
ぼくって中傷してますか 投稿者:武田徹 投稿日: 3月 3日(土)12時52分18秒
今出ているプレジデントに載っている北野宏明氏の評伝記事はアメリカ取材まで行かせて貰えた産物だ。NY日記で書かれている旅の表側はこのための取材だった。
で、更に事後談的に書いておくと、この仕事でもお決まりの「ゲラ見せろ問題」があった。プレジデント編集部はゲラを見せてしまうことがジャーナリズムの根幹をゆさぶる問題になることを認識している最近では本当に貴重な存在(小学館との提携後もそのスジを通す姿勢を貫いて欲しい)なのだが、取材後、ゲラは見せられないとはっきり言明。すると人工知能界のプリンスにして世界の頭脳である北野博士は「えー、ゲラで直せると思っていい加減なこといっちゃったよ」。これはさすがにアタマが良いというのか、なんともうしましょうか、確かにいい加減と本人が認めている取材をベースに記事を作るのは危険であって、なんらかのかたちでチェックしてもらうしかならない(しかし他の媒体が簡単にゲラ見せちゃうから取材の緊張感がなくなっちゃうのだ)。かくして仕方なく、生原稿の段階で見せる、事実関係以外の訂正要求に添えるかどうかは約束できないという、毎度お馴染みの条件で見せることに。
これは結果としてはすごく良かった。北野氏は今度こそ丁寧に事実関係を確かめて細かく訂正してくれた。アメリカ滞在中の忙しさの中で、だ。加えて書かれた内容に対してもコメントをつけてくれ、生原稿をみせることがきっかけとなって追加取材が実現する、典型的なケースになった。
問題は、というか、気になるのはソニー側の対応である。北野氏に生原稿データを見せた時点で当然秘匿性は破綻するので、どうせ同じ事とソニー広報にもメールで同内容を送った(実はゲラチェック要求を最初から強く望んでいたのはむしろ彼の方だった)。で、そちらも最初は事実関係のチェックだけとかいう話だったのだが、生原稿を見た彼は「これはソニーへの中傷である。もっと夢のある記事にならないか」と言い出すのだ。ぼくのそう短くない書き手人生の中で「中傷」だと広報担当者からぢかに言われたのは初めてだった。で、これは読者諸氏の判断を待ちたい。ぼくが生原稿に手を加えたのは北野氏の指摘を踏まえた内容に限られ、「夢のある内容(たとえばソニードリームロボットの略だとか言う、例のパラパラロボットSDRを<未来はついにここまでやってきた>なんて歯の浮きそうな文脈で取り上げるとかしろってことでしょうか)」に書き換えたりはまったくしていない。その意味ではソニー側の要望はまったく反映されていない。その記事を読んでこれがソニーへの中傷かどうかご意見をうかがいたい(広報サイドの方々も立場を離れて、実際に活字になったものを読者としての目で見て、ぜひもう一度冷静に判断していただきたい)。
ぼくは、今回、たとえばアイボのとりまとめをした重役への取材でソニーがあくまでも「自社」の技術力の象徴としてロボットを使い、新しいソニー神話の創成を計っているように感じた(取材では経済成長期を過ぎた日本人は、右脳が喜ぶ商品を欲しがるようになる。つまりロボットだという話に終始した。北野氏の評価を尋ねた取材だったのでそちらの文脈は誌面には反映していないが、そこでぼくは)アイボがソニーという企業にとって戦略的商品と限定的な文脈で捉えられているように思った。ぼくはロボット技術が、人間と科学技術の関係をラディカルに振り返る上で非常に重要な場になるべきだと考えており、その点で北野氏とは大いに共感できたのだが、少なくとも現在までのソニーのロボット事業はそうした視点の取り方を広く世間に訴える方向には進んでいないと感じた。で、そうした「真摯に振り返る視点」が北野氏にはあるがソニーの取材では感じられなかったということを記事に書いた。そこにはソニーに未来への舵取りを誤らないで欲しいというぼくの個人的な主張がこめられている。それはソニーという企業の潜在的な技術力を評価するからこその提言なのだが、それを書くことって果たしてソニーへの中傷なのか?
ぼくは別に中傷呼ばわりされても全然平気である。よく眠れるし、ごはんもおいしい(ちょっと前歯の具合が悪いが、それも来週開けには直る)。で、別段私怨でこんなことを書いているわけではない(広報担当者は食事でも一緒にして、色々聞きたいタイプの人だった)。でも広報プレスリリースをなぞらない振れ幅の記事を「中傷」と呼ぶというのは用語法の問題としてまずおかしいとぼくは思うし、そんな用語法が慣習化してゆくとどうなるか心配になる。ぼくは鈍感だから平気だけど、中傷とか言われたら(特にメーカー様々のデジタル系のライターなんかは)ビビりますよ。自らを「手ぐさりの刑」に処してしまうのではないか。で、「中傷」という言葉の現在地をもう一度確かめて欲しくてこんな書き込みをしました。
武田徹
久和ひとみさんが亡くなった。急死と報じられているが、劇症肝炎によるものではなく、おそらくは子宮ガンと関係がある肝不全だろうから、これは関係者に知られされるのが唐突だったという意味の急死だろう。ご冥福をお祈りしたい。
ぼくは彼女とは面識がないが、偶然、コロンビア大学で彼女の研究室の前を通りかかったことがあり、壁に掲げられたネームプレートにその名前をみつけてまぶしく思った記憶がある。
しかし考えてみれば一介の元ニュースキャスターの彼女がどうしてコロンビアの客員研究員となれたのかは妙な話だし、客員研究員時代の研究がどんな結果に実を結んだのかぼくは寡聞にして知らない。もしかしたら、うがったみかたかもしれないけれど、どこかからか救いの手がさしのべられ、「箔」をつけて復帰することを期待されて、休業中にコロンビアに緊急退避させて貰える身分なのだとしたら、それもまた今の花形女性キャスターが置かれている、ある意味では羨ましいが、一方では虚しく哀れな境遇を物語るものかもしれない。
かつてTVでニュースを報じる人がすべてアナウンサーと呼ばれていた頃、彼らはもちろん顔出ししているので知名度、知顔?度は高かったが、それは原稿を読むために仕方がないのだと世間的には受け取られていたように思う。それにくらべ、今のニュースキャスターの存在は確かな輪郭を持っており、たとえば新卒の女子学生などでそれに憧れる人が多く出るのも理解できる。しかし原稿を読んでいるだけという状況は、実は昔とあまり変わっておらず(レギュラーで番組を仕切っていて自ら取材にでれるはずがない。今のTVキャスターの知顔度の高さでは取材どころか近所を出歩くだけでも相当な負担だろうし、自分で調べ、考える時間が十分にあたえられていない以上、自分の意見を持つことも難しいだろう。スタッフからネタを仕入れて耳さわりのよいコメントを一言添えるのが関の山ではないか。しかしそんな一言コメントでもありがたがる風潮があって、それは批評の軽薄短小化だ)、画面の裏側で原稿を作る力は、たとえばニュース番組が花形になるにつれてむしろ多くのスポンサーがついてその圧力下で番組作りをしなくなればならなくなるという皮肉な構図もあって、むしろ落ちているとなると、キャスターの確かな存在感の輪郭というのはなんのためにあるのだろうと思ってしまう。
武田徹
背後のOL、まだ若い女性がいきなり攻撃的奇声を彼女の後ろの男性に発するのを聞いた。男性「仕方ないだろう、俺も押されたんだから、、、」女性なおも攻撃的に抗議。確かに混んでいた、私は幸い並んでいたのが先頭だったので恵比寿から来た電車の一番先頭の入り口にもかかわらず、押されるままに奥の隙間に入れた。
しかし、後ろに並んでいて、あまり通勤混雑なれのしていない若い女性に押されるままに密着していたらと思うと、この私もあんな奇声を浴びせられるは目になっていたのではと、暫し恐怖が走るのを覚えた。
2年程前、未だ会社勤めの時、朝のラッシュ時、車内放送で毎朝しつこいぐらい「痴漢に遭われた方は近くの鉄道警察、、」などと聞かされた。あのころから女性の訴えが多くなり、そのうちの幾つかは本当のそれであったかもしれないが。このところ心当たりの無い訴えもあるとかで、先日そんな被害にあった人たちの抗議集会をテレビニュースで報じていた。
また出勤時からあんな放送で一日が始まる日本の勤労者の精神を貧困化させる元凶を憂えずにはおれなかったし、また恐怖の警察国家の復興かとも思えたものだった。
乗車率、○○○パーセントという数字で、国土交通省全国の車両混雑緩和、痴漢防止対策、勤労者疲労緩和などの方針で、公共事業を増やし、乗車率をもっと厳しくやれないものだろうか。
やはり大地震でも起こり、大量なラッシュ時の客の死でもないと、変らないものだろうか。まだあの女性の奇声が耳に残る、4月から新しい多くのOL、単に押されたことと、ほんとの痴漢と解らないまま、訴えだけがきっと増えることだろう。だからと言って「訴えるな」と言っているのではないのだが。
仕事が一段落したと思ったら今度は前歯がかけてしまった(涙)。実は若気の至りでかなり若い頃からぼくは天然の前歯を失い、差し歯状態だったのだが、ついに寿命がつきたか、硬いモノを噛んだわけでもないのに朝ポロリと逝ってしまった。
そのままではみっともないので近所の歯医者に泣きついて予約なしで手当して貰う。
というわけで現在は治療中の仮歯状態。今日ぼくと会った人はなんて無口な奴だろうと思ったかも知れないけど、それは仮の前歯に慣れず、また欠けた状態よりはましとはいえ、やはり仮の歯はなんとなく気恥ずかしく話しにくかったから。たかが前歯の状態が僅かに変化しただけでこれだけ心理的影響が出るのだから、人間というのは微妙なものだ。ちなみに人工とはいえ自分の歯に戻るのは来週だそうで、しばらくぼくは無口な人でいることを強いられている。明日から結構取材があるのだがどうしよう。
さてさて今回は歯医者で感じたことを中心にヨタ話を少々。その歯医者さんは腕はいいが口が悪いと近所で評判、特にぼくみたいな仕事をしている患者だと色々話したくなるみたいで、歯の磨き方が悪いだとか、なんだその髪型は、爆発しているぞとか面白がって言う。ぼくもめげないで対応するため、結果としてその医師とは結構「仲良し」になってしまった。最後にかかったのは3年前で、今度こそ親不知を抜こうとか、歯垢の掃除も毎年来いとか言われていたのにずっとさぼっていたのだが、ひさしぶりに行くと「お、良く来たな」という感じでまた話が弾む。
ただ、ちょっと不公平だとも思う。彼はこっちの口の中に切削器とか入れながら色々言うことが多いのだ。反論したくてもその状態では出来ない。その「テク」は歯科助手のおねえさんにも受け継がれていて、歯垢を取られながら彼女に「武田さんってウォーリーを探せのウォーリーみたいですよね、言われません? 似てるって」とか言われて否定できなかった(髪が長かった頃の話)。ずるいと思う。知り合いにぼくなんかよりもっと似てる奴がいるといいたかった。そいつは編集者なのだが、彼の笑えるエピソードの数々も披露して受けを狙いたかった。で、可能とあれば医師の目を盗んで食事に誘う体制に持ち込みたかった(?)。あーそれなのにー。それなのに、悲しいことに口の中をいじられている体制では何も言い返せないのだ。この一方的な言われっぱなし状態ってデンハラ(デンティストハラスメントーー造語です)ではないのか。
で、改めてインターネットっていいなぁと思うのだ。とりあえず反論できるでしょう。ぼくはインターネットが使えるようになる前にもある程度はメディアで発言できる、とても恵まれた立場にいたけれど、限界はもちろんあったし、メディアに関わらない人たちは、それこそ何か言われても、言い返すすべがなかったわけだ。それは歯医者で治療されながらいろいろ言われて言い返せないに等しいストレスの多い状態だったのだ。そんな不自然な状態が自然だったことの不自然さ。インターネットができて、誰もが少なくとも言い返せる場を持てるようになった。インターネットが個人が発言できるようになったというのは、それこそ多くのメディアで一種の紋切り型のように言われることだけど、それはとても大きく、重い変化で、その重要性をもっともっと噛みしめるべきだ。で、次には、その機会を生かして、何を、どうやって言い返すかが問題になるのだけれど。
武田徹
『アサヒカメラ』で宮崎学(キツネ目の男ではなくて、自然写真家の宮崎学です。念のため)が交通事故で死んだキツネから、ダニやノミが逃げ出す様子を接写の連続カットで撮っている。これは今まで見たことがなかった光景なので印象的だった。血流が止まり、もはやここにいてはダメだと察した虫たちは、毛の表面の方に移動をはじめ、新しい宿主を求めて手を広げる。その瞬間を写し止めている。
もしも野生生活の中での死であれば他の肉食獣が近くにいるはずで虫の移住は成功していただろう。死ではなく普通の生活であれば、生殖行動においては雄から雌、雌から雄への移住がありえ、育児中なら親から子へ飛び移ることもできるだろう。しかし孤独な交通事故死ではそれが叶わない。
交通事故死はキツネ単体の死ではない、キツネに関わる多くの生命の死なのだ。たとえば道路建設の影響を、それについての反対派も賛成派も、そうした共生系の拡がりの中で論じることはないのではないか。自然は常に予想を裏切るかたちで多様である。それはそこにある共生のメカニズムが予想を超えて複雑だからだ。キツネの死だけでは起こり得ない影響がキツネに寄生していた生物の死によって引き起こされる可能性があるが、そこまでの結果はパラメータが多いし、複雑に絡んでいて推測が難しい。である以上、予想可能性を諦め、むしろその「予想を超える」ことをひとつの公理として政策決定や意志決定に織り込むことは出来ないのだろうか。たとえばこの道路を造った場合の環境への影響は現在の調査では問題がないという結果がでているが、「予想を超えた事態が起きる可能性は常にある」ので、道路完成2年後にはもう一度、第三者機関による影響調査を行い、望ましくない結果が認められれば道路をなかった状態に戻すというように。こうしたことを制度的に確立すれば、ひとたび道路が出来たから、その周辺に工場を作られ、住人が増えて、もはや道路自体が後戻りできない既成事実になってしまう流れを多少は減速させられるのではないか。もちろん致命的に環境破壊する選択は禁物で、あくまでも少しずつやってみて結果をみながら考えるというのは、「なんでも反対」の逆立ちしたファシズムの暴走を牽制することにもなる。
常に推論不可能な領域として残るグレーゾーンを相手取る社会的技術の確立。これはぼくが最近、原子力の問題を考えるときにひとつのテーマに据えていることなのだが、本気で理論化してみる価値はあると思う。
武田徹
思い切り緊張感を盛り下げるけど、この前、コミックモーニング・マグナム増刊について書いた時、モーニング本誌の方は休刊ではなかったらしい。今週号を買ったらナットクラッカーズは怒ってアメリカに帰っているし(『部長島耕作』、J2リーグチームとベトナム人チームのサッカーの試合は終わっている(『大使官邸の料理人』)。準軟禁状態だった上に一番近所のコンビニが改装中で休みだったしわよせだ。せめてサッカー試合の結果だけでも誰か教えてくれー(笑)。
で、近所話ついでにひとつ。ぼくの家から東に200mぐらいいったところが、東京外環道路計画地にあたる。計画決定は40年以上前。その後、手つかずのまま残されてきた。
外環は常磐道から関越までは出来て、うちから常磐道に抜けるときにはお世話になっている。箱崎経由の首都高で行くのとどっちが早いか微妙なところだが、少なくとも渋滞の可能性は少ないので気分的には楽だ。で、その未開通部分も出来ればいいかというとぼくはこれについては反対である。石原都知事と扇国土交通大臣の時代になって、今まで凍結されていた外環未着手部分の建設推進への動きが見えるが、これは愚かだと思う。
40年前だったら意味があっただろう。ぼくは、自分が生まれた場所に住み続けたい住民感情、つまり立ち退きに反対する人々の土地へのこだわりは理解するが、それを踏まえてなお自分達の住む都市全体を考える視点が欲しいと思う。そしてそのために、生まれ育った場所でない土地も経験したいと思わせるような自由で風通しのよい都市に東京にはなって欲しいと思う。「私」的なこだわりを否定せずに、公的な利益を両立させるーー、それがぼくが以前よく使っていた公私混同論なのだが、外環の早期整備はまさにこの公私混同の理想の上に合意されるべきものだったように思う。そしてそれが出来ていたら東京は違うかたちになっていた可能性さえある。
しかし、もはや遅い。これから立ち退き交渉をしてということだと道が出来るのは更に10数年先になるはずだ。そのときには自動車の方が今とは全く違うかたちになっている可能性が高いし、そうなっていないと地球環境が持たない。つまり石原氏が道路政策推進の時にしばしば持ち出して使う東京上空にあるスモッグ雲とかは外環が全通する時にはもはや渋滞云々とは別に消えていなければならないものなのだ。
都市計画とは100年の計と言われる。当然、自動車の次のかたちを見込んで計画は立てられるべきであって、今の渋滞を思考の根拠にすべきではない。そもそも渋滞による経済ロスが名のクエンだとかよく四散するがあれほど一方的な数字もない。ぼくはたとえば道路工事ひとつするにも車線を減らして平均速度を遅くする事なかれ主義的な交通政策は嫌いだが(その意味で石原都政のユニークさには興味深い部分もあるのだが、渋滞の経済損失試算の欺瞞を指摘するためにあえて平均速度が遅くなっているメリットを挙げれば)速度が遅いために事故は軽くて済んでいる。もし東京の自動車の走行平均速度がいまより10km/hあがれば(今の運転技術、今の歩行者の自動車交通との接し方のままでは)残念なことだが交通事故死者数ははるかに増大するだろう。その損失を考えれば渋滞の経済コストの計算は絶対に下方修正が必要となる。
東京に何が必要かもっとよく考えるべきだ。
武田徹
最近起きた話だけど、既にぼくが完全に譲歩するかたちで落着した以上、具体的な内容をつまびらかには書けないが、今度出る『編集会議』のぼくの記事からは、取材を受けた人が話した「あること」が削除されている。そう書くと内容を知りたがる人が出そうなので、いらぬ期待を抱かせないようににしておくが、この「あること」は実は本質的なものではない。この記事において書くべきことは書かせて貰えたと思っている。
では、なぜそう大した内容ではない部分が、ここに来て問題になったかといえば、単に取材を受けた人が出して欲しくないと言い出したからだ。ぼくは彼を取材相手を困らせる目的で記事を書いているのではないので、その申し出自体は、もっと早い時点であれば、受け容れてもいい話だった。ただゲラの段階で、つまりもはや全面的改定が不可能な段階で、部分的に削除をすると、そのコメントがあることを前提として組み立てた記事の構成がめちゃくちゃになる。そこで、本人のコメントではなく、地の文にしたらどうかとか、内容を曖昧にしたらどうかと、いろいろ条件交渉を試みてみたが、編集部側は納得してくれない。
担当者との電話でらちがあかないのを見るに見かねてか、先日、鳴り物入りで『編集会議』誌編集長になった花田御大が変わって電話に出た。なぜそこまで相手を守ろうとするのか不思議だったが、花田氏は、会社員は辛いものなんですよ、社内の立場とかいろいろあるんでしょうとかしみじみ言う。彼ならでは?の重さを持つその言葉に免じて、というのも変だけど、(言葉のレベルでは)それなりに編集部側の姿勢も理解できたので、話がもつれて妙な方向に流れるよりも、「では貸しひとつ」ということで削除に同意する道を選んだ。
もちろん納得のゆかないことはいくつかある。繰り返すけど、「あること」を前提として組み立てた記事は、取材で得られた事実がすっぽり抜け消えたので、どうもこちらが当て推量で論を運んでいる印象が強くなる。こうした変化で被害を被るのは書き手だ(その被害を少しでも減らしたい気持ちで、削除合意後にこんな書き込みをしている事情を理解して欲しい)。なのにその取材を受けた人は、なぜぼくに直接話をしなかったのか。エレベーターホールでうっかり話してしまったとかではない。テープが回っている、正式な取材時間内に話したことなのだ。書かれて当然のことの削除を、削除を後になって申し出る、そのことが引き起こす影響を理解しているなら、すべきことは編集部に泣きつくだけではないのではないか(もしかしらぼくは時間的な理解において誤解があるのかもしれない。少なくともぼくのところにこの件が伝わってきたのはゲラが組まれてからだが、もしもっと早く彼が削除を要求していたのにぼくに届かなかったのだとしたら別の問題がある。しかし、それもぼくに直接話してくれていたら起きなかったことだ)。
そして、文春時代にほんの少しだけ縁があった花田氏とこういうかたちで再び関わることなったのにも感慨深いものも感じた。ぼくがこの雑誌への連載を受諾したとき、彼が編集長になるなんて話は影も形もなかった。で、もし彼の着任が決まった後だったらどうなっていただろう。歴史にイフはないが、顔の広い彼ゆえに執筆者には不足せず、そもそもぼくに執筆の話がこなかった可能性がまず高い。で、万が一、ぼくに話が来て、ぼくの方に選択の余地があったらどうしていたか。連載を始めることを相当に躊躇したと思う。
というのも、気になるのはやはり例のガス室問題なのだ。ぼくは、たとえばハンナ・アレーントの『イエルサレムのアイヒマン』を無視するようなかたちでホロコーストの記憶を守ろうとする運動は問題だと思う。リビジョナリズムが発生する原因のひとつは、そういう、ある意味で極めて自分勝手なユダヤ史の正当化にあるのだと考える。ただ多くのリビジョナリズムはそうした姿勢へのまっとうな批判ではなく、人間のもっと根の暗い心に巣くっている。それがこの問題に複雑な構造をあたえている。
この問題については、そうした複雑な事情を理解した上でふるまうべきであってので、花田氏がああいうかたちで「ガス室はなかった」という記事を掲載したのはやはり軽率だった。彼自身はリビジョナリストでもなんでもなく、ホロコーストの神話に風穴あけたいというやんちゃな編集者マインドの現れでしかなかったのだろうが、記事を作るまでの手続きが相手にふさわしいものでなかったことは認めるべきだ。
花田氏について世間は週刊文春の部数をのばした辣腕ぶりを評価するが、ぼくは彼が、とにかく編集好きで、密度の高い、面白い雑誌を作ることを高く評価する。しかし、だからこそ花田氏にはもっとのびのびと仕事をしてほしい。サイモン・ヴィーゼンタルセンターは、花田氏を放逐したことで文春は改悛の意ありとみなしている。しかし当の花田氏はまだ許されたとは言えない。それは外資系企業の(たとえば広告を出稿する時の)花田氏の作る雑誌に対するスタンスの取り方に影を落としているはずだ。
日本人はユダヤ人問題にそもそも無頓着だから、5年前のマルコポーロ廃刊の後遺症がいまだに根を引いているとは想像すらしないだろう。今度、彼をスカウトした宣伝会議も(かつての朝日、角川と同じく)そうだったに違いない。しかしそれは国際的なメディア社会環境についてあまりにも無知だと言わざるを得ない。宣伝会議が長く、いい仕事を花田氏にしてもらいたいなら、マルコで何が起きたかきちんと花田氏に事情説明し、釈明(や必要とあれば謝罪を)する機会を誌面であたえること(もちろん英訳つきで)、出来れば外国人記者クラブでの釈明の機会をもつことが望ましいのではないか。新会社に移ったのだから、心機一転再スタートを切るせっかくのチャンスを生かして、それをセッティングする努力を会社側もするべきだった(本当は朝日がそれを絶対にすべきだった)。ひたすら許しを請うというような自虐的姿勢はもちろん必要ない。ただ影響力の重大さを認識したうえで、なんらかの具体的対応は必要だろう。クレームを(ただ呑むのではなく)、将来に生かして行く視点が大事だと思う。
こんなことをここで書くと、先に「なぜぼくに直接話をしない」と言った手前、言葉を翻して、お前だってそうすればいいじゃないかと言われそうだが、今、ここで書けば殆ど関係者直撃だろう。ただ、この場合、直接言うより良いことは、個人が内々でやっているWEBなら、見て見ないふりもできることだ。そうしてくれて結構だと思うし、むしろそうしてほしい)。ぼくのような若造が偉そうなことを言うおかしさは、本人が一番よく知っている(し、久しぶりにせっかく始めたルポ系の連載が、この書き込みが原因で途中打ち切りになることへの不安も正直言ってある)。ただ、どこかでけじめがつけられることを望んでやまない気持ちがあることが、密かに(出来ればスマートに)伝って、少しでも新しい方向に進む流れが出来ればと思っている。
武田徹
書評の仕事で読まされたんだけど、ドン・タブスコット他著『Bウェブ革命』(インプレス)という本はちょっとひどい。
内容的にはウェブでビジネスをするにはどうするかという指南書で、キョービこれを読みたい人は相当いるんだろう。確かに店舗というリアルプレースではなく、WEBサイトを拠点としてサイバースペースでビジネス展開するには独特のやりようがあるだろうし、考えておくべき特殊なマターも多くあるはずだ。その意味で指南書が求められる事情は理解できる。
しかし問題は、WEBビジネスが「生き残る勝者」と「消え去る敗者」を必ずや隔てるとあらかじめ決めてかかる姿勢だ。アマゾン・コムですら成功するかどうかおぼつかないのに、それはないんじゃない? 少なくともこれは社会科学の書物ではない。このように選民思想的な視点を示し、熱弁を振るう語り口は、言ってしまえば、多くの新興宗教書と共通するものだ。「デジタルの教祖が、勝利を信じたい信徒に送った予言書のようなものと思えば本書の位置づけは理解し易くなる」と皮肉っぽく書評では締めたけれど後味は猛烈に悪い。日本だと勢いだけのIT革命本が結構あるけど、アメリカは逆に冷静だと思っていたのに、これは例外的だ。山形浩生的に言えば、これも手袋をしないで読むと馬鹿が伝染する本の一冊だろう。
いや、少し冷静になろう。選民思想、および世界が劇的に変わる=約束の土地が到来する、という考え方で思い出すのは、ユダヤキリスト教的な歴史観だ。カール・レービットが『世界史と救済史』で批判したようにユダヤキリスト教圏の歴史観は少し油断すると終末論の焼き直しになる。そしてそれはとても自分勝手な選民思想的なものになる。たとえばナチはユダヤを抹殺しようとしたが、その歴史観は実はユダヤ教的なものだったとも言える。
そしてデジタル革命もついにそうしたユダヤキリスト教的な終末論まで甦らせたということか。その意味ではこの「新しさ」を臭味を感じるほど自負する本は、決して「新しくない」。
そして、そんな内容の本に推薦の言葉を寄せている人の名前に記憶があった。井関利明。ここでは千葉商科大学教授の肩書きにあっているけれど、ぼくの記憶に間違いがなければ、確か前には慶応にいた人ですよね。そしてこれも記憶が間違いなければ、ぼくはこの人と一度パネルディスカッションのようなものに御一緒したこともあった。この人は相当の新しいもの好きで、そのパネルディスカッションでも「社会はもうすぐ劇的に変わる」「新しい社会の到来に乗り遅れてはならない」と繰り返し、「ポストモダン社会革命」とかをやたら無批判的に謳い上げる話をしていた。あんまりなので「そんな簡単なもんでもないんじゃない? 世の中そう簡単に変わりはしないでしょう」というニュアンスの意見を述べたら、ぼくは会場から総すかんを食った。井関先生はサポーターを大量に引き連れて会場に来ていたようで、彼らがぼくにさかんに食ってかかるのだ。で、その聴衆が彼が何か言う毎に本当に涙を流さんばかりにその有り難い話を聞いている。ボコボコにされたぼくは、こりゃまるで新興宗教だと思った(もしサポーターの方々がこれを読んで反論があったらおっしゃってください、でも論理的に、お願いします)。
その時の印象は、ずっと忘れていたんだけど、この本の内容と共鳴するかたちで思い出した。そうした宗教的雰囲気がそのままネットビジネスには流れ込んでいる。これは日本でもアメリカでも、この種の本を読むときは今に増して要注意ってことだろう。
武田徹