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オンラインジャーナリズム掲示板:期間限定「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」

期間限定(7/30まで)で「ネットジャーナリズムはジャーナリズムをいかに変えたか」を議論する場とします。7/19書き込みに説明があるので参照してください。 


ネット発信の欠点 投稿者:うがや  投稿日: 7月19日(土)22時44分54秒

現状では、匿名の発信が多すぎますよね。匿名での発信は、少なくてもぼくは信用しません。インターネットの場合、オールド・メディアほどのクレデビリティ(信憑性)がまだ認知されていないのが最大の瑕疵だと思いますよ。くやしいですが。

ぼくがあくまでインターネットでも本名での発信に拘るのはそういう理由です。もちろんマイナスも大きいですが……。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 7月19日(土)22時32分52秒

うがやさま、書き込みありがとうございます。まずぼくの書き込みの中で誤字があったことをお詫びします。「氏」と書こうとして変な変換をしていましたので修正しておきました。
うーん、やっぱりそうなんですよね。週刊現代はWEBで経緯をお書きになっているように、非常に卑劣な、悪しき週刊誌ジャーナリズム的手法で作られたページだった。しかしそれを経由しないと議論どころかコミュニケーション自体が始まらない二重の意味での不毛さがある。
ぼくが書いてもなんの慰めにもなりませんし、失礼に当たるかもしれませんが、そうした状況を身をもって感じられたのだから、うがやさんがお疲れになったとお書きになるのもさもありなんという感じがします。
ぼくも以前、ある雑誌の編集長の非ジャーナリスティックな姿勢にとことんあきれ、本気で失脚させうと思ってWEBを使ったことがありました。そのWEBの情報は、紙メディアがおもしろがって取り上げることはなかったですが、彼の場合、うっかりWEBに反応して反論を掲示板に書いてしまった。それは大きなミスだったと思います。「怪文書」にまともに対応してしまったのだから。しめた!とぼく思ったのですが、その後彼は冷静さを取り戻して無視を決め込み、結局、その時もそこまでになってしまいました。
彼自身が反論したことでその問題のリアルさを強調し、リアルな問題として社内で議論をするように戦略的に立ち回る人が、もしもその編集部にいてくれたら、状況も変わっていたと思いますが、そうはならなかった。今も彼は編集長やっています。ネットの力って何だろうと思っています。慰みなんでしょうか。

(無題) 投稿者:うがや  投稿日: 7月19日(土)22時11分43秒

はじめまして失礼します。武田さんのご指摘は正しい。ご慧眼ですね。

朝日の社内の高年齢層ではネットは「ないこと」になっています。ぼくが書いたものなどは「怪文書」程度の認識でしょう。ですから、週刊現代に出て慌てたんですね。ぼくのサイトは7月1日以降6万のアクセスがあったので、ヘタな硬派月刊誌よりたくさんの人が見たんじゃないかと思いますが、朝日の社内ではそういう認識じゃないですね。

ぼくも別に告発がしたかったのではなく、論議が始めることを期待したのですが、朝日内部は依然ベタ凪状態だそうです。

結局、インターネットとテレビ、紙媒体のような旧来メディアが合流したほうがシナジーがすごいということでしょう。まあしばらくは仕方ないかと思います。

しかし、疲れました……。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 7月19日(土)19時06分02秒

石井さん書き込みありがとうございます。
確かにマスメディアの内部が見えてくるような情報がアップされる場としてネットジャーナリズムは機能するんでしょうね。
ひとつだけ、烏賀陽氏のHPをみると、週刊朝日編集長からの抗議が来るのは週刊現代の記事が(不本意ながら)出てからですね。もしWEBだけだったらこういう展開になっていたか少し疑問があります。気付かれなかったか、無視されていたか。
内部を知らせるだけでももちろん意義はあるのですが、それをもとに議論が開始されることはネット情報ではあまり望めないのでしょうか。実際、ネットを経由した告発も一時ほどは功を奏していないとも感じます。ネットジャーナリズムはマスメディア(先の場合は週刊現代)を中途経由しないとマスメディアジャーナリズムを変える力を持たなくなっているのでしょうか。
編集済

朝日新聞について 投稿者:石井政之  投稿日: 7月19日(土)17時30分52秒

朝日の烏賀陽弘道氏が6月末に朝日を退社し、その経緯を自身のホームページで公表しました。
そのことが「週刊現代」に報じられましたが、元週刊朝日の編集長から烏賀陽氏に抗議文が送信され、それが公開されています。
会社の経費でワインを購入したということに対する抗議でした。

http://ugaya.com/

掲示板
http://8237.teacup.com/ugaya/bbs

週刊現代について
http://ugaya.com/column/taisha_shukangendai.html

元朝日編集長からの抗議
http://ugaya.com/column/taisha_morikeijiro.html


こういう動きはネットならではではないでしょうか。
ネット・ジャーナリズムによってマスコミの内部がかなりはっきり見えるということは、読者にとって有益であると思います。

http://homepage2.nifty.com/masaishii


期間限定 投稿者:武田徹  投稿日: 7月19日(土)15時06分42秒

みなさん。ひとつ提案があります。この掲示板を7/30まで期間限定でひとつのテーマを論争する場にしたいと思います。テーマは「ネットメディア・ジャーナリズムはジャーナリズムをどう変えたか」。
インターネットの登場で我々の社会はずいぶん変わりました。変化はジャーナリズムにも及んでいると思います。まず情報収集方法が激変した。膨大なWEBに自在にアクセスできるようになりました。海外のメディアも楽々読める。検索も縦横にかけられます。メールマガジンという新しいメディアも出てきた。カット・アンド・ペーストで情報を収集し、利用することも易くなった。出力側も変化して多くのマスメディアがネットメディアでの発信を始めましたし、個人で情報発信する人も増えた。
こうした変化はジャーナリズム総体をどう変えたのか。それについての考えを書き込み、問題点を指摘し、改善方法を考えてみたいと思います。
なんでこんなことを始めるかというと、もちろん山っ気はあって次に出る『本とコンピュータ』にジャーナリズムの変貌についての記事を書きます。そのための参考にしたいという下心ありあり(笑)です。
出力側は、図式的にはジャーナリズム(総合)=マスメディア・ジャーナリズム+ネットメディア・ジャーナリズム+そのほかの個人的なメディア(日記とか?)のジャーナリズムという感じで考えていて、この足し算の二項めのネットメディアジャーナリズムの登場が全体にどう影響をしたかという感じですね。
ただ一方では入力側も考えなければならなくて、こちらは今やデジタル技術、コンピュータネットワーク技術がすべてのジャーナリズム活動の下支えをしているとみていいでしょう。
こうした入出力両面にわたる変化の状況の中で、個人としてのジャーナリストとジャーナリズム企業はどう変化したか。情報の在り方そのものは変わりつつあるのか。ジャーナリズムへの信頼感はどうなっているのか。わたしたちは本当に知るべき情報を知ることが出来ているのか、伝えるべき情報を伝えられているのか・・・、色々視点はあり得ると思います。なんでもいいですから書き込みどうぞ。

バイバイ/未開へ/解体社の私見 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月19日(土)14時25分32秒

 手の「舞」と足の「踏」とを合せ語る現代舞踏である解体社のIDENTITYとは、異なる男性性と異なる女性性の解体に始まった。カオス以後の創造説や進化論や色即是空・空即是色をも解体され個人である自己の心象風景が人間個体から心の臓であるところの心臓固体へと進化し其の進化した心臓個体は更に進化し擬人化された心臓固体人間のあり方を前面に打ち出すRADICALでCREATIVE概念が舞踏なのかと考えた。この極限まで身体を硬直させ鍛錬に重ね鍛えた身体精神、或るいは「心臓固体人間」には過剰神経反応をして繊細で且つ研ぎ澄まされた妖しい手の「舞」のコントラストと堅牢強固な迄に逞しく美貌の足の「踏」は空虚にあった。
 其の真実の実像をも表現したかった虚実の狭間にある世界観の観念は自己其の物のIDENTITYを概念に置き大切にした。国家と言う大それた領土の占領は奴隷も飢餓も生み不自由と自由も生まれた。エロスの神も自由の女神も人間の象徴から擬人化され最高の純粋な愛はイデアの、永遠普遍の世界に対する実像であるとした。これは真善美に到達しようとする心象風景では、言語を削り取り日常の虚像的シンメトリ-は省かれた。残されたMONOはこの世に偉大な生命を育む土と哲学的概念を生の異なる男性性と異なる女性性の本能衝動で括った。この様な超現実的で反抽象的、又不確かな舞踏は心象風景的実像について真実を貫き、その真善美は身体表現の言語について更に別の言語に置き換えられ、心の臓の動きはリズムとして堅牢強固な迄に逞しく美貌の足の「踏」でプロロ-グからエピロ-グまで永遠に続けられた。主観的には半分のキャストで出来る可能性を持つ内容を省けない今回の舞踏に対し、大スクリ-ンとか大音響とか必ず付随する昨今のスタイルは必要があるのかと想うのは私だけだったでしょうか。心象のファインダ-からは多に追随を許さない美しさが何処も彼処にも有り、心象の瞼でシャッタ-をきりました。構築された身体の美しさは充分に感じ又会場での自由の女神と私的に捉えたインスターレションとしての隠喩は、演劇の世界人にとってショッキングは隠せないだろう?
わたしには、現代舞踏に於いて「これ以上の行為は無い」と感じたからです。

↓マニフェスト 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月19日(土)11時22分09秒

>演劇の中で「宣誓する」といっても、それは行為にならない。

戦後民主主義は虚妄の演劇空間を肯定したいわば、『マニフェスト』を白川静のいう呪言葉で宣旨(みことのり)され、『人間宣言』がなされたわけでしょう。
舞台上であるが故に、自由の契機が立ち上がり、「契約自由の原則」で戦後が出発した。
演技している自分が演技させられているという必然がそこにあっても、カント的倫理判断がなされれば、柄谷行人の『倫理21』が実効性を持ちうる。
オースティンは未読なので、何とも言えないが、「行為は演劇の中でしか生き残れないのではないか」に足踏みする私としては、言葉であっても舞台の外に行為として力を与える視点は、「生の暴力」をその言葉で吸収するバキュームの力を持っているのでしたら、読んでみたいですね。
町屋、長屋に触れたのは、郊外都市、偽満州国、人口都市に興味、関心を持ちやすい私の感性が「身体的変容」によるのか、「自然の風物、風流」に目が行き始めたのです。単なるホルモン注射の影響か?と苦笑していますが、
そう言えば、サッカーのトルシェの通訳をしていたダバティが『タンポポの国の中の私』で、富士山に登ったら、気分が悪くなり、目眩と嘔吐で困り、僕は緑が怖く、一番、好きな場所は新宿の超高層ビル街ですと、述べていたが、演劇型人間は小泉さんにしろ、この世間では、ある種の影響力を持ちうるのですね。

>『約束する』は日本語でも行為動詞ですが、欧米の誓うとはやっぱり、違う。
若い頃、デートの約束をして、「時間に遅れる」をどのように解釈するかで、悩んだことがありますね、遅れる娘は遅れる。約束を正確に守る娘は守る。そのことと、本人の愛情の深さとは大きなズレがあり、右往左往したものです。「指切りげんまいで誓って」も同じでしたね。往々にして、「約束や誓い」にルーズな娘に惹かれてしまい、そういう自分に腹立たしく思ったことは、皆さん、ありませんか?
「マニフェスト」も、かような人間に対する好悪を切り離した党の宣言ですが、少なくとも、この国では党首の人間的興味が前提にないと、「マニフェスト」を読んでくれないのでしょうね。

勝手にしんといて 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月18日(金)22時20分07秒

町屋や長屋とは、風流なお話ですが私が勝手に物語を作って見ましたさかい聞いてや。さて梅雨も覇っきりと未だに明けぬ様な蒸し暑苦しいい初夏に入りやした。地理的条件では、矢張り盆地が一番ですな。なぜかと申しますと美味しい湧水が迸るロケーションが必要ですがな。始終旨い水が青竹より手彫りの石臼に向かって滴り落ちる風情は情緒そのものでっしゃろ。また暖簾や風鈴やちゃぶ台が有る居間やそのあたりの暗い土間より続く奥まった北側には水打ちされよって涼しい風が抜けるんや?。苔むした坪庭には、シュウカイドウの赤と黄緑の見事なせり合いが静かな午後のひと時や。いずれは、彼岸花も咲き誇る不思議なロケーションだんねんがな。ここは、無名にして大工の棟梁の住む町長屋は、多少建て増しが許された特別地区や。隣からは、粋な三味線弾きがたりが居ってお弟子さんと掛け合いの算段と来たね。棟梁は、何時ものように天草のダイヤモンドと云われる砥石で日課の鉋・鑿の手入れに勤しんでいた。すると水琴窟=すいきんくつ?のリズムが程よく鉋と砥石に調和を与えた。誰ともなく持ち込まれた北の地方の芳醇な香りを持つ冷酒を目にした棟梁は、ご自慢の焼き締められた備前の徳利に片口に寄って注がれた2合たっぷりの酒とぐい飲みを2個を懐に収め隣の隣は、塗り壁職人の半端者が久々帰ってきた事を聞きつけたもんだ。肴として昨夜から仕込んであった熊笹に仕舞われた「しめ鯖」を粋な包丁さばきと「魯山人」の織部には、生わさびと紫とを合わせられた。この辺の棟梁や半端な壁塗りたちは、けして贅沢などしないが深く染め上げられた藍のサムエの伊達男とは、けして云わない無いアイデンティティの持ち主でんねん。隣の隣は、半端壁塗りの斜向かいには、紺屋のとっつあんが10瓶程仕込みにあけくれるほどの毎日でんねん。栄養分は、先ほどの冷酒みたいな物をやっている場面もしばしば見た記憶が蘇えった。そんなこんなで、ここの長屋には御上に仕えるもんなどいなくて幸いやねん。皆自立しとる自立や「へえ・・耳が痒いこちゃ」と言ったところでのんきな事物や日本は?。全て1色に塗り替えられても平気のヘノヘノヘ-やないか。先から云うてんのは、日本国中誰かが静かにやっている現実のリアリティちゅうもんや。知識とは、ある事柄に対する明確な意識とそれに対する判断らしいよって、こう云う人達の事を知があり理があると「云う違うか?」全ての現象は、歪みやって云うても解らんやろな。リアックションが稀薄なんだよな寂しい限りだ。昔から底辺の文化は、あったんだっせ。やはり長屋話は難しかったよってまたの機会に失礼しまよって。やはりこんなんじゃ肴には、なりまへんな。長崎の問題は、誰が問題かの真実が解らんところが問題やねん。結果が起きてしまった。そこで説得力のある立場は、両親の良心や。ここは、自分たちを救う最大且つ究極の選択は、許す事や。野次馬だけの好奇心は、マスコミも大衆もうんざりだ。ここは、両親の良心を祈るしかない。もっと考えようではないか?。

長屋紳士録 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月18日(金)10時21分40秒

成る程、「マニフェスト」と「物語」に関して、私は武田さんの言う「義理」と「人情」に重ねて考えていたみたい。言語学どころか、その周辺を体系的に勉強しなかったツケなのか、私の考えは薄明の中で、「盲、蛇に怖じず」です。
恐らく、キリスト教の神概念が→マニフェストになり、八百万の神々が→義理となり、
データーベースが、→セキュリティに接続していく。
それに付き添うようなかたちで、「大きな物語」(イデオロギー)、「小さい物語」(シミュラークル)が発明されるのであろうが、昨日、祇園祭に行って来まして、岡崎の図書館で小津安二郎の戦後第一作『長屋紳士録』をビデオ鑑賞しました。生誕百周年というので、彼の全作品集が発売されたらしい。まさにこの「長屋〜」は人情物語です。私は少年時代、そっくりの長屋に住んでいたので、全く、違和感がなかった。彼は戦後になったからと言って、別段、撮り方を変えることもせず、戦災孤児たち、こどもたちと長屋の住人とを絡めて、街の風景は変わっても、適当な距離感の人情物語を淡々と描いている。主演は飯田蝶子です。
どうも、武田さんのいう都市共同体は、私にとって、長屋の原風景から始まるみたいです。BBSの書き込みも、そんな長屋的ノリで、時として、無駄話をしてしまうのでしょう。だが、私の記憶が都合良く編集されたとして割り引いても、長屋共同体は考察に価すると思います。ただ、村共同体との対比で検証すべきでしょうが、長屋を近代日本の文脈中で社会学的にも文化人類学的にも検証した本があったら、教えてもらいたいですね。江戸を郷愁する文脈の中では沢山、あるみたいですが、むしろ、21世紀の長屋、町屋です。勿論、過疎地における村共同体とリンクする共同体論を誰か書いて欲しいなあと思っています。

RE:単純でない物語 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月18日(金)01時56分58秒

>てるてるさん
成る程、複雑な物語が大ヒットする。そのような事をカキコしたなと、想い出し、調べたら、一年前にbk1で冷泉彰彦著『9・11』に言及して私はかようなことを書いていた。

<…大ヒットした「ロード・オブ・ザ・リング」にしろリングの魔力の中に善と悪の二つが複雑に絡み合っている。他のヒットするハリウッド映画ですら、二分法ではない。そこで、冷泉氏は言う。アメリカに住む人々はそんな複雑な物語に親しんでいるのに、湾岸やアフガンの実際の戦争や事件となるとはるかに単純な報道を信じ込んでしまう。いや、信じていなくても、それで安心したり見て見ぬふりをしてしまう。勿論、一種の逃避なのですが、それは長く続かないでしょう。ベトナムの無茶もウォーターゲートの醜悪も、時間とともに暴かれて行きました。年が明ければ、世相の風向きも変わってゆくに違いありません>
いやあ、私も冷泉氏も甘いですね。逆にイラク戦争が起きたのですから、田中字氏も最終的には回避されるとよんで、私も彼の判断に納得していました。
しかし、映画では複雑な物語に趣向を持つアメリカの人々であるはずなのに、
益々、ブッシュの単純な物語に乗ってしまった。
どうしてでしょうか?私も訊きたいものです。

ちょっと横から 投稿者:武田徹  投稿日: 7月18日(金)00時05分44秒

オースティンと言う言語学者が行為動詞という概念を出していて、たとえば「約束する」「宣誓する」とか「信じる」とかいう動詞は、動詞を使って語ることが行為と同じことになる、と考えました。これはなかなか示唆に富んだ視点ですが、最初にこのオースティンの行為動詞論を読んだとき、ああ、これはキリスト教文化の産物だなぁとも思いました。だって日本だったら「誓う」とかいっても、所詮は言葉のレベルでしょ。議会で証言する前に聖書に手を置いて宣誓した言葉が絶対的なものとみなされるキリスト教世界と違って、誓うという動詞の使用がそれ自体行為とみなされるまでにはゆかない。これはどっちが優れているというのではなく言語文化の違いであって、少なくともオースティンの言語行為論は日本語では割り引いて受け止める必要がある。
しかし欧米でも実は留保があって、たとえば演劇の中で「宣誓する」といっても、それは行為にはならない。このあたりの事情はデリダや東浩紀さんが詳しく考えていて、すごく示唆に富んだオースティン批判を繰り広げていると思います。
マニュフェストもこうした言語論を踏まえて論じると科学的な批評が出来るような感じがしますがどうなのでしょうかね。「約束する」は日本語でも行為動詞的ですが、欧米の誓うとはやっぱり違いますよね。

単純でない物語 投稿者:てるてる  投稿日: 7月18日(金)00時03分55秒

いつもいつも、単純な物語ばかりが好まれるわけでもないですね。

児童虐待を描いた漫画「凍てついた瞳」が「YOU」に連載されて反響を呼んだり、ドラマ「ブラックジャックによろしく」のBBSに、妻夫木聡のファンも、新生児集中治療室でこどもに治療を受けさせた人も、そこでこどもを亡くした人も、医者も看護婦も学生も書き込んでいたり、何かきっかけがあると、答えのない、むずかしい問題でも、みんなが関わって、各自の体験を語りだすこともある。
売り上げや視聴率次第で左右される娯楽芸能、人気商売の世界で、時に、単純でない物語が忌避されないどころか、単純な物語以上に盛り上がることがある。

じゃあ、「すごい犯罪事件」や「隣の国との関係」について報道されたときには、そういう現象が起こらないのは、なぜなんでしょうか?

マニフェストと物語 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月17日(木)21時24分02秒

私が「単純な物語」について触れたのは、鴻池発言もありますが、
島田雅彦が『楽しいナショナリズム』中で彼の脱稿した小説『美しい魂』の出版延期に関して、とても気になることを書いているのです。引用してみます。
<乏しい経験から察するに、高度の隠喩表現を用いて描く限り、また明確に政治的な意見や、歴史的認識の表明を行う限り、天皇や皇室にまつわる表現に制約はない。しかし、皇室のどなたかが特定され、作家の想像力によって物語化された時、にわかに危険が伴うようなのです。もちろん、それをどう書こうが、作家の自由です。しかし、危機管理を徹底するのは作家と出版社の義務です。危機管理体制を敷くには時間がかかります。今はその準備を整える回り道こそが、最も現実的な出版社へのアプローチだと思いました。>(115)

単純な物語は、ある種の力、動員力を持ちえるのだと、彼らが感じていることを、
島田雅彦は反応して、小説の自主延期をしたわけですが、
それに比べて、最近、とみに話題になっている『マニフェスト』は従来の「選挙公約」とどう違うのか、選挙において、政権をとった場合に実施する政策を具体的に示した有権者との契約文書らしいが、なにやら、上滑りの文言で、良い試みだと思うが、
そのマニフェストを支える物語を野党は特に編む必要があるのではないか、
少なくとも、自民党にはかような物語がある。水戸黄門物語はまだ、生きているのだ。
何とか、マニフェストと物語を結びつけて考えて見たかったのです。
神奈川の松沢さん、如何ですか?

国民感情 投稿者:本多 和治  投稿日: 7月17日(木)03時56分44秒

よくマスコミが言う被害者感情(国民感情の意味だろうか)について考えること。
たとえば自殺の動機があまりにもうつ的なとき(実際にうつ病かどうかはわからない時が
多いのですが)は国民感情的には盛り上がらないような気がします。たとえば伊丹十三監督が
自殺した時は、解釈によっては、マスコミが才能のある人を殺したと言う見方も出来ますが、
遺書とかが余りにもうつ的なので、監督の知名度の割には反響が少なかった気がします。
(宮本信子さんを普通にテレビで見かけることも関連しているかもしれません。)
一方民間校長の方が自殺された事件では、うつ病の人が過労自殺したというだけでは、一般の
人の感情はそれほど盛り上がらないと思います。でも教職員組合がいけないとか、教育委員会が
いけないとか、場合によっては主治医とか銀行がいけないという説明が(多くの場合)マスコミ関係者からされて、それに多くの国民が納得すれば、被害者感情を尊重しろと言う(あえて言えば
恣意的で身勝手な)国民感情が盛り上がってくるような気がします。今回のような衝撃的な事件でも国民感情というのは結構危ういものかなという気がします。

RE:失言 長崎 2ちゃんねる 投稿者:てるてる  投稿日: 7月16日(水)20時56分24秒

>↓鴻池サンの8割が支持メール発言はうそじゃなさそう。リンク参照。
>設問の立て方や投票方式に異議を唱えても、2ちゃんねるにリンク貼られて右派バイアスがかかっていても、数字は歴史的真実の近似値として残ってしまう。
http://www.vote.co.jp/vResults/index.phtml?voteID=29953291&cat=16417177

それって、2ちゃんねるのおかげで田代まさしがTimeの「今年の顔」に選ばれたのと同じじゃん、と誰かが喝破すればいいのかも。

RE:水戸黄門物語 投稿者:てるてる  投稿日: 7月16日(水)20時49分16秒

>動員に対してノンと言える単純な物語とはどんな物語なのか?

なんでもいいから対抗できる物語を、ということであれば、
長崎の事件の少年の場合ならば、彼自身が性的虐待の犠牲者だった、その加害者はこれこれという人間である、と特定することによって、刑法で罰を与えることができない少年をなんとか処罰したいという人々の気持ちを、やはり保護してやらねばならぬ、という方向へ転換し、少年を虐待した人間こそ真の加害者であるとして社会的制裁を加える、ということができると思いますが……(以上はまったくの想像)

そういう物語も、USAあたりでは既に使い尽くされているような気もしますけど……

多くの人が、被害者の気持ちを救済せよ、というのは、実は、すごい事件が起こって喜んでいる自分の気持ちが後ろめたいからだと思います。

ネガティブ2 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月16日(水)18時45分50秒

1と2が前後するが悪しからず。
ネガティブとは、消極的と言う意味が有る事を知った。ネガとは、白・黒の反転フイルムとか赤とか緑の補色を思い浮かべる年代でしょうか?白・黒と反転に一度返還して、さらに解読するシステムが無意識のうちに行われている事に気がついた。ポジティブもやはりスライド・フイルムをリ・アリティにイメ−ジして解読と言った感じは、積極的と言う意味があるらしい。さて積極的とは、如何なる対象なのだろう。「長いものに巻かれろ」とか言うモノがそれである様なきがした。最近では、石油安定供給について戦争と言う事件が合法化された。私達の代表もそれに追随する結論をポジティブに積極性を表明した。大国の代表提督とまで言葉を選んだ。大国代表の声明と私達代表との声明内容が随分と隔たりも感じた。ただし私達代表は、覇きり明確に矛盾を露にし伝えた。今回の表明は、歴代代表たちとは、若干違いがあるようにも思った。追随を選択した経過は、複雑でもあるし両国のあらゆる締結に疑問は、多く残された論調には、今後矛盾を抱える事になりそうだ。自由と言う平和、戦争と言う事件という不自由の相反する論理を今後いかにして成立させるか甚だ疑問だ。石油の安定供給が背景に起きた戦争と言う事件が国連の全面容認は、有り得ないと信じながらここ数ヶ月過ぎた。「喉から手が出る」はどの石油干渉なのだろうか?国連憲章に合わないと言う非合法を盾に戦争と言う事件に持ち込む親子二世代の自由資本主義は、行き詰まり露にした。宗教やイデオロギ−なんかでは解決できない人間のエゴイズムは、国家間だけで行われるわけでもなく身近な私達身辺でも日常茶飯事では、無いだろうか。個人支配が発展すると国際支配にまで発展する事を誰もが思っているのだろうか?甚だ疑問だ。個人の価値観の押し付けや対話の放棄など嫌なほど経験し見てきた私達は、ここに来て何を反省すべきか考えようではないか。一言で表せば追随とは、戦後日本人では、大国に支配された一辺倒な生活様式にあって、大量生産・大量消費・大量浪費を放棄するに限ると思うのは、私だけではない。裏づけとして塵の山が象徴的では、無いだろうか。かってある有能な人々たちがゴミを絵の具に置き換えて芸術活動を試み実践していた。それを評して「あれは、もう古い」と問い正した人がいた事を思い出した。芸術とは、自由を守る事に終始する。私は、それを信じたいと思っている。ここで言う自由の最大公約数は、ゴミを絵の具に見立てた様は、アバンギャルドとして嬉しくなる瞬間だ。権威やアカデミックな手段やモチ−フを既存の概念でやる事の疑問や問題提起は、迎合や追随とは、別の価値観として社会の大きな変革期を迎えるに相応しい入り口でもあるのだ。改めてネガティブな芸術ゴミ・ア−トの先人には、脱帽だ。先に述べた先進国の二酸化炭素の排出分を後進国への植林と位置付けた。それより酸素供給を持ってそれと代替交換として二酸化炭素を買うと言う奇妙で不可思議な交換論理が生れているらしいと書いた。一見理路整然と感じたりもするが何か偽善や策略が見え隠れする様な矛盾をも予感する。ゴミを極力出さない先進国こそ実の先進国なのだろうか。ハワイ奇襲攻撃は、先方の黙認から端を発し、大きな過ちを担う結果になった現代日本の姿は、凝りもせず黙認と云う追随で今回も終始するのか。ホモ・サピエンスは、この地球上の情報・現実・有能に存在するのか甚だ疑問だ。

ネガティブ1 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月16日(水)18時41分19秒

地球が意味する物は、人類学の中に「例えばホモ・サピエンスとネアンデルタ-ルetc」がこの世に存在し、進化の過程や原人のルーツに寄って、しろ・くろ・ちゃ・黄と色彩学では、分別がついてはいる成果の様な物があるかもしれないが、原人類であるとか新人類とか単なる仮説の200万年以前からの進化論説も定かではない対象を国家と云う枠組みや歴史的に支配してきた枠組みから先進国と名付けた。旧約聖書だの新約聖書だの仏典だの宗だの教だなどと云々久しい昨今にして、増してやマスコミの国家戦略や商業戦略は、依然として公平などは、ありえない気がする。何事も依存過ぎる国民は、公務員天国社会主義にオンパレードに踊り明け暮れたに過ぎない国民でおおわれている。日本も諸外国に追いつけ追い越せと敗戦後は、属国にして気が付いたら経済破綻は、国家は、勿論、県・市・町・村の地方自治行政までもが破綻状態なのだ。公務員天国社会主義がもたらした公共事業の枠組みのその付けは、社会福祉・老齢化社会・少子化など問題の沙汰ではないのだ。最も優れた人類のルーツをホモ・サピエンスとするなら、それをそうありたい状況の人間の有り様を発揮したければ、自分は、ホモ・サピエンスと名乗りでて過去の人間の愚かな洗礼から離脱し新たな展望を個人個人がいつも持つ事だ。馬とか鹿とかの集団からは、選択されたとしても子馬とか小鹿以上には期待できない物だ。日本のあらゆる現象には、懺悔と云う隠された秘密が多くある。なぜならば生態系を破壊しオーガニック農・林・魚を放棄し食物連鎖を助長し薬害を未然に防げず水俣病・四日市ぜん息・とろくの砒素中毒公害etcにもまさるオゾン層を突き破り温暖化は、留まるところを知らない社会状況は、無知な私でも感性よりかんじるものだ。
以前耳にした排出ガスの二酸化炭素を売買すると云う「馬と鹿な、げなげなの話」・・・・。
排出量を換算し国外に植林し酸素を供給しそれと交換すると云うもの。科学的根拠として素人うけは、するものの専門的筋の代替案として何か本質を欠いている有能な科学者不在だ。田舎に住んでいると生活廃水が気になる。因みに食物連鎖の話になるが如何に優れた洗剤でも生分解性で云う微生物による分解には、限度があり、またそこには、水が多く必要とされている。その水は、田圃につながり、行く行くは、飯時にお世話になる宝なしろもの。自分に直接関わる事に気が付くとそう易々と洗剤やその類したものは、中々の後ろめたさと自分の首を締める事で自粛できる。これは、慣習から学ぶ個人習慣だ。世界の大都市圏には、派手で優秀な人は、いるだろうが田舎では、馬や鹿も多いが住む環境から自然科学を教わる機会は、おおくある気がする。馬鹿なポルポトは焦りのあまり大きな誤りと矛盾を多く背負い込み崩壊した。革命とは、「産業」にしろ「脳」にしろ「藁」にしろ時間と忍耐が課せられて初めて生きて価値が誕生する物なのだ。

失言 長崎 2ちゃんねる 投稿者:Pochi  投稿日: 7月16日(水)17時01分00秒

長崎事件は、2ちゃんねるから少年の顔写真と本名が晒されるのではないかという、省庁・マスコミの監視シフトが大規模に施かれたことと、うわさの真偽を公的機関が認定してしまうという構造的な失態が表面化したことで記憶されるべき事件でした。

少年の写真があるという騙しリンクに省庁・マスコミが引っかかり、IPを晒されるという醜態もさることながら、法務省人権保護局の削除要請の指摘が特定の人物名にほぼ限られることや、携帯で本人の顔写真が流れているという毎日新聞の誤報、中学校のホームページが削除されたと報道することで特定可能になったことなど、問題山積。
法務省は携帯メール対策を検討中というが、それは検閲だよ。

↓鴻池サンの8割が支持メール発言はうそじゃなさそう。リンク参照。
設問の立て方や投票方式に異議を唱えても、2ちゃんねるにリンク貼られて右派バイアスがかかっていても、数字は歴史的真実の近似値として残ってしまう。

http://www.vote.co.jp/vResults/index.phtml?voteID=29953291&cat=16417177


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