
尾島氏関係続報 投稿者:武田徹 投稿日:12月 7日(木)00時09分09秒
ばんまいさん。書き込みありがとう。おっしゃっていることは自然に理解できます。そう読める
ように書いたつもりだったのですが言葉が足りないということでしょうか。異論なしです。
ぼくが力点を置きたかったのは、まなざしがリアルタイムで注がれている情報だけが存在価値
を持つのではなく、情報全体がアーカイブとして等価に広がる中から検索と引用によって選ば
れてくるようになった時、報道の力はどうなるのか、ということでした。そっちが言いたいこ
とだったので説明を少し端折ったかもしれません。
****
さて、さて、さて! 尾島問題の続報を待っていた人たちに。ひとつ新展開。
明日出る週刊文春でぼくは斉藤貴男さんの『機会不平等』という本の書評をしているので
すが、そこで検閲・自己規制問題について少し触れています。斎藤さんの本の書評なので、
斎藤さんがかつてなさったのと同じように本文内では匿名扱いになっていますが、この掲
示板をご覧の方々にはもはや何を指しているかは一目瞭然でしょう。
少し新事実もあります。実はぼくは斎藤さんの記事がボツになっていた真っ直中に尾島
氏とやりとりがあり、それをリアルタイムで偶然知る機会があったのでした。その時は、
尾島氏の言い分しか聞けず、どんな内容の原稿だったのかが知れるわけではなかったの
で、その時にぼくと尾島氏の間でなされたやりとりの本当の意味は分からなかった。そ
れが『リアル国家論』を読んで明らかになり、糸が一本に繋がりました。今回の書評で
書いたのは、まさにボツになる一件が進行中だったときに、尾島氏がはからずもぼくに
漏らした斎藤さん(の原稿)評です。
その新情報を踏まえて読み返すと、なんでぼくがあんなに怒ったのか理解できるのでは。
日本社会で一番自粛すべきことは、みっともない自粛そのものだ、と言ったのは浅田彰
だけど、本当にそうだと思いますよ。
***
この件については、実はもう少し書きたいことがあります。尾島氏が取材の基本中の基本
とか言ってきたのに対して、ぼくは「読売新聞時代のあなたはさぞやいい取材記者だった
のでしょう」と書いた。しかしそれが皮肉だと言うことは尾島氏自身はよくわかっていた
はず。ウラを取るのが取材の基本だという尾島氏は、果たして自分自身の発言についてウ
ラを取られることまで考えていたのでしょうか。それについてはまた明日(以降?)。
武田徹
武田さん、ご説明下さってどうもありがとうございます。 私はとにかく鈍い
うえにしつこくて、失礼しています(>武田さん、皆さん)。
私は「検索」に次の二つの意味合いを想定しているのだけれど、どうも武田
さんの論では、下の2/の整備がインタネットを「知識共同体」とすることに
繋がる、とは主張していらしても、下記1/の整備については余り触れていな
いように読めました。
1/ 動詞的意味合い
(こんな語、自分しか使わないような気がして恐縮なのですが)
「検索」=人間が「検索=調べて、探し求める」すること、検索行為
2/ 名詞的意味合い
「検索」=「検索」をするための仕組み、検索システム
武田さんの主張が以下のようであるということなら、
(以下は切り張り+少々の付け足し)
===
大きな権力に、力のないメディア機関や個人が対峙するのに、数の力で圧力を
かける方法しかないのが現状だとしたら、情報の「質」が意味を持つような
環境を整える必要がある。 情報の「質」が意味を持つような環境を整えるに
は、(一例として)「検索」をどう生かせるかが鍵となる。
その「検索」の環境を整えることによって、インタネット社会の必要情報に
快適にアクセスできるようになれば、インタネットは知識共同体になり得る。
===
上記に私の考える「検索」の動詞的並びに名詞的意味合いの双方をも考慮する
と、「数」の威力が支配するだけではない「知」の世界を展開するための
具体案が、「検索」をキイワードにして、浮かんできそうに思います。
「個人が検索エンジンを使いこなせる知性をいかに持てるか=如何に人間は
検索行為を行うか」
「社会が検索エンジンをいかに運用できるか=如何なる検索システムを構築
するか」
どうでしょか?
ばんまいさん、書き込みありがとう。
少し別の言葉で敷衍しますけど、全文が検索できるというのはそう簡単な事態ではない
わけです。DNA配列が解析されることは(DNAが日々更新されているという新知見
が出ない限りはーーここはぼくのDNA解析のイメージは専門家のばんまいさんから見
ると素人くさいものかもしれません。一応、DNAの塩基配列は解析が一通りに出来る
と考えて進めます)有限の量相手だし、それをとりあえず解析し、有限の情報量の範囲で
記述することは可能でしょうが、ネットワーク社会での全文検索の場合、検索した結果、
情報にアクセスできるようにしないと意味がない。たとえばエシュロンは核兵器だとか
テロ関係の言葉をピックアップしているのだろうと言われていますが、それらの言葉は
テロ計画の文脈の中で使われているとは限らず、殆ど無限に近い色々な用法があり得る
わけです。となるとそれらの言葉をピックアップし、それを逐一検閲者に示すとすると
本当にたくさんの無関係な文書に無駄にアクセスしないといけなくなる(それは今のロ
ボット検索でも擬似的に経験できることです)。その分量がマンパワーの限界を超える
と検索は意味を失う(DNA情報と違って一度解析が済めばテキストが固定されるわけ
でなく、書き込みは刻々と更新されるし、メールは次々に飛び交う。検索して調べるの
も次に情報が更新されるまでの時間範囲内ですませる必要がある。そこである程度の意
味解析をして、本当にテロに関係することものだけを機械的にふるいに掛けられるよう
にしないとどうしてもいけなくなる。
で、これはテロの文脈だけでなく、そうした意味解析機能を含んだ全文検索システム
がもしも実現可能で、限られたマンパワーの範囲でほぼ無限のテキストデータの中から、
自分の捜したい情報にアクセスできるようになるとすれば、今後、情報量が爆発的に増
えて行く中でも、必要情報にアクセスできる道が残されるということにある。つまり都
市伝説的なエシュロンですが、そこにこそインターネット社会が検索によって必要情報
にアクセスできる、知識共同体になりうる可能性が示されてもいるということを、言い
たかったわけです。
今の現行検索システムは、デッドリンクの先は到達できないし、資本投資を怠るとコン
ピュータパワーとメモリー容量がインターネットの情報増加に負けて役に立たないもの
になる。広く検索をかけると新しいものがカバーできなくなる。検索ロボットサーバー
自体も集中的にアクセスされてもパンクする。そうした問題を可能な限り解決する方法
が強引に情報の流れを一カ所にまとめてしまい(つまりインターネットは分散型ネット
ワークだという前提を覆す)、そこで利用可能な最大最速のスーパーコンピュータの並
列使用で解析をかけるという(まさにエシュロン)ものなのですが、そうした検索シス
テムをわれわれの社会は民用品として獲得できるのだろうか、獲得の方向に踏み出せ
るのだろうか、と思うのですね。それが出来ないと、われわれは大量の情報に溺れ、
本当に必要な情報にはアクセスできず、結局偶然の縁で知り合えた範囲の中でコミュ
ニケートする情報島宇宙の中においやられるしかなくなる。マスメディアはもはやマス
のパワーを発揮できなくなり、正当な告発をHPで行っても、多くの人が見てくれるこ
ともなくなるということにはならないか。
これは言いかけではなくて、言葉を足しただけですが、少しは理解できる方向に事態は
改善されましたか?
大きな権力に、力のないメディア機関や個人が対峙するのに、数の力で圧力をかける方法
しかないのだとしたら(というのはかなり自虐的な、実はそうであってほしくないという
現状認識ですが)、今のように情報アクセス状況の根本的な改善の必要性を自覚しないま
ま、多メディア化、インターネットの肥大が進んでいるのはまずいんじゃないかという書
き出しで、検索の話を書いちゃったのですが、うまく繋がっていますか?
武田徹
武田さま、皆様、再度登場にてもたもたした雰囲気を発散してしまいます。
下記の武田さんのご意見を読みますと、上っ面は理解できるような気がする
のですが、もう少し自分なりに理解をしたいと思って、<’全文’-検索>とい
う組み合わせを他のものにおいて言い換えられないだろうかと考えても、今
ひとつピンとくるものが見つからず、自分にむずがゆい程度の理解までしか
達しません。
この世に存在する’全文’が今後インタネット上において検索の対象となる
という仮定のうえで、例えば、’全文’=生物のDNA配列全情報としてみて
も、その他に’全文’に相当するものを考えてみても、どうも私には、下記に
おいて武田さんが主張なさっている「検索」という行為がどのようなものなの
か、安易に想像できません。 日常的にネット上の「検索」は行っているのだ
けれども。 先の武田さんの稿での「検索」という語が、武田さんの用法に
おいて何を指すのか、を理解できないと、上っ面以上の理解は得られないと
思うのです。
生物のDNA配列全情報の「検索」という現象が、生物界ではまだ、記述でき
ていないのかも知れません。 または、<インタネットにおける検索>という
ものが上手に切り離されて論じられているために、<インタネット>という系の
内では成立する(=上っ面は理解できる、ということが、その成立を示して
いる)論が、敷衍不可能、即ち、普遍的な論となるまでに論じられていない、
とも言えるようにも思います。 それとも、そもそも普遍化はそこまで必要で
はない??
検索可能な状態=availableなら、「検索」とは、何を指す??
、、、、これ以上書くと自問自答の連発になるので、とりあえずここまで。
ばんまいさん。個々の情報を埋もれさせる方向で情報の量が増えれば、いかに良質の情報で
も発見できなくなるとという文脈で多メディア時代を批判的に書きましたが、もちろん全ての
可能性が否定されているわけではなく、情報の「質」が意味を持つには、検索をどう生かせる
かだとぼくは思いますよ。
衛星デジタルはインタラクティビティについてどうシステム展開するか分かりませんが、少な
くともインターネットに関しては社会が検索エンジンをいかに運用できるか、そして個人が検
索エンジンを使いこなせる知性をいかに持てるかが問われているような気がします。もちろん
無根拠に未来に期待するわけにはゆきませんが、社会と個人が良質な情報の発見能力さえ健在
に保ち得れば、量に埋もれることはなくなる。そこで「量」と「質」とを初めて分離して論じ
られる契機が得られる。
これについてはやや皮肉めいた可能性の議論が出来る。インターネットの世界を全て盗聴し、
検閲しているといわれるエシュロン。その存在に関する言説は、ぼくは正直なところどうし
ようもなく低級な都市伝説のたぐいだと思っている。言語の意味論的分析がいかに困難であ
るかと思えば、インターネット上の全情報の解析がいかに高性能のスーパーコンピュータを
もってしても現実的には不可能だろうことは想像に難くない。なぜ山根信二のように、イン
ターネットは核技術からの派生だというとすぐに「それは都市伝説だ」と噛みついてくるよ
うな輩までもが、エシュロンについてはあっけなく信じてしまうのか、ぼくはいつも不思議
に思っている。言葉の多様性、多義性に対する認識が徹底的に甘いのではないか。しかし、
百歩ゆずって、もしもエシュロン(的なもの)が存在し得るとすれば、全情報を適宜解析す
る検索エンジンも構築可能だということにもなる。エシュロンを眉唾だろうと思う一方で、
そこに一縷の望みを賭けたい気持ちをぼくは否定できない。極めて優れた技術をもってすれ
ば、今よりも飛躍的に広い領域と、過去への遡及を可能とするような検索エンジンは作れる
のか。そしてもしもインターネット利用の時間的金銭的コストが今より遙かに小さくなれば、
ぼくたちは、未知の誰かが過去に記した貴重なドキュメントに、それを知りたいという切実
で真摯な思いを検索者が抱いた結果として、アクセスすることが出来るようになるのだろう
か。
インターネットは既に極めて高い検索可能性を用意した。ここまで全文検索が可能となった
ことは人類史上初めてだろう。しかしまだそれは足りない。今のシステムでは情報量の増加
にやがては飲み込まれる。、知の在り方を根源的に変えてしまうほどの検索パワーをぼくた
ちは持てる日が来るのだろうか。
その場合に期待される未来の検索エンジンの在り方が広告ビジネスモデルの元祖である今の
ヤフーでないのは確かだけれども。
ぼくは前にインターネットにおける公共性の在り方を、検索エンジンにヒットするかどうかと
いうことを尺度で考えられないかという提案をして、理解されなかったことがあったけど(
エミュの杜での論争)、今でもこの視点は育てて行けないかと思っています。
武田徹
武田さま、当所を御覧の皆様、こんにちは。
先の武田 徹さんの投書に関したことを書いてみようと思います。
私は、「数の力以外にメディアの力って何があるというのか」という考えは、
何かしらの社会的変革を短期のうちに現実のものとする際には中心に据える
べきものであると思います。 が、同様の社会的変革を同じく目指すとしても
長期的計画を持つという態度にも出られるわけで、そのような長期的計画に
おいては、やはり、「数」ではなくて「質」が、計画を現実化出来るかどうか
の鍵となると思うのです。
多メディアの出現は、既存メディアの「数」による力を分散することを導くと
同時に、「質」の劣化を招きこそすれ、「質」を磨くことには繋がらないと
いう気が、私にはしてしまいます。 これまで既存のメディアが「質」に依存
した対社会的な力を持ち得なかったにも関わらず無力・非力な存在ではなかっ
たことは、「質」の欠損を「数」で補ってきた成果と言えましょう。 そこへ
来て、「数」による力を削ぎ、更に「質」も追求できなくては、社会的変革
などという考え自体が浮つきます。
今は多くが見ていなくても、書いてさえおけば、いつかは陽の目を浴びると
思って書き貯められてきたものが、確かに、「数」に勝る力を持つに至って
社会的変革の底力になったという例は私にも容易には思いつきません。 それ
でも、そのような地道な努力の許に、メディアの質を議論できるような者が、
単なる「数」に拠る圧制という状況下でも保護されてきたのではないでしょう
か? 勿論、誰かが自分を庇護してくれる訳ではありませんし、「いつかは」
の発掘が成される可能性がじり貧になって行くことが事実であっても、「質」
の高いものを残そうとし続けなければならないと思っています。
多メディアの出現を批判することによって、同時に自分の首を絞めないように
注意をしたいと、私は考えています。 素直に増やせばよいのではないという
対象を批判するにしても単に素直に批判すればよいのではない、とは、楽では
ありませんね。
衛星デジタル放送が始まった(らしい)。ぼくはさぞや新しいもの好きだろうと思われて
いるところがあるのだが、実はひどいものぐさで、何か新しいサービスや店が出来ても、
すぐに出掛けたり、チェックはせず、適当に話題になった頃にやっと体験する。で、うちは
アナログBSは見れるようにしたが、CSはついに手を出す前になんとなく、もうCSでも
ないのかなという雰囲気になって結局、見送ってしまった。衛星デジタルもたぶんしばらく
は静観だろう。
で、今の時点で、見もしないうちからなんとなく考えていることをひとつ。それは多チャン
ネルは本当に望ましいことなのかということだ。多様な嗜好にマッチすることは良いことだ。
マノリティー集団が自分達向けのメディアを持てることはいいことだ。オルタナティブ・ジ
ャーナリズムの試みが幾つも出来るはいいことだ・・・。というのは分かる。しかしちょっと
不安になるのは、数の力以外にメディアの力って何があるんだろうということだ。たとえば
メディアが政治へのチェック機能を果たせるのはあくまでも数の力のおかげである。不正を
メディアが報じて、それを許さない世論が生成されてこそ、メディアは政権を倒壊させるほ
どの力を持てる。もしも不正を報じたとしてもごく少数の人にしか通じなかったら、何も起
きない。メディアの質を議論してきたぼくがこんなことを言い出すのは意外かもしれないが、
確かに視聴率が高いけれど中身のない番組よりは中身がある番組の方が良いけれど、いくら
中身があっても誰も見ていなけれが、告発も批評も力を持てないというのは紛れもない現実
である。今は多くが見ていなくても、書いてさえおけば、いつかは陽の目を浴びると思いた
い気持ちは分かるが、実際にはそうハッピーなシナリオは描かれない。特にメディアチャン
ネルの数が増え、情報量も増えればひとつの情報が発見される確率は当然減るので、今、気
付かれなかった情報が後から発掘される可能性はじり貧になって行く。
多メディア化はその意味でうまくハンドリングしないとメディアの力を削ぐことになる。メ
ディアが権力へのチェック機能を失う怖さはもっと認識していた方が良く、その意味で多メ
ディア礼賛の傾向は、ごくごくうがった見方をすれば、メディアの力が分散することを望む
側の人たちの「陰謀」という感もしないではないのだ。
デジタル化によって今まで出来なかったことが出来るようになる。衛星デジタルの多チャン
ネルもそのひとつだ。しかし今まで技術的に出来なかったために限定的な数になっていたメ
ディア状況が、実はジャーナリスムやメディアの力を保証していたという構図を自覚するこ
とは必要だ。増やせるようになったからって、素直に増やせばいいってことではないのは
明かである。
武田徹
昨夜のこと。大学からの帰宅途中ワイフから携帯電話。「うち、ドロボーが入ったらしい」。
「えっ本当? 大丈夫なの?」「うん、私もさっき帰ってお隣から聞いて、驚いて調べた
んだけど何もなくなっていないみたい」。聞けばお隣の人が侵入犯を目撃し、警察に通報、
パトカー2台、10人を越す警察官が駆け付けたらしい。でも結局、犯人は捕まらなかった
とか。「で、いつのこと、どんな犯人なの?」。話を詳しく聞き始めて、ぼくは夜道を歩き
ながらつい大声を出してしまった。「それ、おれだよ!」。
実はうちの玄関のドアは鍵を使わなくてもロックできてしまう。これは出掛けるたびに鍵を
ガチャガチャやらなくて済むので便利なのだが、時々、鍵を持たないで出て、ロックしてし
まい、閉め出されてしまう。
その日もぼくは出掛けざまに鍵を忘れたことを気づき、家に戻った。どのお家でもそうだと
思うけど、この種の緊急時対策はうちにもあって、ぼくはそのヒミツの方法を使い裏口から
家に入った。そして今度こそ鍵を持って玄関から出て、出掛けた。で、お隣はベランダの上
から裏口から入るぼくを見て、ドロボーだと思ったらしい。発生時間や「犯人」の服装など
からしてその可能性が高い、というか、そうでしかない。
で、警察が来た時、ぼくはもう出掛けた後だったので、もちろん家の中には誰もない。しかし
犯人が中にまだ潜んでいると考えて警官は家を包囲して警戒、やがて大家さんから鍵を調達し
て突入、中を確認したがもぬけの殻だったという(そりゃそうだって)。その旨を書き残した
メモがポストに入っていた。被害があったら届けるようにと。
こんな大捕物帳になったのには理由がある。どうもお隣さんは相当、話を作っていたようなの
だ。まず最近引っ越してきたわけでもない隣人(お隣の方が後から引っ越してきたんだけど、
それでも数年は一緒に暮らしている)であるぼくの姿を侵入犯と見間違うのもひどいが、そ
の犯人像を聞くと、服装の色は概ね正しかったが、手袋をしていたかというふうに既に窃盗
犯らしい方向に偏移している。しかもドロボーは三人組で二人が外で見張り、中の人と携帯
電話で連絡していたそうだ。ぼくは何も考えずに出掛けてしまったので怪しい二人組が実際
にいたかどうかは分からないが、たぶんどこかで相当に記憶が捏造されていたのではないか。
人は往々にして見たいものを見てしまうものなのだ。
で、プロの組織的犯行だと聞けば警察だって警戒しますよ。踏み込んで誰もいなくて、果た
してどうやって脱出したのかとクビを捻っていたようだ。密室殺人のミステリーのようだ
が、事実はあまりにもつまらない。
目撃証言がいかにいい加減なものかはジャーナリズム論の世界でもしばしば取り上げられる
が、自分の身に起きるとやはり感慨深いものがある。ただ問題はどうやって事実をお隣に伝
えるか、だ。お隣の人は市民活動に熱心で、常にご近所情報の輪の中にいる人なので、今
回のことでも彼女の「武勇伝」として既に広く知れ渡っているようだ。で、近所では用心の
ために鍵を変えようなんて話にもなっているらしい。すっかり「このあたりも物騒になった、
いやですねぇ」という話になってしまっている。自分の家に入ってとがめられる筋合いもな
いので、ぼくは本当は構わないはずなのだが、事実を言うことでお隣が相当かっこうわるい
ことになることを思うと、さてどうしたものかと思ってしまう。いつもご近所で用心してく
れているのは有り難いし。でも、これがきっかけでへんな自警組織が出来たら息苦しいし。
で、こんなところに書いて、もしかしたらぼくの言い出しにくい気持ちも含めて、お隣さん
やご近所にそっと伝わって行く可能性にもかすかな期待をかけたりしているのだ。
武田徹
人工知性の出来を話す方法にチューリングテストというものがある。理屈は簡単で、何も情
報が与えられない状態で、自分と対応しているのか機械か本物の人間なのか見破れるかどう
かのテストだ。、壁の向こうに人工知能付きの機械を置き、被験者にはそれを知らせないで、
対応させる。挨拶をすると挨拶が返り、言葉を掛けると返事が戻る。そうしたやりとりを通
じて被験者が違和感を感じず、壁の向こうには人がいただろうと思えば、チューリングテス
トは合格。その機械は正しく知性を持ったと評価される。
このチューリングテストの正しさを未だに信じて疑わない人がロボット工学者の中にはいる。
これは愚かなことだ。実はチューリングテストでは知性は計れない。自然なやりとりをしてい
た機械が、次の質問(入力)に対しては突然、機械らしい妙な反応をし、テスト不合格となる
かもしれない。その可能性が常にありえる以上、チューリングテストはいつまで続ければ良い
のか際限がなくなる。いつまでも結果が出せないテストはテストとして不適格なのはいうまで
もない。
これは人間の知性の在り方を逆に示すものだ。人間は数時間、人間らしく知的に振る舞ったか
らと言って人間と認められるわけではない。一生、人間として生きることで人間になるのだ。
そうした在り方に対する考えの浅さが、チューリングテストへの無垢な信頼として現れる。
ロボット博のせいか、ロボット関係のメディア露出が多くなっている。共生型ロボット、人と
コミュニケート出来るロボットとよく言われるが、そうした表現の背景にどうも人間を軽く
見積もろうとする見方が潜んでいるように思えてならない。それはチューリングテストへの無
垢な信頼と同じ根のものだ。
人間はどうして人間なのか。たとえばその一回性、代替不可能性、つまり死んだら甦らないと
いうものは人間社会を構成している重要な基盤になっている。死んだら甦らないからこそ、戦
争に反対し、原発を忌避する。しかしロボットが使えるようになると、そうした反対は忌避の
論理の根拠はかなり危うくなる。そのときに新しい論理と倫理を見つけだせるか。ロボット工
学者はそこまで考えているのだろうか。徹子の部屋で能天気に未来社会を語るアイボの生みの
親・土井をみていて、それを疑わしく思ってしまうのがぼくだけなのだろうか。
武田徹
受賞式ではこんな挨拶をしました。しかしマイクを持って話したかったなぁ。講義のスタイルで慣れているので、あがらなかったのに。武田徹
ベトナム戦争を終結に導くことに貢献し、報道の力を強く感じさせたアメリカのジャーナリストに、みなさんご存じのデビッド・ハルバースタムという人がいます。彼の言葉に「ジャーナリストはジャーナリストとしての眼と歴史家の眼を持たなければならない」というものがあります。
ジャーナリストは常に現在の最前線に身を置き、最も新しい情報を報じます。それがニュースです。しかしハルバースタムは、それだけでは足りないと言う。今、眼の前に起きていることが、歴史の中でどのような意味を持つのか、それを考えるべきだと言うのです。
ハルバースタムの『ベトナムの泥沼から』や『ベスト・アンド・ブライテスト』はまさにそういう作品でした。ハルバースタムは従軍記者としてベトナム戦争を報じながら、常に歴史の中でその戦争の意味を意識していました。
そんなハルバースタムは、ぼくのようなものが言うのもおこがましいのですが、ぼくにとってジャーナリストとして理想の人でした。そして今、起きていることを報じるだけでなく、その歴史的な意味を常に考えつつ報じること。それを自分への課題として、ぼくはジャーナリズムの仕事をしてきたつもりです。
今回、賞を頂いた作品は、まさにそうした課題に自分なりに答えようとしたものです。1989年から1999年まで10年間に日本の社会で起きた動きをレポートしつつ、その動きはどのような歴史的な意味を持っているのか、どこにぼくたちを導こうとしているのか、考えようとしていました。
とはいえ、ぼくは力不足ですから、もちろん及ばないことも多かった。でっぱったり、ひっこんだりしているところの多い不格好な作品です。ハルバースタムのように力強い、骨太の仕事はぼくには出来ません。が、ぼくなりに、不格好なりに、ジャーナリストの眼と歴史家の眼、ふたつの眼を持とうと奮闘して来た結果が、今回の作品です。
これは先の受賞の記者会見でも申しましたが、この本に記録された10年を「失われた10年」と呼ぶ人がいます。確かにこの時期には、大きな社会の出来事としてはバブル経済の膨張と崩壊があり、阪神大震災があった。個人の意識もバブルのように膨らみ、キレて行った時期で、たとえばオウム真理教によるサリン事件があったし、自殺者数は今や年に3万人を越えた。そうした事実だけを並べると。確かにぼくたちは得るものもなく、ひたすら失い続けたように見える。
しかし、それでもぼくは失われた10年という言葉を使うことには抵抗感があります。この10年という時間を、ぼくたちは紛れもなく生きてきたのであり、確かに愚かな時代だったかもしれないが、他の歴史的時間と同じようにそこには何らかの意味があったはずです。
そんな10年間を主題としたのが今回の受賞作です。将来、いつの日か、この20世紀末日本の10年間という時間に対して、歴史の審判が下ることがあれば、この本がその審判の資料のひとつとして用いられて欲しいと思う。その時にこそ、この本と、ジャーナリストとしてのぼくの使命は果たされるのだと思っています。
今回の受賞はこの本のそんな未来の運命に、きっと力添えいただけるものだと思っています。本日はどうもありがとうございました。