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LOG46
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近況報告 投稿者:武田徹
投稿日: 1月 6日(土)22時15分44秒
清水幾太郎読書はそろそろ終わりか。論文はもう終わりで、エッセーを読んでいたのだが、戦争中、五日市まで疎開に行くのに、五日市が吉祥寺の近くだと勘違いしていたという話は笑えた(確かに五日市街道というのは吉祥寺を通っているのだけれど)。吉祥寺まで家財道具を載せたリヤカーを引いて行き、そこで近所の人に尋ねれば疎開先が分かると思っていたのだが、吉祥寺から五日市まではさらに数十キロあると聞いて愕然とする。それでも夜通しリヤカーをひいて五日市まで行く。東京の街が空襲を受けて赤く燃えるのを背にしながら。
それ以外の、自宅にあった本は、読売新聞の図書室が買ったという。記述から推測するとかなりの冊数のようだ。清水は立花隆を数倍凌ぐ驚異的な読書家である(というか立花が実は世間で思われているほど読書家ではない。あの程度ならぼくだってとまでは言わないけど、立花クラスの読書家なら現実にかなりいるだろう。しかし清水クラスはそうはいない)。そしてすっかり本が無くなってがらんとした書斎でまだ落ち着かない。なぜか憤りを感じた清水は書きかけの『社会と個人』の原稿を燃やしてしまう。ラングーンから帰るときに読んでいたハウプトマンも日本帰港直前に海に投げ捨てているし。そうした行動に至る感情の立ち上がり方が面白い。多く書き込まれていないが、知識人としての戦争中の行き場のないやるせなさを感じる。
清水の次は手塚治虫関係書を読みはじめた。1945−1951の、つまり『来るべき世界』から『アトム大使』に至る時期の、彼の国際政治観、軍事技術観を知りたいのだが、なかなかいい資料に出会わない。ただ関係ない拾いものとしてとしてひとつ手塚が学歴詐称をしていたという記述を発見。彼は大阪帝大医学部卒だと思っていたけど、そうではなく、実は併設の医学専門学校の出身だったらしい。そして、おそらくは帝大出身者として辻褄を合わせるために生涯を通じて、生年を3年上にサバをよんでいたのだともいう。
サッチーのコロンビア大学卒業か否かはは散々やられたけど、手塚の詐称は問題にされなかったのは国民栄誉昇級の「愛された」人物だったからか。ま、それで求職したわけではないので、さして問題ではないと思うけど。ただ、学歴を詐称しなければならなかったということは、彼の心境をうかがわせるエピソードではあり、興味深い。
武田徹
ヘラトリはどこに行く 投稿者:武田徹
投稿日: 1月 5日(金)23時45分20秒
日本では今まで『毎日』が印刷し、宅配もしていた『ヘラルドトリビューン』を4月からは『朝日』が出すことになるらしい。ただ『朝日』も中公が手放した『フォレンアフェアズ』を『論座』に組み入れたように単に横滑りで手に入れるだけではメリットガ少ないと判断したようで、『朝日イブニングニュース』とくっつけて『ヘラルド朝日』にするそうだ。
ぼくは一時は『ヘラルドトリビューン』を宅配して貰っていたし、さすがに経費的問題から(結構高かったのだ)自分で取らなくなってからも、必要があれば買って読んでいた。なぜ必要としたかと言えば日本の報道とは違う見方がそこにあったからだ。
ヘラトリはそれ一紙で全て済ませようとすればもっとも便利な日刊紙で、『ワシントンポスト』と『ニューヨークタイムズ』のかなり信頼性の高い記事を用い、しかもパリで再編集することでアメリカ中心主義に対する相対化もそこそこ踏まえられている。もちろん世界を一つの新聞でカバーするのはそもそも物理的に不可能で、その意味で総花的にはなっていることは否めないのだが、少なくとも日本の報道と並置して、見方を複眼化(と書くと本多勝一が怒る。というのは分かる人にしか分からない話)するには格好のものだった。
しかしそれが『朝日』でかなりの部分編集されて出されるとなると、果たして日本の報道を相対化するという要求には応えてくれるのだろうか。『朝日』的に再編集されてしまうのだったらヘラトリを読む必然性は殆どなくなってしまう。そのあたり、『朝日』がどの程度バランス感覚を持ち、自己を相対化する健全な自己批判精神があるかが示される所であり、注目したい。
武田徹
こら、橋口、違うじゃないか 投稿者:武田徹
投稿日: 1月 4日(木)16時03分49秒
『アサヒカメラ』に橋口譲二が連載している「」というシリーズの最新刊は「吉祥寺」だ。
しかし雑誌のページをたぐって気付いたのだが、これは吉祥寺ではないのだ。特に明白な
のが駅のホームで若い女性がカメラを構えている写真で これは荻窪である。というのも
背景からホームが高架ではなく地平だということが分かるからだ。中央線は荻窪だけが地
平駅なのだ。となると他のカットもどうなんだろう。撮影ノートにはローライフレック
スをもって吉祥寺を歩いた云々の記述があるけれど・・・。
言葉に頼らない、あるいはより抽象的なタイトルをつける写真家だったら別にとやかく
いわない。しかし橋口は言葉に頼っていた、「意味を読みとってくれー」と訴えるタイ
プの写真家だ。だとすれば看板に偽り有りはまずいと思う。たとえば荻窪は線路が地平
にあるだけで、他の中央線の駅とずいぶん違う空気が街にある。それを「吉祥寺」とい
う言葉で括ってしまうのはあまりにも大雑把だろう。
橋口は活字系の編集者に受けがよく、うまく立ち回ってきた写真家だが、今までもこう
した言葉使いの不正確さがあったのだろうか。今回はなまじ自分の知っている光景だっ
たので気付いたが、知らない土地だったら見過ごしていただろう。どうも疑わしくなっ
てくる。繰り返すが、言葉に頼らない、写真だけで勝負するタイプの写真家ならタイト
ルはなんでもよかった。しかし橋口の場合は、言葉が重要だからこそ、言葉と写真の関
係には正確さがあるべきではなかったか。たとえば日本中の17才の素顔を撮ったとい
う触れ込みの彼の写真集に実は25才とか、30才とか、職業モデルとかが混じってい
たら怒りますよ。吉祥寺と銘打って荻窪が混じっているというのはそれと同じこと。そ
んな写真を見てしまうと、今までもなんかテキトーに撮って、うまく意味づけしてきた
ような気がしてしまうなぁ。誠実なイメージがある人ほど、実は不誠実ということかな。
そうであってはほしくないけれど。
武田徹
文体について、そしてそれ以外についても 投稿者:武田徹
投稿日: 1月 3日(水)22時56分40秒
ラオスから依然として清水と格闘中。
「文体が出来るのは、少なくとも、文体が気にかかるようになるのは、元来、羞恥心から来ているのではないか。世間でみんなが用いている表現、それをそのまま受け容れて、自分というものが世間に溶け込んでしまうことの恥ずかしさ。それは、個性が失われる、というような気負った事柄ではない。ただ自然に恥ずかしいのである。また世間を無視して、難解な文字を連ねることの恥ずかしさ。こういう羞恥心があるかた、文体が気にかかるのである。文体ばかりではあるまい。道徳にしろ、文化にしろ、この世の善いもの、正しいもの、美しいものの多くは、何処か深いところで、人間の羞恥心と結びついているのではないか(『ラングーンの日々』清水幾太郎)」
この羞恥心の捉え方は、「恥を知る」明治人だった清水の世代に独特のものか。それとも普遍性があるのだろうか。 清水の言論人としての一生は、若き社会学徒としての戦前の仕事から平和運動への没頭、そして晩年の核武装論まで、全てが恥を知り、世間に溶け込まないことを避けようとする意志の産物だった。モラリストと呼ぶとしたら、彼ほどその名に相応しい人もいまい。そのモラルの内容には異論があるとしても。
武田徹
2000−2001 投稿者:武田徹
投稿日: 1月 1日(月)22時07分12秒
ラオス日記はページ構成を変えたので重すぎた写真も少しブラウズしやすくなったはずです。請ご高覧。
さて新年最初の書き込みが旧年のことで横目で見ていた「紅白」雑感から。再結成「ピンクレディ」の対抗役で出てきたのがなんと再結成「アリス」。谷村新司、堀内孝雄のNHK登場はもう見慣れていたがアリスってのはちょっとねぇ。アリスがピンクレディの対抗馬になるというのもすごいけど、思い出してしまったことがあって、それは70年代の谷村新司がやっていた深夜放送だ。当時、彼が十八番にしていたネタがNHKのオーディションで落ちたことだった。それがいかに封建的か、いかに時代錯誤か、笑い話としてよく話していたものだ。あの頃、フォーク系のアーティストはNHKに出たくても出られなかったのだ。そのルサンチマンからか、TVには絶対に出ないというわざわざ宣言するアーティストがいた。たとえば井上陽水や泉谷しげる、吉田拓郎など、がそうだ。今から思えば隔世の感がある。NHKとそれ以外、TVとTV以外、歌謡曲とニューミュジックの境界が溶融してしまっている(初めから実質的な差異は実はなかったのかもしれないけれど、たとえ幻想の差異であれ、文化的な起伏を導き、表現の生産にドライブをかけていたのは事実だろう)。
そしてメディア状況全般を見渡せば、ここに来てそうした境界線溶融現象に著しい加速をかけているのがインターネットであることはいうまでもない。そこには起伏を作るシステム自体が存在しない。囲い込みが起こる前に普及してしまったためだ。
新年1日のNHKは白川ーーノーベル賞ーー英樹と荒俣宏をコメンテータに招いてのインターネット社会検証番組。アメリカの中学校で子供がリビジョナリズムについてのレポートを突然書いたエピソードや、キング牧師についての情報の中に「彼の性生活が乱れていた」という歪んだ情報が混ぜられていた事実などを紹介。たしかに困ったことだが、それを監視し、是正させる団体としてサイバーウォッチが紹介される。しかし、これが第三者機関として確立され、受容される手続きを経ない強権的な検閲機関になる危険が高いことは既に『デジタル社会論』やの掲示板でも何度も書いたことであり、更に輪をかけて困ったことになる。
考えてゆかなければならないことは多い。並のジャーナリストは振り切られてしまうだろう、大きな変革の波にいかにくいついてゆくか、それが今年のぼくの課題だ。
武田徹
20世紀の終わりに 投稿者:武田徹
投稿日:12月31日(日)22時27分24秒
いよいよ20世紀も終わって行く。ゆっくり感慨に耽れればいいのだけれど、時間の流れが今年だけ特別に遅くなるわけでもなく、「紅白」を横目で見ながら仕事をしているうちに年号が変わって行くのは毎年と変わることはない。
個人的には本は一冊だせたが、それとは別に出せているべき一冊(これはなんとしても20世紀中に仕上げたかった。だから坊主にまでなったのにー!)が間に合わなかったのは大いに心残りだが、これは気分を入れかえて来年以降に努力するしかない。
サントリー学芸賞は嬉しかったが、あくまでもツキが大きかったと思っている。一昨年出していたら時代を総括するテーマは実感がなかっただろうし、今年では多くの20世紀本にまみれてやはりだめだったろう。そして昨年に出版したのは恣意的な戦略でもなんでもなくただの偶然である。高飛車にならないようにという自戒の念を半分、あとは天性の天然ボケもあって、受賞お祝いの会ではいつもはめを外しまくってきた。大きな賞を頂いた責任は自覚しているが、だからこそなお、まだまだ若手ライターのつもりで、権威になったり、神話や伝説のヴェールにつつまれる戦略を選ぶのではなく、権威や幻想や神話を暴く側にいたい。これは一生そうありたい。ジャーナリズムってそういうもんでしょ。
この掲示板を始めたことは時間的、精神的にかなりの負担があったことも事実だが、得るものも多かったと思う。ないしろ本体ページのアクセス数を越えてもはや3万以上ですよ、何か発言すれば誰かが見てくれていると思えることで大いに支えられた。尾島問題とかドラマ?もあったし。盛り上がったり、憤慨したりで、アドレナリンやらエンドルフィンやら、いろいろ脳内ででまくっていたという意味では、サイバーパンク的な脳とサイバースペースの関連は既に始まっていると言えるのかもしれない。
トータルに見て(楽観的なので結局いつもそんな感想ばかりなのだけど)いい年だったと思う。来年は厄年も開ける。もっともっと攻める一年にしたい。みなさんもぜひ応援して下さい。
武田徹
帰ってきました 投稿者:武田徹
投稿日:12月31日(日)00時19分17秒
さきほど無事帰国。掲示板の更新をさぼっていた分は、ラオスで書いて本体ページの方にラオス日記としてアップしてあります。写真はやたら重いようで、ぼく自身もアップした状態では最後まで見れていないというお粗末(ういちのい貧弱な通信環境では更新を何度も重ねないと写真がデータ落ちになってしまう)。でも文章は軽いので読めるはずです。
武田徹
では、しばしお別れ、かな 投稿者:武田徹
投稿日:12月23日(土)13時02分37秒
木曜日は法政大で最後の講義。社会的決定論。未来を選ぶことを強いられる学生たちに、いかに
決定・判断という作業についてアカデミズムの世界は考えてきたかを知って貰うのはいいと思っ
て。「パレート最適性」とか「ゲーム理論」とかについては少々数学的思考が必要で、文系の
学生はひいてしまうかもしれないと思ったけど、敢えて突撃。
金曜日は取材の後、都立大。こっちは1月も授業があるので、ルーティン的な内容。先週や
り残していた沢木耕太郎論の後半と、TV報道とパブリックリレーション活動の関係について。
家に帰って年賀状の宛名書きをおおいそぎで片づけ、たまっていた領収書や、返していない資
料とかを処理し、いよいよ以前から予告していたラオスに今日から行きます。経由地のバンコ
ク以外はネット接続は難しいかもしれないので更新はしばらく休ませて下さい。21世紀はやは
り東京で迎えたいので、本当にすぐに帰ってきちゃうけど。この掲示板に書き込み始めてから
は殆ど休んでいなかったので、一応、間が空きそうなことを事前申告しておきます。
今、荷作り中。機材的にはビデオ機材は単三電池でも最悪動くのでソニーTRV−900。で
かいし、資料映像しか撮らない場合はオーバースペックなんだけど、電源的な不安があるの
で久しぶりに出番。デジカメも同じ理由でニコンEー990。現地の電源事情ーーもちろんホ
テルをベースにすればコンセントはあるからそうおおげさに警戒する必要はないんだけど、プ
ラグの形状とか、プラグの数がどの程度あるのかが分からないと、やはり充電地だけに頼るの
は不安。いざ出掛けようとしても充電が終わっていないとかありがちーーが未知数な状況では、
入手しやすいだろう単三電池の有り難みが増す。EOSD30とかNIKOND1とか持って
取材に行く人も電池問題ではきっと苦労させられているのではないだろうか。
本は岩波の『核と人間』シリーズ、加藤典洋『敗戦後論』、このへんは長い時間かかずりあっ
ているなぁ。それに加えてなんと『清水幾太郎』全集。
旅行中は時間がありそうな気がして、本はついつい欲張って重装備になってしまう。もちろん
この機会に自分の仕事をしようとも思うのでパソコンも持って行くし・・・・。これだけ
でも相当重いですね。とても1週間の軽旅行とは思えない。
というわけで行ってきます。みなさんも20世紀の最後を有意義にお暮らし下さい。
以下は編集者の方などへ、連絡先を、念のため。掲示板があると便利ですねー。
12/23-24 29-30(Bangkok-Thai)
Ebina House Airport Hotel 662-973-4501(T) 973-4535(F)
12/24-25 28-29(Wientien-Laos)
Lao Hotel Plaza 856-21-218800(T) 21-218807(F)
12/25-27(Luanpabaan?-Laos)
Phou Vao Hotel 856-71-212194(T) 71-212534(F)
武田徹
ボランティアを強制できると考える病 投稿者:武田徹
投稿日:12月23日(土)13時01分22秒
何かと話題の「ボランティアの義務化」だが、教育改革国民会議の答申は18才以降の義務
化は「検討する」とト−ンダウンされたが、中高校生に関しては奉仕活動のカリキュラムへ
の組み込みを明言している。
自発的な意志による行為を意味するボランティアという語に義務化を組み合わせるのはそも
そも矛盾しているが、用法上のおかしさをあげつらっている場合じゃない。ボランティアを
義務化できる、つまり自由意志を制御できると考えて疑わない風土がより深刻な問題だと思
う。国なり、行政なり、教育委員会なりが決めた「良きこと」をやらせて、それは自分の意
志なのだと考えさせる。それは「良きこと」なんだから誰も文句をいうスジ合いではないー
ー。言いたくはないけど、これは戦争中の「内面指導」と同じ発想でしょう。特定の価値観
を押しつけて、しかも喜んでそれを受け入れ、自分の意志としてやりなさいっていうのは。
そういう洗脳型の発想を平気でしちゃう人が未だにいて、そうした思考パターンの恐ろしさ
に多くの人が無頓着でもある、そこにうすら寒さすら感じる。
確かに子どもたちは手応えのない生活に足場を得られず、浮游しているように感じているの
かもしれない。新宿ビデオ店爆破事件犯人の事件後の発言とかを聞くと、せいいっぱい存在
感を示してリアクションの手応えを求めているように感じる。あるいは浮游しているのが辛
くて、着地点を探し、足を必死に動かしているような印象を覚える。ならば高齢者の世話を
焼いたり、普段なら敬遠してしまうような仕事をしたりする奉仕活動で社会に触れる手応え
を覚えるのは良いだろうという意見もあるかもしれない。
しかし問題は人に命じられて手応えを得ることで、自分の意志で動いて手応えを得る充実感は
もはや永遠に失われるということだ。自分で「良きこと」と信じられることを見つけて、それ
を自分の意志で行い、充実感を覚える、それは人間にとってもっとも大事な、聖域に近い部分
だろう。
その聖域に外から強制力を持って立ち入り、陵辱することの罪深さが認識すべきだ。それはま
るで精神的レイプではないか。なぜその異常さ、残忍さに誰も異議を唱えない?
精神の聖域を陵辱された子どもは、他人の精神の聖域に土足で踏み込んでも平気になって行
く。ボランティア義務化ではきっとそんな邪悪な心しか育たない。もしかしてそれが奉仕活
動義務化の本当の目的だったら怖い。
武田徹
ザルソバとモリソバ 投稿者:武田徹
投稿日:12月21日(木)10時18分49秒
読売新聞コメント。ブランド品の贋物を大手スーパーで「まで売る時代について。どう使わ
れるかは相手まかせだけど、こんなことを話した。モリソバとザルソバは今は上に海苔が
乗っているかどうかの違いになってしまったが、以前は出汁の取り方なら蕎麦の材料まで
全てがザルの方が贅沢だったらしい。ただダシの善し悪しは見た目で区別しにくいのでノ
リをソバにまぶして「記号」とした。ブランドもそのはずだった。作り手が思い入れを込
めて作ったことを示すためにブランドのタグを着けていた。しかしいつしか優れた中身で
はなくブランドを欲しがるようになる。そして中身が問題ではなくなったときに、ブラン
ドだけ着いていて、やすい贋物でもいいという行動が現れる。ただそれはブランド品周り
のことではなく、買う方も売る方も、ザルソバとモリソバの違いは海苔があるかないかだ
けであっても平気、たった海苔がかかっているだけで値段が高くなっていても平気になっ
た社会状況として普遍的にありえるーー、そんな話をした。
武田徹
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