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オンラインジャーナリズム掲示板:期間限定「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」

期間限定(7/30まで)で「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」を議論する場とします。7/19書き込みに説明があるので参照してください。 


いくつか 投稿者:武田徹  投稿日: 7月30日(水)08時29分17秒

>武田さんの意思が見えない。試されてる?

すみません。試してます。というか、何が出来るんだろうか、見たいと思っている。
「公共圏」という言葉が出ましたが、ハーバマスの用語としてお使いなら、彼が自由に意見を言い合い、言論を鍛え上げられる場としてその語を用いつつも、そのイメージとして知的階級のサロンを考えていたこと、そのことが後に「公共圏」の非公共性ーー、所詮、一部の知的エリートのみの世界ではないかという意味でーーを批判する動きに繋がってゆくことも視野に入れておくべきかもしれません。言葉で「公共」を言うの易いけれどということかな。ありがちなことではありますけど、少なくとも本当に公共的な公共圏は一朝一夕にはできっこなくて、だったらそこまでの助走期間?をどうするか、非公共性をどう埋める努力をするか、あるいは広く開かれてはいるけれど意味のない(力のない)議論にしないためにどうするか、問われるということでしょうかね

>さて本題。ネットジャーナリズムが現実に強さを持った事例として
>語られるのは今のところオーマイニュースぐらいですよね。
>このたびオーマイを翻訳して見てみたら、後発JANJANよりずっと先駆的。
>記者のメルアド全公開、掲示板がある、発行責任者の顔が見える、が
>目を惹きました。(メルアド公開は米の新聞媒体にもありますが)
>つまりメディアと受け手の壁が低いです。いろんな意味で心配なほど。
>でもこの発信者と受け手の距離感をめぐる作法の発展が今後の
>ネットジャーナリズムの信頼を構築する上で重要なのだと感じます。
>アクセシビリティは高まっているけれどもうまくいかさないと消耗だけ
>がまっている。結局媒体管理人への信頼の問題に帰着しますね。

同感です。信頼性はどこで、どう構築されるのか。たとえばぼくは自分自身をマスジャーナリズムの人間だと思っています。ぼくにもし僅かでも信頼性があるのだとしたら、マスジャーナリズムの世界で、書いてきたことによるのではないか。それがあってこそのネットジャーナリズムだと思ています。ゼロからネットで信頼性構築が出来るのだろうか。出来ないとしたら何がネックなんでしょうか(アクセス可能性の高さが一方で「消耗」の原因になる問題もそこには絡んでいると思うけれど)。相手が誰だか全く分からない状態で人は何かを語れるのか、相手の意見を聞けるのか・・・、互いに相手が誰だか分からない同士でどのような対話が可能なのか。と、これも公共圏の問題なのかな。

カラオケ音痴 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月30日(水)07時30分42秒

削除の内容を私も見ました。
苦笑しました。私も同趣旨の自省、自嘲を持っていたからです。
ネット=カラオケ説は私の発案ですし、潮来(イタコ)の橋幸夫は同年配です。
私はカラオケ音痴であるし、どうやら、マイクを独占してヘタな歌を歌っていたらしい。
ひょっとして、これは私の自己演出カキコだと誤解した方もあるかもしれません。(汗)

こういう発言こそ、メールアドレスをつけて欲しいですね。
そのような誤解を防ぐ意味でも、又、やっぱ、葉っぱ64には思い入れがあるので、
今回はハンドルネームでカキコします。

私はBBSの振舞の共通認識は「公共圏」だと思うのです。
そのことを管理人が明確に出すのか出さないのかで、カキコする、しようとする人は様々な思惑が交錯すると思うのです。このサイトはこのことが、もう一つ不分明でした。非常に気を遣うサイトでした。だから、私は道化て、イタコな歌を歌うことで、その暗黙の許容範囲のラインを古いコードで拡げようとしました。
BBSの本格的な体験はこのサイトが始めてだったので、処女?の如く無知に振る舞ったかもしれません。知らぬ間に数ヶ月が過ぎ、終わろうとしているのですが、結局、自分も参加しながら、武田徹BBSは何を望んでいたのか、何処へ行こうとしていたのか、分からなかった。それが、実感です。

私は沈黙、空白に耐えられない、せっかちな人間です。だから、新参者でありながら、マイペースの書き込みをしたことを反省します。
ただ、ロムする人々に比べて、カキコする人は1%未満なのであろうか。
そのパーセントが上がることによって、ネットの流れも変るのであろうか?
どこかに、このような統計があるのですか、ちょいと、知りたいです。
ロム/カキコの比較データーです。

_| ̄|○ 投稿者:とるとる  投稿日: 7月30日(水)03時13分38秒

もっと早くからカキコしてくればよかった・・・もう最後かもしれないし
新参者ながらROMしてる者の声を代弁できるかわかりませんが、私がここに
カキコしなかった理由を書いて武田さんの今後の参考になればな、と。
私のカキコにうなずく方もうなずかない方も足跡を残しましょうよ。

まず武田さんのふる話題に反応しようと思っても、こんなこと百も承知の
情報だろうなという思いがありひけめを感じて書くことをためらう。
次にアカデミックな用語が頻出するとそれに刺激を受けて自分だけの世界
を展開する人がいて、それをROMしてるなりに思うことはあるんだけれども
ここは武田徹掲示板だし人の軒先で論争してもなあ・・・というふうに思う。
ちなみに削除されてたカキコ見ましたけど同趣旨でも私じゃないです。
そういう状態で正直管理人の武田さんの意思が見えない。試されてる?

さて本題。ネットジャーナリズムが現実に強さを持った事例として
語られるのは今のところオーマイニュースぐらいですよね。
このたびオーマイを翻訳して見てみたら、後発JANJANよりずっと先駆的。
記者のメルアド全公開、掲示板がある、発行責任者の顔が見える、が
目を惹きました。(メルアド公開は米の新聞媒体にもありますが)
つまりメディアと受け手の壁が低いです。いろんな意味で心配なほど。
でもこの発信者と受け手の距離感をめぐる作法の発展が今後の
ネットジャーナリズムの信頼を構築する上で重要なのだと感じます。
アクセシビリティは高まっているけれどもうまくいかさないと消耗だけ
がまっている。結局媒体管理人への信頼の問題に帰着しますね。
情報発信者の顔が見えるかどうか=信頼できるかがネットでは
発展途上にある、それがネットジャーナリズムの現状で、
顔を晒しているものほど強さがあるがそれだけシビアな世界
でもある、そんな印象です。

武田さんには釈迦に説法と思いつつ最近大月さんの記事面白かったので
ttp://book.2ch.net/test/read.cgi/zassi/1049645999/l50
レス番号178-180で朝日に載った記事が書き写されてます。
大月さんは産経の記事直リンク問題のときもなんかやってました。ハハハ
ネットジャーナリズムはリンクをどう考えるのかこれも今後の課題ですね。

どうなんでしょう? 投稿者:松浦良樹  投稿日: 7月30日(水)01時41分24秒

お題をもらわないと発言できない非力さを自覚しながら書き込みいたします。
どうなんでしょう?ネットジャーナリズムは非力ですかね?
確実性のある情報だけが社会?世界?個人に影響を与えるのでしょうか?
新聞ジャーナリズムは一次情報としての信頼性を確保しています。
雑誌ジャーナリズムは2次情報以下として扱われます。
ネットジャーナリズムは眉唾的に扱われていることは否定できません。
だからこその強さってないのでしょうか。
客観的報道(虚構と考えていますが)としての新聞ジャーナリズムが中心にありつつ
主観的な本音として雑誌ジャーナリズムやネットジャーナリズムが存在している気がします。どちらがというのではなく、補完しあうものではないかと考えます。当然新聞だけでなく大げさな物言いをすればあらゆる表現活動がということです。表に出てこないボディブローとしての意味ってないですか?
表題にそくすならばジャーナリズムはネットジャーナリズムの影響を受けつつネットジャーナリズムはジャーナリズムの影響を受ける。お互いが変えあうのではないでしょうか(マッチポンプではなく)。
ジャーナリズムの基本は日記ということを再認識させてくれたのは武田さんです。
所詮?日記であることの弱さも強さも消化した上での言質だと思ったのは勘違いですか。
その上でなにができるか。それを目指しているのだと確信しております。
武田さんに励まされたからこその感情的文章です。削除の対象でしょうが、押さえ切れませんでした。

無力感について 投稿者:ぴこたん  投稿日: 7月29日(火)10時11分50秒

とうとう、あと一日ですね。
この掲示板がどうなるのか心配しつつ、まだうまくまとまらないのですが、先日武田さんが書かれていた無力感について考えたことを書かせていただきます。

>でも、どうしてだろう、そこに力強さを感じない。
>これでマスメディアを変えてゆけるという力がない。
>アクセスの数ではかれるものとは違う強さ。「怪文書」扱いをさせない強さ、
>一度見たらその存在感が印象に残って忘れられなくなる強さがネットメディアにはない。

この文章を読んで、武田さんは、ネットジャーナリズムの「力」をどのように規定して測ろうとしていらっしゃるのかな?と思いました。
私の場合、以前にも書き込みましたように、パソコン画面上の文章を、紙に印刷された文章と同じように理解することが難しいので、その意味では「一度見たらその存在感が印象に残って忘れられなくなる強さがネットメディアにはない」というご意見は納得せざるを得ません。

そんな私が、ネット上で飛び交う情報や議論に期待するのは、「サロン」的な力、です。
それぞれ異なった背景を持つ個人が、自分の持っている情報や意見を交換する場としての「力」というのでしょうか。
そこで交わされる言葉は、確かに一瞬で泡のように消えていくもので、真摯なものであったとしても、記録して公開し、それを第三者が読んでどれほど影響を受けるかは疑わしいというか、あまり力のあるものとはいえないかもしれない。しかし、その場に参加した「当事者」たちは、その場でそれぞれが新たな情報を得、意見を交換することで自分の意見を練り上げることができ、自分の行動や価値観を見直すことができる。そして、その個人がまたそれぞれ自分の場(社会)に戻って、それぞれの個人ができることをするという、原動力、活力を得られるような場、としての力です。
それが「ネットメディアとしての力」に含まれるかどうかは分かりませんが、少なくとも、この掲示板には、そんな「力」があると私は感じています。

少し、話はずれますが、無力感という言葉にはとても親近感(?)があります。
私は、難民対象の救援プロジェクトをしている小さなNGOで活動して5年目になりますが、事情が分かってくれば分かってくるほど、「無力感」という言葉が何度も何度も何度も頭に浮かんできました。一生懸命寄付金を集めて細々と救援活動をしたところで、その何十倍何千倍何万倍ものお金を使った兵器が飛び交い、街が壊されて人が殺されていく現実に「無力感」を感じざるを得なくなります。その「無力感」をどうにか解消しようとすると、今度は逆に胡散臭い「自己満足感」に逃避している(例えば、現実には何万、何億人という人が貧困や紛争で殺されているのに、数人の人間を助けることができたことを過大に評価してそれで満足しようとする)自分に気づき、何をどう考えていいのやらわからなくなりました。
そんな私が今思っているのは、この活動は「世の中」を変えるためにやっているのではない、ということを自覚しようということです。
政府組織(GO)が「国民の皆さん」や「国際平和」、つまり「世の中」を動かそうとして何かをしようとするとするのに対し、非政府組織(NGO)は、一人一人の人間をターゲットに活動するものだと言うことをもう一度肝に銘じようと思っています。
今の自分たちの活動に「世の中」を変える力があるとは、正直思えません。その意味では力がなさ過ぎる。しかし、この活動に関わっている人たち、援助される側も援助する側も、この活動によって変わってきていることは確かなのです。少なくとも、私自身がものすごく変わったことは自分が一番よく分かる。その意味では、人を変える「力」を実感します。
そして、一人一人の人間が変わることで、その人たちが属する社会(家族、企業など)にも少しずつ変化が起き、結果として世の中が変わるのかもしれないという希望を捨てないでおこうと思っています。

「世間」に対して発信し、世の中を動かそうとするマスメディアに対し、ネットメディアは、一人の人間から一人一人の人間に対して発信することで、一人一人の人間が自分で変わっていくきっかけを与える「力」を持っているのではないか、と期待しています。

長文、失礼いたしました。

削除 投稿者:武田徹  投稿日: 7月29日(火)00時08分41秒

アドレスがないので「カラオケ〜イタコ 投稿者:匿名奇凡々  投稿日: 7月28日(月)22時39分21秒」は削除しました。

寺山修司 投稿者:栗山光司  投稿日: 7月28日(月)22時27分39秒

ネットとマスの関係をこの十日間、考えていてわけだが、久し振りに街場に出てマス書店を覗くと、平積みされた寺山修司コーナーがあった。40年近くも彼は生き続けているのだ。
彼の人懐っこい/人を寄せつけない、街のあんちゃん/詩人が同居する佇まいを想い出した。彼は1963年『家出のすすめ』、1971年『書を捨てて街へ出よう』で、首尾一貫、いわば、劇団『天井桟敷館』をHPとして、書/街の物語を産み出したのではないか。ネット/マスを繋ぐ物語を袋小路で悩むこのサイトをあの世からアクセスしたら、結構、饒舌な語り口で、書き込むかもしれない。

「僕は欲望の問題だと思う。人は見たくないものを見ないし、真実を目の前に突きつけても、天動説を絶対手放さない理論構成だって可能なんだ。信じたいものを信じるのだ。僕は東スポ、内タイのような記事は好きだよ、問題はクオリティがそのようなレベルでありながら、正義を振りかざす狂気なのだ。僕が60年代に、上野の家出人、新宿、渋谷など、【街】を舞台にやったことは2ちゃんねる的な活動だったかもしれない。ただ、ーマッチ擦るつかの間海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや、ーその想いの検証はクニに対する検証にならなければならない。その検証を飛び越えて、情で繋がり、癒しと結託したナショナル賛歌は大きな落とし穴に落ちる危険がある。
“事実という名の報道”を特権化して戦争を平和を語る事が出来ると楽観してはいけない。開高健も日野啓三もその事を身に染みて、自戒の積み重ねを忍耐強くやっていた。
紛争地帯を特権化し、危険と紙一重の地点から発信している写真だから、問答無用信用せよ、感動せよと、メッセージを発信するだけでは人々の心には届かない。人は物語を通してしか、心を動かされないものなのだ。僕は詩人として、それをやっていた。
ネットジャーナリズムがジャーナリズムを変えた。その変わり方が劣化と評価しているわけだろう。ネットとマスが境界線を互いに浸蝕し合って、互いにレベルダウンしている、その認識があるなら、処方として犬死にを積み重ねても、忍耐強く、“書を捨てて街へ出る”心持ちで、ネット場にパフォーマンスするしかない。真実/非真実、情報/非情報の混乱に判断停止してならない。【物語】を創るのだ。報道写真家であろうと、ジャーナリストであろうと、文学者であろうと、要求されるのものは想像力でしかない」。
3,4回お目に掛かった寺山修司は私の中でまだ、生き続けている。

ロム/読むことの秘儀 投稿者:栗山光司  投稿日: 7月27日(日)09時37分49秒

>ROMだけで書き込みしたことがありませんでしたが

ぴぴさんもロム派だと言うし、ロム/読む、は違うのだという疑問を持ちました。
書き込む/書く、も差異を見ることで、ネット/リアル、を峻別していることに改めて気がつきました。
どうも、ロムという言葉さえ、ぴんと、こなかった入門者だと自己弁明しても、気付きが遅すぎます。
今年、『書くことの秘儀』という遺稿を残して日野啓三は旅立ちました。とても、勇気づけられる本でした。
武田さんも『戦争報道』の中で触れているように、ジャーナリストから「言葉の力」の野望に賭けて、日野啓三は文学者として転進をはかりました。
私もせめて、『読むことの秘儀』があると信じ、読むことで、少しでも、「言葉の魔空間」にアクセスしたいと思ったものです。
恐らく、『ロムすることの秘儀』と自信を持って言える事態が到来したときこそ、ネットコトバは信頼性と説得力ある白川静の言う「呪」を勝ちとるのでしょう。
結論を出すのは早過ぎます。発展途上なのです。
日野さんは屈原に仮託した想像力で、後進諸国の実体経済と民衆の生活を賭けて、マネーゲームに狂奔する連中の行為は、神話時代末期に捕虜の生命を賭けて、焼いた亀甲の割れ目の読みに血迷った聖職者たちと同じ頽廃であろうと言い切る。

>その作法が今後成立していくことを期待しています。その過程で過去レスにもありましたが信頼性が社会的・歴史的に醸
>成されていくのではないでしょうか

私は子供もいないけれど、「底抜けにオメデタイ」ところがある。極楽トンボなのだろう。
小説家は言う。宇宙的規模において、後期旧石器時代の人たちが自分たちの内から湧き出て来た霊感によって創り出したこの『第二次表示体系』は地球生命の誇るべき達成であり、言語システムというこの発明に比べたら、宇宙船も核も、ささやかなエピソードに過ぎない、言語システムをその内部から不断に活力あるものとして生かし続ける限り、人類は何を失ってもやり直すことが出来る。と
そのことを信じているのです。もし、2ちゃんねる的言語しか残らなくとも、言語OSの問題であり、種としての言語システムは又、別のOSを開発して、現在の私たちの想像出来ないコトバを溢れさせるかもしれません。
そのコトバのリアルさを信じいるから、もし、世界が滅びても、種としてのヒトが多少なりと生き残れば、言語システムを道具に新たな歴史が始まると、極楽トンボな希望を見ているのです。

>取次・再販、宅配・記者クラブ、電波利権・制作者の著作権
の問題など各メディアでタブーとなっている問題がありますよね

そう、個人情報保護法の問題とリンクして論じたかったのです。

>これら既得権とからみついた問題群を露呈させていく方向にネットは貢献するかもしれません。ただしネット上のジャーナリズムが影響力をもっていくかたちでなく、
>ネット上のメディアの普及が既存メディアの下部構造を侵食して結果的にという形で。

その通りだと思います。ただ、フリーのジャーナリスト、ルポライターでこのような下部構造の問題に意識的に露出しているのは、佐野真一氏、小田光雄氏とちょっと寂しい気がしたものですから、百円ライターの火をつけて、関心を呼ぼうと思ったのです。

>掲示板の運営は大変でしょう。レスする義務感を感じたりするので。日記的メモランダム
>とテーマを設定した掲示板を好きなときに開くというスタイルででも続けて欲しいです。

大賛成です。武田さん、お願いします。

支援カキコ 投稿者:とるとる  投稿日: 7月27日(日)05時50分45秒

ROMだけで書き込みしたことがありませんでしたが、武田さんの無力感に驚いて初カキコ。

ROMしてて思い浮かべていたのは、マスメディアにおける情報の流れに関して筑紫哲也氏が
川の流れになぞらえて、上流<中流<下流に対応するように雑誌<新聞<テレビがあると
比喩的に語っていた話です。ネタ的な濃さが上流にあるものの、その受け手は川幅に似て
少なく、その濃さが薄められたものがより多くの受け手に流れるようにしてマスメディアの情報はあるというものでした。ネット普及以前の話で非常に説得力がありました。
ネットが普及しつつある今、変化しつつあるのはこの川の一方通行的な流れが必ずしも
成立しなくなってきているということではないでしょうか。
川下(海)にいたはずの受け手個人が情報を発信し、流れの変化を与える可能性が
高まったのは確かだと思います。
現在でも、ハイブローな単行本>雑誌>新聞>テレビの順に人は意味的な「強さ」を感じているかもしれなせん。一方消費者数は反比例して多くなり強度を保持しています。

しかし、今のネット上の情報はこの図式のどこかにあてはめるということができません。
情報を発信した時点で受け手の数を想定できない・していないものが多いし、
意味的な強さを獲得するには既存のメディアを巻き込みつつ情報発信するほうが説得力を持つこともわかっているので、ソースとして既存メディアが言及されることも多いです。

私としてはネット上の情報作法が発信側受け手側ともにまだ発展途上なのであって
その作法が今後成立していくことを期待しています。その過程で過去レスにもありましたが信頼性が社会的・歴史的に醸成されていくのではないでしょうか。
例えばこの場で評判の悪い2chですが、あそこは現在擬似匿名掲示板になったのであって、
目茶苦茶な言葉がお目こぼしされていますが、違法行為につながることはできません。
連続投稿規制や、面白くないスレのdat落ち、管理人による削除など2chなりのルールが
あるのであって、その読み取り方を身につけて情報に接していけばよいと思います。

話題にしようとされていた方もいましたが既存のメディアには信頼性はあるものの、
その下部構造は問題が多く、取次・再販、宅配・記者クラブ、電波利権・制作者の著作権
の問題など各メディアでタブーとなっている問題がありますよね。
これら既得権とからみついた問題群を露呈させていく方向にネットは貢献するかもしれません。ただしネット上のジャーナリズムが影響力をもってというかたちではなく、
ネット上のメディアの普及が既存メディアの下部構造を侵食して結果的にという形で。

経験的に言えるのはネット上の情報に接するようになって受け手である私のメディアへの接し方が変わってきている以上、発信側の言説(ジャーナリズム)も必ずや変わってくるはずだというふうに思います。皆さんどうでしょう?
TVを見る時間激減してませんか?若い人は宅配で新聞とってますか?本買いますか?

ですから、ネット先駆者の武田さんのネット言説は弱いなんて断定口調には驚きました。
掲示板の運営は大変でしょう。レスする義務感を感じたりするので。日記的メモランダム
とテーマを設定した掲示板を好きなときに開くというスタイルででも続けて欲しいです。

まとまりがないですが。 投稿者:本多 和治  投稿日: 7月27日(日)02時25分08秒

返事が遅れましたが、NPO新聞などに興味がある方は、oh my newsで検索されると色々と
出てくると思います。
あとメールマガジンの事例分析として、『メルマガ』成功のルール  アスカビジネス
高橋 浩子 (著)という本もあります。ほとんど読んでいないんですが、紙媒体出身ではなく
はじめからインターネットで情報を発信している人たちであること、インタビューアーが
メルマガを発信している当事者であることが興味深く思います。
あまり議論されなかったのですが、情報と言うのは他の商品やサービスと質的に異なるもの
なのかという疑問があります。通常の商品と変わらないのなら、現在オンラインジャーナリズムが
普及していないのは、課金システムが整備されていないからで、技術的な問題に過ぎないことに
なります。あえて言うべきことではないのかも知れませんが、国民総背番号制反対のジャーナリストの真意は人権を守ることではなく、信用と言う既得権益を守り続けることだと言う論調がで出てくると、ジャーナリストの人たちはつらいかなという気はします。
取り留めのない書き込みですが、ジャーナリズムの世界では周辺的なものかも知れませんが、書評とか映画批評の分野では、新聞や雑誌はその地位が下がっているように思います。個人的には特定の批評家のサイトを見るか一般の人が感想を書き込めるサイトを参考にすることが多く、新聞や
雑誌の批評は参考にすることが少なくなりました。オンラインジャーナリズムではありませんが、
特定の新聞記者の個人名を挙げて署名記事を批判すると言うように、会社ではなく記者個人を
評価すると言う行為はネットが普及する前は珍しかったのではないでしょうか。
他にもオンライン翻訳とか動画配信なんかもすでに結構普及してたりします。
今日本の音楽業界では、音楽配信が普及していないのにCDの売り上げが激減すると言う
非常に厳しい状態のようです。ジャーナリズムの世界でも同様のことが起こりつつある
のでしょう。でも日本人の多くはそうした厳しい状態でこそ構造改革が進むと信じているわけで、
(信じ込まされているのかもしれませんが)、痛みの後でもっと質の高いジャーナリズムが
生まれると期待していると思います。たとえそれが根拠に乏しい思い込みであっても。
何を書けばいいのかわかりませんが、新聞、雑誌、本、テレビ、ラジオ、インターネットの
どのメディアでもいいので、これからも武田氏の記事を読みたいと強く思います。

logの海 投稿者:上田 勝  投稿日: 7月26日(土)23時26分00秒

「ネットサーフィン」という言葉がありましたが、ネットというのは情報=言葉の海ですね。漂っていると違う海流(言語)にぶつかりさっぱり意味のわからない世界に入りこんだり、同じ言語でもアンダーグラウンドの暗黒世界があったり。

私もそうした茫漠たる情報(その多くは無意味なlogや宣伝文句の類かもしれませんが)の海の中に自身のホームページを持って発信を試みていますが、おそらく無数に泳ぎ回るプランクトンの一匹程度の意味しかないのだろうと思うことがよくあります。

同じくサイトを開設している人達と話をすると共通しているのが、「こんなことに何の価値があるのか」という自問自答だったりしますね。BBSを通じた議論でも、いつかlogの彼方に消えるこうした議論に意味があるのかと悩む。議論をする瞬間瞬間は楽しいし、意外な出会いがあったりもしますが、ネットで触れる情報というのがどこか刹那的で、自分の時々の意見や主張も泡のように存在感が薄い。印刷された媒体というしっかりした形ある存在感がないために、まるで糠に釘を刺すようにとらえどころのないのが「ネット」ではないかと感じます。

「ネット」の言論空間を「logの廃墟」と捉えるのも一理ありますが、廃墟にしてしまうか、それともエネルギーと生命力に溢れた原初の海同様に考えるかは、やはりアクセスする側の意識次第なのだろうと思います。情報を活用しようと考える人にしか本当は意味はないのかもしれません。となると発信する側は本当にボランティア的な考えで取り組まないと、そのうち興味を失って閉鎖してしまうことにもなるんでしょう。

活字媒体というのは時代を超えて人々とコミュニケートできる特性がありますけれども、ネットという媒体は全く一瞬の存在ですね。言葉の巧みさであるとか込められた思想性などは要求されない全く実用一辺倒の世界です。そういう意味では言論というよりも商売にこそ向いている媒体なのかもしれません。

pipi検査 投稿者:栗山光司  投稿日: 7月26日(土)22時23分54秒

>ぴこたんさん、ぴぴさん

期間限定のページをプリントアウトして読みながら、書込みしてます。
ぴこたんさんの言うように、紙の印字の儀式を通すと、言葉が脳内に深く記憶されるような気がするから不思議です。モニター上から記憶される情報と別の場所に保管されるとした仮説は確かに説得力がありますね。私は本を読むスピードは遅いのです。行ったり来たりしながら、書き込んだり、関係ないことをメモしたり、時には、破いてみたり、
モニターではこのような曲芸は、私のスキルでは出来ません。(技術的にはできるのですか?)
随分、前から、ハンカチのように折りたたみ可能な、モニターの開発の話を聞いたことがあるが実際はどうなんだろう。
簡単に便利に取り扱うことの出来るモニターが、たとえば、老眼鏡のように掛ける。そのモニターを読みながら、携帯から連動した入力で書き込む事も出来る。そんなバカなことをふと、考えました。ウォークマンのソニーが開発しないかな(今の電子ブックでは本に負ける)。
今のところ、本のモバイル性と情報のクオリティ性とメモ代わりにも使える多機能性に匹敵するものを持ち合わせていないと思う。
一番、大切なのは、ぴぴさんも言われたように一過性でなく、活字を通すと、記憶に残るような気がする効果ではないか。まあ、単に心理的学習によるものかもしれませんが、専門家の人の意見を訊きたいですね。

尿検査の喩えは面白かった。唯、最後におしっことなって出る尿は濾過されて一番綺麗なのです。免疫力アップのために尿療法なんてものも一時、話題になりましたね、この方法論はその個人の特異性を保持して、身体回路を経て個人情報の入力をする。腎臓に集められたデーターは濾過され抽象化され、その自分のpipiを呑んじゃうわけです。(笑)
ベストセラーになったので思い出す人がいるかも知れません。
表に出てくる情報はカスというより、免疫力(リテラシイ)アップのための、捨てて省みないものでなく、じっくりと、味わって吟味するものかもしれません。
私は病院に行ってまずやることは尿検査なのです。それから、診察がスタートします。
「今日のおしっこは綺麗ですよ」と言われると、
延命の証明が出来たと納得するのです。
どうやら、習慣的にカスと信じているものが貴重な情報だったりする盲点があるのです。
生き方において私は常識を非常に大切にしていますが、そのように振る舞いながらも、変幻自在で、その常識を疑う。私はレビナスを導師と仰ぐ武道家でもある『おじさん的思考』の内田樹が好きで、彼の全方位に目配りしながら、受容を鍵とした太刀捌きにジャーナリストの振舞いのヒントがあるような気がしてならないのです。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 7月26日(土)17時31分52秒

>「表に出てくるのなんて、情報のカスでしかないと思っていた方が良い。
>しかし、尿検査で体の状態のいくつかのことが分かるのと同じように、
>情報のカスであれ、分析能力を身につければ、カスから何かが分かること
>もある。」

これは至言ですね。確かに、なぜその情報が様々な「ふるい」を経て排出されたのかという事実から「ふるい」を推測することは出来るのでしょう。

ネットジャーナリズムでジャーナリズムが変わったのかどうか 投稿者:ぴこたん  投稿日: 7月26日(土)16時42分53秒

ジャーナリズムにも、ネットにも詳しくないので私はよく分からないのですが、
私自身や、周りの人たちを見ると、情報の受け手を少しずつ変えているのは確かで
はないかと思います。

学生のころ、母親に「テレビとか新聞に出ている情報なんて、おしっこみたいなもんよ」と言われたことをよく思い出します。
その心は、「表に出てくるのなんて、情報のカスでしかないと思っていた方が良い。しかし、尿検査で体の状態のいくつかのことが分かるのと同じように、情報のカスであれ、分析能力を身につければ、カスから何かが分かることもある。」と言うものでした。

私がネットで情報を得たり、掲示板に書き込んだり、議論をしたりするのも、情報の「カス」しか手にすることのできない一般市民である私が、どうにか、「カス」から本体を知ることができないか、あがいているのかもしれません。

この掲示板は、そんな私にはとても参考になる場でした。
一個人のわがままですが、できれば、終わらせないで欲しいです・・・
しかも、この、掲示板というオープンの形式がかなり貴重な感じがします。

この掲示板によって、情報の見方を考えさせられ、「カス」の分析能力を少しでも高められたかも知れない人は私一人じゃないと思うのです。
政治経済とも深くかかわりのあるマスメディアを直接変える事は難しいかもしれないけれど、利用者が少しずつ変われば、徐々にマスメディアも変わるのではないでしょうか。
何か明らかな大きな変化が起こるには、それまでにじわじわと色々な作用が水面下で起こっていることが多いのではないでしょうか。
ネットメディアには、そういう水面下のじわじわ力を期待しています。

ハードの問題をやりたかった。 投稿者:栗山光司  投稿日: 7月26日(土)08時39分14秒

ばんまいさんのフランスの映画館状況はわかりませんが、私は昔と比べて不自由を感じるのは、下駄履きで行ける範囲内で、銭湯、映画館がないことです。内風呂、モニターであれ、欲求不満が残るのです。まあ、これはハードの問題ですが、「ネット・マス」をソフト面で論じることは重要ですが、【情報劣化】に関しては、皆さん共通の認識がある。
そのことを論ずると、どうしても、書いた後で、徒労感の残る慰戯になる。具体的なシステムの構築が見えないからです。
ならば、ハード的な面だけ前景化して、検証する論点として再販維持制度のことを書いたのだが、反応がなかったのが、残念であった。一見、迂回路であろうが、マスの言論人達、ジャーナリスト達の意識を先鋭化するしか、荒廃化を防ぐ事ができないのではないか、昨日、NHKで中学校の現場の荒廃化を先生の意識改革(情熱)によってしか方法がないと、先生達の研修についてドキュメントをやっていたが、マスメディア内部の人達が自分のこととして考えるべきでしょう。「報道」「言葉」に対する情熱を呼び覚まさせる方法論として、まず、経済基盤から手をつけてみる。それが、再販の検証です。新聞社、なり、出版社なり、マスサイドから、組織として、建前として、かような提案はなされられないでしょう。しかし、かようなネットからなら、可能なのではないかと、思ったが甘かったみたい。元朝日新聞記者の方にも訊いてみたかった。宅配システムという一見、報道と関係ないところから、報道の問題をスタートさせる。そのようなハードなシステムの問題を白熱化したかったなと、残念です。実は私も私の友人たちもPCを持っていても、2ちゃんねるなり、blogなり、ネット上で、「真実/非真実」を得ようと野望?を持っている人は一人もいないのです。だから、武田さんの真摯な野望が新鮮に感じられたのです。そう、まさしく野望なのです。私も友人達もリアルな場で紙媒体で情報を得ようとしてます。ネットで検索利用して、最終的にはマスメディアなのです。
問題はここなのです。ネットの登場以後、マスが必要以上、ドタバタして、ネットのアクセス数に幻惑されたのか、テレビ媒体にしろ、視聴率が過大評価され、報道内容が劣化した状況が、新聞にも及び、無視すれば良いのに、無視出来ない2ちゃんねるあたりの語法を意識しているのではないか?
黒船到来で右往左往するより、自ら既得権である再販維持制度を放棄して開国し、武田さんの言葉で言うなら、「近代化の徹底」から出発する。ポストモダンは超近代でなく、後期近代なんだという時代認識(宮台真司「絶望から出発しよう」)、が必要なのではないか。
現在、私は本を始め、活字媒体にしか信を置いていないのが本音です。
なのに何故、カキコしているのかと問われれば、はっきりした解がないのです。自己慰安、慰戯、もあろうが、せっかく買ったPCを友人達のように無駄にしたくなく、スキルを学習する動機で書き始めたのです。メカ音痴の私はマニュアル本を読む忍耐力がなく、授業料まで払って教わる気もなく、「たかが、ネット」と活字媒体をネタに読書投稿を始めたのです。内容より、打って、アップするトレーニングを第一に考えたら、一年、未満で二十万文字数ぐらいになって、アップされている。検索エンジンから、葉っぱ64でクリックすると、膨大なヒット数で一頁目の最初に表示されている。そうすると、実名の栗山光司が頼りないものとなり、ちなみに実名で検索すると、ゼロでした。
だから、ネット情報に騙されてはいけない、気をつけなければと、思いました。
私は栗山光司であって、葉っぱ64ではないのですから、
恐らく、このBBSが閉鎖されたら、栗山光司となって、活字媒体の世界で本を読む生活を最優先とすることになるでしょう。
たまに、ネット上の私の投稿書評を含めて、情報を貼付けてメールで送信すると、友人達から、歓迎されたことはありません。友を失う事態になることもある。
ネットって、取り扱い注意のやっかいな媒体だなあと、一年未満の感想です。

re: 弱さについて 投稿者:ばん まい  投稿日: 7月25日(金)19時17分24秒

武田さん、お集まりの皆さん:

「一度見たらその存在感が印象に残って忘れられなくなる強さがネットメディ
アにはない」とは、「DVDに焼かれた劇場映画を自宅の14インチテレビモニ
タで観ても迫力がない」と言っていることと似ている、と、感じました。

=====
デヂタル機器を介した報道を続けることによって、既存の媒体を介した報道
活動が拠り所としているシステム(内部構造・思想?)を変えることができる
か?という問いへの答えは、現時点ではまだ見えないと思います。 デヂタル
機器そのものの変遷・成長が、まだ飽和段階に達していないようであると感じ
るから、そう思うのです。

フランスでのデヂタル機器の人々への浸透具合を眺めているから、そう感じる
のかもしれません。 パソコンによるウエブ閲覧の可能性も携帯電話による
メール送受信の可能性も”一挙に”目の前に現れた、というのが今の当地の
様子なのです。 この辺りで、ひとは、「その機械で何が出来るのか・自分で
は何をやってみたいのか」をかなり考えてからまとまった投資をしますから、
機器の普及には日本よりも時間がかかるのですが、利用者の目的別に機器を
distributeすることに結果的に成功し、それぞれの媒体でどのようなサア
ヴィスを提供すると”人気が出る””売れる”か、ということは、日本よりも
ハッキリ見えるように感じます。

話を元に戻しまして、「ネットの力」を評価するには、デヂタル機器が目的別
にひとの間にある程度浸透することと、我々がデヂタル機器に備わっている
情報の記録/保存/蓄積機能を充分に使える段階にまで技術的に成熟する必要
があると思います。 デヂタル機器は、スイッチをONにせねばウンともスンと
も言わないのですが、そこで利用者が自分の目的を念頭にONボタンを押す
ようになれば、「目的別」浸透をしていると判断でき、そこにはどのような
「力」が潜んでいるのかを考えられます。 また、たとえば「掲示板での直接
対決/接触を避けたい」という希望は、デヂタル機器の記録/保存/蓄積機能を
利用して実現することができます(記録させておくものの、選別してから表示
をさせるなどによって)。

目的別な浸透を目指して機器別に「何を得るために使うか」、また、
記録機能の活用を目指して技術的に「どのようにして使うか」ということを
発信する/発信できる者とは誰でしょうか? 商売繁盛を支えるための発信の他
に、ジャーナリスト(並びに、「真実/非真実」を見抜こうとするジャーナリ
スト魂?の持ち主)が、現段階のデヂタル媒体を使って発信できる(発信す
べき?)内容はある、そして、まだ充分に”その”内容の発信は為されてい
ない、と私は思います。

↓成程、 投稿者:栗山光司  投稿日: 7月25日(金)11時25分07秒

石井さんの思いが分かりました。
葉っぱ64こと、栗山光司です。
私の知人の画家榎本香菜子がHPを設置したのだが、BBSはありません。
http://www.h3.dion.ne.jp/~e-kanako/
メールの入り口はあるのだが、オバサンなのに(失礼)、アイドルのエノモトカナコと勘違いして、くだらない言葉で送信してくる人がいるらしい。
BBSがないのに、その対応に苦慮してプロバイダーに相談したという。
それを聞いているものだから、ここにアドレスを貼付けるだけでも、
ひょっとして、変なメールが直接来るかもしれないなあ?
と心配したが、現在のところ、そんなことはない。
ハンドルネームだったからかもしれませんね、
石井さんのメッセージに答えるかたちでも、又、好奇心から、今回、実名でカキコしました。
実名であっても、無名であるので、何ら変らないと思いますが。

私が掲示板を閉鎖した理由 投稿者:石井政之  投稿日: 7月25日(金)10時11分43秒

掲示板を私も一時期設置をしたのですが、私の読者のなかで醜形恐怖的な感性をもった人からの書き込みがあり、閉口したためすぐに閉鎖しました。
もっとも私は単行本を書くたびに、醜形恐怖や身体コンプレックスに苦悩する人からのメールをもらってきました。ですから驚くことではないわけです。しかし掲示板では、そういう人たちと意見交換をしたくはないですね。

掲示板を自分で設置して、匿名者との意見交換はしたくないことを再認識したということでしょう。
第3者の掲示板で読むのはいいけれど、自分が真剣に対応する気持はわきあがりません。
ネットでの匿名者との意見交換は私はどうも苦手です。

そういうことを武田さんはやってきたわけで、精神的に大変だろうな、と思ってきました。
不特定多数が参加する掲示板は主催者が消耗するというリスクは避けられないのではないでしょうか。

↓ごめん! 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月25日(金)09時05分39秒

失礼、真実/非真実に訂正して下さい。
いや〜あ、気がつかなかった。こういう言葉はわたしの日常で、めったに使用しないので、うっかり、しました。私も恥ずかしいので面倒でも、訂正をお願いします。
真実なら現実の色があるが、真理なら、何か、武者小路実篤になってしまう。(汗)

↓広河隆一 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月25日(金)08時56分57秒

ヒロプレスの「何故シャッター〜」のテキストを貼付けるのをミスしました。
追加:
http://www.hiropress.net/2003/archive/c030722.php
シャッターを押すや否やの問題は、身に付いた身体性の作法で、
真理/非真理、情報/非情報、その人の哲学で検証すべきではないかも知れない。
ただ、後付で自己正当化すると、自己慰安になります。
それだけは、回避して欲しいと思います。それが、プロとしてのジャーナリストのプライドと信じています。

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