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LOG127
科学ジャーナリストの粥川さんは元ちとせにご執心のようで、確かに彼女は今のJポップシンガーの中でダントツの歌唱テクニックだと思う。しかしそれは今の話であって、たとえば美空ひばりとか往年の歌謡曲を聞くと、こんなに多彩な声色を使っていたのかと感心することがある。Jポップはあきらかに発声テクニックということでは停滞の時代だった。そこに矢井田を筆頭として裏声使いが現れて、注目(傾聴)され、満を持して元ちとせとかが出てきたということだろう。元ちとせの場合、他のシンガーのように単に裏声を遣ったと言うだけでなく、地声からの過渡状態のコントロールを含め、段違いに実力派だと思うが、声のバリエイションでは美空と比べるとどうかな。芸の技術は必ずしも時とともに進化し、多彩になって行くだけではないというのが面白い。
少し話が変わるけれど、フジの「めざまし」に高島あやパンが場適されたとき、またフジらしいアイドル扱いのアナウンサー起用のように言われたが、実は彼女も声に関してはなかなかテクニシャンだ。使い分けの多彩さは他の若手アナウンサー以上のものがあるように思う。もしかして元声優志望か? 実際、番組にメリハリをつけるうえではなかなか貢献しているのであり、案外、フジの人事は実力を見ているのかもと思ったりする。声のメリハリが報道系の情報番組に必要かという根本的な議論はあるだろうけど、現実問題として最近の番組作りはスピードが速くなっていて、声においても器用なアナウンサーしか対応できない。
ちょっとさぼっていたので少し書きます。
昨晩は『ミニミニ大作戦』のオリジナルをビデオ鑑賞。今、新しいBMW製ミニをフィーチャーしてリメイクされ、ロードショー中の作品の原型。実家の駐車場に縦に二台入れるためという消極的理由だけど、うちにもミニがあるので、やっぱり見ていて楽しい。
NAVIの鈴木エディターが書いていたけれど、この作品ではミニのサイズが重要なファクターになっていて、そのロジックは新しいミニにしてしまうと成立しなくなる。その意味でリメイクは?だと、ぼくもオリジナル版を見て改めてそう強く思った。
当時はイタリアにもチンクチェントという小型車のもういっぽうの雄があって、映画の中でも散々出てくるけど、この映画の場合、英国対イタリアという構図があるので、英国のドロボー団はやっぱりミニじゃないといけない。
で、それこそミニがトリノの町の中で階段を上り下りするわ(本当は最低地上高が低いクルマなので出来ない芸当)、屋根の上を走るわで大活躍する。うちのもそうだけど(当時としては当然の)キャブレター版クーパーなので吸気音が勇ましい。昼間、健康診断をうけなければならなくてバリウムを生まれて初めて飲んだウサを忘れるほど見ていて楽しかったが、最後、アルプス越えの崖っぷちで証拠隠滅のため?に谷底に廃られてしまうのは悲しかった(そこはリメイク版はどうなっているのか。BMWは崖から落とす設定を認めたんだろうか)。ついつい感情移入しちゃうクルマなのだと改めて実感。
で、これだけだと単なる映画談義、クルマ談義なので、一点だけこの映画についてコメント。英国ドロボー団が成功した辺りに流れる挿入歌が、みんなで声を合わせてふざけてSelf-preservation Society!と歌うものなんだが、これは字幕もそうなっていたけど意味は「自己防衛の社会だ」ですね。自分の身は自分で守らなきゃ、とイタリアの自動車メーカーから金塊をかっぱらったドロボー団が歌う。まんまと盗まれた相手に最大限の皮肉をこめてってことだろう。実は作品的にはその皮肉は自分たちに返って来ちゃう映画史上稀に見る宙づりのエンディングがやってくるんだが、それは見てのお楽しみなので書きません。
で、面白いと思ったのは、「自己防衛の社会だ」の歌詞が戯れ歌になっちゃうイギリスの感覚。今の日本だと自己責任とか自己防衛は笑って歌えない。肩肘張っちゃう。でも当時のイギリスはすこし笑い飛ばせる距離感があったということだろう。
日本も「自己責任の社会だ」ってコミカルに歌えるようになるといい、そのときのほうが今よりも自己責任型社会をその問題点や、限界も含めて血肉化できているんじゃないだろうか。
今晩はIDの編集長のテリー・ジョーンズが来日していてそのシンポを見に行く。インビの菅付氏が司会。アイシンクとテリー・ジョーンズ相手に英語で話し出して、第一声からしてどこに沈んでゆくのかと思ったが(いやぁ、人のこと言えないんですけど、ぼくだって駿台予備校で伊藤和夫センセー(お元気ですかー?)に仕込まれた英語ですから。100%カタカナ表記できる音だという説がある。ICU時代は音声学の名物女性教員だった太田先生に割り箸で舌をつかまれて矯正されたくちだ。発音記号を口内のパーツ配置に還元することに懸けていた太田先生は、ぼくらの代が最後で定年で引退された。あとには割り箸による矯正でも直らなかった頑固な舌の動きが残った)。それでも通訳なしで英語でちゃんと相手したのは偉い。気持ちを伝えるにはそうじゃなくっちゃね。彼は昔からよく知っているけど前向きなところがすごく好き。
独立して最初に出したコンポジットなんか、自分で資金を出して結局すごい借金を背負ったはずだ。そこまでしてでもメディアを作る、伝えようとする、そんな気概ってインターネットの時代にかえって弱くなってしまったんじゃないか。ネットワークのお膳立ての中で何か言うことが自己実現になってしまって。でもインターネットに書くことははいくらでも出来るけど、読ませることは難しい。読ませられなければ伝えられない。もう少し読ませることにシフトした考え方をしないと、せっかく書いても言葉が犬死にするんじゃないかという心配と、伝える努力をしようとせずに犬死を受け入れてしまえる感性への憤り(書き込み代金がほぼタダだから言葉も使い捨てできるほど安くなっちゃったのか)も少し感じてしまうのだけど。
>とびねずみさん
エジプトであったか、考古学者の話で発掘調査の穴掘りを地元の村長に頼み、仕事の段取りもすべて村のやり方で任せ、その仕事振りを見ると、とても楽しくやっている。ハレとケが上手く混合しているのです。歌の上手な若者が一日中、穴掘りしないで、歌っている。他のメンバーはその歌に合わせて、田植えならぬ穴掘りを楽しくやっている。労働と遊びが分離していない。共同体が働く/遊びをエネルギーとして村人が交歓している。そんな風景を念頭おいてカキコしたのです。
祭りと労働を同質なものとして出発するところから、共同体の問題を考えて見たかったの
です。
私にとって「働く」とはすなわち「餌を取ってくること」です。次が「ねぐらを確保すること」です。「他者と交換」は本質的な所ではないし、「消費の場と労働の場は同質」とは思っていません。働いてその日の糧を得る、というシンプルな生き方ができにくい社会構造ではありますが、これは基本だと思っています。できることなら、お金なんかさわらずに自分で作ったものを食べて暮らしたい。昔(といってもたかだか数十年前ですが)、食べ物を確保するのが大変だった頃「働かざるもの食うべからず」「老いては子に従え」という言葉があったのだと思います。作業効率が上がり、ものが豊かになり、社会保証が充実するのはいいことだと思いますが、働かなくてもお金が降ってくるなら働かない方が得だ、という間違った考えも出てきてしまいます。働けることは幸せなんだ、という教育がなされないからです。この点は、葉っぱ64さんが仰るように、大人達がそう思って働いてないのですから、無理な話です。お金という物は便利でありますが、お金のために働いている限り、働く喜びは実感できないと思います。外国の方の仕送りは、お金の向こうに家族の幸せがあるのではないでしょうか。お金は便利な道具に過ぎないと思っています。
>葉っぱ64さん
>そのNHK的公共性を全国紙は補完代行して、公共料金としての再販維持制度に守られた新聞代金なのか。ならば、全国紙は「NHK的なもの」であって、てるてるさんの持続するNHKに対する異論は、そのような「NHK的なもの」も含む異論なのであろうか?
そうですね。
放送と出版の責任とはなんなのか、と思っています。
「奇跡の詩人」を批判する人のなかには、NHKの受信料契約を解除する、という人もいれば、受信料を払いながら公共放送としての質を問うほうがいい、という人もいました。掲示板では、二つの立場で、議論になっています。
「奇跡の詩人」が納得できないので受信料契約を解除する、とNHKの職員に言った人のところに、当該番組のプロデューサーが電話をかけてきて、番組の内容を説明したこともありました。
同じ説明は、後に、私が有志と一緒にNHKに出した質問状への回答にも、含まれていました。
しかし、NHKのホームページでは、その説明は載っていません。
私のサイトには、NHKの回答文もそれへの反論も載せています。
NHKには、障害児者療育の当事者、専門職も、そうでない人も、質問状や意見書を送っています。
一般の人からのメールや電話のほうが、早かったけれども、後になって、小児科学会なども質問状を送ったり、見解を発表しています。
当該番組で無批判に放送されたドーマン法が、問題の多い療育訓練法だからですが、いまだに、NHKは、ドーマン法について、批判意見があることを、テレビでも、ホームページでも、言明していません。
ただ、ドーマン法の障害児向けのプログラムで実施されているFCと同種のコミュニケーション法で、国立特殊教育総合研究所で研究実践されている、STを紹介し、これを実施するときの注意点や批判を紹介しただけです。
神戸にあるドーマン法の研究所、人間能力開発研究所のホームページでは、いまでも、「奇跡の詩人」の放送の予告が、掲載されています。いまでも、宣伝に使われているわけです。
そして、新聞では、どうでしょうか。
「奇跡の詩人」の放送前の番組紹介が絶賛記事ばかりでした。
「奇跡の詩人」で執筆風景が放映された、「ひとが否定されないルール」の広告は、全国紙と書評誌に掲載されました。「NHKスペシャルで放映」と宣伝文句に書き、同じ宣伝文句は本の帯にもありました。
それなのに、「ひとが否定されないルール」の書評も、「異議あり!『奇跡の詩人』」の書評も、全国紙にも書評紙にも、掲載されていません。
唯一、地方紙である信濃毎日新聞に、「異議あり!『奇跡の詩人』」の書評が載っただけです。
全国紙は、広告料を稼ぎました。
結局、広告料をとろうと、、受信料をとろうと、大して違いはないのでは、と、私は思います。
どっちでも変わりなく、マスメディアの責任を果たしてほしい、と思います。
働く喜びですか?恐らく、そのことによって、他者と交換(交歓、交感)出来る場が作動しているのではないか?本来、教えなくとも、「労働という他者に向かう欲望」はあるはずだと、思う。その欲望が摩滅して、「消費の喜び」で、他者に向かう欲望を補完、補充しているのではないか?喜び質において、消費の場と労働の場は同質ではないか。
エネルギーは「消費の場」に濃密に「たゆたふ」ていると思う。消費税アップで問題解決の一歩を始めるのが、まずは現実的な戦略でしょう。徐々にエネルギーの風を「労働の場」に舵取りすべきかは、とびねずみさんの言う「働く喜び」を子供達に伝える前に大人達が「働く喜び」を現実に噛み締めていることが大事でしょう。
外から労働力を受け入れる問題は色々な障害がありますが、大きな流れのなかでは、否応も無く、受け入れる方向になるなら、積極的に一歩先んじて、「雑種日本」の設計図をシミュレーションしてもいいのではないかと、思ったのです。
誤解され易いですが、日本で働いているガイジンたちと一緒に、単純労働した経験で言えば、すごく、彼らは楽しく働いているし、身体的、生理的な位相で私は、彼らと労働を通して楽しく感応出来た。日本の若者とは、そのような意味でのコウカンは難しい。
まあ、彼らには仕送りといった家族共同体が生きているといった側面もあるが、
「働く喜び」には共同体なり、物語なりが、ちゃんと、作動していないと、無理なのであろうか?
老後を支える子どもをたくさん生む、ということに関して言えば、動物の中で親の面倒を見るのは人間だけだと思うんですね。直接自分の親にしても、税金、年金を介してにしても。そういうことは、自分と子ども(の世代)の面倒を見て、まだ余力があった時すればいいことで、社会保障もそういう観点で進んできてたのだとと思います。経済成長期にはたくさん余力が出て、本来の意味を忘れ、票を集める餌にまで使われた気がします。経済が衰退し、今はできなくなってしまったのを、それを予見できなかった無能な政治家達のせいではなく、子どもを産まなくなった女達が悪いという発言は、それが前首相かと思うと、恥ずかしいだけです。
ただ、一生懸命働く(これは現金収入を得ることではなく労働するという意味ですが)ことの大切さと、働けることの喜びを忘れつつある我が国では、余力をお年寄りや障害者の方に回す、ということを理解させるのが難しいと思います。葉っぱ64さんが仰るように、世界に子どもはたくさんいますが、その子ども達もきちんと育てるということにおいては、負担は同じだと思います。私は、子どもが多くても少なくても、その子ども達に働く喜びを伝えられないことの方が、問題だと思っています。
統計を見ると、60年代初頭には、2人以下になっているんですね
ベビーブームの時が4人を超えているのに、20年もたたないうちに
半減以下になってる。
その急激な減少に比べれば、その後の減少は、ずっと緩やかなんですね
その現象を作ったのは、実は、今時のおじいさん達やお婆さん達で
大家族多人数の兄弟の環境で育った人たちであるにもかかわらず
自分たちは、子供を作らなかった。
その人達が今、少子化を嘆いている・・・・
>とびねずみさん
先日の森前首相の女性蔑視発言について、マスコミの報道の仕方について、とびねずみさんは問題視していたわけですが、その事に関して、私のカキコはズレるかもしれませんが、少子化対策基本法の趣旨は「『老後を支える子どもを産むのは国民の義務』という声」を根底にしているから、かような問題発言が産まれたと思う。
地球規模で考えれば、50年後に人口は100億人を超えるのであれば、国際養子縁組、難民、移民の受け入れシステムを構築することこそ、国際貢献と信じる、いわば、「ハイブリッド主義者」の私にとって、森前首相を攻撃するなら、その視点から異議申し立てをしたいのです。
安全の問題も様々な民族を受け入れる前提で考えるべきでしょう。排除の論理で少子化対策を考えるから、ピントが外れるのではないか?
そう言えば、私が十六歳まで育った街は、かって、「混血の街」と言われました。
「混血」が違和感どころか、肯定的に私の脳に刷り込まれているのかもしれないが、
そういう「雑種日本」がイメージにあるのです。
「受け入れる」ことを前提にした少子化対策を考えれば、「子供をひとりもつくらない女性が自由を謳歌して楽しんで、年取って…、税金で面倒みなさいというのは本当におかしい」などや、不妊を悪玉にして、「子供をつくらない人々」を弾劾するのは、これこそ、本当におかしい。
まあ、私の周りには私も含めて、子供を持たない人が多いこともあり、自己正当化の弁明の嫌いがありますから、あまり、大きな声で言えないが、「世界には子供が沢山いるのです」
すごく単純な図式かもしれませんが、私は再販維持制度、記者クラブ制度で、新聞社は行政の介入を受け易い道筋を付けているし、それを自ら返上して、このあたりで、ケジメをつけましょうか?ということは難しいし、テレビの民放は資本の論理で右往左往し、如何に狡猾に振舞って、「言論の自由」の幻想を維持するかに頭を使い、どちらにしても、私の想像力で少なくとも、同情と、納得は出来ないことはないのであるが、ことNHKの公共放送という立ち位置がわからない。受信料金は私法上の契約を結んで、初めて効力が発生するものであって、強制力がない。となれば、民放かなと思うが、CMは認められない。NHKのような新聞があれば、その対称形によって、理解が深まるかもしれないが、そんな新聞はない。ないからこそ、そのNHK的公共性を全国紙は補完代行して、公共料金としての再販維持制度に守られた新聞代金なのか。ならば、全国紙は「NHK的なもの」であって、てるてるさんの持続するNHKに対する異論は、そのような「NHK的なもの」も含む異論なのであろうか?
ちょっと、抽象的になりました。私の覚書のようなものと、思って下さい。
メールアドレスを忘れたので、メール欄に記入して投稿します。
「奇跡の詩人」の批判の声は、2ちゃんねるやYahoo!の掲示板を中心に盛り上がり、「異議あり!『奇跡の詩人』」という本まで出版されました。
しかし、そのような番組批判に対する批判もまた、強かったのです。
特に、昨年8月以降は、「異議あり!『奇跡の詩人』」に寄稿した、ドーマン法を実践したことのある障害児の御家庭の方や、編著者の滝本太郎さんや出版に関わった有田芳生さん、医師としてホームページにも意見を書いている杉本健郎さんに対する誹謗中傷は、繰り返し、繰り返し、2ちゃんねるに投稿されました。
saihikarunogoことてるてるも、実名と職場名とを挙げて、障害者差別で懲戒免職になるとか、脅迫的なことを書かれておりました。
そういう中傷や脅迫をする人々は、匿名なのですが、なかには、事情が推察されるものもあり、この問題のむずかしさを感じました。
いろいろありましたが、多くの方の力によって資料や情報が集められ、リンク集には、医療・福祉・教育関係の大学や専門学校からもアクセスがあり、情報が役立っていると感じております。
武田徹様、他の皆様におかれましても、NHKの番組放送の問題点に、今一度、目を向けていただければ、何にもまして幸甚でございます。
サイトの宣伝です。失礼致します。
NHKスペシャル「奇跡の詩人」関連リンク集をつくっている、saihikarunogoことてるてるです。
このたび、ホームページコンテストに登録しました。
「テキスト・情報源部門」です。
投票していただければ幸いです。
http://members.tripod.co.jp/saihikarunogo/lunacontents.html
NHKスペシャル「奇跡の詩人」関連リンク集は、2002年4月28日放映のNHKスペシャル「奇跡の詩人」に疑問を持った人たちの、
掲示板での発言を集めたもの、
それぞれのホームページで発表されたもの、
「奇跡の詩人」の録画ビデオ検証会の報告、
と、資料として、
関連サイトへのリンク、
「奇跡の詩人」やドーマン法についての関連学会の意見、
国会での議員の質問、
有志によるNHKへの質問状、
などへのリンクを集めたものです。
「奇跡の詩人」で紹介されたドーマン法という訓練法が、問題のある方法として多くの療育関係者から指摘され、この放送をきっかけに、関連学会の見解も表明されました。障害児者を介護する御家族にとっても重要と思われるこの情報へのリンクを、最初に載せています。
武田さん、掲示板にご参加の皆さん、こんにちは。よろしくお願いします。
マスコミ、特にテレビの姿勢には常に疑問を抱いていますが、それでも情報を得る手段として捨てられずにいます。クレームに「?」なものが多いということですが、テレビのいうこと、やることも「?」ばかりです。
先日の森前首相の発言についても、これはいつも感じることですが、全てが放送されるわけでなく、問題の部分だけが繰り返し流され、問題の本質がどこかに行ってしまい、今回は後でご本人の言い訳まで放送していました。これはもうテレビの限界なのだと思います。
そして、現場にいて全てを聞いたはずの、他のパネリスト、会場の参加者がが、その場で糾弾できないで、笑い声さえ聞こえたことも問題だと思います。私自身にも、こういう機会はあるわけで(政治家相手ではありませんが)全てを聞いたその場できちんと発言していきたいと思っています。
ただ、路上などで注意すると命まで危ないご時世ですから、その辺はずるいと言われるかもしれませんが、通報するなど、自分に可能な手段になるかと思います。そういった、逃げない態度、言ってることとやってることが違わないことを、自分の子どもや教え子達に見せていくことしかないんじゃないかと思っています。
もう一つ、政治家に関しては、いわゆる番記者の方達って、もう少しまともな質問とかできないんでしょうか? 記者会見にしても、立ち話にしても。それとも、これも私がテレビから間違って受け取った印象なのかな。
誰か見ちゃっただろうと思って完全に消さなくて良かったですね。
アップしてから、消しましたを発見!
「お言葉ですが」のレスなので、都合が悪ければ、武田さんの方で、処置を任せます。
確かに甘いと思う。「上に伝える」なんても、マニュアルの一貫であり、外注任せのクレーム担当もあるだろうし、クレームの殆どは「?」でしょう。「玉」の意見も聴かれなくなってしまう。それでも、身近なところから、言ってみる。たまたま、友人の例を出しましたが、ささやかながら、結果として、効果を上げている。(まあ、野球中継の場合ですが)。くだらないとは、思わない。
宮台真司のようにロビー活動に精を出すのが、一番の実効性のある方法でしょう。
ただ、私はそのような政治的戦略を使わないとしたら、どのような方法があるのか?
金も力も禁じ手としたら、友人のように「べき」で突っ切る直球以外に何があるのだろうか?
言葉(物語)なのか?島田雅彦の小説「美しい魂」が発刊延期になったらしいですね。その経緯に触れて、彼は《乏しい経験から察するに、高度の隠喩表現を用いて描く限り、また明確に政治的な意見や、歴史的認識の表明を行う限り、天皇や皇室にまつわる表現に制約はない。しかし、皇室のどなたかが特定され、作家の想像力によって物語化された時、にわかに危険が伴うようなのです。》ー『楽しいナショナリズム』よりー
「物語化」という方法は、戦略としては最高なものでしょう。
私はサービス業しか経験がありませんが、サービス業にとってクレームは大歓迎です。一番、怖いのは無視でした。そういう姿勢があったので、西友でしたか、西武でしたか、トラブルがあって、換金したら、関係ない連中まで、多数、押しかける事件がありましたね。メーカーやマスコミは、その回路を切らないまでも、出来るだけ細くしようとする。もろに市場に相対してないからなのか、せめて、新聞の再販維持制度、記者クラブ制度は検討すべきだと思う。私が長野の田中康夫に、ある種、期待しているのは、彼のサービス業的感性です。
再販なんかはロビー活動がもっとも効果的であるが、かような場にない私は○○の遠吠えになるしかないけれど、機会あるごとに言葉だけは発信していきたいと思います。