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LOG124
書き込みありがとう。
↓あの「手」の写真はバクダッド滞在ジャーナリストはみんな撮っていましたね。ぼくはジャーナリストがみんなそろって「手の破片」を撮影しているところを引いて撮った映像をみたことがありますが、なんか、そっちのほうが「現代の戦争」を感じたな。肉片で戦争を伝えようとするジャーナリスト群像が一部に映り込んでこそ戦争。綿井氏の感覚とは違うと思うけど。綿井氏は撮影している一群の中にい(ようとし)た人だし、毎日は引いた画角ではなく、手のアップを映した写真を使おうとしたメディアですね。
↓↓参与観察自体は珍しくないし、時間を掛ければもう少し人数の多い集団を対象にする人もいるでしょうが(ただ彼女の場合、参与観察という言葉を狭義の参与観察ではなく、インタビュー調査など接触型調査を総合した手法として使っているので、「単なる観察」よりはおのずと対象は少なくなります)、珍しいのは「作る会」への参与観察だという点ですね、繰り返すまでもないですが
綿井氏が「創」で、爆撃で切断された手の写真を送ってもカットされたけど、五味記者は、そのたぐいの写真を毎日新聞で報道することができた、と書いていたので、毎日新聞と五味記者はがんばっていい仕事をされたのかと思いました。
『癒しのナショナリズム』で上野陽子が参与観察した「史の会」の対象人数が二十数名と少ないのには驚きました。学問の場ではかような参与観察は事例研究としては珍しいのか、そこのところが不思議です。兎に角、上野はこのメンバーを三タイプに分類するのですね、
T:サイレント保守市民 U:市民運動派 V:戦中派
でも、この三タイプ同士、熱き論陣を張ることはしない。どうせ、話し合っても通じないという達観がある。なのに何故、参加するのか、会費も安く、講師の話も聴けるし、ライブ版TV番組の街に出張した政治バラエティを視聴するノリなのか、もう一つ彼らの顔が見えない。
Tは過激な運動を敬遠、保守より本業が大事、天皇に対して特別な感情は持たない、経済的に余裕がある。Uは草の根保守運動そのものに興味があり、勝ち負けにこだわる。もう負けた教科書採択問題には興味がなく、「夫婦別姓問題」にシフトしている。ロビー活動、メディア戦略に興味があって、時代の空気に合ったコンテンツなら何でも良い。
TとUは武田さんの言うように、TVメディアの影響ありですね。彼らに政治哲学なんて最初からないし、自らも、求めようとしない。メディアが雰囲気で作り上げたというか、無意識に生成したものと思うが、『普通の人々』(国民)と言うか、イメージとしては「ラッキョウ」です。ラッキョウの皮を剥き続けることによって、面倒でうざったいものを排除(そんな意識的なものでなく、見つめることをしない無視に近い)する行為(頭を空っぽにする朝の散歩に近い)で擬似社会参加を成しおおせて、彼らは癒される。
目出度い事ですと笑って済まされるが、問題は彼らが退場しても、彼らを生み出す土壌がこの国にあるということなのでしょう。ラッキョウであるからして、顔が見えない、そこが不気味です。<顔の見えない普通の人々>は私の内部にもあるかもしれない。見えなくて、単純に外部として対象化し得ない気味悪さです。他人事でない意識は常に研ぎ澄ます必要はあるのでしょう。
少なくとも、Vの戦中派の老人の顔は見える。例えば、『ヤマザキ、天皇を撃て!』の奥崎謙三が執念深く昭和天皇の戦争責任、上官、同僚の戦争犯罪を弾劾しながら、一人運動『ゆきゆきて、神軍』で政治にコミットするが、奥崎と違って彼は天皇を護持し「ゆるぎない皇室観」を何故、持つことが出来るのか、彼の立ち位置が明確なのだから、戦中派の言説を叩き台にして、実りある論争の場となる機会があるのに、そんなかったるいことは嫌みたいである。やはり、TVのバラエティの延長上にあるのであろうか?
ラッキョウの皮を剥き続ける「普通の人々」が癒しを求めて、歩き続ける…、そしてな〜にもなかった。だけど、その空洞にある日、動員の力が充満する。
そんな悪夢が現実にならないように、注意は肝要かもしれない。
書き込みありがとうございます。
細かいことですが。死体の写真を撮ったからといって、即、いい仕事をしているとは言えないと思いますよ。ぼくは現在のマスジャーナリズムシステムの中で死体の写真は「うかばれにくい」と考えており、そうした状況を知りつつ、死体写真を撮る記者については疑問も感じています(死体写真が戦争を伝える上で重要だということは理解していますが、それとは別のレベルでの問題ですね)。あとレインズやグリーンが「はめられた」かもぼくは判断保留したいところ。
あの爆弾騒動の毎日新聞の五味記者も、イラク攻撃で人の死体の写真を報道するなど、いい仕事をされたのですね。
何か、いい仕事をしてUSAの戦争の実相を知らせる人は、「はめられる」「おとしめられる」という印象を受けます。
ニューヨーク・タイムズ記者が記事を捏造していた事件は聞いていたが、彼の上司も引責辞任したことをニューズウィークで知った。上司の名前はハウエル・レインズ。実はぼくにとっては印象深い人物なのだ。十年前にワシントン支局長だったレインズが湾岸戦争報道を評価した言葉、「湾岸戦争では100対1でジャーナリズムの完敗だった」をぼくは戦争報道で引いているし、イラク戦争の報道について書いた記事の中でもそれを引用した。ジャーナリズムの現状について、つまり自分の関わる領域について批判的に語れる人だという印象を持っていたのだが。
ニューズウィークによれば(ニューズウィークとニューヨークタイムズの関係を深読みすれば、どの程度信憑性がそこにあるのかは疑問ということにもなるが)、レインズはスクープを取れる記者を重宝し、そうでない記者にはひどく冷たかったという。捏造記者はスクープをたくさん取ってきた人物だったのでハウエルのお気に入りだったとか。スクープさえ取れれば方法は問わないとことがあって、それが捏造を導いたのだとすれば、確かに引責辞任もやむをえないところか。
ずいぶん前になるがボブ・グリーンの事件も驚いた。ボブ・グリーンも(たとえ原爆投下パイロットをあつかった『デューティー』においても)天下国家を徹底的に論じないことにおいて彼独特のメディア批判を実践したと思っている。レインズ、グリーン・・・・、メディアを批判的に語っていた人が、あたかも自己崩壊するように、みっともない事件を起こして表舞台から去ってゆく。なぜなんだろう。
前半を手直ししていたら、1と2の間が割れてしまいました(笑)。読みにくくてすみません。書き込みは感謝です。
『<癒し>のナショナリズム』はすごく意味のある仕事で、草の根保守主義(プチウヨですね、WEB風にいえば)の生成過程を実証的に示した点で前例がない。ただ、そこに一点、加えるべきものがあるとしたらメディアの影響評価だったのではないか。おそらくつくる会の生成でも間接的にTVメディアの作り出す雰囲気というのが関与していたはずだし、最近の北朝鮮に対する草の根右翼的な感性風土の生成に至ってはあきらかにTV、より具体的にいえば民放のニュースバラエティ系番組の影響が大きいように思う(これは個々人が「おれはTVなんかみないぞ」っていう具体的なレベルで論じられるようなものではなくて、集合無意識的な領域と関わる、論証が少々やっかいなレベルでの話)。
ジャーナリズム論を展開するとき、未だに新聞をモデルにしなければならないのは、NHKを除くとテレビには取材調査、分析、報道というプロセスをたどる既存のジャーナリズムの枠組みで論じられるものはなくて、ほとんどが素材→放送と直結している。TVが考えないメディアだと言われるのはそのあたりに由来する。
しかし民放のニュースバラエティが質的に劣るかというとそうではなく、あれはあれで技術を高度に蓄積、進化させた独特の世界を作り上げている。ボーリングフォーコロンバインで印象的だったのが(辺見庸も引いていたが)マリリン・マンソンのインタビューの箇所で彼はこんなことを言う。「メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンを作りだす。このキャンペーンは人々を怖がらせることによって消費に向かわせようとする発想に基づいている」。端的に言うと「北朝鮮=特殊な国」論は視聴率が取れるということだ。たとえば北のTV番組を延々と(無断(笑))流用して(前に唐沢の兄やんがタイの漫画を紹介する本を出したときに、許諾の手続きを踏もうとしなかったときもなんかいやなかんじはした。権利を尊重するっていうのは相手を人間扱いするかどうかってことでしょ、結局は)、その「特殊性」を訴える(解説のナレーションは、エヴァンゲリオンのゼーレのような声にする)。あれやこれやで違うモノへの恐怖をあおる。そんな気分の形成が、「恐怖を消費につなげる」民放TV局の枠組みの中で、まさにメディアのビジネスの枠組みと調和する形でなされてゆく。たとえば「国民が」という主語の立て方も、マスメディアの担い手たちが自分たちは全国をカバーする公共メディアなのだという根拠のない自負の中でうかつに使ってきた用法でもあり、そのうかつさが広まっているとも言える(メディアにおける一見罪のなさそうなうかつさには戦前はマスメディアの全国化過程とナショナリスティックな統一国家幻想生成への要請が重なっているし、戦後のメディアの客観報道幻想も重なってさらにやっかいになっている。国体概念の生成でぼくがかつて注目したのは国柱会の貢献だが、メディアの関与も改めて視野に入れたい)。そして多数派幻想を最も強化するのはメディアの中でもTVだろう。少数を多数と言い換えているとかそんな多数決(で、白黒つけようとするところが実は戦後民主主義!的。批判的に語っている人ほどうっかりするとそうしたことにとらわれている「素」の自分が出てしまったりしておかしい)の議論をするつもりではなくて、幻想としての「多数派」の出自を問いたいと言うことだけど。
6月11日付けで題名「暇なおじさん」で書き込みし、内田樹著「女は何を欲望するか」について触れましたが、今、bk1にアクセスすると、こんなプレゼンテーションがありました。
↓
6月12日、葉っぱ64さんが“フェミニズム論と「エイリアン」映画分析の見事なドッキング。”というタイトルで書評を寄せられています。(『女は何を欲望するか?』内田樹著)この本は、フェミニズム理論の「正しさ」に対して警鐘を鳴らす本ですが、葉っぱ64さんは、当の女性の声が聞こえないと指摘し、「bk1の誇る女性レビューアの内田樹評を読んでみたいものだ。」とボールを投げられています。このボール、直球です。女性の評者さん、あぐりっぱさんや葉っぱ64さんに続く投稿をぜひお願いします。
↑
書評ポータブルサイトに掲載されているのだが、フェミニズム論に関する内田樹の異議申し立てに興味があるのです。サイトを渉猟しても、おじさんたちの応援歌はあるのだが、女性の方々の内田樹評があまり、見受けられないのです。
もし、内田樹について異論、反論したい女性の方がいらっしゃれば、訊きたいものです。
そして、今はそうしたTVの作った気分プラスWEBなんだろう。WEBを探し歩いて、その気分にふさわしい言葉をみつけては借りて来て使う。そうした使い方が出来るメディアが広く普及した。そしてネットで表現まで出来てしまう。この過程で素材→表現という直接性から踏み出すことはほとんどない。断片的に情報を足したり引いたりしながら加工することと、自分の経験の中に一度取り込んで言葉を血肉化しつつ「考える」こととは似て非なるもののはずだが(そうみなすことが考えることへの動機づけにもなってきたはずだが)、その差異の感覚が消失しているのも元はといえばTVというメディアのばら撒いて来た気分の最たるところかもしれない。
メディアの大衆社会への影響は(憲法論の一種のカリカチュアになっていて)悪質番組追放を謳う保守的な動きに利用されることがあるのを危惧されて、あまり本腰を入れて研究されてこなかったところがある。そのツケがまわってきているということでは、これも戦後的な問題のひとつかもしれない。
しかし、繰り返しになるけど、マスメディアへの不信感を表明することが健全な市民のたしなみのようになっている状況なのに、一方で北朝鮮に対する「感性の風土」がメディアによって規定されていることに対しては驚くほど無自覚なのかなぜなんだろう。そんなものだとあきらめようとするのだが、あきらめきれない。
いや、アジアプレスのジャーナリストのように現地を訪ねなければなにもわからないだろうという短絡的な現場主義を唱えたいわけではない。自分が直接知りえないこと、感覚も、想像力も、思考も届かない先の領域の闇の深さを知り得ないなりにもおそれることが出来なくなっているのではないかということこそむしろ言いたい。その闇の深さをおそれることなく、テキトーにメディアによって与えられたレディメイドの「感覚」(たとえばマンソンの言う恐怖)でふたをしてしまう。今の自分の北朝鮮イメージがどこから来てどう形成されたか、それを本気で検証すれば、自分がバカにしているメディア情報のグロテスクな集積にすぎなくてあきれると思うのだが。
イラク戦争の時は情報戦がテーマになって、『戦争報道』も読まれたけれど、北朝鮮になるとそうではない(『戦争報道』の売れ行きも鈍ってきた)。他人行儀に語る限りで情報戦は愉快だが、自分たちの身体が情報戦の舞台になっているということは、それについて考えたり、語ったり出来なくなるということなのだ。それが情報戦のリアリズムなんだ。そんな状況だからこそ『戦争報道』の、特にオーウェルのところは読んでほしいとは思う(し、オーウェル論はそこを入り口にしてもっとつっこんで書こうと思っている。彼が古い仲間の名を公安に売っていたというエピソードも含めて)のだけど、うまくゆかないものだ。
ばんまいさん。非政治的な、単なるカメラ談義を書きますね。
ぼくのM6も赤色ロゴは黒テープを貼って隠していますよ。しかし、ずいぶん前ですが、はがしてみたら赤ロゴの塗装がテープの接着剤についてはがれてしまい、これでリセール価格はだいぶん落ちてしまったでしょう。
ちなみに夏にイギリスにごくごく短い旅行にゆく予定があって、本当に久しぶりにデジタルではなくてM2を持ち出そうかと画策しています。以前つきあいのあったシュピーゲルのアジア特派員が持っていたのに憧れて、清水の舞台から飛び降りるつもりで買った最初のライカで(もう15年以上も前のことですね)、その後、イギリスでMRメーターとかレンズを買い足した思い出があるので、もう一度イギリス詣でさせてやろうかなと。当時はぼくがカメラに一番萌えていた懐かしい時代です。格安で買ったズマロンはやっぱり曇りが出ていて逆光で撮ったらフレアがひどくてショックだった苦い思い出もあります。バカみたいにそんなことで一喜一憂していたのでした。
MPってエイゼンシュタインの時代のものではなくて、最近出たヴィットが付いているやつですか? 秒10コマのモータードライヴや、更にはCCDの時代になった今や持つ人の精神を高揚させる以外に機能がないヴィット付きライカというのもなんとも微妙なポジションですね。でもサルガドみたいにライカでしか撮れない写真を撮っている人も未だにいるわけですし、最新のMPも単に骨董品とはいえないのかしら。
武田さん、お集まりの皆さん、こんにちは。
SONYが凝ったカメラを売り出したと聞いて真っ先に私の頭に浮かんだのは、
LEICA MP でした。 対照的なもの、として浮かんできたわけでして、「カメ
ラはライカ」とか「It's a Sony」とか言うなぁ、などと考えました。
私の知人は、愛機の"M"から、赤い印を取り去って使っています。 その者曰く
やはり「このカメラはライカ」なのだそうで、カメラという物体があって、
それが「ライカ」という状態・様子をしている。 "MP" にも、赤い印は付いて
いません。
「It's a Sony」も、似たような事柄を訴えたいひとことであるように思い
ますが、これは、「これ、何だかイイよ、どこの製品だい?」という疑問への
応えでもあります。 それがSony製品であることを根拠付けるために「技術の
ソニー」というセリフまで用意されています。
=====
「ライカ」とか「Sony」と呼べる状態・様子が如何なるものであるのかを知
るための存在が「It」よりも「カメラ」であるほうが、より的確かつ短時間
のうちに目的を達成できるという気がします。 「国」とか「民族」とかに
ついても同様のことがいえる、つまり、何者/何モノにそれらの状態・様子が
宿っているのかを考え抜くと、今よりも自分のことを理解/納得した気になれ
るように思います。
急に思い出したのだが、学生時代、憲法講義で土井たか子の確か指導教授でもある田畑忍の講義を聞いていて、第96条の「憲法改正の手続き」において、田畑は憲法において解釈上改悪はありえない、改正のみである。生徒が質問して96条の手続きを踏めば、改定は出来るのではないかと?当然の合理的法解釈をしたが、田畑は眼光鋭く、生徒を見据え、揺らがず、確固たる信念で、多分、私の記憶では手続きが合法であっても、結果として改正でなく改悪ならば、その憲法改定は無効である。問答無用で言い切った。
日本憲法を貫く精神が平和、人権、平等、なら、それに違う憲法改定は無効である。土井たか子が受け継いだ、憲法護持を信念として持ち続ける田畑の異論を許さぬ迫力(呪文)を思い出したのです。
「憲法護持」「国体護持」の論争は、かような神話領域に入り込みますね。
正義論を持ち出すと、ブッシュと同じ土俵になってしまう。土井たか子は北朝鮮の問題に関して沈黙すべきでない。
憲法=国体であるか?から検証すべきなんでしょうね。
恐らく、田畑忍の頭では左であっても=だったと思う。美濃部達吉の「天皇機関説」にしたところで、国体に反する学説でなかったと思う。
むしろ、合理的に国体を解釈したから、おかしな連中からやられたわけでしょう。
憲法であれ、国体であれ、不可侵で合理的なアクセスを許さない領域を設定するのは矢張りおかしい。でも、判断保留で呪文で誤魔化したくなる問題ですね。
今日の毎日新聞朝刊で飯島洋一が六本木ヒルズに関するコラムを書いています。
タイトルは<「日本的なもの」とは>でKPFグループの設計者ペターセンらへのインタビュー記事を紹介し、「森タワー」の形態を「武士が装っていた甲冑」からイメージしたものという外国人から見た「日本的のもの」はかようなものかと、紹介していますが、
別の紙面で国立民俗博物館(吹田市)で来春、「多民族化する日本ー在日外国人展」(仮称)が七十日間ほど、特別展示されると紹介されていた。
日本の少子化は避けられないとすれば、需要拡大のために移民による多民族化は益々進行し、そういう、日本民族の不安が「日本的なものは?」「国体?」という自分探し、国探しが『癒しのナショナリズム』(さっき、読了しました)の事況を生むのでしょうか。
同じ紙面に裏千家淡交会が小中高対象に「授業に茶道採用」条件で「学校茶道教育助成金」の交付を継続するとの記事が掲載。「新渡戸武士道」「岡倉茶の心」、これが、国体の中身だと言えば、異論があると思う。だが、この二つは外国人に理解し易い日本の心性らしい。
六本木ヒルズに茶室を設けて、甲冑タワーのもとで、茶を喫すれば、ノープロブレムでしょうか。裏千家茶道体験のある私でも、それはちょいと、寂しい。
同紙面の書評欄に追憶の1960年代として在日韓国人が沢山、居て日本国猪飼野で郵便が届くと言われた猪飼野写真集が紹介されています。丁度、この時代、私が通学していた高校がこの近くでした。個人史的にもこの写真集は見てみたいなあ。
在日外国人が視点に入った「国体論」を訊きたいですね。
排除によるマイナス国体論は訊きたくないなあ。<史の会>の「普通の人々」と自称、又はそう、呼ばれたい症候群はラッキョの皮と同じで、排除の皮を無限に剥く行為で自分のアイデンテティを自己防衛しているのではないでしょうか?
かような根が虚であるニヒリズムが動員されて、ヒステリックに暴力装置を産む事だけは回避させたい。
問題は、<普通の人々>のかようなニヒリズムがわれわれの内部にも外部にも、目に見えないかたちで浸透しているのではないかという怖れです。
勿論、<私を含んだ普通の人々><私を含まない普通の人々>というダイナミックな自己検証は必要でしょう。
>ためさん
詳細な探訪を有難うございます。再開発という名の街殺しは大阪あたりは厳しいが、
京都はシブトイですね、40年前、京都で学生時代を過ごし、それから、30数年間、東京、横浜を徘徊して、二年前、関西に帰って来たのだが、心斎橋の変容振りにはガックリきたが、京都はむしろ、老舗がしぶとく残っている。
その上、古本屋であるが、「アスタルテ書房」のようにマンションの一室を開放した店主の書斎が店舗といった「こだわり」の棚が、ビジネスとして存在を許される風土が京都の街にはありますね。
古い町屋をネットワークで結んで、自炊可の宿泊施設にするといった試みもあるみたいだし、観光国際都市として、日本国から自立してもモナコのように立派にやれるのではないかと、思ってしまいました。福田和也のように天皇抜きのナショナリズムを検証するなら、天皇には京都に帰ってもらって、モナコ公国に似た京都公国で観光立国を宣言する。
そんな夢想がよぎりましたが、意外と現実味があるかも知れない。
「国体」の中身は薩長で捏造されたものではないか?
その辺りから出発すべきではないか。
取り留めのない事を書きました。でも、国体の発想は江戸でもない、勿論、京都でもない東京発の近代国家を目指した薩長が廃藩によって日本国意識を人々に植え付けようと外部から接木しようとした呪文なのでしょう。
街場の書店事情でしたら、毎週更新されているジュンク堂の田口久美子の『池袋風雲録』“http://www.webdokusho.com/frame-shoten.htm”が面白いですね。池袋のリブロを舞台に80、90年代を本の棚構成の変遷で「街」を「知」をエピソードを挿入しながら、記述している。今、クリックした最新回では吉本隆明宅に訪問したおり、散歩のついでに吉本夫婦と当時、高校生だった「ばななさん」が、一緒について来て、田口おばさんが、「ばななさん」に将来何になりたいの、と聞くと、「作家」とはっきり答え、どんな?の言えばこれも、はっきりと「ドストエフスキー」答える。20年前頃はまだ、牧歌的でしたね。
三鷹在住者です。
「第九書房」はこの春、閉店になりました。再開発で駅ビルに入ったあとは、あの薄暗い中にぎっしり詰め込んだ雰囲気が薄れ、品ぞろいもやや間延びした様子になりましたが、他の書店に比べれば、ましだったんですけどね。
ちなみに、後には啓文堂が。ま、こちらはいかにもチェーン店な棚です。
中央線だと、阿佐ヶ谷や高円寺あたりにまだ渋い本屋が残っていますが、三鷹の新刊書店(古書店でないという意味ですが)は味気なくなりましたね。
あと、「三鷹楽器」(こちらも規模の割には品揃えのいい店でした)も5月になくなりました。後はドラッグストアです。(何軒めだ!)
再開発という名の街殺しで、地場は冷え込んでいきます。
「第九」でしたか、有難う!
商店街が空洞状況になっている時、頑張っている街の本屋さんが、あるんだと思うと嬉しいですね。京都寺町通りに三月書房がありますけれど、小さいながら、店主の本に対する拘りには頭がさがります。本屋のみならず、京都は結構、刺激的ですね。京都造形芸術大学に束芋さんという26歳の教授お姉さんがいますが、五月号の「芸術新潮」見ていたら、彼女の作品で口をあんぐりしてしまいました。
女子高校生が剥き出しのお尻から、気持よさそうに日の丸を排泄しているのです。
彼女の内臓脂肪がすっきりした後に残ったものが、国体なのであろうか?
様々な想念が湧きました。人を食った名前と言い、束芋とはどういう女性なのか、
丁度、知人の息子がこの大学に入学したと言うので、メールすると、今はロンドンにいるらしいですね、
学長もユニークな人らしい。入学式の時、彼のスピーチが素晴らしく、その息子は泣いたと言う。スピーチの内容は知らないが。
「国民」について色々とアップされていますが、私は「公民」という言葉に引っ掛かるのです。何となく、国民と市民をミックスブレンドしたら、公民になるようなイメージがあるのです。公民という教科がありますが、その核に国体を移植培養したい動きもあるのでしょうか?
「○の一人として私は…」の○は括弧付、又はアンダーラインで流動状態にしたままにしていると、思う。私にとって心地よいのは浮遊感です。安易に存在の不安にかられて「自由からの逃走」をして欲しくないですね。
「他人の欲望」を欲しないで、「百鬼おのずからの自治によって、概して平穏」と欲望の内部システムをズラして、「蓼食う虫も好き好き」が誇りある価値観として共有される社会がいいなあ。
SPAの写真を見ました。「葉っぱ64」は葉っぱ虫(ムシ)のことなのです。蟄虫は過ぎ、梅雨ですな。ムシムシ、じめじめしますが、SARSウィルスは湿気を嫌うのでしょう?
てるてるさん。
>穏やかな感じがします。
なるほど、わかりやすく、伝わりやすく公平であるということでは
確かにおっしゃる通りだと思います。「国民は」ではなく、具体的に
こうした統計があって、最近こんな意見が目立つ。これこれの世論形成
が見られるみたいだけど、私はこう考えて見た。このほうがずっといい
表現方法ですね。納得。どうもありがとうございます。
「おまえは国民のくせに国民として共有するべき意見や感情を持っていない」
という非難をこめて、非国民という言葉が使われるときがあります。
そういう非難は、ときに暴力に到るほど苛烈なものになることもあります。
それで、自分の感情や意見を語るときに、「国民の……」「国民は……」と表現するのは、なるべく避けたほうがいいのではないでしょうか。
「私の……」「私は……」「多くの日本の人々は私と同じように思っているだろう」といった表現だと、誰かが、「いや、私はあなたと違う考えである」「私は同じ日本に住むものだが、私なりの理由があって違う意見を持つ」といいやすくなるので、穏やかな感じがします。
マスコミの言葉遣いは、意識的に行われているのか不注意に無頓着に行われているのかわかりませんが、ときに、「国民の…」「国民は…」と言っているのと同じ調子になり、ほんとうは誰の意見なのか、誰の感情なのか、よくわからないものを、みんなが共有していて当然だ、と押し付けることがあると思います。
同じように、個人が、「国民の…」「国民は…」でくくって発言するとき、注意しないと、無自覚に、無責任に、自分の意見を共有することを他人に押し付けてしまうと思います。
遅くなりました。
>統計でなぞられるレベルに事実を位置づけると、アンケート調査の間尺ではかれるスケー>ルに事実をはめこむことになる。
統計的過半数ってのはちょいと言いすぎだったかなあ。そこまで厳密なものじゃないし。
統計が統計のレベルでしか事実を位置づけられないのは当然ですが何か?(あ、煽っ
ちゃったごめんなさい)
数量化できる事実(事象といったほうが抽象度が高くていいかな)と事実そのもの
(ある意味混沌)との間にわたしは境界を引いておきたいのですよ。
数量化できる事実:不審船逃走→世論沸騰→再度不審船出現→停船命令拒否→包括的
承認→武力行使→沈没全員死亡
これをどのように解釈するかで議論はあってしかるべしですが、他者の語彙の定義について異議申し立てすることに、生産的な意味が果たしてあるのだろうかというのがわたしの反問です。
>言葉は事実の記述というけれど、事実と言葉の関係はそんなに単純なものではないと思いますよ。
>言葉があって事実が事実のように見えてくる、そんな方向での意味作用もあるのではないですか。
不思議だなあ、こう受け取られてしまうのか。わたしは第一義的にって言ってるんで
すが・・・
イラク戦争でも感じたことですが、戦争という言葉そのものが戦争なので、戦争という実体ってないんですよね。継続的に爆撃していようと、経済封鎖で子供が大量に死んでいても、戦争と呼ばなければないも同然。反戦運動自体が戦争という言葉に依存しているわけですし、よほどの変わり者でもなければアフリカの”内戦”に反対する者なんていませんしねえ。そのあたりの機微を意訳すれば、アフリカ人の死に世界史的意味はない,というところでしょうか。
>なぜ暇がないんだろう。なにか締め切りに追われている事情でもあるんでしょうか(って>嫌味な言い方に聞こえたらごめんなさい。
いえいえ。
避けがたい思想的バイアスを思い悩むのは時間の無駄という意味で、暇がないわけです。
観察事実を自分の偏見から分離し得る具体的な作業に価値はあるが、大問題としてのそ
れは考慮に値しない、ということです。
>(前略)、国際社会や、国内でも様々な価値観を持ったそれこそ「国民」にとって重要と>なる言葉はもっと丁寧に定義と、定義の言葉の再定義を繰り返してゆくダイナミズムの中>に置いて、広く合意をはかってゆく過程がなければならないのではないか。少なくとも
>「国民」という言葉を安易に使うことで、日本国籍はあるのに違う価値観の人を排除する>ような力を、言葉を踏み台として発揮させてしまう結果になるのは望ましいことではない>のではないか。
言葉は定義によって合意の過程をたどれるのか?
言葉を慎重に使えば排除の踏み台を回避することができるのか?
このあたりの有効性、疑問だなあ。無限ループのごときものとしか見えない。
誰かが誰かを排除する主体はあくまでも人と人との関係性であって、ことばの厳密な用法が何らかの抑止力として期待されるというのは直感的にも奇妙に思えます。
>もうちょっと開いた書き方をしてみてくださいませんか。
えーと、バックグラウンドはありません。対句的表現で意味不明になるという悪い見
本でした。こちらこそごめんなさい。
言葉そのものの考察で世界を解釈することと、世界を分類する記述のための言葉は役
割も位相も異なるので、境界で区分します。
前者の考察を開始する条件は、たとえば社会学の言葉とか進化生物学の言葉という考
察範囲の限定です。こんな開き方でいかがでしょうか。
ああもちろん原理的には限定解除もありですが。うっかり境界条件の設定なんて言う
と社会学者に言葉の意味を無化されたりするんでびくびくものですわ(うそ)。
>他には「国体」という言葉の用法の検討とか、思想史的な位置づけとか、いつか一緒にや>ってみたいですね。
はい、「国体」面白そうですねえ。