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LOG123
すみません、きょうはマトリックスとザ・コア見にいってまして、
頭が飽和しています。悪い意味で。
またあした書き込ませていただきます。
あ、それから赤色灯だけでは緊急走行でも何でもないですね。
通報は決して無意味じゃないですよ。工作船撃破に快哉を叫ぶ
わたしでも、恣意的な緊急走行を通報したことがあります。
たとえあしらいが適当であっても、監視されているという事実
だけは当事者に伝わるもんです。
SPAで「あの人は今」企画コメント。問題は・・・また写真だ。過去のSPAの「90年の90人」という特集にぼくも登場しており、そのときに撮った写真を作ってくれたのだが、なんとその写真でぼくは落ち葉に埋もれているのである。ニール・ヤングは霊柩車に乗って登場したが、ぼくは土中から落ち葉をかきわけて出て来てメディアに登場したのだ(まるで啓蟄ですね(笑))。
と、説明すれば、分かるけど、フィルム原寸以下の縮尺サイズで、しかも白黒になって使われた写真で、何が起きているのか分かる人が果たしているだろうか。またまたなにやら分からない人というイメージを加算してしまったように思うのだが大丈夫かな。
↓書き込みありがとう。そうそう、霊感商法のたとえはわかりやすいですね。カルト資本主義の延長というのはまさにそういうことを言いたかったのでした。
それにしても『世界商品の作られ方』は100円ワゴンセールですか(笑)
三鷹駅前の本屋は「第九」っていうんじゃなかったでしたっけ。しぶい品そろえの本屋でしたよね。そういえば、どうなったんでしょう。駅前再開発があってずいぶん景色が変わりましたが、ぼくは三鷹駅は使わないので確認していません。今度機会があったら見てみますね。
ソニータワーに行って来ました。6Fにクオリアコーナーを作るらしい。予定は七月。
女の子達に訊くと、まだ、実際の商品にはお目にかかっていないとのことである。
二百万画素スペックなら、三万円ラインで買えるので、十倍以上の付加価値は何なのか?
教えてと訊いたのです。そうすると、彼女は「多分(実際に彼女はまだ、現物に触っていない)、この商品を持つことで、心が豊かになるのでしょう…」優等生的正解です。
「そうか、『癒し』がコンセプトなのだ」、私が、あまり、癒し癒しと言うものだから、彼女は苦虫をつぶしていた。『女は何を欲望するのか?』の女であれ、男であれ、みんなして、癒しを欲望しているのであろうか?私の中で、クオリアとナショナリズムが結びついてしまった。差異化は排除を呼び込み易いし、そんな短絡的でない多様性で差異化を図る商品開発なら、さすが、ソニーと拍手喝采するのであるが、プライスで先に排除ありの差異的癒しは、やっぱし、おかしい。
「技術のソニーであってみれば、優先順位の一位はスペックの良さでしょう。それなのに、心がどうのこうのと、霊感商法(さすが、この言葉は言いませんでした。本当は言いたかった。)、わかりません、」
私は女の子をいじめたくないので、七月にクオリアコーナーがオープンする時まで、さいならと引き上げました。
心斎橋通りのブックオフを覗いたら、『世界商品の作り方』(アクロス)が百円コーナーにありました。そう、武田さんのウォークマンを作ったソニーのインタビュー記事が収録されていました。スタバで一服しながら、読んだのだが、気に入ったところを引用してみます。
</こうした多様性をはらんだ普及の様式は、たとえばアメリカ発の世界商品の多くと際立った差を示す。たとえばマクドナルドのハンバーガーを考えてみたまえ。モスクワであれ、北京であれ、同じようにハンバーガーを売っている。そこに客の好みが勘案される余地はない。自分のテイストを強引に押し通してしまう強さがアメリカ発の世界商品には濃厚にある。>
ウォークマンを開発した時の心根を忘れて欲しくないですね。ウォークマン、カップヌードルの世界化のあり方は、あくまで、世界各国の地域で受容変容される『器』としての日本商品である。その辺に武田さんはある種の「弱さ」を見ているのだが、やはり、この立ち位置で辛抱強く頑張りたいものです。
赤信号の話は興味があります。私の友人で信号無視して横断する奴がいるのです。注意すると、「俺は左右を確認して横断しているのだ」「確認しないで、青だからと信じて横断する方が余程、危険だ」「問題は安全確認だろう、俺の目を信じて確認しているのだ、あの信号ではない」
成る程、彼の言うことは正しいと思い、実践したが、余計疲れました。
その都度、緊張感を強いられるのです。常に自己責任ですよ。
それより、判断は全面的に信号に任せ、左右を確認しないで、確率論だけ信じて横断する方が、うんと、楽です。
事故っても、信号が青なら、歩行者の過失はないことになるでしょう。
そうそう、友人は歩いている時のことを言っているのです。車を運転中にこんな真似はしないで下さい。
80年頃、下連雀に住んでいたので、あの辺りは懐かしいですなあ、三鷹駅前の九嶺(?)書房はまだありますか?
で、勢い余って訂正。
『癒しとしてのナショナリズム』と書いてきましたが、『癒しのナショナリズム』の間違い。思いこみとは怖いものでこの前なんか間違った方に直しちゃったですわ(苦笑)。
勢いを駆ってもう一本。
吉祥寺の駅周辺で打ち合わせをして外を歩いていた時、いやなものを見た。赤色灯を点灯させながら(つまり緊急走行中であると表示させながら)、なぜか他の一般車のクルマの列の中に警察車両がいた。一応、白黒塗装だが、交通事故の実地見聞とかに出てくるようなタイプのワゴン車であり、そのときも特に急ぎの用もなかったのではないか。のろのろとストップアンドゴーで走っていたそんな警察車両が、前方のクルマとの間に空いた隙間を目指して突然ダッシュした。同時に「そこは横断禁止だろう、なんで分からないのだ」とスピーカーでが大音響でなりたてる。要するに空いたスペースを横断する歩行者がいて、それを注意するのと同時に車両はその人にむけて鼻先を突っ込むために急発進したのだ。警察車両にしてみれば威嚇のつもりなのだろうが、歩行者がすばやく身をかわしていなかったら接触もしそうだった。
確かに横断歩道は信号もある別の場所にあり、のべつまくなし歩行者が横断したら危険だというのは理解できる。しかし横断禁止の法規はそもそも歩行者の安全確保のために作られたはずであって、そんな法規の遵守を促すために歩行者をひき殺してももいいというのはどう考えても本末転倒である(ちなみにナンバーは多摩せ88ー4887だったと記憶する。危険な運転をする車両を見かけた場合は通報をと警察では提唱しているので通報してやろうかと思ったが、適当にあしらわれるだけだろうから、ここに書いてウサを晴らす)。ちなみにその場合も、警察車両が急発進しなければ、歩行者の横断はまったく危険はなかった。
いや、わざわざ書くほどもない、つまらない話である。気にくわない歩行者にクルマで突進して威嚇するような反射神経を備えた人はある比率いるのだろうし、その中から警察官が出るのも確率の問題なのかもしれない。しかし色々な意味で社会のたががはずれてしまった感じがしていたので、何かいやな符合のような気もした。少し飛躍するけれど、たとえば銃を持つことの恐れと、銃を持てることの快感は、実際に銃を持っている警察官や自衛官の間でいまどのような配分になっているのだろうか。有事法制やイラク新法はその配分を買えるのだろうか。銃と言えば、マイケル・ムーアはコロンバイン高校の乱射事件とユーゴ空爆が同時に起きたことに注意を促そうとしていた。もちろんこれは偶然である。しかし、たかが偶然の中に、偶然を越えた意味を見ることが必要な場合もあるのではないか。コロンバインの場合や、ぼくが目撃したケースがそうかどうかはもちろん考える余地があるが。
書き込みありがとうございます。今のソニーは名声が欲しくて欲しくてしょうがないのではないでしょうか。神話に飢えているというか。
二〜三日で1600字の書評って速いですよ。ぼくはまねできない。うらやましいです。
心斎橋のソニータワーの会員になっているので、二百万画素でありながら、三十八万円もするデジカメなんて、驚きです。私は暇過ぎる国民の一人なので、これから、ソニーに行ってひやかしてこようかな。ショールームの女の子達はこのオヤジを歓迎してくれるはず。ついでに同じ館内にあるスタバで珈琲を喫して武田さんの替わりに怒ってきますよ。
しかし、ソニーの想いもわかります。私が東京からこちらに引越しして、学生時代、なじみの心斎橋をぶらついて驚きました。専門店が歯が抜けたようになくなり、百円ショップ、ブックオフ、ゲーセン、パチンコ屋、ファーストフード、諸々で人の流れはラッシュアワー、これじゃあ、専門店は悲鳴をあげる。商店街の店主達が危機意識を持ち、大丸を中心に御堂筋側に海外ブランド店を誘致してソニータワーとまずは、有象無象からの侵入を防ぐために極端な高級化路線街づくりを戦略として採用したその文脈にこのソニーのデジカメがあるのでしょう。
しかし、日々更新する製品で手作りコンセプト(アート)と、度の様に折り合いをつけるのか、野次馬的な興味があります。そのことを女の子に訊こうかな?
私の近くで、量販店の電器屋が撤退しました。駐車場も広く、地下一階と一階と建物も使い勝手が良く、商店街の中心に位置します。どんなテナントになるのだろうと、興味がありましたが、なんと、建物全部、ブックオフになるのです。同じ街通りに古本市場があるのにもかかわらず…。
去年、この街で大きな本屋が撤退しました。新中古書店は頭打ちかなと思っていたが、まだまだ、エネルギーは残っているのですね、でも、急ブレーキーがかかる予感がする。単なる低価格路線はマクドナルドで限界があると、証明されました。そのような危機意識がソニーにはあるのではないか、ソニータワー大丸エリヤから、心斎橋商店街は有象無象を相手にしない金に糸目をつけない可処分所得の高い人々で囲い込み、差異化を計った商店街つくりに方針転換したのか。この眼で確かめて来ます。
『いま、抗暴のときに』の書評ですか、私もbk1に投稿書評しています。http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_rev.cgi/3ce49383b4c4d0106b76?aid=clp&bibid=02322586&volno=0000&revid=0000217344
『癒しとしてのナショナリズム』は同じ作者の『民主と愛国』を読了してからと、思っている。別の本を読みながら、ゆっくりと、「民主と愛国」の頁をめくっているので、まだ、読み終わったいないのです。最近、『おじさん的思考』の内田樹が気になって、今、読んでいるのは『女は何を欲望するか?』(径書房)です。村上春樹の『海辺のカフカ』でカフカ少年が四国の古い図書館に住み込むことになり、そこへ、二人のフェミニストがやってきて、「文化公共施設のアクセスの公平性」について異議申し立てをする場面がありますが、そこへ、図書館員である大島さんがそのようなフェミニズムの検閲的なマナーに対して、ラジカルに反論を試みる。言ってみれば、その大島さんに接続して内田樹はこの本を上梓したみたいである。
丁度、この本の中で(83)、/読みに先立って、「主体」が存在するわけではない。読み手の主体性あるいは「アイデンティティ」は、テクストを読みつつ「形成される」。/「主体は、世界のうちに属するのではない。それは、世界の境界なのである」というウィトゲンシュタインの言葉は、おそらくこのような事況を語っている。主体とはあらかじめ自存するものではなく、臨界体験がもたらす「境界」感覚の効果の他ならない。
Pochiさんの「境界」はどんな境界なのか、私も聞きたいです。
タイミング良く、この本の頁が眼に入り、引用してみました。
そうそう、暇人の書いている私の書評は抜き身の真剣で攻撃されると困ります。「馬鹿、言ってらぁー」の軽い気持で読んで下さい。2,3日の間隔で千六百文字投稿書評を宿題と課しているのです。読んで、書く。書いて、読む。その身体リズムを楽しんでいるのです。
書評を書くために読んでいる辺見庸『いま、抗暴のときに』から再引用。忘れないうちの覚え書きとして。辺見はポーランドの詩人シンボルスカのインタビューからこんな言葉を引いていた。「どの世代にも二種類の人がいる。<個人としての魂を持つ人>と<自分独自のではなく、集団的な魂を持って生まれる人>だ。(後者の)一部は殻を破って個人としての考えを形成する。だが、努力がいる。残りの人は引き続き、権威や手段への帰属を切望する」。
もうひとつ高橋和己の『孤立無援の思想』の引用も孫引きする。今、行われている戦争(ベトナム戦争の時代だった)についてどうのこうのと解説していても無意味である。それよりも「むしろ日々泥土の内に死んでゆく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望をかみしめることのほうが有意義である」という高橋の言葉を辺見は引く。そういえば高橋和己っていたなぁ。
書き込みありがとう。ソニーについて書いていたので順番がずれていますが。
いくつかコメントさせて頂きます。
>わたしにとって言葉は第一義的に事実の記述です。国民とは国家を構成する人間の総体>で、統計的過半数と同義の主語として用いました。
国民とは国家の構成する人間の総体というところまでは分かるけど、統計的過半数というのは何でしょうか。工作船攻撃にカタルシスを感じた人、北朝鮮を許せないと感じた人?文脈からするとそう読めますが、そういうひとが国民の過半数に達したと、どこかで調査結果でも出ているのでしょうか。メディアがふりまいている「なんとなく」の多数派気分ではないですか? あるいはもしかして新聞社とかで意識調査とかしていましたか? 見落としているかもしれませんが、たとえもし、そうだとしても統計は事実をなぞるものではないでしょう。いや、別に間違っているというわけでもない。統計でなぞられるレベルに事実を位置づけると、アンケート調査の間尺ではかれるスケールに事実をはめこむことになる。言葉は事実の記述というけれど、事実と言葉の関係はそんなに単純なものではないと思いますよ。言葉があって事実が事実のように見えてくる、そんな方向での意味作用もあるのではないですか。
>集団的意思の観測事実と願望はしばしば混同され、むしろそれは常態ですが、そこに逡>巡する暇はありません。
なぜ暇がないんだろう。なにか締め切りに追われている事情でもあるんでしょうか(って嫌味な言い方に聞こえたらごめんなさい。「締め切り」を具体的に想定しているのなら、それこそきちんと言語化してほしいですね)。
>記述としての言葉は相互認識の道具として、数行の定義の範囲で語られるものだと思い>ます。
揚げ足取るわけではないけれど、その数行の定義も言葉でしょう。日常会話は、たとえばそれこそ八百屋の店頭で言葉を野菜に換えて夕食に間に合わせなければならない、あまり暇のない状況があるので、無定義語とか、地域共同体内で習慣的にごく簡単に定義されている言葉を使ってすまされるケースが多いですが、国際社会や、国内でも様々な価値観を持ったそれこそ「国民」にとって重要となる言葉はもっと丁寧に定義と、定義の言葉の再定義を繰り返してゆくダイナミズムの中に置いて、広く合意をはかってゆく過程がなければならないのではないか。少なくとも「国民」という言葉を安易に使うことで、日本国籍はあるのに違う価値観の人を排除するような力を、言葉を踏み台として発揮させてしまう結果になるのは望ましいことではないのではないか。
>国民という言葉が持つ各人各様の歴史的コノテーションすべてを配慮することは不可能>ですし無意味ですらあります。
すべてを配慮することは確かに神さまでもないかぎり不可能でしょうが、配慮しようとすることは微力な人間にも可能だし、意味もあると思いますよ。コミュニケーションの否定と言うより、そうした作業を社会(共同体ではない)の中でしてゆくことこそコミュニケーションの名に値するように思います。このあたりの認識の相違も「暇がない」ということと関係があるのでしょうけど。
>ある言葉についての世界解釈と、世界解釈の記述言語とは明瞭に区別しています。
>前者の場合なら、わたしはまず境界を設定し、自分の主題を提示するでしょう。
ごめんなさい、これはよくわからないです。ぼくはソシュールとかウィトゲンシュタインの用語法の延長上に展開された考え方だと、昔よく読んできた経験があるので分かるようなのですが、これは別の用語法システムなのかもしれないですね。
もうちょっと開いた書き方をしてみてくださいませんか。
あと前にも書いた『癒しとしてのナショナリズム』、ぜひご一読を勧めます。他には「国体」という言葉の用法の検討とか、思想史的な位置づけとか、いつか一緒にやってみたいですね。
(0:27に書名など修正)
なんか危なそうだとは前から思っていたけれど、ついにというか・・・。
ネーミングは脳科学の用語だが脳科学とはなんの関係もない。いくら系列の研究所のスタッフだからといって、そんなネーミングを許してしまう命名者の脳科学者も脳科学者だし。こういうことも斉藤貴男がカルト資本主義で指摘した問題点の延長上にあるように思えてならないし。なか色々考えさせられる展開である。
http://www.sony.jp/CorporateCruise/Press/200306/03-0610A/
200万画素のデジカメが38万円ですぜ。値段という「情報」で差別化する方法は誰だって考えつくが、やりたくてもたらずにいるところがコンシューマー商品メーカーの最後の良識だったのではないか。現物を見ればきっと作り込みの良さは認めることになるのだろう。素材の良さもね。でも電気製品、それもデジタル技術を利用した製品でそこまで作りや素材の良さを追い求め、そのまま正札に反映させることの意味はどこにあるのだろう。技術的にはすぐに古色蒼然とする。それでも持つ価値があるとすれば、骨董品になるということだ。骨董品を作るつもりだったのだったら最初からそう表明すべきだろう。
わたしにとって言葉は第一義的に事実の記述です。国民とは国家を構成する人間の総体で、統計的過半数と同義の主語として用いました。集団的意思の観測事実と願望はしばしば混同され、むしろそれは常態ですが、そこに逡巡する暇はありません。
記述としての言葉は相互認識の道具として、数行の定義の範囲で語られるものだと思います。国民という言葉が持つ各人各様の歴史的コノテーションすべてを配慮することは不可能ですし無意味ですらあります。極言すればコミュニケーションの否定に近い。
ある言葉についての世界解釈と、世界解釈の記述言語とは明瞭に区別しています。
前者の場合なら、わたしはまず境界を設定し、自分の主題を提示するでしょう。
海上保安庁の警備艇が北朝鮮工作船に武力行使した時に感じるカタルシス。たとえば朝日の従軍記者も米軍がイラク軍を撃破したとき、快哉の声を上げてしまったと書いていた。このふたつに同じ種類の欠落があるのではないか。
市民運動主催の講演会に出かけた時、会場にいたアメリカに留学したという学生が、アメリカの片田舎でいかにイラク戦争従軍兵が英雄視されているか、それをいかに自分は不気味に見ていたかを語ってくれた。うまいコメントガできればよかったけど、ぼくは言いよどんでいたと思う。その不気味さは、白装束の集団に多くが感じただろう不気味さとどこか通じるものではないのかと思った。その不気味さを対象化し、そこに言葉を与えることがなければ、白装束集団に強制捜査をかくもあっさりと行い、何も出なかった後も釈明も反省もなしにすませている当局と、そんなことなどもう忘れてしまったメディアと同じ場所に留まることになるのではないか。
しかし言葉にするといっても・・・・。たとえば「国民が許さない」と表現することの易さと、「国民」という言葉ですべてをくくってしまう暴力の深遠さとのあまりにアンバランス。
辺見庸が佐藤栄作に抗議して抗議文をしたためて焼身自殺したエスペランティスト由比忠之助のことを書いている(『いま抗暴のときに』)。抗議の自殺についての大宅荘一の言葉。「由比老人の抗議文の内容は、現在日本の大多数が痛切に感じていることばかりで、いわば国民の常識であり、良識である。それを焼身自殺という異常な形で表現した由比老人の役割を私は高く評価するものである」。あっちの国民はダメでこっちの国民は良いといったら元の木阿弥だ。あっちの行動はダメでこっちの行動は尊いというのも。
土曜日に話したことがきっかけになって言葉と行動について考えている。
珍しく事前に告知します。
たぶん戦争報道関係の仕事はこれで最後。市民運動主催の場に出るというのも珍しい。若い人の意気に感じちゃう性格は変わらない。しかし当日までずっと仕事べったり、終わった後も徹夜で原稿だーっ。で、体力が残っていればいいんですが。これはまたリゲインだな(笑)。
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戦争報道とプロパガンダ
〜『戦争報道』著者 武田徹講演会〜
現代の戦争とは、ジャーナリズムがそれを「戦争」として報じる事で始まるのだ。それ
までは、いかに爆撃が行われていても戦争ではないらしい。戦争を戦争として承認する
役割を担っているのは、今やジャーナリズムなのだ。
(『戦争報道』より)
日時: 6月7日(土)
18:15開場、18:30開会
20:30終了
入場料:500円
場所 :神奈川県民活動サポートセンター403号室
(神奈川県民センター内)( 045-312-1121)
主催 :PEACE☆WALKER Email:peace_walker2003@yahoo.co.jp
URL :http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Oak/1600/
葉っぱ64さん、書評も書いてくださったんですね。ありがとうございます
bk1で24時間配送可能ということは、これはbk1の倉庫在庫です。今にも切り刻まれようとしている講談社の在庫よりはやや安全な場所にありますが、これも売れなければいつかは版元に戻って断裁されるのでぜひ少しでも多くの人に救ってほしいですね。
てるてるさん、さっそく行動してくれてありがとう!!隔離という病で紹介した荏原病院の高度隔離病棟は、そこに書いたことの間接的な影響もたぶんあったと思いたいところですが、廃棄されました。今、SARSの指定病院は陰圧設備と前室がある程度の設備のはずで、潜水艦のハッチをあけて入るようなものすごい病室には入りません。
「隔離という病」、前に図書館で借りて読んだのですが、絶版にされると聞いてあわてて注文しました。
もしもSARSに感染した患者さんが飛行機中で発熱して日本の空港に着いたとわかったら、あの本で紹介されていた隔離場所に、入れられたりする? 他の乗客も?
なんて想像してしまいました。
SARSではそういうことはなくても、いつか誰かが入れられるのだろうか? と思うと、ちょっとこわい気がします。
『隔離という病』は先日、bk1に投稿書評したときは、在庫が非在庫になっていましたが、武田さんの書き込みで気になり、クリックしたら、24時間OK!のフラッグがついていました。ということは、bk1が仕入れたことになりますね、私の拙い書評付なので、ここに貼付けて、みなさんの眼に晒す恥ずかしさはありますが、在庫データーの情報公開という意味で書き込みしました。別段、bk1と利害関係はありません。
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_rev.cgi/3ce49383b4c4d0106b76?aid=clp&bibid=01455164&volno=0000&revid=0000212426
ところで、武田さんの当初の試みは「核論」「偽満州国論」「隔離という病」を合作したテーマーで一冊本として上梓するつもりだったはずですので、この際、初志を貫いて三冊を通底するテーマーで新しく挑戦して下さい。
講談社から『隔離という病』を品切れにしたいという通知が来た(事実上の絶版)。SARSの流行を前に一番読まれるべき本という自負があったが残念である。
講談社も月に何億円も維持費がかかるビルを造って、売れない本の在庫まで抱えているのは大変なのだろうというのは嫌みですね。いや、でも本当に第三種郵便が取れているのも、再販制度が認められているのも出版が公共的な文化事業だと考えられているからであって、経営を圧迫することが一目瞭然の金食い虫のビル建てるんだたら、もう少し他にやるべきこともあったんじゃないか(って、結局、同じこと二度も書いているじゃん。そんなにショックだったか>ぼく)。
ま、それはそれとして、この本は今後は店頭在庫だけになる。で、買いたいひとは最後のチャンス。出来れば店頭在庫を探すより、講談社の社内在庫から一冊でも買い上げて断裁から救い出してほしいというのは生みの親の願い。
あと、これはかなわぬ思いだとは思うけれど、どっかで出版をひき継いでくれないかなぁ。SARSルポ一章書き下ろして、更に別企画で「戦争報道2」をつけてもいい(テレビショッピングみたい)。
書き込みありがとう。しかし人間って言うのは、慣れとか、職業意識とかで、いろいろ出来てしまうようですよ。やっている内容がそれぞれ違うだけで。
というより、こんな思いまでしてやってくる覚悟への恐れも、あったような気がします。
SPA!に、工作戦展示の見学の記事が載っていました。
神足祐司さんのコラムです。
沈没させることを決断した海上保安庁に賛辞を送りながら、一方、日本海を渡ってきた北朝鮮の人の、船の中での生活に思いを馳せ、生身の人間としての惻隠の情とでもいうのでしょうか?
そんな感情を寄せていました。
「工作員」としての行為にはまったく共感できないどころか敵意を持つが、それは当然だと私も思いますが、人間としての、あるいは、相手の勇気や国家への忠誠心への、悲しみというか優しさというか。