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LOG122
pochiさん、書き込みありがとう。恐縮して頂かなくて全然いいんですよ。
先の書き込みは内容はともかくとして、ぼくが気になったのは「国民」という言葉使いでした。蛇足ながら。ちょっと考えたいところですね。
Pochiです、こんにちは。
先日はいきなり偉そうなことを書いてしまい、恐縮しています。
きのう船の科学館に行ってきました。
工作船には献花がありましたが、第二会場の展示物には
人の死を想起させるものは慎重に排除されていました。
わたしはダイビングをやりますが、骨董品のような機材で
深夜日本の沿岸に上陸しようとする工作員の姿を目に浮かべる
ことができます。彼らの人生に思いを致すことでささやかな
弔意を示し、会場を後にしました。
今乗っているクルマはもう13年落ちで、実は乗って三年目ぐらいから次は何にしようとよく知人と話していた。で、今にも買い換えそうだったのにそのまま13年間同じクルマに乗っているのだから、ぼくはすっかりオオカミ少年である。
で、最近も買い換え願望が高まっていて、雑誌やWEBはよく見ているのだが、次期車種選びの最大の条件は長く乗れること。できれば10年は、古くさくならずに乗りたい。国産のほとんどやBMWとかは、どうも古くなるのが早い印象がある。デザインの問題か、イメージか。そこで、10年後にどうなっているか想像しながら次のクルマを探そうとしてカタログとか見ているんだけど、そのときふと思った。今、10年後も乗れるクルマっていう考え方自体もしかしたら意味がないのではないか。
2013年に石油ってどうなっているんだろう、環境問題はどうか・・・・とか考え始めると、今のクルマが、たとえデザインや記号性が古くさくならなくても、そのまま走っているとは思えない(今と同じように280psのガソリン車がぶいぶい走っているようだったら逆に怖いかも)。クルマはどう考えても今のままではすむまい。ということは、もう10年乗れるクルマなんかないと考えるべきなのか。たとえ秋に出る新しいプリウスを買っても、それでもとんでもなく旧式になってしまう時代が遠からず来てしまうんだろう。
そう気付いてみると結構つらいことだと思った。誰だって車を買うときは、今度こそ長く乗るぞと思うだろう。たいていは途中で気が変わってしまうけれど。しかし現在の世界情勢ではそうした考え自体が成り立たない。いやがおうにも変化を強いられる日が遠からずしてくる。今日と同じように明日がきて、明日と同じようにあさってがきて・・・という繰り返しがどこかで破綻する。そんなことを考えるようにぼくたちの社会は出来ていなかった。だから平気でローンを組んでとか出来たわけで。
家の近くを井の頭通りが走っていて、クルマが行き来する。この景色も見納めなんだなぁとか思ったりする。気が早すぎますか?
毎日新聞によると
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長野県本人確認情報保護審議会(会長・不破泰信州大教授)が28日に発表した中間報告では、長野県下の27自治体で、住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)とインターネットが物理的に接続していたことが明らかになった。また、これらの自治体について同審議会が改善を求めたが、1カ月以上が経過しても予算の関係などから改善措置がとれず、問題が継続していることが報告された。 住基ネットは、データ共有やデータ連携の関係から基幹系ネットワーク(旧住基システム)と接続され、ファイアーウォール(FW)やルーターなどを介してセキュリティーを確保しているとされる。しかし報告では、基幹系ネットワークと情報系(メールや掲示板、グループウエア)ネットワーク、情報公開用サーバーが稼動する公開系ネットワークなどが複雑にからみあい、セキュリティー上の問題がみられた。・・・・
審議会では、吉田氏を中心に、今後県内でセキュリティー対策に必要な費用を試算した。県内の大規模自治体(5ヵ所)が必要とする監視費用を月間120万円(住基側監視40万円、インターネット接続側80万円)、小規模自治体(115ヵ所)で同60万円(30万円、30万円)などと想定。今後5年間のネットワーク監視にかかる費用は、平日午前9時から午後5時までの場合で、累計で66億8400万円。24時間365日の場合で83億5300万円に達するとしている。・・・・
報告では、「ネットワークの安全性を高めるために膨大な運用監視システムを追加投入するのがいいのか、このまま安易な手抜き運用を続けるのがいいのか、無駄なシステム運用をとめるのがいいのか」と問いかけ、こうした試算も踏まえて住基ネットからの離脱を勧告している。http://www.mainichi.co.jp/digital/network/archive/200305/28/2.html
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色々な解釈が可能だろうけれど、ぼくはシンプルに。出来ないことをやるから失敗するのだと思っている。住基ネットは全部専用線で組んで。専用の端末を買って、システムを新規に構築して、更には運用の公正性や、漏洩の有無を的確に調べるために第三者機関を設置して・・・とやればいいんだけど、そんなこと出来ない。出来ないんだったらやらないほうがいいと。単純な話ではないか。この場合は、やってみたけれど出来ないからやめますでいい。君子豹変す、は本来はいい意味なんですよ。長野はそうしようとしているようだが、とても健全な行政の在り方だと思う。
総務庁は住基ネットは安全であり、いたずらに不安をあおる報告はけしからんといっているが、ならば全国のハッカーが総力をあげて住基にアタックしてみる日を作るというのはどうか。片山総務長官のプライバシーがどこまで取れるかコンテストとか。政府は安全性に自信があるんだろうから、やれるものならやってみろと、ハックされた情報を公開するWEBも作るといい。
で、この場合、参加者は匿名で参加できることとし、結果発表後も優勝者の追跡調査などはしないと公言する。こうしてハッカーだけでなく、役場などの窓口職員(住基ネットにアクセスできるひと)のナイショの参加も可能なようにする(個人情報が漏洩されるシチュエーションを広くカバーすることが必要なので)。で、優勝賞金をきわめて高く設定する・・・。さぁて誰が勝つだろうか。
pochiさま、書き込みありがとうございます。
話は変わりますが、今日、書評を書く予定の小熊英二・上野陽子『癒しとしてのナショナリズム』を読みました。タイトルは本文中にも引用のある大塚英志『戦後民主主義のリハビリテーション』の一節に喚起されてつけられたものだと思います。内容的には小熊氏が前書きで書いている以上でも以下でもなく(つまり自分の共著書について正確な評価をしていると思いました)、瑕疵はあるが、草の根保守運動の実証的研究が非常に少ない状況の中で、参与観察の手法を駆使して、その具体的な在り方をイデオロギー性とは距離をおいて描き出したところに価値がある(と小熊氏は評している)、上野さんという小熊氏の指導学生の論文が核になった一冊です。ぼくも、確かに先駆的な実証研究としてひとつの成果は出した仕事だと思いました。
初めて投稿いたします。
今現在の北朝鮮報道の歪みは、過去の歪みの反動という意味で、歴史的皮肉以上の何物でもないというのが両国関係の推移を見つづけてきた者の素直な感想です。かって拉致などありえないと問答無用で断言してきた者は議論すら拒否しました。逆風に変わったから議論しましょう、考えましょうと言い出して誰かが相手にしてくれると思うとしたらあまりにもご都合主義。
マスコミが日本財団に突っ込みを入れないのは、かって朝鮮総連に突っ込むことができなかったのと同じ構図でしかなく、出稿先や圧力団体に弱いマスコミの商人(あきんど)口など、いまさらの感はいなめません。はっきりしているのは工作船には武力行使も辞さないという上部決定が正当防衛行動を実現させたので、正当防衛の法的議論で決着できる事項ではないということです。
二度と工作船を逃がすことを国民が許さなかった。あえて誤解を避けずに言えば、国民は法の整合性のために生きているわけではないということを実証した事件だったと思います。それは危険でもあり、当然の反応でもありました。わたしもあの武力行使に爽快なカタルシスを覚えたことを隠すつもりはありません。市井の感想としても少数派ではなかったでしょう。まあ工作員も立派に戦死したわけで、その弔意は胸のうちにとどめ、拉致に関わった過去の(?)いきさつに鑑みて、あえて追悼の意を表明すべきではないのでしょう。ものには限度というものがあります。
ぼくも、不慮の死を悼むような、より普遍的に共有され得る感情が、押し殺されたり、特定の方向に向けられる雰囲気というのには違和感があります。ハルバースタムが「死者に涙する人間でいたい」と書いていたのもそれに近いものだと思う。
>裏切り者、売国奴、非国民、といった非難を受ける
しかし・・・・、こういうのは何度繰り返されるんでしょうね。でも言われた方も今までと同じ批判の論理や反発の感情で対峙していたら、やはり建設性なき反復に寄与してしまうのであってだめだと思う。
この際、どこの国であれその国を敵国とみなすことの是非はともかく、
それとはっきり知らされず、いつのまにか、敵国、交戦国としての
言葉遣いがマスメディアで流通し、それが標準となり、そこからはずれた
言葉遣いをすると、裏切り者、売国奴、非国民、といった非難を受けるか、
あるいはそこまで露骨でなくても、なんとなく警戒されるようになるとか、
いうことが起こってくると、ほんとうにこわいと思います。
以前、北朝鮮に拉致された方々が日本に帰ってきたとき、その方々の北朝鮮にいるこどもも日本に「帰国」させるべきというのは、おかしいと思いました。
北朝鮮で生まれ育った人にとっては、どういう経緯があったにしても、また北朝鮮がどんなにひどい国だとしても、北朝鮮が生まれ故郷だから、「来日」とか「訪日」とかいうべきではないのか、と、ある掲示板で述べたら、
北朝鮮の拉致犯罪を隠したがるのか、拉致被害者のこどもが北朝鮮に住むことを理想と考えているのか、と批判されて、そういう批判のしかたが、意外で、非常に狭量だと思いました。
何回かそこの掲示板に書き込みましたが、結局、同じような批判の繰り返しだったので、別に、森岡正博さんの掲示板に行って、拉致被害者のことなどの話を続けましたが、そのとき、武田さんなら、このことについて、どういう意見をおっしゃるかな、というのも、話題になりました。
その当時、こちらの掲示板では話題になっていなかったので、到頭、お聞きしませんでしたが。
奄美沖で沈没した工作船が船の科学館で公開されるとのことで、さかんにニュースで報道されている。いくつか気付いたこと。
まず船の引き取り手がなぜ日本財団で、船の科学館なのかよくわからない。たとえば引き上げの経費負担とかももしかして日本財団が出していたのか。決して色のない財団ではないはずで、メディアがそのあたり何もコメントしないのはどうなんだろう。
あと工作船への射撃に際して「正当防衛」を頻出するのも気になる。当事者の海上保安庁が自分達の行為の正当性を言うのはまだしも、船の科学館スタッフ(もと海上自衛隊らしいけれど)やメディアまで正当防衛の言葉を軽々に使うのはどうだろう。領海侵犯の事実、拉致や覚醒剤密輸の疑惑があったとして、しかしなお威嚇射撃が正当防衛かどうかは(そうではないと決めつけるつもりはないけれど、まさに文字通りの意味合いで)議論の余地があるのではないか。正当防衛とか自衛という言葉は、常に侵略とか交戦の弁明につかわれるわけで、その使用法に対する一定レベルの厳しさがあっていいと思う。差別用語も問題だけど、この種のクリティカルな用語にも、「なんとなく」の雰囲気で使ってしまうのはまずい。
そして一番なんだかなぁと思ったのは、威嚇射撃で発火した船を消火したリする乗組員の映像が出るのだけれど、彼らはその後、死ぬわけでしょう。自爆、沈没の結果であり、工作員が自ら証拠隠滅のために自分の存在を抹消したと言うことかもしれないけれど(報道ではそう説明されてきた)、すくなくとも死んでいる人がいるのは事実であって、その事実に対して、日本と北朝鮮の関係とは別の普遍的な位相で、弔意を示すような姿勢ってのは、ありえないのだろうか。そうした雰囲気がみじんもない工作船の紹介の仕方は違和感があった。ある集団の構成員に対しては、その死に対して悲しみを持ち得ない。それは裏返せば、その集団を敵と見なし、その殺戮(たとえ自死だとしても、追跡、「正当防衛」の威嚇射撃からの一連の自覚的な関わりがあるわけで、結果に対して「無責任」とは絶対に言えない)を正当的な権利と考える考え方がすでに発動されているということだろうか。他の主権国家構成員の殺戮が正当化されるのは戦争においてであり、その意味で心理の次元でもう戦争は始まっていると言うことをこんな報道の用語法や「構え」の端々から読み取るべきなのだろうか。
イラク戦争もあれを戦争と呼ぶべきかどうか、戦争はブッシュの第一撃をもって始まったと考えるべきかどうかはもっともっと考えられて良かったと思うけれど、今度、戦争の定義をきちんとしないといけないのは、他でもない日本国の我々なのかもしれない。イラク戦争もまともに報じられないまま、当事者になっちゃう皮肉。
>その立ち位置で「奉私」をすれば、「奉公」になると、信じてもらいたいものです。
>滅公奉私=アナーキー、滅私奉公=ユートピア国家、どちらも住んでみたくない場所で>す。奉私奉公の場所に住みたい。
滅私滅公でないところがいいですね。
「雪印食中毒事件判決」が出ましたね。この事件は「滅私奉公」の40年(無責任)体制が崩壊し、実のところ、「滅私は滅公である」という真相があらわになってきた象徴の事件に思われます。
「奉私奉公」によって、「私」は矜持を持った独立の個であって始めて、「奉公」が可能であって、「滅私」からは、ルサンチマンの怨念しか分泌せず、「滅公」になるのは当然だと思うが、「滅私奉公」で日本が繁栄したのも、事実だし、その秘密はなんだったのでしょうか?
武田さんの言うように、ジャーナリストを志す若い人は「居場所感覚を持たないラディカルな不偏不党ぶり」を規範とすべきであって、その立ち位置で「奉私」をすれば、「奉公」になると、信じてもらいたいものです。
滅公奉私=アナーキー、滅私奉公=ユートピア国家、どちらも住んでみたくない場所です。奉私奉公の場所に住みたい。それは居場所感覚のない場所かもしれませんが…。
私は金融音痴なので、よう分からないのだが、今回のりそな銀行の公的資金導入は株主は責任を負わないのですね、私の知人で48円で買ったのが、68円になったので売って儲かったちゃったと、本当に素人の家庭の主婦が喜んでいた。株価上昇でその奥さんは新しいノートパソコンが買えました。従業員の給料は30%カット、ボーナスゼロ、株主はルンルンと、日本経済は摩訶不思議です。誰かかようなこんがらかった糸を解きほぐして説明して下さい。預金の全額保証は分かるのだが、騒動の御陰で儲かってしまうシステムは良いことなのでしょうか?まあ、株の株たる所以かも知れません。
今や就職活動は大学の授業を休む公認の理由となっていて試験直前に「全然授業は出られなかったんですけど・・・」云々と平然と言ってレジメとか資料の残りをもらいに来る学生があとをたたない。ぼくは欠席は個人の勝手だと思っているし、出ないとすごい損するような授業をしているつもりなので、出られない学生をむしろ哀れむが、学生の方は全然損したという意識はないし、もとより欠席してすまなかったという感覚もない。3年後半から彼ら大学生が就職活動しているという状態よりも就活生が大学にもちょこっとだけ所属しているという状態になっているし、大学のほうも私学だと燦然たる就職先企業名を入試案内で謳えることは受験生増加に繋がるので就活の公式行事化を肯定している。
そんな学生を見ていて一番変化を感じるのがマスコミ志望学生である。ぼくの同期生たちが新卒で就職活動していた頃はマスコミは就職協定をまだ律儀に守っており、他の企業よりも試験がむしろ遅かった。ぼくより上のマスコミ人に聞くと、むかしはもっと遅かったようだ。今やマスコミ大手ほど早くから試験やら面接やらをやっているのと大きな違いだ。
ぼくはこのマスコミの採用期間の前倒しは絶対によくないと思う。上の世代のマスコミ人で出来る人ほど、どこの就職試験もひっかからずに4年の最後の最後でマスコミに拾って貰ったという話をよく聞く。この、全て落ちてマスコミへという過程は案外と積極的に評価できるのではないかと思うのだ。それは要するにどの企業の人事担当者も身内として迎えたいと思わない、共感できない、仲間にしたくない人材だったということだろう。
どこにも(自分の所属機関すらにも)居場所感覚を持たないラディカルな不偏不党ぶりこそがぼくはジャーナリストの必要条件だと思うが、その意味でどの就職試験も落ちたと言うことは、誰からも(特に企業社会側からは)居場所を与えられない、一蓮托生の仲間になってくれると思えない埋めがたい隔たりを感じさせる、ジャーナリストとしては願ってもない「資質」があると誰もが評価したと言うことにもなる。そんな人材をメディアが採用することで、結果として第三者的な立場で取材に当たれるジャーナリストがマスメディアで働くと言うことにかつてはなっていたのではないか。
採用期間が前倒しになっているのは優秀な人材を他に採られないうちに採りたいという焦りの産物だろう。しかし逆に他社の採用試験を逸材をふるい落とすフィルターだと考える逆転の発想はありえないだろうか。
暴論のようだが、実際、学生を見ているとそんな必要をふと思う。如才ない、器用な人材が早くから内定を取り、大手マスコミにも入ってゆく。しかしそんな学生が果たして自分の視点を愚直なまでに貫いた仕事が出来るかというと不安なところもある。器用に立ち回りながら、その日その日で軸足の定まらない仕事を繰り返すのではないか。
で、むしろどこにもひっかからないような学生の方が見所があるように感じてしまうのだ。少なくとも彼らには評価されないつらさを知っており、人間の弱さを知っている。メディアは権力である以上、弱さの自覚はジャーナリストとしてとても大事なのではないかとも思うのだ。