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書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 5月11日(金)23時34分20秒

ありがとう。ぎりぎり間に合いました。どうもありがとう。記憶の外部化としてデータベース化される個人情報というのはまたやっかいですよね。今回の法案はそこそも当初はそっちを相手にしていたんですよね? ぼくはそこはかなり強い保護規定を作るべきだと思います。そうしたデータベース化される可能性もあるので、メディアは将来の安全のためにこいつの顔を覚えておこうとか安易に言い出して、顔写真公開に踏み切るべきではないと思う。
とりいそぎ。ちょっと考えます。
ぼくが抵抗感があるのは、出版社やフリーのライターも個人情報保護法の適用除外対象になればいいかという点ですね。問題をそこに限局させて考えると大きな問題を見逃すことになる。もっとも大量に個人情報データベースを持っているのは行政であって、そこからの流出を防ぐような法にすべき。そうした問題をチェックするという公共的な目的のためにジャーナリズムが監視能力を発揮する上で、個人情報を公開できる力を担保すべきではないかということ。
武田徹

個人情報保護と生体認証技術 投稿者:粥川準二  投稿日: 5月11日(金)11時39分20秒

 武田様、急いで書きます。下記の対談用メモの論点について、ほとんど異論はないのですが、一点だけ。
 少年犯罪の犯人の顔写真をメディアで公開することの無意味さについては賛成なのですが、「実際に一枚の写真程度でどれくらい用心ができるのか疑わしい。スチール写真の顔の記憶は脆弱なものだ」という判断には、あくまでも雑誌の一般読者にとっては、という補足が必要だと思います。というのは、僕などより斉藤さんのほうがよっぽど詳しいのですが、最近のバイオメトリクス(生体認証)技術の進展は、結構早いからです。ある雑誌の仕事でオムロンを取材したのですが、同社が徘徊老人管理等を目的にして商品化している顔認識装置は、顔の50点ほどの「特徴点」を捕らえることができ、髪型や太った、やせたなど、特徴点を取ることのできる範囲の変化であれば影響はなく、顔の傾き(横顔)や表情の変化にも強いので、本人が意識しないで顔認識することが可能だそうです。(オムロンの製品ではないと思いますが)イギリスのニューアムという町には、顔認識カメラが200台設置されているそうです。歌舞伎町にも、50台の監視カメラが備え付けられているそうですが、普通のカメラに加えて顔認識技術が導入されるのは時間の問題でしょう。「面割りの経験者はみな写真からの人物判定の難しさを指摘する」とありますが、技術はその限界を克服します。そして日本でいちばん顔の情報を持っているのは、免許証を押さえている警察ですよね。僕はこの点からも、今回の個人情報保護法案が公的機関を規制対象外としていること(第2条3)が問題だと思っています。(それから現状の技術で雑誌や新聞に掲載されるような質の悪い写真からバイオメトリクス情報を収集できるかどうかわかりませんが、これも時間の問題ではないかと思います。過大評価でしょうか。)
 また、この問題は僕の取材フィールドでもある遺伝子解析研究等とも密接にかかわり合います。ひとことで言えば、僕らの遺伝情報は、それに含まれるプライバシーを踏みにじられただけでなく、単なる産業資源にされてしまった、ということです。詳しくは6月に宝島社新書として刊行予定の拙著と下記ホームページをご参照ください。宣伝になってしまい恐縮です(^^;)。では。

http://www.jca.apc.org/~kayukawa/


個人情報保護法案反対呼びかけ人になぜなったのか  投稿者:武田徹  投稿日: 5月11日(金)10時19分08秒


今日11日は午後から斉藤貴男氏と個人情報保護法に関する対談(週刊プレイボーイ)をする。そのために作ったメモ(今の時点ではきわめてラフな、本当に防備録の域を出ないが・・・・)が以下のようなもの。もし意見を対談前に聞けるならうれしい。

○なぜ自分でも個人情報保護法案反対の呼びかけ人になったかは、プライバシーがいかに侵害されているかに警鐘を鳴らしてきた斉藤貴男が個人情報保護法反対呼びかけに人になっている。その屈折した構図を踏まえた上での行動であることはまず強調しておきたい。自分もまた個人情報漏洩の現状は問題だと思っている。特にデジタル化が進み、一度漏洩した情報はコピーを繰り返され、もはや取り返しがつかない。技術体系が変化した以上、個人情報は以前よりむしろ強く保護されるべきだと考えている。
しかし現在審議中の個人情報保護法案がそうした個人情報保護に結果として繋がらない恐れがあるのでそれに反対する意志を表明した。

○法案の現状について反対という、いわゆる共同利害関係において一致したが故に呼びかけ人に加わったが、当然のごとく他の呼びかけ人と反対に至った考え方は異なっているはずだ。実際、発言を聞くと明らかに賛同できない立場の人も呼びかけ人の中には含まれている。
大きな相違点は、ぼくは表現の自由には制約がもうけられて当然だと思うところだ。アナーキズムでは個人の資産を守る自由しかないというのが最小国家論の視点だが、制約の全くない自由な社会は、個々人の自由な生活を破壊する自由までも認めてしまうという逆説がある。そこで公安装置が必要になる。大事なのはその公安装置をいかに最小限のものにして、社会の構成員の全員に実現可能な自由をいかに最大限にするかだ。後で述べるが今回の個人情報保護法案では公安装置の最小化が出来なくなる恐れががある。だから反対しているのであって、表現の完全な自由を守れという立場の人とは意見を異にする。

○ペンクラブなどの反対声明は出版社、フリーライターなどの取材が困難になるということを指摘しているが、それについても単に反対理由として錦の御旗のように掲げるだけでなく、もう少し緻密な議論をしたい。
まず議論に入る前にジャーナリズムの成立の実状について確認しておく必要があると思う。村上直之の『近代ジャーナリズムの誕生』が詳細に調べているが、近代ジャーナリズムは公開処刑制度がなくなった時に処刑の広報機能を担うかたちで成立している。みせしめを処刑場で狡獪で行うのではなく、メディアを通じて行うようになったというのが近代ジャーナリズム誕生の背景事情だった。犯罪報道は警察報道と呼ばれてすらいたし、警察の広報機能を担うことで税制上の特権を与えられると言う経緯がイギリスではあった。
こえれは決して対岸のことではない。日本のジャーナリズムも犯罪報道を核にするものだということは認めるべきだろう。容疑者、犯罪者の個人情報を暴き、みせしめに報じることがその大きな役割だったのだ。それは警察記者クラブ発表をメディアが伝えるというかたちで明らかである。
つまりそう考えてゆくとジャーナリズム機関とは反体制的な存在、秩序侵犯者の個人情報を暴く体制側の存在だった。個人情報を暴いてくれることは政府の希望だったのだ。そうした構図をまずリアルに認識した方がよい。ジャーナリズムは生来的に権力に対置するものだというのはとりあえず幻想である。


個人情報保護法案反対呼びかけ人になぜなったのか2 投稿者:武田徹  投稿日: 5月11日(金)10時17分01秒

○では、そんなジャーナリズム機関がなぜここに来て個人情報保護を要求されるのか。それは政府の望む個人情報の暴露はしないで、望まない個人情報の暴露ばかりするからだろう。少年法破りのような現行法侵犯もあるし、個人情報を暴くーースキャンダル報道が政府批判、行政批判、官僚批判として有効性を持ち始めたということもある。そうした部分を押さえたいということだろう。
ここで二つの問題がある。まず少年法を破って凶暴犯罪に手を染めた少年の個人情報を暴くような作業には、やはり制約を加えるべきだと個人的には考えている。立花隆は酒鬼薔薇聖斗の顔写真は公開されるべきだと主張したとき、それが今どのような少年が犯罪をするのか知ることが出来ると説明した。あるいは凶悪犯を犯した少年が社会復帰をしたとき、警戒できるという意見もある。しかし顔写真をみて、果たして私たちはどのていどそれを「今という時代を考える」判断材料として用いることができるのか。一瞬の関心で終わっているのではないか。また再犯をするかもしれないのでそのときに備えて警戒できるという意見も、実際に一枚の写真程度でどれくらい用心ができるのか疑わしい。スチール写真の顔の記憶は脆弱なものだ。面割りの経験者はみな写真からの人物判定の難しさを指摘する。ましてや数年経ってしまえばもう区別は付くまい。
そう考えてゆくと個人情報公開に必然性を見る立場にいかなる高尚な理由も、実践的な効能も認められない。それはやはり犯罪者の顔を見たいという好奇心の産物でしかないのではないか。
顔写真のようなところまでゆかないとしても、実名報道、個人情報的な部分まで踏み込んだ報道ーー、つまり現在のルポルタージュなどの基本形についても一考は必要だろう。そこで実名はいかなる意味があったのか。確かに現実の文脈に照らし合わせながら報道に触れられれば臨場感は高まる。しかしそんな理由だけで実名などの情報は公開されるべきなのだろうか。個人情報が本人の許可なしに出されるのだとしたら、それでも出されるべき理由があるはずだが、その理由は案外と脆弱なように思う。現実の文脈に頼らなければ臨場感を出せないジャーナリスト、ノンフィクション作家の技量が乏しいということも考慮すべきではないか。もし十分な力があれば、架空の文脈に置き換えてなお何が起きているのか、今という時代、今の社会はどんなものかを書くことは出来るのではないか。それでは小説になってしまうというかもしれないが、表現カテゴリーの違いでかたや事実を描き、かたや仮構を描くと分けて考えるのは習慣的思考に他ならず、現実に具体的着地点を持たない小説の形式でも時代性は描けるはずだ。オーウェルなどいい仕事をしているとはいえないか。
唯一個人情報を出して報じる必要があるとすれば、別のジャーナリストがそこから裏がとれるということのように思う。再調査可能性を開くということは実名報道の機能として大事だと思うが、そうした議論はなされていない。

○そうした議論をして実際にジャーナリストが個人情報を公開する必要性がどこまでならあるのか見定める作業が必要だろう。確かにどんな場合でも個人情報を暴露したジャーナリズムに網が掛けられる危険性を潜在的にはらむ法案は問題でそれを指摘する必要はあるが、土ぷじに網をかけられてしかるべき部分が現行のジャ−ナリズムにあることも認めておくべきだ。

○で、なぜ今になって全面的に網をかけたいのは先にも書いたように政府や警察の望まないようなかたちで個人情報が出るからだ。その意味で言えば新聞やTVが法案で免除されるのは実はあまりにも当然なのだ。彼ら許認可権や記者クラブ制度を介してコントロールできる。処刑広報の役割だけを果たすように方向付けられるのだ。それだから免除されているのに喜んでいる新聞、TVはどうしようもないのだが。

個人情報保護法案反対呼びかけ人になぜなったのか3 投稿者:武田徹  投稿日: 5月11日(金)10時15分53秒

○そうした事情とも関係するが、自分で呼びかけ人に加わっておきながら、これが果たして実効性があるのかは疑わしいとも思っている。今ほどメディア不信が高まっている時代はないだろう。メディアは権力に対置するのだという幻想は、メディア関係者は馬鹿の一つ覚えで抱いているが、大衆的にはもはや底をついている。メディアは大衆の敵だと思っている。それは権力側にアメを与えられれば平気でしっぽを振る節操のなさも原因のひとつだろう。そしてメディアが処刑広報の代理機関だということも知られてきている。メディアが自分たちは保護法案から序が諫rでるべきだと主張することが特権意識の産物だと思われ、今回の個人情報保護法案反対の運動が、世論を敵に回す結果になったら逆効果でしかない。作家センセー集団という高飛車な印象のあるペンクラブ主導や、説教親父イノセの旗振りでは若い人の気持ちは動くまい。彼らに共感できる運動の論理をいかにつくってゆくか。それはやはり共同利害性の地平で訴えてゆくことだろう。
処刑広報の役割でスタートしたジャーナリズムだが、権力の監視能力を一方では果たしてきた。幻想を現実に変える作業も一部の心あるジャーナリストによって一面ではなされてきたのだ。その部分をいかに強調できるか。具体的に示して、その公共的な必要性を訴えられるかが重要だろう。なんでも反対、なんでも表現の自由を守れ、ではアッピール力は乏しい。処刑広報のメディアが何を言うかということになる。自らの問題性を認めた上で、「盗人にも三分の理」ではないが、自分たちが大衆社会のために何が出来るかを訴えてゆく誠実さが必要ではないか。
もしも呼びかけ人に、たとえば河野善行さんなど報道被害経験者の参加が得られれば良いのにと空想したりもする。「それでも」ジャーナリズムが必要であることに関して彼を説得できるような力が必要だろう。このままでは保護法は政府の望む処刑広報活動だけを許す状況を用意する。それは公安装置の最小化とは反するものだ。そこを訴えてゆくこと、それを訴えてゆく権利を果たせるだけの義務をジャーナリズムも果たすことは出来ないか。

狂牛病とハンセン病 投稿者:武田徹  投稿日: 5月10日(木)20時05分23秒

ハンセン病元患者による国家賠償訴訟が起こされたこともあってか、朝日とか人権派のメディアはここに来てずいぶんとハンセン病元患者の露出量が多くなっている(朝日新聞社の重役がかつて隔離政策に協力していたことは触れられないが)。そうした動きをみながらぼくが視野のもう片方で見ているのはやはり狂牛病騒動だ。
狂牛病が牛に牛の屍肉を食べさせる習慣がイギリスで確立された時期から発生し始めたことはかなり前から指摘されていた。先に中央公論に載ったレビストロースが狂牛病とカンニバリズムの論文はそうした認識を踏まえて、カンニバリズムの領域を動物の種族を越えた共食い(肉食習慣は広義のカンニバリズム)に広げたところに新しさがあったのだが、たとえばその翻訳記事を掲載した編集者にその文脈の理解する能力があったか。
その点、浅田彰はさすがだと思うのだけど、97年ぐらいに既に狂牛病(狭義の)カンニバリズムについて田中康夫との対談の中で触れている。欧米の知識状況に遅れずについてゆける力はやはり群を抜いている。しかし彼は例外であって、01年の春に至っても日本では狂牛病カンニバリズム説は本格的に受容されていなかったのではないか。
要するにそれだけ疎い。そして確定しない危険についてどう行動すべきかがまったく出来ていない。クールー病という食人習慣のある部族で発生する、狂牛病とよく似た症状の風土病があって、これは食人習慣がなくなって30年経ってもなお発病があるという。しかし食人をしなかった若い世代には発病例はない。こうなると殆ど原因・結果の因果律は確かそうだが、まだ結論は出せない。最大30年以上の潜伏期がある病というのはやっかいだ。
 ただヨーロッパ人は少なくとも牛肉は積極的に食べていない。狭義のカンニバリズムの結果起こったかもしれない病気に観戦する可能性を回避しようとする慎重さがある。肉食を諫めるメッセージを狂牛病に見る人もいる。確かに牛肉食をやめれば地球の食糧資源は相当余裕を取り戻す。

対して、日本人はのんきに焼き肉を食い続ける。和牛は大丈夫なんて言う人もいるけどどうしてそれが和牛と分かる?
そして、発病者が身近に現れてパニックになるのだ。ハンセン病の時もそうだった。そして長い潜伏期なんて理解できずに、身近な様々な原因を疑った。遺伝説や、業病説、そして人肉食原因説もあったのだ。狂牛病への無関心、無防備を見るとハンセン病問題の本質的部分はまだ何も解決されていないのではないかと思う。
武田徹

五つの赤い風船とフィッシュマンズ 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 9日(水)22時56分23秒

本日のBGMはフィッシュマンズ『ロングシーズン』。このCD一枚で一曲という作品について、ぼくだから出来る、多分ぼくしか出来ないコメントをしたい。
五つの赤い風船というグループがあった。ついこの前、再結成コンサートをしたので知っている人もいるだろうが、カレッジフォークなんて言葉があった、高田渡が自衛隊の歌を歌っていたりしていた頃のとんでもなく古いグループで、もし再結成がなければ時間の地層の深いところに埋まっていたはずだった。なにしろ名前からして今でいえばとんでもない語感である。
もっとも、再結成コンサートといっても見に行ったりしたのは、その頃の若者で、今はたぶん40台後半以上の人たちだろう。コンサートの告知を情報として耳にしても、記憶に響くもののない多くの若い世代は気にもとめなかったかもしれない。ジャックスなんかだと、リーダーの早川義夫が伝説になっていて語り継がれていたし、再デビュー作品もそこそこ商品性を持ったが、五つの赤い風船は「通」の好奇心を刺激することもなかった。でも現役当時は結構、人気があったのだ(だから古くさくなったとも言える)。主なファン層は、集会ですぐフォークソング歌ったりする民青くさい学生。時期的に言えば70年代前半に高校生、大学生だった世代ではないか。ぼくはその世代よりは少し下の年齢になるのだけど、なにぶん生来の耳年増であり、中学生時代にちょっと背伸びしてその音楽を聴いたことがあった。

西岡たかしという器用なアーティストが作詞作曲のほとんどを手がけ、この人は新しい音を使うのが好きでリコーダを尺八みたいに吹いてみたり、オートハープを使ったりしていたのだが、進取の気概は音楽作りでも発揮されて『NewSky』というレコードのA面全部で一曲という長い作品を作っている。たぶんこうした実験的作品までは当時のファンたちも手を出していないはずだ。『遠い世界に』とか『血塗れの鳩』とかが彼らの愛唱歌だった。で、ここまでレア音源まで聴いていたのは(しかも実際にレコードも持ってすらいる!)、結構変態的なまでに頭だっかちな音楽ファンだったぼくの独壇場ではないかと自負したりする。

この『NewSky』とフィッシュマンズの『ロングシーズン』はぼくは非常に似ていると思う。クライマックスをあえて作らない環境音楽的というか、ハウスっぽいというか、別にインプロビゼーションの名人芸を聴かせるわけでもなく、ひたすらクールで、緩い雰囲気とかは実にクリソツである。今の音楽評論家にはこうした比較は出来ないだろうから、あえて書いておきたいのだが、この類似からいろいろ見えてくるものがある。
五つの赤い風船の大作フォーク!楽曲は繰り返すがまったく商品性を持たなかった。居心地の悪い音楽といおうか。痛々しい感じというか。時代はもっときっちりした音楽をもとめていたのだ。レコードの一面全部聴き通すための時間を用意するのは結構大変だった。今から思うとそのころの音楽の聴き方は今よりも非寛容で、ながら族的な聴き方はあまりしなかった(ぼくだけがそうだったわけじゃないと思う。レコードの相対価格も高かったし。ステレオも)。せいぜい本を聴きながら読むぐらいだったように記憶する。で、A面全一曲なんていうハードコアな音楽を相手取るのは、なんとなく正座して聴くような雰囲気があって、気持ちの上でも相当な余裕がないとだめだった。
それに対してロングシーズンはフィッシュマンズの他の作品に比べればポピュラリティに欠けるが売れなかったわけではない。こういうルーズな音楽が聴かれる土壌が用意されたのはテクノトランスのような音楽の流行も含め、結構興味深い現象だと思う。今の若者の方がずっと忙しいはずなのだが、その一方で生活時間を音楽で覆ってしまうような聴き方がありえる。今の若者のほうがたぶん敷居の高さを敬遠する傾向は強いと思うけど、こんなヒットチャートに絶対に入らないようなサイズの音楽を食わずきらいしない。しかし、トランスはレイブの音楽だからTAZ(臨時解放区)を作るためのBGMなのだろうが、フィッシュマンズは実際どう受け入れられているんだろう。
宮台はフィッシュマンズを「絶望を突き抜けた明るさ」と表現していたけど、確かに時代を象徴する音楽のひとつではあるだろう。ボーカルの佐藤が早くも死んでしまっているという事実(西岡たかしは生き延びていて、TVに出ているのを見たら完全にそのへんの老人と化していた。フィッシュマンズはもう老いてゆくことがない)と、その後の反応(命日ビデオライブなんてやってるらしい)も含めて気になっている(この項未完)。
武田徹

プロジェクトXに嫉妬する 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 8日(火)22時20分36秒

夜、帰宅してプロジェクトXを見る。いつもチェックしているというわけではないんだけど、たまに見るといつも感心する。今日はスバル360の開発話だった。技術史の分野はぼくも仕事の一つの柱にしているので、ついつい身を乗り出して見てしまうのだが、エピソードの発掘などはぼくにも出来ると思う。確かにNHKらしい豊富なスタッフを使った取材は他局を圧倒するが、それでもぼくは一人でプロジェクトXぐらいの情報は収集できる自信がある(これは少し留保が必要で、NHKのスタッフはもちろん取材できた全てを番組にしてはいないだろう。地上波放送に耐える一般的な(悪く言えば最大公約数的な)構成を意識して取材した事実の相当部分を捨てているはずだ。でM実際に放送されている情報レベルの深さであれば、ぼくの仕事量でも太刀打ちできると思う。なにしろこちらはカメラなしでどこでも取材にゆける、どこでも取材できる。その機動力で人海戦術に対抗する。サラリーマンディレクターやお雇いリサーチャーおそれるに足らず!だ。

ただ、もっと細かな、省庁の担当者に当たって細かくウラを取ったりしてゆく作業や、海外のエージェントを動かすような仕事になったら、やはり僕はさすがにかなわない。そういう総合的な部分でのNHKの力は評価している)。

しかし決定的にかなわないところがある。今日の放送でもスタジオにスバル360を持ち込んで、当時の開発者が乗り込み、エンジンをかけた。ちゃんとかかるかどうかという心配そうな表情が、エンジンに火が入った瞬間、満面の笑みに変わる。その変化はやはり映像でないと表現できまい。ぼくの表現力のつたなさのせいももちろんあるが、いかに文章の名人でも表情を表現する語彙は十分に持っていないと思う。限られた条件の中で表情について洒落た表現、表情が目にうかぶような表現をすることは出来るが、1000の顔の違いを言葉で表現しろと言えば困るだろう。悔しいけれど顔はやはり百聞は一見にしかずの領域だ。ぼくが映像ジャーナリズムに嫉妬するのはこうした場面だ。

よく似たことだが、ぼくは物理学にも嫉妬する。たとえば振り子の先にもうひとつ振り子をつける。すると先端の振り子の動きはいわゆる決定論的カオスになる。秩序を感じさせないようなきわめて複雑(カオティック)な動きだが、実は法則性はあり、理論的には数式で表現できる。しかしその動きを言葉で表現しろと言われたら困る。複雑さを語る言葉を並べることは出来るが、その振り子の軌跡を語ることは出来ない。そこで二重振り子を数式で表現できる物理学に嫉妬するのだ。

しかし嫉妬していてもしょうがないのだ。文字のジャーナリズムで映像の力をなんとかピンポイント的にでも利用することが出来ないだろうか。それもオンラインジャーナリズムの一つの可能性追求のテーマになるのかもしれない。
武田徹

続・近況 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 8日(火)01時27分31秒

月曜日は授業の日、というのは前にも書いた。病み上がりなので喉を酷使しないようセーブしながらなんとか5こま分の講義を終える。
連休明けなので締め切りも幾つかあって、休み中に用意していた原稿を送稿する。朝出かける前にNAVIの原稿(またソメイヨシノ! ソメイヨシノと綾波レイと日本車という三題話)をメールして夕方帰宅後に朝日の書評(『デジタル日米TV戦争』)をいれる。これで書き溜めていたストックはおしまい。今週はあと二本+対談1+研究会1だけど、これらはこれから用意しないと行けない。
連休中に雑誌だけでなく郵便物も整理していて税務署から「電話くれ」の葉書が紛れていたことを発見。びくびく電話すると確定申告でのこちらの計算ミスの指摘。それが還付金が更に増える(ってもちょとだけど)ケースなのだから税務署も親切だ。

事前に調べ忘れていたことを大学の講義前に思い出して、駐車場でクルマの中からネットへアクセス。WEBをダウンロードする。しかしいざ講義中にみようと思ったらVAIOの電池が切れていた。やっぱだめですね。スタンバイに移行するのがへたくそでオンのままにフリーズしているために、気がつくと電池がカラになっていることがよくある。仕事部屋にはこの前新調したコンパックのデスクトップ機があるんだけど、vaioと同じOSだし、使い方もワープロ+通信とほぼ同じなのにこっちは不思議なくらい安定している。コンパックは販促のおねえちゃんがなつこっくて結構衝動買いにちかかったのだが(でもモニターつけて10万ですよ)、デスクトップもvaioにしなくて、結果的にリスク分散が出来て良かったなぁと思う。なにしろctr+alt+deleteを押すことは一週間に一回あるかどうか。要するにフリーズしない。不評のwinMeもまったくこちらでは一切の問題なく動いている。
これは人づてなので正確ではないが、ある人がvaioのHDをクリアして、新たに自分で買ってきた新品のwindowsをインストールしたら動かなくなったとか。ソニーに問い合わせると「「そんなことして貰ったら困る」と言ったとか。これはソニーがOSを独自にいじっており、vaioはwindowsマシンでありつつも、実はそこでバンドルされているのはもはや素のwindowsでなくなっていることの証だという話として、ぼくはこれを聞かされた。事実はどうなんだろう。確かにvaioとそれ以外でこうまで安定性に差が出るとその説を信じたくもなる。


だいぶ前の宮台と田中康夫の対談記事を読んでいたら、田中の市民運動は共同性ではなく、共同利害性に基づいていると宮台が指摘していて、ああ、なるほどと思った。利害が一致するという非常に俗っぽい、しかし行動の原理としてはこれほど自明なものもない部分で市民運動をしているという評価は確かに田中にマッチするような気がする(もし理念が出てくるとしたら共同利害性を原理として行動すること支えるためにであり、初めから理念ありきではない)。だから党派制を越えて支持があるのだろう。前に『文芸』で田中康夫論を書いたのだが、その執筆前にこれを読んでいたらなと思う。

夜も更けた頃、授業の資料として『ジュラシックパーク』を仮にレンタルビデオ店に出かけた。オッペンハイマーが出てくる箇所があるのだ(僕は毎年今ぐらいに決まって『ジュラシックパーク』を借りるで変な客だと店では認識されているに違いない。なにしろ、どこにあるのか見つからなくて店員さんに探して貰うのももう4年目、じゃないかな)。明日(ってもう今日ですね)もまた3コマ。でも、これを乗り越えれば週の後半は開放される。

本日のBGMはORIGINAL LOVE『風の歌を聴け』。そういえば松本・浜田の音楽番組を見ていたら、The DEP(ウナギ犬プロジェクトなんだそうだ)というバンドが出ていて、ギターに佐久間正英、土屋昌美、ボーカルにビビアン・スー、ベースにミック・カーンというとんでもないメンツで、しかもドラムは屋敷豪太。ロンドンで会って以来、10年近くぶりに動いているゴータを見た。番組では生でドラムたたいていて、そっちも初見だったんだけど、ドラミングスタイルは饒舌すぎてぼくの好きなタイプではなかった。
武田徹

近況ほか 投稿者:武田徹  投稿日: 5月 6日(日)20時04分26秒

GWも終わりだ。今年は風邪引いたので予定が狂いっぱなしで、自分の仕事は出来ずじまい。結局、連休も後半になってから、手つかずのままにしておいた雑誌の仕事をスパート掛けて書くことしか出来なかった(あと一本、残っているのが朝日の書評でこれも明日まで。あと連休明けも続々締め切りがある。体調は大丈夫なのか>おれ)。

ただ、書くところまではいかなかったけど何冊か本は読めた。そのうちの一冊が連休前に予告したアタリの『核という幻想』。これはいい本だと思う。問題は題名。原題を直訳すれば「黙示録の経済学」。冷戦崩壊後の米ソのプルトニウム処理と、核不拡散条約を越えて核物質が取り引きされることの危機に関する論考だから、この直訳の題名の方がまだよく伝わるし、副題の「核物質の移動と増殖について」を入れれば更にはっきりする。要するに冷戦構造崩壊から各地のロー・インパクト・コンフリクトが起きるようになって、そこに核物質がからんで地球は終末を迎えるのではないかという、かなり具体的な警告の本であり、危機をいかに回避するかの提言でもある。それがなんだかわからない題名になったのは、おそらく訳者の磯村尚徳のせい。都知事選にかつぎ出されてから結局、自民党人脈でポストにしがみついてゆくしかなくなったこのおっさんは核サイクル論堅持の日本の保守政治に遠慮して、冷戦後のプルトニウム問題(当然、日本のプル利用も含まれる)を「幻想」としてホンワカ扱い、問題の所在を曖昧にしておきたかったんだろう。だったらはじめっから訳さなきゃ良いのに、そうも出来ないとは情けないやつだ。最近どうしているんだろうか? ちなみに幻想という言葉でほんわか効果を出して論点を曖昧にするのは吉本隆明『共同幻想論』以来の常套手段である。

ハンセン病訴訟が話題になって、療養所の人がよくメディアに出るようになった。少し前の『アエラ』もそうだし、昨日だったかの朝日もそう。賠償はすべきですよ。ただ手続きとかはきちんとしてほしい。感染力がないのに隔離されたという非科学的な言説を採用してほしくない。リアリズムで隔離医療の方法と権利制約に対する賠償の方法をともに確立できるような訴訟になるといいんだけど。しかし・・・・。報道の気配などを見て、やはり難しいかなと悲観的になりそうな自分を、かろうじて押しとどめている。孤独感にさいなまれるけど、こうなってみると、せめて『隔離という病い』を書いておいて良かったとつくづく思う。あれはぼくの存在証明だ。書いているときにはそんなに重い本になるとは思わなかったが。
 
本日のBGMは大貫妙子『東京日和』。アレンジの坂本は平均点をクリアするいい仕事をすると改めて実感。それに比べて小室哲哉は・・・。90ー00年代版『シド・アンド・ナンシー』みたいな映画を小室で撮れば苦い味が出そうで良いのに。俗物性の中へ堕落してゆく挙げ句の果てに吉本かよ。ある種のロンダリングが必要な人生になっていたという事情はあるにせよ、テイトウワが吉本と契約したのとはずいぶん違う、後ろ向きな印象だな。本気でお笑いやるつもりがないのに吉本に行ってはいけません。吉本ゆくなら漫才デビューしろ、小室。相手はTRFのサムとかがいいな。結構、見てみたい気もするぞ。
武田徹

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