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有象無象の予感 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 4月 8日(火)22時01分10秒

>てるてるさんの、ひとりひとりの人生にとっての、その時その場での意味のあること、正しいことと、「公益」とは、交錯するものだと思います。
似たような事を先日、友人に言われました。思考実験を幾重にも重ね、SINのレベルまで因果律を追っていけば、身動きの取れないものになってしまうのではないか。
武田さんの言う、だまされないと、もがくことこそがジャーナリズムの倫理ではないかと、言ってしまうことは足枷になりやしないか。
不作為の結果としての自主検閲の陥穽に落ちてしまう危険性がありやしないか。
だからと言って、「市民の立場に立つのが報道の公益性」で思考停止したオメデタサを支持しているわけではありません。
最近、マルチチュードという言葉が使われているみたいですが、bk1の書評投稿欄でネグリ、ハートの『帝国』を取り上げており、マルチチュードを【ウゾウムゾウ】と、その書評者は解して、痛く感心したので、「有象無象の立場に立つのが報道の公益性」と言ってみます。

友人の言ったことは[猪突猛進]といった行動に駆り立てられる情熱のことです。
そのとき、その場の文脈で、その人の倫理観が、やむにやまれぬプレイヤーの正義感なら、彼の力の場を押し留める事は出来ない。嵐が去った時、検証して彼を弾劾する立ち位置の言論人より、情報を読み間違っているかもしれないが、彼の日々鍛えられた品性振る舞いによって、彼の行動を判断する。そのような読解操作はあまりに、合理性を欠くものであろうか。
問題は情報を沢山持っている人がエライのでなく、事が起こった時、どのような振る舞いをするかであって、身の処し方の覚悟を持っているジャーナリストの言説なら、結果として騙されても文句は言わない。ただ、情報の読みの不明を恥じて、こちらも勉強し、又、同じジャーナリストの言説を信じるかもしれない。
そんな行ったり来たり、で良いと思う。信頼という絆があれば…。そして、その信頼は情報の量に比例しないわけです。信頼性の担保は意気に感じる心としか言いようが無い。
心意気で発する言葉に感応してしまうのはある種、危険かもしれない。
でも、言葉の魔物性を受け入れなければ、世界は死んだも同然ではないでしょうか。

イラクはジャーナリストにとっても、われわれにとっても、旅行者の言説でしかないのかも知れない。北朝鮮問題となると、我々自身の居住者の問題だ。観客席で批評する立ち位置は確保されないかもしれない。否応も無くプレイヤーとして振舞わざるを得なくなるかもしれないが、ふと、観客席を見ると、アメリカのstupid white menが拍手喝采している図がリアリティを持って眼に浮かばなくも無い。
そんな予感が武田さんはしませんか?

「戦争報道」 投稿者:てるてる  投稿日: 4月 8日(火)12時10分53秒

「戦争報道」を今、読んでいます。ベトナム戦争の報道のところまで読みました。
戦争報道に、ジャーナリストの活動だけでなく、小説や映画も含まれているのがおもしろいと思います。
この本を読む前に、小熊英二の「<民主>と<愛国>」を読み終えたばかりだったので、べ平連の開高健の話は、特におもしろかった。
その前に、ハルバースタムを、武田さんがすごく賞賛しているなあ、と思い、「植民地主義対解放戦争だ」という意見に、そうだ、そうだ、と思った後、開高が、そうでもないらしい、解放戦線には北ベトナムの、つまりソヴィエト連邦の支援を受けた軍隊も入り込んでいるらしい、という事実に気づいてた、という話を読んで、ああ、それ「も」ほんとうだったのか……と思いました。

今のイラクの戦争について、NHKスペシャルで、イラクの人は、フセイン政権もいやだが、USAが軍事力でもって「自由と民主主義」を押し付けるのもいやで、いざとなったらUSAとも闘う気持ちさえある、というようなことを伝えていましたが、ベトナム戦争のときも、解放戦争と思いつつ、北ベトナムの兵士として戦っていた人もいるだろう、と思います。

日野啓三が夜中にベトナムの人気のない街路を運ばれていく戦闘機を見る話は、民話のようでした。底知れないものを感じました。

小熊英二の本では、戦争体験が、戦後の<民主>と<愛国>をめぐる言説や行動にどう影響を与えているかが描かれていました。ちょっと、第二次世界大戦の戦争体験のないものには、言葉がないのだろうか、という気さえしました。
第二次世界大戦の戦争体験があって、USA兵に殺されるベトナム人をかつて空襲や戦場で殺された日本人の姿に重ね合わせてべ平連に参加した人にとっては、その人自身の人生にとっては、USAの攻撃に反対することが正しかったのだろうと思います。
世界史的に見て、それが、「公益」にかなうことだったのかどうかとは別に。
ひとりひとりの人生にとっての、そのときその場での意味のあること、正しいことと、「公益」とは、交錯するものだと思います。
ジャーナリストも人間だから、その人にとって正しいことを「公益」や「国益」だと思って報道することがあると思います。
それはまた後から検証されるのでしょうけど。

まだ途中ですが、これまでに思ったことを、少し書いてみました。

 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 8日(火)12時09分13秒

書き込みありがとう。
いわずもがなですが、チョムスキー、ムーアは反米的であると同時に(情報可された私たち自身の)社会批判の視点を持っているところを見逃すべきではないと思います。反米気分は今は共有しやすいんだけど、彼らが厳しく(チョムスキーは愚直なまでに言葉を重ねる方法で、そしてムーアの場合はより狡猾ですが)ついている、情報社会、つまり私たちが生きているこの社会そのものの質に対する批判を正しく受け止めているかは問われるところではないか。アメリカについて語ることはたやすいけれど、当然、アメリカとの種々関係、影響などを含んでいる自分たちの立ち位置について語る姿勢にそれが根の部分でつながっているかどうかってことでしょうか。

『諸君』に『戦争報道』宮崎哲哉書評。基本的に好意的だが、「あえて一言」的に添えられた批判の部分が著者としては気になる。ハーバマス、ルーマンを踏まえての理論的考察が「やや甘い」というが、どう甘いんだろう。新書なので深入りはしていない、全体の議論に必要な範囲に収めているということはもちろんあるので、そうした著者の意識的な部分を後追いで認めたのか、それを越えて果たして「甘い」のか。それは書いてくれていないので分からない。林香里本の併読を勧めると宮崎は言い、それは本のパッケージングからすべてを書きつくせない著者自身としても望むところなんだけど、そこでも林本と『戦争報道』が重ねリ、それ違うと書いてあるだけで、どのようにかはコメントしてくれていない。

ちょっと一言苦言を添えるというスタイルは書評では常套で、これも実は書評のパッケージングによるところが大きいのだと思う。分量が足りなくて詳しくは書けない。しかし何も書かないと距離感のない単なる紹介になってしまうし、書評家の沽券にかかわるので、一言は触れる。それはわかるし、ぼくもよくやる(笑)ので、これは反省も含めてなんだけど、その一言の先に一言の背景に秘められたメッセージが伝わるちょっとしたサインでも残しておいてくれると本当にありがたい。

というのも、書評家にしてみれば「この書評家はしっかり自分の立場があるので、このように一言苦言も呈することができるのだろう」と思ってもらえて、それでいいという考えもできるが、そこに内向してしまい、「ちょっと一言」を無責任に書くようになってしまうとしたら問題だろう。たとえ「甘い」というのは誰にでも書けるし、はずすこともない便利な言い方だ。しかし、それをただ便利に使っているのか、紙幅の関係でしょうがなく一言だけ触れたのか、そこは書き手の心のうちが問われるところ。そのあたりサインがあれば知る手がかりにもなるので、やましいところが無い書評家は、著者のためだけでなく、自分のためにもサインを書いたほうがいいと思う。で、宮崎さん、ハーバマスは読んでいるかもしれないけど、ルーマンは甘いといえるほど、きちんと読んでますか? 意地悪な言い方ですがぼくの引いたあたりは邦訳もまだなんですが。いや偉そうなこといえないのはぼくも同じで、批判するつもりはなくて、多産な宮崎「言論生成工場」の工程を知りたくて、単純に聞いてみたい感じなんですけど。

編集済

ブッシュけなし本 投稿者:やますた  投稿日: 4月 8日(火)08時22分51秒

いつも拝読しています。戦争報道はいま読んでいるところです。
ところで、今回の「戦争」関連では、チョムスキー、マイケル・ムーアをはじめとして
ブッシュやアメリカの悪口本がたくさんでています。が、「戦争」を止める効果はあり
ませんでした。
とはいえ、こうした反米感情をあおる単行本は、今後、世の中に何らかの影響を
与えることもあるかもしれません。
武田さんは、こうした反米本の氾濫と今後への影響について、どう思われますか?
いきなり現れて質問するだけですみません。

これは戦争ではない 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 8日(火)00時26分25秒

湾岸戦争後、空爆がずっと続いていてきたことを指して「戦争はもう始まっている」と『戦争報道』では書いた。それなのになぜいまさらメディアでは開戦が語られるのかと。
いま、大統領宮殿へのアメリカ軍侵攻が行われ、殆ど抵抗なしに成功したという報道に触れ、本当にそれがバクダッドの宮殿であるということを仮定しての話だが、いまや開戦前とは逆の印象を持つのだ。これは本当に戦争だったのか、と。

メディアはあまり言及していないが、冷静に考えればもはや論理は破綻しているのだ。大統領宮殿の地下には強固な施設が作られており、フセインはそこにたてこもって徹底抗戦するはずだった。生物化学兵器も使うはずだった。湾岸戦争以後、国連決議を無視して拡張されてきた軍備は相当のものになっているはずだった。しかし、大統領宮殿への占拠をあっけなく許してしまうというのは、それらがすべて見誤りだったことを意味しないか。
もしも地下にこもってまでフセインが徹底抗戦する意思と力を持っていたのだったら、大統領宮殿の攻防戦はもっと激しかっただろう。軍事評論家は今後チグリス川東側での激しい交戦があると指摘するが、大統領宮殿から地下施設への特殊部隊の侵入ができるようになってしまった状況で、そんなことが本当にあるのだろうか。もはやフセインはバクダッドにはいないと考えるのが妥当ではないか。そしてもはやバクダッドは戦って死守すべき都市ではなくなっているのではないか。そこに戦争はもはやないのではないか。

わたしたちが開戦前に「戦争ではない」とみていた状態、そして開戦後に「これは戦争だ」と見ていた状態は、それぞれ本当にその名に値するものだったのか。

戦争だけでなくSARSも 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 6日(日)23時05分06秒

戦争のコメントばかりしているが、SARSについても僕は語る資格があると思っている。なにしろ患者が爆発的に増え始めた時期に香港にいたのだ。
もう帰国して二週間近く経ち、潜伏期も過ぎたはずだが発熱はしていない。ということで個人的には感染しなかったと思っているのだが、周囲はそうは思ってくれない。ある会合のあとで、もう潜伏期が過ぎたのでもう大丈夫だと思いますが、実は・・・と香港滞在について冗談めかして話したら冗談ですまなかった。居合わせた女性は明らかにおびえたような表情になった。男性は「発病していないけどキャリアってこともあるんじゃないのか」と言い出す。まぁ確かに論理的には可能性ゼロではないんだけど、患者発生がまだ少なかったころのぼくが感染者と接触するリスクを考慮するとちょっと怖がりすぎじゃないかと思う。正当に怖がることは難しい、いつも人は怖がらなさ過ぎるか、怖がりすぎるかのどっちかだといったのは寺田寅彦で『核論』にも書いたけど、今回もどっちかだなぁと思った。
というのもぼくは上海から帰国したんだけど成田空港で検疫にかかるかなと思っていた。でも一切その種のものはなかった。東南アジアからの帰国者のみ消化器官感染症を警戒しているだけだった。中国政府は広東省の患者発生を報告しなかったことが問題になっているけど、すでに肺炎発生がニュースにまでなっている時期に、中国からの帰国便の乗客に問診表ぐらい渡してもいいのではないかと思った。中国の報告義務違反だけ責められるものではないだろう。これは怖がらなすぎる例。
で、ここにきて結構な騒ぎになってしまったが、致死率4%という数字はもう少し慎重に評価すべきだと思う。もしも広東の医療水準の悪い地域で、対症療法もせずになくなった人を含め、致死率が出ているのだとしたら、先進国ではもっと少なくなる。インフルエンザの1ポイント台の致死率とそう変わらなくなるのではないか。それに新型のウィルスの場合、ワクチンがありえないのでインフルエンザでも瞬間的には致死率は高くなる。そうした事情を考えたとき、ちょっと怖がりすぎのようにも思ってしまう
あと香港に入ってからの初期の感染者に医療関係者が多かったことも注意するべきだと思う。医療関係者ですら感染してなくなるということが恐怖をいっそうかきたてる要素になっているが(ラッサ熱のときもそうだった)、確かに医学の知識がある医療関係者「ですら」という見方ができる一方で、医療関係者だから「かえって」という場合もあることを知っておくべきだ。たとえば結核を悪化させてしまうケースも医療関係者は実は特異に多いことがあるらしい。それは、初期の症状の時に風邪にでもかかったのかと思って、一般的な抗生物質を自分で処方して呑んでしまう。それが結核にある程度効く薬だと症状がおさまってしまうが、そこで投薬をやめてはまた症状が出始めての連続で、かえって進行させてしまうケースが案外あるらしい。どっちに転がる場合もあるが、医療関係者は特殊な集団であり、そこでの感染をもって計算された致死率であってもまたバイアスをかけてみるべきで、感染状況を調べるべきだろう。

抗生物質が効かないというのも一人歩きしているが、ウィルス性の病気の場合、細菌による感染症と違って抗生物質は基本的には効かなくて、例外的に遺伝子の転写過程などを阻害するような抗ウィルス剤の一部が効く場合があるというのが普通ではないのか。


そうした事実を踏まえて、なおこの病気は今の警戒態勢、今の怖がり方がふさわしいものなのか。ちょっと考えてみたほうがいい。
編集済

ある概念 投稿者:染川由紀夫  投稿日: 4月 6日(日)15時50分19秒

真珠湾・摩天楼・変質化石という石油とは、何かとリンクしている様です。

宣戦布告について現実的には、先制布告と想ったりします。

つまり事件として捕らえたいからです。何かと合法化された代名詞で語ると

子供の反応になりうる危険性を変質化石みたいに含有していると想うからです。

○争報道なる用語がジャナリズムに於いて日常化するも多少の危惧の対象でしょう。

ボランティア・プロジェクト・コラボレーション・インスタレーションの解釈を

たまたま調べる事の意味は別として「遣らせ」では無いかと想ったりします。

拙い私が思うだけかもしれませんが実に巧妙に仕組まれている言語だと?

 不安解消の為の自爆と云うのがありますが、自己の生命を軽んじた行為は、矛盾を感じますが

不安解消の為に幼い命を無差別に生命を奪う行為も矛盾を感じます。何れも問題があり

高尚な行為とは、想えません。先の「遣らせ」ですがTelevision・programなど

他に其の類を見ない気がしています。News・Paper-journalは、如何でしょう。

総括的にマス・メディアには、自由が無いと言う現実を立場を変えればよくわかります。

なぜならば「先制事件」と扱う勇気さえないからです。「宣戦布告」と言う言語さえ

もどかしい気がして成らないし「国際条約に反する」の以前と私は、考えるからです。

journalとは、日記と訳されていた武田さんに親しみを感じお邪魔しました。

 手で引く鋸や金槌でたたく鑿や台直しで終始する鉋などでよく怪我します。

勿論痛くて痛くてたまりません。勿論名木には惹かれますが其処には、大きな誘惑の罠が

仕掛けてあって、むしろ「迷木」に頼っています。それは、間伐材・放置木・漂流木

風倒木などに私が「迷惑だろう」に肖っての迷いの誘惑にとどめています。

現世は、不安と迷いの中、痛みというリアリティは、最大公約数のはずです。

問題は、権力者の媒体への介入や干渉がエゴイズムに油を注いでいるのではと。

短絡的ですがアナキズムへの道のりは、地平線の彼方なのでしょうか?

何事も大きくなると終始の見極めが困難になる宿命とは、日常茶飯事です。

モダン・タイムスで演じたチャップリンの風刺は見事に今日に於いて再現されていて

産業革命は、一つのキ-ワ-ドの様な気がしています。

 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 5日(土)19時32分14秒

うーん、一行だけ引かれると、なんかスローガンっぽいというか、社民党(笑)みたいというか、困惑します(苦笑)。なんでもハンタイっていうルールを永続的に課すってことじゃもちろんなくて、暫定的なルールしか課さないし、暫定的だと明言し、要約できない世界でやってゆこうということでもあるのですが。

たとえばさっきも中華料理屋でごはん食いながらテレビみていたら(なんかそんなことばかりの人生)NHKの子供向けニュース解説をやっていて、この番組はいつもよくできているなと感心しているんだけど(なんで人間って子供向きってことだとがんばってしっかり物事を考えるんでしょうか)、ちょっと気になったのはむしろ番組に出演させている子供の反応で、戦争はハンタイなんて言っているわけ。暴力的なアニメを見て育ったのに、なかなかしっかりしておるなと思うのもいいし、そんな行儀の良いことを言わせるNHKってと思うのも勝手だけど、ぼくはそういう感想とは少し違う感じをもってしまった。戦争反対というときに「しかし、それを言う前に戦争ってなんだろう」と考える姿勢はずいぶん小さいうちから失われているんだなとぼくは思った。

まるで振り出しに戻ってしまうんだけど、戦争か、戦争じゃないかを決めるのは、これは戦争であるという宣言する手続きが必要だ。宣戦布告をする習慣がなくなってしまった現状において、それを決定するのはジャーナリズムであると『戦争報道』の冒頭で書いた。戦争を決める力を持つほど戦争とジャーナリズムの関係は根深いという指摘から『戦争報道』は始まっている。

戦争反対という場合、戦争として見立てられた戦争について言及しているわけで、ジャーナリズムが戦争を戦争とみなすシステムに依って立っている。それでいいんだろうか、と思うのだ、ジャーナリズムに戦争を戦争とみなす権限を与えていることに無自覚で戦争反対といっているのも、あるいは自分でそんなことしているという意識もなしに戦争宣言をしているジャーナリズムも。

ちょっと分かりにくいかもしれないけど、『戦争報道』の議論はここに書いた地平の上で繰り広げられている。そのことがなかなか伝わらない感じがしてもどかしい。たとえば神保哲生氏が『論座』に書いてくれた書評を読んでも。

「だまされまいともがくことこそジャーナリズムの倫理ではないか。」 投稿者:円戸津 高志  投稿日: 4月 5日(土)16時03分23秒

極めて端的な言辞、大変ではありますが、そうでなければいけないと思います。ある方が昔、私の郷里の言葉を引いて、ジャーナリストの立場を話されました。それは皆が山へ行こうと言うとき俺は川へ行く、皆が川へ行こうと言う時俺は山へ行こうという、そんな奴をヤマカワ「あいつはヤマカワじゃっど」という。大衆を今一度、一寸考えさせるそんな役割がジャーナリストに期待されているのでは。

反戦報道  投稿者:武田徹  投稿日: 4月 4日(金)23時52分15秒

戦争報道がらみで毎日新聞の取材を受けて、それ自体とは関係ないんだけど、ちょっと考えさせられる経験をした。毎日は「開かれた新聞委員会」とかいう紙面監視委員会制度を敷いている。その委員の人がどういうゆきがかりかは分からないけれど取材に同席する。

別に秘密にしてほしい取材ではないので、それ自体もぜんぜん問題ではないのだけど、その委員の人とのやりとりがあって、それが今回の話題。

反戦報道は公益的かどうかという議論になって、その委員の人はソンミ村虐殺事件の報道の例を引いた。アメリカ軍による虐殺(504人の無関係な村民が殺されたといわれる)が明らかになって、アメリカの世論は急激に反戦に傾いた。戦争が悪なのだからそれを止めた報道は公益的だろうというのが委員の方の意見だった。
ぼくは、否定はしないし、そうした隠された事実を報道することはもちろん大切だと思うだけど、そこで公益性の議論で結論出してしまうのはちょっと待ってほしいと思った。

確かにソンミ村報道はアメリカ軍の撤退につながって、アメリカ軍の攻撃によって死ぬ人を少なくするうえで貢献した。そこまではいい。しかしその後、南ベトナム政府は後ろ盾を失い崩壊し、ベトナム統一が果たされる。その結果、多くの難民が出たし、旧南べトナム側の人が多く虐殺された。さらには中国とベトナムが離反した結果、中国はベトナムの西進を警戒してポルポト派への肩入れが強化し、プノンペンを制圧したポルポト派は市内から人影が消えるような前代未聞の大虐殺を行う。ソンミ村の504名どころではない。そんなポルポト派は結局ベトナム軍のカンボジア侵攻によって排除されるが、その後のカンボジアは内戦状態が長く続き、やはり多くの人が死んだ。
AだからBだというように因果関係は明確ではないが、こうした一連の流れの中に、ソンミ村虐殺報道は位置づけられる。そうである以上、ソンミ村報道は、たとえばポルポト派による民主カンプチア政権によるプノンペンの大虐殺に対して有責だとはいえないだろうか。
そんなことまで責任取れないと思うかもしれないけれど、ぼくは、もちろん犯罪者として裁判にかけられるとかいう意味ではないが、それでも責任があると考えるべきではないかと思う。辺見庸さんが書いていた用語法にならっていえば、crimeのレベルで有罪ではないとしても、sinのレベルでは有罪ではないか、ジャーナリズムとはそういう原罪性から離れることはできない、無責任ではありえないのではないかと思う。そして、そうした有責性、有罪性を考える視点なしには、報道の公益性を考えることはできないのではないかと思うのだ。
こうした考え方はなかなか理解されないように感じている。開かれた新聞委員会の人もソンミ村報道を諸手を上げて評価しないなんて、アメリカ軍側に利する、なんと反動的な奴だと思ったかもしれない。
ぼくだってもちろんアメリカ軍に利益をもたらす報道をよかれと思っているわけではない。しかし反戦報道こそが公益的な姿勢という考えの中には、もっともっといろいろな思考がさしはさまれるべきだと思うのだ。
市民の立場に立つのが報道の公益性だというような意見にも同じ意味で賛成できない(反対もしないけど)。市民とは重層的な存在だ。様々な利害関係があり、様々な価値観が交錯する。そんな市民を主語に立てた命題はほとんど意味を持たないとぼくは思う。その命題が尊く感じてしまうとしたら、それは語感にだまされている。だまされまいともがくことこそジャーナリズムの倫理ではないか。そう思うからこそ、「市民の立場に立つのが報道の公益性」というような言い方にぼくは異議を唱えなければならないと思う。
編集済

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