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ハンセン病控訴せず 投稿者:武田徹 投稿日:
5月23日(水)18時18分20秒
今、ハンセン病訴訟、控訴せずのニュース速報がテロップで出た(TBS)。
うーん、どう考えるべきか。たとえばこんな事実も知ってほしい。らい予防法の改正が遅れたのは同法が生活保護法としての機能もしていたという側面がある。
確かに隔離を強制するひどい法律なんだけど、この法律のおかげで患者は療養所の中で衣食住が保証されていた。帰る故郷をなくし、差別も残っている社会に戻れても、就職の可能性はとぼしく、ならばひどい法律であってもそれに甘んじて生活保護の実質を求めた方がよいと考える元患者がいたことも事実で、ハンセン病の世界でも方に対する姿勢は一枚岩ではなかった。
たとえば、そうした事情をどう織り込んで今後、いかに賠償して行くのか。らい予防法の違法性の主張を一貫して行い、国家賠償を求めた原告だけに賠償するだけでいいのか。そうした問題が出る。控訴した上で救済案をさぐるという政府の当初案はそうした複雑性に対応できる可能性はあったのだが。
武田徹
週プレ記事 投稿者:武田徹 投稿日:
5月23日(水)13時17分47秒
斉藤貴男さんとの対談の載った週プレを読む。といってもまだ送って貰っていないので本屋で立ち読み。で、なんと申しましょうか複雑な気分になる。
前にもここに書いたようにこの記事の対談本文はゲラを見ている。司会をしていた編集者のセリフだったのに、構成上、ぼくところの送り込まれているものがあったが、その中であまりに自分の主張と解離している部分は幾つか修正した。その作業はたぶん時間的にたいへんだったはうだが雑誌には反映していた。気になったのはぼくの肩書きだ。曖昧さがあって決定的な間違いではないんだけど、ぼくが今でもICUの助手をしながら、マスコミで原稿を書いているようにも読める文章になっている。改めて言うまでもないですけど、ぼくと母校との関わりは非常勤の講師としてだけ、です、現在は。
これはたぶん対談中の雑談で学生の話をしたので、それが印象に残った編集者or構成者が、ぼくの紹介記事でかつては大学勤めだったとかいう記述を読んで、今でも同じ立場だろうと誤解してしまい、そう書いたのではないかと思うが、どうだろうか。あんまりこっちのこと知らなそうだな、大丈夫かなと、話をしながら心配にはなっていたんだけど、やっぱこんな結果になったのは残念ですね。
ちょっと考えてみてくれればわかるけど、この年齢でまだ助手ってことはかなりへんな境遇ですよ。ぼくの同僚でも依然として母校にしがみついていて、助手だか事務手伝いだかわからないで大学に残っている人もいないではないけど、そういうお情けで居残らして貰っている立場か、あるいはかつての東大の宇井さんのように大学当局から昇進を阻まれても本人の意地で残るというケース以外は考えにくい。
で、もし誤解していたのだとしたら、ちょっと確かめてくれれば良かったと思うし、WEBにもプロフィールはあるんだし(そのことは構成作家の人には伝えたんだけどなぁ)調べれば分かると思う。
これは細かいことだけど、象徴しているものもあると思う。マスメディア自身が個人情報の扱いに対して非常に鈍感なのだ。悪意があるわけではないが、要するにそれが本人にとって大事な情報だという認識が薄いから平気で間違っちゃう。個人情報保護法案反対と言う前に、「まず自分たちのそうした姿勢を直すべきだ(この部分、ゴチックにしたいところですね)」ということだ。
ぼく自身がマスメディアを通じて表現をしている以上、こういうことを言うのは本当にもどかしいんだけど、この問題は相当にねじれた構造を持っている。田中康夫の脱記者クラブ宣言を新聞やTVの記者クラブ系報道機関が書かない、報じないのと同じように、雑誌ジャーナリズムも自分たちに批判が巡り巡って来るような文脈での個人情報問題提起は報じない。自分達の在り方を直そうとは一切しないで、反対の声だけ上げると言うのでは本当に情けないと思う。なんとかしてほしいよ、ったく。マスメディアはもはや期待せず、こうしてオンラインでしこしこやるしかないのかってヤケな気分にもなる。
武田徹
ハンセン病問題コメント 投稿者:武田徹 投稿日:
5月23日(水)09時47分37秒
ハンセン病訴訟について共同通信にコメント。
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ハンセン病の問題は一貫して社会の問題であり、医療の問題ではなかった(1907年の最初の「らい予防法」制定の時点で既に患者数は減少していた。つまり隔離をしなければ感染被害が増大するような状況ではなかった)。隔離とは医療方法と言うより、彼らの存在を社会から見えないものにすることを目的としていた。
そうした構図は戦後も引き継がれている。基本的人権の概念を強調する戦後憲法下でハンセン病患者が人権を侵害されたまま放置されたのは、一般社会から彼らの存在が見えなかったことが大きい。民主主義は基本的に数の論理であり、少数者の声が生かされるためには、少数者の不遇を想像する能力、悲惨を知ろうとする意欲が社会に必要だが、ハンセン病者は一貫して見えない存在だったので、彼らの声を代弁して法制度を変えて行こうとする動きが社会的な大きさに育つことはなかった。民主主義のメカニズムが発動する以前の段階で彼らは見捨てられていたと言えよう。
そう考えるとハンセン病者を報道しなかったメディアの責任は大きい。今になって盛んに報道しているが、薬害エイズの轍を踏んで、ハンセン病者対厚生労働省という構図でしか報道できていないのは根本的に間違っている。日本社会の質を断罪すべきだ。
たとえばメディアもそうだし、実は宗教団体なども隔離政策の推進に積極的に協力してきた経緯がある。西本願寺はハンセン病隔離を進めたことを謝罪したが、これは相対的に極めて高く評価される。ミッショントゥレプロシーとして「善意」で隔離に協力したキリスト教団体も謝罪すべきだが、おそらく彼らにいたっては自分たちがハンセン病者隔離政策に協力した歴史をもはや覚えてもいないだろう。隔離し、目の前から消えればもはやその存在に思いも寄らない。なんかブキミだからもう見たくないと思ったら、視野の外、意識の外においやってしまう。いわば精神医学的に言えば解離の機構で処理してしまう。そうした日本社会の本質的な冷酷さのようなものが最大の問題だ。
この問題を論じる場合、感情的な姿勢を避けることが重要だろう。今のハンセン病者の「再発見」は、こんなカワイソウな人がいたんだという文脈で行われており、厚生労働省はヒドイことをすると思われている。しかしそうした感情的かつ限局的な理解で済ませるべきでなく、何が起きたことかを論理を尽くして知り、問題の本当の所在を知るべきだろう。社会的隔離と医療的隔離の違いを知るべきだし、ハンセン病者隔離の歴史が近代日本(戦時日本に限られない)の成立とシンクロしたものである事情を知るべきである。裁判についてもカワイソウだから控訴すべきではないという感情論は禁物だ。法的に問題の所在を洗い出すことが出来るのであれば、控訴審に持ち込まれることにもそれなりの意味はあると思う。正当な法的な扱いを受けられることは、彼らの基本的人権に関わる。もちろんハンセン病患者の心境を思えば複雑だが。
武田徹
ルポルタージュとドキュメンタリ 投稿者:武田徹 投稿日:
5月22日(火)13時32分16秒
前にも書いたけれど、ぼくは最近、ルポルタージュライティングをモデルにした調査・表現技術を分析し、実践的経験させる授業を担当している。ぼくの話し方が下手で混乱の極みに至る(笑)せいか、最近はおとなしめの授業が多いなかで、ここは質問をしてくる学生が多い。機能もノンフィクションとルポルタージュとドキュメンタリはどこが違うのかと質問された。
テキストに使っている佐藤郁哉『フィールドワーク』の中にそうした言葉がほぼ無定義で出てくるため。この本は文化人類学、都市社会学の入門書なのでノンフィクション業界の言葉使いには深く立ち入らず使っている事情があってもよいが問題は業界当事者の我々だ。
こう尋ねられてみると、プロの我々がいかに社会を混乱させているのかと改めて思う。言葉としてはルポルタージュ、ノンフィクション、ドキュメンタリと確かに複数を使い分けているが、実質的な区別が決まっているわけではない。気分とか癖で言葉を選んでいるのに過ぎないというのがもっとも実情に近い説明だろう。あるいは肩書きとして新鮮で格好良いからドキュメンタリストと名乗ったり、ノンフィクション作家ではなく、あえてルポルタージュ作家と名乗ってみたり・・・。
しかし、他でもない、言葉の仕事をしている人間が言葉に対してこうしたあまりにもだらしないのはなぜなんだろう。
この前亡くなった井田真木子さんと鼎談で同席したとき、井田さんはノンフィクションという英語はないと言った。同席していた野村進も岩上安身も深く頷いていたので知らなかったのかもしれないが、これは間違い。英語でもノンフィクションという言葉は使う。出版界の慣習としてフィクション(文芸書)とそれ以外(ノンフィクション)という区別はする(日本だって流通ではこうした区分けをしている)。ただ日本のいわゆるノンフィクションライターたちが思いいれたっぷりに使っている「ノンフィクション」が、英語にうまく対応しないと言うだけだろう。この辺りの事情にも言葉のプロであれば自覚的であるべきだったのではないか。福田和也はなぜか井田さんをやたら高く評価しているが、ぼくは和製英語の使用を自虐的な文脈で使う紋切り型と、しかもその前提が間違っているという点で井田さんはあまり高級な人ではないと思った。
で、言葉は一人の力では変えられないので、ぼくがいかに奮闘してもいかんともしがたい面があるのはもちろん承知しているが、個人的にはルポとドキュメンタリの違いなど、少しずつ定義を確立してゆけないかと思っている。文体的な特徴に注目し、慣用を考慮しながら定義を改めて与え直す形で分類して行けば、いわゆるノンフィクション界の交通整理が少しは出来るのではないかと思っている。ちょっとやぶへびかもしれないが、そうした定義作業をきちんとしてこなかったから、ここに来て誰が報道か報道でないかを決めるかでもめたりもするのではないか(>個人情報保護法案反対運動)。
武田徹
作る会教科書から少し離れて 投稿者:武田徹 投稿日:
5月21日(月)07時24分59秒
岩淵功一『トランスナショナル・ジャパン』岩波書店より
加藤(周一)はその論文(『雑種文化論』)のなかで、明治以来の日本文化に関する言説が、西洋化による近代化を徹底すべしという議論と、その反動としての伝統的日本文化への回帰というノスタルジックな議論の、二つの極端な「純粋」文化論に引き裂かれていることを批判した。そして、日常生活に見られる日本文化が雑種的であるという事実を肯定的に捉えなおすことで、より現実に即した第三の道を見出そうと試みたのである。加藤の議論は、当時の自民族中心主義的な日本文化論への批判になりえたという点で評価されるべきである。しかし、ヨシモト(Yoshimoto
Mitsuhiro "Images of Empire"
Routlidge)が指摘したように、加藤は一見相対する二つの純粋文化論が、実は双方ともナショナリスティックな衝動に駆られている点で一致していることを見過ごしていた。そして二つの純粋文化論が実はナショナリズムというコインの裏表であったことを暴かずに二項対立するものとして捉えてしまったのは、加藤の文化概念もまたそれらの純粋文化論と同じように本質主義的な前提(日本は本質的に特殊なものとして存在するという考える立場)に基づいていたことと無関係ではない。(*かっこ内は引用者註)
加藤周一ですら足を取られる本質主義的な言説。日本近代ナショナリズムを批判する難しさを感じる。
↓↓↓↓ 投稿者:武田徹 投稿日:
5月20日(日)01時55分54秒
澤村さま
中間試験課題の締め切りも近づいているのに、こんな書き込みしてて大丈夫? なんてちょっと意地悪なセリフを言わせて貰いつつ・・・・。あなたとぼくの違いは公共性という概念の広さだと思います。たとえば
>学生と企業とのベストマッチを実現する上で、各企業に最低限求められるのは、学生と他社とのコミュニケーション・チャンスを確保することだからです。採用活動の早期化は、「拘束」をしない限り、学生と他社との接触を阻害することにはなりません。
というけど、それは学生と大学の接触は阻害するわけでしょ? 実際、かなりの程度、授業にでられないわけだし。この社会には企業と学生しか存在しないわけではないんですよ、言うまでもないことですけど。ぼくは公共性という概念を、企業共同体もあるし、大学共同体もあるし、更に学生が個々に所属している共同体もあるだろうし、という広がりで考えているけど、あなたは企業と学生との関係の域内で公共性ということを考えていませんか? だから内定縛りをしないとか、そういうことが決定的に重要だという論理が出てくるのだろうけど、ぼくはそれはあまり重視しません。それ以前に企業が採用活動という「美名」の下に学生の生活を独占的に縛っているということ自体が問題だと思います。そこまで厳しい主張をするとなかなか支持を得られない状況なのであまり表立っては言いませんが、実は結構怒っています。殆どの場合たった4年しかない学生の貴重な時間を企業が奪っていることの残酷さについて社会全体(大学関係者、とくに就職関係事務の人とか、学生自身も含めてーー)がどうも鈍感になっているんじゃないかな。確かにICUみたいな大学は例外的で、ほかの大学の学生はかなり弛緩した学生生活を送っているわけで、だったら就職活動でシビアな経験をしたほうがいいって見方も出て来るんだろうけど、弛緩している学生がいくら多数派だとはいえ、そちらを安易に基準として貰っちゃ困る。
で、あなたは前者後者と論点を二つに分けているけれど、確かに今までのぼくの主張は後者に重心があった。でも、前者に関してもぼくは公共性という概念を広く捉える大局的な視点から言えば正しいと思いますよ。
その論理から言えば、
>採用の長期化は、むしろコミュニケーション・チャンスを増やしています。
というのもぼくは企業と学生にしか社会に存在しないんだったらいいことだと思うけど、そうじゃないわけで反対だな。コミュニケーションチャンスを増したいんだったら、学生生活への侵襲を最低限にすべきで、理想的には卒業後、企業側のコスト負担で行うべきじゃないかな。そうすると行き先が決まらないまま、卒業して行く不安を学生が持つことになるという批判もあるだろうけど、この種の不安は社会通念的なものでしょ。みんな就職しないまま卒業するのが当たり前になったら過剰に不安には思わないですよ。日本は豊かになったんだから、少しは社会が無収入、無所属状態の卒業生を抱えるコストを負担して、卒業後就職の習慣を確立させ、きみのいうような評価の視点も含めて人材採用のマッチング精度を高めることで、困難な未来に備えて行く攻めを行うというのもいいんじゃないかと思います。ま、無理だろうけど、こうして考えて行くとあなたの言う「前者」と「後者」は繋がっている。
最後に授業のことだけど、ぼくの授業で職業意識って高まりますか? そもそも職業意識ってなんだろう。社会人気分を少し先取りする授業ってこと? だとしたら、それについて思うのは、以前もっとジャーナリズム論に特化した授業をある大学でやっていた時に、ぼくがあまりに日本のジャーナリズムに批判的だったので、4年生で既に新聞社に就職内定していた学生が「これからどうやって新聞社に勤めればいいのかすっかり自信がなくなりました」と感想を述べていました。自信までなくさせたとしたらぼくは申し訳なかったと思うけど、問題意識をもって働き始められたということは少なくとも彼にとってもマイナスでないと思うし、彼と同じように自分の職業について疑える健全な批評精神を持って働く人が増えればジャーナリズムも良い方に変わると思う。そんなちょっと屈折した回路を経て貢献できる授業になっている場合はあると思うけど、常識的に言うと就職準備的な授業ではないですよね。むしろ逆(笑)。 今度の冬学期からICUには朝日新聞の人が来ます。ぼくは個人的には知らない人だけどその経歴からいって、もし聴講したら、ジャーナリズム観のあまりの違いにたぶん驚くと思うよ。
武田徹
(無題) 投稿者:澤村圭一 投稿日: 5月19日(土)23時54分40秒
丁寧な回答、ありがとうございます。特にジャーナリズムの公共性についての言及は、考えさせられるところが多かったです。なるほどなるほどと思いながら、読ませていただきました。
先生が述べられている、採用活動の早期化と、ジャーナリズムの公共性の欠如の関係は、以下の二つに分けられると思います。
「採用活動を他社に先駆けて行うことそのものが、公共性に反する」
「採用活動を早期化することで、人材評価の精度が下がり、結果として公共性がやせる」
先生が強く主張されているポイントは後者で、私もこれには賛成です。私が異を唱えたかったのは前者の主張でした。しかし、下の書き込みを丹念に読むと、先生が前者のように考えているかどうかも、いまいち判断しかねます・・・。実際のところは、どうなんでしょう?
先生の回答を聞く前に、採用活動の早期化そのものが企業の公共性とどう関係するのかについて、私の意見を述べてしまいます。先走ってすいません。先生の問題意識に関わらない場合は、聞き流してください。
就職協定なき現在、採用活動を前倒しして行うことは公共性に反しないと私は考えます。というのも、学生と企業とのベストマッチを実現する上で、各企業に最低限求められるのは、学生と他社とのコミュニケーション・チャンスを確保することだからです。採用活動の早期化は、「拘束」をしない限り、学生と他社との接触を阻害することにはなりません。日程のバッティングを避けやすくなるということを考えれば、(早期化の結果引き起こされる)採用の長期化は、むしろコミュニケーション・チャンスを増やしています。
採用活動の早期化が学生の利益に反するとしたら、自己分析や企業分析が十分でないままに、目の前のエントリーシート作成や面接に追われることになる、ということでしょう。これは、中学・高校・大学で、将来の職業に対して学生を動機付けるような教育が行われていないことに根本的な原因があります。学生は、このような現状を理解した上で、主体的な態度で、早いうちから自らの志望を考えておく必要があるでしょう。
ここで、大学は学生の職業意識を高めるような教育をするべきか、という新たな論点が浮かび上がります。簡単に私見を述べれば、「職業訓練校になってはいけないが、学生の職業意識を高める、もしくはそれに応えるようなサービスを提供するべき」というのが私の意見です。武田先生のルポルタージュの授業は、そういうサービスの一環という一面をもっていると思います。
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