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LOG53
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老婆心ながら 投稿者:武田徹
投稿日: 3月14日(水)09時27分20秒
別にいちいち報告する義務もないんだけど、以下の書き込みを削除しました。
>武田徹さん,この掲示板を
>私事に使うことを お許し下さい。
>武田亨さんが興した会社の
>主宰する掲示板にて,少しの間,
>亨さんに お世話になった者です。
>お久しぶりです。
>亨さんに ご相談したいことが ありまして,
>ちょっと お時間を拝借できないでしょうか?
>内容が内容だけに,相談の内容を
>こちらの掲示板に書くことは出来ません。
>わたくしめのメールアドレス宛てに
>連絡いただけたら幸いです。
>折り返し,メールさせていただきます。
>よろしく お願い致します
って言うけど、書いていいかまずメールで聞いたららいいんじゃないでしょうか。その種の私事を書くのは掲示板の目的からは基本的には外れます。もちろんそれでもそこに書く必然性があるかもしれないので、相談には乗ります。
しかし踏むべき手続きを飛び越すのは困ります。最初にすべきことは公的な場に断りなしに書き込むことではない、一言そこで謝ればなんでも許されるというものではないはずです。
今後こういう書き込みが増えることを懸念して削除しました。って、いってもコピーしてあげているから、書き手の意志はかなうはずですけど(自分の甘さがいやになる(笑)。こういうところが実は酔っぱらいにも甘い社会の温床なのかな)。
武田徹
酔っぱらいに甘い社会 投稿者:小滝みゆき
投稿日: 3月13日(火)15時52分16秒
2回目の書き込みをさせていただきます。
新大久保の事故に関連して、JRの責任が論じられていますが、この事故は目の不自由な方やお年寄りが
落ちたということとは別の次元の話だと私は思います。近頃の喫煙者に対する厳しい風当たりに比べると
酔っぱらいに対してはとても寛大だなぁと感じます。酔えば人の迷惑になると分かっているのに
どの乗り物でも酒類は手軽に買えるし、山手線のホームでさえ売られていると知り、唖然としています。
お酒の始末が悪いところは、どこで前後不覚になるか本人が分からない点です。「大丈夫、大丈夫」と
言いながら全然大丈夫じゃない人がたくさんいますよね。酒の上の話という都合のよい言葉もあります。
これは酒飲みが多数派で、酒も飲めないやつは社会人として一人前ではなく、仕事にもつき合いや接待で
お酒が絡むことが多いからだと思いますが、全く変な話です。電車に安全装置を付けるのも大切ですが、
人間にも良識を付けた方がいいと思います。
メルアド非公開についてですが、前回何かあったときに連絡を取れるように、というお答えを頂きましたので、
武田さんにメールで連絡することでお許し頂きたいと思います。たかがメールアドレスと言われる方も
いらっしゃるかと思いますが、私のようなパソコンに詳しくない者は、色々な驚異から身を守るのに
公開しなくてもすむのならそうしたいのです。よろしくお願いします。
JR駅員問題と思想系本 投稿者:粥川準二
投稿日: 3月11日(日)13時05分50秒
武田様、お返事ありがとうございました。確かに駅員を増やせば人件費がかかるので、そんなことい
えば、JR東日本から「運賃が上がってもいいのか!」といわれてしまうかもしれません。僕も詳し
くはないのですが、労働問題に詳しい知人によると、民営化によって大きな人員整理(主に国労組合
員の首切りですね)が行なわれたことが根本原因とも聞いたこともあります。つまり人が減らされて、
その代わりにハイテク安全装置を導入したのはいいが、武田さんが指摘なさったような理由で大久保
駅では役に立たなかった!? だとしたらまさに、武田さんに書評していただいた『逆襲するテクノロ
ジー』で言うところの「報復作用」ですね。あとそれから週刊誌も新聞もキオスクでの売り上げを頼
りにしているので、JRの悪口を書けず、美談だけでお茶を濁したという意見もあるようです(テレ
ビはキオスクでは売られないけど……)。
***
順番が逆になりましたが、3月5日の書き込みも興味深く拝読しました。大学生のとき、背伸びして
“思想系”の本を読んでいたのですが、お世辞にも理解できていたとはいえず、その後はコンプレッ
クスを抱えたまま投げ出していました。たとえばデリダとかラカンとかは元の本(もちろん翻訳)は
とても歯が立たず、ドゥルーズになるといったい何が書いてあるのかすらわからない(泣)。日本人
の書いた解説書で止まっています。吉本隆明は、『マスイメージ論』とかはそれなりに“読めた”の
ですけど、『共同幻想論』なんかは2回ぐらい途中で挫折しました。卒業してから武田さんの『偽満
州国論』を読んで、挫折した理由がわかって安心(?)したものでした。あの章(や田川健三の本)
は、デリダやクリステヴァを批判するソーカルたちに通じるものもありますね(ソーカルたちの
『「知」の欺瞞』は未読ですが、読もうと思っています)。思想系の本を読むことの大切さがわかっ
てきたのは、やはり本格的に生命操作の取材をするようになってからです。ちなみにフーコーの重要
性を教えてもらったのは、一人目が市野川容孝さんで二人目が武田さんです。少しずつ読もうと思っ
ています。市野川さんがよく取り上げる「生-権力」や、武田さんが取り上げた「牧人」という概念は、
生殖補助医療などを考えるうえでも役に立つかなと思っているのですが、深く理解していないうちに
うかつに使うと、哲学者や社会学者に間違いを指摘されて“裏サイエンス・ウォーズ”になってしま
うかもしれません(苦笑)。僕と同じように科学技術を取材フィールドにしている書き手は何人かい
ますが、社会科学や人文科学のバックグラウンドがない人は、無批判に科学技術の“紹介屋さん”に
なってしまうか、その逆に、無茶苦茶な論理で反科学をアジるかになっているようです。僕はそのど
ちらにもなりたくはないと思っています。
ICU学生作品 投稿者:武田徹
投稿日: 3月11日(日)11時36分59秒
ちょっと宣伝めくけれど、本体ページの方でぼくが去年待つから教えたICU学生の「ルポルタージュ」作品を掲載しています。見てやって下さい。雑誌に載っている、なんだか予定調和的なルポよりよっぽどいいものが結構あります。少人数制のクラスだったとはいえ、それでも40人弱いるとさすがにテーマ選びから取材方法、書き方まで細かく手取り足取りというわけにはゆかず、現実的には「さぁ書いてみなさい」と野に放ってしまうスパルタ方式に等しい買ったところがあった。結果として自己流の書き方のももあるし、クロスチェックという面では少々甘いものもあるけれど、感じる心の感度が高い書き手の作品は、たとえ表現に荒削りな部分があってもいいものですよね。
ただ、これはぼくの責任なんだけど、メールで送られた作品をラフな編集しかしただけなので、だーっ表示されちゃう。読みづらいけど、それはご容赦下さい。
武田徹
粥川さんへ 投稿者:武田徹
投稿日: 3月11日(日)00時32分16秒
粥川さん、書き込みありがとう。ぼくも詳しいことはわからないですけど、電車の場合、非常制動をかけても相当距離を走ってしまうわけですよね、安全装置の設置と新大久保のような事故の防止が必ずしもかみ合わない事情は、列車側のコントロールで事故の防止が出来にくい事情があるのだと思います。
あと事故防止のために駅員増強の必要があるというのは確かにその通りなのですが、それと別の文脈で、ぼくは前々より不思議に思っていることがあって、たとえば都心の鉄道の混雑率ってひどいでしょ。前に痴漢問題について投稿して人も怒っておられたけど。でもそこまで混んでいて鉄道会社が莫大な利益をあげているということではないんですよね。それは運賃が運輸省ーー国土交通省の許認可の下にあり、経費に見合った額しか認められないと言うことだけど、でも、たとえば車内に二人立っている人がいたら「電車が混んでいる」と表現するらしいカナダの鉄道と比べて、日本の鉄道運賃が対物価基準で安いわけでもないですよね。むしろ相対的には高いでしょう。どうしてそんなことにななるのか不思議。それほど建設費と人件費の負担が大きいのでしょうか。駅員を更に増やすとなるとこれはまた運賃を上げなければならない人件費の増加になるんでしょうか。
なんか日本の場合、鉄道事業の経営構造がどこか本質的にへんな感じもするのですが、どうなっているんでしょう。鉄道評論家って良くも悪くも「てっちゃん」でそういうところに突っ込んで調べてくれないからなぁ。
あ、そうそう石井政之さんの本買いました。すごい。その感想はまた後で。
武田徹
新大久保駅事故報道で問われないこと 投稿者:粥川準二
投稿日: 3月11日(日)00時15分04秒
新大久保事故報道で問われないこと
武田様。3月10日の書き込み、興味深く読みました。
新大久保駅事故の報道を見ていて、僕がもう一つ気になるのは、犠牲者の美談ばかりが語られていて、
JR東日本の過失がほとんど問われていないということです。中央線の住民である武田さんは日常的
に感じていらっしゃると思いますが、酔ったお客さんが線路に落ちて人身事故が起きたり、怪我人は
出なくてもとりあえず電車が止められたりすることがあまりに多すぎると思いませんか。駅員の監視
が足らない、もっというと駅員の人数が絶対的に足らないのではないでしょうか。電車のストップが
増えていること自体はどうも気のせいではないらしく、『朝日新聞』2001年1月14日付によると、
国土交通省の統計では電車の「運転阻害事故」がこの13年で約2倍に増えているそうです。(「運転
阻害事故」というのは、運休か30分以上の遅れが出た場合に報告が義務づけられるそうです。いわゆ
るダイヤの乱れですね。)JR東日本だけでは2.3倍に増えたそうです。記事によると、同社はその理
由を、運転本数の増加や異常時に運転を止める安全装置を設置したことが原因と述べているそうです。
安全装置が正常に働いていることで運転阻害が起きているなら、それは仕方がないことかもしれません。
でも、この記事が出た後に起きた新大久保駅事故ではその装置が作動しなかったということでしょうか。
なおこの記事ではお客さんが線路に落ちることについては一行も触れられていません。新大久保駅では
事故の後、ホームの下に、避難できる穴(?)をつくったようで、今後ほかの駅でもつくられるのでし
ょう。でも、もし酔っぱらった人が、ほかの人が見ていないところで線路に落っこちて、しかも足をく
じくか酔っぱらっていれば穴まで移動して待避することは不可能でしょうから、その効果にはちょっと
疑問があります。やはり一部の地下鉄のように柵でもつくるか、駅員の人数を増やすことが先決だと思
います。今回の事故についていえば、安全面におけるJR東日本の責任はきわめて大きいはずだと思い
ます。
死生観について 投稿者:武田徹
投稿日: 3月10日(土)21時42分46秒
数年前だがカーグラフィックの編集長だった熊倉重春さんがフリーになってすぐの頃、TVのワイドショーに出ていたのを覚えている。彼は踏切事故の解説をしていた。踏切でエンストしたらどうするか。マニュアル車だったらセルモーターで動かしてみる。オートマだったら? 非常発煙筒はどう使えばいいのか?なんていう教習所でも聞かされるお決まりのやりとりの後、司会者は熊倉さんに、番組の雰囲気を思えばあきらかに聞くべきではなかったこんな質問をした。「しかしどうやっても動かなくて、万策尽きて、しかも列車が目前までちかづいてきたらどうしますか?」。熊倉さんは一瞬躊躇したがこう答えた。「その場合にはクルマを置いて安全なところに避難して下さい」。
これは正しい解答である。助かる可能性があるのなら、みすみす犠牲になる必要はもちろんない。しかし論理的に正しい答えに感情的に納得できるかと言えばそうではない。熊倉さんがそう答えたとき、生放送中のスタジオではどうにもいやな雰囲気が漂った。自分のクルマが故障したのに、それを置き去りにして逃げるとはどういうことか。その結果として列車の運転手が事故で死んだり、乗客に怪我人が出るかもしれないのに、そんなことは許されるのか、死人が出ているのに自分だけ生き延びて良いのかーー、そうした糾弾の雰囲気があたりに充満した。
この場合は列車事故の原因を作ったのがクルマを運転してきた当人だという事情が特殊だが、たとえそうでなくとも、死んで行く人を前にして生きのびることを、恥とか不義とかの感覚で捉える傾向が日本にはある(おそらく韓国にもあるのではないか)。これは感覚であって、論理ではない。しかし感覚だからこそ人を深いところでとらえてはなさない。みすみす死なさず、なんとか出来なかったのか、他人の死を目撃した人たちは自責の念にかられるし、第三者からも無言の責めを受ける。
新大久保駅構内の事故もそうした感性風土の中で起きたのだと思う。ホームから転落した人がそれとほぼ同時に列車にひかれていたのなら、つまり全く助けられる余地がなかったのなら目撃者は免罪される。しかし僅かでも転落から轢死までに時間差があったら、「なんとか出来なかったのか」という責めが差し挟まれる。その「時間差」は無限に微分され、目撃者を断罪しつづける。確かに一瞬のことだったかもしれない。しかしそれでもなんとか出来たのではなかったかと。
日本では基本的に助けることがプラスではない。助けないことがマイナスなのだ。ここが大事だとおもう。我が身の危険を省みずに人助けをした人が敬意を持って語られるのは世界共通だ。しかしもしも、そこでうまく助けられず、助けた人までが犠牲になったのだとしたら、そこまでして助けるべきだったかという視点があってしかるべきだと思う。失われる命の数は少ない方が良い。それは純然たる算数の通用すべき場所だ。にもかかわらず、そうした算数の視点は日本ではなかなか表明されない。それを包み隠す激しさで献身と犠牲の美学が上書きされてゆく。そこにやはり日本(ともしかしたら東アジアの)独特な死生観の反映を感じざるを得ない。人を助けようとして死んだ人の行為があそこまで盛大な美談になる背景には、人を見殺しにすることを責める風潮がきっとある。相手を助けられずに見殺しにしたマイナスから始めてゼロを通り越してプラスに評価する、その振幅の大きさが美談を大きく育てる。助けないことがニュートラルのゼロで、そこからプラス評価が導かれる文化とそこが違う。そんな構図の残酷さを考えてみる必要がある。そして、これは言い難いことだけれど、たとえば靖国のサクラをはかないがゆえに美しいと感じる感性とどこかで同じ根を共有している。
武田徹
経歴関連問題 投稿者:武田徹
投稿日: 3月 8日(木)23時43分56秒
古くは野村サッチーのコロンビア大学卒業に関する経歴詐称疑惑問題があったし、最近ではネットベンチャーの掘ロバートがロンドン大学卒業と偽っていたとか話題になっている。そこまで華々しくないけれど、経歴に関しては、ぼくも少々不安がある。自分で申告できるときはもちろん正確を期するけれど、たとえば雑誌の原稿につけられる経歴プロフィールは編集者が書く場合が多いし、ゲラでチェックできないまま世に出てしまうことも少なくない。
で、最近気になるのが、ぼくの大学間系のデータだ。編集部側もハクを付けたいのか、どこの大学で教えているとか書かれてしまうことが多いのだけど、都立大学法学部講師というのがここのところ幾つか目に付く。確かに間違いではないのだけれど、都立大の講義は隔年で、後期だけしか担当していないという比較的「浅い」関わりだ。その点、法政の方が毎年で通年だし、最近ではICUも結構深入りしている。で、そっちを書いて貰った方がいいようにも思うのだが、なぜか最近の雑誌で都立大が出ているのが続いて、ちょっと居心地が悪いし、法政やICUの学生はどう思うのかなと気になってしまっている。
あと最終学歴も困りものだ。ぼくは大学院博士後期課程というところに在籍し、在籍要件を充たし、博士論文執筆資格取得という在籍中に要求されることを一応こなしたのだけれど、博士論文は書いていないのでPhDではない。修士号までと違って、博士号というのは課程とやや独立しているのだ(課程を経由せずに論文だけで論文博士を取る人もいる)。で、困るのはそうした場合にどう表記されれば正確かということだ。大学側の公式見解というか、たとえば最終学歴証明を取ると博士課程の在学期間を何年何月から何年何月までと書いた上で(ここで在籍要件を満たしていることが分かる)、博士論文執筆資格取得と添え書きされている。この通りに書ければ、まさに正確なのだろうが、プロフィールではそういう書き方はなじまない。で、どうするか。博士後期課程修了は一応許容範囲だろう。課程は終えているのだから。ただドクターを取っていないと言う意味では博士課程の目的を完遂したとは言えず、そうしたニュアンスを含めてぼくと同じ境遇で満期退学という表現を使う人もいる。退学と修了が同じ事態を示すというのは普通だったらおかしいが、大学院のドクターというのはそういう妙なことがありえてしまうのだ。ただ、満期というと在学可能な年月をフルに在籍して大学を離れたという場合にも使うので混乱がある。
こうした事情があるので、学歴などがプロフィールにあるといつも悩まされる。ずるいけれど「大学院修了」は便利な書き方だ。博士前期課程、つまり修士課程は修了してしっかり修士号は持っているので問題はない。しかしこれもハクをつけたいのか、著者紹介などでは後期課程の方を引き合いに出される場合が多く、チェックできなかったプロフィールを含め、修了、満期退学、退学が入り交じってしまっているのが現状なのだ。事情を知らない人が修了と書いてあるを見て、「本当は退学なのに詐称だ」とか言い出したら困るなぁと、これは、ぼくの悩みの種のひとつである。
プロフィール、経歴の完全コントロールは難しい。そんな事情を知っているから、ぼくは野村サッチーの事件の時にも、内心では同情してしまう部分もあった。インターネットでは更に自分の知らないところで経歴がコピーされて、拡がって行く傾向が強まっているはずで、そこに様々な混乱や誤解が予想され、先が思いやられてしまう。救いはぼくがサッチーや掘ロバートのように目立っていないことで、あまり皆さんこまごましたことは気にしないでいてくれるのではないかと密かに期待しているのだが。
武田徹
弟だった! 投稿者:武田徹
投稿日: 3月 6日(火)22時50分10秒
昨日、予備校時代の数学の先生の話を書いたが、真相が明らかになった。東進スクールの広告にでかでかと登場する長岡「恭司」先生は、ぼくが浪人時代に教わった長岡「亮介」先生の弟なのだそうだ。書いてみるもので、この掲示板を読んでくれた予備校時代の友人が教えてくれた。確かにぼくは長岡先生のフルネームまでは知らず、広告写真を見て、あっと思った瞬間にもう自分が習った恩師だと思いこんでしまい、弟という可能性は予想しなかった。友人は東大に入った後、駿台で講師のバイトをしており、その時に長岡先生と話す機会もあって、家族構成?に明るく、ぼくたちが習った長岡先生は今は大学で数学史を教えており、東進スクールの長岡先生は、ぼくよりも若いぐらいなのだそうだ。これで、まるで時間が止まったかのような彼の若さの理由が解明した。映画なんかで死んだ恋人そっくりの妹に出会って昔の恋心が蘇る云々とかいう話がよくあるけど、ちょっとそれに似たパターンの思い違いでした。
武田徹
長岡先生 投稿者:武田徹
投稿日: 3月 5日(月)20時05分17秒
ぼくの住んでいる吉祥寺の街は塾・予備校・専門学校の激戦区で井の頭通り沿いに東進ハイスクールがずらりと校舎を連ねているし、躍進中のSAPIXは先生がお子さまを駅まで送迎しているし、中野スクールオブビジネスはあるし、でもう大変なのだ。
中でも派手なのが東進ハイスクールで道路に面した壁は有名大学合格者名が張り出され、授業光景をモニターで見せてくれている。駅にも有名講師の顔入り看板がでかでかと掲げられ、芸能人よりも顔が売れてしまっている講師もいそうだ(アメ車でのりつけ、白いスーツ姿に巨大な宝石指輪が指先に光る有名な佐藤なんたらとかいう「金ピカヤクザ」先生は最近移籍したのか顔をみなくなった)。
で、電車を待っている時に、その看板を見ていてなつかしい顔と再開した。長岡恭司先生。ぼくが駿台予備校で浪人生活をおくっていた時に習った数学の先生だ。
ぼくは長岡先生の解き方が好きだった。数学は解ければいいというものではなくて、解き方にスタイルがあるのだ。長岡先生は代数の問題でも条件を整理したりする場合に集合算のような論理演算を組み合わせて解いて行くのが特徴的で、ぼくは明晰さに惹かれた。当時のぼくは国立文系(というか正確に言うと東大受験生用の結構殺伐とした)コースに所属していたんだけど、数学が好きで、早稲田や慶応でも数学が選択できる場合は社会を取らずに数学で受験していたものだ。
で、東大からは来なくて良いと言われて逃げ込んだICUでも数学基礎論や論理学に関心を持ち続け、理学かの数学の授業(教科書が英語だった!)を取ったりしていたのだが、それは浪人時代の長岡流の影響という面が大きい。そしてこうした数学好きの経験はもしかしたら今のぼくの仕事にもかなり大きな影を落としているようにも思う。大学院時代に広松渉とかメルロポンティ、デリダを読むときに解読に苦しむと、論理を図式化し、概念の位置関係を集合算のようにして無理矢理読んだこともある。広松はそうして読むとあの晦渋な術語が案外と整然と用いられており感心した。違う言葉で書かれている概念は違う意味内容を一貫して持たされており、その思考の軸がぶれることがない。デリダは翻訳者によっては結構いい加減だったりした。でも原典にまで戻るとさすがとうならされる。
こういう読み方をしている時にぼくが最も嫌ったのは語感に依存して雰囲気で読んでしまうことだった。広松やデリダを引用する論文には語感に引きずられて原典の論理構造を正確に踏まえずに暴走しているようなものがあり、その意味でぼくはアラン・ソーカルは後に指摘することになる現代思想の病的な構図には案外と早くから気付いていたように思う。
で、そんなことも浪人時代に長岡先生に出会っていなかったらありえなかったのだと改めて思う。しかし驚いたのは長岡先生の顔が全く変わっていないことだ。ぼくが教わったころはたぶん大学生か大学院生のバイトだったのではないかと思う。しかしそれから約20年。田村正和タイプというか西岡徳馬タイプというか、あまり老けない傾向の顔なのは確かなのだが、時間が止まっているようでちょっと驚いた。あの後、予備校業界に結局、根を下ろしてしまい、名物講師として広告に起用されるような存在になったのかというのも、なんとなく感慨深いものがあった。今はどんな教え方をされているのだろうか。
武田徹
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