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書き込みありがとうございます  投稿者:武田徹  投稿日: 4月 3日(木)21時32分19秒

>戦争が戦争を隠蔽しているような感じを受けます。

これはぼくも同感。「アメリカが」とか「フセインが」というような主語で語られるレベルではない隠蔽のメカニズムが働いているというのは以前にも指摘しましたね。
でもぼくはそれが現場を取材しないジャーナリストのせいではまったく思わなくて、むしろ現場取材に過剰に期待する習慣に一因があると考えているんですよ。
いや、ここでは定義も注意しないといけなくて、戦場だけが現場ではない。銃後も現場だし、それこそわれわれの周囲のメディア情報空間も現場だとすれば、誰でも現場にいて取材ができる権利を有するということになりますよね。
そういう「広義の」現場であれば、そこに臨みながら「現場取材」しないのは、ある意味で怠慢であり、問題だと思いますが、「戦場だけが現場」という考え方には抵抗があります。「事件は現場で起きてるんだ」って、TVドラマのコピーは他愛ないものですのでいいですが、戦場だけに取材にたる現場があるというのは少なくとも間違い。戦場取材の総合が戦争報道になるという無根拠な信頼を抱くようにもなる。

>情報を収集・分析・批評を試みるのですが、結論はそれぞれの立場でそれぞれの出来ることを考>え、冷静に見守り行動する

というのは、なぜ悪いのかよくわからない。

>ありふれたこと

になっていて、それが通念を打破できない力足らずの結果であれば問題だけど、冷静に考える余裕があることは悪いことだとはまったく思いません。行動すべきときに行動できなくなるのは困りますが。
でも、

>情報の受け手にまわることしかできない

というのが行動しないということでもなくて、たとえば今は書かないだけかもしれない。いつ書き始めるかというのは、もっと柔軟に考えるべきだと思いますよ。自分のうちで考えを熟成させてから書くというスタイルもあると思う。そして情報を受けているだけで出していないと見えたとしても、発表の媒体が公器でなく、日記だからかもしれない。ぼくは日記でも、言葉を外部化していればそれはジャーナリズムの原初的な形態足りえていると思います。ジャーナリズムが「ジャーナル=日記」を語源にするという話は前にも書きましたよね。
そうした広がりの中でジャーナリズムを考えられないのは、職業ジャーナリズムの既成の習慣をモデルにジャーナリズムを考えすぎているせいのような感じもしますが。

生き方としてのジャーナリストと戦争報道 投稿者:松浦良樹  投稿日: 4月 3日(木)17時39分13秒

お忙しい中、失礼いたします。
戦争報道は虚実入り乱れネットなどでも賑わいを見せていますが、以前お伺いした「生き方としてのジャーナリスト」についてです。
湾岸戦争に始まったこの10年間でいつのまにか戦争なれしてきていることにメディアの力を感じます。日常生活に埋没しがちな中において現場取材をしない「ジャーナリスト」は情報を収集・分析・批評を試みるのですが、結論はそれぞれの立場でそれぞれの出来ることを考え、冷静に見守り行動する、といったありふれたこととなります。
アフガニスタンの問題も「国境なき医師団」の活動などをみてもまだまだ未解決ですが報道は極めて少ない。戦争が戦争を隠蔽しているような感じを受けます。
情報の受け手にまわることしかできないことは「生き方としてのジャーナリスト」ではないと思うのですがどう思われますか。

書き込みありがとう。  投稿者:武田徹  投稿日: 4月 3日(木)01時41分36秒

書き込みありがとうございます。

>このBBSの感想を述べたく、スキルが心許ないが、アップしました。
>内容に批評の視点がなく、応援賛歌に近しいものになりました。
>勘弁して下さい。

いえいえ、応援、なによりもうれしいです。
そして、お言葉ですが、批評の視点、しっかり出ていると思いますよ。
『博士の異常な愛情』はキューブリックの全盛期の作品だったかもしれませんね。あの原始的な特撮でも見せてしまう圧倒的な力。そしてピーター・セラーズ! 最近、朝日に続いて戦争報道がらみで取材を受けていますが、事実報道を一方で洗練化し、その一方で戦争とは何かを考える視点が必要だと強調しています。両者のバランスが取れてこそ戦争報道は健全になるのだと。『博士の異常な愛情』も戦争報道の一翼を担うものだとぼくは考えています。

影武者 投稿者:葉っぱ64  投稿日: 4月 2日(水)22時16分59秒


去年から武田さんの著書を愛読し始めました。
「偽満州国論」「核論」「戦争報道」と武田さんの【悩める探偵】ぶりに、風通しの良 い知的良心を感じることが出来、勝手にひとりがってんの信を置いて読んでいるのです。
先に結論ありきの内向きの言説を私は最も、憎みます。高度の専門知識を要する言説であっても、その人のビヘイビアはおのずと、文体に顕れる。かのひとの品性が閉ざされているか、開かれているか、自分のポジションの既得権益を守るための言説であるか、素人なりに判断出来ます。

掲示板の体験も殆ど無いPC初心者ですが、日々書き込みしている武田さんの「生言説」に読み手として、熱い心持を味わっていたのですが、とうとう、気持が溢れて書き込みをしたくなりました。
【予防戦争権】に関する正義とは何かの思考実験には考えさせられました。私はキューブリックの古い映画「博士の異常な愛情」の先制核攻撃されれば、自動的に核爆発する旧ソ連の地下に敷設された自爆装置の恐ろしさを思い出しました。
イギリス将校、アメリカ大統領、ナチの生き残りの博士と、三役をこなすピーターセラーズの扮装振りがブレア、ブッシュ、フセインに重なりました。
そして、ひょとして、テレビを通して見る三人は、あの世からピーターセラーズが変装してやって来た影武者ではないかと、アホなことを考えました。
勝手に予防戦争権を行使して核爆撃機に命令を与えた将軍の狂気は、彼の国に伏流しているのではないかと、そんな想像までしました。

一昨日、マイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』を見ましたが、暴力装置に閉じ篭ったアメリカの病の深さをチャールトン・ヘイストンの「我々は今こそ団結して、邪悪なものを打ち破らなければならない!」という無残で恐怖に慄く呻きに感じることが出来ました。
マンソンの「メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。そして、このキャンペーンは人々を恐がらせることによって消費へと向かわせようとする発想に基づいている。その恐怖心が人を銃に向かわせるのだ。」が説得力を持って訴えてきました。


パレスチナの地で生活者として鍛えられた眼で、
>ぴこたんさんの実感は「これは終わらせようと思えば、終わらせる紛争だ」というものであるのに対して、メディアが通して見る「イスラエル・パレスチナ紛争」は到底解決不可能な紛争であるように映りますと、書かれていますが、私は現地を知りませんが、不思議と私の身体が納得しました。
ぴこたんさんの「イスラエル・パレスチナ紛争は実は終わらせようと思えば終わらせる紛争である」という肯定的覚悟から、メディアは情報発信すべきなのであろう。
大文字のヒューマニズムと、又は、政治力学に抗し切れないというニヒリズムで判断停止した情報の垂れ流しは消費財として付加価値の高い商品としてパッケージされているが、そのような函中に紛争解決のための情報はあるのであろうか?

このBBSの感想を述べたく、スキルが心許ないが、アップしました。
内容に批評の視点がなく、応援賛歌に近しいものになりました。
勘弁して下さい。

書きこみありがとう 投稿者:武田徹  投稿日: 4月 1日(火)19時59分53秒

書き込みありがとうございます。
ぼくはパレスティナ問題はいまひとつよくわかっていないという感じがしていて、それは自分でその地を訪ねて身体で情勢を感じ取ったことがなく、メディア経由の情報しか得ていないからなのだと思います。ほとぼりがさめたら行ってみたいですね。数ヶ月の滞在はとても無理でしょうが、数日でも行くと行かないとではずいぶん違うはずです。
自分が行ったことがない今では現地にいらした皮膚感覚を伝えてもらえるとすごく頼りになります。なるほど、そうなんですね。
それから。

>ただ、とりあえず「殺し合い」を終結させることは不可能なはずはない、と言いたいのです。人>間、分かり合えなくても、憎みあっていても、実際に「殺しあう」こととは、違いますよね。

これもすごく共感します。その通りだと思いました。

すみません、 投稿者:ぴこたん  投稿日: 4月 1日(火)19時18分52秒

メールアドレスを書くのを忘れていました。

こんにちは 投稿者:ぴこたん  投稿日: 4月 1日(火)10時17分44秒

新聞の記事を読みました(すみません、本は未だ読んでません…)。
ちょっと論点がずれるかもしれませんが、最近考えたことについて少し書かせてください。

私は、数年前パレスティナで生活していたことがあります。
帰国してから、イスラエル・パレスティナで感じた現地での実感と、外国からメディアを通してみる現地の様子の違いの大きさがずっと気になっていました。テレビや新聞は、ニュースとして価値があることしか取り上げないから、現実の生活者とは異なる見方になるのは当然なのだろう、と思っていたのですが、最近それだけではないように思うようになりました。

簡単に言うと、現地での実感は「これは、終わらせようと思えば終わらせられる紛争だ」というものであるのに対し、メディアを通して見る「イスラエル・パレスティナ紛争」は、到底解決不可能な紛争であるように映ります。
私が「終わらせようと思えば終わらせられる」と思うのは、たとえば、国際的な停戦監視団を派遣してイスラエル側の国連決議違反とパレスティナ側のテロ支援を取り締まり、国際的な機構で、徐々にテロ組織の力を削いでいくことは決して不可能ではないと思うからです。停戦監視団(平和維持軍でしたっけ?)の派遣は、ヨーロッパの国が何回か提案していますが、アメリカが反対して実現していませんね。

しかし、メディアはいかにも解決不可能な紛争であるかのように報道しつづけ、解決不可能だという方が現実的で、解決可能だとか言ったものなら、「おめでたい」と言われかねません。
一応、誤解を避けるために申し上げますが、私は「みんな仲良く暮らせるはず」などというおめでたいことを言うつもりはないのです。ただ、とりあえず「殺し合い」を終結させることは不可能なはずはない、と言いたいのです。人間、分かり合えなくても、憎みあっていても、実際に「殺しあう」こととは、違いますよね。
つまり、「イスラエル・パレスティナ紛争は、実は終わらせようと思えば終わらせられる紛争である。これが終わらないのは、この紛争によって得をする人たちが終わらせないようにしているからだ」と、思うのです。
それを、解決不可能な紛争だとし、このパレスティナ問題が解決しない限り中東の安定は望めないのだという意見は「現実」的なようでいて、実は、既得権益を護りたい政治家や大企業、そして経済の失速を恐れるメディア自身が作り出している「幻影」に基づいているのではないか、と思うのです。
武田さんは、どのように思われますでしょうか。

朝日取材ノート1 投稿者:武田徹  投稿日: 3月31日(月)10時46分01秒

 朝日新聞で「戦争報道」についての取材を28日に受け、それが今朝、記事になった。丁寧な仕事をされる記者の人で、こちらの意図も汲みつつ、朝日の読者の関心や知識レベル(読者の中で『戦争報道』を読んでいる人など殆どいないのだからディーバー・システムなどといっても通じるはずもない)を踏まえて、わかりやすくまとめてくれたと思っている。
 ここには参考のためにその取材前に用意したメモを以下に掲載する。読み比べることによって、理解が深まり、テキストの響き合いからまた別の意味の生成作用が起こることにも期待しつつ。

*******

湾岸戦争以来、メディア側も、情報提供する軍や政府も、受け手もそれぞれに進化したと思われる。

情報戦が話題になっているし、湾岸戦争のときの油まみれの水鳥が情報操作だったことが後から発覚したのに対して、イラク兵投降シーンの怪しさや、フセインが別人かどうかなどが早い時期に話題になっている。疑う姿勢は定着したといえる。それは明らかに一歩前進だが、もろ手をあげて喜ぶわけには行かない。そのあたりの事情を考えてみたい。

情報操作は「捏造」や「すりかえ」と同時に「隠蔽」がある。確かに「捏造」や「すりかえ」にはずいぶん気をつけるようになった。
しかし今、最も注意すべきなのは隠蔽ではないか。フセインが別人ではないか(=すりかえ)や解放を喜ぶイラク市民の映像が捏造ではないかとして情報操作を大いに議論している時間で、何か大きなものが隠蔽されている可能性はないか。

もしかしたら、その種の映像は、情報操作をかぎ分けようと必死になり始めている湾岸戦争以後のメディア状況の中に、敢えて情報操作を疑わせる餌として撒かれており、それにメディアも受けてもうっかりひっかかっている可能性はないか。疑うので在ればそこまで疑うべきだ。

われわれが気づいている領域を越えて情報操作は行われている。操作する手法も湾岸戦争後に洗練化されているはずで、湾岸戦争の教訓にもとづいて操作を見抜いて有頂天になっているのは危険だろう。

もう少し視点を大きく取る必要がある。
ジャーナリズムと戦争には親和性がある。しかしそれが隠蔽されている。なぜ戦争で報道は生き生きと輝くのか、そうした問題を考える視点はすっぽり抜け落ちている。

たとえ遠にい日本いても、戦争の趨勢を知りたいと願うのは自然な心情である。しかし裏も取れていない情報、操作されている可能性が否定できない情報まですぐにでも知りたがるというのはなぜか。そうした「知る欲望」の構造を見極める必要がある。

なぜ戦争になるとメディアは裏をとる慎重さが極端に失うのか。そんなメディアを視聴者も許容するのか。なぜ正確な報道を重視する姿勢が揺らぎ、速報に退去して流れるようになるのか。そこは考えておくべきだろう。


メディアの「質」と言うことでは、まず戦争と報道は親和性が高いというこうした事情をわきまえるべきだろう。実は戦争だkでなく、犯罪と報道もそうで、歴史的に近代国家は犯罪を報道するジャーナリズムを必要としたが、戦争の正義を訴えるためにもジャーナリズムを必要とした。国家にとってジャーナリズムの利用価値が高いのが犯罪報道であり、戦争報道である。そのため、いかに報道を利用するかのノウハウは積み重ねられて来た。犯罪報道、戦争報道ではメディア側に政府から様々な利益供与(従軍許可は独占報道権の付与でもアル)があり、そこに国とメディアの共犯関係が創られてきた。戦前の同盟通信社の歴史はまさにそれを物語る。
情報操作はまさにそうしたメディアを利用したいという要請から使われる方法だが、操作の具体的な側面はともかく、そうした共犯の枠組みの中に未だにジャーナリズムはあることは認めるべきだろう。ジャーナリズムを共犯からときほどくためになにをすればよいかの議論はまだ本格的にはなされていない。

朝日取材ノート2 投稿者:武田徹  投稿日: 3月31日(月)10時45分24秒


取材の限界も顕著に露呈する。
現場報道は宿命的に一面的にしかならない。一面的に見ても事実の総体が分かるような場合、交通事故車両の状況を報じるときには問題はないが、一面的に見ることが事実の一部分にしか届かない場合(たとえば交通事故加害者の心情を記述する場合など)は、現場報道の限界をわきまえて一面的な視点からの判断を客観的な事実として報じないようにする必要がある。
戦争報道、特に従軍取材はそうした一面性を担う。勇敢なアメリカ軍、どう猛なイラク兵を描けばおのずと一面的な限界が生じる。

ベトナム戦争の時には従軍取材の一方で、心ある記者は解放村取材をするなど努力をしていた。そうした努力はもちろん必要だが、しかしこれは余りに多くを望んでも詮無き問題だ。特にテレビ取材の場合、中間地点にカメラを置いて両方の側を映すことは不可能だ。無理な期待を抱くよりも、現場取材は一面的になるという限界を認識し、それを織り込んだ形で報道の全体像を構成することが必要だろう。従軍取材のルールに即して取材していると注記するのはうっとおしいと思われるかも知れないが必要な措置。これぞという決め手はなくて、しいて言えば映像の出展を徹底的に銘記することというごく基本的な報道姿勢を改めて守ることの積み重ねぐらいしか思いつかない。それがどのような引用を経てそこに現れているか経路情報を付記すること、そうした面倒な手続きが必要だろう。

とはいえ事実報道が困難だからといってそれを手放すべきではない。
反戦報道をよかれとしがちな風潮があるが、ジャーナリズムが何をどう報道すべきかまで判断することにはあまり賛成できない。戦争反対まで唱えるべきかどうか。
そうではなく、今までいったことと一見矛盾するようだが、ジャーナリズムの本質はやはり事実報道に尽きる。そこにあった事実を、ただ現在の位相の中で報じる。その歴史的な意味を論じる作業は難しい。急ぎ足のメディアとしてのジャーナリズムには荷が重い。それは歴史家に任せるべきだろう。戦争報道のように一時的な情報が大量に氾濫する時にこそ解説欄や論説欄の充実が必要である。人々が最新のニュースを欲しがる時に、最新のニュースと同じ重量での、戦争の世界史的な位置づけを論じる資格在る識者による解説記事が必要ではないか。そうした重量配分でこそジャーナリズムは誠実さを示すべきではないか。

事実を報じることが特定勢力に利益する場合がある。死体を映せばアメリカの世論は反戦の側に転がるだろう。だから死体や捕虜の映像を自粛させるように圧力を掛ける。これには抗うべきだ。事実がそこにある。それを知らせるのはジャーナリズムの義務である。
死体のリアリティを前にひるむような戦争は正義の名には値しない。死体を見たくないのだったら初めから戦争の手段に訴えるべきではなかった。
死体の報道には確かに人権的な問題もあるが、その一方でそうした人権とかプライバシーとかいう概念をうまく利用して戦争とは人が死ぬものだと言う事実を隠させてきた隠蔽のメカニズムについて思いをはせるべきだ。



 そして戦争報道は平時にも潜んでいたメディアの構造的問題を先鋭に浮き彫りにするものでもある。
たとえば情報操作におけるPR会社の関与も指摘されるが、それは平時にもある。コロンビアジャーナリズムレビューによればウォールストリートジャーナルの記事の80%はPR会社のニュースレーターに即して書かれ、それ以外の取材ソースを持っていなかったという。これは80年の調査でその状況は改善したとは思えない。そうした出来の良くパッケージされた情報を喜ぶ視聴者がいて、それを流すメディアがある。先の「知ることの欲望」の問題もそうだが、共犯関係がある。その関係性が戦争報道でも顕著に機能する。

そうした共犯構造にメスを入れて行くこと、つまりメディアと受け手が自分自身を斬ることからしか、情報操作の問題を本質的に解決に向けて行くことは出来ない。

そして喧しい情報操作論議の背景で隠蔽されているもの、それはもはやアメリカ軍だとか政府だとか言う主体がはっきりしたものではないかもしれない。もっとぬえのような非人称的な隠蔽のメカニズムがあるようにも思う。

たとえば何が戦争にわれわれ駆り立てているのか、そうした人間性への深い考察も隠蔽されていないか。
たとえばベトナム戦争ではジャーナリストではない関わりがあった。
戦争の論理は合理性ををつきつめると狂気に至ることを『地獄の黙示録』は示した。
開高健は戦争の中でも生きようとする人間の生と性を描こうとした。日野啓三は戦争を求める人間の歴史の本質を見抜こうとした。そうした仕事が速報の要請に足をとられて「間違えやすい」報道よりも、いかに深く、普遍的な意味合いで戦争の真実を描きだしたかを認めるべきだ。

編集済

誤爆 投稿者:武田徹  投稿日: 3月30日(日)22時02分15秒

ロイター29日によればトマホークがサウジに着弾していたとか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030330-00000475-reu-int
これは、精密誘導とか言われているのとは、あまりにかけ離れた精度ではないか。ピンポイント攻撃という概念自体がもしかしたらイメージ操作の産物ではと思いたくなる。

書評2  投稿者:武田徹  投稿日: 3月30日(日)13時22分39秒

勢いを駆ってもう一本。こちらは『若者はなぜ繋がりたがるのか』書評

http://homepage1.nifty.com/HQG01414/books/takedatoru.htm

こちらは言外に頼ったりしない、誤読の可能性も極力抑えた明晰な文章だし、丁寧に読んでくれていてうれしい。
ただ「内容は、そこそこ面白い。でも、タイトルの<なぜ繋がりたがる?>という問いへの答えは提示されない、不満の残る一冊でもある」とおっしゃるが、ちょっと反論させてもらいます。
答えが書いてあると思うかどうかは、どのような答えを求めているかと相関する要素があるので、書評者がそう感じたことは尊重したいけれど、「なぜ繋がりたがる」ように見えるかの説明は書いたつもり。この本はいくつもも作品をまとめたものなので最後に結論が出るわけではなくて、該当論文の中で早くも「答え」的な言及が出てしまっている。そのため読みすごされたのではないか、と思ったりする。
もしも、そういう結果になったのだとしたら、それも含め、やっぱり作品集はいけないなと思った。過去に雑誌に書いたものをまとめて本にする手法は日本では定石だけど、海外ではあまり例がない。作家としては二度おいしい(僕のようなクラスだと原稿料も安いし、印税も多くないので二度ともそんなおいしくないけど)ので、創作の糧を得られるという意味ではいい習慣なのだが、やはり「本は本」という毅然としたくくりがあってこそ、本は独自の価値が持てるといえるのかもしれない。『若者はーー』も書き下ろしだったら、この書評氏の期待にもっとこたえられる構成にできていただろう。そこは反省。

「まとめが現代社会への苦言やスローライフ賞賛っていうのも・・・どうかな。いえ、スローライフ自体文句はないけど」。
スローライフ賞賛って言われると少し抵抗があって、『スロー・イズ・ビューティフル』の書評とか入れているが、時間的にはこの本に収められている作品の過半はそれ以前に書かれている。で、そのときのぼくの主張をスローガン風にいえばウィリアム・モリス主義。結果的に減速傾向を許容するので、スローライフと重なるところがあるが、ぼくの立場において「スロー」は結果であって、目的ではない。モリスは大量生産化を一面では肯定もしているわけで。今にして思えばスローライフって考え方は「スロー」をあたかも目的にするかのように高らかに謳いあげるために、その反動的な結果として社会的矛盾(↓)のさまざまな隠蔽を伴いかねず、その意味では結構危ういところもあるなと。それが今のぼくの「スロー」観。というわけでスローライフ自体にやや疑問は感じています。 
編集済

書評 投稿者:武田徹  投稿日: 3月30日(日)10時13分06秒

東京万華鏡というWEBで『核論』の書評を発見。筆者は桜井淳氏。

http://www.smn.co.jp/JPN/security/art/158.html

つまらないことで揚げ足取られたくないので、リンク表示だけにします。結果同じなのに、読みにくいったらありゃしない。

 では、反論いきまぁす(笑)。
「主要な社会的矛盾が何であったのか、真摯に受け止める姿勢が必要ではないだろうか」と唐突に書き出すが、「主要な社会的矛盾」とは何を想定して言っていて、何を真摯に受け止めろというのかが分からない。ぼくもある程度は社会的矛盾をあの中で書いたと思うけれど、それとは違う矛盾なのか、そうではなく受け止め方が悪いというのか。あるいは高木批判に疑問を感じたと書き出すが、その内容も書かれていないように思う(少なくともこの文章の中では何の情報提供もされていない。行間を読め、筆者の常日頃言っている事を踏まえろということか? だとすれば「開かれていない」、ずいぶん内輪向けの文章だといわざるを得ない)。「そのような囚人のジレンマ」ってのも、何が「そのような」なのか不明。であるからして事実関係を調査しろというが、何を調査すればいいのかも分からない。言葉の足りないスカスカな文章だという印象。
「意識的に避け」ろとおっしゃるが、言われるまでもなく技術論なんかやっているつもりはぼくにはまったくなくて、技術を相手取っていはいるが、この本はカテゴリー分けすればあくまでも技術の受容史であり、文化史です。なんか根本的なところで誤解しているのではないでしょうか。「技術論は意識的に避けろ」というのは、もしかしたら単純に自分の縄張りを荒らすなってこと? 自分でも書いていてやになる、こんな俗っぽい疑いを持たせてしまうことも含め、読解力も表現力もとてもプロの域にはとても達していないと感じました。
何冊も著書がある方ですし、社会的な活動も盛んのようで、そうした事実がもしかしてこうしたあまり練られていない物言いまで堂々とさせてしまうような自信過剰を生んでいるのだとしたら、悪いことは言いません、どのような力学が働いてこの程度の思考力、表現力でも発言が求められ、著書が出せてしまうのか、真摯に省みられた方が良い。ちょっと厳しいことを言いますが、核関係の本って、著者は専門知識はあるらしいし、よくお勉強はしているんだけど、読みにくいし、問題意識がうちに閉じてしまっているそんな本が多い(逆にそうではなく、大衆に向かって開かれた本は、科学に対して閉じられる)。そこに日本の核を巡る状況の「質」を考えさせるヒントのひとつが隠されているようにも思ったりします。安全とか安心の問題とは、そうしたうちにいずれかの方向には必ず閉ざされている議論空間で論じられるべきものではない。専門知識を踏まえて、外に開いてゆく表現力や思考力が絶対に必要でしょう。
正直に言えば、ぼくはそれでも桜井氏の、読みやすいとは言えない本をずいぶんと読んできたし、そこに踏まえられている、どうしてこんなに熱心に調べ、書くのかという動機の部分や、真摯な問題意識を読み取ろうとはしてきたんですよ(「文献をあたれ」というけれど、少なくとも桜井本には当たっている。しかし、詳しいけれど、膠着した状況をブレークスルーする力はないと感じ、あえて引用するに値しないと思った。読むのを怠っているわけではない。引用しなかったのは読んだ上での判断です。そこ、もしかしたら誤解されているかもしれないので念のため)。しかしそうして批評的に読む読者に原子力関係の本はどの程度恵まれているか。所詮は初めから立場があってその中で消費されているとはいえないか。そんな扱われ方しかしないところにぼくは核を巡る言論の不幸を感じてきましたが、この書評もうちに閉じているというところで、まさにそうした状況の中に位置づけられる典型的な仕事という感じがしました。
編集済

情報衛星  投稿者:武田徹  投稿日: 3月29日(土)02時46分04秒

 イラクから転じて北の話。
 北の外務省スポークスマンが日本の情報収集衛星打ち上げについて「日本は、互いに相手を脅かす行動をしてはならないという朝日平壌宣言の精神に違反した」と批判、「日本はわれわれの衛星打ち上げについてうんぬんする名分や資格を完全に失った」と警告したという。
 ちょっと気になるのは、この情報衛星の打ち上げ決定は小渕内閣時であり、平壌宣言よりはるか前だ。ということは平壌宣言の交渉時、この衛星はどう扱われていたんだろう。というか、話題に出ていたんだろうか。僕の記憶では触れられていなかったように思うのだが、報じられていなかったところで小泉が何か約束していたら、北の今後の反応もおのずと変わってくるように思う。それにしても平壌宣言って結局、細部がどうなっていたのか不明だ、それを改めて思う。拉致問題ばかりがクローズアップされていたからだろう。

 衛星の情報は内閣衛星情報センターが非公開で管理するという。そういう従来の軍事機密のセオリー通りのやり方しかできないんだろうか。公開してしまうことによって情報による戦争抑止力を促進させてむしろ平和に貢献するとか、憲法9条のラディカルな「先進性」を生かすような衛星収集情報の生かし方があったらせめて良いと思うのだけど、9条なんて要らない政府にそれを望むのは所詮無理なのだろう。

 中国から帰ってきて、国内出張をこなしていたら花粉症が劇症化してしまった。日本の杉の人工林は今、きっと花盛りなのだろう。杉林はいまや値段が暴落していて切るに切れないし、不況のおりそう手もかけられないから、茂りっぱなしで存分に咲いてくれている。おかげでこっちは仕事にもならないで、涙と鼻水を流している。明日は朝から病院にいって薬をもらおうと思っている。

 新星堂で視聴したらギターがかっこよかったのでカルメンマキ&OZのライブの復刻版を衝動的に買ってしまった。高校が終わった春休み、自転車を駆って近所の公共図書館で借りたレコードの一枚がマキOZだった。金がなかったのでレンタルやら図書館にリクエスト出すやらでやりくりしてお金をかけずにできるだけ大量の音楽を聴こうと努力していた。そのころすでに同時代ではなかったバンドであり、いまや化石を発掘したかのように古い。でもボーカリストとしては大黒真稀(って表記だっけか?)より今なおカルメンマキの方が優れているように思う。似た唱法と名前だけど。

そう言えば  投稿者:武田徹  投稿日: 3月28日(金)10時28分10秒

記憶がよみがえったのだが、湾岸戦争が起きた時、SPA!でいとうせいこうと戦争に関する対談をした。そこでぼくはメディアがいかに戦争を欲しているかを強調していた。その意味では『戦争報道』の「メディアが戦争を作る」という視点は10年間かけて用意されていたといえるのかもしれない。
いとうさんは、とても繊細な人なので、死んでゆく人の痛みがわがことのように感じられてしまうのだろう、文字通り身体を震えさせながら、恐怖や無念さや、そのほかもろもろのこみ上げてきてはほとばしりうねる感情と必死で戦っているかのようだった。芸術家(という定義は狭すぎるが)とはそうした「感じる力」を備えているものなのだと思った。いとうさんはスカッドが届く距離の中に想像力で自分自身を置き、ぼくはスカッドが届かない距離にいる自分が何を言えるか、言うべきかを考えていた。ちなみにその対談を構成したのは、後の重松清氏だった。

そして対談後、文学者戦争反対運動なんてのもあった。いとうさんがその集会の質疑応答の時に行った万感を込めた発言は、集まった人の気持ちを動かさずにはいなかったと思う。それと比較すると、発起人の一人だった柄谷が述べた戦争反対の論理はあまりにも軽々しく感じられたほどだった。
その集会では、過去に反核などさまざまな文学者の署名運動が惨めな結果に終わっていたことを考えて躊躇する人も多く、紆余曲折はあったが、結局、対象を特定せずに「戦争反対」の意思を表明する署名を募ることとなる。いとうさんは署名した。それは彼の感じやすい心と身体がそうさせた、そうせざるをえない状況に彼はいたのだと思う。その意味でその署名は、結局、功を奏さなかったけれど、とても真摯なものだった。ぼくは署名はしなかった。いとうさんの真摯さに揺さぶられ、当然のごとく逡巡もあったが、やはりぼくの心と身体が署名という形での意思表明を拒んだのだ。そこには必然性があったのだと今では思っている。

イラクは、急速にベトナム化していないか。イラク市民をフセインの全体主義から解放するという論理は、共産主義の脅威からベトナム市民を守るという、当時のアメリカの論理とあまりにも相似的だ。そうした論理に基づく武力介入が現地の意識とあまりにかけ離れており(ベトナム人はそれを植民地主義の暴力としか感じなかった)、反発するベトナム市民と対峙して、いたるところに戦場が開かれる総力戦が始まる。アメリカ兵はどこからでも攻撃される悪夢を味わう。

そんなベトナムの悪夢を振り切ることが、アメリカの「戦後」問題だった。中東での覇権を得ることも重要だろうが、負けた戦争の後味の悪さを忘れたいということも大きく、そのためにもイラクで今度こそ完全な勝利を上げることは絶対の命題で、長い期間をかけてアメリカは準備してきたのだと思う。たとえばメディア戦略もベトナム戦争後に急激に進化した。そして湾岸戦争、アフガン侵攻は、大きなメディア戦略を含む準備期間だったのであり、それを経て今回に至ったのではないかというのが↓で書いたことだ。

しかしその結果、イラクのベトナム化が起きるのだとしたらなんという皮肉か。
ベトナムの共産化は軍事介入では防げなかった。そしてアメリカが存在している以上、その影としてフセイン的なものも存在の必然性がおそらくはある。パレスティナ難民への支援をフセイン政権が行っているのはアラブ諸国では自明のことだ。そんなフセイン的なもの台頭も、アメリカ流の民主化の論理にもとづく軍事力では防げないということか。
共産ベトナムは20年以上たってドル札が使える国に変質した。軍事ではなしえなかったことを、ドル札がなしとげる。イラクもそうなのかもしれない。もっともドル札が使えるようになったベトナムは精神において腐敗をきわめているけれど。

今にして思えば   投稿者:武田徹  投稿日: 3月27日(木)00時12分01秒

これは深読みに過ぎるのだろうが、今にして思えば、湾岸戦争がイラク国内の地上戦に入らずに終戦を迎えたこと(サウジの強い意向が働いていたともいわれるがーー)も、アフガンで北部同盟の従軍記者の頭上をはるか憩えた場所で空爆を行い、記者のいないところで特殊部隊に掃討作戦に従事させたことも、アメリカの国内世論を意識してのことだったように考えたくなる誘惑を禁じえない。結果的にフセイン政権を生き残らせ、ビンラディンを捕獲できなかったことを、ブッシュ親子のミスと指摘する声が高かったが、その作戦は少なくともひとつの確かな功を奏している。戦争では人が死ぬということをリアルに感じさせなくなったということだ。両戦争で死体はほとんどTVに映っていないのだ。
戦争とは人が死ぬものだ、そんな当たり前の事実がーーおかしな言い方だがーー、改めて周知徹底されていたら、今回のイラク侵攻はできなかったに違いない。だとすると、まさか、すべてが仕組まれていたわけではないだろうが、報道された内容と戦争の進行具合を重ね合わせると結果的にひとつらなりの整合性ができてしまっている。今回、犠牲者が出始めたことに対してパウエルが戦争とはそういうものだと初めて述べた。戦争とは人が死ぬものだという事実を語ることの封印をがようやく解かれた、そんな印象を持つ。
湾岸戦争から今回のイラク侵攻までの時間を考えると整合性を乱すものは、ソマリアの例のブラックホークダウンの一件だが、あれはクリントン時代だし、もうひとつ死を意識させたのは、ほかでもない911だけど、うーん、あれはどうなんだろう。田中宇氏はあれも仕組まれていたと解釈するが・・・・。ぼくは陰謀説に偏るのは危険な感じがする。が、ひとつだけ今でも腑に落ちないのは、飛行機学校を出たばかりの原理主義者たちにあんなにうまく飛行機をビルにぶつけられるのかということだ。911直後もそれは話題になっていた。
そして、あのとき出なかった論点が地上側の管制でコントロールしたらどうなるかということだ。今の旅客機はほとんどの場合、地上側のディスパッチャーのプログラムに応じて飛んでいる。機長がコースの変更を許されるのはごく例外的だ。911でハイジャックされたという旅客機も、地上側でWTCに向かうようにプログラムされていたら、機長がいかに未熟な運転技能であってもビルへの突入は可能だったろう。では誰が地上側でそんなプログラムを飛行機にインプットさせたのか・・・・。いや、いや、そんなはずはない、まさかとは思うのだが・・・・、ブッシュ親子政権時代に今回のイラク侵攻が着実に用意されてきたと仮定して、その中に911をも位置づけるなら、犠牲者をあそこまで出すような選択をするはずがないと思いたい気持ちを強引にでも判断停止させて、微塵ほども確かではないだろう可能性にも一瞥をくれて改めて検証してみる必要もあるのかもしれない。
911は死をアメリカ人の意識に刻印したが、戦争ではなかったというところが重要かもしれない。911のテロによるリアルな死が、意識の「変換装置」を通過して死のリアリティを感じさせないアフガンやイラク侵攻を促す要素になってゆく。だとすれば911もやはりまた・・・・・?
いやいや、こんな妄想じみたことを、ぼくがいいたくなるのも確かなことが乏しくなっているせいだ。おそらくそれは広く共有されている印象なのだろう、たとえば情報戦を論じるTV番組なども多い。フセインは本物かどうか。それを疑うんだったらブッシュや木村太郎が本物かどうかも疑うべきだが(メディアを通した間接的な情報という意味では同質であり、疑う、疑わないは習い性以上のものではない。なんでブッシュや、さらには木村太郎までも影武者を使わなければならないのかと反論されそうだが、自分に想像のつく論理で戦争が遂行されていると信じることに根拠はまったくない。疑い続けようとする意識に歯止めをかけるものは複雑性を縮減して信頼を寄せようとする社会システム>ルーマンの発動以外にない。つまりそれは科学的に説明のつくものではない。原理的に考えればそうとしか言いようがない)、それはそれとして、情報戦をテーマにするのなら、そうしたドラマティックなすり替えのようなレベルで論じるよりも、もっと広い射程で、戦争報道で何が隠蔽されているか、いかなる情報の氾濫によって、メディアの総量の中でいかなる情報が逆に隠蔽されているか。そうして隠蔽されてきたのかに注意を向けると情報戦についても新しい視点が導けるように思う。私たちは湾岸戦争で何をみて、何を見ずに済ませて来たのか。アフガン侵攻では? そして今回は?

従軍取材 投稿者:武田徹  投稿日: 3月25日(火)17時11分28秒

今回は米英軍に取材者が相当数はいっており、戦場の映像はかなり潤沢だ。戦闘現場からの「史上初!生中継」と謳っている局もあった。

しかしここで考えておくべきなのは、アフガン侵攻との相違だ。あのときは従軍取材は認められず、映像はきわめて限られた。フリーの記者が送ってくる映像は、戦場まで辿りつけない彼らが、はるか後方にカメラを構え、遠方にあがった煙を映したものが多かった。だからアフガン侵攻は、戦争の映像的記憶が驚くほど薄い。

この違いは何か。なぜアフガンでは従軍取材を許可せず、イラクでは許したのか。戦争のあり方の違いなのだろうが、たぶんそれは今回の情報操作の方法論とも深い部分で関わっている。

湾岸戦争のときはトマホークからの映像をメディアに自発的に流させる方法がディーバーシステムの核だった。今回は記者の報告がやはり自発的に流される。従軍記者の報告は事実なんだけど、従軍記者の視点において見られた事実でしかなく、戦争の事実の総体とはもちろんいえない。しかし従軍記者の報告で、報道の多くの時間が覆われてしまうというのは湾岸戦争のディーバーシステムの発動と同じだ。ジャーナリズム、報道のメカニズム、取材という方法を巻き込んだ形の情報操作のあり方をぼくたちは見せられている。それは記者の生身が織り込まれたディーバーシステムだ。彼らが事実を客観的に取材し、正確に報道すればするほど、つまりジャーナリズムの論理を倫理的に遂行すればするほど、アメリカの利益に奉仕してしまう共犯の構図が用意されているように思う。

ただ、その構図は崩れるかもしれない。もっと刺激的な映像が出てくれば。たとえば捕虜、たとえば死体・・・・。そうした刺激的な映像が出ればメディアは従軍記者の報告からアラブ側のメディアの情報にスイッチングするだろう。しかし、それは戦局次第であって、ジャーナリズムの論理から出てくる変化ではない。さらに大きな視点で言うと、ルーマンが指摘したマスメディアシステムの論理の中で、情報価値ある映像が選ばれている、ただそれだけだ。

そんな状況を思うと、改めてジャーナリズムと戦争のかかわりについて平時にもっと考えて、より洗練されたかたちでの情報操作や、マスメディア・システムの非人称的なメカニズム発動にも対抗できるジャーナリズムの論理を構築しておくべきだったと思う。『戦争報道』を書いたのはまさにそうした問題意識からだったのだが、あまりにも影響力が少なかった。

予防戦争権 投稿者:武田徹  投稿日: 3月25日(火)00時54分11秒

これは専門家はもう議論し尽くしたことなのだろうが、ぼくなりにもう一度。
アメリカは潜在的な脅威となっている国に、将来の危険を回避するために侵攻する戦争を予防戦争と位置づけている。今回のイラク侵攻がそうなのだ、と。

しかし予防外交ならいざ知らず、予防戦争の権利というのは果たして正当化できるのだろうか。

いや、戦争絶対反対というつもりはないんですよ。そんなナイーブな立場は取らない。

そうではないのだが、ここで思い起こすのがロールズの正義論の第二公理なのだ。
言葉通りの引用はせず、かいつまんでいえば「全員がそれをしたときに世界が崩壊しないようなことをする権利は正当化できる」というのがロールズの第二公理である(って解釈でいいのだろうか>専門家の方々)。逆に言えば、全員にそれをする権利が認められない行為を行うことは不公正をもたらすので正義とは認められない、ということにある。

予防戦争というのはどうだろう。世界の国々がすべて予防戦争を行う権利を行使したらそれこそとんでもないことになるので、ロールズの正義論の枠組みの中ではそれは認められない。つまりそれは正義ではないということになる。

では生物化学兵器、あるいは核兵器を持つことはどうか。世界中の国がその種の大量殺戮兵器を所有したとしてもそれだけでは何も起きない。つまりそれらを所有する権利はロールズの正義論では正当化されることになる。

ロールズの正義論は20世紀の政治学の業績の中で際めて原理的な思考だと思うが、その枠組みにしたがえば正義は(たとえ大量化学兵器を所有しているとしても、それでもなお)フセインの側にあってブッシュの側にはないという結論が引かれる。もちろん、だからフセインを支持するというつもりはなく、ここまで単純化した議論に意味はないが、それにしても、しごくまっとうな政治学の業績に照らし合わせて考えてみる思考実験は、世界のあり方を見渡す上で役に立つだろう。

たとえば北朝鮮の核を意識して、日本が核所有してもそれは正義だということになる。使わない限り。東アジアの秩序維持についてもアメリカの核の威力に期待するために、予防戦争の同盟国となるよりも、核武装の選択肢の方がロールズ的には正当化できるということを、どう考えればいいんだろう。ロールズは引いていなかったが、やはりこれと同じ種の筋道を通って、たとえば清水幾多郎は核武装論者になっていったのかもしれない。対抗できる論理が何かほしいところ。

報道者配置図 投稿者:武田徹  投稿日: 3月24日(月)15時40分08秒

日本語で戦争報道を見たり聴けたりできるようになって、改めて思うのは日本のメディアは力があるなぁということだ。取材力ではないです。表現力というか、すぐに模型とか作って説明するでしょ。分かりやすさ、一目瞭然化の努力はすごいし、速攻で作ってしまう力はなかなかのものだと思う。
しかし元になる情報が間違っていると、一目瞭然であることはかえって問題にもなる。ただ一方で元になる情報の確度が極端に落ちるのは戦争報道の宿命。そのあたりどうさじ加減してゆくかが問われる。

で、思うんだけど、模型を作る力を取材、報道メディア地図を作るってのはどうだろう。たとえばバクダッドに残っているメディアはどことどこで、それはどこのメディアに配信しているのか、どこと提携関係があるか、米軍捕虜の映像はどことどこのメディアを通じて送られているか、軍発表、従軍記者状況などなどを一目瞭然に示してくれれば、それぞれの情報に触れる側の心の準備もできようというものではないか。

メディア関係者もバカじゃなく、湾岸戦争のときよりも情報管制に対する意識は確実に高まっている。もちろん米軍もそのあたりは自覚しており、同じ手法はいまのところ使っていないと思う。すぐにバレるうそでみすみす世論の反発を導くほどヤワじゃないだろう。情報操作があるとすれば、ぼくたちが簡単に気づくところではない部分で機能していると考えたほうがいい。
そんな手法が不明な状況において、やはり必要なのは、出典の明記というような基本の基本を守ることのような気がする。メディア地図もそのための道具のひとつだが、誰がどこでその映像を撮影し、どのメディアを経由して届いたか、付加情報をファイルとして添付し、最後に使用したメディアが自分の名をそのクレジットを追加する。そのクレジットリストを映像と一緒に見れるようにする(撮影データを記録したデジカメのexifデータのイメージ)。
映像情報の操作はまったく存在しないことを人工的に作る(アポロ11がうそならこのケースだが)のではなく、映像の事実としては実際にあったことが別の文脈で用いられることによる(かの有名な油まみれの汚れた水鳥ですね)。その意味でインターネットのサーバー経由路線のリストアップのように、こうした情報を付加して扱うような習慣が作られれば、ずいぶんと情報の確度はあがるのではないか。

東京 投稿者:武田徹  投稿日: 3月22日(土)20時30分06秒

戻りました。
そうハードな旅程ではなかったのだけど、成田エキスプレスの車内で結構、疲れてしまっている自分を発見する。認めたくないけれど年齢なのかなぁ。思うように取材できなくなるのは本当に悔しい。ジム行かなくては。
家に帰ってきても誰もいない。うちは離散家族なのだ。とえりあえず荷物を解いて一服。
出先で書き込みが自由にできなかったのは本当にもどかしかった。↓のメガネの話も言葉足らずで。要するに伝えられている情報の細部からいかに二次的な情報を読み取れるかということが言いたかったのだ。演説内容ではなく、フセイン(とされている人物)の実在だけでなく、そこに映っているあらゆるものが何かの情報を伝えている、そういうものをいかに多様に読み解けるようになるのかがメディアリテラシーなのだと思う。メガネは、フセインが夜更けに動揺していた、彼も老いている、フセインはマッチョイズムでイラク国民を統制しているのではない、別人であるのを隠している・・・・までさまざまな含意を含みうる記号だということが言いたかったのだ。

成田からの帰り道、夕刊紙の派手な紙面を見ながら、公益について改めて考える必要があるだろうと思っていた。公益のための報道とは何か、だけでない。たとえば戦争反対のデモはいま本当に公益のためになるのだろうか。人間の盾になるためにイラク入りすることは? もしも(万が一に)アメリカを止めることはできたとして、それはいま公益にかなうことなのだろうか。国益、私益、アメリカの利益、先進国の利益、イラクの利益、フセインの利益・・・さまざまな利益、被害が交錯している権力の構造の中でその行為がどこにどう作用するものなのか考えてみる習慣をつける必要がある。正義の戦争なんてないーーー、ウタダもそうHPに書いたとか中国で聞いたがーー確かにそうなんだけど、正しいがゆえに戸惑う感覚をぼくは禁じえない。そんなことを考えていた。

香港の肺炎は、世界各地に被害が広がっているが、いずれも香港に旅行して感染したとされるべトナム人医師、カナダ人医師などは華僑だと現地で聞いた。中国人のネットワークが感染症を広めるネットワークにもなっている。いや、だからなんだということではないんだけど、その話を聞いたときに、「世界に蔓延した」という言い方からイメージされるのとはやや異質な、もう少し親しいーーが広がりは世界大のーー人間関係の中をウィルスは伝播しているように感じた。

上海 投稿者:武田徹  投稿日: 3月21日(金)19時47分58秒

香港から脱出して上海へ。昨日フセインのメガネが気になるとかいたのは、メガネなんかかけていなかっただろうというレベルの話ではなくて、あのようなシチュエイションでメガネをかけて出てくるものなのかと思った次第。だって老眼でしょ。わざわざ老いた自分の姿をあのタイミングでさらすだろうか。そのためメガネは表情のディテイルをかくすためのものかなと思った。よくわからない。これは軍事評論家がたくさんメディアにでている日本と中国でそうかわらないと思うけど。
あとこれも昨日書いた肺炎でホテルで死んだというのは間違いで病院だったよう。行動経路をさかのぼって宿泊していたメトロポールホテルが隔離消毒されたということらしい。学校もいくつか消毒されている。ラッサ熱にも効く抗ウィルス剤のビバビリンが効いたケースと効かないケースがあって。やはりまだ治療法はわからないようだ。もしも日本のメディアにマスクをしている人が写っていたとしたらそれはやらせです。そんな人はほとんどいない。
今、上海フォーシズンズホテルのビジネスセンター.日本語が書ける環境を作るのは結構難しい。

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