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個人情報 投稿者:武田徹  投稿日: 5月26日(月)12時03分03秒

個人情報保護法案が国会で可決されたことは周知の通り。今回は世間的にも盛り上がりに欠けて、それについての原稿依頼も一本しかなかった。もちろん吉岡忍さんとか斉藤貴男さんとか、熱心に取り組んでいた人はそれなりに取材を受けたり、寄稿したりの活動をされていたようだが、ぼくのようにあくまでもメディア論の立場で個人情報問題「も」扱っているところまで原稿依頼が回ることはなかった。
で、参院を通過したときも、予想もしていたのでやはりなと思っていたのだが、その記憶も新しい時期にちょっと考えさせられる経験をした。
大手マスコミは執筆者、協力者データベースを持っている。僕自身はテレビ局ひとつと、新聞社二つのデータベースに登録があるはずだ(それについては登録の許諾を求めてくる手続きがあったのでわかっている。もしかしたらそれ以外もあるかも)。で、今回のそのひとつの新聞社から別件でコメント依頼を受けたのだが、あとで依頼するまでの経緯が発覚した。記者はぼくの実家に電話して、ぼくの連絡先を知っていたのだ。これは実はものすごくおかしい。ぼくの実家の連絡先は確かにその登録データベースに入っている。海外にいっていたりする場合に急用が発生したときの手がかりにでもなればと、ほとんど老婆心で登録したデータだ。もちろん扱いは非公開にしてもらっている。
今回、実家にまで連絡が行ったというのはこの登録データを見たのだろうが、実家のデータを調べる以前に、公開している仕事場などの連絡先データがなぜ目に入らなかったのだろうか。これは理由はたぶんシンプルで、単純にうっかりして先に実家のほうを見てしまったとかした結果だったのではないかと思う。そう推測する理由はあって、だってその新聞社はぼくは連載だってしたことがあるし、最近も取材を受けているので、実は個人データベースまで調べに行く必要だってなかった。同僚にきけばすぐに世間で流通しているぼくの連絡先なんて分かっただろう。ネット検索すればメールアドレスだってわかったはずだ(しかし何回書くんでしょうかね、これ)。そういう手間を取れない人ゆえに、たぶんあまり器用なタイプではないのだろうと推測できる。自分がアクセスできた情報以外に眼がゆかなくなってしまうことはぼくにもあるので、人のことはあまり言えないという認識があるし、うっかりしたのだと思っているので本人を非難するために書いているのではない。もっと一般論として考えたい。もしも該当本人(これから取材で会う予定なのだ)が読んだとしても気にしないでくださいね。
で、ここでちょっといやな感じだったのは、非公開のデータでもその新聞社の記者であれば、「うっかり」読めてしまうということだ。うっかりしていたので、それが普段の連絡用に使われていない非公開の情報だと理解しないままに、同僚に教えてしまったりすれば、今度はそこから非公開だったデータが漏れてしまうことは往々にしてありえるということでもある。老婆心なんか働かさなければ良かったと後悔した。
社内データベースを管理する部門は、個人情報管理専門の立場からもう少しアクセスに制限をかけるような姿勢があっても良いように思う。まず公開情報だけにアクセスさせ、それで役に立たなければ調査請求を出させてその妥当性を審査するような手続きをするとか。少なくとも社内の閲覧用データベースが「うっかり」非公開の方に先にアクセスできてしまうようなフォーマットになっているとしたら、インターフェイスの設計が人間工学的にもおかしいということになる。
性悪説に立つわけではないが、そうした「内に対する原則なき公開」が、個人情報非公開の原則に対していかに脅威になるかは、個人情報が警察やNTTから漏洩しまくっていることからも明らかだろう。個人情報が漏洩するもとはデータベース事業者だけでない。個人情報データベースを持っていれば常に漏洩のリスクはある。報道機関もその例外ではない。
個人情報保護法案はメディア規制だと言われたが、取材とか報道とかの王道論の問題を抜きにしても、端的に個人情報保護の問題ひとつとってもメディア機関は問題が山積みだ。それを直そうとしなかったことが、個人情報保護法案の反対運動が世論の支持を得られなかったことの一因であるとは思う。

身体の問題 投稿者:武田徹  投稿日: 5月25日(日)10時14分30秒

大沢真幸・東浩起『自由を考える』を読む。大沢は脂が乗っている時期なのかもしれない。50年代後半生まれ世代の社会学系学者は多くの人材があるけれど、思索の強度ということでは一頭地抜きんでた印象がある。(力の充実があって、加えて世間の些事だとかに忙殺されず、さすがに色々とついてくる自分の評判に甘んじなければ)いい仕事ができるはずの40代を無駄にしていない印象。
バーチャルな妄想集団だったと思われているオウムの身体性への強い依存に注目しているところが印象的だった。この視点は他の論者にもふれられているが、通説にならないのはなぜなんだろう。白装束はどうなのか。

バイオTR−1は出るのが致命的に遅かった。ディスクドライブをつけてもあの大きさ、軽さだったら持って歩けそうだ(DVDの資料とかも今後は増えそうなので、プレゼンでも使うかも。無駄な重さをいつも持ち運ぶ、ゴルフバッグをクルマのトランクに入れ放しみたいな感じはしない)。再来年ぐらいには買うのだろうか。C1時代もほんの数度しか使わなかった内蔵カメラはいらないけど。
LOOX−Tの現行モデルも僅かのタイミングの違いで買いそびれた感じ。こっちはドライブは脱着式で長時間バッテリーと排他使用なので、授業のプレゼン用と出張中の執筆用でジキルとハイド的に乖離するぼくの使い方とよりマッチする。デザインも昔のシンクパッド風で悪くないようだし、インターフェイスも充実したので悔しい。
セントリーノのペンティアムMはどうなんだろうと前に書いたけれど、少なくともTR−1などはスペック上は標準バッテリーで相当使えるように書いてありますな。

次は 投稿者:武田徹  投稿日: 5月25日(日)09時43分19秒

戦争報道関係の仕事もそろそろ一段落する(いったい何本の原稿を書き、中井取材を受けたんだろう。あとは6月始めに市民運動団体で講演。それが最後かな)ので遅れている次の本にかからなければ。今日は午後と夜、二度、パソコンを持って出撃した。またファミレスとスタバを周回する生活が戻ってくる。
次の本といっても、連載まとめ、書き下ろしなどなどいくつかあるんだけど、まずやっつけようと思っているのは、自分の仕事ぶりを省みるような内容のもの。もう少し踏み込んで書くと、調査と表現の技術論。『知の探偵術』が電子ネットを視野に入れていなかったので、その部分を更新するのと、僕自身の表現に対する考え方も変わったので、それを盛り込みたい。
斉藤美奈子に言わせると文章読本には独特の構えがあって「おれもついに文章読本を書くように依頼されるほど大家になった」と言いたいけどけど言わない。けどやっぱり言ってしまったというような・・・、そんな子供っぽさを斉藤さんは笑えるネタとしつつ『文章読本さん江』を書いているわけだが、ぼくはなんとか斉藤さんに笑われないようにしたいと思っている。パッケージは戦争報道と同じく新書だけど、今度は読みやすさに挑戦したいと思っている。さらりと読める内容にしたいのだが、さらりと書けるのかは疑問。
で、その本で一息ついて、出来れば次は書き下ろしに近い形で勝負に出たい。『核論』も某賞にノミネートされていたと聞いていたがだめだったようですな。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 5月22日(木)17時06分56秒

『隔離という病い』を書いていた時点で「世俗化された終わり」と「暖かい義理」の関係は明確に書いていなかったのですが、確かにおっしゃるように積極的に関連づけることで新しい論理が引き出せそうな感じですね。「世俗化」をどう考えるかが難しいかな。宿題です。
SARSの自己申告は暖かい義理(=親しき人のために「えいやっ」と無理をする)の一環となるのでしょうが、今はそれ以前にあまりにも自己申告を巡る環境が貧しくて、自己申告を評価すること自体が難しい。自己申告しなさいというのが他者の権利に介入する危険な言説になりかねないだけのように思います。前に少し書いたSARS関係の『婦人公論』の鼎談が出ているので参考までに。

暖かい義理 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 5月22日(木)00時16分36秒

武田さんの『隔離という病い』における共同体を維持するリスク・マネージメントの尺度として「義理と人情」を持ち出されましたが、人情に基づいた「暖かい義理」は「世俗化された終わり」を前提において始めて実効力を持つものでしょうか?

オウムなり、白装束は「宗教的終末観」を前提においているから、予言が要求されハズレた時のために用意された説明装置が、どうしても必要なんですね。

SARSで、今、一番、有効な方法は自己申告みたいですけれど、自己申告は「暖かい義理なんですかね?」

 投稿者:武田徹  投稿日: 5月21日(水)23時36分28秒

ちょっと「論理」という言葉を安易に使ったかなと。ハズれた予言を内部化するために持ち出された説明装置の共有が共同体を強化するというべきなのでしょうか。白装束の人たちは、ぼくはメディアとの対応を見る限り、それなりの秩序(意味連関性)指向はあるように思った。彼らなりに合理化しているのではないかと。

先週の強制捜査は結局何か出たのでしょうか。何考えているか分からないから査察する、という介入主義だけでなく、代表の女性の別人説まで出て、イラク戦争を巡る構図がそのまま持ち込まれているパロディーのようになっているところがおかしかった。でもそんなことに気付いたり、それをおかしいと思う方がもはや少数派なのか。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 5月21日(水)06時18分04秒

なるほどと思いました。
確かにオウイムも予言ハズしまくっていたわけですよね。予言がはずれた事実を合理化する論理を内部に抱え込んでむしろ強靱な求心力を持つんでしょうか。
確かに予言がはずれてだめになる宗教教団ははじめから浅薄なもののように思います。白装束がどうかは分かりませんが。

予言がはずれるとき 投稿者:本多 和治  投稿日: 5月21日(水)02時22分27秒

お久しぶりです。
SPA!のニュースコンビニエンスはいつも興味深く読ませて頂いています。
予言が外れた時に何が起こるかについての研究を以前心理学の本で読んだ記憶が
あったので、amazonで検索したところ「予言がはずれるとき」という本がありました。
この研究では、予言が外れても集団は弱体化しないという結論だったような記憶があります。
(人数は減っても一部の熱心な信者はさらに熱心になるようです。)特定の事例に関する
研究が全てに当てはまるとは限りませんが、かつてに比べれば心理学が非常にポピュラーになった
のとは反対に、過去の研究を顧みたり、実証的なデータを収集したりすることが疎かになっている
のは皮肉なことだと思いました。

予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する  Keiso communication
L. フェスティンガー (著), S. シャクター (著), H.W. リーケン (著), Leon Festinger (原著), Stanley Schachter (原著), Henry W. Riecken (原著), 水野 博介 (翻訳)

 非常に古い研究であることと特別な人にだけ当てはまる研究というよりも、一般の人の心理を
考える際に示唆に富む研究と受け止められてきたらしいことが興味深く思います。

非論理には非論理を? 投稿者:武田徹  投稿日: 5月20日(火)18時07分06秒

ハンセン病の本を書いていたとき、選挙の際に療養所におかれていた投票箱をいちいち消毒していた話を聞いた。排菌者がもはやいないのにもかかわらず。
台湾医師が乗った電車や自動改札機を十日も経っているのに念のため消毒するのをみてそのエピソードを思い出した。論理はそこにはない。しかし万が一とか、念のためという考え方がある以上、ひとはそれを行う。

ハンセン病の本を書いたとき、元患者とその支援者集団側が論理を失ってゆくことが気になった。ハンセン病の感染力の弱さを強調したいがために、療養所にはたった一人の感染者もいなかったとか平気で言ってのけてしまうようなところが。そうした違和感は核論にも受け継がれている。
しかし対抗勢力である(元)感謝者を恐怖する側が論理がない以上、論理を超えた部分で退治するしかないのかもしれない。SARS対策と銘打って論理を超えたことばかりやっている社会をみてそう思ったりする。いや、仕方がない、では済ませてはならないのだけど。

大月インター 投稿者:武田徹  投稿日: 5月18日(日)22時50分21秒

中央道は拡幅工事が続いているが、河口湖方面に分岐する大月インターもかなり大規模の改修を受けた。拡幅は東名と同じく、上りのみ3車線の新線を作り、下りは旧上り線を利用して4車線にする方法が採用されている。で、東京から河口湖への分岐だが、ここは同じ方法を拡幅に使わず、河口湖方面の分岐線に旧下り2車線を使い、本線下りには旧上り線を使う方法が採用された。分岐路はかなり早い時点で分岐し、河口湖方面への渋滞がのびても本線へ影響しないようになっている。
批判が集中しがちな道路公団だが、ここの下り分岐線の設計はいいと思う。間違える人のために敗者復活の合流箇所を作らなかったことも潔くて良い。一度河口湖方面に出て、また本線に合流できるようにすると、空いている方をつかって先まで行って合流する抜け駆けする輩が絶対に出るので、そこまでやらないほうがいい。
間違えたらもう次の出口まで行って戻る。自分が間違えちゃったんだから仕方がない。これはもう自己責任である。
こういう方法は他にも採用すべきだろう。特殊東京ネタだけど、たとえば首都高のレインボーブリッジ方面から都心に向かった合流は環状線外回り方面にだけゆけるようにして、1号線上りに合流できないようにすべきだ。1号線上り芝浦方面へは大井でその方向のルートがあるのでそっちを使えばいいのだ。一号線へ/からの合流をなくせばここで渋滞が発生する確率は相当減るだろう。首都高都心環状線のように交通量が多い道路では、合流はなるべく多くの方向にゆけるようにするという理想はあきらめて交通量全体を考えたシステム的思考が必要となるだろう。
まだまだ道路に関しては出来ることがある。ゼネコンのためではなく、本当に道路交通のためを考えれば、単に作ればいいと言うことではなく、知恵を使って問題解決できる余地は結構多いだろう。民営化がそうした知恵を出すことへの動機づけを奪うことにならないといいと思う。
道路公団の道路収入が新線開通があったにもかかわらず減ったという報道がなされた。高い通行量が不況のご時世に高速を使わずに済まさせことで交通量を減らすマイナス要因になっていることもあるのだろうが、基本的に交通量自体が頭打ちになっている事情もあるのだと思う。日本はもう人口も増えないし、交通量も増えない。そんな状況で民営化して経営難の会社を作り、りそなのようにまた国営化が検討されるようではばかばかしい。
道路の公共性に鑑み、金をかけずに最低限の道路資産を維持するようなシステム作りを考える必要があるのではないか。
民営化を進める背景に「国はけしからん」的な反抗意識ーーーたとえば吉本隆明『共同幻想論』的なルサンチマンーーーがあって、それが状況の冷静な把握を阻害するようだと危険だ。確かに国は様々にけしからんけれど、だからといって公共的な事業を民間企業が担えると安易に信じるのも早計だろう。必要なのは国のどこが悪く、民間企業だとどこが問題になるのか等々の各論だ。

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 5月14日(水)21時57分13秒

>となると、このメディアはきっと、「日本人の生活・日本経済」に直接影響を与える
>「戦争の現実」は伝えないんだろうな、と思いました。

そうですね。まさにおっしゃるとおり。交通事故報道の現状から推測するに戦争の当事者になったときの報道自粛は思いやられるというか・・・・。911以後のアメリカメディアの偏向ぶりを、対岸の火事のように指摘する人がいますが、日本のメディアが今回の戦争報道で多元ソース化に踏み切れたのは、当事者ではなかったことがなんといってもおおきいと思います。

交通事故の悲惨さ 投稿者:ぴこたん  投稿日: 5月14日(水)10時30分18秒

話は少しずれるのかもしれませんが、
>大量の交通事故を許容している現代社会についての判断を下すことに対して死体を隠すことは阻害要因になることは確かだと思います。
というご意見に共感しました。
勿論、死体を見せることが交通事故の悲惨さを伝える唯一の手段だとは思わないし、被害者や被害者の家族に対する配慮があってしかるべきだと思いますが、それにしても、メディアは交通事故の悲惨さをあまりにも「伝えていない」という現状があると思います。
きっと、スポンサーとしての自動車業界の力、また、もしも自動車産業が傾いたら、日本経済全体の大問題になる、という事情があるのかな、と推測しています。
となると、このメディアはきっと、「日本人の生活・日本経済」に直接影響を与える「戦争の現実」は伝えないんだろうな、と思いました。

以前、ニュースか何かで(先日の検証番組にも出ていた)従軍記者の日記や、話している内容が報道されていましたが、それを聞いて、彼らの基礎知識のなさというか、背景に対する興味のなさというか、目の前の状況を批判分析して理解しようとする意思のなさが伝わってきて、唖然としました。こんな人を派遣しているのか、、、っていうか、こんな人しか行きたいと言わないのかな、それとも何か意図があってこういう人を行かせるのかな、もしかするともともとメディアで働く人ってこの程度で許されるのかな、と考えていました。
(ちょっと見ただけで判断してしまったので、記者に対する私の見方が間違っている可能性もありますが、)戦場を見せても戦争を見せられない理由の一つには、現地取材をしている記者の質にも原因があるのではないかと思っています。

交通事故の死体も 投稿者:武田徹  投稿日: 5月13日(火)22時22分25秒

書き込みありがとうございます。
ぼくは交通事故の死体も報道しないことの根拠はないと思いますよ。後で書くように、だから報道しろというわけではないですが、死体をタブーにすることに問題があるという論理は交通事故にも及びます。大量の交通事故を許容している現代社会についての判断を下すことに対して死体を隠すことは阻害要因になることは確かだと思います。
ただ逆に死体を見せたから正当な判断が下せるとは限らない。ここが難しいですが、死を隠しているようでは必ず判断はまっとうにならないので、死体報道をタブーとする考えは捨てるべき。だが、死体を見せたから判断できるとは限らない。正当な判断が出来るための技術なり方法はタブー意識の問題性を指摘し、解決の努力をした後に、別懇に考えるという感じではないでしょうか。
いずれにせよ、あまり拙速な議論は避けるべきでしょう。戦争報道の死体問題もそう。

戦争報道検証番組 投稿者:ぴこたん  投稿日: 5月13日(火)21時58分15秒

をビデオで撮って、さっき途中まで見ました。続きはまた明日・・・

とりあえず不思議に思ったことがあります。
「戦場での死体を報道することは是か非か」
という問いで、殆どの人が「戦争の現実、戦争の悲惨さを伝えることは必要だと思うので、良いのではないかと思う」と答えていました。
でも、交通事故や殺人や自殺の死体を放映することは通常しませんよね?悲惨な現実には変わりないと思うのですが。
どうして、戦争の時だけは例外なのでしょうか。
戦争のときだけ例外にして放映すると、戦争における人間の死は、通常の死とは違うように感じてしまう気がします。何か、かえって人を麻痺させるような気がしてしまうのです。

だから、報道すべきではない、とか、交通事故や殺人被害者や自殺者も放映すべき、という意見を持っている訳ではないのです。どうすべきなのかはよく分かりません。
ただ、なんとなく不思議で、違和感を持つのです。

みなさんはどう思われますか?

戦争雑感 投稿者:上田 勝  投稿日: 5月13日(火)16時45分32秒

武田さんが「地獄の黙示録」を見てどう思われたか、それはやはり武田さんの感性がそれを感じ取ったのでしょう。個々人の持つ感性は、一人一人DNAが固有のものであるように、異なるものですから、戦争というのは結局どう伝えるか、どう見せるかというより、「どう感じさせるか」「どう考えさせるか」の問題なのでしょう。それが論説の巧拙を決定付けると言ってもいいのではないかと考えます。

多くの人々に情報を伝えるのは、それは鵜呑みにしてもらうためではなくて、考えさせるための一種の素材を提供するためですよね。そこには伝える側の意思もまた介在しますから、多くのフィルターがかかっております。フィルターを排除して伝えることは現実として極めて困難ですし、フィルターを持たずに実際に体験するには現地へ行き五感で感じ取るしかない。それは人間の盾として現地で過ごした人にしか、本当の意味ではわからないのかもしれない。

おそらく戦場における悲惨さや悲しみ、怒りを映像として捉えたとしても、肝心の映像がない。それは例えばオーバル・ルームで側近と手を叩き合ってガッツポーズをするブッシュであるなどの、攻撃サイドのありのままの姿が欠けています。彼らは将棋の駒の動きを見るように、現地の情報を得て次はバスラだ、バクダットにバンカーバスターを撃ち込めとかやっているわけで、その下に一般市民がいることは考慮しない。統計数字に映し出されたコンマ以下の数値ではあってもそれを「命」と認識することもない。それもまた戦争の姿ですね。

戦争は命令するものと命令にしたがって行動するものとの戦いであり、空爆に晒され悲痛な声を上げている人々だけが戦争を象徴するのではない。これは確かでしょう。厳密に言えば、戦争においては逃げ惑う市民のことを考慮しないし、それは戦争遂行上の判断要素足り得ないものです。それは戦争を行う側にとっては「当たり前」のことであって、肝心なのは結果として勝利することだけですから。したがって戦争は極めて非人間的および非人道的でありながら、極めて人間的、原始的な行為であるとも言えますね。

http://www.d5.dion.ne.jp/~twenty/


戦争 投稿者:  投稿日: 5月13日(火)14時06分06秒

葉っぱ64 さんに教えていただいて、高校の文芸部のページから来ました。
そこの掲示板に、葉っぱさんは
武田さんの「戦場を見せることが出来たが、戦争を見せることは出来なかった」
という言葉を引用して、
「今こそ、イラク発の映像をマスメディアは発信するべきであろうと、思い至りました。
そういう報道の仕方こそ、戦争を見せる事に繋がらないか?
「戦場の中継」が戦争を報道することにならない。」
と書いておられます。
私はこれを読んでなるほど、と思いました。

私はたとえば次の写真
  http://www2u.biglobe.ne.jp/~mameta/minzokubunkaron.html
などを見ると、見るたびに感情的なものだけでなく、いっぺんにいろんなことを思考させられる気がするのです(そして、また感情的な何ものかとなって胸に残るのですが)。

何かが伝わるというようなことはありえるのだろうか、
とこのごろよく考えてしまいます。

http://wing.zero.ad.jp/hmasui/


 投稿者:武田徹  投稿日: 5月12日(月)19時10分49秒

とまどいもあったけど、それより眠くて・・・・。
ぼくも戦争を実体化しているわけではないんですよ。でも、ものでなくても見える場合ってありますよね。言葉をそこまで広げてつかうのはどうかと思うかもしれませんが、小説で光景が見えることもあるわけだし。あるいは「地獄の黙示録」とかどうでしょう。戦争が見えたと言いたい気持ちがぼくにはあるのですが。論説性だけではないのです。一方で前によく書いたり、言ったりしたように固有名詞依存ではない表現の可能性というのも考えてみたいと思っています。

検証というより弁明番組かな 投稿者:上田 勝  投稿日: 5月12日(月)13時30分14秒

武田さんをはじめてナマで見させていただきました。慣れないテレビ出演にとまどいを隠せない、という雰囲気がありありと感じられましたが、私が印象に残ったのは「戦場は見せることができたが戦争を見せることはできなかった」というコメントです。

これは随分難しい要求だな、と思いました。戦場や戦闘シーンは現実に目に見えるものですが、戦争というのは「概念」ですからこれは目に見せて説明することはできません。せいぜいできることといえば、戦争の結果をもって「これが戦争です」と説明することぐらいでしょう。

戦争の結果は見せることができても、その戦争がなぜ必要であり、何の目的があって行われたのかを伝えることは難しい。国家機密の壁からもれる断片的な証言情報をかき集め、それをもとに推測してみせるぐらいしかできないわけで、報道各社はそれをいわゆるコメンテーターにやって
もらうことで、自らは客観報道の立場を崩していないと言い張れるわけです。

要するに武田さんが言いたかったのは、「論説性の強化」ということだったんですね。そういうことかなと推測はしておりましたが、残念ながら活字媒体の報道とは違い、映像主体のテレビ報道はその論説力をコメンテーターに依存し責任回避を図っているわけですよね。

しかしテレビ報道に論説性を求めるのはかなり危険をともなうのもまた事実です。テレビは映像や音声という手段を持ちますから、活字のみの媒体に比べ、視聴者に与える影響は極めて強力です。この強力な報道手段を用いて論説性を駆使したならば、それはすなわち米FOXがそうであったように、視聴者が見たい聞きたいものに迎合して視聴率を稼ぐという方向をさえ生み出すでしょう。

結局のところ、媒体間の特性に応じた適切な住み分けの元で、報道と論説とをコラボレートしていくことが必要なのだろうと思いますが、伝える側と受け手の側とのギャップが常に存在する中では、そうたやすいことではないですね。武田さんのように一人で体を張って伝え続けるジャーナリストと商業マスコミとでは本来住む世界が違うのかもしれません。

http://www.d5.dion.ne.jp/~twenty/


「世界の謎」に挑む探偵術は? 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 5月12日(月)11時46分57秒

「世界の謎」に挑む場合、文学の言葉であり、論説の言葉であり、全体のスキームが根底にないと、アラーキーのカメラではないけれど、事実の断片だけでは、その謎を明かしてくれないのは当然ですね。
 ユニクロの小池栄子の写真がどこにもピントが来ていないと言う武田さんの疑問と、笛吹アナが重なって、思わず、にやりとしました。
 テレビの報道作法は全面的に前ピンなのでしょう。その暗黙の了解を突付くと、ムッとしますよ。
 アラーキーにしろ、「私」に拘泥して、「実存的な私の謎」に挑むスキルは皆さん、得意なのだが、その「私」を変換して、「世界の謎」に挑む倫理を持ち得ない、持つことを怖れる怠惰な日常が、まだ、続いているのか。
 日本は平和なんですね、SARSも日本を避けているみたい。日経平均が八千円を割っても、一万円を割ると、大変だと言いながら、堂々と生きている。まるで、オオカミ少年の成れの果てがジャーナリストかと、思ってしまうことがあります。
 まあ、自分なりのリテラシーを磨くしかないのでしょう。しかし、予想なんて、ハズレるのが通常なのであるから、ハズレても、自分なりに納得して、これを選んだと言う覚悟を生きる手応えにするしかない。

深夜の仕事とは? 投稿者:武田徹  投稿日: 5月12日(月)03時53分43秒

日本テレビの戦争報道検証番組に出演していたのでした。テレビは鬼門だと思っていたのだが、また禁を破ってしまった。しかもナマ。結果は・・・・。
ぼくの最後のまとめのセリフ。「ジャーナリズムはもう一皮むけるべき。速報性を追求したら誤報ばかりになった。多元取材を徹底させたら戦争の全体像が見えなくなった。速報性の追求も多元取材化もジャーナリズムにとってはよかれとおもってきたもの。それを実現したらうまくいかなかったのだとしたらジャーナリズムをもう一度根本から考え直さないと」。
それに対して笛吹アナは「ジャーナリズムはうまくいっていなかったという考えですね」。
どうもお気にめせなかったような。忌憚ないご意見をとか言っていたのにー。
20秒でまとめろといわれたのではしょっちゃったけれど、一皮むける方向性にはアイディアがあって、やはり論説性の強化でしょ。多元取材で速報がどんどん入ってくる。それを位置づける論説機能を高めれば、速報の誤報化も防げるし、多元取材のバラバラな方向の取材データの総合も出来る。
ただ、論説こそが報道ではタブーなんじゃないか。報道=客観的事実の発掘と伝播という幻想に邪魔されて、事実報道を積み重ねる以外の技術に対する思考が停止状態になっている。そんな気がする。だから一皮むけろと言われてむっときちゃうのかも。
編集済

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