
ルール上、下の発言もアドレス無しだったので削除しないといけないんだけど。書き忘れたんですか?
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第三者の私が言うのもなんだけど 投稿者:武田亨 投稿日: 3月22日(木)07時35分22秒
>先の三人の争いは第三者の目から見ると大変興味深い物でした。
>三者三様の精神と三人共に間違いをし、それががっちりと組み合わさってる様は
>なかなか見られる物では無かったと思っています。
武田徹さんと粥川さんが指摘している点は同じですよ。
なぜ、第三者の目から見ると「三者三様の精神と三人共に間違いをし」となるのですか。
武田徹さんと粥川さんに失礼ですよ。
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失礼と言うよりも、ぼくは「言葉が足りなく」わからないのでもっと説明を聞きたいと思いますね。きっと何か気付いたこと、いいたいことがあるんだと思います。故意にわからないように書いているとか、書き散らすことが目的の荒らしだったらちょっと困るけど、そうでない相手かもしれないので最初から失礼と言ってしまうのはどうかしら。
あと、これはもう掲示板上では断りを入れなかったけれど、19日に書かれた中西さんの発言もふたつ削除しました。メールアドレス非公開の発言は削除すると書いた直後の書き込みで本人も了解の上だと思いましたが、中西さんからは事前にメールを頂いていたのでそのアドレス向けに削除の理由を説明しました。この発言は再録していませんが、ヨブさんがコメントするためにぼくが削除する前にサルベージしているので彼の日記で読めます(というか彼の日記で言及している発言が存在しなくなっているのは、こうした事情のせい)。
削除ルールの適用も大変ですね。でも、ぼくは掲示板を現実社会に近づけたいんだな。それがこの掲示板運営方針の背景にある考え方です。普通の社会で面と向かった相手になんかへんなことを言っていると両者間ですまないで、第三者に見とがめられて注意されたりするでしょ。あるいは逆に尊敬に値する行動をすれば目撃した見ず知らずの第三者からも直接賞賛されることもある。そうしたリアクションがあるかもしれないことが脱社会的行動を抑止したり、倫理的行為を促進させたりする。それに近い状況をここでも作りたい。現実社会と掲示板をシームレスに繋ぎたいと思っているということは前にも書きましたよね。アドレスを書けというのは、リアクションがもしかしたら直接届く可能性を意識しつつ緊張感をもって投稿して欲しいと言うことです。
リアクションが絶対に自分に届かない場所から書き捨てして胸がすっとしても、その充実感は長続きしない、と思うんだけど、違いますかね。書き捨てとそうじゃない発言の両方の実感を経験上、比較できる立場にいる人はすくないとは思うけど。
武田徹
「メールアドレス非添付の場合は削除」のルールに従って、以下の発言は削除しました。ただオリジナルのメッセージが削除ルール設定前であることと、今度のは少しは聞く耳を持ちたい意見ではあるので、管理者権限(なんか偉そうでイヤだなぁ)で再録(影も形もなく削除されることを期待してアドレスを書いてないのならそう言って下さいね。アドレスがないから相談しようがないのですよ)。
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ベルセルグ(その2) 投稿者:ふうま 投稿日: 3月21日(水)19時37分35秒
>また書き込み意図が良くわかんないのが出てきたなぁ。共通の知識がない人のことも配慮してもう少し言葉を足して説明すれば、もしかしたら面白くなってたかもしれないのに惜しいですね。「分かる!」とか言って貰うのを期待しているんでしょうけど、そういう阿吽の了解に限りないロマンを感じて生きているのってちょっと子どもっぽいですよ。
書き込みの意図は武田殿の批判です。批判ですので最小限の事だけを書いて投稿し削除されるのならそのまま黙っていようと思っていましたが(子供っぽい)と言われて無視できるほど大人で無いので再度書き込ませてもらいます。
先の三人の争いは第三者の目から見ると大変興味深い物でした。三者三様の精神と三人共に間違いをし、それががっちりと組み合わさってる様はなかなか見られる物では無かったと思っています。
武田殿の間違いは人の間違いに気が付かなかった事なのですがその事がもう一人の人の神経を逆なでし桜の件で切れてしまた様に思います。ここで武田殿が自分の間違いに気が付かなかった理由はこの掲示板を読み続けていた私にはこのように写りました。
(武田殿は人の心の闇の部分に対して不感症なのではないか?)
例えば、ガーディアンエンジェルの事で、正義感で始めるのだろうけれど犯人を捕まえるときはマイナスの感情を持って犯人に接してしまうのでは無いだろうか?とか、
泥棒入るの時も泥棒を見つけた人がいだくマイナスの感情を考えると掲示板に書き込みなどできないのでは無いだろうか?とかです。
私が思うに武田殿は才能豊か故に心が闇に捕らわれてしまう前に解決方法を思いつきサクサクと前に歩き出せるのだと想像しますが、闇に心を捕らわれてその場ですくみあがって一歩も動けなくなる人たちがいることも知ってほしいと思います。そして、その人達に対してもう少し思いやりを持ってほしいと思います。
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ぼくが「闇に捕らわれる前に解決策を考えついてしまう人間」なのかは自分では疑問だけど、今度のはメッセージとしては理解できたです。そういうことが言いたかったわけなんだ、だったら最初からそう書いてくれればいいのに、と単純にそう思うですよ。確かに思いやりが足りなかった、かもしれない。
でも今度のも三者三様の構図の説明はまだよくわからないし、ガーディアンエンジェルスのところも分かりにくいように思うので、出来れば、個人的にはもう少し言葉を足して欲しい。最初のに至っては「批評として最小限」じゃないと思いますよ。伝わらなきゃ批評にならない。今回のなら分かるから、アドレス書いてもよかったんじゃないかな。なんで書かないんだろう。これも闇が分からない人間の発言? 思いやりが足りない?
武田徹
『週刊読書人』に『証言・ハンセン病』の書評を書いたら著者の方からメールを頂いた。嬉しい。力づけられた。
ぼくが『愛する』とか『火花』を評価しないのは「差別・偏見を撃つ」とかいうキャッチコピーは勇ましいけれど、実際には差別偏見の現在について見定めようとする意志が弱いし、改善方法を提案するでもない。しかしそんな『愛する』や『火花』を世間は高く評価し(いずれも権威あるとされている映画・ノンフィクション文学賞賞を受賞している)、不思議なことに、自分達の問題を正しく考えられていないと感じて当然のはずの、当のハンセン病元患者共同体までもそれを喜ぶ。かくしてぼくはそうしたおかしな状況そのものに憤懣を感じることになる。
熊井や高山はぼくにしてみれば偽善的だ。人は本質的に善でも悪でもないのだから、それを装うしかない、つまり偽善的、偽悪的になるのは当然である、と確か柄谷行人がどこかで言っていたように記憶するが、確かに一理あると思う。しかし善の装い方がいかにも浅い感じがするのだ。
『愛する』を批判したとき、ぼくはそれが遠藤周作の原作を現在を舞台に描いたため、いつの時代のハンセン病を描いているのか分からない、それでは間違った病気のイメージを伝えかねない、むしろ差別を助長させかねないと批判した。それにたいして熊井は、映画を見て「自分の差別意識に気付いた、これからは差別をしないようにすると誓いたい」とかいう観客からの投書を引いて反論した。そんなことでいいのか、と正直、拍子抜けした。
以下に週刊読書人への寄稿文を再録する。
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森幹郎はハンセン病の世界では「濫救惰眠論」の著者として知られる。著者が療養所に勤め始めた1955年に書かれた同論は、退所規定のない「らい予防法」に依拠して加療不要な元患者までも一括して隔離療養所に受け入れ(閉じ込め)続けている行政の「過剰な救済」体制を批判すると同時に、返す刀でそうした「過保護」が療養所入所者を惰眠を貪らせるに至っていると指摘した。
この論文は医療と福祉を的確に線引きしようとする非常に先駆的な内容だったが、行政側だけでなく、入所者からも激しい反発を招いた。本書で「濫救惰眠論」執筆当時を改めて振り返った森は入所者からの反論文の全てが「惰眠」ではなく「惰民」と誤記していた事実を取り上げてこう記す。「わたしは入所者をトータルに<惰民>などと言ったことは一度もなかった」。そこで表明されたのはハンセン病の現状についてのまっとうな問題意識を欠落させてしまう精神の弛緩としての「惰眠」への危機感だった。しかし療養所入所者はそれを自分達の怠惰への非難だと読み違えた。その結果「療養所の再編成と人間復権という問題の所在ははぐらかされ」てしまったと著者は回顧する。
この一件はハンセン病を巡る不幸な状況を象徴していたという意味でも先駆けだったのだと思う。たとえば本書は97年に公開された熊井啓監督作品『愛する』にも触れ、その映画が50年代に書かれ、多くの偏見を含む遠藤周作の原作に従うため、過去のハンセン病の差別偏見を「再生産しかねない」と批判する。この問題提起に筆者は溜飲を下げる。というのも実は筆者も同じ趣旨の映画評を書き、本紙上で熊井との論争に巻き込まれたことがあった。その過程で筆者は療養所関係者からの援護射撃を密かに期待していたが、孤軍奮闘に終始して来た。本書でようやく我が意を得たりとの思いがする。
古くは隔離政策を前提として「生き甲斐」を甘く謳い上げた神谷美恵子が賞揚されるのもおかしな話だったし、最近では『愛する』に続き、北条民雄を英雄的に描いただけの高山文彦の『火花』が大宅賞を獲得する。ハンセン病を巡っては元患者の不幸を一瞬忘却させる「きれいごと」ばかりが関係者、「無」関係者を含めて求められ、真摯な批判が蔑ろにされて来た。その結果、日本の隔離医療史の歪みを総括し、あらゆる差別問題の根深さの考察にと繋げて行く作業、特に未感染者が実害を避けることと差別・排除のメカニズムが二重写しになって機能する感染症患者差別のような複雑なケースにいかに対処して行くかを検討するような作業が一貫して欠落し続けている。その意味で「濫救惰眠論」から『愛する』批判まで常に冷静さを失わずに問題の所在を見続けた著者の軌跡を記録した本書が刊行されたことの意義は大きい。これを今度こそハンセン病論を次のステージにと進める礎石とすべきだろう。
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武田徹
武田亨さま、書き込みありがとうごいざいました。根に近い部分まで遡る(最近、溯ると書く人が多いけど、どっちがいいんでしょうか)というのは大事ですよね。ありがとうございます。伝えます。
武田徹
●「独善的」、NPO経営の実態〜その解決には〜の学生さんへ
わたしの場合は、与謝野晶子氏、山川菊栄氏らの「母性保護論争」まで溯って、そこから現在のNPOの実態をコツコツと調べていますが(まったくの趣味ですが)、奥むめお氏の自伝「野火あかあかと」(ドメス出版)や「消費者運動50年(国民生活センター編)」(ドメス出版)は役に立ちます。
「野火あかあかと」では、平塚らいてう氏、市川房江氏、奥むめお氏らが大正9年3月28日に結成した新婦人協会についても詳しく述べられており、なぜ3人が袂をわかれたのか、その真相にもふれています。婦人セツルメントなどについても書かれていておもしろいです。また、奥むめお氏の「あけくれ」(日本図書センター)では、昭和27年にイギリス政府の招きで山川菊栄氏らとともに訪英後、ドイツ、スイス、デンマーク、スウェーデンを視察旅行したときのことが書かれていて参考になります。
「消費者運動50年(国民生活センター編)」には、報知新聞記者を経て大日本産業報国会に勤務し、その後、賀川豊彦氏を中心とする協働組合運動に参加した中林貞夫氏らのインタビューが掲載されています。「野火あかあかと」と並行して目をとおしてみると、意外とおもしろい事実が見えてくるかも。
わたしは、これらを読んでから、主婦連、地婦連、消科連などからNPOに関連した資料をリアルタイムに入手しています。
「野火あかあかと」と「あけくれ」は主婦連(四谷)でも販売してくれると思います。ちなみに消費者団体は図書館に置いていない資料をけっこう保有していますから、消費者契約法のときは各党の議員が足を運んだようです。
趣味で使っている資料なのでどうかと思いましたが、一応書いておきました。
そういえば前にこんなことを書いた(初出『日経ゼロワン』2000年2月号、その後、『IT革命言論』共同通信社に収録)。
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「インターネットにおいては、気楽に書き連ねた文章を、自分のコンピュータに保存することと、ネット上に公開することの差は、二、三のキー操作の差にすぎない。従来のいかなるメディアとも異なり、インターネットでは<発想>と<発表>との間の落差がほとんど存在しない」。哲学者の黒崎政男はそう書いている(朝日新聞12月13日夕刊)。その結果、「<自我境界>があいまい化、拡大化し、自己と世界がいわば<短絡>してしまう」と。
確かにその通りなのだ。思念のレベルで僕達は様々に想像力を駆使し、時に妄想すら抱くこともある。だが、それはそのまま公開されない。現実の世間では様々なブレーキが働くからだ。だがインターネットは妄想を生のまま公開する道を拓いてしまった。その結果、どこまでが自分の考えで、どこからが現実なのか不明のままインターネット空間内を彷徨うネットワーカーが大量発生する。彼らの「自我境界があいまい」な意識状態とは、人間の成長段階でいえば、母親に優しく抱かれ、いまだ自分自身と外部の世界をはっきりと分離できずにまどろむ幼児のそれに近い。インターネットとは人々を包み込み自他の区別を曖昧にする「母親」なのかもしれない。
だからそこに現実の重さを教える「父親」が必要になる(ここで「父親」という語で想定されているのは、特定のイデオロイーを背負ってせまる小林よしのり的な「父親」ではなく、より基礎的な、精神分析家ラカンが定義する、自・他を分化させ、社会化を進めるきっかけを作る「父親」であることは言うまでもない)。
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父親論はまさにヨブ氏の得意とするところですな。父親論は確かにそこから小林よしりん的なものが導かれ、社会に居座らせることを許してしまいがちな危うさがある(ヨブ氏の警戒の姿勢は当然だと思う)けれど、そういう「取り扱い注意」の面を十分に配慮した上で、もう一度考えてみたくなる誘惑にかられることがある。たとえば言語は自分で発明することが出来ない(自分だけで発明した言葉は社会的に使用不可能であり、言語以前である)という意味で他者性を持っており、その使用が「父親的」なものと触れる契機を与えるはずだったんだけど、そんな言語自体が公開の場で滔々と語られつつ他者性を一切担えないという事態にどう対応すべきなんだろうか。
武田徹
こらぁ、ヨブ! 人の災難で遊ぶな(笑)
というのはウソで、離れたところで冷静に分析してくれてありがとう。参考になった。
武田徹
こんにちは、徹さん、当所をご覧のみな様。
今日は「青汁」の営業がなかったので、刑事訴訟法第39条「被告人・被疑者との接見交通」に関係した過去の出来事を調べ、そのことに詳しい弁護士の方にお会いし、徹さんへの質問状をどのような視点から作成したら良いのか、いろいろな視点からアドバイスを頂いてきました。なぜ徹さんへの質問状なのかといえば、ここ数日の徹さんの掲示板の対応から刑事訴訟法第39条へたどり着いたからです。
お会いしてきた弁護士は昭和48年から52、3年頃まで日弁連の調査室にいて、当時裁判所が提出した「裁判所と検察だけで都合良く裁判を進めますよ」というふうなご都合主義的な法案を廃案にすべく戦っていた方です。(たしか弁護士会が一つにまとまって運動したのは、この法案を廃案にしたときだけだったと思います)
たまたまですが、その方はオウムの清算人(清算人は一人ですが、実質的な清算をサポートしていたのは8人の弁護士)をサポートしていたうちの一人でもあるのですが、さすがは働き盛りの60代、実に骨のある論をはる弁護士でした。
この件は仕事といっても、無償のボランティアで手がけている書籍です。が、個人的にはひとつ楽しみがあります。先の徹さんへの質問状なのですが、これは相当念入りに仕込んでいます。まだ直接お送りするか、当所で質問するかは考えていませんが、ICU学生作品を真摯に読んでいたら、マジに燃えてきました。ここの掲示板の対応からわたくしが手に入れた、一つめの点は石原慎太郎氏と上田哲氏の対談、二つめの点は刑事訴訟法第39条、そして徹さんへの質問状で三つめの点を手に入れ、それぞれの点を線で結びたいと考えています。
>亨さん、わけわかるんだ、すごい(笑)。
学生作品を真摯に読んで燃えに燃えているわけですから、そのくらい、わけわかりますよ(笑)。
決意を示すためにもう一度上げます(ちょっと相変わらずの誤字もあったので訂正を含めて)。
今度からやっぱりメールアドレスは基本的に必須にします。公的な場面に書くんだったら、やっぱり反応は自分で受け止めるべきですよね。ただ色々事情もあるでしょうから、公的に意見を述べたい、しかしどうしてもプライベートな部分は秘匿したいという場合は、その理由を添えてアップしたい内容をメールで先にぼくのところに送って下さい。事情が了解できた場合は、ぼくがアドレスを消して掲載します。あとからメールで送るからというのはもうダメです。
つまり、これからこの掲示板にメールアドレスなしで掲載されている発言は、そうした手続きを経たものだということです。そう思って見て下さい。そうした手続きを踏まずにメールアドレス無しで投稿された書き込みは、発見次第無条件で削除します。書かれる必然性がない書き込みは消すというのでは対応しきれない。そこで、過去の書き込みを読んでいるとメールアドレスを書いて発言できるかどうかが内容の質を示す案外と役に立つメルクマールになっているようなので、更にもうひとつクリアカットな条件を加えると言うことです。あまりにノイズ領域まで相手取っていると、さすがに疲れちゃいますので。
もしこの事前相談をしたくない場合は、新規にWEBメールでもいいからアドレス取得してから書き込んで下さいね。そうすれば何か個別に言いたい人はメールを書いてくれるでしょう。出てきた反応から自分の書き込みが他の人の目にどう映っているのか知ることは重要だと思います。妄想を暴走させないためにも、ね。
武田徹
うわぁ、書き込みタイミング最悪。亨さんの前に入っちゃったので管理者権限でそっちを消して上に移しました。意図がわからないというのは亨さんの前の書き込みに対してのものです。亨さん、わけわかるんだ、すごい(笑)。
武田徹