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LOG47

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みなさん書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 1月15日(月)22時44分02秒

粥川さん、こちらこそ書き込みありがとうございます。ぼくは宮台・小松論争は宮台氏の方が小松さんの議論を上から囲い込むかたちで議論していて(ーー共同的な死を選ぶのも自己決定だろう、と)有利ではないかと実は思っています。そうした立場がとれるのは、小松さんが共同体と個人という対立で死を論じるのに対して、宮台氏は個と共同体と社会(公共)の三項を考え、しかもそれぞれが同心的に並んでいない可能性を含めてより複雑な構造を踏まえる(『脳死論』)から。その結果、共同体と個人の関係を包括した視点が取れるようになっているのだと思いますよ。宮台さんについて、粥川さんは「自己決定論の権化」としてやや抵抗感がおありのようですが、論理的な思考という点ではさすがと思わされることが多いです。食わず嫌いではなく、一度本気でぶつかってみられることをお勧めします。
対して宮崎さんは・・・こちらはぼくの方があまり熱心な読者ではないのですが、論理的な一貫性が弱い感じが。まったく関係ない文脈ですが、丸山真男の「論理性」と、橋口文三の「雰囲気」性と対応するような感じを受けますがどうなのでしょう。全共闘に叩かれたのはロジックがしっかりしていて「たたきがい」のある丸山だったということと、宮台氏がファンも多いけど敵も多いという事情とどこかで似ているような気もします。
彼の自己決定論を批判するには先にも書きましたが「パレート最適」批判からではないかと思うんですね。この話はまたおいおい。うちの学生、幸せですか? そのわりにはあまり感謝されていない気も(笑)
ばんまいさんも書き込みありがとう。なんだか懐かしいメンツが揃いました。カタカナ語というのをばんまいさんは最近の若者言葉と使われていますが、歴史的にも片仮名で表記されるものはあったようですよ。網野善彦が「掟」などを知らせる看板の文字が片仮名書きであったことを『日本の歴史を読み返す』で書いていました(手元に原典が見つからないので引用がやや不正確ですが。最近、探しても本がなかなかみつからないことばかりで困っています。本棚は二重化しているし、床にもあちこちに積んでいるし、ちょっと考え直さなければ・・・)。そこで(あたかも神の言葉のように)上から降りてくる印象をカタカナは喚起したと説明されています。これって「リテラシーを盾にオミットしてはプロパガンダもあったもんじゃない」という表現の、地に足が着いていなくて、どこかから唐突に降りかかってくるような表現と実は深い部分で通じているのではないかと思ったりします。ばんまいさんのおっしゃるカタカナ語の問題は、実は日本語文化が古くから育んできたカタカナのイメージ喚起力との連続性で論じた方が面白いのではないか、なんてことを思いました。ぼくもカタカナ使うので気をつけます、です。
武田徹


カタカナ語 投稿者:ばん まい  投稿日: 1月15日(月)20時59分44秒

武田さま、当所を御覧の皆さま、こんにちは。
カタカナ語って、学術用語みたいだと思います。 普段使わない者には理解できない。

「そんなリテラシーを盾にオミットしては、プロパガンダもあったものじゃないな」なんて
言われても、私には理解できません。 何というか、超very goodを「チョベリグー」と言っ
ているのと、リテラシー・オミット・プロパガンダ等を表現中に多用するのとは、表現者の
傲慢さにおいて変わりないと思います。

というか、私が上記カタカナ語の意味を体感していないから、理解できないだけなのです。
しかし、この世に私と同様に「体感できていない」者が多かったら、その者にはカタカナ語
での表現は理解されない、ということですよね? それとも、カタカナ語の多用された表現
は、そんなにあまねく世人の間に伝わらなくても、よしということなのでしょうか?


「社会的決定」についてご教示感謝 投稿者:粥川準二  投稿日: 1月15日(月)10時35分08秒


武田様、「社会的決定」についてご教示ありがとうございました(お礼が遅れましてすい
ません)。あとは自分で勉強します。
僕もやはり本当の意味での自己決定などほとんどあり得ないのではないかと思っていて、
行政とか医者とかが、患者や血液提供者の「自己決定権を尊重する」などと主張している
ことにうさんくさいものを感じてきました。よく考えてみると、この場合、「自己決定権」
と天秤で測られているは「社会的合意」でしょうか。社会的合意も社会的決定の一種です
ね。もちろん自己決定権はインフォームド・コンセント等によって確実に守られなければ
いけませんが、そのことによって社会的合意を取捨することを正当化しているように思え
るのです。たとえば、最終的には民間企業の利益とするために不特定多数の人の遺伝情報
を集めることになど、社会的合意がとれているとはとても思えません。
いま、IT革命だとか金融自由化とかを盛んに叫ぶ経済学者とか政治家たちは、「競争原
理」とか「規制緩和」と並べて「自己責任」をキーワードにしていますよね。この「自己
責任」というのは、「自己決定」に容易につながりうると感じています。斉藤貴男さんが
『機会不平等』(文藝春秋)の中で、遺伝子診断に触れながら、「“自己決定”であるか
らには、当然、ビジネスの対象となる」(251ページ)と書いているのを読んで、僕はま
ったくその通りだと思いました。
実は僕も、いま書いているバイオテクノロジーについての本の中で、日本政府のバイオ行
政を批判する文脈で「自己決定」について書こうと思っているのです。うまくまとまりそ
うにありませんが……。
宮台真司氏は正直のところ、食べずギライをしています。近いうちにチャレンジしてみま
す。むしろ彼と『サイゾー』で対談している宮崎哲弥氏のほうに共感を感じます。
それにしても、武田さんの講義を受けられる学生さんたちはうらやましい。
今後ともよろしくお願いします。


参与観察とは 投稿者:武田徹  投稿日: 1月15日(月)00時43分33秒

明日は母校で講義(最近、依頼を受けて来た結果として取材よりも講義が本当に増えてしまった。ちょっと反省)。ルポルタージュという表現ジャンルの理解と実践からメディアリテラシー獲得を目指すという、ぼくが在学中だったら絶対になかった内容だ。明日は取材方法としての「参与観察」を説明する予定。参与観察とは文献解読などのように間接的に物事を理解するのではなく、直接現場に臨んで調査する方法で、広義には目撃による観察的な調査からインタビューによる取材、アンケートサーベイのような能動的な情報収集までを含んで使われる用語だ。つまりフィールドワークとか、取材とか呼ばれている方法の殆どは参与観察に含まれるのだ。ただぼくは観察という言葉がある以上、質問を発して情報収集を行うインタビュー取材やアンケートサーベイとは切り離して、現場の様子を五感を通じて受け身的に知るという方法に限定して使った方がいいように感じてはいる。
そこで問題になるのはオーバーラポールという、いわば観察者が被観察者の関係を深めすぎてしまう問題だ。観察者がそこに入ることで被観察対象は変容する。親しい人間関係が発生することで被観察者の考えや行動が変わってしまうこともあるし、そこまで行かずとも観察者の視線を意識し、またどこかで書かれ、報道されることを意識した振る舞いになる場合もある。
参与することは、観察することと実は両立しないのだ。深く参与すればするほど観察できるものは生の現実から隔たってゆく。つまり参与観察とはあらかじめ裏切られることを孕んだ、矛盾に充ちた方法なのだ。しかしそんな方法を使わずには知り得ないことがあるのも事実だ。そこに悩みがある。まっとう文化人類学者や社会学者にとっては常識になっている、こうした屈折した事情を意識しているジャーナリストってどれくらいいるんだろう。取材に対して能天気な楽観主義がある人が多い。それでは取材をすればするほどウソを書くことになる。
武田徹、


自己決定と社会的決定 投稿者:武田徹  投稿日: 1月13日(土)01時36分09秒

粥川さん。こんにちは。
昨年は講義のゲストスピーカーに来て下さってありがとうございました。期末試験の答案に書き添えて貰った講義の感想の中に「ゲストスピーカーの話が聞けて良かった」というのが幾つかありましたよ。
さて社会的決定論についてですが、自己決定論が個人の決定を論じるのに対して、社会的決定論は法や制度などを社会がどう定めるべきかを考察するという意味では確かにふたつは対立しますけど、全くの孤独の中で自己決定できるケースは極めて例外であり、社会の中で自己決定をせざるをえないという限りにおいては両者の間に様々な関連が生じることの方が普通でしょう。たとえば小松氏の論的である宮台真司は自己決定権を守れるような法制度を整備すべきだという立場であって、そこにも自己決定権が社会的決定の中に位置づけられています。
で、釈迦に説法を承知で粥川さんの疑問(不満?)を社会的決定論の文脈で説明するなら、本人の同意さえ得られればいいんだという考え方は、確かに自己決定尊重ですけど、ただそれだけでは本人の意思はどんなものでも尊重されるべきだということになってしまい、そのままだとさすがに社会的合意は取れないでしょう。そこで単に自己決定を尊重するだけでなく、社会的な無害性をそこに付け加える。つまり「他人に迷惑かけるわけでなし、あたしが何したって良いじゃない」というかつてのブルセラ・コギャルの論理ですね。遺伝子検査は本人の合意の下に本人の自己決定権の範囲で行ったという場合も、それによって誰も迷惑はこうむるわけではないのだからいいではないかという主張が暗黙裏になされているのではないでしょうか。この「他人に迷惑をかけない限り、自己決定権は尊重されるべきだ」という立場は、「社会の中でその決定をすることでメリットを得る人が少なくとも一人(=自己決定をした本人)いて、他の人はそれによってデメリットを受けない社会的決定は妥当だと認められるべきだ」というパレート最適性の考え方に対応します。
確かにだれもデメリットがないんだったらいいじゃないかというのは一見正しいように思えますが、このパレート最適の考え方を疑う立場の社会的決定論者もいます。それは純粋に数学的にパレート最適性のパラドックスを導く人もいるし、パレート最適性を充たす条件を現実に適応すると、とてもじゃないが社会的に合意できない非常識なケースもありえてしまうことを示す人もいます。ぼくが講義で社会的決定論を取り上げたのもこのパレート最適性批判の文脈においてです。この時、テキストは佐伯眸『決め方の論理』(東大出版会)を使いました。これは数式や論理演算式が多く出てくるので、純粋文系の人にはややきつい内容ですが、極めて優れた本です。ぼくの書いたものだと・・・・、実はこのへんの議論は今、書き下ろし(なかなか進まない)中の本の結論部分と深く関わっているんですね。ということで、ぼくの仕事としてはまだ陽の目をみていません。あしからず。以上、少しはお答えになったでしょうか。
武田徹



「社会的決定(論)」について 投稿者:粥川準二  投稿日: 1月12日(金)19時54分14秒

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 12月23日の書き込みに「社会的決定論」についての記述を見つけました。これは、いわ
ゆる「自己決定(権)」と対立するものなのでしょうか?
 というのは、最近進歩が著しい医療や生命操作に関する規制の枠組みを見ていると、その
基本原理には必ず「自己決定権」が据えられているからです。よく知られているのは臓器移
植。脳死者からの臓器移植を認める論理には「自己決定権」が使われています。最近では、
たとえば、ヒトゲノムの多様性(個人差)を調査するために、多くの人から血液サンプルを
集める研究が行なわれているのですが、その倫理規制にも「自己決定権」が論理として使わ
れています。つまり、サンプルの提供者に説明して同意さえ得れば(インフォームド・コン
セントをすれば)、それでいいのだと。しかし僕は、こうした社会的なインパクトの大きい
こと(研究)を行なうさいには、社会的な合意が絶対に必要で、「自己決定(権)」なんて
いうのは社会的合意を得るという困難なことを回避するための詭弁ではないか、と思ってい
ます。(なお小松美彦氏が『思想』99年2月号と3月号で、安楽死などを題材に「自己決定
権」について論じています。立岩真也著『弱くある自由へ』青土社、も同じ問題を扱ってい
る刺激的な本です。ご参考までに。)
「社会的決定(論)」という言葉は、不勉強で恥ずかしいのですが、ほとんど聞いたことが
ありません。バイオ行政を批判的に分析するために役立つのではないかと直感的に感じまし
た。お時間のあるときでかまいませんから、文献等を含めて(もちろん武田さんがお書きに
なったものも)、簡単にご紹介していただければ幸いです。
 よろしくお願いします。


またまたまた近況 投稿者:武田徹  投稿日: 1月12日(金)10時21分22秒

『朝日』に書いた「ノンフィクション作家はなぜフィクションを書くか」の掲載は遅れて1月末以降とか。時事ネタ的な原稿が数本先に入ることになったらしい。となるとここでネタを書いちゃったのはやや早まったか(悪い言い方だがパクられたらどうしようと)とふと思ったが、このテーマで中身があることを書ける人は、ぼく以外いまいと思うことにした。
休暇中は書き下ろし系の自分の仕事が本当に久しぶりに出来たけれど、休みが開けてからはもう雑誌と新聞に追われている。そんなに仕事を増やしているつもりはないんだけど、毎日何か締め切りがあって、講義とか取材、打ち合わせがあってという状態になってしまうのは、自分で言うのもおかしいんだけど不思議というか現実感がない。自分ではもっともっと自分の時間が持てているつもりなんだけど、実際の暦はどんどん進んでいってしまうというか。
法政は試験で、答案に講義の感想も書いて貰った。リキ入れてやれば伝わるんだなぁと思ってほろっとするほど嬉しくなる感想も有り難いことに幾つかあったけれど、他の講義の様子もうかがい知れるところがあって、なんかあまり知的興奮を与えていないような・・・・。ぼくの場合、書く仕事では伝えられないことを直接講義で伝えたい、次世代のジャーナリズムを支える人を育てないという目的が絞られているせいだと思うが講義は思い入れをもって臨めるが、常勤の教員で、長く教えている人は、もうやる気が枯渇しちゃっている人もいておかしくない。
そういえば卒論の相談というのもずいぶん持ちかけられた。彼らとしては携帯電話が人間関係をいかに変えるかとか自分達にリアルな問題を扱いたいんだけど、正直なところ、的確に指導してもらえていないもどかしさがあるみたいだ。もちろん携帯電話を初めとする様々なメディアツールの進展によるコミュニケーション空間変容は猛烈な速度で進んでいて、社会学はおいてゆかれがちだ。で、ぼくはジャーナリズムの文脈にいるのでまだ大学だけにいるひとよりは新しい動きに触れられているが、それでもいつまで振り切られるずにいられるかは分からないし、今時点でも拡散した動きをたとえば論文にどう落とし込めばいいのかうまく指導できるかどうかはわからない。でも少なくともそうした問題を考える必要性は共感できるし、出来る限り参考文献や、最新の考え方を伝えようと思って対応してきた。ただそれは本来の指導教員との関係も配慮しないといけないし、結構しんどい作業であるのも事実。でもこれもぼくがやらねばだれがやるという感じか。そう言うぼくだっていつまでテンションを保ち続けられるか分からないけれど、少なくとも今年一年はなんとかやってみようと思う。
武田徹


またまた近況 投稿者:武田徹  投稿日: 1月10日(水)23時56分27秒

終日、朝日新聞用原稿。ノンフィクション作家がなぜフィクションを書くようになったのかを藤原新也『ディングルの入江』、吉岡忍『月野ナイフ』、沢木耕太郎『血の味』を例に論評。
毎年そうなのだが、年始最初の原稿は調子がなかなか戻らない。休みの間に書いていた自分の本のための原稿とはやはりかなり様子が違う。本調子にならないもどかしさに書くということはひとつの習慣なのだと改めて思う。もしかして中毒性もあるかも? 年末年始休暇で身体から習慣性が薄れるとうまく書けない(ように感じてしまう)。
中国市場への進出に躍起となっている世界の自動車メーカーの話をTVでみて憤る。確かに中国市場は魅力的だろうがそれは会社にとっての論理だ。中国人が欧米並に自動車で移動するようになったら地球環境がもたない。
「自由はそれが万人に認められることが可能な限りにおいて認められるべきだ(原典がないので少し正確ではないがーー)」というロールズの正義論の第一原理をぼくは重要だと思う。クルマで走るのは個人の勝手だけど、その自由を地球上の全員が行使することは出来ない。だとすれば全員が行使可能な範囲で自由は制約されるべきだ。そうした観点でなんらかの対応をするのが公共的な思考法としてこれからの自動車メーカーに求められるものではないか。中国の自動車市場問題はどこかの雑誌にそのうち書いてみたいテーマである。先進国における自動車メーカーと環境派、それそれの考え方と、中国側のやはり文明化推進派と懐疑派の考え方をしっかり取材で聞いて俯瞰して行くかたちで。
明日は初講義。だでも法政の方は試験で、これで講義の一巻の終わりでもある。一年が経つのはあっという間、早いなぁ。こんなペースだと22世紀まで生きないと仕事が終わらない。そうそう、ラオス日記も読んでくれー! せっかく作ったのに本体ページの方のカウンターはなかなか回らなくてちょっと失望気味。
武田徹




TVは鬼門 投稿者:武田徹  投稿日: 1月 9日(火)23時14分28秒

ぼくは自分の表現の仕方が、TVにおけるコメントというスタイルに合っていないことがよく分かっているので、TVは出ないことにしている(というか正確に言うとTVに出てもまとまらない話し方しかしないので、最近では殆どお呼びがかからなくなっていた)のだが、先日、魔がさして(ぼくも、また制作者側もーー)出ちゃったのだ。しかもゴールデンタイム。浅羽チェンチェが手放しで誉める、映画も監督する国民的コメディアンの司会する番組。
で、収録が終わってから後悔の嵐で、広く知られるとかえって見られてしまうのが嫌で、ここでも取材を受けたことを報告しなかった。放映予定日も忘れちゃってたんだけど、どうも先日、しっかり放送されたみたいで、反応がぼちぼちある。
自分でも見ていないのでどう編集されたか分からないけど、テーマは「2010年に日本社会は安全性がアヤしくなるのか」みたいなもので、ぼくは「日本は犯罪が少ない、日本の警察は優秀であるというのは、実は村落共同体が相互監視機能を持って犯罪発生の抑止、犯罪者の告発を行っていたからに過ぎない。人口移動が増えて村落共同体が崩壊すれば当然相互監視機能は低下するので、犯罪発生率は増える」という考え方を述べた。ただーー、ではどうするかということで「だからといって警察機能を強化しろと言うのは大間違いである。地縁、血縁で繋がり、かなりの部分価値観が均質化している構成員からなる共同体が崩壊し、価値観の違う他者が寄り合い暮らす都市化が進む場合、他者と共生する技術が育まれるのを待つべきであり、警察機能で上から抑える、あるいはかろうじて残った村落共同体の価値観に従って自警団を作って他者の奔放に見える行動を抑圧するという方法を採用するのはサイテーである」とも述べた。これは前半と後半がセットになった意見であって、前者だけでコメント取材を構成されちゃうとなんだかぼくが警察強化や自警団による安全回復を支持しているように思われるので困る。
しかしコメント取材の場合、自分の想い通りに行かないのは当然であって、それは新聞などの取材でもそうなんだけど、TVの場合、自分が話している映像が出てしまうのでなおやっかいだ。話していることの一部分は、考え方の全体とかならずしも順接関係で繋がらないんだよ。でもそう思って視聴者が見てくれると思うのは出る側の甘えだろう。映っているときに語っている内容を核心として同心円的に拡大されたものがその人の考え方だと思われてしまう。
だからTVはいやだったんだと、収録から帰る途中、唇を噛んだ。あー。でももう遅いんだよなー。もっと長く出て、お得意のあーでもないけど、こーでもない、こうも考えられるけど、こうも言えるとか、あちこちから問題点をいじる論法を全面的に披露できるんだったら別だけど、やっぱりTV局方面は鬼門ですね。
武田徹


図書館のタッチパネル端末に思うこと 投稿者:武田徹  投稿日: 1月 7日(日)22時43分58秒

近所の公立図書館に行く。そこでは一応市内の公立図書館蔵書のデータベース検索ができる。ただいつも戸惑うのが、その端末機だ。おそらくキーボードだと高齢者や子どもが使えないだろうと言う判断で、その端末機はタッチパネルで操作するようになっている。いちいち50音順に並んだパネルに触れて検索条件を入力して行くのはかなり面倒だ。キーボードが打てる身としては、ついつい文句のひとつも言いたくなる。そしてもっと困るのは曲面であるCRT画面を使ったタッチパネルの場合(フラットパネルならおそらくもっと問題が軽減しているのだと推測するのだがーー)、視点の違いで誤動作があることだ。ぼくの目の高さから見下ろすと指で押したつもりの文字と入力される文字がずれてしまっていて、入力を終わって検索しようとすると意味不明の言葉になっていたりする。おやと思ってやりなおす。どうもぼくの場合は、視点が高すぎるようだ。中腰気味に画面を見て操作すると正しく入力できた。
座って操作するスタイルならおそらく慎重の違いによる誤入力は減るのだろうが、その公共図書館の場合、立って操作するので、よけい間違いやすいようだ。
こうしてたかが身長差だけでも使い勝手が変わってしまうインターフェイス設計の難しさを改めて知ると、キーボードは個人差を随分と吸収してくれる装置なのだなと感じる。それにキーボードなら視覚障害者にも使える道が開けている。タッチパネルは視覚障害者は使えない。手が不自由な人はキーボードは使えないが、タッチパネルだって使えない。別方法が必要となるのはタッチパネルもキーボードも同じだ。そう考えて行くと武蔵野市の公共図書館でなぜタッチパネルを採用したのか不思議になってくる。五十音で入力するのならキーボードを50音入力で使えばいいではないか。そうして使用者によってはローマ字入力も出来るようにする。そうすれば随分と手間が省ける。身長差による誤作動の問題もない。
50音入力を採用するために、キーボードを避けなければならなかった理由は実は見当たらない。単に「キーボードだと使えない人がいる」「タッチパネルの方が子どもや高齢者にも使い易い」という実は論理的に考えるとあまり根拠のない推測があっただけだろう。そんなあてずっぽうの考えで公共施設のシステムが設計されては困るのだ。公共施設が弱者救済に配慮するのは当然だし、重要だが、キーボードを使わないことが弱者救済ではない。
しかし、公共施設がキーボードを嫌う傾向があるの対して、幼児教育では、早くからキーボードを覚えた方がこれからの時代を生きる上で有利だという判断からパソコンをキーボードで操作する方法が安易に導入される傾向がある。これは逆に問題だ。漢字を含む日本語の文化は手で書く経験が重要な位置を占めている。パソコンでしか字を書かなくなるとなぜ漢字を忘れるかについての話はぼくは何度となく記事に書いて、パソコンの安易な導入が漢字文化圏に適応できない日本人を育てる危険について警鐘を鳴らしてきた。それをここでは繰り返さないが、漢字文化が手でかたちをなぞることを核に築かれた文化であるという事実は忘れるべきではない。これまでと違う漢字文化、新しい日本文化を作り直すのなら別だが、漢字とカナの差異の起伏が文化的喚起力を導く上で重要な役割を果たしてきた文化を捨てるつもりが無いのなら、手と文化の関係を考慮して、もっと慎重な対応をすべきだ。キーボードをどこで使い、どこで使うべきではないか。それはロジックにのっとって判断されるべきだろう。
武田徹

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