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LOG135
オンラインジャーナリズム掲示板:期間限定「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」
期間限定(7/30まで)で「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」を議論する場とします。7/19書き込みに説明があるので参照してください。
予定の期限が来ました。
のべ19万強のアクセスをしてくださったみなさん、書き込みしてくださった方々ありがとうござました。心から感謝します。最初はゼロだった。カウンターが三桁になっただけでも嬉しかった。あのころから思えば本当に別世界の数字です。ぼくの出してきた本の総売り上げ部数より多いですね。そして特に最後の盛り上がりを含めて、ネットで繋がれた社会の手応えを十分に感じられる貴重な経験でした。
この後、この掲示板は一度リードオンリーにします。少し休ませてください。掲示版のない生活ーーーしばらく忘れていましたがーーを一度取りもどしてみて、今後のことを考えてみたいと思います。過去ログも通して読み返してみようと思います(過去ログ作成のkamotenさんにも感謝します)。
なぜ今までやってきた掲示板を閉じるかですが、ぼくは青臭い言い方をあえてさせてもらえば生涯ジャーナリストであろうと望んでいるものの、その一方で自分の経験や技術、考え方を、それを必要としている人に伝える義務も感じており、秋からジャーナリスト教育に今までよりも深く関わる予定です。そのため二足のわらじをはくことになり、レスを要求された場合、それに対応する時間や精神的余裕がどれくらいありえるのか不明だったことが、閉鎖を決断した理由です(これが外在的な理由。もうひとつ理由があるとすれば、もう少し内向けのものですが、この掲示板の設置がコミュニケーションの実践を目的とするだけでなく、掲示板をメディアとするコミュニケーションの在り方や質、それこそその「力量」などを知りたいという欲求の実現を目指すものでもあり、自分の発言行動を含め、まさに色々と試していたのですが、その目的は現時点ではほぼ果たされたのではと思えたこともあります。「試しています」なんて書いてしまったので、これは告白というか、明記しておきます)。
ただ、それでもこちらからの情報発信の場は残しておきたいので、当初は日記形式にしようと思っていたのですが、この掲示板の最近の動きを見ていると外に開いておくのも、大変ではあるが、やっぱり悪くないなと思うようになり(予定調和的な世界に安住するより、何が出てくるか分からない、ナマの現実に触れていたいと思うのはぼくの習い性のようなものです。仕事を始めてからずっとそうした予想外の動きにもまれて育ってきた人間なので、その魅力に抗いがたくなっている・・・)、ご提案のあった日記+掲示板(期間限定?)というスタイルにも惹かれています。少し考えさせて貰って、そのいずれかのかたちで9月には再開したいと考えています(URLが変更になるかもしれませんが、トップページから入れるようにします)。
具体的な着任先などについては、9月の再開時には公式に発表できると思いますのでしばしお待ちを。では!
7/31am、pmに加筆修正
お久しぶりです。
たまにちらちらとココは読んでたんですけど、見たらなんかいきなり閉鎖するぽいのでとりあえず足跡だけ残しておきます。
全部読んでる暇が、掲示板の残り時間に対してなさそうなので、思いついたことを、ディスコミュニケーション世代ぽく、ぱらぱらと書きますw
・ネットとか匿名性について
議論ぽいコトをネットで初めてやったのは今は亡きサンデーネットと
いうところで(テレ東の「パソコンサンデー」のBBSでした)、続
いてニフティ(fshisoとか)。その頃僕はまだ大学生で、ゼミの後の
飲みと同じ感じで書いてましたね。
そこで建設的な議論が出来たかというと、おそらく今振り返ってみて
も答えは「ノー」で、しかし議論自体とは逆に、やりとりをするため
に色々と読んで頭を回すこと自体がとても充実した何かだったことを
覚えています。
今はMLを中心として似たような議論をやってますけど、未だにその
印象は変わりません。文字に出て現れてくるトコロのやりとりはあま
り建設的ではなく、それに刺激されて回される自分の頭が気持ちイイ、
という感覚です。
(蛇足ですけど大学のゼミや授業も同じ感じです、コマ自体は不毛で、
その前後の読み込みがとても充実していた。教員になってからも全く
同じ感覚です。)
他にも面白かったのはハンドルという人格。僕はよく議論が荒れると
複数のハンドルを駆使して、自分の発言に対して「誘導したい論点へ
の突っ込み」や「失笑を買うような罵声」を自演して、議論をコント
ロールしてました。これは議論系のトコロだけに限らず、エッセイ的
なところでも複数のハンドルで、自分の発言を読んだ自分の感想を、
他人を偽装して書いたりして、こういうコミュニケーションはネット
じゃないとあり得なかっただろうなぁ、という感想があります。
(一人で真逆のキャラを演じることが、議論に幅や立体感を持たせる
コツです)
ただの妄想的な呟きのショート・サーキットじゃなくて、それ自体が
他人に晒されることから生じる自意識の変容が面白かったのです(笑
呼びかけでも削除でも武田さんの意思がほの見えるときレスは伸びますw
ネット上の作法は管理人による発言だけじゃなく場の設計にも左右されます。
例えばこの掲示板はレスが過去ログとして保存されませんし、見れません。
そのことでカキコする者の意思は変わってきますし、擬似匿名者が集まるのに
レス番号がつかない設計なのでなかなか議論が連鎖しないのです。一方、
ツリー形式は全部につきあわなくならない感じがしてうんざりしますよ多分。
(ログ保存・レス番付の掲示板の例としては宮内勝典BBS、私はまたROM専門)
さてネット上での信頼≒強さの問題。ゼロからネットでの信頼構築は可能か?
まぎれもなく可能ですね。「ひろゆき」は実名性を帯びてから信頼を勝ち得た
んじゃなくて、ネット上で自生的にカリスマ化が進行したのは確かでしょう。
(誤解しないでは欲しいのはひろゆきの発言・思想に信頼があるのではなく、
ひろゆきの当初の2chという場をつくりあげるという意思に対する信頼)
実名性を帯びた人間がネット上で信頼(場への信頼)を勝ち得るかといったら
西和彦の1chtvの惨状を見るにつけ、一筋縄にはいきませんね。
ジャーナリズムとは少しずれてきてしまったんですが、ネットジャーナリズム
の可能性を探るには、既存のジャーナリズムの不可能性(何がどうして報じ
られてないのか・それはなぜか)を自覚すると(まあ、リテラシーです)、
既存のジャーナリズムの信頼性を問い、ネットジャーナリズムへの信頼を
よせていく手がかりを獲得することになるでしょう。
既存のメディアにない情報にこそネット上の情報の価値があるのに、それを
信頼できないと退けては、ネットジャーナリズムの意味がなくなる。今は
発信者も受け手もその自覚をもちつつネットにはつきあうということかな。
お久しぶりです。
たまにちらちらとココは読んでたんですけど、見たらなんかいきなり閉鎖するぽいのでとりあえず足跡だけ残しておきます。
全部読んでる暇が、掲示板の残り時間に対してなさそうなので、思いついたことを、ディスコミュニケーション世代ぽく、ぱらぱらと書きますw
・ネットとか匿名性について
議論ぽいコトをネットで初めてやったのは今は亡きサンデーネットと
いうところで(テレ東の「パソコンサンデー」のBBSでした)、続
いてニフティ(fshisoとか)。その頃僕はまだ大学生で、ゼミの後の
飲みと同じ感じで書いてましたね。
そこで建設的な議論が出来たかというと、おそらく今振り返ってみて
も答えは「ノー」で、しかし議論自体とは逆に、やりとりをするため
に色々と読んで頭を回すこと自体がとても充実した何かだったことを
覚えています。
今はMLを中心として似たような議論をやってますけど、未だにその
印象は変わりません。文字に出て現れてくるトコロのやりとりはあま
り建設的ではなく、それに刺激されて回される自分の頭が気持ちイイ、
という感覚です。
(蛇足ですけど大学のゼミや授業も同じ感じです、コマ自体は不毛で、
その前後の読み込みがとても充実していた。教員になってからも全く
同じ感覚です。)
他にも面白かったのはハンドルという人格。僕はよく議論が荒れると
複数のハンドルを駆使して、自分の発言に対して「誘導したい論点へ
の突っ込み」や「失笑を買うような罵声」を自演して、議論をコント
ロールしてました。これは議論系のトコロだけに限らず、エッセイ的
なところでも複数のハンドルで、自分の発言を読んだ自分の感想を、
他人を偽装して書いたりして、こういうコミュニケーションはネット
じゃないとあり得なかっただろうなぁ、という感想があります。
(一人で真逆のキャラを演じることが、議論に幅や立体感を持たせる
コツです)
ただの妄想的な呟きのショート・サーキットじゃなくて、それ自体が
他人に晒されることから生じる自意識の変容が面白かったのです(笑
・ジャーナリズムについて
最近は「客観報道」流行りで、また「発表ジャーナリズム(権力者の
発表を伝えるだけ)」なんて揶揄もありますけど、基本的には本来ジ
ャーナリズムには、古い言葉で言えば「社会的責任(≒正義感)」と
いうようなものが付与されていたと思います。例えばニューヨーク・
タイムズは"To GIve News Impartially,Without Fear or Favor"と
モットーを掲げてたし、武市英雄もジャーナリズムの持つ基本的要素
として1)扱う内容が時事的2)伝達が定期的で迅速3)ジャーナリ
ストが特定の意志や主体性を持つこと、を挙げていました。
今では「客観報道」という掛け声の陰に消えていってますが、「第四
権力」とも呼ばれたマスメディアは、そもそもは市民に代行して政府
と対抗し監視する役割が委されていました。
マスメディアの現状については愚痴っぽく長くなるので割愛します(笑
まぁそんな(僕の感じている)状況下で、ネットとジャーナリズムの
コトを考えると、やっぱり表面的には「ジャーナリズムの衰退」と「
ネットの興隆」がセットで見えがちなんですが、僕はコレは別問題、
パラレルだと感じてます。つまり、ネットはジャーナリズムに対して
ボディブローを与えてない、と。まだまだなんだかんだ言って既存メ
ディアはネットをなめてる今のウチに飼い慣らそうとしてるし、かと
いってネットにはまだまだ底力がないし、暗闇で互いに蹴り合ってる
くらいの関係かとw
まぁもうちょい言えば人々の感覚にリーチ出来てないジャーナリズム
/マスメディアが衰退していったのは別にネットが興隆したからでは
なくて、むしろ衰退したジャーナリズム/マスメディアを埋めるが如
くにネットが興隆してきた(しかし埋めるには至っていない)ような
感じが。
(ネットがメディアやジャーナリズムを変えたか、という言説は、一
般的にはメディア側から発されるコトが多いという事実には留意です。
ネットから発される場合にはタダのマニフェストに過ぎないし。)
(ネットを様々な理由で敵視するマスメディアの意図の核心は、雇用
問題に過ぎないと、つまりは既存の顧客と集金システムを維持したい
だけなんじゃないかと、僕は思ってます)
ただ僕が面白いと思っているのはジャーナリズムよりもネットです。
けれどもそれは上にも書いたように、表現媒体としてのネットではな
くてネット経由のコミュニケーション、というようなモノについて感
じている感想ですね。
公正さ(やスピリット)を捨てて「客観」「中立」という疑似スタイ
ルでお茶を濁すマスメディアよりは、まだネットの方が面白いです。
最後に。
武田徹って人は最近では数少ないまともなジャーナリストだと僕は思ってます。
これからも頑張ってください。
インディペンデントなwebで発言し続けるジャーナリズムの可能態の
ひとつとしてココを見てました。
「粋」という言葉で、学生時代、茶道をやっていたことを想い出しました。
又、私の思いつきで、今度は茶室かと失笑されそうですが、一度だけ、宗旦建立の「今日庵」で仲間と一緒に座禅を組みました。「乞食宗旦」の異名のある千利休の孫である千宗旦は、将軍家の茶道師範を嫌い、「侘茶」の精神を民間に流布することを心がけた。ネットジャーナリズムのHPに屋号をつけるとしたら、vividな「今日庵」なんてピッタリ。いや、「今日網」か?
私はネットのことは本当に無知で、自分のHPを持った実体験もなく、見当違いのことを沢山、カキコした気がする。ロムを何故、読むと言わないのか、書くことと、カキコは違うのか、ネットにおける表現とは何か、まだまだ、宿題が沢山、山積みされていますが、ひょんなことで、顔を知らない皆さんと、「武田徹BBS庵」で一椀を喫して、一期一会の交わりを得たことを、有り難い事だと思っています。主人役の武田さんに、お礼申し上げます。
次回、何らかの形で、期間限定の「大茶会」を催すなら、是非とも招待して下さい。
太閤秀吉の顰みに倣って、ネット場を「大茶会」に擬して、ジャンプする私の愚は、やっぱり、どこかズレている。
Personal(個人)より発信されるBlogの特徴は、地域性やPersonality(個性)だと思えるのです。そこで地域性とは、地方性で云うインタ‐ワ‐ルドなロ-カル性の発信だと思えるのですが?音楽で云うインデ-ズ達は、けしてプロだのアマだのでは無くそれと違う何かの壁を乗り越えて発信している気がします。そこには主義主張やイデオロギ-が丹念に組み込まれている気がします。特定のノスタルジ-に奮い立つ物が、沖縄出身Beginの楽曲や歌曲の要素には、ロ-カル色に合って国際化・世界化とは、ニュアンスを異にするアイデンティティが格別な情趣の表現に成功している。又武者小路実篤についてもう一言云わせて頂きます。その拠点の二つが存在し文学とのコラボレ-ションでは、オ-ガニックなお米や野菜を中心に生産する日本国内でも限りなく稀少な生活環境を確保しているコミュニティなのです。是は、覇きりとした明確な事実であり、真実なのです。その輪は、EM農法や藁一本の革命の著者マサノブ・フクオカや真面目で真剣な主婦達を中心に展開され広がりを見せ始めています。フリ-ジャズが心地よく育つ大都会のメタリックな環境では、このギャップは、計測出来無い対象かもしれません。
実際にここでは、世界地方からも発信されていますが、ここに来て明らかに成りました。多分ここの存続を今後も期待し得るその主旨より察しましたが。
Blogと云う性質は、つまり世界の何所からでもPersonality(個性)として発信されます。日記と云う括りから始まり、Personal(個人)の絞込みのメッセ‐ジ性やイデオロギ‐性は、自由への確立へと発展していく気がして何故か魅力が有ります。他のMixed mass media以外にもここでは、一次性の発信も充分有り得ると確信しています。そこは、意識と概念の転換そして緻密な創造力の質が求められている気がします。
等身大とか頭デッカチ云々といいます。言語とは、直接喋ったり文章に置き換えたりする事のみが言語と、その様に、普通一般的に、論じられて居りますが実に言語芸術とは、範囲が広すぎる故の狭義の解釈が今日の状態を生んでいる。それには、人間の感性よりカテゴリ-範疇を捉えきれない事って有りますよね。
事実は、小説より奇なりと申しますが実際は、如何でしょうか?事実・真実とを見極め、また自由と云う厳しい背景にある責任を考慮しての出力の公開は、頼もしいと云えます。Blog時代に生きて崇高な時代では、無いかと想うのですが今後は、其々が確かな選択肢を適材適所に目を向ける事でしょう。
私は情報技術を教える立場にありますが,Internet,特にWebに関しては「Webページ所有者にとっては一方的に都合が良いメディア」であることを講義中に強調しています。静的なHTMLによるWebページも,掲示板も,所有者の完全なコントロール下にあって,改変も廃棄も自由。であるから,信頼性が熟成されにくく,同時に,所有者の意志も明瞭に見えてくる側面がある。2chにそれなりの信頼感があるのは,スレッドを使用者側で勝手に立てられる掲示板のシステムが指示されているためと,管理人のコントロールがもはや届かないほど大量のアクセスと書き込みが発生しているためと解釈しています。
一言で「ネットメディア」と言っても,手元に情報が残るメディア(メール, P2P等)と,サーバ側での集中管理が行われるメディア(Web, FTP等)の特性の違いも重要なテーマだと考えます。今のところ,前者の方が信頼感があるように思えますが,それは上記のような理由によるのではないでしょうか。
Webが登場してまだ十数年,Internetが大衆化してまだ十年も経っていませんよね。我々はもっとケーブルで繋がった世界と格闘する必要があるようです(私もですが)。最終的には,ばんまいさんの言われる
>我々がデヂタル機器に備わっている
>情報の記録/保存/蓄積機能を充分に使える段階にまで技術的に成熟する必要
>があると思います。
その上で,情報技術とは別の「信頼感熟成マニュアル」の厚みを作り出す必要があると感じています。まだこれからですね。
To: 武田さん
本とコンピュータの記事,期待しております。定期購読者ですので。では。
閑話休題に最後の発言をば。
ネットを始めて以来それこそ数え切れないサイトを見てきました。
有名人の企画力や文才に惹き込まれるものから、無名な個人の趣味やオピニオン、サークルものまでそれこそ百花繚乱です。
でも、その99%は読み返さないし、二度と開きません。
私が足を止め、読み返す基準を思い返してみると、それは「粋(いき)」であることに気づきました。
私の意味するこの「粋」は、「タダ」で、各人の「デリカシー」を持ちよることです。
「タダ」とは、サザンの「ミスブランニューデイ」の歌詞にある「粋な努力をタダで売る」というニュアンスで(この「タダ」こそオンラインサイトのレーゾンデートルでしょう)、「デリカシー」とは、各人の教養と知性と品性の現われです(私はこの「デリカシー」こそが「信頼」の源泉だと考えます)
そんな「粋」は、グーグル登録サイトのなかでもめったにお目に掛かれません。
ただでさえ有り難く、さらに「不粋」が「粋」を駆逐してしまうからです。
私は、そんな「粋」が生まれては消えしてきたのをいくつも見てきました。
そんななか、私はこのサイトに「粋」を感じ、またその「フラジャイルさ」さえ愛しく思うのですが、仮にこの形態での「粋」がなくなっても、このサイトでの「昂揚感」は、「日刊イトイ」での糸井さんと零士さんの対談のように忘れないし(笑)、「武田徹」という「粋」を感受することはなくならないので悲しくないです。
ただ確実にいえるのは、重大事件・事故が起こったときに、「信頼できる」ひとりの作家の考え方をオンラインで速報で、しかも「タダで」受容できるといった「ぜいたく」がなくなることです。
あたかも「ニュースステーション」が終わるような。
共感できないというのは感覚の問題だから、残念だけどそうですかと言うしかないです。
でも失礼? 礼儀の問題なんですか? 建設的ではない? うっぷん晴らしのあら探しではなくて考えがあるのなら、そこはもう少し書いてくれませんか。失礼でない掲示板の在り方、建設的な掲示板ってどんなもの? 存在しないメアドでも、これも掲示板と思える範囲内だから別にいいからさ。
17:30 文面修正
『廃墟より 投稿者:武田徹 投稿日: 7月24日(木)16時19分06秒 』にあります、
>期間限定はあと6日。で、これは寝耳に水かもしれませんが、この限定期間終了がこの掲示板自体の終了に繋がる可能性があります(まだ未確定ですが、半分ぐらいそうしないといけないかなと思っています。ぼくがそう考えた理由ーーあくまでも僕個人の生活上の物理的変化という外在的な理由ですーーについてはそのうち機会があれば書きますが、逆にみなさんはどう思いますか?と、聞きたい気持ちも。この「期間限定」以前からオンラインジャーナリズムの語を標榜し、ある意味weblog的でもあったこの掲示板に、いかなる価値があったのかは「期間限定」のテーマとも重なるので、話題の一つにしてくださってもいいですよ。その流れ次第では・・・自分自身が考えを変えるのではという期待を自分でしたりもしていて)。
>とはいえ、もしかしたら本当に最後の最後になるかもしれないので、昔、書いてくださった人、今までROMだけだった人も書いて、ゲストブックじゃないけど、何か刻印を残して欲しいですね。
まず、これは参加する人参加した人たちに失礼だと思いました。
建設的な態度ではないですよ。
とてもじゃないけど共感はできません。
信頼できる人、というのをうまく説明するのは難しいですが、私が信頼できないと思っている
人達がいます。それは、テレビに良く出る人、特に大学教授達です。役人から大学教授に
なって、テレビのコメンテーターを各局でやっているなんて、最悪。
教授達は幾ばくかのギャラをもらい、大学は学生集めの宣伝費として教授を雇い、学生達は
少しを除き、遊ぶ時間を確保するために大学生という身分を持ち、果てはスーパーフリー。
親達は必死になって学費を払う、変な構図ですね。
そういう意味で、滅多にテレビに登場しないで紙にしろオンラインにしろ、書き続ける
武田さんは信頼できるんじゃないか、と思います。前回の書き込みでも書きましたが、
信頼できる情報を見極める、読み手側の力が必要とされていると思います。
おやおや、けんかするぐらいが元気があって善哉々々。って、武者小路のなすびの絵みたいですね。ま、これも掲示板らしさということで。あと9時間かな。
>最後っ屁ですか、裏声であっても、言葉である限り、どこかに繋がっているのだろう。
匿名であっても、メールアドレスを貼り付けて欲しいなあ。私の判断ではメールアドレスのない匿名は匿名でもない、透明であって、ここで、問題になっている匿名性/実名性と関係ない。
患者の匿名性は医者である管理人に実名性を預けているのであって、その信頼性の匿名である。透明性は患者以前、BBS以前です。
まあ、見たくない、知りたくない、自己防衛は大切です。
せいぜい、透明の仮面を被って、身過ぎ、世過ぎして下さい。
以下、メアドなしなので削除しました。
******
最後っ屁 投稿者:匿名奇凡々 投稿日: 7月30日(水)12時30分48秒
匿名だろうが実名だろうが「力の差」なんてのは、見た、感んじた、奴の脳みそが判断するんじゃないの。
メアド入れてないのは
> すみません。試してます。
に対する答えな訳で、逆に此所の板を試している訳ですよ。
先の発言を見た者(含む管理者)がどのようなレスポンスをするかね。
やっぱ大事なのはどれだけ共感得られるか、そんなんじゃないかね。
我田引水で片付けちゃったり、臭いもの(?)は放置して知らんぷりなの?
ちんまりとヌルイ纏まりで悦に入ってるんなら、カラオケでも病棟でもいいんじゃない。
でもそんなママだったらマスからは相手にされないし見向きもされないよ、たぶん。
余談だけど、奇凡々の知ってる精神分析医なる幾人かは、たいして患者と変わらないなぁ。
*****
さてさて少しコメント。
>匿名だろうが実名だろうが「力の差」なんてのは、見た、感んじた、奴の脳みそが判断>するんじゃないの。
ぼくもそう思いますよ。あんまり匿名と実名の問題は本質的だと思っていない、それは前にも書いたですよね。それがどう無視されるかもやってみるとよく分かります。
>メアド入れてないのは
>> すみません。試してます。
>に対する答えな訳で、逆に此所の板を試している訳ですよ。
で、試してどう思いました。ぬるい? もしそうなら性格的な問題だな、それはぼくの。
>大事なのはどれだけ共感得られるか、そんなんじゃないかね。
これも同感。意見が合いますね。ぼくはメアド書く派だけど。
ここの掲示板が無くなる事の可能性を示唆しながら拙文に至りますが
相変わらずのご無礼を悪しからず御容赦願います。但しBlogの場に
相応しい流れは、何所かで自由が踏みにじられ或いは、自由を踏み
にじった経緯は、改めて御容赦願います。
さて長野県での医療費の節減には、健康増進と云うキ-ワ-ドが大きく
左右した旨を記憶して居ります。昨今の健康事情は、衣食住の全般に
於けるカテゴリ-の範疇に於いて事がすすめられ所謂その長野県では、
なんとその医療費節減に成功していると聞きます。
その事とは、organicで云う有機農法であり無農薬農法盛んであり、
またそこには、武者小路実篤の新しき村ユ-トピア構想の拠点の一つが
あり、二つ目の拠点は、陸の孤島宮崎にあります。そこでは、当然
organicのその継承を受け継ぎ確実に人々の営みがなされている訳です。
食は、人間の原点と云う普遍性は、いくら理学的な根拠に基づいても
梃子でも動かないでしょう。衣でも住でもそのorganicな概念への建て
直しは、多いに見直され本質が問われて行く事でしょう。
サプリメントが発達しながらコンビニでも気軽に手に入れられる昨今に
あって、それが果たしてジム通いの中で汗を流し新陳代謝を促進し
プロテインやビタミンやミネラルや繊維を補完補充する事は、流通や
経済効果に繋がっては、いても人間の本質である歴史的な伝統食の食の
補完になるとは、とても想え無い気がします。
経済景気の動向の一端をあらゆるMixed Massmediaが担っている中で
企業生産のQualityが追付いて行ってい無いがその事は、煽っている
事実を感じますが如何でしょうか。例えばベニヤ家具です。軽量とか
には、確かに成功してますが石油系塗装のオンパレ-ドでは無いですか。
ところが長野県でも無いですが伝統的で安全な椿油・亜麻仁油・
カシュウ・漆なんていいものがたくさん有る訳です。
随分と話がテ-マ性から外れていますが人間の衣食住の本質すら守られ
ていない訳ですからここの掲示板が安定した有意義で実質的なOrganic
な双方向性の持つ新しいNew mediaまたBalogの確立事の結論を、
急がれる事は、同で何なんだろうと想っている訳です。今後の影響は、
避けられない事実として綴りましたが今回の限定による論点が一般的には、
難解だったのかもしれませんね。
>そのアノニマス性に力を与える、実名で発言でき、マスコミを通して発言する回路のある人物が必要となります。
「2ちゃんねる」でも「ひろゆき」氏という実名の人間は必要不可欠ですし。
石井さんの発言で、精神分析医とクライアントの関係に似ているではないか、と思いました。そうであるなら、訪問者はクライアントという立ち位置で、むしろ匿名性によって解放される無意識であれ、何らかの治癒であれ、「公共圏」(乱暴に使いますが、あくまで仮説概念)に溢れ出させて、物語化する、そのように管理人としての武田さんを捉えてもいいのではないか、「ひろゆき」氏も武田氏も実名で当然、公開どころか、医者として発言が要求される。匿名(患者)→管理人(医者)→マスコミ(公共圏)。
こんな連鎖は乱暴でしょうか。
又、又、思いつきで申し訳ないが、「2ちゃんねる」も他のBBSもカラオケボックスでなく、むしろ、○○○病棟で、匿名性こそが重要であり、管理人のみが実名性を名乗る。
そんな風に考えると、色々なことが、腑に落ちました。
匿名での発言というと私はセルフヘルプグループにおけるアノニマスグループを想起します。
そういう取材をしていますので、匿名者ははじめから公的場でにおける社会的影響力を放棄している人が多い。そのアノニマス性に力を与える、実名で発言でき、マスコミを通して発言する回路のある人物が必要となります。
「2ちゃんねる」でも「ひろゆき」氏という実名の人間は必要不可欠ですし。
ここは武田さんの掲示板であり、武田さんが実名でかいている以上、武田さんの表現がもっとも力をもつことは必然であると思います。
>同感です。信頼性はどこで、どう構築されるのか。たとえばぼくは自分自身をマスジャーナリズムの人間だと思っています。ぼくにもし僅かでも信頼性があるのだとしたら、マスジャーナリズムの世界で、書いてきたことによるのではないか。
私は、ここを知人から教わったのですが、その時は武田さんがマスジャーナリスズムの方だとは認識していませんでした(すみません)。逆に、ここに来てから、新聞やテレビや雑誌でも発言している人だったんだぁ、と知った次第です。私は、マスジャーナリズムでも活躍している方だから信頼性があるとは思ったことがありませんし、マスジャーナリズムでも活躍している方だと知ってから、信頼性が増したということもありません(なんせ、マスジャーナリズムの情報を「おしっこ」呼ばわりする親に育てられた人間ですから)。
じゃあ、なんで信頼できると思ったんだろう、、、
思い返してみると、内容と、言葉の使い方と、紹介してくれた知人が信頼できる人だったことが理由だったように思います。
>相手が誰だか全く分からない状態で人は何かを語れるのか、相手の意見を聞けるのか・・・、互いに相手が誰だか分からない同士でどのような対話が可能なのか。
確かに、難しい問題ですね。
私は、誰が読むか分からないネット上で、本名で語る勇気がどうしてもありません。本名を名乗ったからと言って、有名人でもなんでもないので社会的な影響はあるはずもないのですが、私自身には影響があるかも知れないので。
本名ではないからと言って無責任な発言をしているつもりもなかったのですが、よくよく考えてみれば、やはり、本名で文章を書くときよりもかなり気が楽ですね。ということは、やっぱり無責任なのかもしれません。でも、本名を伏せている分、自由にものが言えて嬉しいので、本音が言えているというメリットもあると思います。
それに対して、管理者である武田さんはプロフィールも出して、どこの誰かということを明確にして発言していらっしゃる。自分の発言に社会的な責任を背負いつつ発言する人と、背負わない人が同じ土俵にいることが、管理者が消耗してしまう理由なのかもしれませんね。
本名とプロフィールを公表することを条件とした掲示板があっても良いな、とも思います。
それか、以前とるとるさんが提案されていた、
>日記的メモランダムとテーマを設定した掲示板を好きなときに開くというスタイル
というのは良い案だなぁと思ったのですが、そのときの掲示板には、武田さんも匿名で、自由に発言するっていうのは如何でしょうか(特定されないようにするのが難しいかもしれませんが・・・)。