武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG128

戻る


反論出来ない言説 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月16日(水)13時03分01秒

鴻池問題発言は隙だらけ、穴ぼこであるけれど、ボールは次から次へと、パスされる。
それに引き換え、「反論出来ない言説」を提示して、「あんたはエライ!」で消費されてしまう方が、もっと、怖いのではないかと、彼の発言を反面教師的に考えてみました。
八割以上の支持があったというのが事実なら、そのような陰に隠れた言説を表に出して、
一刀両断で消費するのでなく、話を聞いて、流通させる。
そんな方法は、?のトンデモを多量に噴出さすことになるかもしれぬが、
まあ、これも、?のクレームの対応に追われる愚と同様、私の甘い判断かもしれない。

水戸黄門物語 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月16日(水)12時27分37秒

鴻池の「してやったり」のほくそえみが、想像できます。
恐らく、後ろめたさを多少感じながら、無意識に触れる単純な物語こそ、現実的な力を持つのではないか?
例えば、テレビの水戸黄門物語を「知」でもって批評することは難しくないが、論壇的言説は馬耳東風でしょう。
そこにマスコミ報道の腕の見せ所があるはずであるが、「鴻池的単純物語」を無効化する単純な物語を作る困難さがあるのではないか。
せいぜい、尻すぼみの複雑な物語を提示して、右と左に八つ当たりして、
『からくり民主主義』(高橋秀実著)のようにフェードアウト。
そもそも、人々を動員出来ない言説は無意味なのか、単純な物語しか、人々を動員出来ないのか。人々は内心、動員されたがっているのか。
動員に対してノンと言える単純な物語とはどんな物語なのか?

RE:問題発言(4) 投稿者:てるてる  投稿日: 7月16日(水)09時03分30秒

そういう意味では、あの鴻池発言は、正鵠を射ていると思います。
話の筋が単純で、悪者を成敗する。桃太郎か忠臣蔵みたいに。
そういうパターンにのると、マスコミも報道しやすいし、読者・視聴者も反応しやすい。
新聞も週刊誌も売り上げを伸ばしやすい。
それに、このパターンは、古今東西、未来永劫、飽きられることがない。

RE:問題発言(3) 投稿者:てるてる  投稿日: 7月16日(水)08時53分26秒

国民感情とマスコミについて、さらに。

マスコミは、国民感情がどっちに動くかわからないとき、国民感情をどっちに動かせばわからないとき、報道のしかたが消極的になり、せいぜい、事実を並べるだけ、それもより小さくなっていく傾向があるのでは?と思います。

たとえば、脳死・生殖医療・ES細胞など、粥川準二さんなどが再三指摘されているけれど、ちっとも議論が深まらない。議論を深めるほど報道内容を充実させない。

だれでも頭を抱えるようなむずかしい問題、ひとりひとりの生き方が問われ、簡単に悪者を見つけ出すことができない問題については、マスコミは、研究者のいうことを発表する程度で、後はおとなしくなり、ときどき、何か事件が起こると、やっと元気がでて、情緒的に報道していると思います。

臓器移植だと、日本のこどもが国内で心臓移植が受けられないので外国に行って手術を受ける、という話は、かわいそうだという気持ちを誰にでも起こしてもらえるので、とりあえず報道しますが、臓器移植法改正問題には、生体移植や組織の提供や移植以外の研究利用についての規定がないのに、そこまでは、まず、報道しない。
情緒的にとっつきやすいものしか、報道しない。

臓器移植でも、まじめに取材し、報道している人もいるけれど、なかなか、読者の反応が返ってこない。ふだんからその問題に興味を持っている人は、新聞記事を読んでホームページや掲示板に感想を書いたりするけれど、それ以外の人から反応が返ってこない。そうするとだんだん記事が小さくなる。

読者と新聞、とか、世間とマスコミ、ってどういう関係なのかな、と思います。

>本多さんへ
また、御紹介した断章のあるページ、もっと読んでみます。

てるてるさんへ 投稿者:本多 和治  投稿日: 7月16日(水)01時01分01秒

色々と書こうとしたのですが、まとまらないのでてるてるさんが紹介されているサイトについて。
てるてるさんが紹介されたサイトは、誠実かつ率直に書かれているとは思うのですが、
やはり違和感があります。精神医学の項目のインターネットとボーダーラインと言う
部分は、彼の言うボーダーラインの人に対する差別を助長する可能性があると思います。
でもてるてるさんが指摘されている断章は、私も良いなと思いました。和田秀樹が少し
前にSPA!で指摘していましたが、精神科医はこのような事件があると自分が担当していた
患者さんが自殺した時の(家族はともかくとして)第三者のあまりに無関心な反応との
ギャップが気になるのかもしれません。マスコミは精神病院で入院患者が別の患者を殺害
した時はまず報道しません。モスクワでの自爆テロを(被害者は直接の加害者ではない
のに)自業自得と言い切るような(肩書きは書いてありませんが)評論家(だと思います)が
この事件を延々と論じること自体に違和感(胡散臭さというほうが適切でしょうか)を感じます。

ナッシュの話は、今度自分なりに整理して書き込めたらと思います。

訂正 投稿者:てるてる  投稿日: 7月15日(火)20時57分01秒

2ちゃんねるとマスコミの違い、じゃなくて、2ちゃんねると世間の違い、と書くつもりでした。

RE:問題発言(2) 投稿者:てるてる  投稿日: 7月15日(火)20時56分21秒

>「国民感情」とはいったい何なのか? マスコミが作り出しているものなのではないのか? そして「国民感情」に動かされて法が改正されたとすると、それは結局マスコミが法を動かしているということではないのか。

ここのところ、なにやら「戦争報道」の、マスコミが戦争が始まったと報道すれば戦争が始まったことになり、そうでなければ、実際には爆撃が続いていても、戦争がないかのように忘れ去られたかのようになる、というのを、思い出します。

マスコミだって、いろんな人が集まっているのに、全体で一つか二つの論調になる、っていうのも、不思議な気もします。
世間とマスコミの違い、2ちゃんねるとマスコミの違い、って何かな?とか、思います。

http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200307b.html#13_t3


RE:問題発言 投稿者:てるてる  投稿日: 7月15日(火)20時50分22秒

問題発言とちょうど対極のような断章が、ウェブ上にありました。
気に入ったので御紹介します。

http://member.nifty.ne.jp/windyfield/200307b.html#13_t3


ああ、そうだったんですか 投稿者:武田徹  投稿日: 7月15日(火)14時09分26秒

色々大変でしょうが、恒常的に医師の管理下にあるというのは、ある意味でとても安全な環境にあるとも言えるのではないでしょうか。気付かずにステージを進めてしまっている人とは対極的なわけですから。あまり第三者が口を挟むべきものではないと思いますけど。
カルテの開示はぜひ実現させたいですね。病院を変わってもう一度ゼロから検査というのはひどい苦痛の場合が多いわけでしょう。もちろん検査方法の違いがあってどうしても再検査が要求されるのは仕方がないですが、カルテが囲いこまれているためにというのはいたたまれない。

病気に対する正しい知識 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月15日(火)12時08分28秒

この問題に関して、現在治療継続中の患者の一人としてカキコします。
98年の正月明けですから、もう五年以上も延命していることになる。(医師は経過が良くても治りましたとは、言わない。あくまで、延命です)
深作欣二のように手術拒否、天皇陛下のように摘出手術をを選択せず、まあ、そのステージが違うという事もあるが、私はD1でリンパ節に転移していた。
それで、リンパ節郭清手術と放射線治療、ホルモン注射による内分泌療法の組み合わせで、治療を継続しているのです。当初は玉取りの選択肢もあったが、象徴として、実際の力(性)が無くとも、仮構の玉として身体に付けておこうと決心したのです。
その代わり、月一回、ホルモン注射をしてもらっているのです。
この注射料は単価一万七千円です。勿論、保険はききますけれど、ざっと、百万です。
日本以外の諸外国では、かような症例の場合、玉取りの選択をするみたいですね。
コスト面から当然でしょう。それをしなかったジェンダーに拘泥する私の意識であれ、無意識であれ、ちょいと、後ろめたさを感じます。
頭では理解しているジェンダーフリーの問題でも、こと、自分の身体になると、微妙な振る舞いになってしまう。このフェミニズム論に関しては又、別の機会で。
ただ、医療は日進月歩で、今年に入って、担当医師から情報開示されたわけでないが、私なりの調査能力で、毎月一回のホルモン注射液の三倍濃縮されたものが開発され、厚生省でも許可されたことを知り、若い担当医師に問うと、あっけらかんに、今回から、三倍満の注射をしましょうかと、ことの重要さがわかっていない。コスト面から、三ヶ月に一回で済む注射は三万円です。従来どうりなら、計五万一千円になり、年間に直すと、八万円のコスト減になる。厚生省はかような行政指導を果たしてしているのだろうか?
私の方から言わなければ、先生は従来どおり、月一回の注射をしたと思う。
栗本氏が倒れた時、自分で最新の医療情報を求めて、ネット上で検索して、先生たちとケンケンガクガクやったらしいが、非常に納得出来る。それで、東京の病院ではカルテ開示の申請もしたが、病院側は協力的であったが、それに連繋した大学病院のカルテの開示は無理であった。問題はここでも、コストを誰が引き受けるかである。結局、私の場合は三十分近く先生が立ち会ったが、この保険点数はゼロで、結局、病院側の善意の贈与になってしまった。これでは困ります。
ちょっと、武田さんの問題提議とはズレたかもしれないが、テレビ、映画、小説にしろ、
「物語として」病気を取り扱う場合には、正しい情報を得ようとする姿勢、シフターとして指示する緊張感を忘れないで欲しいですね。

 投稿者:武田徹  投稿日: 7月15日(火)09時20分24秒

あ、ごめんなさい、過去ログまでみている時間がないのですが、ぼく、ナッシュの人物像について書きましたっけ。というのもゲーム理論におけるナッシュ均衡の考え方とかのことはかろうじて知っていますが、彼の人となりや個人的なことについてはぼくは調べたことがないので知らないのです。だからナッシュの人物像を書いたとすれば(って他人ごとのような言い方ですみませんが)どっかから受け売りしているな。映画のパンフレットだったかもしれない(出典を書いていませんでしたか)。
ですのでドキュメンタリービデオのナッシュ像が本当かどうかも、ぼくはみても判断できないです。

あと、しつこく片山恭一だけど、小説の時制は10数年前だということになっていますね。これは本文の中にははっきりした記述がなくて、なぜが帯にそうある。本文の中では最終章だけが今の時制になっていて、これは確かにかなり後の時点から高校時代の自分たちを思い出している(でもそれが10数年後かというのは疑問。10数年という時間はもしかしたらこの小説が片山の実経験という仮定で導かれたものではないか? )。で、その時制に即していうなら、十数年前の白血病治療法だからこそ、こんなにうまくゆかないものなのかなとぼくが思ってしまったという説明も出来るのかもしれない。

ただそこでも時制の混乱を防ぐことに積極的ではないという、『愛する』『ビューティフルマインド』に共通する問題点はあると思う。白血病(やハンセン病や分裂病)の診断法、治療法は現在こう変わっていますの一文を、興ざめかもしれないけれど、どこかに入れておけば良かったのに。それをしないで、病気に対する正しい知識は与えないまま、ただ悲劇の小道具として病気を使う権利を小説家や映画監督は持っているのか、それを許容する社会には病者への根深い差別意識が潜んでいるのではないかと思ってしまうんですね。恐怖は差別意識を増長する。殆どの人に罪の意識がないだけにより残酷な感じがする。

ビューティフルマインド 投稿者:本多 和治  投稿日: 7月15日(火)02時34分23秒

ビューティフルマインドは非常に印象深い作品で、映画館でも見ましたし、ちょうどツタヤで
中古ビデオを買ってきたところです。病状の描写をどう評価するかは難しいところですよね。
幻覚は現実と区別できないということを実際の症状とは乖離させてでも、徹底的に強調すべきか。
それともやはり周囲の人から見れば、違和感を感じると言うことを強調すべきなのか。幻覚と言うのは、そのまま表現するとその本質(現実と区別がつかないということ)が伝わらないと言う
厄介なものだなと思います。
 あといつもこんなことばかり書いて申し訳ないのですが、過去ログに書かれているナッシュ像と本人出演のドキュメンタリビデオから受ける印象とかなり異なるのですが。
http://www.transformer.co.jp/products/41.html 
(ビューティ・マインド〜狂気の天才数学者、ジョン・ナッシュの人生〜)

このビデオが現実に忠実だとすれば、過去ログで根拠とされた資料自体が
実像と違っているのかもしれません。
(大学生だったころ、よく教授に突っ込みを入れていた講義があって、
散々な成績を取ったことを思い出しました。)

世界の中心で、愛をさけぶ続 投稿者:武田徹  投稿日: 7月15日(火)00時59分34秒

いくつか下の書き込みの続き。
この作家のイメージの豊穣さはハルキを遙かに凌いでいると思う。小説としての出来は賞賛に値する。片山恭一の作品はこれしか読んでいないが、少なくともこの一作に関しては舌を巻く。
しかしその出来とは全く別に『隔離という病い』の著者としては、どうしても一言書いておかなければならないことがあると思っている。それは果たしてこの小説の白血病の描き方は適切なのだろうかということだ。
主人公の恋人はかなり初期で入院し、治療を始めているようだが、その場合にもこの小説のように寛解に持ってゆけないケースはどの程度ありえるのだろう。たとえば化学療法で成果が上げられていないが、その段階で骨髄移植の可能性がまったく言及されないというのもおかしいのではないか。血小板の成分輸血も出来るようだが、主人公の恋人が最期に出血多量で気絶するような事態がありえるのだろうか。いや、これらはすべて素人考えの疑問であって、白血病治療の知識のある人の、この作品の病像や治療法の描き方への評価を聞いてみたい。そして白血病をこのように描くことが、実際に病気に苦しんでいる本人と家族と友人にどのような影響があるのかについて注意深く有りたいと思う。前に『ビューティフルマインド』の分裂症の描き方にも疑問を呈した。その時と同じ文脈である。
ロマン・ヤコブソンは言語の位相と現実の位相を橋渡しし、現実の具体物を指し示す言葉を「シフター」と呼んだ。たとえば人名はシフターだ。代名詞もそう。そして病気の名前もシフターであるはずだ。だとするならば病気を描く創作は、創作といえどもその描き方の影響を含めて現実に対する責任が生じるのではないかと思うのだ。熊井『愛する』についてそうした視点で批評した。もしも片山も熊井と同じ轍を踏んでいるのだとしたら、熊井を批判したのと同じようにそれを許すわけにはない。

自分の非は、見えないもの 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月15日(火)00時04分37秒

田舎に居ると強制的に繰り出される集会がある。その上非出席は、0000円の罰金だ。今回の演題は、地区推薦町議会議員の後援会発足に対する事後承諾を強制的に近い状態で認知させられる旨の報告会みたいなもの。実に不思議な集会であった。一昔前の庄屋と小作人の関係が今日に継続され続いている現実は、地域社会に於ける必要悪とも受け取れた。「調和・協調を持って尊ぶべし精神」だろうが反論は、許されない事が前提に有り、意見しよう物なら一刀両断に跳ね除けられる。つまり封建制度さながらといったところ。この小さい単位の村組織にも何時かは、春が来るのだろうか。どこにでもある過疎化と財政の不安の中、解決など求めもしない市町村合併も浮上して久しい。勇気ある誰かが意見した内容は、その長短を何か示してくれと抗議する暇も無く町の議会決定にに黙って突いて来いと一方的だった。現議員曰く「私も何も解らんが?」と過疎化・財政の行き詰まりの誇張だけだった。過疎の一端である若者に対する展望など一切語られず、残って貰える理由や必然性が何も示されない。過疎の示唆する内容が全く示されない議員と後援会代表の非人道に近い集会であった。この現状が日本を代表していると言っても過言ではない下記の3点の露骨極まりない発言な訳です。がしかし解決は、セキュリティとは、次元が違う気がして成らない。問題のの論点には、この様な事物は、幼稚園の年少者でもありえない低次元を許した私達の未熟・無知さから事の端を発している旨、選ばない選択意識の高揚をなくしてセキュリティは、二の次だ。私が下記にに示した「大人の鏡」が地に付いていれば起きない現象に他ならない。元来農耕民族であった日本人の90パーセントに及ぶ遺伝子を持っているはずが現実の食料自給率の低さが異常とも感じない反省の無さなんだろう。更に科学薬品で総なめの農法と来ているリアリティは、子供に弊害をもたらす見本を列島挙ってやっている。そんなもので心身共に健全でありうるはずがない。これは、戦後処理の遅れとと戦後弊害の極みとしての象徴的現象だ。

話は変わるが、映画やその身辺の鑑賞の時空のカテゴリ-には、感情移入と云うのがあるらしい。それがその対象からの距離感や嗜好など出来無かったからとしても、さてそれが批評の対象になるのか一応には、キャパの範囲に終始する物があるのかもしれない。そのキャパとは、客観性の持つ愛情ある姿勢やブランド一辺倒と云う曖昧な判断が誤解や奢りにならなければ結構な事だ。興行が成功するとかの云々は、一般論の過剰反応であり、またアメリカ映画の興行性で云う計算や迎合そして洗脳に近いものであって批評とは、別のカテゴリ-に他ならないので有り、況してや他人の批評を鵜呑みにする現場イズムから距離を置いた甚だ逸脱のセンスは、特に頂けない感じがする。私は、特に映画・テレビジョン・新聞・雑誌etcには、特別関心や興味が在る訳でもないし、またそれに先ずは、経済が付いて行かない。しかしここで論議を醸し出しているので改めて『スパイ・ゾルゲ』に関して興味が高まり何所かで拝観させて頂こうと想っている。実は、PIPIさんの高度で総合的な角度・視点より切り開かれた映画批評も観た事とも重なり、そのEntertainment性に嗜好された今回の批評は、今後に何と私の反論にも期待して欲しい。例えばPIPIさんのスワロウテイルの批評に付いて因みに覗いてみた。特にジェネレーション・ギャップだけではないギャップが感じられる内容は、そこに凝縮されたDetailの「愛」が必要だ。グリコ演じるCharaの歌の下手さと言う前後に批評されている結論は、矢っ張り詰めが甘い。つまりこの世の全てに於いて上手い・下手の短絡的な表現は、普通過ぎて好感が持てない。私には、新鮮味が感じられたあのVoiceに付いては、昨今のArtist達が挙って物にしているCharaなVoiceに受け止められる霞み声とその創造力は、私の好感の範疇だった。エンタウン・バンドのメンバ-の一人に我が愛するス-パ-・カブのレストア・バ-ジョンアップも遣って退けるヒュウマンライクなミッキ-・カ-チス君には、全く触れていないのは、あのアコ-ステイックなライブ感溢れる臨場感が全くPIPIさんには、伝わっていない。寧ろ、そのギャップに驚きを持っている。敢えてあの映画スワロウテイルの持つ味わいは、遣る瀬無く、また気だるいCharaのボーカル・ボイス及びスロ-・8ビ-ト楽曲は、ドラム・バスな響きや繰り広げられるハイハット・シンバル・スネア-の金っぽいハモリは、場末でのそのライブ感こそが醍醐味だったと云える。何れのように他人の反応やキャパに裏打ちされる嗜好や想いは、多少の違いのズレが有る事も感情からは、外して欲しい。

問題発言 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月14日(月)22時41分21秒

「レイプは元気でいい」
「子供を産まぬ女性が年をとり税金で面倒を見るのはおかしい」
「罪を犯した少年の親は市中引き回しのうえ打ち首」

政治家達の発言はマスメデイアを通してしか、知ることが出来ないので、その真意のほどや、どのような文脈で発言されたのか、検証は困難であるが、少なくとも、活字化された、これらの発言が流通したことは間違いない。
鴻池の打ち首発言で、地元事務所に多数、メールが届き、彼の発言(勿論、巷に流通しているコウノイケと言われるハツゲン)に対して八割以上が支持したらしい。
そうすると、むしろ、選挙民を頭に置いた彼の発言なのか?
ひょっとして、先の二例も、地元選挙民にとって、さすが、「わしらの先生だ、なかなか、言えないことを言ってくれる」。
そんな疑問が湧いてきたのです。私はこれらの三例は常識で判断すれば、とんでもない発言だと、信じるが、又もや、私は甘い判断を下したのかと、不安になりました。
いつの間にか、私が最低限信じている常識(誤差のない本音でもある)と、ズレたところで、三例のような言説が裏街道を大手を振って流通しているのであろうか?
最早、それらは、多数派で、何かの契機で、ポンと、表街道に出現するのであろうか。
長崎の事件は痛ましいけれど、マスコミ報道をみると、出口のない教育問題で、少年に刑事責任を問えないならば、誰に責任を負わせるのかと、犯人探しにやっきとなっている。
SARSと同じ『セキュリティの問題』として考えるべきではないかと、思うが、そのような視点で報道されていない。
私のかような視点は被害者のご両親の気持ちを逆撫でするものであろうか?
成人男性であっても、池田小事件の宅間のような人間を裁くには、近代刑法はあまりに弱点があり過ぎる。それを「セキュリティの問題」として捉えることは間違っているのであろうか?皆さんに聞きたいものです。
マスコミも法曹界も、近代刑法の手の届く範囲を認識して、それ以外は単に、教育とかで、政治的に利用、利用されるのでなく、より工学技術的に「セキュリティ」として戦略をたてる必要があるのではないかと、思ったのです。

見なくて良かったみたいですね。 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 7月14日(月)18時23分59秒

スパイ・ゾルゲは、私がよく訪問するpipi姫HPさんのシネマ日記(http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/030705.htm)で評価が低く、見るまでもないかと、
保留をしていたが、武田さんの辛辣な評価でダメ押しです。
予想できることであるが、篠田正浩の作品作りはメッセージ過多、余白のない説明描写。
ラストチャンスかも知れぬ、そのせっぱつまった余裕のなさが、あれも言い、これも言いたいの老人の繰り言が、老害として映像化されたのか、
雨だし、スパイ・ゾルゲを見る代りに小津安二郎の『秋刀魚の味』を見ました。
笠智衆に挨拶する花嫁姿の岩下志麻が嫁ぐ先は、そうか、篠田正浩さんだったのだと、
思い至り、別に悪意をもって、このビデオをレンタルしたわけでないのに、
どうして、小津映画の良質な部分を何ら引き継いでいないのだろう、もったいない。
この当時の松竹映画はなかなか良い。
まあ、彼らは大島にしろ別の日本映画史を生成する反乱児であったわけであるが、年取ったものである。
『わが心の「スパイ・ゾルゲ」妻・岩下志麻がみた監督、篠田正浩』というメーキングビデオがあるみたいですね。
篠田さんは「意味の亀裂」を怖れたのでしょう。それで隙間なく「説明記号」を埋め尽くして、多様性の逸脱を回避したのではないか。
今後、早稲田で映画を教授として講ずるのでしょう。しかし、金かけて武田さんのいう高校学園祭以下の映画に対する自己批評なくして、講義をするとしたら、
彼はどんな講義をするのでしょうか?聞いてみたいものですね。
先日、武田さんはマスコミ等に対するクレームで?の愚劣な問いが多すぎると、私のカキコを甘すぎると叱ってくれたが、そのような対応にかまけてしまうと、有能な人材の消耗になり、互いに不幸である。もっと、戦略的に考えなくてはとカキコしたが、日本映画界は、もうそのような有能な人材はいなくなったのであろうか?
まあ、この映画が興行的に成功していれば、私の問いは無意味であるが、聞耳たてても、この映画がよかった声が聞こえない。
もし、このサイトで「いや、オモロカッタ」という人がいたら、是非ともカキコして欲しいですね。
気張って、肩肘張って、自腹切って、借金してやったからといって、出来上がったものが、良いものとは限らず、興行的にも成功するものではなく、むしろ逆に、遊び半分、気楽に金かけないで、タダみたいに作ったものが「オモロカッタ」りする逆説が、結構、あるのではないか?まあ、素人が万馬券をとるようなものであるが。
言葉もそのような不可思議なものであると、私は想い、だからこそ、言葉はコストに抗し切れるものであると、「言葉なるもの」を楽しみたいと思う。
映画はそのような事態がダイナミックに現われるものではないか?だから、オモロイ。
当事者たるギャンブラーは大失敗しても、賭けたことに自足しているものである。
だから、篠田さんにとやかく言っても仕方がないことかも知れない。彼並びにスタッフが危険を背負い込むのだから。

大人は、鏡だとしたら 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 7月13日(日)22時27分33秒

最近特に大人の判断・評価・行為と云った規範が示されていないのではないか、又其れを文化的人類学で云う所の示唆する余裕さえなくした大人がごろごろしている気がする。私はあるweb_linkより、以前にこちらにお邪魔した事があります。そこは個人pageながら知・愛・創・理etcと拙い私には、難解なmessageが日々更新されている。しかし何か本気と云う生々しい情熱が伝わってきます。で今夜もここにお邪魔して武田さんのprofileも先ほどお初対面って訳です。私は、元来文学の領域に全く無縁の者にして何か文学の力と云う物に改めて認識が出来た気がします。故人開高健のとあるmessageに「明日戦場に出向く云々・・・林檎の木を植える」この一言のInspirationは、際立つ文学力の最たる物だと。誤解を受けると行けないので注釈ですがこの世界から「知」を持って「理」を解きで和を絶対普遍と何故確保できないかと想う中で武装放棄のその縮小が出来ないのか知識・理論・論理でなぜなのだろうか?北山修氏の「知っていて知らない振りするのが大人なら私は、知らないけれども知った振りをしたい」と私は、このメッセージには、生きた文学が充分な比喩として網羅されていると想うのですが。で少し気になった次の解説をお願いしたいのです。<16歳の気持ちが分かる50男になったら、それほど見苦しいものは世の中に他にない。岡林氏の言葉と余りにもcontrastが覇っきりしていて興味があると云う範疇なのです。「なんとなくクリスタル」の田中氏の著書は、私にして買い込みました。現実の氏のアクティブな動きには、恐らく当時から何か「愛」が語られていて、その当時はよく理解できていませんでしたが今日に通じる物があるのかもしれません。武田さんの著書に『若者はなぜ繋がりたがるのか』PHP研究所のタイトルがありますが是非拝読させて頂きます。そこでは、「愛」をキ-ワ-ドとして拝読させて頂きます。 ここでは、大人の自律出来ない過去の大きな反省や教訓が現実に生かされない社会構造やそれと自立できない大人のIdentityの欠落が今日の少年犯罪に拍車をかける要因ではないか?大人の行動・意識・認識等の稀薄化現象は、中流意識のBourgeois化なんでしょうか?貴重なメッセ-ジボ-ドに拙い事を言いましたが感性で感じるままを綴りました。

スパイゾルゲ 投稿者:武田徹  投稿日: 7月13日(日)21時32分05秒

東京に戻り、『スパイゾルゲ』も観る。これは・・・・、無惨だと思った。物語を大きくしすぎている。日中戦争から第二次大戦までもモチーフが絞り込まれていないし、大団円でソ連崩壊、ドイツ統合までもってくるのは正直言って高校生の学園祭映画以下ではないか。言葉を探していて申し訳ないが「老害」が最もふさわしいと思った。篠田はこれで最後の作品といっていたからまさに後悔のないように作ったのだろうし、他の監督、たとえば熊井啓あたりもそうだけれど、最近作になればなるほど焦りがあるのか詰め込みすぎる。映画は大資本が動くので、一人の力ではどうしようもなく、一本撮れても次に撮れる保証はない。その「デッドエンド感覚」に高齢の監督ほど強く苛まれ、後悔のないように盛り込みたいことをすべて盛り込んで、結局、(まともな批評精神が残っていれば)後悔する作品にしてしまうのだ。
細かい点で、他の映画評論家が指摘しないだろうこととしては、ゾルゲがドイツ大使館でライカで書類を盗撮するのはおかしい。いわゆるバルナック型のライカは接写に特に弱く、1m以内はピントが合わない。レンズの繰り出し量を増加させ、ファインダーを補正する特殊な接写装置が必要だが、映画の中ではそれを付けてはいなかった。これは時代考証が甘い。
ささいなことと思うかもしれないけれど、こうしたつめの甘さが絵はがきをCGで実写風にする画像のおもちゃ臭さとも繋がっているように思う。いや、繰り返すが無惨としかいいようがない。最後の音楽がイマジンってのも・・・・。

世界の中心で、愛をさけぶ  投稿者:武田徹  投稿日: 7月13日(日)17時00分52秒

土日は山中湖。書評を書くために『世界の中心で、愛を叫ぶ』を読んだ。ぼくはこういうのに弱い。やられたと思った。
16歳と17歳のカップルの物語なのだけど、作家のプロフィールを見ると、生年はぼくより一年若いだけ。もしかしたら同学年かもしれない。ということは、ほぼ30年かけ離れた世代のことを書いていることになる。若い日の、経験のひとつひとつが粒として際だつような密な時間の経ち方をここまでビビッドに書き込めるところに「よくやるなぁ」と感心する一方、同年代だからなんとなく推測できるところもあって、たぶん作者も「こういうの」に弱い感覚を抱えたままこの年齢になってしまったある意味で壊れた人なのだろう。そして、小説を書くことによって自分の弱さにかろうじて落とし前をつけようとしてきたのではないか。この作品が売れて、他の作品も売れているようなので、売れる作家にはなんでもしてくれる出版社の接待攻撃を受けて、大人の世界にすっかりなずんで、あくまでも「作品」として自分の弱さや感じやすさを扱えるようになってゆくのだとしたら、それは、最初に本人が本当に望んでいたものだったかどうかは分からないけれど、ひとつの処世といえるのかもしれない。16歳の気持ちが分かる50男になったら、それほど見苦しいものは世の中に他にない。
ぼくはといえば、批評を書くことで「こういうの」に落とし前をつけようとする。そう、この本も「最近話題のこの本を読むならこっちのほうがいい」と別の作品を紹介する、いじけた?構成の書評連載の中で取り上げる予定なのだ。たぶん「こっちのほうがいい」と選ばれる作品は最近の若者の脱社会的傾向を示す本になるだろう。この本で描かれている死を真摯に受けとめる感性なんかもはや彼等の大半には期待できないのだ。万引きと同じ程度の抵抗感で子供を屋上から投げ捨てられるようになっているのが現状なのだ、と。それを具体的な子供や親の問題に限定せず、社会システムの質の問題だとして、少しでも多くの人に問題の所在を伝えるのが批評をする自分の使命だと思っている。ぼくはそれをする「べき」なのだと。そうして、忘却のそこから蘇ってほとばしる記憶でいっぱいになってしまった自分の読後感も含めて批評で相対化しようともがく。これってやっぱ因果な仕事、なのだろうか。

夏の多摩ニュータウン   投稿者:武田徹  投稿日: 7月11日(金)22時17分44秒

多摩ニュータウンのなかにある大学に春から非常勤で出かけていて今日は前期の最終授業だった。梅雨の中休みで夏っぽい日差し。ぼくは多摩ニュータウンの夏が嫌いではない。というか多摩ニュータウンというと夏というイメージがある。それはここを取材したのがいつも夏だったからということでもないように思う。
住んでいる人には暮らしにくいと思う。計画性の高いニュータウンなので緑が豊かで木陰が多いけれど、全体が丘陵地なので坂道を歩くのは夏はなおさら大変だろう。ぼくが多摩ニュータウンが好きというのはあくまでも通りすがりの感覚だ。
夏雲が浮かんだ青い空を背景にした書き割りのような景色。夏の日差しの中で影が濃く落ちていて、日差しをさけたいのか昼間は人影が少ない。独特の静寂感がある。緑は梅雨の雨に力を得て一年で最も勢いがある季節だ。池がある公園なども多いのだが、息が詰まりそうになるほど自然が濃厚だ。それは文明が作った人工の自然なのだけど。と、書いていて思ったのだが、この人工的な空間が最もその個性を際だたせる季節が夏だから、そこに興味を惹かれるのかもしれない。
大学は多摩ニュータウンの南端を通る道沿いにある。以前は午後にもうひとつ非常勤をはしごしていたので急いで移動していたが、今はそっちも終わっていて急ぐ必要もないので、少し遠回りになるのだが多摩丘陵の南縁を行く道を走る。ニュータウンの中心から距離のあるこのあたりでは開発が減速して切り開かれたまま広野になっているエリアもあって、尾根道の上から視界の開けた丘の景色をみるとロンドンのハムステッドヒースを思い出してしまったりする。いや、それはほめすぎというか、幻視の才能の必要な見立てかもしれないが、それにしてもニュータウンが新しい風景を作っているというのは確かだろう。
森田芳光『家族ゲーム』の中に子供が高層団地をみながら「きれい」と放心したようにつぶやくシーンがある。そこに新しい都市的感性を感じると前にNAVIの頃書いた。それを読んでいたのかどうか分からないけれど、先日誰かが全く同じ内容を指摘していた。ぱくられたなんていうつもりはなくて、ぼくだって、実は大学院時代の二年後輩の修論の中にあった指摘に感化を受けて書いたことだった。ぼくが都市論を始めるのは大学を離れてからで、大学で都市論をやっていた彼はその意味ではぼくの先輩だった。彼はその後どうしたのかな、確か東大の比較文化に進んだはずだけど、研究者続けているのか。そんなことを考えながらニュータウンの尾根道を降りてゆく。
編集済

戻る


[PR]女性が輝く公文の先生募集中!:全国で教室開設説明会開催