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伊賀上野 投稿者:武田徹  投稿日: 4月21日(月)23時29分08秒

今日の出張先は伊賀上野だったんだけど、この「忍者の里」にぼくは通産3回も行っている。別に縁があったわけではない。そこに工場がある会社に関係しているわけでも、親戚がいるわけでも、忍者マニアない。ただまったく別個の取材先として三箇所がそこにあったということだ。前に河辺だか福生だかで同じようなことを書いたがあれはまだ東京である。地方の、それも伊賀上野クラスの人口の町にまで三度詣でいるというのは、結構珍しいほうではないjか。ほかにも二度目、三度目の取材訪問で、駅前の喫茶店が懐かしかったりする場所が数多くある。こうした経験の蓄積を誰かに伝えられればいいんだけど、そうもいかないところが皮肉である。

事後報告2 投稿者:武田徹  投稿日: 4月21日(月)00時14分08秒

18日夜にはインターネットストリーミング番組「神保哲生・宮台真司トークオンデマンド」ゲスト出演。会員制なのでぼくは見られないのだが、いつオンエアされるのだろうか。
この日も朝から終日、移動(しかも自分の運転するクルマを使って)で疲れ果てる。
心身ともにだいぶ痛んできた感じだったので土日は河口湖。なんと桜が満開。東京では葉桜も過ぎて、新緑がまぶしいというのに。富士周辺は4月に積雪があって富士もまだかなり冠雪しているぐらいで、開花が遅れていたようだ。桜前線を追いかける旅行をいつかはしてみたいとあこがれていたが、期せずして実った。
それにしても自分にとっては出先での桜との対面はいつも偶然だ。前にも仕事の都合で前々から予定していた京都行きで見事な満開の桜をまったく偶然のタイミングで拝めたことがある。
ソメイヨシノについては何回も書いた。ソメイヨシノ=綾波レイ説なんてのもとなえたっけ。靖国の桜の終わりの美学をちゃかしたら絡まれたこともあったと思い出す。
自分で運転していって河口湖で原稿二本。これではあまり骨休みにならないか。
森達也さんから新刊を送ってもらった。感謝。
明日は近畿出張。村上春樹訳キャッチャーインザライと吉野源三郎『君たちはどう生きるか』を車内で読む。この二冊をなぜというのはまたのちほど。

事後報告 投稿者:武田徹  投稿日: 4月18日(金)00時49分22秒

毎度おなじみの事後報告ですが、今晩、J−wave生出演。偶然聞いて気分を悪くされた人には陳謝します。
ちょっと事情があって夜は寝れないし、昼は授業と移動ばかりでへとへとになった状態でスタジオ入り。おかげさまでまったく弁舌さわやかでなかったんだけど、時間切れぎりぎりで、「事実報道はどうがんばっても一簿の陣営に利益を与えるものにしかならない」とすべりこみで話した。事実報道は現実の断片しかカバーできず、たとえば従軍取材などではどうしても軍との一体感の中で遂行されるので一部の陣営に利益をもたらすしかない」というべきところを大分はしょっちゃったなぁと思ったのだ。
しかし頭の中で反芻していると、はしょった方がよかったように思えてきた。「事実報道とは中立公正報道である。なぜなら事実はうそをつかないから」というような図式で考えるはあまりにも安易だ。
たとえばアメリカ人捕虜が出たという事実を報道すれば、アメリカ人の士気に関わるだろう。事実はそれが報じられた時点で、敵にダメージを与えるものにも塩を与えるものにもなる。事実は利害関係とか異なる地平に屹立しているというイメージは客観報道幻想が生んだ無垢な妄想だ。
事実報道は常に偏向する。それを事実は常に特定の「意味」を持ってしまうと言い換えることもできるのかもしれない。だからこそ、事実報道ではない部分で、報道の中立性を補完しなければならないのだ。

調停役としての武田さん、又は【最小国家】 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 4月17日(木)12時29分05秒

SPA!の記事を読みました。

従軍報道に関しては発信者がそこに居合わせたかを確かめるためには匿名性を排除しないといけないが、その一方で、インターネットの匿名性を逆手に、発信者の固有名にすら縛られずに成立する抽象的で普遍的な言説の場にネットがなってゆく可能性もあるかも。先に文学の使命と言ったけれど、それはネットで果たせる。かような言説は勇気づけられました。

>ばんまいさんの問題意識はバグの多いテキストレベルの状態の言説の取り扱い方の問題だと思うが、私のような「ネタさえ適切であれば、普段はものを書いたりしない人でも書きたい気分になる」有象無象の一人にとって、「整理のつかない個人的な感覚に依拠している状態」で書き込みするのは許されるのではないかと、武田さんを調停役として信頼しているわけです。
又、そのような無意識な域まで降りて、無整理な言葉を書く玉石混淆から、抽象的で普遍的な多分それは武田さんの言う「文学の言葉」かもしれないが、溢れ出る期待がある。
そのような期待を皆さん望んでいるから、ネット場に書いたり読んだりするのではないか。少なくともそのような規範をこのネットには感じます。
私の自主規範はタイトルです。「アイデア」「意味のようなもの」に近いかもしれませんが、いわば、暗喩としての光学器械なのです。

武田さん、ばんまいさん、とのやりとりを傍から割入り、苦笑しているかもしれませんが、かような作法はBBSでは許されるのでしょう?何せ、身近な友人は私を含めアナログ人間ばかりで、最小限度のメール、インターネットしか使わない初心レベルに停滞したままなので、失礼なことがあるやもしれません。どうか、気がついたら、遠慮なく、イエローカードでも、笛を鳴らしても、…全部、歓迎です。

大塚英志責任編集『新現実Vol2』に「満州国・ハンセン病・核」というタイトルで武田さんは「核論」「偽満州国論」「隔離という病」の三冊は本来、ひとつで上梓する積もりであったが、生き別れとなり、別個の単著になったがため、三冊に通底する問題意識が一段と読み取りにくくなり、そんな自省の心持ちで、この雑誌に一文を書きましたとありますが、私自身、色々と腑に落ちたことが多々ありました。

ー都市共同体の水平的人間関係から垂直に立ち上がる権力を、いかに都市共同体を阻害するものにせずにとどめられるかーとの問いを吉本隆明の『国家論』と同じ轍を踏まないようハートやノージックを引用し、「核」「隔離」という誤読を生みやすい問題にアクセスしたわけですが、私が腑に落ちたのは、武田さんの生と死に対する態度だと思います。そこから、発信した言葉だったので、私の身体を揺らしたのだと思い至ったわけです。

【世俗化された終末感】、ー実は著者自身もまた元ハンセン病患者と同じく「終わり」意識して生きざるをえない立場にいる。(中略)核の封印を切った人類が獲得した「未来を葬る」権利を個人的に行使したとも言えなくもない。「終わり」を前提としていかに生きるかは著者にとって、個人的に切実な問題だった。ー
アナロジーが許されるなら、私も【それ】を抱え込んでいる。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 4月17日(木)11時33分22秒

ばんまいさん、書き込みありがとうございます。書かれた内容について、激しく同意!します。
特に

>「多くの書き込みの蓄積の結果、細かな不明点や矛盾を越えて浮き上がってくる意味のような
>ものにいつか向かい合えれば」という願いにある「意味のようなもの」を、私
>はなるべく早く、書き言葉として読みたい

は、ぼくもまったくそう。本当のところでは長生きするかどうか分からないですから。で、

>私の考えは、ちょっと、せっかちなものであるという気もします。

ぼくも自分がひどくせっかちだと思ってきたんですよ。結論を急ぎすぎると言われたことが実際にあります。
でも、誤解かもしれない、理解かもしれないものを重ねて結果、偶然か、必然かわからないけれどなにか出てくるかもしれないのに期待する、そんな「賭け」のような「待ち」のような心境も一方で悪くないかもと最近は思うようにもなっています。それがだらしなさ(をまっこう否定するつもりはなくて建設的ずぼらというのもあると思いますが、それだけ)にならないように気をつけたいところですが。

やはり長生きはするものなのかな 投稿者:ばん まい  投稿日: 4月17日(木)08時00分25秒

武田さん、お集まりの皆さん:

私は、テキストレベルでの議論を、各人があることについて考えるために、
もっと利用できるだろうと考えています。 現時点では掲示板やメイリングリ
ストでの議論は、私において、お客を集めて行う公開討論会の時に書き付けた
メモと、量として同程度のアイデアを生んでいる状況に留まっているので、
メモと比べて使っている文字数が多く記憶に頼らずに済む分、メモよりも多く
のアイデアの素を含んだ記録物になれると考えてしまうのです。

この掲示板で私が書き込みをする気になる原因のひとつは、武田さんの書き込
みに「整理のつかない個人的な感覚にたぶんに依拠した状態」が読めることで
あるように思います。 それで、「整理のつかない」状態の意見が喚起する
発言というものがあるのなら、バグの多い発言での議論をしても構わない、と
最近は考えています。 ヒトが自発的に発言をすることを重要視しているから
(自発的な発言によって知性の程度や内容に変化が起こると考えている
ため)だ、と自分で思います。

ただ、熟考を伴わない低次元の合意や理解に至ることを防ぐための約束と
して、整理のついていないもののやりとりから何を考えたかを、発言者が一言
に凝縮して表現すること、としてはどうかと思います。 凝縮できた一言、と
は、最初の辺りで述べたアイデアというものと同義です。 「多くの書き込み
の蓄積の結果、細かな不明点や矛盾を越えて浮き上がってくる意味のような
ものにいつか向かい合えれば」という願いにある「意味のようなもの」を、私
はなるべく早く、書き言葉として読みたいのかも知れません。

また、「議論して欲しければ議論できる文章を書け」という叩いて根性が奮起
することや闘争心があおられることを期待した態度で他人に接しようと、自分
が抱く期待以外の反応も「叩く」ことに対して返ってくるということに対応
できる/対応する気がある場合、大いに結構と思います。

このところの戦闘騒ぎで、多くの人の思考回路が興奮したように見えました。
ネタさえ適切であれば、普段はものを書いたりしない人でも、一言書きたい
という気分になるのだなと考えました。 それで、何事かを言いたいという
だけの整理の付いていない意見を連ねて展開するテキストレベルでの議論の
進め方について考えておけばよかった、と思いました。 私の考えは、
ちょっと、せっかちなものであるという気もします。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 4月16日(水)23時55分18秒

ばんまいさん、書き込みありがとうございます。
では、手遅れかもしれませんが、「議論して欲しければ議論できる文章を書け」と言うに近い作業をしてみましょうか。あくまでも実験です。例文に引いたことは悪意はないので、そのことだけはご理解ください。

>私は、先述のような人間との接し方は好きではありません。

「先述のような」はどこを指すか、(雰囲気では察しは着くけど)この文章の内部では決定不可能。「叩いて根性が奮起することや闘争心があおられることを期待(無意識的にでも)した反応」を「する」ような接し方なのか、ばんまいさんがぼくのやり方だとおっしゃるように「しない」ことなのか、180度異なる内容を指示可能な状態に「先述」は表現のレベルでは置かれている。

>接したことの効果がないから、ではありません。

では、なぜなのか。後に置かれた「他者とのどのような接し方が好ましいかなどとも考えています」という部分は、接し方の好ましさを思考中であることを指していて、先に「ではありません」と否定できていたこととは矛盾する。ここで「ではありません」と否定して、何を肯定するか書いていないことが「先述のような」の内容が決定不能になることをさらに助長している。等々。ま、色々言おうと思えば、これぐらい短い文章でもかなりのことが言えますよね。

しかし、こうした箇所を、パッチを当てるように埋めて直していった文章が果たして望ましいのでしょうか。テキストレベルで議論を着々と積み重ねてゆくのであれば、もちろんそうした文章が必要なのでしょうが、ぼくは今日書いたものの答えを明日欲しいわけではなくて、短いテキストの内部の整合性を整えるよりも、多くの書き込みの蓄積の結果、細かな不明点や矛盾を越えて浮き上がってくる意味のようなものにいつか向かい合えればと思っています(長生きしないとだめですね)。表現のレベルではバグやセキュリティホールのようなものがある文章でも、その背景の思考はもっと密度も強度もあったはずで、そうした背景の思考が、時間をかけて表現のレベルにも浸透し、姿を現してくるのを待つには、あまり重箱の隅をつつくような指摘をしたりして、勢いをくじくようなことをしないほうがいいと思うんですよ。ぼくが言葉を足すようなコメントをしても、それは所詮他人の言葉を接合させただけであって、その場での整合性は取れても、それが本当に書き手の望む言葉だったのかはわからない。コメントをされたことで書き手自身がこれから使おうと思っていた言葉が行き場を失ってしまうこともあるかもしれないし。だから、これから長く続くはずの物語りに、少なくとも自分から言葉をさしはさまずに、しばらくは耳を傾け続けていたいと思う。
活字メディアでのぼくは、ここで今やってみせたほどではないですが、「議論して欲しければ議論できる文章を書け」的な書き方をすることが実は多いです。この掲示板でも自分の書評にコメントする場合にはそういう方法を選びがちな普段の自分の片鱗が出ているかもしれません。しかしそういう接し方をして、そんなにせわしなく白黒つけなくていいじゃないかと思うこともある。で、ここではそうではない接し方「も」試してみたいと思っています。ホストぶりと呼べるかどうか分かりませんが、スルーパスも含む多彩な接し方をいろいろやってみたいです。
こう言ってしまうと元も子もないですが、ここしばらくの書き込みは、今こんなことを書くべきだったどうかを決定できるようなものでもなかった。ですが、ありうべき対応の可能性のひとつとして、ちょっと悪乗り気味に書いてみました。これは何パスにたとえればいいのかな。

続 Re: ニール・ヤング 投稿者:ばん まい  投稿日: 4月15日(火)23時39分21秒

武田さん、お集まりの皆さん、またしても こんにちは。

デエタの整頓とか表現とかが出来ていないことが明らかな頃に行った実験結果
の発表の場で、「議論して欲しければ議論できるデエタを出せ」と片づけられ
た記憶があります。 日本ででのことです。 このような、叩いて根性が奮起
することや闘争心があおられることを期待(無意識的にでも)した反応を、
武田さんはなさらないなぁと思いました。

拙稿に付けて下さったコメントを元にもうひと考えした結果を、自所へ出して
おきます。

私は、先述のような人間との接し方は好きではありません。 接したことの
効果がないから、ではありません。 ここにアップされる様々な投書を読む
ことと、武田さんのホストぶり(?)を観察しては、他者とのどのような接し
方が好ましいかなどとも考えています。 武田さんと、この場の存在とに
感謝します。 今後ともどうかご活躍下さいますように。

http://cg.iclub.to/bbs/maiban.html


耳の力、声の力 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 4月15日(火)13時27分36秒

ニール・ヤング、ブッシュ、ブレヤの声についての考察はオモロイ!
佐野真一新刊『だから僕は書く』を読んでいると、聞き書きで一番、重要なのは耳の力なんだと、高校生を対象とした「森の聞き書き甲子園」で講演し、それを骨格としたものだが、ちょっと、引用してみます。
ー皆さん、聞き書きをするという意味でいえば、耳を鍛えてください。耳はどういうことで鍛えられるか。音楽でも、音のでるもの、なんでもいいから聞くことです。演歌でもいいでしょう。(中略)音だけで何かを考えてみる。目とか鼻とか味覚であるとか、そういうことはいっさい抜いて、耳だけで物語をつくってみる…。ー(85)

佐野さんは氷川きよし、宇多田ヒカル、元ちとせ等を紹介していますが、カルメンマキ、ニールヤングなど、武田さんに染み付いた身体リズムを聞いてみたい気がしました。
ブロードバンド時代なので、どうです?このサイトで武田さんの肉声を発信してみたら。
昔、人形作家四谷シモンがアパート住まいを始めた頃、耳の彫刻家三木富雄がアトリエ代わりに彼のキッチンの床に新聞紙を敷いて、制作していたエピソードを『人形作家』で書いていたが、いまだに?三木さんは耳にこだわっているみたいですね。
人が死に瀕して最後に残る器官は耳らしいが、斉藤孝が火をつけた朗読ブームも耳に重なる声なのだろう。

山崎ハコのアルバムで確か「竹田の子守唄」等、民謡、童謡を収録した30年位前のライブアルバム2枚組みですが、とうに失くして正式タイトルはわからぬが、CD化されぬかと気をつけているのです。カルメンマキの武田さんなら、御存知じゃあありませんか。
そうそう、DVD化されて欲しいと願っているのは、吉田日出子のミュージカル『上海バンスキング』です。

本屋のレジからもらった「La Vue」に詩人の寺田操は音読することによって埴谷雄高の「死霊」の呪文から解けたという感想を述べているが、三遊亭円生と埴谷雄高は私の中で昔から重なっており、埴谷雄高の少年時代を語るテープを聞くと、円生を聞く耳になっているのです。姿形も立ち振る舞いも似ていると思いませんか。
ならば、難解な埴谷雄高を円生を通して論じる視点があっても良いではないかと思うが、いかがでしょうか?

これから、SPA!を手に入れに出かけます。でも、あんまりすごい髪型は見たくないなあ(笑)声の露出に挑戦して下さい。
何やら、とりとめのないことを書いてしまいました。皆さんからも、もっと、耳、声に関することを聞きたいと思います。耳鼻咽喉科に関することも聞きたい。

SPA! 投稿者:武田徹  投稿日: 4月15日(火)12時01分16秒

みなさん、今日発売の週刊SPA!はぜひ手にとってほしいです。ぼくが責任編集で「メディアは戦争に届いていたか」をやっています。

この特集の原稿を最終的にぼくが送ったのが土曜の夜、それが雑誌になってもう書店に並んでいるのを見るのは感無量。スタッフにはたいへんな苦労をかけてしまいました。ぼくが責任編集したということになっていますが、実際にはブレインストーミングに出て無責任に「こんな企画もできればなぁ」と提案しただけ。その中のいくつかを雑誌で通用するレベルまでに作り上げてくれたのは、優秀なスタッフの皆さんです。本当に頭が上がらないと思ってる。

内容的には今回のイラク戦争報道の総括と呼んでいいのではないか。自分たちと、情報社会における自分たちの存在ともはや不可分になっているメディアとの関係を含めて、今回の戦争を自分たちの問題として改めて取り込む必要性をぼくは訴えたかったんですが、そうした視点は他のメディアには薄いと思うので、ユニークだし、ぜひ聞く耳を持ってほしい。メディアとの関係のとり方を習得することがぼくはメディアリテラシーだと思う(そこには疑うだけではなくて、疑わずに済むメディアの再構築への指向性ということも含まれる)。成長過程で幼児が母子渾然一体のまどろみから個として屹立してゆくように、情報化社会の中でメディアと身体の区別をつけて、個として再生してゆく必要がある。


12年前にやった武田/いとう・せいこう対談の当時の誌面が紹介されていて、そこにちょこっと写って見えるぼくの髪型もすごいぞ(笑)。今週買うとしたらソニンがグラビアでフィーチャーされているサブラではなくSPAだ。SARSクラミジア原因説という興味深い記事が載っているAERAも気になるけど、やっぱりSPAだ。

14:30に追記

編集済

書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 4月15日(火)11時42分41秒

書き込みありがとうございます。
ぼくが整理のつかない個人的な感覚にたぶんに依拠した状態ニール・ヤングに触れたため、議論が錯綜してしまった感があります。ごめんなさい。
ブッシュの米語の問題は、確かにあって、それは911直後に何回か言及しました。確かにブレアの英語と比べても品格の違いはあきらかですよね。
もうひとつ、ばんまいさんの書き込みから始まるスレッド(って別にそういう構造になってないけど、この掲示板は)は米文化の「魂の帰る場所」の聖性、というか幻想性の問題、そこに米語の音やひずんだギターサウンドがいかに関わるかってことですよね。
ブッシュの米語ももちろん米文化を背景にしていますが、個人差の領域に属する部分も多くて、その二重性はきちんと踏まえないといけないとは思います。ぼくが言うまでもないことですが。

英語と米語 投稿者:てるてる  投稿日: 4月14日(月)23時50分42秒

このイラクの戦争の間、何度も、USAのブッシュとUKのブレアの演説を聴きましたが、ブレアの声を聞くたびに、いいなあ、それに比べて、ブッシュはだめだなあ、と思い、だんだん、ブッシュの声は聞くに堪えなくなり、とうとう、ブッシュがしゃべりだすとテレビを消すようになりました。
二人ともイラクを攻撃しているのに、どうして、ブレアがしゃべると、知性と深みのある、いい声に聞こえたのだろうか、と思います。
これぞクイーンズイングリッシュに違いない、シェークスピア俳優なんかと同じ発音だ、と、初めから思い込んで聞いているからかな、と思いなおしたりもするのですが。
でも、ブッシュがしゃべると、もう、いいよ、と思うのでした。
2001年のアフガニスタン攻撃のときには、そんなふうには思いませんでした。
そのときは、ブレアとあまり比べて聞きませんでした。

さらに書き込みありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 4月14日(月)21時25分19秒

ばんまいさんも書き込みありがとう。
ちょっと行き違いで書き込みが交差してしまいました。

米語の音が初めにあるのか、米国の言葉だから米語の音が独特のイメージを担ったのかはぼくはよくわかりませんが、おっしゃることはお書きになった表現のレベルでは理解できそうに思います。「精神のよりどころ」ということと、ボブ・ディランとかが独特の聖化のされ方をたどってゆくこととも関係があるのかもしれないですね。ボンサンスとは一方ではイノセンス?

(ちょっと後出しで書き足しました)

編集済

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 4月14日(月)21時11分50秒

>報道と作為といえば、武田さんは野田秀樹の『Right Eye』は
>ごらんに(またはお読みに)なりましたか? 
>報道写真家の一ノ瀬泰造が登場し、虚と実がからみあいながら展開する戯曲です。
ベトナムやカンボジアで戦場写真を撮ることと、入院中の夏目雅子をパパラッチすること、その行>為の罪深さにどれだけの違いがある?とつきつけながら、それでもシャッターを押す(物語をつ>くる)ことへの覚悟が主題です。

野田作品は、ごめんなさい、見て(読んで)いないのですが、現実にパパラッチと呼ばれる海外の報道カメラマンの多くは戦場取材経験者のようですよ。町が戦場のようにイメージされているのかもしれません。事故死したダイアナ妃の顔を撮るのと戦死者の顔を撮るのにどのような違いがあるのかといえば、確かに考え込んでしまいます。

>片手に使命感、片手に野心をせおって報道する戦場ジャーナリスト。
>社会的関心と好奇心の両方を満足させるために戦争報道に釘付けになる側。
>戦争報道には、なんだかとても人間くさいジレンマがつきまといますね。

そうなんです。知らせる義務と知る権利、好奇心を満たすサービス精神と死や人間の業の深さを垣間見たい欲望・・・・、幾つもの要素が折り重なっていて、色々なことを考えさせられずにはいないですね。

ひとつ、本掲示板をごらんになっている人々へ朗報(?)。朝日新聞東京本社ビルに入っている書店で『戦争報道』が売り上げ二位になったそうです。ちなみに一位はボブ・ウッドワード『ブッシュの戦争』らしい。『ブッシュの戦争』並に全国的に売れているわけではもちろんなくて、これは特殊な市場特性の書店でのデータですが、朝日の人が、たかが「街場」の一フリージャーナリストであるぼくの本をこんなに読むことになるというのも、かつての栄光のウォーターゲート事件報道の担い手にして、政権内部に数多くのディープスロートを持つ『ワシントンポスト』記者のウッドワードに肩を並べるというのも、時局のせいで少々複雑な気分ですが、「快挙」(もちカギカッコつき)ではあります。戦争報道の見方が少しでも重層的になればと思います。

Re: ニール・ヤング 投稿者:ばん まい  投稿日: 4月14日(月)21時03分31秒

武田さん、お集まりの皆さん、こんにちは。

noisy XXX (ex. guitar)+米語歌唱の醸し出す透明感・清々しさというものが
あると私も感じます。 Linkin Parkの新作であるとか、Ja Rule(彼の場合、
声がnoisy)とか、そして恐らくNirvanaも。 ところがこれが、英語遣いの
Coldplay鼻声歌唱には、清潔感はあっても透明感と呼べそうなものは無い
し、The Musicのギタア音は街の裏路地が汚れている風景を連想させる。 ど
うも英国勢の作品は清潔で整頓されているものの、暖かみがない---ロンドン
に点在するカッコイイ”カフェ”での雰囲気みたいです。

米語勢の透明感は、或いは、米国を拠点にする者らのココロの拠り所であるの
かも知れないと思います。 既成の神やカネが米国での信仰の対象であったの
は過去の話になりつつあり、透明でありつつも暖かく、清々しく神々しい感じ
を放つ原因に、彼の国に暮らしている人々が自分らの精神的拠り所を見出し
つつあるのではないかと思います。

その原因のことをたとえば"bon sens" と表現した者が欧州には居て、その
ように書物に的確な語が表記されたことを、特定のtribeの思想(この稿で
いえば先述 「精神的拠り所」)の表現が発声によるものから書かれたものへ
と切り替わったことと考えてよいのなら、米語歌唱が透明感を放っている現状
は、それこそcartesien に言わせればuncivilised というところなのかも
知れません。 しかし、米国発のものが透明に聞こえる以上、米国の連中にも
"bon sens"みたいなものは備わっていて、今に”洗練”されてくるサと私は
考えています。 もしかしたら米国の者らは、"bon sens" 以外のものを見出す
かも知れませんね。 ただし、その先の状況がロンドンのカフェみたいに味気
ないものでは残念だけれども。 そうなると、透明感の実体を知った気になっ
てしまった後であっても汚れ淀んでいないもの、て、何がありましょうか。

『戦争報道』を読んでの雑感 投稿者:Lee  投稿日: 4月13日(日)05時58分20秒

『戦争報道』で繰り返し考察されているキーワード「戦争がジャーナリズムを鍛える」、
これとよく似た言葉を思い出しました。
資生堂デザインで有名な山名文夫が、戦時中の国策宣伝の仕事を振り返って発言した
「多くのデザイナーが戦争によっていやおうなしにその技術を鍛えられた」という言葉。
孫引きのため前後の文脈はわかりませんが、戦争によって鍛えられてしまう(むしろ
すすんで鍛えられたがる)ことに苦さや屈託を感じているようなニュアンスではなさそうです。
戦争という条件下でこそ存分に腕が振るえる、いい仕事ができる、というあたりの
共通点にも、報道と宣伝の境の曖昧さがあるのかもしれません。

報道と作為といえば、武田さんは野田秀樹の『Right Eye』は
ごらんに(またはお読みに)なりましたか? 
報道写真家の一ノ瀬泰造が登場し、虚と実がからみあいながら展開する戯曲です。
ベトナムやカンボジアで戦場写真を撮ることと、入院中の夏目雅子をパパラッチすること、その行為の罪深さにどれだけの違いがある?とつきつけながら、それでもシャッターを押す(物語をつくる)ことへの覚悟が主題です。
片手に使命感、片手に野心をせおって報道する戦場ジャーナリスト。
社会的関心と好奇心の両方を満足させるために戦争報道に釘付けになる側。
戦争報道には、なんだかとても人間くさいジレンマがつきまといますね。

ところで、武田さんが『戦争報道』あとがきで、最前線での戦争報道に
羨望とコンプレックスを抱いていたと書かれていて、ちょっと意外でした。
ジャーナリストの方にとって、戦場ってそんなに魅力的なのかぁ〜なんて。
『偽満州国論』や『隔離という病』など、今でもよく読み直していますが、それこそ最前線をとびまわっていては生まれない著作だと思います。
これからも「街場」の視点を保ちつつ鋭いお仕事を期待しております。

ニール・ヤング  投稿者:武田徹  投稿日: 4月13日(日)00時48分01秒

 ボーリング・フォー・コロンバインで銃が多く所有されていながら銃犯罪が少ない国として挙げられているカナダ。その理由をムーアは映画の中で見つけることができていないので、あの映画を見るとよけいカナダという国が気になってしまう。
 で、カナダといって思い出したのはニール・ヤングだ。ニール・ヤングは「オンタリオ湖の北の町」から国境を越えてアメリカにやってきて歌手になったのだ。そんなことを思い出してレンタルCD店でいくつかヤングの比較的新しい作品を借り出してみた。
 ぼくはレコード時代の彼のアルバムは結構持っていてデビュー版から「渚にて」とか「Zuma」ぐらいは揃っている。そのあと新しいレコードが出ても、お金を他に回したくてしょうがない遊び盛りの時期がきて、買うにまで至らず、レンタル店で借りてカセットテープ化していた。途中で雷雨になったステージでダメージダンをアコギで歌うライブはカセットにして車の中でよく聞いた。そして、そんな時期も過ぎて、もはや新作をまったく聞かなくなってしまって久しい。
 ニルバーナのカート・コバーンのカリスマがニール・ヤングだという話を聞いて、その存在を思い出すことはあったが、ニルバーナは聞いてもヤングは聞かなかった。一度、90年代の始めころだったか、来日公演をNHKホールに聞きに行っているが、古い曲は涙が出るくらい楽しかったが、聞いたことのない新しい曲は感情移入できなくてつまらなかった。要するにヤングが好きなのではなく、単に昔を懐かしがりたいだけに歳時記野郎に成り下がっていたのである。
 ところが本当に久しぶりに聞いて、アタックの強い独特のアコギ奏法も、グランジっぽいひずんだエレクトリックギターさえもひどく澄んで聞こえた。音的にはアフターザゴールドラッシュのころのほうがはるかに澄んでいたと思うが、ぎゃくにひずいでいるのに澄んで聞こえるのだ。教会で聞くオルガンのようなといったら、とんでもない比喩だと思われそうだが、それに通じるような透明感があるように感じられたのが意外だった。それは昔聞いていたときには感じなかった感覚だ。昼間の雨があがって、星が見え始めた夜に、クルマのCDプレイヤーで聞いていると、窓から吹き込む風に乗って、まるで聖歌のように思ってしまった。蓄膿症の鼻声が聖歌ってのもおかしな話なんだけど。
 それにしてもヤングはもう幾つなんだろう。人生の殆どの時間を歌い続けることになってしまうと若いころのヤングは思っただろうか。昔の仲間のデビッド・クロスビーやスティーブン・スティルスがCSNYの再結成とかの話題があって初めて一線に戻る、すっかり「過去の人」になってしまったのに対して、ヤングはドサ周りでも歌い続けるタフさがあった。そうして歌い続けた時間がよどみや灰汁のようなものを彼の中から洗い出していったのだろうか。
 いや、カナダの話とは違ってきてしまったけれど。

「情報戦」ブームの行方 投稿者:武田徹  投稿日: 4月12日(土)23時47分52秒

今度の戦争では情報戦がTV番組の定番コーナーになった。
情報を疑う姿勢が生じたのはいいことだと思う。しかしそれが普段の報道を見直す姿勢にはつながりそうもない。
前に日経新聞に戦争報道関係本を紹介する記事を書いたとき、『リスキービジネス』に載っていたコロンビア・ジャーナリズム・レビューの調査報告を紹介した。80年のものだが、ウォールストリート・ジャーナルの記事の80%はPR会社のニュースリリースのみに典拠し、それ以外の取材ソースなしに書かれていた。しかもその多くに記者のクレジットがついていたという。
自前で調べて確かめようとしない、そんな姿勢が、戦争になれば、PR会社のパッケージングされた情報にあっけなくだまされることにつながる。つまり情報操作に乗りやすい体質は普段から用意されているのだ。
そうした普段の自分たちの報道を省みる姿勢が、イラク戦争の情報戦を論じる姿勢から導かれるかといったらそんな気配はない。あくまでも他人事として扱われている。日経の記事に同じ経済新聞であるウォールストリートジャーナルの情報操作に対する弱さを報告する調査事例を紹介したのは含みがあったのだが、果たしてそれに感づいた人はいただろうか。
戦争中にも、たとえば「恐怖のイラク少年兵」なんて映像を流す局があったが、たぶんアメリカ側のPR会社製ソースだろう。その局が普段からそんな取材をしていたとは思えないので。情報戦を番組にしていながら所詮はそんなものなのだ。批判的なポーズを取る批判意識不在こそもっともたちが悪い。そんな状況に至っていないかな、日本のジャーナリズムは。

コメント 投稿者:武田徹  投稿日: 4月12日(土)23時26分14秒

ちょっと怒っているので冷めないうちにとりあえず書き込んでおこうと思う。
4月7日はアトムの誕生日とやらで、不気味な盛り上がりを示したのはご承知の通り。
で、ぼくもコメントをいくつかしたのだけど、そのひとつ。毎日新聞のケース。
毎日は7日夕刊に特集を組んだらしいのだが、ぼくのコメントは使われていない。
取材してみて実際に「」つきで使えるかどうかは決まるので、声をかけたら、取材をしたら使わなければならないというわけではもちろんない。そんな事情はぼくだって取材経験は大量にあるので、よくよくよく分かっているのだが、それでも怒ってしまうのは理由がある。

ぼくのところにコメントを取りに来た記者は、ぼくが『核論』を書いていることを知って尋ねてきたのだが、本そのものは読んでいないと告白していた。要するにインターネットで検索かけたら「アトム」でぼくのページがひっかかり、ページのmailtoで、取材依頼をしてきたという流れらしい。なんとも楽チンな方法だ。

忙しいから本を読んでいられなかった? そんな事情もわからないではないが、忙しさというのは本人の情報処理能力との関わりで相対的に決まるものであって、この記者の情報処理能力はどうだろう。
たとえばぼくに連絡を取りたければ、毎日であれば社内のデータベースに必ず電話番号も残っていたはずだ。出版部門ではずいぶん仕事をしているのだから。当たるも八卦のメールよりも、電話で少しでも話したほうが取材依頼するもしないもスムーズに進むはずで、なんでそれをしないで、一般の検索サービスにまず頼ったのか。高度に情報が集積しているところがメディア機関の強みだと思うが(個人情報保護の問題が発生するところでもある)、それを生かせないというのでは、プロとしての情報リテラシーを疑われてしかるべきではないだろうか。

で、本を読めずに取材を申し出たのは、忙しさという以上に情報処理能力の低さのせいではないか。そして本を読んでいないから、脈絡を踏まえないメールでのコメント執筆依頼なので、取材が「出たとこ勝負」になって、コメントは取れたけれど使えなかったという結果になる可能性が一段と増える。で、案の定、こっちは出張先からメールで返事を書いたのだが、それは徒労になる。とはいえ、それにしても記事自体は記者のものだし、取材の方法にたとえ問題が感じられたとしても、最後の最後の部分ではあまりこちらからどうこうは言えない性格のものだとは思う。

 だけどねぇ、これはもう駄目押しの不平不満なのだが、もしも取材して、相手の手間を取らせて使えなかったら、コメントを使えた場合よりも、使えなかったケースにこそ、協力した相手への礼を尽くすというのがプロというものではないか。「かくかくの理由で使えなかった」でもいいし、「使えなかったが、バックグラウンドの情報として生かされた」でもいいが、何らかの理由を添えてできれば刊行前、記事を組んだ直後にでも再度連絡を取る姿勢が、ぼくは正しいと思うし、学生に取材技術などを教える場合はそこを強調しているので、そういうこともできなくてプロといえるのかとよけい思ってしまうのだ。

 アトム生誕日も過ぎてなんの音沙汰もないので、こちらからメールを書いたら、コメントは使えなかったが特集記事掲載紙配送の手続きをとるとの返事が来た(でも今の時点でまだ着かない)。すぐに返信をしたところは、本を読んでいないと正直に告白したことにも通じるまじめさを感じるが、残念だけど順番が逆だ。メールが届いてから慌ててフォローしても、もう判定はアウトです。そんなこと新聞記者ではない「素人」のぼくに指摘されて心外だろうけど(笑)。

 こんなこともあって毎日は弱ってきているようによけいに思ってしまう。
 それと関係があるのか(沈没船からねずみが逃げるのたとえを引くのは失礼だろうが)、毎日記者からは大学などへの流出がひときわ多いように感じられる。それが所属企業にブランドがあるうちに「天下る」というこずるい処世術の産物だとしたら、そんなジャーナリストにふさわしくない心根の持ち主が、前途ある学生を指導するのはきわめて問題だと思う。先の情報処理力の不足も含め、情報産業に適性のない人が情報化時代をこれから生きてゆく若者に何かを教える立場につくべきではない。特にこれからジャーナリズムを変えるかもしれない若者の可能性を古い方法論を教え込むことでつぶすべきではない。他に何か適性はあるのだろうから、そっちで第二の人生を謳歌してほしいぞ、まったく。

 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 9日(水)01時18分03秒

書き込みありがとうございます。
ご指摘はとてもうなづけるところ。懸念はぼくも感じていて、それに対するものとして二極作戦というか、その場で報じたいことを報じる狭義のジャーナリズムと、それを普遍的な文脈に広げる努力を行う狭義のジャーナリズムを越えるもの(歴史学、批評、文学、詩?)の二階建て構造でなんとか「自主検閲の陥穽」を逃れるダイナミズムを得られないかと考えています。
思考実験を重ねるといってもそう理想主義的に、あるいは原理的に突き詰めて何もいえなくなるところまで追い詰める必要はないとは思うんですよ。そこは不可知論とは、論理ではなく、メンタリティが違うというか、もう少し戦略的に杜撰さを取り込みたいというか・・・・。ちょっと言葉が足りないですが、少しずつ書いてゆきたいと思います。

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