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LOG68

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確かに違和感も異論もありますが 投稿者:粥川準二  投稿日: 5月30日(水)12時08分56秒

 武田様、こんにちは。僕ばかりが生意気にも何度も出てきて恐縮です。
 僕が日誌で書いたやりとりは、鈴木さん、斉藤さん、吉田さん、それぞれ文字通りひと言ずつだけで、このやり取りが続くことで議論が深まるかと思ったのに、川田さんの割り込みが入って残念、という意味で書きました。できれば雑誌の対談かなんかでじっくりやってほしいですね。武田さんの引用は、誤読を許しそうな仕方をしてしまいすいません。
 彼らの発言を紹介ばかりしていてもしょうがないので、僕の思ったことを少し書いておきます。呼びかけ人リストと見ると、高山文彦さんの名前があって「おや?」と思いました。僕は、彼が少年犯罪の加害者を実名写真入りの記事にしたことには疑問を持っているので、非常に違和感を感じました。もちろん立花隆が神戸事件のA少年の顔写真公開を支持したことにも。こういう個人情報の公開は、一部の人の一時的な好奇心を満たす以外の意味があるとはどうしても思えないのです。そういう人たちの個人情報保護法反対の論拠って、既得権擁護、自己正当化にしかならないんじゃないかと思います。
 それから、これまでの議論ではあまり出てきていませんが、柳美里のデビュー作『石に泳ぐ魚』がモデルとなった女性から差し止めを訴えられていて、僕も読んでみたのですが、ひどすぎる作品です。知り合いが読めば作中人物のモデルが誰であるかはすぐにわかるし、侮辱的な表現も多い。「私小説」だとか「文学」の名を借りて許される範囲をはるかに越えていると思いました。(すいません、この事例については、僕からは印象批評以上のことを書けません。いずれ出るであろう、石井政之氏の論考をご参照ください。)もし、柳美里がもし呼びかけ人に入ったら……。
 ということで、個人情報の取り扱い方や報道の定義など、フリーどうしでももっと議論するべきであり、だからこそ鈴木さんと吉田さんとのやり取りをじっくりと聞きたかったのだけど、中断してしまって残念。たとえお互い血を流すことになったとしても。政府に決められるなんてまっぴらですが、その議論をしてこなかったツケが来て、足元をすくわれたとも言えます。
 であるとしても、今回の法律が、国民の個人情報をいちばん持っているはずの行政機関への規制を後回しにしてしまったということは許せない、という斉藤さんらの主張には全面的に賛成です。
 付け足しになりますが、僕は本当は、この法律の問題と遺伝子解析研究や疫学研究における個人情報(医学データ含む)問題とをからめて論じてみたいと思っているのですが、時間と機会がありません。いちばん僕らしい主張になると思うので、原稿依頼があるといいのですが……。

こんな議論をしていたらしい1 投稿者:武田徹  投稿日: 5月30日(水)08時58分21秒

昨日は個人情報保護法案反対集会があって呼びかけ人他が集まっていたそうだ。粥川さんがメールで教えてくれた。で、彼の日誌で内容が紹介されていたので、そこから一部分を拝借。全文はそちらを参照してください。
****
 本日(29日)は、神保町の日本教育会館にて「個人情報保護法「バスターズ」5.29大集会」に参加。文字通り、個人情報保護法に反対する集会で、パネラーは佐野眞一、宮崎哲弥、斉藤貴男、宮崎学、日名子暁、吉田司、魚住昭とそうそうたるメンバー(あっ、大月隆寛もいた)。会場にも、『創』の篠田編集長ほか、林克明、久田恵、鈴木邦男などがいた。
 途中、少し興味深いやりとりがあった。会場側にいた鈴木邦男がやや挑発的に「確かに国家がこんな法律をつくろうというのはファシズムだが、これに反対するのも画一的でファシズムではないか。(この国のマスコミは)守るべきメディアだろうか。くだらないメディアではあるが、それでも国家権力が入るのは反対という運動でやるべきはないのか。政治家の下半身スキャンダルを追うなんて、卑怯ではないか。それでもやるなら、落ちるつもりでやらないと。志の低いマスコミでも守らなければならない、というように、もっとリアルなかたちで運動をすべきでないか」(大意)と言った。すると、まず斉藤貴男が「えらそうなことを言ったのは私なんですけど、しかし、政治家の下半身をねらうのは悪いことではない。そういうことから彼らの人格がわかることもある。。きれいな関係ならば読者が判断すればいい。それを追っかけるのは卑劣だとは思わない。政治家や官僚にそんなこと(個人情報保護を名目にした報道規制)をやられる筋合いはない」(大意)と反論、いくつかのやりとりがあった後、さらに吉田司が「エロをやっている連中まで守るのかという議論もあった。でも、佐野(眞一)もエログロも同じなんですよ。メディアでやっているからこの運動をしているわけではなくて、生活文化の中から批判する精神が奪われる、それに気づいた人間が(反対運動を)やっている。エロ記事書いているライターも守るのかといえば、守ります、守るべきですよ。(私たちを)規制外にしてくれ、と言っているわけではない。われわれの批判する自由まで奪われる、文化の問題だよ。(この法律は)料亭政治をやっているやつらを守るだけでしょう」(大意)と鈴木に喰ってかかった。鈴木の言いたいことはすごくわかる。確かに現在のマスメディアには、われわれフリーランスが行なっていることも含めて、ひどいことが多い。会場で配付された資料では、武田徹氏が「出版ジャーナリスムやフリーの仕事にも、いかなる社会性を持たない、単なる暴露趣味の報道が含まれていた」と指摘しているし、僕の隣に座っていた石井政之氏だって報道被害を受けている。さらに「呼びかけ人」のリストを見ると、少年犯罪ルポなどにおける個人情報の扱い方で、とても容認できないノンフィクション作家も名を連ねている。僕を含むフリーの側も襟を正さなければ、とてもではないが、出版業界以外の人々の共感を得る運動にはならないだろう。
 鈴木と吉田のやり取りが面白くなりそうになったところで、衆議院議員の川田悦子氏(薬害エイズの被害者・川田龍平氏の母親)が手を上げて発言、薬害エイズ報道の問題点を指摘したところまではよかったのだが、司法改革制度やハンセン病訴訟など重要なのだがやや論点がはずれる話をずるずると何分も続けて、議論が途絶えてしまった。議論に加わるふりをして、自分の活動について延々と話すなんて政治家だなあ、と思って、シラけてしまった。せっかく重要な議論を聞くことができると思ったのに……。

http://www2.diary.ne.jp/user/91038/


こんな議論をしていたらしい2 投稿者:武田徹  投稿日: 5月30日(水)08時57分09秒

というやりとりがあったらしい。論旨を戦略的に混乱させるという論争の手段もあるが、この場合どうなんだろう。ぼくはエロ記事=社会性がないとは思わない。ここからだけだとよく分からないが、鈴木邦男もそうなんじゃないか(余談だけど、昨日午前中、鈴木さんはジャナ専の講義に佐川一政を連れてきていた。ぼくも自分の講義の合間に見物に行ったけど学生は騒然。彼らにはいい刺激になるだろう。なんだから分からないうちに専門学校に来ちゃったような今のジャナ専の学生に必要なのは、世間のリアルな手触りを感じることであり、鈴木さんはいい教師だと思った)。個人情報を暴露するだけの記事ということと、(エロ記事という意味において)下半身情報を売り物にする記事というのは別物だ(政治家の下半身記事ということであると両者がかぶってくる可能性があるが、その場合には個人情報を暴露するだけでなく。斉藤さんも言うように下半身報道に社会性があるはずだ。引用されているぼくの文書というのも本意はそうなんだけど、やや誤読を許す甘さがある。暴露という言葉の語感が下品すぎちゃって困る。趣味としての暴露と報道としての暴露は違うって言い方だとどうだろう)。
下半身記事とかエロ記事とかがすぐに例に出てくるのは、大文字のジャーナリズムと小文字のジャーナリズムのような上下関係の価値観があって(それもヘンだけど)、佐野さんは世間的に認知しがたい小文字のジャーナリズムも守るべきだと言っているに過ぎない。ぼくはジャーナリズムを階級社会のように見る価値観はあいにく持ち合わせないが、百歩譲って弱いジャーナリズムも一緒に守るということだったらぼくだって絶対にその通りだと思う。そこに異論は全くないが、それと今回の問題とは別次元だろう。
ぼくが指摘している問題は個人情報を暴露すること以外に一切の価値のないジャーナリズムまで守るべきかなのかというその一点であって、それ以上でも以下でもない。そうしたピンポイント的な議論を曇らせるような余計な視点の持ち込みは、愚かさなゆえの混乱であったとしても、ひどくうっとおしい。
しかし・・・ちょっと皮肉を言わせて貰うと、よくこう集会ばっかりやってられるなぁ。自分の仕事は大丈夫なのだろうか。本業の仕事で社会を告発する作業をさせないで、集会で労力を消耗させる、不毛な潰しあいをさせて疲れさせるというのが実は政府当局の望むところだったりして? まぁ、大月は仕事してないからいいとして、斉藤さんなんかは初めから(浅薄ながらも)問題意識を共有している内輪に語りかけるよりも、もっと自分の原稿で直接読者に訴えた方がいいんじゃないか、なぁんてことを少し思ってしまった。
あと新聞とかTVにも法案の本質的な問題性を危惧している人、深い位相において連帯できる相手はいますよ。そういう人を巻き込むような姿勢があるのか。あくまでも出版で、フリーで、というのは(もう何度言ったか分からないけど。。。。)適用除外に出遅れた側の恨み節的な印象を与えないか。
ただ唯一の救いは小泉が愚か者であるが故に部分的に結果オーライの判断を下すことが今回のハンセン病控訴断念でわかったこと。もしかしたら、こうした運動も全く無駄ではなく、法案をボツにして大衆社会を味方にしたいと小泉に思わせる効果はあるかも。
武田徹

さて、載るかな? 投稿者:武田徹  投稿日: 5月29日(火)07時50分51秒

WEB現代から個人情報保護法案反対キャンペーン用寄稿を求められる。こんなものを書いたが果たして載るかな? 独占掲載的な記事ではなく、広く伝えることが目的の意思表明であるという性格上、事前に出しても問題ないと判断し、公開。
*****
 あらかじめ悪かったものが更に悪い方向に変わるーー、そう感じる。個人情報漏洩で社会に被害を与える可能性が最も高いのは警察や自治体だ。が、法案はそれらを相手取らずむしろ報道を縛ろうとした。それでは権力に対する報道のチェック能力が殺がれ、警察や自治体が個人情報を流用・漏洩する動きに歯止めが効かなくなる。しかも報道の中でも新聞・放送をさっさと適用外にした。記者クラブや許認可権で制御できる報道機関のみ取材を認めるのは、報道が権力にすり寄る悪しき構図を今以上に強める結果にもなろう。
 しかし出版社やライター主導の現状の法案反対運動には違和感を感じないでもない。出版系ジャーナリズムやフリーの仕事にも、いかなる社会性を持たない、単なる暴露趣味の報道が含まれていた。ただしこれも、振り返って自らの姿勢を正すことなく反対行動に走らせるほど、今回の法案に対する深い危機感があったということだろう。
武田徹(ジャーナリスト・評論家)

恩讐の彼方に 投稿者:武田徹  投稿日: 5月28日(月)20時54分25秒

『週プレ』はついに送ってこなかった。あんな記事でも「良かった」とか出版関係者によく言われた。出版社も適用除外になったらさっさと法案反対を取りやめる人なのではないかと疑う。そんな人たちのために反対呼びかけ人になったわけではない。個人法案反対の出版ジャ−ナリズムを含め、いかに個人情報保護意識が希薄かは『朝日』に書く予定。
『週プレ』は送ってこなかったが『ナビ』は今日届いた。11年ぶりに原稿を書いた。これはぼくにとってまさに「歴史的?」和解の瞬間なのだが、編集者は誰もそんなことを意識していなかった。
それもそうだろう、前スズキ編集長との諍いを知っている人は現・編集部にはもういないのだ。ぼくはカルチュラルスタディーズが左翼的であるという意味程度には左の人間だと思うが、スズキさんの「左翼」が許せなかった。それはセクトの内部抗争とは違い、生活と思想の対応に誠意が感じられないとでも言おうか、彼には共感しえなかった。
そして自分を許さないぼくをスズキさんも許さず、ぼくはNAVIを離れ、一切の関係を絶った。そして今度は彼がNAVIを離れ、ぼくは自分に課した禁忌を解く。その結果、書いた原稿だったが・・・・浮いておるな。普通の自動車誌では絶対に読めない原稿という自負はあったが、NAVIでもこんなに浮くとは。清水和夫や山川健一を大々的にフィーチャーする雑誌になっていたことに改めに気づく。
武田徹

生きろとは言わん、死なんでくれ 投稿者:武田徹  投稿日: 5月27日(日)23時08分17秒

最も身体の小さかったメダカ四男ジョージ死亡。ついに三匹に。
「生きろとは言わん、死なんでくれ」
というのは、小説版『ユリイカ』の帯コピー。というわけで話は唐突に変わる(笑)けれど、先のの三島賞は青山真治と中原昌也の受賞だそうだ。
この二人の才能は前々から高く評価して来たから、いい選択だったと思った。おそらく新潮社側の意向の強く反映した受賞だったのではないかと推測するが、商業主義の延長上で文壇の政治的排他主義が乗り越えられたのは、毒をもって毒を消す結果になったのではないか。
ただ優れた才能に栄冠が輝いた実力主義を喜んで、しかし、すぐに長い目で見てこれはどう機能するのだろうかと思った。
映画監督と音楽家の受賞は話題を呼び、話題性ほしさだった出版社のあざとさがすぐに知れ渡るだろう。となると三島賞の権威は今後おそらく失墜する。中村宏子受賞後の大宅賞と同じ運命だ。となると作家を鼓舞する装置が確実にひとつ減ることになる。
文学賞なんてものは、頑迷な文壇の古老が、文学の王道を行くスタイルの、しかし、どう考えても時代に乗り遅れた作品に賞を出しているくらいの方がいいのかもしれない。新しい才能に排他的であればあるほど獲ってやるとやる気が出るへそまがりの方が作家に向いているし、実験的な作品にすごみが増す。島田雅彦を育てたのは彼を排除し続けた芥川賞選考委員会だ。保坂和志のスタイルを鍛え上げたのも芥川賞の頭の固さだという逆説がある。しかしそんな芥川も藤沢、花村の頃から存在感の輪郭が相当危うくなっている。ぼくはブンガクは疎いんだけど、全般的に強度がなくなって来た感じはする。ここで芥川賞に続いて、三島賞もとなると問題じゃないか。
ギャル三人に同時受賞させた木村伊兵衛賞も全く同じ構図で、彼女らの受賞(特に長島有理枝)は意味があったと思うが、賞の権威を維持するという意味で今後は大変だろう。
文化を活性化させるのは難しい。いかにうまく仕掛けを作ったつもりでも、常に裏切られる。目先の話題性を求めてお手軽に仕掛けて、うまくゆくはずはなくて、ボディブローがだんだん効いてくる。
武田徹

再び論文を読むリテラシーについて  投稿者:粥川準二  投稿日: 5月27日(日)01時09分20秒

武田様。たびたびで恐縮です。「あと理系の論文の方が平明だというのはおおむね認めますが、そこでも安心してかかりすぎると足をすくわれることもあるのではないか」というご指摘はまったくその通りだと思います。データの解釈やサンプルの選び方などにその論文執筆者の先入観のようなものが知らず知らずに入り込み、その結果の発表後、大論争となったことは、同性愛の遺伝子発見だとか、統計学的調査で黒人はIQが低いとわかったというベストセラー『ベル・カーブ』をめぐる論争など、ごく最近だけを見ても、枚挙にいとまがありません。科学という装いを持ったものには、人はだまされやすいのでやっかいです。
僕自身のことを言えば、たとえば新聞報道で知った科学上の新知見について、原論文を見つけて読んでみると、記事には書かれていない事実----特殊な条件が必要だということや、まだどの部分が不明なのかということなど----を知ることがよくあります。そういうときには、やはり原論文を読む能力(サイエンティフィック・リテラシー!?)を付けておいてよかったなと思います。だから、僕の持っていないリテラシーを持っている人はうらやましいですね。
森健さんの本は見てみます。
カフェについては、ちょっと前の『SPA!』で「カフェ文化」を皮肉った面白い記事がありましたよ。立ち読みなので、号数をお知らせできないのが残念です。僕はスタバで充分ですね。
では。

ジューイッシュカフェ 投稿者:武田徹  投稿日: 5月26日(土)22時35分43秒

今日の日経新聞の夕刊に静岡文化芸術大学の深井晃子さんがカフェについての話を書いている。他にもカフェはちょっとしたブームで本とかムックも出ているし、専門誌もあるそうだ。
で、そんな話題になっているとついつい一言、口を挟みたくなってしまうのがぼくの悪い癖なのだけれど、しばしおつき合いを。
カフェって、時間を豊かに消費し、偶然の出会いや、たわいないおしゃべりから創造性が育まれたりもするもの、そんなプラスのイメージがあるように思う。カフェについて、誰も悪く言わない。有益無害な存在になっているように思う
しかし、その歴史的背景において、日本人がとても疎い、一つの文化性が関わっていることを意識している人はすくないのではないか。
カフェはユダヤ人の文化だった。飲酒を好まないユダヤ人は、バーやパブには行かず、カフェをたまり場にした。カフェといえば(おパリを除けば)ウィーンとか、プラハが本場だが、どちらもユダヤ人が多い町だったことは偶然ではないし、カフカがプラハの王宮裏のカフェで小説のアイディアを練り、ウィーンのカフェではウィトゲンシュタインやフロイトが談論風発して時を過ごし、更にトロツキーまで顔を出したのも、カフェがユダヤ人社会だったという視点で見ればうなづけるだろう。
カフェで豊かに時間を消費し、おしゃべりから鋭気を養う習慣はまずはユダヤ人の習慣だった。そんなこと別に知らなくてもいいんだけど、日本のカフェブームの担い手は、そんな事情を知ったら興ざめするような、外乱に弱いスタイリストが多そうな気がするので、皮肉を込めて、書いてしまうのだ。
数年前、ぼくはウィーンでカフェ三昧して、天才達のセツナの交流を描いた『ウィトゲンシュタインのウィーン』を思い出していた。アドルフ・ロースの傑作、カフェムゼウムはすっかり廃れてていたけど、観光ガイドに載っているようなカフェはリニューアルしてすっかりこぎれいになっていた。けっこうきっちりとご飯も食べられるところがいいですよね。一人旅だとレストランにはいるのもつまらないので、カフェ飯は楽。
ホロコースト以来、ウィーンにはすっかりユダヤ人は減ってしまったようだし、最近は右翼が強くなって更に足が遠のくのだろうが、20世紀文化のかなりの部分がユダヤ人起源であることは今更言うまでもない。ヒットラーに地上から掃討されそうになった彼らは仕返しにナチスごと地球を抹消できる兵器を作った。資本主義システムの確立もユダヤ系金融関係者の貢献が大きいし、メディア産業も、かつてゲッペルズが嫉妬したようにユダヤ系が強い。そしてカフェも、そう。夢も毒も含めてとても20世紀的なもの、なんですね。ユダヤ人のモードもずいぶん多様化してノンジューイッシュ・ジュー(非排他的ユダヤ人)とジューイッシュ・ノンジュー(排他的非ユダヤ人)なんて言い方もあるぐらいになっているけど、確かにデリダなんかはユダヤ人なのに湾岸戦争でイラク支持を表明するなんてアクロバチックなことまでした。逆に他者と向き合ったり、内なる差別意識を自覚もできないままオープンエアのカフェにたたずむ自分たちの美しさに自己陶酔してばかりの日本人はもしかした後者?
武田徹

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 5月26日(土)22時34分26秒

粥川さん
確かに慣れと(その一部分ではあるけれど)用語や概念の背景にどれだけ知識の蓄積があるかということだと思いますよ。学会とか、ある特定の専門分野とかであればあるていど共通に前提とされている知識があって、それはもう論文内には明示されないわけでしょう。で、その知識を持たない人には読みづらい。そういう事情は理系、文系の別なくあると思います。というか、どんな文章でもそうですが。水平的に散文表現された文章の背景に垂直的な知識の体系が控えており、その垂直側がどこまで明示的に書かれているか、その書き方のレベルが読者の記憶に内蔵されている知識レベルと適合するかどうかで、分かり易すぎてがっかりする文章にも、逆に読者の参入障壁を備える文章にもなる。
(まともな)論文の場合にはそれまでの学会の常識にいかに新しい視点や分析を加えられるかが問われますので、垂直系の表現はおのずと最低限となって、それが新規読者の参入障壁になるのだと思います。でも、良くできた論文は垂直系の知識の仕入れ方を丁寧に指示してあるはずで、そこで話題になっている考え方の原典に丁寧に当たってがんばって読みといてゆけば硬直せずにも読めるハズです。
あと理系の論文の方が平明だというのはおおむね認めますが、そこでも安心してかかりすぎると足をすくわれることもあるのではないか。というのも人間とはどんな場合にもレトリックを使ってしまう、使うことから逃れられない動物だと思います。おそらく極めて平明な科学論文であっても、実験や分析の結果だけでなく、どこかにその人の世界観なり価値観がこめられており、それは(理系論文のように直接的に世界観の提示が許されにくい場合は特に)多くの場合、ほのめかしや、語の選び方と言ったレトリカルな表現方法で示されているのではないか。それがわからないと、論文の伝達する内容は理解できても、書き手の人物像までは掌握できないということにもなりそうです。
と、釈迦に説法でしたがレスします。
ところで講談社ブルーバックスで森健(彼も昔から良く知っている若手のライター。音楽系やったり、ネットやったりと、とっちらかっていましたが、ちょっと署名で書けるようになっただけなのにすぐに「最近の若いライターはなっとらん」とか言うことが生き甲斐になっちゃうオバタカズユキのような奢ったところのない、まじめな仕事柄で期待していたんですがーー)がバイオ関係の本を書いたらしい(告知のメールが来ました)けど読みましたか? 粥川さんの専門ですが内容はどうなんだろう。WEB現代連載とか書いていたけど、媒体に足を取られて、安易な結論を惹かされていないかな? 「神への冒涜か?」とか毒々しい見出しが目に浮かんでしまうけど? でも、そもそももう出ているのだろうか?
武田徹

予備知識と「慣れ」の問題か!? 投稿者:粥川準二  投稿日: 5月26日(土)01時46分15秒

武田様。いつもながら丁寧なご教示ありがとうございます。
硬直するのはマズイですか(笑)。僕が気になったのは、英語と日本語の違いと言うより、文系論文と理系論文との違いです。理系の論文というのは、乱暴に言ってしまえば、形式はみんな同じです。だから小見出しを見れば、どこに何が書いてあるかはすぐにわかるし、構文も簡単。専門用語をクリアすれば、文章の理解はそれほど難しくはなく、もともとは文系の僕でも、そこから必要な情報をとることは可能です。
でも……よく考えてみると、単なる予備知識と「慣れ」の問題なのかもしれません。たとえば、僕も5、6年前までは、生化学や遺伝学の原論文なんてまったく読めずに硬直していたし、10年ほど前、背伸びして読んでみようとして挫折した“思想系”本はいまも僕の背中を冷たく見つめていますが(苦笑)、それでも現在は、市野川容孝、小松美彦、金森修、立岩真也あたりであれば、理解し、かつ楽しみながら読むことができるようになっているからです。5、6年前の僕でしたらチンプンカンプンでしょう、きっと。
ということは、宮台氏の『権力の……』も、武田さんの『言述の……』も、いつか硬直せずにスラスラ読めるようになる!?!?!? 
僕がおそれているのは、なんとなく雰囲気で理解したつもりになって読み進めてしまい、その結果、応用方法まで間違えてしまうことです。つまり、理系用語を雰囲気で使ってそれをアラン・ソーカルらに批判された文系学者たちと、逆のことをしてしまうのではないかと。そのことも武田さんはご指摘なされていますよね(3月5日の書き込み)。
なお吉本隆明の『共同幻想論』は過去に何度かチャレンジしたのですが、挫折。いつも途中でわけがわからなくなります。でも、その理由は武田さんの『偽満州国論』を読んで納得してしまいました。
それからノンフィクション作家の一部がこれでもかというほど参考文献を並べるのは、確かに社会科学コンプレックスもあるかもしれませんが、それ以上に読者のためではないでしょうか。実際、僕は本を選ぶとき、参考文献リストの有無を必ず確かめます。情報の元ネタを明かし、その気になればその正否を確認できるようにつくられている本のほうが信用できるし、さらに理解を深めるための読書にも役立つからです。
とりあえず。

書き込みありがとう2 投稿者:武田徹  投稿日: 5月25日(金)10時38分15秒

粥川さんも書き込みありがとう。
宮台の『権力の予期理論』やぼくの『言述の喚起力と意味論』を前にして硬直して貰うのはちょっと困る(笑)。議論のスジを追いながら読めば、読めるように書いてあるはずです。もし英語の論文との違いがあるとしたら、日本語の方が表現システムがとりあえず外見上、複雑なんですよ。漢語とかカナとか欧米語とか自在に使えるでしょ。で、そういうことを前提として攻めて書くと短い情報量の中で結構なことを書き込めるので、書き手ががんばっちゃう結果として読者を硬直させる。広松渉がその極致ですよね。
実は英語でも普通の口語で使う単語と、ラテン語語源の単語、ドイツ語、フランス語から流れ込んだ単語とかではそれなりに起伏がつけられていて、その喚起イメージを織り込んで書いているはずなんですが、それはぼくたちの英語力だとなかなかわからないですね。そのために英語の方が辞書を引けば分かると思われがちな事情もあると思います。理解のレベルも多様ですから、あまり単純に比較はできないでしょう。
ぼくが自分の仕事が論文にならないと書いたのは、引用の精密さとかのレベルが違うという、ごく表層的な視点からでした。イノセとか佐野さんもそうだけど、これでもかってくらい参考文献を巻末に書き散らすノンフィクション作家もいて、彼らはあきらかに社会科学コンプレックスがあると思うけど、参考文献を書くだけでは論文にはならない。言及の範囲とかを正確に書かないと実は話にならない。ただその一方で政治力学で、評論の仕事が論文に化けてしまうこともあるので、そのへんは慎重に評価するべきだと思いますよ。
ぼくは報道はもう少し科学的(もちろん科学ジャーナリズムということではなくて、社会科学的な精密さと、追試可能性をもたせることーー)な方向に修正されるぐらいでバランスが取れるような気もします。前に個人情報保護法案のメモのところにも書いたけど、この問題は案外カバーする領域が広いと思っています。
とりあえず思ったことを。日記は読んでますよ。
武田徹

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 5月25日(金)10時17分28秒

いちべぇさん書き込みありがとう。
赤坂さんは「日本の近代」を論じていますけど、(構成要員の出自が多様であり、一次集団性を失っている)近代社会は多かれ少なかれ、「徴し」を持った人たちの集団(一次集団的な共同体)を差別排除することによってしか、自らのアイデンティが保証されないという構図を持っていると思いますよ。欧米社会でユダヤ人集団が差別排除されたのがその例。確かに日本やドイツのように近代化を後追いする国ほど酷薄な排除がありえたという事情はありますが、あまり特殊日本的な現象だと論じるのは、日本を本質主義的に論じることに繋がって少し問題も感じます。
こうした一次集団を鏡とすることでしか共同体的なつながりを演出できない近代国家の特性については「核」の問題として(どうしてそれが核の問題になるのかは請うご期待!)次の単行本で書こうと思っています。吉本は論理的に書いてくれないからどこに真意があるのかわかりにくいのですが、時々単なる近代主義者なんじゃないかと思う表情を見せることがありますよね。
ルポルタージュとドキュメンタリについては、現状の用語法の混乱が甚だしく、その言葉を使った上で定義活動をして行くのはかなり難しいと思っています。もちろん「自分はこう定義してかかる」と宣言するやり方はありますけど、社会的な用語法との齟齬に常にゆさぶられるでしょう。文体に注目したいというのはおっしゃるとおりで、たとえばトム・ウルフなどのニュージャーナリズム(ーー日本で曖昧に使い回されたニュージャーナリズムという言葉ではなくーー)の三人称の文体による端正なルポと、沢木の『一瞬の夏』の一人称ルポは明らかに文体的に区別がつくし、時制の視点からルポを分類することもできる。こうした人称論、時制論からルポを再定義し、分類して行くことができるようにも思います。この作業は近々に手掛けようと思っています。その結果、分類されたノンフィクション作品群に、どういう名称を振り当てるかですが、ドキュメンタリとかルポルタージュという言葉を引いて再定義して使うと、その道の、思い入れだけで生きているガンコな人たちの感情的反発を食らいそうだという恐れもあります(笑)。
ということで、ぼくもこの種の問題は今後もここでのタダ出しを含め書いて行きますから、読んでくださいね。書き込みもしらふでもどうぞ。
武田徹

論文と評論と報道と 投稿者:粥川準二  投稿日: 5月25日(金)10時05分15秒

武田様。コメントありがとうございます。話題がそれますが、「更に論文の世界にはまた独特のしきたりがありますから、世間に向けて書いているものがそのまま社会学の論文として通用するとは正直言って思えないですね。それは内容の問題である以上に文体的な問題」というのは、興味深いですね。僕が「論文」と聞くと、すぐに想像するのは『サイエンス』とか『ネイチャー』に掲載されている英文の研究論文で、同じ研究者が同じテーマで書いたものでも、たとえば、一般向けの岩波新書は論文とは考えにくいです。文系の場合はどうなのでしょう。柄谷行人は、東浩樹が書いた本を、哲学の博士論文として認めるよう大学側に求めたとか。宮台真司には一般向けに書いた本のほかに、修士論文か博士論文をそのまま出版した本もありましたね。東の『郵便的……』も、宮台の『権力の……』も、武田さんの『メディアとしてのワープロ』の後ろに収録されていた論文も、僕は数行読んだだけで硬直(^^;)。そのわりに『サイエンス』などの理系論文は、専門辞書を引きながらなら読めるし(ポイントを掴むだけならラクです)、『現代思想』や『思想』も生命倫理関係の「論文」ならなんとか読めます。それらに収録された「論文」をまとめた『サイエンス・ウォーズ』(金森修、東京大学出版会)も『弱くある自由へ』(立岩真也、青土社)も、僕は面白く読めたのですが、それらはそれぞれの学会で学術的な「論文」と認められるのでしょうか。文系の場合、「論文」と「評論」の違いがいまいちあいまいなような気が……。やはり、註をきちんとつけるとか、「文体的な問題」にすぎないのでしょうか。これを煎じ詰めて考えると、今度は、僕らジャーナリストが書くものがそれぞれ「報道」なのか、そうでないのかという問題にもたどり着くと思うのですが。
 * * *
「粥川さんは前途あるジャーナリストだからこれからもどんどん仕事をして、ぜひ壁を突破してほしいです」
前途多難ですが、最近は「調べる」ことだけでなく「考える」ことも心がけております。その一環として、1日1コラムを実践中(?)ですので、今度ともよろしくお願いします。

http://www2.diary.ne.jp/user/91038/


雑感 投稿者:いちべぇ  投稿日: 5月24日(木)22時40分50秒

はじめまして。しがないサラリーマンです。酔った勢いで感想など書き込んじゃいますネ。

ハンセン病裁判の件、非常に興味深く読みました。
その昔胸を熱くして読んだ赤坂憲雄『排除の現象学』を思い起こしました。
赤坂氏曰く、日本の近代は、「排除されるものたち」によって支えられてきた・・・。
治療の観点からの排除を直ちに共同体からの排除としてしまう日本の力学、
吉本隆明は近代化が進めばなくなるって言ってませんでしたっけ?(笑)
武田さんのご指摘にある「感情論を廃し、論理的な思考を」という点、
見事にコトの本質を衝いていると感じました。

ところでルポルタージュとドキュメンタリの違い、非常に興味深いです。
武田さんのお考えでは両者を弁別するカギは「文体」にあるということでしょうか。
これからどのように思索が展開されるか、楽しみです。
かつて本多勝一さんがルポルタージュと(日本的)ノンフィクションとの違いを
力説しておられたことを思い起こします。
この件に限らず、武田さんの書き込みは往年の本多さんを彷彿とされるような
律儀さがありますね。

ところで、この掲示板と同じく最近注目しているのが、勝谷誠彦さんの日記です。
田中長野知事に関する記述をはじめ、取り上げる話題が武田さんと微妙に
リンクしていて、お立場・信条の違いが如実に感じられたり、意外に共通した
見解を表明しておられたり、ニヤニヤしながら読み比べています。

これからも刺激的な書き込みを期待しております。
でも無料で読んじゃっていいのかなぁ。これもネットの恩恵ですかね。

ハンセン病訴訟控訴せず続 投稿者:武田徹  投稿日: 5月24日(木)17時54分59秒

昨夜、ハンセン病訴訟控訴せずのニュースを流した後、久米宏がこんなことを言った。「政府と国会には責任があるということになったわけですが、ぼくはマスメディアも相当の責任があると思いますよ。ニュースステーションの歴史の中でハンセン病を取り上げたのは97年に、らい予防法廃止一年後という番組を作ったときだけ、たった一度なんですね」。
こうしたコメントが出たことを久米はさすがだと評価すべきなのか、風向きを察して先回りする調子の良さだと考えるべきなのかわからない。ただ久米の言ったことはまぐれもない事実である。
ぼくが『隔離という病』を書こうとしていた95年ー96年に、取材をスムーズに進めるためにも、取材費の確保のためにもなんとしても発表雑誌媒体がほしかった。そこで、堅いテーマなので言論誌の編集者に話をしたのだ。月刊文芸春秋のIは会議に掛けてくれたあと、話し辛そうにんな報告をした。「デスクが今更ハンセン病でもないだろうにって言うんですよ」。
彼の場合は板挟みになったという意味で不幸だったが、文芸春秋編集部では「ハンセン病=今更扱うべきではない」問題という認識だったことは当時のぼくにとって意外だった。そして、もっと印象的な対応をしたのは月刊中央公論のSだ。「そんな読者が気分が悪くなるような記事は書かない方がいいですよ」。Sとは旧知の仲で今でもつきあいがあるが、このときのことを思い出すとぼくは今でも口の中に苦い味が広がる。民主主義がハンセン病者には機能しなかったと前に書いたが、その原因を作ってきたのは明らかにメディア側の理解不足が関わっている。
そんな中、連載の場を用意してくれたのは、おちゃらけでふざけた雑誌だったお思われているに違いない週刊SPAだったことは特筆に値する。ぼくはこの時、SPAの仕事だったらこれから何でも受けようと誓った。
読者が不快感を感じるような記事は載せない。そんな悪しき大衆迎合主義はむしろ言論誌に蔓延している。自分たちの側から問題を提起して、読者を振り向かせて世論を作って行こうとする能動的な姿勢はなく、あくまでも読者サマサマ、歓心を買える範囲でしか誌面を作らない。そうした雑誌作りは読者と編集者と書き手を、売り言葉と買い言葉が一致する、ひとつの共同体としてゆく。その共同体の中だけで物事を考え、その中で互いに誉め合って、自分たちこそが言論を担っているというプライドを抱いて奢って行く。そんな状況がハンセン病への注目を喚起する機会をいかにスポイルして来たたか、考えて見ろと言ってもその言葉は届くまい。ただこの掲示板の読者には日本を代表する二大言論誌がそんなていたらくであったことは知って置いてほしい。
SPA編集者が敏感に反応できたのはストリートレベルでの取材を通じて読者、書き手、編集者共同体のうちに閉じることなく、常に外に出る機会を持っていたからだろう。町中には差別もあれば、排除もある。不条理なそんな状況をリアルに見ていれば、ハンセン病問題の所在も、それが孕む問題の普遍性も、およそ想像がつくというものだ。
取材が大事なのは、記事のためだけでなく、うちに閉じることなく、常に胸襟を開いて世界と向き合おうとするメンタリティを維持するためでもある。そんなことを改めて感じる。ハンセン病元患者が不幸だったのは。そんな真の意味での「取材者」が日本のマスメディアには多くはいなかったことだ。
武田徹

粥川さん。書き込みサンキュー 投稿者:武田徹  投稿日: 5月23日(水)23時18分06秒

粥川さん。書き込み順が前後していてごめんなさい。
多分ぼくはあなたよりかなりいい加減な人間であり、定義をしっかりさせるべきだなんて言いつつも、いざ自分のことになると、実際には肩書きも編集者とかに「ぼく、何に見えますか?」なんて聞いて適当につけさせて、それが致命的に間違っていなければ「まぁいいか」と思ってしまうところがあります(週プレみたいに事実に反すると困るし、トレンド評論家ってのが前にあって、それはさすがにダサダサなのでちょっとと思った(笑))。「ジャーナリストにして、社会学研究者」も、内部事情を明かすと編集者につけてもらったもので「これしかない」と自分で納得した結果ではないです。というわけで自負といわれると、ちょっと照れる。更に論文の世界にはまた独特のしきたりがありますから、世間に向けて書いているものがそのまま社会学の論文として通用するとは正直言って思えないですね。それは内容の問題である以上に文体的な問題。
ただ、そうした俗っぽい個人的ゲンジツはさておき、前にここに書いたことは空論ではなく、定義、特に報道の領域の限界設定に向けて、もう少し努力するべきだったとは思います。それはたぶんジャーナリズム業界にとって、多くの場合、辛い作業になると思うんですよ。報道とはなんのためにあるかとかいう議論から、公共への奉仕とかいうことが出てきて、今の報道の現状が相当反省させられる結果になる。で、なんとなく問題にせずに回避されてきたんだと思うけど、それが今にいたって大きな障害になっている。たとえば個人情報暴露趣味と良質のジャーナリズムがいっしょくたに扱われてしまうわけだし、2チャンネルなんかでも、報道と呼ぶべき情報提供は今でもあると思うんだけど、それも個人情報暴露とか誹謗中傷でしなかいものと線引き出来ず、せっかくここまで育ったネットワーク社会の中から新しい報道の可能性を育てられない。
ただ、報道かどうかを政府が決めず、裁判所が決めるとしても、そう事態が改善されるわけではない。その場合、問題は現状の司法システムですね。「報道かスキャンダリズムか」の裁判は「わいせつか芸術か」を争う裁判のようなものになるんだろうけど、今の日本の司法システムだと個人は圧倒的に不利でしょ。たぶんこれからは出版社が裁判費用を出してくれるなんてことはなくなって、訴えられたら記者とかライターは孤独のうちに戦わなければならなくなる。そこで、もう少し対等に争える状態に近づけられるような司法改革があればいんだけど、現状のままだとよほどボランティアで踏ん張ってくれる弁護士にでも恵まれない限り、裁判所で報道かどうかを決めるとしても、記者個人が不当に報われない結果になることが大いに予想される。それじゃ困るんですよ。
そうである以上、やはりジャーナリズム側が、自分たちの努力で、報道とはどのようなものかをある程度は見定め、多少の痛みがあろうとも、ある種の方向付けを自分たち自身に施すべきだったと思います。それは実は個人情報保護法のようなもので縛られることを避ける自助努力でもあったのだけど、それが理解されず、きちんとやってこなかった。。
ぼくは個人情報保護法案もそうだし、ハンセン病でもそうだけど、問題を深く考えれば考えるほど、ジャーナリズムのゆがみがそれらの問題を複雑にしていることが気になるし、そうしたゆがみがどうも今後も治されることはないのではと悲観的に思ってしまう。で、これから自分はどこで、どうやって仕事をして行くべきなのかと考え込んでしまいます。粥川さんは前途あるジャーナリストだからこれからもどんどん仕事をして、ぜひ壁を突破してほしいです。
武田徹 しかし、今日は書き込みがやたら多いな。締め切りは大丈夫か(>ぼく)。

ハンセン病控訴せずコメント 投稿者:武田徹  投稿日: 5月23日(水)22時04分22秒

↓というわけで再びコメント取材を受ける(共同通信、産経新聞)
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ハンセン病者を隔離に追いやったのは、彼らの外見の変形を恐れ、自らの感染を恐怖した大衆社会の「感情」である。そして原告団と面談し、突如、控訴取りやめの結論に至った小泉総理もまた元患者の「哀れ」に反応した「感情」的判断を下したように思える。
感情による隔離から、感情による賠償へ。そこで一貫して欠けているのは論理的な思考だ。ハンセン病がどのような感染経路で感染するのか。感染率と発病率はどのように相関するか。隔離による効果はどの程度あるか・・・・、そうした純粋に医療的な思考がなされていれば、彼らをむやみに隔離療養所に追いやることはなかった。感染力の微弱さ、感染から発病に至る率の低さ、隔離せずとも衛生状態の改善だけで患者発生率は減少することが正確に把握されていれば隔離不要の結論が惹かれていたはずだ。しかしそうは至らず、患者を社会から隔離することへと近代日本は邁進する。
そして再び感情による国家賠償へ。そこで欠落したのは(社会からの排除としての隔離ではなく)医療行為としての隔離はどのような方法であれば許容できるか、社会防衛ののため、本人への集中的な医療行為として隔離されるケースで患者の人権侵害への補償はどうなされれば良かったかを考える姿勢である。心痛にさいなまれ、十把一からげに謝ってしまうことで、隔離を巡る各論への展開の機会が失われた。患者達の喜びは十分に理解できるが、その点に関してだけは苦言を呈しておきたい。

なぜそうした指摘が必要かといえば、たとえば結核の状況を考えると良い。結核はいま相当危険な状態になっている。耐性菌が増えて、治らなくなっているのだ。特効薬だったリファンピシンを含む三種の薬剤に耐性を持った菌だともはや治療はかなり望みが薄くなる。
なぜ耐性菌が増えたか。中途半端な抗生物質治療で辞めてしまう患者が多いせいだ。そうした患者が体内で耐性菌を作り上げ、健康な人に二次感染させる。その場合、本人も不幸な帰結に至るが、二次感染された人もまた治療の効果が出ないまま死去する場合が多い。
そうした被害を出さないためには、しっかりと治療し、耐性菌を生み出さないこと、耐性菌による結核にかかった患者から他に感染させないようにする必要がある。そこで現状ではやはり隔離という医療方法を採用しないとならない事情がある。
しかしmいかに本人のため、社会防衛のためという大義名分があっても隔離によって行動を制約することは人権侵害に当たる。そこで、侵害された権利をどう賠償すれば本人に隔離を納得させられるかが問われる。そのための賠償方法を策定する議論を行うべきなのだが、「ハンセン病裁判控訴せず」はそうした議論に繋がって行く回路を持たない。そこが問題だと思う。
武田徹

ジャーナリストか? ノンフィクション作家か? 投稿者:粥川準二  投稿日: 5月23日(水)20時27分34秒

 武田様、5月22日の書き込み「ルポルタージュとドキュメンタリ」の件は、肩書き問題と併せてめんどうですね。武田さんの肩書きはジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家というところでしょうか。僕の場合は、フリーライター、ジャーナリスト、科学ジャーナリスト、などです。ルポライターというのも数回ありました。いまのところ経験ありませんが、「***作家」という肩書きには若干抵抗があります。作品になると、分類は困難ですよね。少なくとも沢木耕太郎はジャーナリストではなく、その作品がジャーナリズムに位置づけられずのは無理があり、「報道」でもないでしょう(^^;)。肩書きに関しては、結局、編集者も本人も気分で名づけているのが現状だと思います。武田さんが最近、「ジャーナリストにして社会学研究者」と名乗っているのは、「自分の作品は、ジャーナリズムに位置づけられるのと同時に社会学の論文でもある」という自負からでしょうか。報道という言葉を広義にとらえると、武田さんの作品は(たぶん僕の作品も)その範疇に入るでしょう、きっと。しかし、狭義にとらえると?
「ちょっとやぶへびかもしれないが、そうした定義作業をきちんとしてこなかったから、ここに来て誰が報道か報道でないかを決めるかでもめたりもするのではないか(>個人情報保護法案反対運動)」
 定義作業は必要でしょうか? グレーゾーンを無くすために……。確かにそれを誰もやってこなかったツケがきているかもしれませんね。この件について、佐野眞一さんや斉藤貴男さんは、5月10日の公開討論会における内閣府個人情報保護担当室室長の発言をもとに、当該記事が報道か報道でないかを決めるのは政府だということを批判していますが、5月18日、出版フリーランサーの労組「出版ネッツ」有志といっしょに、内閣府個人情報保護担当室室長補佐と面会したところ、そうではなく、それを決めるのはあくまでも裁判所であり、この法律では手を出せない、40条と55条で2重に抜いてある、という説明でした。佐野さんや斉藤さんが依拠している室長の発言とは若干温度が異なりました。正直、僕にはよくわからなっくなってしまいました。その模様はWeb現代で報告されています(私も写っています)。ご参考までに。

http://kodansha.cplaza.ne.jp/broadcast/special/2001_05_23_2/index.html


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