあるいは線引きの基準となる価値観)もマスメディア内で確立して行かないといけないことになる。
だから今国会で法案が成立しないからって、問題が解決したわけではもちろん全くない。今回の情報保護法案はそもそも蜃気楼が自分の保身のために『噂の真相』を押さえられるように改造して国会通過させちゃおうと焦ったもので、管理社会化こそ日本人の幸福だと信じる官僚がそこに相乗りしたという構図だろうけど、そんな評判悪い法案を小泉「人気者で行こう」純一郎は敬遠するだろう。ということで小泉任期中は案外と動きがない可能性は高いと実はぼくは思っている。ただ個人情報が保護されなくていいかといえば全然そんなことなくて、名実共に正しい個人情報保護法がないと、データベースは流用・漏洩されまくるだろう。プレステと携帯電話で二度も個人データを漏洩させたソニーは社長交代ぐらい強いられてもいいのだ。そして個人情報保護法はジャーナリズムと両立するものでなければならない。というわけで保護法とジャーナリズムの輪郭をあらためて定めて行く作業が課題として残された。これからがむしろ正念場ですよ。フリーライター同士諸君や月刊現代、ダカーポ編集部や、その他の人たちは、今まで法案反対集会参加に掛けた以上の情熱で関わる必要がある。
武田徹
月曜日に大学に行ったら講師室のメッセージボックスに封書が。なんだろうと思ったら、今出ているNAVIに書いた『綾波レイ・ソメイヨシノ・日本車』に対する感想というか批判だった。
指摘の第一点は種名、品種名、学名の言葉使いが混乱していると言うこと。それは甘受したい。たとえ学術書ではないにしろ、植物学の世界での使い方がしっかり決まっている以上、そのへんは可能な限り正確を期すべきだったと思う。反省します。
で、問題は第二点なんだけど、その手紙の主は「バラも種の同定のために挿し木で増やされる。その種のバラは交配方法で記述される。そんなバラをイギリス人は愛する。だからソメイヨシノ愛で日本の特殊性を論じるのは無理があるのではないか」という趣旨のことを書いていた。これはどうだろうか。ぼくも安易な日本特殊論は回避したいと思っている方だけど、少なくともイギリス人のの多くが「死んだらキューガーデンのバラになります」なんて遺書に書いてヨーロッパ戦線に出征したりしなかっただろう。騎士道精神とかならもしかしたら関連があるかもしれないが。近代戦争に臨む際の死生観に深く関わる形で担わされた独特のイメージを有するという面で、やはりソメイヨシノは特殊性があったと言わざるをえないのではないか。更に手紙の主は「園芸の知識がある人にはクローニング(挿し木)で増やされる植物が多くあることは常識である」と書き、ぼくが無知ゆえにソメイヨシノを巡る日本文化を特別視しすぎていると苦言を呈するのだが、ぼくの無知はともかくとして、園芸の知識を持ってバラを増やしているイギリス人と、クローニングで増やされていることを知らずに花見の宴に酔いしれる大半の日本人とでは存在様式が違うのは言うまでもない。だいたいイギリス人がいかにバラが好きと言っても、日本のソメイヨシノほどむちゃくちゃに増してもいないでしょ。ソメイヨシノ増殖の背景にはよりデモーニッシュな力を感じませんか。先のイメージ問題も含め、こうした違いに注目すればソメイヨシノ経由での日本文化論というのは可能なように思うし、少なくとも試みるには値するのではないか。
というわけで来週、返事を書こうと思っている内容を先取りして一応論理的に反論してみたが、ぼくがしたかったのは実はこういうことではない。気になることがあって、それはその手紙の文章が冷静さを失っているように思えたことだ。他にもちくちくと嫌みが書いてあって悲しくなった。論争以前に、ああ、ぼくはこの人のご機嫌を損ねたんだなと感じてしまう文面だった。
その手紙の主はぼくが良く知っている人物(ぼくよりかなり年上だけど大学院時代はほぼ同期生で、いまは彼も非常勤で母校に来ている。本人の学び続けたいという意志を客観的な研究や調査の腕力よりも優先させて進学させて貰っていた人も正直いっていたように思う大学院だったけれど、彼は一度社会人になってから戻ってきたくらいで、ガッツもあって、きちんと刑期?を勤め上げてちゃんと博士号を取った。読書量の豊富な教養人でもあり、ぼくは一目置いていた)で、ぼくがここで反論したことぐらい十分に頭で理解できる人なのだ。で、もう少し考えてから反応してくれれば良かったのにと思ってしまう。
あらためて思うけど、なぜソメイヨシノ(と日本)のことになると感情的になっちゃう人が多いんだろう。彼の場合、感情的になっていることへの自覚がないかもしれないが、以前の彼の地道な研究スタイルを知っているぼくとしては、その差に唖然とせざるを得ない。前にこの掲示板でもそれを経験したけど、サクラを書くとこういう感情的な反応があるという事実こそ、日本人の、どうしても払拭しきれない(つまり今や戦時イデオロギーとかと切り離しても成立しうる感性風土のような)歴史的被拘束性を考えたり、本格的な日本特殊論を展開する上での切り口となりうるものがあるようにも思ったりする。
武田徹
個人情報保護法案はフリーのライターも報道目的の場合は適用除外になるとか。政府から答弁書が出たらしい。反対運動の担い手達はやった!という感じだろうが、これで一件落着では全くない。どこまでが報道でも立ち入れない個人情報で、どこから先が報道の立ち入れる情報か、線引きする作業は手つかずに残っている。結局、今まで通りだらしなく個人情報を暴露する報道が蔓延することになるのだとあまりにも不毛だ。
武田徹
>日本の現実社会において差別構造が現出する形態は、やはり日本に特化したものではあるわけ
>で、赤坂さんはその現出した形態そのものを手がかりにされており、そこから共同体における差
>別構造全般に敷衍するかどうかは、また別問題ですよね。
その通りですよね。ここを取り違えると妙な日本特殊論が出てきて、意図するかどうかを越えてナショナリズムに繋がる回路を開いてしまう。で、ぼくはそっちが気になってしまう方なので、一方的に書き過ぎている。ご指摘感謝します。
>そうですか、玉木さんのご本は絶版ですか
正確を期さないと営業妨害になるので、もう少し言葉を足すと『ニュース報道の言語論』は版元品切れ状態(事実上絶版)。『言語としてのニュージャーナリズム』は昨年秋には残部ごく稀少でした。教材として都立大生協で取り寄せたら表紙カバーがない本が来ました(おそらく一度書店に出て返品された分でしょう)。問い合わせしたときの残り部数と、そのときに取り寄せ冊数からして、おそらくそれが最後になったと思います。というわけで数冊ならいざしらず教材としての使用は無理だと判断しました。「絶版」は慣用的に使いますが、正確な状況and出版用語としてはちょっと言い過ぎでしたかね。
武田徹
今日はしらふながら風邪ひいて朦朧としているいちべぇです。武田さん、お返事ありがとうございます。
赤坂さんは、日本の近代の「排除の構造」を考察の対象にしていますが、それを「特殊日本的」だとはされていません。ただ、日本の現実社会において差別構造が現出する形態は、やはり日本に特化したものではあるわけで、赤坂さんはその現出した形態そのものを手がかりにされており、そこから共同体における差別構造全般に敷衍するかどうかは、また別問題ですよね。
もし読まれた方に赤坂さんの真意を誤解される可能性があるかと思ったので念のため補足しておきます。
そうですか、玉木さんのご本は絶版ですか。二年前書店で見かけて買いたいと思いながら
けっきょく手が出ず今日に至ってしまいましたが。。買っておけばよかった。
季節の変わり目ゆえお体にはくれぐれも気をつけてください。。クッシュン!
個人情報保護法とハンセン病訴訟控訴断念の二つの問題をここでは何度も論じてきたんだけど、実はこれは同じ問題系だ。個人情報の場合、自分の個人情報は人にむやみに知られたくないけど、人の個人情報は知りたいという非対称的な構図がある。隔離の問題も同じで、危ない病気の患者は隔離して欲しいと思うけど自分が病気になっても隔離はされたくないと思っている。
こうしたこっちたてればあっちたたずの問題の場合、社会の共生可能性を考慮してバランスを取って行くしかない。個人情報を人に知られたくないという人がいて、個人情報が拡張された私有財産であると考えれば、これはやたらに他人が覗き見たり、利用したりするのは泥棒と同じことになって、誰もがそれをし始めると私有財産を侵されないと言う最低限の権利が侵害されて共生要件に抵触する。というわけで個人情報を知る側の権利を制約しないといけないだろう。で、どこまで制限できるか・・・・。このへんはぼくが『隔離という病』で繰り広げた議論と全く同型的。社会構成員の権利の最大限の尊重のために、最低限の権利の制約を行うというのはロールズの正義論でも必要性が指摘されている方法だ。で、理論的な枠は(少なくともぼくには)明白なのだが、実践方法を考えて行くとやはり難しい。
武田徹
粥川さん
>気になるのは、この法律の影響で取材相手へのゲラ見せが半ば義務のように、もしくは常識のよ
>うになってしまわないかということです。
そうですよね。今までも「」の中は見せろと言われたら拒めないと思ってきたけど、地の文も個人情報部分があれば本人の同意を取る必要が出てくる。となると全文を見せろと言われて拒めるか。現実問題として辛いですよね。
しかしこの場合にもどこまで個人情報かどうかというところが問題ですよ。こちらが見て書いた取材相手の描写は個人情報ではないはずで。本人起源の情報と、ジャーナリスト起源の情報は分けるべき。ましては個人情報とジャーナリストの評価・批評は一線を画すべきです。問題はこの一線をひく作業が非常に難しいこと。でもそれが難しいんだったら、うまくゆく目処が立つまで今回の法案はしばらくペンディングにするというのが妥当だと思うんだけどなぁ。賛成か反対かではなく、議論のための時間を持つべきだというスタンスの運動をした方が大衆の支持は得られないだろうか。
武田徹
武田様、取材旅行に出ていてレスが遅れました。
「粥川さんは科学ジャーナリズムだから個人情報問題との関わりは当然薄いし(ですよね?)」
そうですね、佐野さんよりはずっと薄いと思います。僕のこれまでの仕事だと、医療被害の取材が引っかかるかもしれません。むしろ医師や研究者たちによる個人情報の取り扱いが、僕の取材対象になりますね。
気になるのは、この法律の影響で取材相手へのゲラ見せが半ば義務のように、もしくは常識のようになってしまわないかということです。
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都民カレッジは、とくに沢木耕太郎論など、たいへん興味がありますが……のびのびとレクチャーしてほしいので(笑)。レジメなどをここで特別に無料公開してくれるとありがたいのですが(^^;)。
以前混み埼京線の「痴漢」らしき状況を書きましたが。29日朝刊各紙は「痴漢に厳罰」警視庁、条例改正案を提出へと報じました。警官自らも犯罪者に挙がるこの罪状が更に厳しくなる様子、果たして座視してよいものでしょうか。
「痴漢」は電車内の行為に限ったことではないはずですが、日経の記事を読むと「電車内」のそれのみに言及されていました。
とすれば、混み具合により、筆者も若い頃周囲に若い女性に囲まれ何かしら充血した思い出があります、幸いその時にディパックを前に抱えていたので、誤解をされず済みましたが。これからはこの混み具合を十分勘案して乗らないと、特に若い人や田舎からポットでの人がラッシュで罪を負わされることも多くなるのではないかと危惧します。
そこで運送事業者の定員、乗車率をもっと厳守することも条例に盛り込まないと、今回の警視庁の条例提案としては片手落ちのものではないでしょうか。
そしてこの厳守のために、従来叫ばれ、そして最近声が小さくなっているが、一方的な「時差出勤の御願い」(これはこれで、何故最近声が小さくなったのか?気になる所)に頼るのではなく、勤労者の労働環境充実及び運送手段の拡充を図るべき都市の公共事業がおきあがり、都市に弱い自民党も一息つけるのでは。
ともあれ乗車率を厳しくし、日本人の快適な勤労形態を取り戻そう、まさに人権闘争であると思いますが、如何ですか。特に諸外国に比べ遠隔地通勤を余儀なくされて朝からあの車内放送で「痴漢に遭われた方は最寄の鉄道警察隊にお申し出ください」、痴漢をする人は悪いが、こんな悪趣味な言葉を朝から聞かされている国民は趣味の悪い国民になるかもしれませんよ。
それにしてもサンデー毎日の6月10日号「チカンオヤジからお金まきあげちゃうの」の記事には明日にも起こりそうな現実感があります、幸い今はラッシュ時の電車に乗らなくて良い身分ですが。
ちょっと告知。夏に東京都立大学都民カレッジで出講の予定あり。
内容的には都立大学法学部で隔年開講していた「ジャーナリズムと政治」にほぼ準じます。
つまりジャーナリズム言語の文体分析から、その可能性と限界を示すこと。
日本独特の無署名性報道とアメリカのニュージャーナリズム、沢木耕太郎らルポルタージュ作家の仕事を対象とします。
都立大の授業と異なるのは、テキストにしていた玉木明さんの『ニュース報道の言語論』『言語としてのニュージャーナリズム』が既に絶版で入手できないため使えないこと。ぼくにとって玉木理論は大きいのでもちろん今回も大きく依らせて貰いますが、テキストを読みながらという進め方ができないので、オリジナルで論じなければならない量が増える見込み。そのため途中で息が切れて失速するかもしれません(笑)。
都民カレッジは赤字がかさんで閉講が決まっていますので、殆どこれが最後の授業です。実はぼくの講義も開講するかどうかは応募人数次第で、基準に満たない場合には休講になります。で、予算の乏しい都民カレッジ側は宣伝もそうしてくれないだろうから、このままこっそり内緒にしておいてひっそりと休講にしてしまい、今年の夏はゆっくり休ませて貰おうかなとも思ったのですが、はやくも都の広報を見て「出たい」といってくださった人もいたので、ここに告知しておきます。それでもなお定員不足による休講の可能性はありますがその節はあしからず。あとぼくは相当シャイですから、あまり身近な人は勘弁ね。調子狂ってがたがたになるです。
都民カレッジの受講資格は都内在住か在勤の社会人(学生は不可)。
問い合わせ番号03−3215−4321
科目番号02−007−0037
5/26から受付だそうです。
7/9から毎週月曜夜、7回。
武田徹
前に「週刊SPAの仕事は何でも受けようと心に誓った」と言ったとおり、今回はコメント依頼を受ける。で、結果は・・・・・、今日、掲載誌を送ってくれたけど、うーん、もうちょっとちゃんとまとめてほしかったなぁ。
以下にコメントを引用し、カッコの中に仮にここでの言葉の使い方を生かしつつ、ぼくが言いたかったことを再現するための言葉を足してみる。
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以前SPA!でハンセン病の隔離問題についてルポしたジャーナリストの武田徹氏は、長年、人権侵害が放置されてきた原因について、「ひとつには、隔離医療に燃えていた医療関係者の意見を国が鵜呑みにしすぎていた。また(らい予防法の改正が遅れたことについては予防法が隔離を強制するのと同時に、あくまでも最低中の最低の程度ではあるが、療養所内での衣食住を保証するものであり)患者にとっては生活保護的な側面もあった(。帰る家もないし、療養所を出ても差別偏見に曝され、再就職が難しい元患者にしてみれば、生きるために不本意でもらい予防法が残っていた方がまだましだという考えの人もいた。そのため、らい予防法改正運動が患者・元患者の総意となりにくかった事情があり、国会へのロビー活動も力が集中しにくかった。そうした複雑な事情があったのは事実なので、不作為の責任追求は現実には難しいだろう。また隔離による被害を受けたのは患者本人だけでなく、たとえば家族も隔離がなければ違った人生を歩めていたはずだ)。よって今後は単に厚生労働省と元患者の間だの問題だけでなく、彼らの家族(なども含めて幅広く賠償方法を模索してゆく必要がある。そしてキリスト教などの慈善団体が患者を助けようとしてむしろ隔離を進めていたという事情もある。そうした慈善団体も謝罪する必要がある思うが、そうした善意による被害をどう評価するか。救済のつもりが患者に被害を与えたという構図は、隔離政策の推進者だった光田健輔や神谷美恵子にも多かれ少なかれ適応されうる部分であり)救済団体の(評価の)問題も含めて(善意による被害の責任をどうとるべきかについても)議論しなければいけないと思う」と語る。
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コメント取材してくれた記者の人の名誉のために付け加えると、彼女は編集部に来たばかりで、ぼくの前に書いた記事も「今、コピーを入手して読み始めたところ」と言っていた。しかもこのコメントは日曜日の夜にしている。水曜日発売のスパのグラビアとしては相当急いで作らなければならなかったのだろう。ハンセン病問題の広がりを示す資料も、ぼくの話も十分に咀嚼する時間がなかった事情は考慮してあげたいと思っている。しかし・・・・、自分の手に余ると思ったら、コメント部分だけで良いからゲラなりナマ原稿なりを見せて欲しかったなぁ。急ぎであれば急ぎなりの対応をしたのに。
しかし、どこかにコメントしては、その補完版を掲示板に書くというのがぼくの人生なのか(苦い笑)。自分の手に余ると気づく感覚の鈍い人は、自分の間尺に合わせて問題を処理して更にダメにしてしまうという悪循環的傾向がある。このコメントは『隔離という病』の担当者だったTさんに作って欲しかったなぁ。彼女ならぼくの問題意識にも通暁していたはずだから。
武田徹
『朝日』向け個人情報保護法案原稿を一応送ってから車中の人に。今日はBMWの水素自動車の試乗で筑波の日本自動車研究所まで行く。プレスツアーなので東京駅からバス。業界記者ではないので、この種の取材で、知り合いに会うことは滅多にない。今日も孤独だ。昨日は早稲田のリーガロイヤルで『リナックス革命』の著者ハキネンのインタビューをしたし、なんか久しぶりにジャーナリズムしてる感じ。とはいえ、どちらも書く媒体をもって臨んでいるわけではなく、「取材してよ」「見に来てください」と言われてほいほい出掛けている感じ。まるで隠居老人みたいな仕事スタイルだ。すぐにどこかに書くというわけではないので極めて気軽だ。他の記者の人たちに申し訳ない。
でもこれは過去の自分の反省でもあるが、目先の締め切りに追われていると、どうしても時間の感覚が小刻みになって、問題を短い射程で考えてしまうようになる。エネルギー問題とか、あるいは未来の自動車をどうしてゆくかとか、広い時間と空間のスケールの中で考えるべき問題を扱うとき、記者の忙しさが巡り巡って社会の判断を誤らせる結果になる恐れもあるのではないか。たとえば自動車に関してぼくは中国の近代化の動向が気になり、それを経済・エネルギー資源・環境の複合問題系として論じたいと思っているけど、そうした論調はあまり見かけない。
利根川をさっき渡った。車窓に関東平野が広がる。雨はあがったみたい。試乗の報告はまたいつか。
粥川さん。追加です。
佐野さんや吉田さんが熱心に運動に取り組むのは、おそらく彼ら独特の危機感があるのだと思います。前に図書新聞でやっていた対談を見る限り、事態を論理的に捉えているようには感じられなかったけど、おそらく直感的に感じるものがあるのではないか。それは的確で、もしも今回の法案が今のまま通ったら最も直撃的な被害を受けるのは佐野さんだと思うし、吉田さんも相当仕事がしにくい立場に追い込まれるだろう。粥川さんは科学ジャーナリズムだから個人情報問題との関わりは当然薄いし(ですよね?)、ぼくのスタイルもおそらく法案通過後も維持できると思う。しかし佐野さんたちは違うのだ。
ぼくたちは単なる個人情報暴露趣味と価値有る報道を社会性という言葉で分けようとしているけれど、それは実は簡単ではない。著名人の個人情報は社会性があるという粗っぽい論理でくくられてしまう可能性がある。たとえば立花さんが少年Aの写真を公開することには社会性があると言ったのは、明らかに詭弁で、ぼくはそれこそ社会調査的な手堅い方法で実効性の面から論駁できると思う。14歳の少年の顔写真をみせて、どの程度その記憶が定着しているか。たとえば2年後の本人をどの程度の比率で見分けられるか。それを調査すれば、おそらく写真公開が刹那的な見たがる欲求に単に答えるものでしかなく、同時代の記録を残そうとする佐野さんの『カリスマ』や『巨怪伝』で個人情報を取材して書くする作業と全く異質であることを証明できるとは思う。
しかしそれは相当な手間がかかる作業だ。逆に言うとそこまでの手間をかけないと佐野さんの仕事と高山の仕事の区別はつかない。もちろんぼくはどんなに手間がかかろうとも社会性のある個人情報報道と単なる暴露趣味の線引きをしてゆくべきだと思う。それをしなかったツケが回っているという粥川さんの指摘には全く同感。でも、それはかなり大変で、おそまつきわまりない出版ジャーナリズムの状況を思えば、現実には殆ど実践不可能だろう。講談社系の出版科学研究所とかあるけど、なにしているかまったく不明。となると『カリスマ』や『巨怪伝』のような良質な作品まで今後は読めなくなる可能性が高いのだ。
これは日本のノンフィクションライティングの文化、歴史において相当の損失になる。ここがぼくにとっても悩みところだ。ぼくは自分の仕事として先の「線引き」問題をライフワーク的に引き受けて行きたいとは思うが、短期的な成果はもちろん望めず、だったら今回、賛同者は玉石混淆であれ法案反対が大きなうねりとなって、巡り巡って世論に敏感な小泉が調子に乗って法案を廃案にしてくれた方がいいかと思ってしまうこともある。ぼくが呼びかけ人になったり、結局、皮肉めいた記事しかかけなかったけど、しぶしぶWEB現代のキャンペーンに歩調を合わせたりしているのは、そこに自分でもどうしたらいいかわからない悩みがあるからだ。言行不一致も甚だしいのだけれど。
でも、繰り返すけど、もし数に頼むんだったら新聞やTVを巻き込まないとダメだ。そのあたり、戦略的に行動するんだったら徹底してやるべきだとも思うんだけど、そうもなっていなくて、どうももどかしい。こういう反対運動になるといつも出てくるプロの反対屋みたいな人もいるけど、盗聴法案も阻止できなかったわけで、戦略を立て直すべきではないか。
武田徹
粥川さん。書き込みありがとう。
「誤読を許す文章」という表現はあなたに対してではなく、ぼく自身に対して書いたつもりです。誤読させて申し訳ない。
柳美里は、ぼくも作品に問題があると思う。せっかく小説というスタイルで書くんだったら、モデル問題が絶対に出ないくらい抽象化すべきでしょ。単にへたくそだったということに作る。それをなんであんなに養護するのかぜんぜんわからない。少年Aの時の立花隆の論も、高山に関してもまったく同感。でもそれをあまり正直に指摘するとぼくたちは確実にダカーポ、月刊現代中心の作家・読者共同体から排除されます(笑)。いやですね、こうした仲間への批判を許さない雰囲気って。
しかし情報保護法案反対運動も一枚岩じゃないことを誰かもっと広く伝えてくれないかなー。最近のここでの発言や、粥川さんの日誌にはどんどんリンク張ってほしいと思うんだけど、これはインターネット社会の良識に期待したいところ。
武田徹