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オンラインジャーナリズム掲示板:期間限定「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」
期間限定(7/30まで)で「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」を議論する場とします。7/19書き込みに説明があるので参照してください。
鈴木淳史著『美しい日本の掲示板』(洋泉社新書)はbk1にもカキコしたのであるが、2ちゃんねるは「あめぞうのセカンド・チャンネル」という意味なんですね。鈴木氏はその立ち上げ宣言を「ひろゆき」のハンドルで99・5・30にカキコした「掲示板文法」ともいうべき語法を批評して、<日本憲法の前文が「戦勝国の憲法っぽいものをつくりました。どうでしょう?どうかな?どきどき」と書いているくらいの衝撃である。まさに2ちゃんねるとはそういう脆さを最初から含んだメディアなのである。>と書いている。
この掲示板を否定しようが、肯定しようが、何故、日本で世界に類のない巨大掲示板が成長していったのか?メディアに携わる人々は避けて通るべきでなく、判断停止でも良いが、当然、批評すべき言葉の準備はしておくべきでしょうね。鈴木氏は、その秘密を俳句の連句、江戸時代の落首、室町時代の京童の「いさかい、悪言悪態、嘲弄、暴力、印地打ち、時事放談、仇名命名、落書、流行歌つくり、軽口巧言、町芸能、世間話、頓知」でこいつらは、完全に中世の2ちゃねらーだとする。
しかし、ちょっと、違和感、微妙だと危惧しているのは、私も含めて、てるてるさんも、武田さんも、「どちらに向かおうとしているのだろうか?」だと思う。
朝日新聞社を辞めた中馬清福さんが『新聞は生き残れるか』(岩波新書)で、今、国会で個人情報保護が成立したが、意外と世論が盛り上がらなかったのは「報道被害」についてのマスコミの自己批判のなさに冷たい目を向けていたからではないか?そういう立ち位置で検証している。立法、司法、行政、と並ぶ第四の権力として大マスコミは人々に必要以上に認知されているのだ。だから、戦後民主主義とともに始まった「弱い人々」を守る、「権力」対「新聞(背後に人々)の構図だったが、しかし、人権意識の高まりにつれて分かったのは、読者は「新聞=市民(人々)」などと考えていない、ということだ。次第に「新聞」対「権力」(背後に人々(市民))という空気さえ出来たと記している。
2ちゃんねるは、3,4回、覗いたが、目眩がした。若い頃なら、カキコしたかもしれぬが、せめて、メルアドで信頼性の担保をしないと、私には縁なき世界と無視ですね。
だが、こちらが無視でも、中馬氏が危惧しているように新聞対権力(背後に2ちゃんねらー)の構図が出来上がる危険性があるのではないか?それは、多分、マスコミが第四の権力化した事態を受けて、「新聞・権力対ネットラー」の構図の中でカオナシ達は振る舞っている事が、流動的にそんな風に、保守権力に利用されているように見えたり、逆に反権力的に見えたり、ネットラーの動きが余りに激しいために様々な解釈が生まれるのではないか。
その無節操の作法が怖いと言えば怖いが、変革の力になる頼もしさもある。
判断停止で、取り扱い注意、未決済で保留しても、決済のタイミングが遅れると、もう引き戻して、顔の向きを変えるという事が不可能になるやもしれませんですね、
ぼくがオンラインジャーナリズムという言葉を最初に使ったのは2ちゃんねるの前身である「あめぞう」という巨大掲示板に対してでした。主催者に取材して、記事を書いたこともある(そのせいであらぬ噂を立てられましたが)。ここを期間限定にする前に、「たくさんの眼でで世界を見渡すネットジャーナリズムの可能性」云々と書いたけど、それもあめぞうに期待して書いた記事の中で既に書かれていた趣旨です。で、あめぞうの延長上で2ちゃんねるにも期待していたけれど、巨大掲示板はどちらに向こうとしているのだろう。てるてるさんの不安の一部はぼくも共有できます。ただ、ぼくはもう少し時間をおいて観てみたいし、イデオロギー的偏向のような意味論的なテーマはみんなが議論するのでしょうから、そうではなく、統語論的視点とでも言うか、掲示板の文法が導く情報共同体の性質の分析なんかをじっくりしてみたい。そもそも「2ちゃんは」という総称的な主語をたてて語ることに果たして意味があるのかもわからないけれど、ジャーナリズム問題の範疇で考えてみる価値ある対象ではあるのでしょう。あとサイバッチも。
>そこは判断停止でいいのでは。続報やら傍証の揃った時点で受容の可否を判断すればよ
>く、事実の信頼性を「確定」「取り扱い注意」「未決済」に振り分けることでひとまず
>よしとしましょう
これはすごく分かる。というかこうするしかないですよね。語られた事実、書かれた事実の事実性をもってひとまずよしとする。そうすることしか出来ない場合は往々にしてあります。そこで大事なのは、それが語られた事実、書かれた事実でしかないとみなして、うまくその限界の範囲内で「判断停止」することでしょう。
実はこれは引用の場合だけでなく、一次情報に触れている取材でも同じで、五感で直接触れて私的に享受された直接経験的事実と、なんからの媒介を経た間接経験的事実はまじっているはずで、うまく判断停止を盛り込みながら両者を扱い分ける技術が大事なのだと思う。その技術は、マスジャーナリズムも一部の例外を除いて習得されていないと思うし、ネット系はほぼ全面的に望み薄ではないかな。
失言を繰り返す政治家とかは、2ちゃんねるで喝采を浴びれば大丈夫と踏んでいるのでは、と不安になります。
反フェミニズム、反人権派、反北朝鮮、反朝日新聞、反毎日新聞、反日教組、反社民党、反少年法、反こどもの権利条約、南京大虐殺はなかった、の立場で元気一杯に多数の投稿が集まり、少数派の意見にはプロ市民とか共産党員とか北朝鮮の工作員というレッテルがはられる場所。
ここで支持を得られれば、たとえ朝日新聞や毎日新聞で批判されようが大丈夫、と思っている政治家がほんとにいたら、こわい……
こういう、たとえば2ちゃんねるのニュース速報板、マスコミ板、少年犯罪板、世評板、ニュース議論板などの多数派が、マスコミを批判しつつも、政府与党の政策を支持する場合について、ジャーナリストの方々は、どう考えられるんでしょうか。
インターネットでは、いろんな人が自分の意見を発表できるし、マスコミの報道にも政府の政策にも自由に批判をぶつけられるけど、何かの機会で、いっせいに、マスコミも政府与党もインターネットも同じ論調が多数を占めるときが起こるかもしれない。
そうなったら、そうなったら……こわいんですけど。
私は森岡正博さんの掲示板で、ずっと臓器移植法改正案の議論に参加してきましたが、森岡ブランドのおかげで、この分野に関心のある人には、ハンドルを覚えられてしまいました。
掲示板での議論がたたき台になって、改正私案を作り、それを森岡さん編集のウェブマガジンに載せてもらい、そこでは本名も載せましたが、改正私案のなまえには、ハンドルをつけています。
それは、この分野を研究している人の本のなかでも、本名とハンドルと両方で引用されています。
森岡さんの掲示板で、たとえば生命倫理事典の記述についてコメントを書くと、執筆者が返信を書きにいらっしゃるし、生体肝移植の体験者の精神的支援について研究している論文を読んで紹介すると、著者が返信を書きにいらっしゃいます。
こういうのは、週刊誌や新聞のブランドが、記事に権威を与えるというのと、同じなんでしょうか。
でも私はあまり権威とか考えないで、情報を交換することそのものが楽しくて、掲示板に参加しているけど……
ソースの明示で事態が解決しないということは、特異情報ではありがちですが、そこは判断停止でいいのでは。続報やら傍証の揃った時点で受容の可否を判断すればよく、事実の信頼性を「確定」「取り扱い注意」「未決済」に振り分け、その分類基準の主体としての”わたし“が、分類基準の評価によって客体化(こなれない文章だなあ)されることでひとまずよしとしましょうというのがわたしの考え方というか逃げですね。
より原理的な問題についてはちょっと思い浮かびません。蒸し暑いからかなあ。
担任の先生が言った。有名作家が言った。大臣が言った。大新聞に書いてあった。テレビで放映していた。ソースの信頼性の担保は歴史的、社会的に共有された、いわば、「ブランド性」で権威づけられているのではないでしょうか。私は流通畑の人間だったので、すぐに「情報流通論」みたいな発想になるのですけれど、メーカー名を明示しないで、「無印良品」の信頼性で販売戦略を立てた方式は情報の責任をどこで担保するかを考えると、消費者(読者)はポタール(店)に信頼を置いているわけです。
「近代読者は消滅して読み手としての消費者」というマッピングで小田光雄は出版流通に関して、鍵概念を提出していますが、メーカーから、ダイエーの中内さんが流通の主導権を奪い取ったように、「情報流通革命」が進行しているかどうか?検証すべきでしょうね。
ただ、ダイエーの役割は終わり、ドンキホーテー、コンビと24時間、何でも受け入れる。商品回転率が最優先。若者たちに支持され、なにやら、ネットメディアに似ている。
だから、ソニーのクオリア戦略はこのサイトでも取り上げられましたが、技術者のモチベーションを維持、上げるためには値段が高くとも、高品質の商品開発を目指す。
オールドメディアがソニー並みの危機意識を持っているなら、情報のクオリティを向上することでしか、新聞は生き残れないんだと、緊張感の中で説得力ある報道が供給されると思うが、どうなんでしょうか、
「商品流通業界」と「情報流通業界」は共通項で論じられないとお叱りを受けそうですが、「読者から、消費者へ」の視点は大事だと思います。このカキコでソニーのクオリアを霊感商法みたいに言いましたが、ひょっとして、ソニー戦略は正解ではないかと、今は思っているのです。
おっしゃるとおりソースは秘匿することに積極的な理由がないかぎり、明示すべきだと思います。原則ですね。でも明示すれば問題解決かというとそうでもない。「ここにこう書いてあった」と示すことで、その事実の信頼性判定をソースにゆだねる。ソースの方に信頼性を保証できるなんらかの理由があればいいけれど、そうでない場合は、事実は確かめられないまま宙づりになる。出典をしめしても何も解決されない。そうしたより原理的な問題についても考えてみるべきだと思います。
池澤夏樹さんの新世紀へようこそ 098 のこのくだり以下を読んで、
思わずソースは? と思いメールを出しました。アメリカがメディアを
恐れているという自説の補証に使われている以上、ソースの明示が必要
ではという内容でしたが、放置されたみたいです。
> レバノンのアル・ミナールというテレビ局の取材陣が、イラクの砂漠の中
>でアメリカ兵40名ほどの死体を発見したというニュースがインターネット
>で伝えられました。
武田さんが「戦争報道」で言及された情報と流言蜚語の区分問題では、田中宇
さんの911陰謀説の展開で、ニュース記事と素性のさだかでないサイトを等価で
参照に附したことの懸念をメールしたことがありますが、すくなくとも参照は
明記されていた。
池澤さんはソースなしの情報を受容できる読者を想定しているのだろうか。
100人の村に無邪気に感動する天声人語子や、政治家の失言に床屋政談レベル
の記事を書くジャーナリストの対極もしくは補完を、読者は望んでいないのか
も知れない。ネットジャーナリズムという分類群の評価はまだ微妙です。
ネット上の情報、掲示板などを読む時、私は多くの?の中から真実を見つけ出そうとします。最近は新聞もテレビもそういう物で、鵜呑みにするのではなく、こういう情報が世間に流された、位に考えた方がいいのではないかと思います。ただ、世の中的(私の周りの主婦的)には「テレビで言ってた」「新聞に書いてあった」が、まだお墨付きになってしまっています。これは、小学校で校長が「家庭で先生を批判しないで下さい。子どもが言うことを聞かなくなります」(実際に私が何回も聞いた言葉)と言うのと連動していると私は感じます。誰か、特に権威がありそうな人がいった言葉を、鵜呑みにしないで、きちんと聞いた上で批判的にとらえられる人を育てるのに、ネットの登場がきっかけになることを期待します。
皆様とはちょっと違う立場からの書き込みで、失礼致しました。
何人かのライター仲間にこの掲示板で議論が進行していることを知らせました。
「本とコンピュータ」という雑誌で形になるというゴールが見えていると声がかけやすいですすね。
私が声をかけた人たちが、実名(または仕事用のペンネーム)で参加することを期待しています。
>まず情報収集方法が激変した。膨大なWEBに自在にアクセスできるようになりました。
>海外のメディアも楽々読める。検索も縦横にかけられます。メールマガジンという新しい
>メディアも出てきた。カット・アンド・ペーストで情報を収集し、利用することも易くな
>った。
横から失礼します。
情報収集方法としてもインターネットは、ジャーナリズムに大きな影響を与えたのではないでしょうか。僕の場合、先日の研究会でお話ししたように、以前は海外での出来事1つ確認するために、アメリカン・センターや国会図書館や都立中央図書館をまわって、新聞や専門雑誌の記事などを少しずつ集めたものですが、いまは同じ作業をすべてウェブ上でできます。便利といえば便利なのですが、なんだか「取材力」(って何でしょうね?)が落ちているような気がするのです。一方で、「情報収集能力」は確実に上がっている。
僕よりの下の世代では、取材の第一歩は図書館ではなくウェブでしょう。僕も今はそうです。短時間で集めたウェブ上の情報を読んだだけでわかったような気になってしまい、現場での体感や対面での「口頭」経由の情報を軽視してしまうようになってしまうのが少し怖い。いまのところ、デメリットよりもメリットのほうが多いからいいか、と割り切っていますが。
>発信者が善意であっても、認識する側がノイズとほぼイコールでしか見てくれないという認識
匿名性で発信するからには、その言葉が犬死、無視されても、しゃあないと、覚悟の上なのだと思います。前にこの場でオールド・メディアにクレームの電話をしょっちゅうする友人の話をして、武田さんに甘い考えと言われました。玉石混淆の石が九割以上で、?のクレームが多すぎその対応にコストも人材の消耗も招き、実効性があまりなく、儀式化している。成程、オールド・メディアにおいては、無視しようにも、視聴者、読者からの?の言葉であっても、窓口にアルバイトであれ、苦情処理専門の人材派遣のスタッフであれ、形式的にも対応が余儀なくされる。
しかし、ネットのメリットは金かけないで、無視が出来ることです。それが、又逆に、玉が石に埋もれて、ロットとして、紙媒体でないから、無視してよい言説なんだと、お互いに不幸な事態が生じる危険値が高くなりますが、
変な言い方ですが、ネットメディアは「無視」を肯定的に捉えて、兎に角、カオナシ(匿名性)の無意識であれ、欲望であれ、表舞台に出すことが最優先されるメディアではないか?
従来のメディアでは膨大なコストがかかるが、ネットメディアは犬死にを屁と思わないカオナシに支えられているのです。責任の問題はメディア全体として検証すべきでしょう。
私はむしろ、オールド・メディア側がネットを利用して、御蔵入りした情報、未編集のいわば、フイルムを積極的にネット公開して紙媒体から、漏れた情報を掬い上げるシステムを構築して欲しいと思います。
ネットを敵視するのでなく、紙との連携を計る。そうすると、紙だからと言って、再販に守られるのもオカシナ話で、当然、再販維持制度を検討すべきでしょう。
記者名は匿名でもメディア名、メディア企業名が実名と似たような形で歴史的、社会的に認知されている。認知されたものだと理解されている、ということがあると思います。そうした枠組みの中で署名記事か無署名かが選ばれている。名前のシステムが違うと言うことですね。
葉っぱ64さんのようにハンドルネームが流通するにつれて認知されると言うことはあります。マスメディアに原稿を書く人だって最初から知られているわけではなく、デビュー作からはじまって徐々に名前が浸透してゆく。そこは同じなのですが、デビューする瞬間から質が違うところもあって、マスメディアの場合、書き手として選ばれる手順を経ている。いや、選ばれるたって、どういう基準で選んだのか分からないものですけど。でも案外、そこが信頼性問題のツボかなとも思います。
あと、ぼくがここでメールアドレスをつけるようにしたのは、フィードバックの回路を確保しようとしたからです。マスメディアの書き手に直接連絡を取るのは不可能な場合が多いので、その点でここは書かれた内容の事実関係のチェックを書き手と個人間で行う可能性(可能性ですよ、あくまでも。メアドがどれくらい実際に有効かは別問題)に開かれていると言うことで「マスメディア以上」なんですが、そうしたシステム設計が信頼性に寄与しているのかといえばそうでもないですよね。無駄な努力なのかな。
>本名とか所属団体名の実名発信は確かに重要ですが、
>マスメディアで広く知られていない名前では実名の意味がなくなります。
>そもそも実名だと信頼できるという「感じ方」もマスメディア文化の作った慣習によって
>おり、それ以外の信頼のシステムが出来ないとネットメディアは浮かばれないと
>思うんですが。
責任をどうとるかという問題なのでしょうね。
週刊文春や週刊新潮のような週刊誌では無署名記事が普通ですね。しかし、信頼性が担保されていると信じられています。また、週刊誌記者は匿名性をまとった存在ですね。
匿名と実名はマスコミのなかでも使い分けられているのではないでしょうか。
このあたりも興味深い点です。
2ちゃんねるのように、大勢の匿名者が事実を補強していく作業は、匿名の記者集団がプレーンストーミングをしていることこと似ているのではないでしょうか。
興味深い論争の場に御邪魔します。
うがやさんのHPを拝見いたしました。メディアを扱う会社であっても、会社である限り、通常の私たちが見聞きする、又体験する民間会社と何ら変らない、報道という商品を売る営利会社なんだなあと、ぼんやり、考えていた事が、残念ながら、再認識した想いです。やっていることは同じではないか?ただ、民間会社と違うのは、再販維持制度、記者クラブ制度に守られた特殊な団体なんですね。この問題に言及することは、このスレの問題からズレるかもしれないので、ここまで。
>そもそも実名だと信頼できるという「感じ方」もマスメディア文化の作った慣習
私は別に実名でも構わなかったのですが、ネットの慣習では作法としてハンドル・ネームが礼儀だと思っていたのです。「自意識過剰の自己言及」が溢れ出て、逆に失礼ではないかと思ったのです。勿論、プロとして武田さん、うがやさん、石井さん達は職業としてのステージ上で「抽象化を獲得した実名」をもっているので、「表現」たり得ていると思うのです。誤解されるかもしれませんが、極論すれば、実名を選択しないで、ハンドル・ネームで書き込むことによって「私小説的言説」から免れている局面もあるのではないか?
私の場合、去年、PCの操作を覚えるという動機で投稿書評を始めたのです。そうすると、狭いサイト内でも「葉っぱ64」が流通することになり、今年から、BBSの書き込みも始めたのです。ひょんなことで、色々な人達と知り合うことになり、実名より信憑性が出てくる。だから、三者の方達と逆の流れですね。来月はオフ会の初体験の予定です。そこで、始めて、実名で自己紹介がなされるでしょう。楽しみです。
恐らく、ネットメディアの信頼性の担保は、いわゆるアマチャの人々も取り込んだシステムを検証すべきでしょう。単に実名性だけでは乱暴な荒い考えだと思います。
勿論、武田さんのサイトのようにハンドル・ネームであってもメール・アドレスは必須ですけれど。
ぼくがオールド・メディアの出身だから(笑)そう思うのかもしれません。
実名を名乗っての発言というのは言論の自由での最低限の義務ではないかと思うのです。そうでないと「怪文書」「嫌がらせ」のたぐいのノイズと同じにされてしまう。これは発信者が善意であっても、認識する側がノイズとほぼイコールでしか見てくれないという「認識」の問題だと思うんです。
もちろん、匿名での内部告発ってのは出発点として必要です。が、それが後々面的な破壊力を持つかというと匿名のままでは苦しい。取材者は少なくてもそれが誰なのか、信用に値するのか確認する必要があると思うんです。が、発信者(取材者と兼)が匿名のままだと信憑性が減じるのは仕方ないかと思うのです。
どなたか打開策があったらご教示ください。真摯に願いします。
>インターネットの場合、オールド・メディアほどのクレデビリティ(信憑性)がまだ認>知されていないのが最大の瑕疵だと思いますよ。くやしいですが
ここ、なんとか改善の余地ないんですかね。本名とか所属団体名の実名発信は確かに重要ですが、マスメディアで広く知られていない名前では実名の意味がなくなります。そもそも実名だと信頼できるという「感じ方」もマスメディア文化の作った慣習によっており、それ以外の信頼のシステムが出来ないとネットメディアは浮かばれないと思うんですが。
そういう意味では、週刊現代に出たのもまあ悪くはなかったかと思います。見なくてもいい人までぼくのウエブを見た(笑)ので騒ぎが広がって疲れましたが……(重複)。
6月30日までのアクセスなんて一日30でしたから、ホンマにパーソナルメディアだったんですが、一気に公度(おおやけど)が上がってしまった。しかも自分の意志じゃないのに……(笑)。
あの「朝日をやめた理由」も、退社の挨拶ハガキがわりにウエブで文章で説明しよう、という非常にパーソナルな意図だったんです。
週刊現代のあと、2ちゃんねるその他のリンクの嵐がすごかった。そこから怒濤のように人が来ましたから。ケーススタディとしておもしろいでしょう。人ごとみたいに言ってますが(笑)。
烏賀陽さんの言うように、記録性の高い紙媒体になるとヴィヴィッドに反応する、しかしネットには反応しないという年代はいるでしょう。
そういう年代についてはネットジャーナリズムの影響は、紙を通じないといけないと思います。
批判に対して無視を決め込むという点でいえば、ネットで批判された田口ランディ氏の盗作疑惑でしょうか。
『田口ランディ その「盗作=万引き」の研究』(鹿砦社)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/484630468X/ref=pd_bxgy_text_1/249-0275712-1414712
田口ランディ検証サイト
http://oliinkai.hypermart.net/randay.shtml
しかし、ネットでの批判に無視をしていても、上記の著作になったことで、ようやく一般に広く知られるようになりました。しかし、一般マスコミ(へんな表現ですが)で書評は出ませんでした。
いまや田口ランディ氏は過去の人という感があります。
ネットと紙の連携が重要なのかもしれません。