
澤村さま
ぼくのほうも少し補足。
会社共同体の利益追求が、時として社会の公共的な場における共生を邪魔する場合がある。そんな事情をぼくは前に「ライスカレーとカレーライスは同じだが、会社と社会はえらい違う」と書き出すエッセーに書いたことがある(cf.『e+b』創刊キャンペーン原稿。本文をここにも再掲載しようと思ってファイルを探したけど壊れていたので再録できなかった。ごめん)。
環境問題のように地球規模で対処すべき問題がクローズアップされるようになると会社といえども社会性を意識しないとならなくなる。ただ、そうはいっても全ての会社が社会的であることを社是とするようにはならないだろう。そんなに現実は甘くない。それはよくわかっている。
ただその中でジャーナリズムは、複数の共同体を横断した情報提供をする可能性があるわけで、会社共同体を超える共生の論理を提供することが求められる度合いの高い業態だと思う。実際にはジャーナリズムの出力が限られた社会の範囲しかカバーできず、その読者共同体の歓心を買うために、彼らの利害とそのジャーナリズム機関の価値観が近いものになってしまうことは多いのだが、それは残念なことだとぼくは思っている。
そうした公共性の側にシフトすべき業態であるからこそジャーナリズム機関は自らの会社共同体的体質に常に批判的であるべきではないか。採用活動に関しても、よその会社が4月に採用するからうちも、あるいはよその会社よりも早く良い人材が押さえたいからいち早く2月に、というように、他の会社共同体の行動と同質の、あるいはそれを更に先鋭化させた価値観で動くのはどうかなと思ってしまう。そうした会社共同体的発想を越える企業理念を提示して、それに応えられる人に門戸を開く。その際、当然のことながら優れた調査表現力と、したたかな批判精神を持った人材を採用し、公共性の側に開いた議論を提示してゆける体制を取る。そんなことをぼくは望んでしまう。これははっきりいって現実では「ないものねだり」に近いだろう。記者クラブ制度すら改革できなかったのだから。そしてジャーナリズム系の企業によっては自らの会社共同体体質に反旗を翻すことのない、優れた調査表現力と、したたかな批判精神を持たない人材をあえて採っているのではないかと疑いたくなるようなケースすらある。しかし、そのままでジャーナリズムの公共性をやせさせるままにまかせて良いのかーー、というのが「卒論をみてからなぜ採用しない?」という疑問の背景にあった違和感です。そして欲を言えば、ジャーナリズム機関だけでなく、一般企業にも会社共同体敵対質を越えて、公共の論理を意識できる人材を採るように少しずつ変わっていってほしい。そうした方向性が今の前倒し傾向をひたすらすすめている中から出てくるかと言えばちょと難しいのではないか。ここでもぼくは卒論で実力を示す以前に人材を見切ってしまい、優れた調査表現力と、したたかな批判精神を持つ人材を本気で採ろうとしていないのではないかと疑われることに問題のひとつの所在をみたいと思う。
以上、ずいぶんくどくどと説明させて貰ったけど、こんなわけでぼくは「採用活動の前倒しをひとつの社会傾向の象徴として批判することはできる」と思うよ。「安易」でいいとはもちろん思わないけど。
武田徹
澤村さま。
ほぼ同時に書き込んでいたようで結果として書き込み順が交差してしまいましたが、下でぼくが書いたのは、ぼく自身の前の書き込みに対するレスです。で、これがあなたの書き込みへのレス。って、読めばわかりますが。
さーて、
>その指摘が当てはまるのは、例に挙げられた民放のTV地上波キー局だけでしょう。
それで十分ではないですか? 前倒し傾向を助長しているが、他でもない、ジャーナリズム機関だということで、ぼくの主張は維持されると思いますよ。まぁ、あなたのいいたいことも分かるので意固地になるつもりはないですけど。
>企業は、学業の成果だけを見て学生を評価するのではありません。ビジネスの現場で成果を生み>出す能力を持っているかどうかを見て判断するのです。確かに、卒論は、学生の能力を測るうえ>で一つの強力な判断材料にはなりますが、それ以外にも判断材料はたくさんあります。例えば、>面接での受け答えによって、対人関係能力・論理的思考能力が(ある程度)顕わになります。極>端な話、卒論に全く力を入れていない学生でも、企業に入って成果を出すことのできる行動特性>を身に付けていれば、企業にとっては優秀な人材と判断されます。それは正当なことではないの>でしょうか。
まず、あなたの書き方を見ていると、人材の優秀さを「企業にとって」という範囲で考えられると信じているところが気になります。これはぼくがこれから書くことと実は深いところで関係している問題でもあります。
確かにあなたが言うような人材評価方法もありえるでしょう。しかし、その評価をなぜ卒論を書かせてからしないのか。人を評価しようとしたら判断材料は多い方がとりあえずはいいわけですよ。殆どの学生にとって初めて長い論文を書く機会になる卒論の出来を見て、射程の長い問題意識を持てるか、多角的な分析力があるかなどを評価に加えた方が、評価の精度があがることは論理的に言えば当然ですよね。ぼくは、たとえ新入社員が入ってくるのが数ヶ月遅れてもそっちの方が企業のためになると思います。そうしないのは企業の採用が、本当のところで実力主義ではないのではないかと思うわけです。
特にジャーナリズム機関の場合は、射程の長い問題意識を持ち、しなやかでしたたかな批評精神に溢れて、構造的な文章表現力を持った人を採用できた方が、その仕事内容からして望ましいことは誰でも想像できますよね。で、そうした力があるかどうかは、面接や採用活動中に書かせた小論文で判定するのはやはり難しく、卒論ぐらいの長さの文章を見た方が絶対に正確に評価できると思う。それをしないで青田刈りした結果、力不足の記者が増えてしまい、(自分たちのジャーナリズム活動を含めた)権力の監視などジャーナリズムが公共的であるために果たすべき責務を果たせなくなったら本末転倒ではないでしょうか。そう考えて行くと採用活動のあり方とジャーナリズムの公共性の問題はやはり繋がっているとは言えないでしょうか。
武田徹
先ほどの「少なくとも採用活動を取り上げて、ジャーナリズムの公共性の欠如を批判することはできない」という私の主張には、「就職協定無き現在」という但し書きがつきます。かつて、民放各局が就職協定を無視して採用活動を行っているさまが、フジテレビ製作の映画「就職戦線異状なし」で描かれたことがありました。NHKだけは協定を遵守していたようですが、ジャーナリズムに公共性が欠如しているというのは確かなようです。
つまり、私が先ほどの書き込みで言いたかったのは、「ジャーナリズムに公共性は存在する」ということではなくて、「採用活動の前倒しは安易に批判することはできない」ということだったのです。誤解を生みやすい言い方をしてしまったので、ここで補足させていただきます。
自己レスですが、下の主張は週刊文春でも繰り広げられてましたね。
でもねぇ、週刊誌もまた週刊誌共同体があるからなぁ。自分たちも記者クラブが使えるように
なったら沈黙するようじゃ話にならない。おいつけ、おいこせのキャッチアップ戦略から逃れられないようでは、男並になれば女の問題はすべて解決すると考える田嶋陽子並である。
週プレの斉藤さんのとの対談はゲラをみたけど、なんと申しましょうか・・・・、ぼくの主張と言うよりも集英社というか、週プレ編集部の主張にシフトしているような気もするが・・・。ま、読者のレベルがぼくにはわかっていないので、ここまで直接的かつ整理した立場にしないといかんのかと納得するしかない。ノージックの主張と村上直之の指摘が盛り込まれただけでもよしとすべきかもしれない。これはたぶん来週火曜発売号掲載。
講談社からも個人情報保護法関係の依頼が留守番電話に来ていた。既得権を守りたいだけのメディアや個人情報暴露型ジャーナリストと歩調を合わせるのは、とりあえず問題法案の不成立を求めるという目的に限っての協調と大人っぽく考えようとしてもやはり抵抗が残る。どうしよう。
武田徹
はじめて書き込みをさせていただきます。現在、国際基督教大学で武田先生のご指導を受けている澤村と申します。下記で武田先生が触れられている「企業の採用活動・学生の就職活動」は、6月に提出する私のルポルタージュのテーマと関わってくるところなので、いくつか意見を述べさせていただきます。
【企業の採用活動の時期について】
> 青田刈り、前倒し傾向に拍車をかけているのは今やジャーナリズムなのである。
その指摘が当てはまるのは、例に挙げられた民放のTV地上波キー局だけでしょう。その他のジャーナリズム、すなわち新聞・出版の各企業は、他業種の企業とほぼ同じ時期(4〜5月)に採用活動を行っています。
【企業による学生の評価について】
> 卒論も書いていないその時点では絶対に学生を正当に評価なんか出来ないはずだ
企業は、学業の成果だけを見て学生を評価するのではありません。ビジネスの現場で成果を生み出す能力を持っているかどうかを見て判断するのです。確かに、卒論は、学生の能力を測るうえで一つの強力な判断材料にはなりますが、それ以外にも判断材料はたくさんあります。例えば、面接での受け答えによって、対人関係能力・論理的思考能力が(ある程度)顕わになります。極端な話、卒論に全く力を入れていない学生でも、企業に入って成果を出すことのできる行動特性を身に付けていれば、企業にとっては優秀な人材と判断されます。それは正当なことではないのでしょうか。
【採用活動の前倒しと公共性の欠如の関係について】
就職・採用というのは学生にとっても企業にとっても重大なイベントであるにも関わらず、双方のコミュニケーションの機会というのはとても限られています。学生と企業のベストマッチを実現するためには、コミュニケーション機会の増大こそが求められます(そして、それは必ずしも、学生と大学のコミュニケーション機会の減少を意味しません。例えば、つきたい職種が明確になることで、学問に対する意欲が増すケースがあります)。
このような状況で批判されるべきは、「採用活動の前倒し」をする企業ではなく、「大学名による差別」「内定者の拘束」といった、学生と企業のコミュニケーションを阻害するような動きをする企業でしょう。ちなみにジャーナリズムは、総合商社と並んで、内定者を拘束しない例外的な業種として知られてきました。したがって、少なくとも採用活動を取り上げて、ジャーナリズムの公共性の欠如を批判することはできないと私は考えます。
以上です。
田中康夫が「脱ダム」に続いて「脱記者クラブ」も敢行するという記事は、黙殺こそされなかったけれど(TVが報道したか未確認。少なくとも新聞は)あんまり大きな扱いではなかったように思う。「面積」の少なさはジャーナリズム側の苦々しい気持ちの現れか。
情報保護法案もそうだけど、ジャーナリズムの側に自分たちの利益を守れれば公共性はどうでもいいと思ってしまう強い共同体(=仲間)意識があるうちは、日本社会は公共性への配慮を育み得ないと思う。
たとえば心ある大学教育関係者はみんな感じていると思うけど、就職活動がいかに今の大学を荒廃させているか。実力主義を言うんだったら学生もしっかり実力主義で採用してほしいが、そのためには卒論とかしっかり書かせてそれで評価すべきだ。にもかかわらず今は就職活動は3年の2月ぐらいから始まって、4年の前半は殆どそれで忙殺されてしまう。そんな生活を強いられてはまともな卒論なんか書けないし、それが学生から腰を据えて物事を考える機会を奪うことになって、結局、実力を損なうことにすら繋がるだろう。実力主義どころか実力を軽視し、むしろ実力を培うことをじゃまする。全てが逆立ちしている。
で、問題はジャーナリズムだ。地上波キー局なんか2−3月で内定出しちゃうようだ。青田刈り、前倒し傾向に拍車をかけているのは今やジャーナリズムなのである。
ぼくが学生の頃は就職協定があって、一般企業での実体は殆ど有名無実化はしていたが、それでもジャーナリズムは青田刈りを批判していた手前、やせ我慢で協定を守っていた。で、それが最後の最後で歯止めになっていた。しかし今や逆で、ジャーナリズムが率先して就職活動の前倒しをしている。情けないと思う。自分のところが他より先に良い学生を押さえたいと焦り(卒論も書いていないその時点では絶対に学生を正当に評価なんか出来ないはずだが、頭に血が上ってしまうと判断力も失って)もはや公共性なんて忘れ去ってしまう。官でもなく、私でもない、公の論理によって立つポジションが相対的に最も取り易い業態であり、またそうして第三者性を担って行くことが社会にとって必要でもあるジャーナリズムまでがそうなっちゃったらもはや歯止めがないのである。
で、記者クラブ。前にも書いたけど記者クラブ制は処刑広報機能を担ったジャーナリズムの当初のかたちの名残でもある。そんなものやめちまえと言いたいがそれを妨げるのもジャーナリズムの共同体意識だ。記者クラブでの取材は既得権であり、記者クラブに所属できない雑誌報道メディアとの差別化をはかるためにも必要なのだ。
田中康夫はジャーナリズムのそんな共同体なぁなぁ主義を突っつき始めた。で、ジャーナリズムはどう出るか。話題の田中にしては小さい記事の扱いから、更に反田中にと回る軌跡を辿らないか、気になるところ。
武田徹
うちは夫婦とも留守が多いのでペットが飼えなかったが、最近、事情が変わった。連休からメダカがいる。水を入れた水槽に水草を浮かし、オブジェにしようとしたのだが、せっかくだからメダカでも泳がせたらということになった。で、15匹ぐらい飼ってきたのだけれど翌日には10匹死んだ。じゃこのようになっている姿を見て、水道水のカルキを消す薬品や酸素を発生する薬品とかも一緒に買ってきて使ったのにーと、がっかりする。ちゃんとカルキ抜いても、水が変わるとダメなのだそうだ。
で、4匹だけ残ったのだが、これはなんとか生き続けている。大量に死んでから水をボルビックにしたせいか。輸入飲料用水の中を泳ぐとは贅沢な話で、メダカのくせに結構お金がかかる。ちなみにエビアンは硬水度が高すぎてダメだとか。ペリエはもっとダメだろう。
4匹だけ残った時点で名前をつけた。スコット、バージル、アラン・・・・。なんてことはないサンダバード国際救助隊の兄弟名だ。大きい順のはずなんだけど、動き回るのでどれがどの大きさのやつかなんてわからない。模様もないので特徴もないので個体識別ができておらず、どれがスコットで、どれがバージルかは不明。名前と「顔」の一致はそのうちクリアしたい課題だ。
たとえメダカでも生き物が家にいるというのはなんとなく心が和む。帰ると水槽の中を覗いてみる。猫や犬みたいに慣れるわけではないので、人の気配を感じると水草の下に隠れてしまうのだがそれでもなんだかほっとする。いとうせいこうの『ボタニカルライフ』では植物相手に屍累々たる状況が描かれていたが、うちはどうなるんだろう。水槽横の古新聞置き場には雅子妃懐妊の報が載った朝日が置いてあった。何か変わるんだろうか。
武田徹
パソコンのプリンターが不調で、印刷用紙が全面的に黒くなってしまう。そんな症状が出始めてずいぶんになるが、意を決して製造元の沖データのサポートに電話をしたら、珍しいケースなので本体を見せてくれないかとの返事。修理に出すべきかどうか迷って、判断を仰ぐべく電話したのだが、予想以上に慎重で丁寧な対応を望まれた。
そこでウィークエンドに宅急便で送っておいたのだが、週明けの今日になって早速電話が来た。作動させてみたが問題がないとのこと。ということは、中のトナーが散らばるので取り外して送れと言うことだったので、うちに残したドランムカートリッジの故障ではないかと推測される。これは消耗品なので寿命なのかもしれない(交換時期は5万枚印刷後とからしいのだが、そんなに印刷したのかちょっと疑問。でも使い方が荒いのは事実なので)。
で、そうした対応は全然問題ないのだが、気になったのはユーザーサポートがあまりにもおどおどしていることだった。送ったプリンタは本体ケースに傷が入っていたらしいのだが、それは自分たちのせいではないとしつこいくらい繰り返す。動作上問題があるのかと聞くと無関係だとの返事。なら別に気にしないからいいですよと返事すると心からほっとしたような感じだった。
おそらくユーザーからのクレームを恐れている。言質を取られて脅迫されたりするのを警戒している。これはたぶんインターネット上でクレーム告発が盛んになされるようになってからの変化だろう。何を言い出されるか分からない、だからびくびくしてしまう。ユーザーサポートが自分たちでチェックをすることを望んだのも、安易に部品交換を勧めて、もし違う原因だったりするとどういうクレームを付けられるかわからないから無難な方法を選んだのだろう。
確かに企業の方が立場が強く、ユーザーがただ泣き寝入りをしていた時代が健全だったとは思えない。しかしホームページで告発が出来るようになった結果、クレームを付けられないようにということが最大限優先される目標となって企業が消費者と接するようになってしまうのもどこかおかしい。語り口のあまりの慎重さから、やりとりをテープで記録していたのではないかとも疑ってしまう。
結局、プリンターはそのまま送り返されることになった。インクカートリッジは新品を中四日で取り寄せた。宅急便でプリンタが行き来した時間とコストだけが無駄になった。ネットの普及などによって今、本当にユーザーオリエンテッドな社会が生まれつつあるのか、首を傾げてしまう。
武田徹
個人情報保護法案について思うことがある。1月末の朝日新聞に『ノンフィクション作家はなぜフィクションを書くか』を寄稿した。吉岡忍が『月のナイフ』を、沢木耕太郎が『血の味』を書いたタイミングを踏まえた内容ではあったが、問題意識はより普遍的な「取材の困難」を巡るものだったつもりだ。
ノンフィクションがノンフィクションである以上、取材相手の言葉やその個人情報を正確に踏まえざるを得ない。脚色はノンフィクションでは許されないからだ。建前上は。しかし、もしもその言葉が作品表現にふさわしいものではない場合にはどうするか。たとえば表現のプロではない取材相手の言葉を引いたために表現が生硬になるケースがある。そして特に少年相手の取材ではその言葉に振り回されかねない。そうした問題から逃れるために、ノンフィクションライターは最近フィクションの方法を選び始めているのではないかと書いた。実際、沢木、吉岡の2作とも少年モノなのだ。
そこで一つ書かんかったことがある。それは取材相手の言葉を引くという方法がどこから導かれたかということだ。ノンフィクションに取材は当然と思われがちだが、実はそれはジャーナリズムの歴史が培ったものだと言わざるを得ない。先の掲示板書き込みでも触れたが、村上直之は近代ジャーナリズムが犯罪者の個人情報報道として誕生したことを詳細な調査で示した。玉木明はジャーナリズムが公開処刑が廃止された後に、処刑の公開昨日を受け持つもの、被害者の個人情報を公開して情報的に制裁を与える能力を政府から与えられたというのがジャーナリズムの出自だと指摘した。ジャーナリズムが個人情報を報道する背景にはそうした歴史的経緯があったことは留意に値する。
そしてノンフィクションルポルタージュもそうしたジャーナリズムの報道方法を受け継いでいる。犯罪者だけを対象にしていないだけで、多くのルポルタージュが個人情報を公開する。それはルポルタージュが犯罪報道をモデルにしていたからに他ならない。
そして個人情報保護法案にうろたえるのはそのせいなのだ。ルポルタージュもまたジャーナリズムのモデルに従い個人情報を商品としてきたからだ。犯罪者の個人情報は警察情報としてお墨付きで出るから良いが、出版社やルポライターはそれと別のルートで取材するので個人情報保護法案に抵触する。
しかし原理的に考えたいのだ。そんな個人情報や個人の言動を引いて示すしかノンフィクションの方法はないのか。つまりジャーナリズムの正統モデル以外の可能性をノンフィクションが示せれば個人情報保護法案に抵触しないノンフィクションもありえるのではないか。これは法案自体の問題性を許容するのではない。しかし他の取材可能を担保した上で法案に接することができるようになれば、ライターの職業共同体が個人情報を取材するという職業慣習上の既得権を守るために法案を反対していると思われる懸念はだいぶ減るだろう。それが運動を展開してゆく上で必要だと思うのだ。
先の『朝日新聞』では取材相手の言葉に依存しない方法でノンフィクションを蘇生させることは出来ないかと指摘した。事実は取材相手のパースナルヒストリーや自ら語る言葉の中にだけあるのではない。そこを相手取ることで、言葉に翻弄されるノンフィクションの限界を超えることが出来ないかと訴えた。それに対して吉岡忍が反論したが、それは期待を大きく裏切る物だった。朝日新聞紙上で「武田さん」と呼びかける奇妙な文体が目を引いたが内容的には「自分はノンフィクションを捨てていないから安心しなさい」というだけに終始するもの。彼が『M/世界の憂鬱な最先端』を書いていることぐらいは知っている。馬鹿じゃないのかと思った。出版流通コードでノンフィクションと分類されるものを書いているからと言って、それがぼくの記事の反論になるのか。ノンフィクションの方法に対する危機感に対するコメントは無かった。犯罪者報道として誕生したジャーナリズムの歴史に素朴に従属する価値観でしかノンフィクションを考えられないことが問題であり、それが今回の個人情報保護法案問題にも影響を及ぼしていると思うのだが、こんなことを考えるのはぼくだけなのか。
いわゆるハンセン病訴訟で、手始めに熊本地裁で元患者勝訴のニュースが昨日からよく流れている。
確かに前進だと思う。知っている元患者が喜びの表情でTVカメラの前で話しているのを見るのは感動的だ。彼らが人生の最後になってほんのわずかだが報われたという感覚を味わえただろうことは本当に良かったと思う。
ただ注意したいのはこれは「一歩」前進だということだ。不要な隔離に対して国家賠償が求められたのだが、その判決は隔離医療そのものの位置づけに踏み込んでいない。
そもそも隔離医療そのものが人権侵害なのだ。しかしだからといって感染源を隔離しないと二次感染が起きる場合がある。その場合、隔離される患者は社会防衛という公共性へ奉仕しているわけだから、そこで制約される権利は公共的に補償されてしかるべきだ。その補償を感染被害から守られた国民が税として負担するのは論理的に当然である。つまり隔離された時点で賠償されるべきであり、またその賠償を前提として隔離に同意できるような医療制度を確立すべきなのだ。
賠償は不要な隔離に対して、ではなく、要不要を問わず隔離そのものに対してなされるべきである。そうした総合的な視点が、「不要な隔離をされたカワイソウな患者が国と戦って勝った」という解釈から引き出せるかどうかは疑問である。今回の勝訴を、次の一歩につなげられるか、第二第三の感染症隔離被害者を出さないかどうかは、まさにそこにかかっている。
さてさて、ちょっと意地悪なことを書くが、今、ぜひ意見を聞きたいのは高山文彦(神谷美恵子にも聞きたいが、天国にいるので)である。如才ない彼のことだから「元患者とともにこの喜びをわかちあいたい」「無念のうちに死んでいった患者の霊前に報告したい」とかいうんだろうけど(推測です、もちろん)、少なくとも確かに認めておくべきは、虐げられ、カワイソウな患者を描くことで商品性を持ってきた彼の作風は、カワイソウな患者がいなくなったら成立しなくなる。もしもこの判決の後であれば、『火花』は成立しなかったし、あんなに話題にもならなかったはずだ。で、これからはハンセン病はもうメシのたねにならないから他のカワイソウなやつを探すってか? いつも鼻を利かせて虐げられた人を捜して書くだけの仕事なのか、ルポルタージュっていうのは? で、君たちはそんな暴露趣味の作品を読みたいだけなのか>読者諸君。そんな心性(だけ)でノンフィクションの世界が成り立っているから今回の個人情報保護法案のような下司なものを投げつけられるんじゃないの(って、ちょっとやぶへびですね)。
武田徹