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どこまでが本当にあったことなのか 投稿者:武田徹 投稿日:
1月25日(木)23時57分08秒
例の巡回中の警官が少年を撃った事件。ビデオに撮っていたわけではないので不確かだが、事件発生直後は「警官も肋骨を骨折する重傷を負っていた」と報道されていたように記憶する。それがさっきのニュースステーションでは「警官は少年に警棒を奪われ、めったうちにされていた」に表現が変わっている。この変化はちょっと気持ちが悪い。撃つことなしに済んでいればそれにこしたことはなかったのだろうが、せっぱつまった事態ではあったのだろう。官は悪で、民は善と最初から決めてかかるのもまた偏見なので、そこまで疑ってかかるつもりはない。ただ一発目は空砲、二発目、三発目が命中ということは事実らしいので、空砲を撃ってから相手の身体に命中させられるだけの射撃の制御は出来たということだ。これは後で肋骨を折れていたことがわかったという程度の怪我ではなかったか。ということは最初の報道の「重傷」というのもやや誇張されているように思うし、それが「めったうちにされていた」という表現に変わったのも、射撃にいかに必然性があったかを印象づけるもののように思えてしまう。
これはうがち過ぎた見方であって欲しいが、少なくとも言えるのは、報道はもう少し慎重であったも良いのではないかということだ。近所の住民は銃声しか聞いていないようで、この事件は目撃者がおそらくいない。となると、少年に接触できるようになれば別だが、そうでないかぎり、警察発表以外に取材しようにも出来ない。「重傷」も「めったうち」も警察発表だろう。だったらそれを「警察の発表では重傷とのこと」「めったうちにされていたとのこと」とソースを明示して報じるべきではないか。発表している警察が当事者であるというもっとも一方的になりかねないケースなのだからウラも取れる事実なのか、特定の立場で発表された文脈の中で事実として扱われていた情報なのかは厳密に分けておいた方が身のためだ。
例の筋弛緩剤殺人or未遂の容疑者のケースも、この時点で全面否認してきたというのは、ちょっと気になる。これも彼が犯人に違いないという方向で散々報道しちゃっているのだから。河野義行さんの冤罪報道では後からずいぶん反省したようなことを言っていたジャーナリズムだが、なんだかまた喉元過ぎればになっているような気がしてしまう。発表ジャーナリズムはもはや常習性ある麻薬なのか。
武田徹
JPNICご乱心 投稿者:武田徹 投稿日:
1月24日(水)23時48分26秒
JPNICから会社を設立するから記者会見にこいというメールが届いた。JPNICというのは日本ネットワークインフォーメーションセンター。ドットJPのドメイン管理をしている団体で社団法人である。
しかし、この団体、ちょっとすごい。ぼくは昔一度取材したのだが、その後、プレスリリースを送ってくる。活動報告も送ってきたが、それが(急ぐものでもないのに)到着期日指定の宅急便で、ぼくのような留守がちの人間には当然うまく届かない。出先に要り所を電話で呼び出され、指定期日に届けられず、あまりに宅急便のドライバーが困っているようなので「郵便箱でいいですよ」といったら、そうもいかないのだと言う。数日後、ようやく荷物が受け取れて合点した。文書を送るのにどう考えても不必要な巨大な箱入りになっていて、郵便箱なんかとても入るサイズじゃない。ようするに全てがこのように常識はずれなのだ。ドメインを管理するのはいいが、ドメイン取得申請者の個人情報をデータベースで公開している。それはあんまりじゃないかと前々から批判を受けていたが、それでも直さなかったらハッキングされて、管理能力の無さを強制的に露呈させられるという処刑処分?を受けたりもした(そのへんの事情はぼくの『デジタル社会論』に書いている。今回の記者会見もなんと明日の開催。それを伝えるメールが今日来たのだから呆れる。出席の方は今日日の11時までに連絡をくれだとさ。おいおい。
しかも今度は汎用ドメイン管理のための新会社設立だって? ドメイン管理は公共的な作業だから社団法人格でやっていたのではなかったのか。もう呆れ果てて何も言えません。
ただひとつだけ、書いておく。このJPINICという団体は、かの村井純が理事長を務め、彼の息のかかった人物が実務責任者である専務理事を勤める。今でこそJPNIC経由でないドメイン取得が色々と可能になったが、日本でのインターネット普及の初期にはドメイン管理団体として極めて強い権力を持っていた。その運営権を偏った人脈が掌握する、そういう団体なのだ。そういうことが許されて来たという事実は日本のインターネット社会のある一面を極めて象徴的に示すものだ。そういう問題意識でJPNICとその新会社やらの今後をウォッチして行くことをお勧めしたい。
武田徹
図書延滞料の話 投稿者:武田徹 投稿日:
1月24日(水)00時50分13秒
最近、週に一度、母校に講義に出掛けている。十数年ぶりにキャンパスに戻ると懐かしさもこみあげるが、当時、感じていた感覚が不意に甦って驚かされることもある。
講師のステイタスで図書館が使えるので、授業で使うテキストで言及されている参考文献なども出来るだけ駆り出して教室で学生に見せるようにしている。そんなことを始めて数週間後、わが母校は何事にも細かなサービスが特徴で、図書館から今何を借りているか教える手紙が送られて来た。そこに延滞料金の表示がある。そうなのだ。母校はなんでもアメリカ式で、図書の返却が遅れると一日当たり10円を徴収するのだ。そうしないと次の貸し出しが許されない。学生時代、うっかり返すのを忘れていてずいぶん払い込んだことがあった。
アメリカでは全てが契約主義で、たとえば歯医者でも予約した時間に行けないと違約金を取られるらしい。確かに歯医者にしてみればその時間は他の客を取らないで待っていたわけだから収益が減る。その埋め合わせを要請する権利があるというわけだ。それはそれで理解できるのだが、なんでもお金で解決するというのはやはり違和感がある。しかしそんな話をすると、アメリカに留学していた知人の編集者は、アメリカのように様々な文化に所属する人々が共生する社会では、一々事情を配慮していられないし、そもそも配慮も仕切れない。そこでお金という共通の尺度に換算して賠償させるのが一番平等だし、後腐れがないのだと言った。確かにそれも一理あるのだろう。
で、母校の図書館の話しに戻るが、送られてきた貸し出し内訳表の延滞料金のところは全てゼロ。つまり課金されていない。今回、ぼくは貸し出し期間内で返却していたので当然なのだが、実は延滞してもそれはゼロのままである。というのもぼくの出身大学では延滞料金を払うのは学生で、教職員は延滞料金が課せられないのだ。
十数年前、ぼくは大学院で修士を終えた後、助手になった。その時、図書館でいくら延滞しても課金されない身分になって、ひどく居心地が悪かった。なにか不当に優遇されている気がしたのだ。私学の経営を支えているのは学費だ。受益者負担と言えば言えるが、高い学費に学生時代のぼくは正直辟易としていたのだから、助手になって学費を払わないで済む身分になってほっとした。しかし図書館の延滞料まで払わないで済むというのは割り切れなかった。教員の給与も学費によってまかなわれている。そんな教員が大学の備品(=図書館の本)を自分都合で独占する。学費によって維持されている図書館を学費によって養われている教員が私物化するというのは、学費を払う学生に間接的に二重の負担を強いていることになる。そんなことまでする権利は教員にはないし、そんなことまでさせられる筋合いは学生にもはずだ。教員こそ延滞したらその埋め合わせを金ですべきだとぼくは思った。学生の延滞料金の2倍払うとか。
しかしそうはならず教員は延滞料もタダ。さっきまで高い学費に苦しんでいたのに、今度は高い学費を学生に払わせて自分は楽をする、そんな制度に安住する身分になっていたことが、ぼくはなんとも嫌だった。そんなことまで頼んだつもりはない。
その後、助手から博士課程の学生の身分に戻ったのは、もちろんそれだけではいが、図書館の延滞料タダに象徴される、妙な優遇制度、制度を決める側の人間が自分を優遇する制度を作る恣意性に対する不快感があった。
その時に感じていた不快感をひさしぶりに大学に戻って、教員の身分で図書館を使ってみて思い出した。そうだった、これがいやだったんだ、ぼくは。場所が記憶をまざまざと甦らせてくれる。これが嫌で、ぼくは学生に戻って、そしてその後は大学には勤めずに書き手になった。そう考えると、この嫌な感覚こそ、ぼくが今に至る流れを用意したひとつの核になっている。自分の核になっている感覚を、大学にひさしぶりにもどってぼくは思い出したのだ。お金という(とりあえず)普遍的な尺度に還元することは確かに公平さを導く可能性がある。しかしそれは可能性でしかない。公正さを実現するには、還元の換算率がどうあるべきかを考慮すべきだろう。誰がどう代価を払うべきか、そこで守られるべき弱者は誰で、強権を批判されるべき強者は誰か。それはぼくが物書きになって一貫して考えようとしてきたことのひとつだ。仕事の方向性は案外と若い時分に決定的なかたちで造られているのだ。レールは敷かれ、そのうえをぼくたちは走る。そんなことを改めて思った。ちょっと個人的な話で恐縮だが。武田徹
取材のリアリズムについて 投稿者:武田徹 投稿日:
1月23日(火)10時38分47秒
なんだか時間に追われていてなかなか書けません。みなさんが書いてくれるので、運営者の怠惰のために読んで下さる方に届ける情報の発信間隔が開いてしまうのを防げて、助かってます。
粥川さん。自殺行為って、少し気にしすぎですよ。そのケースでは、ぜんぜん勉強していなくて取材に来る方が悪い。自分の身の丈に合わせて取材せざるをえないのは取材者の宿命だけど、とんでもなく身の丈の低いのもねぇ。そういう人に取材させているメディア側の責任問題でしょう。
文字媒体と違って、勝手なことを書かれる恐れはないけれど、TVの収録で取材に来た相手がダメだともう泣きたくなります。無茶苦茶な質問されてもそれに答なければならないし、その間もカメラは回っているんですから。
あと、直しに関してはぼくも苦い思い出が。いぜんある雑誌で対談をした時、あがってきたゲラに相当手を入れました。ぼくは前にも書いたけど、一度、喋ってしまったコメントについて後からゲラ見せろとは言わない主義なのだけど、この時は対談であり、顔出しでしゃべっているので編集部の方からゲラを見せてくれた。で、見てしまって、これでいいですかと言われると直したくなるのが人情(だからぼくはゲラ見せろという人の気持ちは分かる。でも少なくともジャーナリズムに籍を置くんだったら「武士はくわねどなんとやら」で我慢も必要か、と。それはこれまでの議論の保趣旨です)。これは構成者が悪いと言うのではなく、ぼくが口べたでその場で話していた言葉が「際だって」いなかったため。構成作家の人は、ぼくが喋った貧しい語彙の中でなんとかまとめようと苦労してくれたのだけど、そのままでは商品にならないと思って、ぼくの個人的な判断で対談の流れをそこなわない限りで表現を変えました。ちなみにその時の構成作家の人は、後に直木賞作家になりました。苦心の作に手を入れてしまった、あの時の無礼(本人が自分の言葉のゲラチェックなので手続き的には問題はないと思うけど、初めからきちんと話せないこちらの不手際でせっかくの苦労がある程度水泡に帰すわけで少なくとも無礼ではありますよね)を謝っておいた方がいいのか悩みます(笑)。
そうそう、もうひとつ対談では、前に若手ノンフィクション作家が集まってというのがあったんだけど、これはもうひどい鼎談で、女性作家が口火を切ったが良いがそのまま延々と話し、ノンフィクションは英語ではないとか妙なことを言い出してそれで予定時間が半分ぐらいなくなる。次にある男性作家がまた延々と格闘技の話をしてそれでもう殆ど時間は終わり、ぼくともう一人の男性作家は発言量が殆どないというものでした。で、仕方なく編集部からも頼まれてゲラに書き下ろしで言葉を足し、対談のリアリズムなんてどこ吹く風でなんとか「対談しているようなかたち」に脚色したんだけど、これには更に事後談もあって、二人目の延々と話した男性作家から深夜に電話が来た。聞けばいま例の対談原稿の校了中なのだが、しつこくもまだいじっているらしい。で、「おれはこう言ったことにしたいんだけど、きみの言っていることとと筋が通らなくなってしまうのでそっちを変えてくれないか」という。後から自分の言葉に手を入れるだけでなくて、人の言葉まで変えろと言うわけ。ちなみに混乱の原因を造った女性作家はその時点で大宅賞を取っていたし、人の言葉まで後出しじゃんけん的に変えろと言ってきた人は後に講談社ノンフィクション賞を取りました。(先の例もあって自戒を込めてだけど)ノンフィクションってなんぼのものかって、この時は思いましたね。そんな心性では、仕事もあんまり信じられないなぁって、たとえば彼の講談社ノンフィクション受賞作を手にしても思わざるをえない。ゲラ問題議論でそんなことを思いだしました。ちょっと余談めいていますが。
武田徹
コメントありがとうございます 投稿者:袋小路 投稿日:
1月21日(日)01時09分56秒
武田さん、粥川さん、コメントありがとうございます。この話は気になっていて、今回のように折りを
見ては同僚や同業者に聞いたり、挙動を観察しているのですが、みなさんいろいろですね。著作権が取材
相手に属しそうな長行のインタビュー原稿でも見せない人、見出しやレイアウトも決まり、紙面通りに組
み上がったゲラ(他の取材相手のコメントや記者の見解部分も含まれてしまう)を相手にファクスする人
、その人を指して「ああいう真似しちゃいかんぞ」という人、いろいろです。ただ、「ゲラ見せるなんて
論外」という建前もあって、社内では表だって提起する機会がないものです。
「生原稿の段階で見せる」というのは私も同じです。原稿を介した取材対象とのやりとりを通じて、さ
らに中身を深める道だってあるだろう、と思います。なかなか余裕はないですが。まあ私の場合、「記事
の方向性自体が相手にとって不本意なもので、しかし相手側が記事をつぶす力を隠然と持っている」よう
な相手の取材は最近していないもので、社会部方面の同僚からは「甘い」といわれるかもしれませんが。
お礼と懺悔(?) 投稿者:粥川準二 投稿日:
1月20日(土)11時49分01秒
武田様、度重なるご教示、ありがとうございます。
宮崎氏については、僕もすべての本を読んでいるわけでなく、オカルトや脳死について
書いたものについて、なかなかいいなと思ったていどです。この人の書くものは短いも
のが多くて、ちょっと物足りないですね。
宮台氏については、聞くところによると、最近は「自己決定の権化」でもないとか。ま、
自分で読んでみます。むしろ僕が自己決定の権化と見なしているのは、生命倫理をやっ
ている加藤某だとか星野某とかですけど。
橋川文三って「雰囲気」の人ですか? 『ナショナリズム』が結構面白かったので、最
近岩波で文庫になった『黄禍物語』を読もうかなと思っていたところですが。
* * *
袋小路様、初めまして。僕も科学技術を取材対象にしています。
僕もゲラについては苦い思い出があります。昨年秋、生まれて初めて某雑誌のコメント取
材を受けたのですが、質問があまりにつたなく、記者は事前にその件についての本も一冊
も読んでいないようで、僕の説明も理解していないようだったので、僕は「こんなこと自
分に言われたら嫌だし、ほんとは言いたくないのですが……」と前置きしてから、「事前
にチェックさせてください」と、申し出てしまいました。記者と編集者はなんのためらい
もなくそれに応じてくれて、ゲラをファクスしてきました。それを読んだら……僕が言っ
たこととは全然違うことが書いてありました。記者は全然わかっていなかったようです。
僕は、僕以外の人のコメントには目をつぶって、自分のコメントのところだけ、これでも
かというほど赤を入れて返しました。「失礼だろうな」とは思ったのですが、あのまま記
事なったら……と思うと冷や汗が出ます。それほどの内容だったのです。でもやはり、ジ
ャーナリストとしては自殺行為だったとも思っていて、いまでも悔やんでいます。(ちな
みにそのとき、20枚以上の写真を撮られたのですが、記事で使われた僕の顔写真は唇がひ
ん曲がっていて、どう考えてもわざとへんな顔に写っているものを選ばれてしまいました。)
なお僕が取材するときにも、ゲラを見せてくれと取材対象から言われることはしょっちゅ
うあります。そのとき僕はどうするかというと……驚いたことに、僕も武田さんと同じよ
うに、原稿段階でやりとりをします。そのさい、ご要望通り訂正できるとは限りません、と
必ず書き添えます。もちろん、自分の主観が書いてあるところは絶対に直さないし(という
か、その部分はそもそも見せない)、基本的に批判する対象(?)の場合にも、見せません。
また、医療過誤の被害者などプライバシーが絡む場合には、自分から見せると申し出ます。
ゲラのチェックについては、吉田司さんが『ニッポンの舞台裏』(羊泉社)で、面白いエピ
ソードを紹介していましたよね。未読の方は、ご参考に。
僕も7〜8年前、編集の仕事を始めたとき、上司から「取材対象にチェックしてもらうのは
取材の基本だ」と教えられました。それを「基本」にしていたら、「記事」はつくれても
「ジャーナリズム」はできないな、と当時から思っていて、いまも思っています。
「ゲラを見せる」問題について 投稿者:武田徹 投稿日:
1月20日(土)10時46分17秒
袋小路さん、書き込みありがとうございます。
ぼくの先の書き込みはやや描写が薄かったかも知れません。
これは先の書き込みでも触れたことですが、ぼくも自分からゲラチェックをお願いする場合があります。たとえばぼく自身がかならずしも取材対象の置かれた状況を知悉しているとは言えない場合。もちろん出来る限りの予習はしますが、それでも埋めきれない知識差が致命的な問題を引き起こす可能性があるばあいは、ゲラを事前に見て貰い記事が予想外の被害を生じさせることを避ける選択をします。チェックの対象は専門技術的な事項だけに止まらず、差別問題などの微妙な部分なども含むものです。こちらは問題ないと思っている表現が当該共同体では致命的な問題を起こす場合があり、そんな報道事故を避けるために事前にこちらからお目通しを願うことは必要だと考えます。
ぼくが先の書き込みで俎上に載せたのは、そうした取材者側からのチェックを願いする場合ではなく、被取材者側からのゲラチェックの要請に応じるべきかということですが、これについてはやはりぼくは原則的として応じるかどうかはあくまでも取材し、報道する側の主体性で決めるべきだと思います。ジャーナリズムの公共性のために、ゲラチェックさせずに記事に出来る可能性を出来るだけ広く担保する(ってちょっと変な表現ですが)必要があり、そのためにはジャーナリズム機関が自分からゲラチェックを要求してしまうような愚行だけは冒すべきではないというのが先の書き込みの趣旨でした。
ただ「ジャーナリズム機関がゲラチェック申し出」はぼくは絶対におかしいと思うけど、一般論としては、ここもあまり杓子定規の扱いでは壁にぶち当たりますね。上野さんの指摘にも傾聴すべき部分は当然あります。袋小路さんがいうように「みながゲラチェックを取材の条件にするようになったらどうするか」というのも検討すべき問題だと思います。
ぼくの個人的な対策を(企業秘密ですが、ここだけの話ということで)紹介すると、ぼくは基本的にライターとして取材しますので、ゲラを組む前の段階の生原稿を扱う立場にあります。そこで相手からゲラを見せてくれないと言われた場合、(そもそも記事の方向性自体が相手にとって不本意なもので、しかし相手側が記事をつぶす力を隠然と持っている相手である場合は、絶対に見せられませんが、それ以外のケースの時は)生原稿の段階で見せるという方法を採ることがあります。そうすればゲラは見せないと言うジャーナリズムの建前に抵触しないで、取材を受けた側にどういう記事になるか事前に概容を知らせることが出来ます。で、納得して貰えればいいし、もちろん色々と直してくる場合もある。で、ここからが大事だと思うのですが、ぼくはそういうやりとり作業を追加取材の一種だと考えています。とりあえず最初の取材の成果に基づき、自分の意見を含めて記事を書いてみた。それを被取材者に伝えたらそこに自分の考えを付け加えてきた。そう考えて、その訂正の結果を踏まえてまた原稿を直します。もちろん相手のコメントの部分は被取材者がチェックした段階で(生硬な表現があれば再度確認を取りながら直す場合はあるけれど基本的に)固定しますが、地の部分は「追加取材」の結果次第で書き直します。そうすることで被取材者の主張を向こうの望むかたちで出来るだけ正確に伝えることと、ジャーナリスト側の批評活動の主体性のバランスを模索して行くという方法を時々します(わざと手を入れさせてそれをあげつらうようなあこぎ?な方法はしたくても(笑)しません。あくまでも倫理的に許されると自分が考える範囲に止めているつもりですがーー)。
こういう作業は手間がかかるのですが、必要だと思いますよ。上野さんが言うように、取材したらしっぱなし、正確な記事を書く技術もないのに「ゲラは見せない」と硬直した論理を振り回す記者(ぼくはそうした人が広報部とか移動すると自社が取材を受けた場合にはゲラを見せろと要求するような人になるのだと思います。ということは問題は意識の硬直だということでしょう)も問題ですが、最近の音楽雑誌やデジタル系雑誌の若い書き手とかはゲラは当然相手に見せるものだと思っているようですが、それも困ったものですね。
武田徹
ゲラを見せること 投稿者:袋小路 投稿日:
1月19日(金)22時45分10秒
はじめて書き込みます。新聞記者をやって10数年になる人間です。今は研究者を主な取材対象にし
たり、原稿依頼したりすることが多い部署にいます。
「ゲラ見せるか否か」の点はいつも考え込む問題です。最近のように、報道被害が批判される世の中だ
と「ゲラ見ることが正当な権利」と考える取材対象も増えていると思います。上野千鶴子さんは『原稿
を依頼する人、される人』(燃焼社)という本の中で「(取材原稿を見せないという)新聞社の慣行を
改めてほしい。発言に責任取るのは私なんだから」と言ってます。
「ゲラ見せてくれきゃ取材を受けない」という人が世の中の大多数を占めたら、武田さんはどうしま
すか? かつてはジャーナリズムの「公共性」のようなものをみんなが納得して取材を受けてくれたの
だと思いますが、もはやそういう時代ではないと思います。
私の場合、取材慣れしてなさそうな(もしかしたら「原稿見せろ」と言いたくても言い出せないのか
もしれない)人の場合、こちらから「原稿ご覧になりますか」と声をかけることもあります。武田さん
からみると自殺行為、なのかもしれませんけど、取材慣れしてる人は原稿見せてほしければ見せろと言
うだろうし、慣れてなさそうな(メディアリテラシーの低そうな)人にむしろ配慮すべきじゃないかと
思っているので。ただ、こうした「前例」をつくってしまうと取材対象に「ジャーナリズムは原稿見せ
てくれるもの」と思わせてしまい、「この前来たA社のBさんは原稿見せてくれたのに…」と「同業者」
に迷惑をかけてしまうかもしれない、とも思います。
>自分の言葉に正確さを求めるのだとしたら、取材のアポを受け入れる段階でゲラチェックを要求し、そ
>れが叶うのなら受けるがダメなら取材に応じられないと条件交渉する。これはフェアなスタイルだ。
取材が終わってさようなら、という段になって「原稿見せて」といわれることの方が多くて難儀しま
す。私は気が弱いのでたいてい見せちゃいますが。ただし1)その人の発言部分(カギカッコの中とそ
の前後)に限る、2)これからデスクや整理部を通すので中身が変わることもありうると念を押す(だ
から雑誌等でいう「ゲラ」とは違うかも)、ようにはしてますが。
ゲラ見せろはないんじゃないの>朝日広報スタッフ 投稿者:武田徹 投稿日:
1月19日(金)01時17分01秒
ことと場合によっては、これはもう少しディテイルを加えて書いて行く可能性があるが、今の時点ではどう転がって行くか未定なので具体性を敢えて省略して書く。
朝日新聞の電子メディア事業についての取材での話。これはぼくがある雑誌で今連載している「出版ジャーナリズムの近未来」についてのルポのための取材だったのだが、どうしても朝日側の指定した時間にぼくのスケジュールが会わず、仕方なく担当編集者だけが臨んだ。こちらの思惑としてはそれは事業の概要を公式見解としておさえる取材の第一段であり、実際の製作サイドと面通しが済めばその後は広報を通さずに取材もできるだろうと言うことで、ある種の通過儀礼的な席にするというつもりだった。それで担当編集者だけの臨席で済ませようと言うことになっていたのだ。
その場には多忙でその時間帯しか取材に応じられないと言う原因になっていた朝日側の局長クラスは結局欠席し、それだったらぼくも同席できるように時間調整をしてくれてもよかったのにと思う状況だったようだが、次長クラスの話は上司がいないため?もあってか、なかなか実りがあるものだったらしい(今、テープ起こしとデータ原稿の整理を待っている)。
ところが、である。担当編集者の話を聞いて驚いたのだが、朝日の広報スタッフは雑誌が出る前にゲラを見せろと言って来たらしい。
朝日は自分の取材で相手に要求されればゲラを見せているのか? なんらかの特殊な条件(たとえばコメントだけで構成するような、つまり取材を受けた人があたかも自分で語ったように構成する場合は、記事自体の著作権が本人にあると思うので、ゲラを見る権利も当然被取材者側にあると思う)以外ではそれはしていないはずだ。あと逆に取材した側が見せる義務がある場合もある。たとえばテクニカルチェックの必要がある場合、信頼できる第三者にチェックを願うのが理想だが、それが難しい場合は、被取材者に見て貰った方がいい場合はある。しかし、それは取材する側がその必要性を判断して自発的にする作業であって、取材を受けた側が判断することではない。取材を受けた側の希望に従ってゲラを見せることはできない。そこで一線をちゃんと引いておかないとジャーナリズムはかなり危うくなる。
しかし、ジャーナリズム機関自身が取材を受けた時、ゲラを見せろと平気で言い出す。これは極めて深刻な問題だ。自分達たちが取材を受けた側がゲラを見れてしまう前例を作ってしまうことの影響をどう考えているのだろう。これは広報室のスタッフが現場を離れて久しく、もはやジャーナリズムの要の部分を忘れてしまっているから起きる現象なのだろうか。
ゲラ見せろは、ジャーナリズムで働く者が自分からは絶対に口にしてはいけないセリフだ。ぼくが同席していたらそのセリフに怒って口論となって、喧嘩になっていたかもしれないので、案外行けなくて良かったのかもしれない(笑)。(実際、ぼくが私淑していたドイツのシュピーゲルの記者は取材先でゲラを見せろと言われたらそれまでの温厚な姿勢から一転して、「おれの仕事をなんだと思うんだ!」と激怒した。それが世界のジャーナリズムの常識だ。)
ぼくは取材もするけど、取材も受ける。でも取材を受けた後に、自分からゲラを見せろといったことは一度もない。たとえば第三者の名誉などが関わる微妙な取材で、自分の言葉に正確さを求めるのだとしたら、取材のアポを受け入れる段階でゲラチェックを要求し、それが叶うのなら受けるがダメなら取材に応じられないと条件交渉する。これはフェアなスタイルだ。
しかし取材を受けてしまってから、ゲラを見せろというのは絶対にまずい。見せてしまえば、批判的に書かれそうな雰囲気を取材の場で悟って、事前にストップをかけようとすることだって出来てしまう(前に尾島の時にも広報取材の問題として同趣旨のことを書いたが。ゲラを見せるのはもっとまずい)。そうなったら書けることも書けなくなる。にもかかわらず禁句である「ゲラ見せろ」を、他でもないジャーナリズム自身の側で平気で言えてしまうと言う神経を疑う。すくなくとも朝日広報が「ゲラ見せろ」と言えてしまう組織だと言うことは事実なので、そこまでは今の時点で書いておく。そしてゲラを見てどんな反応をするか、あまりに問題があったらこの掲示板で追って告発して行こうと思う。そんなことが今は出来てしまうって事も、世間の動きを知る感覚が鈍っている官僚的サラリーマン・ジャーナリストは気づいていないんだろう。自分が狭い了見で自社のためと思ってしたことが、場合によっては、自社のジャーナリズム機関としての信用を大きく失墜させてしまうことを。
武田徹
森政権が支持率80%になる日 投稿者:武田徹 投稿日:
1月17日(水)00時35分57秒
クリントン政権はもうファイナルカウントダウン状態だけど、その支持率は今でも相当に高いらしい。クリントンこそ「愛すべきアメリカの息子」なのだ。ゴアの選挙戦略上の最大の失策はクリントンとの切り離し政策だったとも言われる。
しかし、なぜクリントンはそんなに支持率が高いのか。確かにモニカ事件発覚直後は嫌われまくっていたんだけど、その後、急激に巻き返した。下院が弾劾決議をした時には70%もの支持率を獲得していたという。
その理由をマスコミへの反感だと考える説がある(本郷美則『新聞があぶない』)。マスメディアはクリントン弾劾に終始した。ドラッジレポートに出し抜かれた焦りもあったのだろうし、ジャーナリズムが政権に勝利したウォーターゲート事件の再来を臨んだのかもしれない。で、最初は世論もマスコミの論調に歩調を合わせていたが、やがて離反する。それはマスメディアがあまりに世論を誘導しようとするのが鼻についたからで、そのため大衆社会はジャーナリズムの論調に反発したと本郷は説明する。そして人間味を感じさせる「困った大統領」を支持する方向に振り子が振れたのだと。
確かにこれはあり得る話かもしれない。となると気になるのは日本の状況だ。森の支持率は今でこそ低空飛行だが、マスメディアが社会の木鐸として高所から批判するスタイルを取り続けていると、大衆社会の反発が日本でもあるかもしれない。ないしろジャーナリズム業界だって不肖事続きなのだ。自分を棚に上げて批判なんか出来るのかと思われる。しかもお高く止まっているジャーナリズム界の人々よりも、(たぶん)買春もすれば、失言もする森の方が身近な感じはするだろう。構図としてはクリントン人気と近いのだ。で、日本でも振り子が逆に振れ、マスコミの批判的論調にも関わらず森政権支持率80%なんてことになったらどうするのか。
今度はマスコミが「天の声、変な声」なんて言うのか。自分達がその利益を代弁し、一緒に歩んできたと思っている社会から離縁状をたたきつかれたとき、マスメディアは果たして何を頼りに活動すればよいのか。
ぼくは前にこの掲示板でネット社会のマスコミ不信の強さを指摘した。『デジタル社会論』でもそれを書いた。しかしネット社会は氷山の一角であり、来たるべき未来を示しているものなのかもしれない。
武田徹
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