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LOG38
今、どうしても書いておきたいこと 投稿者:武田徹 投稿日:11月 7日(火)12時41分57秒
さて先に予告したこと、つまり今回の受賞に際して、どうしても書いておかなければなら
ないことについて。それは『流行人類学クロニクル』の連載媒体となった『日経トレンディ』
誌のことだ。
数週間前、ジャーナリストの斎藤貴男さんが『リアル国家論』(教育史料出版会)に寄稿し
ている一文を読んで、ぼくは愕然とした。そこで彼は、至るところでモニターカメラが作動し、
個人情報の管理がなされている「監視型社会」の現状についての記事をある「トレンド雑誌」
に書いた経験について触れている。その時、その雑誌の「編集長」から大幅な書き直しを命じ
られ、それがとても応じられない内容だったので原稿を引き上げた、そのやるせなさを切々と
記しているのだ。
斉藤さんの仕事に注目している人ならすぐに察しが付くので名をふせる意味はないし、逆に
これで何のことかわからない人が他の雑誌を疑いの目でみることになると、ことがことだけに
かえって問題だと思う。そこで、ここではぼくの判断で実名に戻す。これは『日経トレンディ』
のことであり、斉藤さんに書き直しを命じたのは現・編集長の尾島和雄氏だ。
『日経トレンディ』はぼくにとって懐かしい故郷のような媒体だ。『流行人類学クロニクル』
に繋がる仕事をさせてくれたのだから恩もある。だからこそあえて言っておかなければならな
いこともあるのだと思う。
尾島氏は斉藤さんに「警察について書くときは広報に尋ねて下さい。そこで認めないことは
事実ではないので書くべきではない」と述べ、大幅な削除を求めたのだそうだ。そんな尾島氏
のことを斎藤さんは「権力に寄り添う姿勢を、彼は見過ぎ世過ぎではない、正しいマスコミの
あり方だと信じて疑わなかった」と書き、「ジャーナリストまでが、(監視の)犠牲者の側に
立つことを拒否する時代が、本当にやってきてしまったというのか」と嘆いている。その気持
ちは痛ましいほどよく分かる。これが事実だとしたらあまりにもひどい話だ。
広報は確かに重要な情報源ではある。しかし事実とは、特定組織の広報が認める範囲を往々
にして越えるものだ。ジャーナリズムが相手にするのはそうした広がりの中にある事実であり、「広報の認めないことは事実ではない」と考え、しかもその考えに従って、正当な取材に基づ
く記事を書き直させるなどというのは、ジャーナリズトとして万死に値する行為だと思う。そ
んな姿勢では戦前の大政翼賛報道に逆戻りだ。
『日経トレンディ』が今や「広報の認めることしか書かない」雑誌に本当になってしまったの
か。信じたくないことだが、もしそうなら、それはもはやジャーナリズムの名に値しない。そ
して、そうだとすれば、ぼくはここに断絶を宣言せざるを得ない。受賞の挨拶でも述べている
が、ぼくは『流行人類学クロニクル』が、なによりも同業の書き手たちに希望を与える作品で
あって欲しいと思っている。そのためにもぼくは『流行人類学クロニクル』と、その連載媒体
であった「かつての」トレンディ誌の名誉を、どうしても守らなければならないのだ。だから、
ここに敢えて書く。ぼくは連載を始めた時の『日経トレンディ』はそんなみっともない雑誌で
はなかった。クレームを恐れずに攻めて行く雑誌だった。だからこそ、ぼくはそこに長く連載
を続けられたのだ、と。
そしてきれい事を言うつもりはないが、自分の利益を守りたいだけでもない。今の『トレン
ディ』で書いている若い書き手や、社員記者達だって、あらゆる組織の都合を越えて、ジャー
ナリスムという仕事を通じて、社会と読者の間に立ちたいと願っていたはずだ。もし本当に
「広報の認めることしか事実はない」と尾島氏が考え、部下や外部のライターにそれに従うこ
とを命じ、雑誌をあたかも広報誌のように編集しているのだとしたら、彼らの志を殺すことに
なるし、独自取材で得た事実に金を払っている読者に対しても余りにも不誠実でもあろう。だ
から即刻、考えを改め、編集方針を修正して欲しい。斉藤さんの発表できなかった記事を何ら
かのかたちで甦らせるべきではないか。
少し前にぼくはいつかは事態が好転すると書いたが、こんな内部検閲のようなやりとりがな
されていたことが露わになってしまった以上、もはや時間的な余裕はなくなったのだと思う。
流行情報誌というメディアが、消費社会に食い込める強みを生かしてジャーナリズムとして自
立できるか、その信頼をもはや致命的に失うかどうかの瀬戸際なのだ。
もちろん、ここで書いていることは斉藤さんの本の記述に基づいている。その意味では一
方的であり、尾島氏にもし反論があるのなら、ぜひこのページに書き込んで欲しい。真摯に対
応したいと思う。そして尾島氏だけでなく、ここで触れた問題について、広く意見を聞いてみ
たいとも思う。
武田徹
ありがとうございます 投稿者:武田亨 投稿日:11月 7日(火)06時08分16秒
おはようございます。
武田徹さん、回答ありがとうございました。
ちょうど昨日、日本書店商業組合連合会の会長、副会長、専務理事らと一緒に主婦連合会へ行って雑談してきたのですが、武田徹さんのお考えを先に聞けて良かったと思います。武田徹さんがおっしゃるところの「言語論から…」という点、このへんを議論に参加している書店のみなさんがどのように理解し、それをもとに書店としての役割をどのように機能させていくかということが、読者の立場、あるいは消費者の立場から出版物の再販制度を存続させていくための分岐点になるような気がしました。
ジャーナリズムに関する武田徹さんのお考えは、私にとって納得のゆく回答となりました。神戸の少年事件で犯人が逮捕された後、昭和40年代前半に神奈川で起きた少年事件が類似事件として一部週刊誌に取り上げられ、その少年の現在の職業がいろいろと噂されていた時期がありました。私はその事件と犯人の現在の職業を知って、ジャーナリズムの世界に入っていけないというか、自分はそのような世界で生きていきたくない種類の人間だとつくづく感じたものです。ですから、武田徹さんのお考えは自分なりに少しは理解できました。
昨日、民主党の海江田万里議員に、出版物の再販に関するお話しを書店のみなさんにしていただきたいと依頼したのですが、今度、武田徹さんの持論を海江田議員はどう思うのか尋ねてみたいと思います。その前にちょくちょく質問に寄らせていただきますので、その際は宜しくお願いします。質問は手短にします(笑)。
PS.みな様へ
仕事の合間にでもちょっと一息つきたい気分の人は、
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/6875/index.htm
一味唐辛子を飲んでピリッと仕事をこなしたい気分の人は、
http://www.cgigame.com/bbs/maiban.html
それぞれへ足を運ばせてみてはいかがでしょうか。
書き込みありがとう1 投稿者:武田徹 投稿日:11月 6日(月)09時55分06秒
澤口さん。書き込みありがとう。お祝いの言葉を頂けて嬉しいです。
大学4年生で卒論ですか。就職はもう決まっているのですか? ちょっとおセンチでお恥ずか
しい話ですが、ぼくは今でも冬の星座、オリオン座とかを見上げると胸がキュンとなる。これ
は実は卒論とか修論を書いていた頃を思い出すからなんです。夜、結構遅くまで研究室で作業
していて、外にでるとオリオン座が夜空に輝いていた。時に修士を終える頃は、その先どこ
にゆくのかわからず、とりあえず論文だけには全力投球しようと、殆どそれだけの生活を3ヶ
月ぐらいしました。もう随分前になったけど、冬の星座を見上げた時の冷え切った空気の感覚
はなぜかよく覚えています。ぼくの場合は、内容よりも、こうしたおセンチな感覚の原因にな
っているところが大きいけど、それでもやはり卒論、修論は大きな区切りだったとは思います。澤口さんも自分の人生の一駒として後から振り返れるような卒論を書いて下さい。
書き込みありがとう2 投稿者:武田徹 投稿日:11月 6日(月)09時54分03秒
武田亨さん。長い書き込みご苦労様でした。
ぼくは警察の広報の問題を言っているんじゃないんですよ。広報が認めた範囲に事実を限定す
る報道する側の姿勢を問題にしているのです。広報改革がなされることは望ましいですが、そ
れはここで論じられていることとは別の問題です。広報問題に関しては(というか、これに関
してもというべきか)、前にも書いたことがありますが、公共的な正義と共同体的な正義とい
う、正義の重層的な構造を意識する必要があると思います。ふたつの正義が相反する方向性の
持つ場合には、組織の広報は共同体的な正義しか体現できない。たとえば不祥事を隠す。不利
になることは触れない等々。では問題が発覚して隠していた不祥事を広報が告げる場合はどう
かといえば、それも共同体の正義でしょう。常に組織を守るという前提でしか発言できない宿
命が組織の広報セクションにはある。これはそれ自体を責めたりしても全く意味がない。組織
とはそういうものだから仕方がない。記者のユニオンも組織である以上、無自覚に放置すれば
そうした性格を帯びるでしょう。
で、ぼくはそうした共同体的正義を越える勢いを抽象的な言い方ですが、ジャーナリズムそ
のものには藻って欲しいと思っている。「無い物ねだり」とは承知しつつもそう考えてしまう。
「社会部記者はしたたかに記事をとれ」というのもケースバイケースであって、その言葉だけ
取り出して評価するのは、あまり価値のないように思われますが、組織の正義を越える視点で
の調査や報道の役割を果たすという文脈に限れば、ぼくは共感できますよ。
たとえば以前に毎日新聞で外務省の女性事務官とねんごろになって情報を取った記者がいまし
たよね。確かに取材方法の問題はある。実際にどういう関係だったのかは未だにわからないと
ころはあるが、自分のスクープのために一人の女性の人生を狂わせたとしたらそれはやはり人
道的にどうかということはある。しかし同時にその時、引き出された情報の重要性もかやり考
えなければならないわけで、あれは沖縄の施政権返還に伴う日米間の金銭授受の事実を暴露し
たわけでしょう。その価値はやはり評価されるべきだし、「したたかな」取材の是非もその評
価との関係で論じられるべきだと思います。
ところが外務省女性を巡る国家公務員法違反(秘密を漏らした)の裁判では不義の密通という
点ばかりが強調され、あきらかに国民の関心を男女問題に収束させる操作がなされていた。そ
してそれは実際にかなり功を奏した。で、毎日新聞をはじめ、新聞界も世論の風向きにあえて
逆らってまでそうした方向付けに異議を唱えることがなかった。
もちろん取材の方法は問われるけれど、夫婦関係でない男女が密通してはいけませんとかいう
道徳の論理だけで裁かれるべきではない要素が、ジャーナリズムにはある。そして世間の風向
きが道徳的問題に収束している以上、波風立てないでそれに従った方が得だと考える組織の正
義が全てであってはいけない事情ももちろんある。もちろん簡単に答は出ないけれど「したた
か」になるべきなの現場記者だけでなく、ジャーナリズム組織そのものではないかとも思いま
す。組織の論理を越えて行くダイナミズムを内部に宿すべき。上層部が現場記者に「もっとし
たたかになれ」なんてハッパをかけていられる状況か、と思います。
販売システムとの絡みでどう考えるかは得意ではないんですが、発行部数のスケールが大きす
ぎることは気になります。アメリカの新聞なんて最大部数を誇るものも100万部オーダーで
しょ。こうしたスケールの違いが、なにが報じられるかに及ぼす影響が絶対にある。宅配制度
も、そうした報道の質との関係で論じられるべきだと思いますよ。
いずれにせよ、もう少し科学的に分析しないといけませんね。「したたか」問題もつい抽象的
な話を書いてしまいましたが、こうした書き方だときっと異論反論出まくりになるか、話が通
じていないとおしかりを受けそうです。でも通じていない印象を覚えるのは、用語法や語彙が
きちんと習慣的に定義されていない(社会科学の言葉になっていない)からなんですよ。ここ
まで書いておいてなんですが、今後はもっと禁欲的に科学的な態度で問題に接するべきだと思
っています。新聞研究とか学会誌的体裁を取っていますけど、議論はまさに玉石混淆で印象批
評も多いでしょう。そうじゃなくてぼくは言語論ベースでやってゆく(それは実はぼくは修士
論文で基礎的な検討をしていた問題なんですね。なんとざっと20年がかり)。それが今回話
題になっている「したたか」問題や部数の影響についても科学的に論じてゆくきっかけを作れ
ると思っています。
さて思いつくところからコメントを書きました。また機会あったら書きます。お手柔らかに(笑)。武田徹
遅れ馳せながら。 投稿者:澤口貴一 投稿日:11月 6日(月)07時11分15秒
書き込みが遅くなってしまいましたが、
武田さん、サントリー学芸賞の受賞、おめでとうございます。
以前から、と言っても、偶然に「デジタル・ラプソディ」の最終回を読んでからですが、
武田さんの活動に注目し、またこの掲示板に出入りして来た者としては、
(出入りして来たと言うより読んで来ただけですが)
今回の受賞は本当に喜ばしい限りです。
私は今、大学4年生で、卒業論文に取り組んでいる最中なのですが、
その中で武田さんの著書も参考文献にさせていただく予定です。
と宣言するほど、大した論文にはなりそうもないのですが。
他にこういった書き込みが見当たらないので、場違いかな、とは思いましたが、
失礼にはならないだろうということで思い切って書き込みます。
それでは武田さん、今後の益々のご活躍をお祈りしています。
訂正 投稿者:武田亨 投稿日:11月 6日(月)06時13分25秒
訂正個所
玉石混沌 → 玉石混淆
ちょっとしつこいようですが、武田徹さん、「今回の広報へ」という一件は、各署内でも前向きな改革の一環として取り組んでいるようです。もうしばらく様子を見てから、ご判断お願いします。
Re:どうしても今、書いておきたいこと 投稿者:武田亨 投稿日:11月 6日(月)05時19分21秒
武田徹さん、割り込んで申しわけありません。
お気持ちはわかりますが、現時点で議論してしまっては、玉石混沌の議論になり得る問題ではないかと考えています。私も、8月上旬、とある警察署に都道府県の本部広報でなければいろいろと答えられない旨を直接確認しました。私は警察機構の肩をもつわけではありませんが、この件をオープンで議論するには時機尚早ではないかと思いました。
詳しい旨を書き込めということならばそうしますが、武田徹さん自身、時機尚早の問答であるということを深く察しているのではないでしょうか。
武田徹さんのお気持ちは察しますが、この問題は先送りにしていただくことはできないものでしょうか。見ていて本当に辛いものがあります。
御検討のほど、宜しくお願いします。
4回目(後) 投稿者:武田亨 投稿日:11月 4日(土)18時27分20秒
こんにちは。ようやく質問(10月23日)に戻れました。
早速ですが、「桂敬一氏の指摘」と「武田徹さんへの質問」について(後)です。
<大月書店 21世紀のマスコミ01「新聞」第[章「21世紀の新聞のゆくえ」
3.ジャーナリズムの活路をどこに見出すか(262頁〜263頁から一部抜粋)
262頁 ……「良心宣言」と聞いてすぐ思い浮かぶのは、フランス新聞界の「良心条項」である。それは、記者が自分の思想信条に反する報道・論評の仕事を命ぜられたとき、これを自分の良心を守る立場から拒否しても、使用者側はこの記者を罰したり、不利益を与えたりすることができない、とする基準であるが……
263頁 ……いつ記者登録制度に変容しないとも限らないのが、日本における行政と会社の癒着の風土ではないか。そうした危険を防止するためには、記者のユニオンの成員は誰でも公的情報源内の取材機関に所属し、取材・報道に当たれる、とする慣行やルールを現実のものとしていく改革こそ、必要である。行政の恣意と会社の論理・仕組みの介入を排除することが決め手となるのだ。
「新聞人の良心宣言」は、報道が人権をないがしろにする事態の深刻化にともない、1997年1月、日本新聞労働組合連合が新聞の職業的意義を守るために、ジャーナリストが守るべき倫理基準として採択し、その順守を新聞界に呼びかけたものです。その説明で、桂氏はフランス新聞界の「良心条項」を引き合いにだし、ジャーナリストのユニオン形成の必要性を説いているのですが、報道の現場にいらっしゃる人たちはこのような問題を具体的にどう考えているのか。ユニオンとは、組合みたいな形式の連帯に限定されるべきものであって、本来「新聞人」が経験的に身につけていく反骨の精神の連帯みたいなものでは意義がないのか。そのへんのところについて、武田徹さんのカラッとした感想をお聞きしたいものです。
新聞業界も他の職業同様、職業による制約は決定的であり同時に複雑な慣習が存在しています。その複雑な慣習を、私個人は「上層部に近づくにつれて、自分の立身出世だけを考える。中層部にいるときは、上層部の命令や伝達を下層部へ機械的に流す。下層部は、過労のため慢性的に不機嫌になっている」という、いわゆる官僚主義的な慣習ときわめて類似したものであると考えています。そのメカニズムの一員として、自発的というよりはむしろ他動的に動かされ、また、日々動かされているという受動性から、毎年毎年「新聞販売業者に対する排除命令」を受けている業界でありながらも、「フランスは新聞の地位そのものがすごく下がっている」とか、「フランスは新聞の価値が一番低い」とか、業界独自のジャーナリズムを御旗にして好き勝手を語るようになってしまい、まるで部数が多いもの=ジャーナリズムの頂点というような錯覚が生じているように見えます。
最近は、何か調べるとき、「新聞」の内容だけではなかなか真実が見えず、「官報」を見て、政治・官僚・新聞の三位一体の限定情報、いわゆる「政官新報」みたいなものを把握して、もう一度「新聞」を読まないといけません。そういう意味では、「最終的にはいまの日本にあっては職業的な集団がしたたかにとるしかないのではないか。<いい子>記者にはしたたかに情報をとれ、下心をもったほうがいいんじゃないか、と言いたい。そのいい方に語弊があるとすれば一抹の志をもってやる」という西山氏の発言(投稿日:10月28日)、この点についても、武田徹さんのカラッとした感想をお聞きしたいものです。
大変長々と回りくどい質問になってしまいましたが、宜しくお願いします。
4回目(中A) 投稿者:武田亨 投稿日:11月 2日(木)16時20分00秒
先の「ウエット……期待してみよう」という点は、あまり上手くお伝えできそうもないので、その対処として、私が手がけている著作物の再販制度の存廃問題を例にして、私の頭の中で「ウエット…」がどんなものであるか、少々説明します。
昨年2月に、内閣は、不況カルテル、合理化カルテル、その他の独占禁止法の適用除外制度を廃止する法案を国会に提出しましたが、これは著作物の再販制度のような例外を含めた全面的な廃止を目的としたものではありません。適用除外を必要最小限の範囲にできる限り限定するという目的を持っていました。適用除外制度は、個別法に基づく制度、独占禁止法に基づく制度、適用除外法に基づく制度、この三種類に区分されています。
適用除外制度の見直しは、個別法に基づく制度からはじまりましたが、これは例外中の例外といわれるものでして、昭和二〇年代後半から三〇年代にかけて、様々な目的から設けられた適用除外カルテルのことを指しています。制度自体がほとんど活用されていないものも少なくなく、廃止による実際の影響がきわめて小さなものです。
独占禁止法に基づく制度は、不況カルテル、合理化カルテルなどのことを指しています。朝鮮戦争終結後の不況を背景に、産業界からカルテル規制の緩和を求める要望が強くなり、53年の緩和改正によって導入されました。とくに不況カルテルは、戦後の産業政策とカルテル容認政策の象徴的存在でしたから、これを廃止することは、わが国が競争政策を基本とする経済運営を行うことにおいて、大きな意義を有するものであるといわれています。
適用除外法に基づく制度は、損害保険料率算出団体、証券業団体等の適用除外を指しています。これらの廃止ないし大幅限定は、損害保険業、証券業の金融ビッグバン改革の一環として、規制の抜本的見直しが行われたことによって実現しています。
そもそも独占禁止法はウエットな性格ではなくカラッとした性格の法律です。私見ですが、著作物を取り扱う関係業界は、前述の独占禁止法の適用除外制度の区分を踏まえて、定価販売が認められる制度がなくなってしまうと「文化」が退廃してしまう、というウエットな文化論から一歩抜け出し、独占禁止法上の議論という本来の土俵に立って、産業政策的見地と文化政策的見地の適用除外の違いとその経緯をカラッと説明していったほうが、民主主義と文化の発展に資することになり、かつ、そのプロセスは国民の知る権利にも応えるかたちにもなり、結論として制度存続の必然性が明白になってくるのではないかと考えています。
なかなか上手く伝えることができませんが、これが「ウエット……期待してみよう」という単純な発想の根拠みたいなものです。
「桂敬一氏の指摘」と「武田徹さんへの質問」について(後)に続く。