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ガンジロ 投稿者:武田徹  投稿日: 2月24日(月)14時06分02秒

ガングロとはなんだったのか入稿。もう今日、校了らしい。危なかったですねー。
で、書きながら考えたんだけど、ガングロとはなんだったのかよりもなんでガングロになるまで黒くなるのが止まらないかか大事なように思う。顔の黒さよりも制動装置の不在こそが考察に値するテーマなのではないか。だってほかにも止まれなかった流行って多くある。ダイエット、クラブからドラッグへ、清潔志向などなど。
経済力に限界があって、そう流行に突進できなかったのは過去の話で若者(特に都心部の女子高校生など)の可処分所得は不況だとはいえそうとうにあるし、いざとなったら消費者金融だとかかつあげとかもできる。となると経済力の壁で足止め食らうことはなくて、あることに夢中になればとことん志向性を深めてしまう。その典型的な例がガングロだった。
その構図は変わっていないので、絶対に第二第三のガングロはやってくる。たとえば今は美白よなんてすましている女性が多いが、美白が行き過ぎてガンシロを産む可能性はかなり高いと思う。そして奇面でまた世界の笑いものになるのだ(面白いからいいけど)。一時のZONEはちょっと怪しかったと思う。もう少し歌に力があればあそこからガンシロブームってこともあったと思う。次の機会は・・・・、いつなのかな。

寧辺 投稿者:武田徹  投稿日: 2月23日(日)20時41分11秒

仮説だけど、もしも寧辺(って表記でよいんでしたっけ?)の核関連施設に空爆などの攻撃が加えられた場合、どの程度の放射線被害が周囲に広がり得るんだろう。現状で再起動したといわれる原子炉は出力的には小さいので、それが破壊されてもチェルノブイリよりはもちろん被害は少ないのだろうが、ほかにも再処理施設などはどの程度の核分裂生成物がそこに貯蔵されているかで、攻撃を受けたあとの被害状況は変わるんだろう。
しかし、それって日本まで届くってことはないかな。原子力資料情報室とかの人はそのあたりの計算をきっちりやってくれないものだろうか。もし汚染が日本まで及ぶとなるとそうなってくると世論はまったく変わってしまうようにも思う。
アメリカがイラク侵攻に熱心なのは、ブラックジョークみたいだが、そこに核がないことが実は分かっているからのような気もする。核があれば下手に攻撃したら最後、放射線被害が長い時間残る結果になって、お目当ての石油開発も危うくなるだろうし、トルコだって基地の使用許可を出したかどうか。こんなことまで含めて核があるかないかは歴史の流れを変える上でやはり大きいのだと思う。

戦争報道はようやくオンラインショップでも買えるようになって来ました。ジュンクはオッケー。bk1は数日前から準備完了済み。eSブックスも今日からオッケー。アマゾンは・・・だめなんだなこれが。なめとんのかおんどりゃ。

test 投稿者:test  投稿日: 2月23日(日)20時35分30秒

http://slashdot.jp/comments.pl?sid=75860&cid=265960

終わらない    投稿者:武田徹  投稿日: 2月23日(日)00時14分51秒

単行本が終わって一段落するはずが、なぜか猛烈に忙しい。2日に一本のぺースで落ちるか落ちないかの一線上を綱渡りしながら、原稿を書き続けている。
ここしばらくでは、「イラク侵攻報道について」。戦争報道の副産物で、ディーバーシステムの情報管制について書く。この種の原稿で気になるのは、これが出るときに世界はどうなっているか、具体的には戦争は始まっているのか、だけど、もしかして、このまま起きない、かな。ちょっとそんな気もしている。先の日曜日に都立大の学生の就職祝いをして、いつ戦争が起きるか賭けた(不謹慎!)ら、後になってメールでの投票だったけど「起きない」に賭ける学生がやっぱりいた。ぼくはそのときは3月17日開戦説(単純にかつての湾岸戦争が開戦した17日を数字的に踏襲しているだけ。あとそのときは中国にいそういなので、高度成長中の中国で石油危機に繋がりかねない開戦を経験できると後学のためになるかもという期待もややあり)を唱えたけれど、起きないにも相乗りしたい。北のほうがもしかししたら先に何かあるかもしれない気もする。やだなぁ。火曜に森ビル社長インタビューし、2日後には原稿(ともにインビテーション)。そしてこの土日で「ガングロは何だったのか」。ほんとにガングロって何だったんですかね。当時の時代の空気を思いだそうとして、浜崎あゆみなんか聞いてみる。元ガングロに話も聞いてみた。黒かった顔はファンデーションを落とし、日サロにいかなくなれば消えてしまう、外側に作られ人工の(文化という)皮膚だったわけだが、その実、彼女たちの内面に確かに織り込まれてもいるはずなのだ。その沈殿を探し当てようとした取材は終始空回り気味だった。これが元ガングロ?と思うような華奢な体つきがやけに印象的だった。
あと中公の単行本用企画書と大塚英志さんに頼まれた『新現実』用原稿も書かなければならないのだが・・・、あ、月曜はアクシス締め切りか・・・・。終わらない、終わらない。
そういえば先日、電通系の食事会で会ったクールステイツの岡田くんから「武田さん、昔の求道者っぽい雰囲気がなくなりましたね」と言われた。悪かったな(笑)。でもそれは単純に太ったからじゃないのか。今の方がよっぽどせっぱ詰まった気持ちで仕事をしていると思うぞ。延びきってぷちんと切れそうなくらいに、ね(しかし開高健の没落もエッセー『太った』を書いた頃から始まっている)。
夕方パソコン一台調達。キムラヤの展示品処分用。パソコンよりも洋服を買うことにときめく感性を取り盛り戻したい。

戦争報道 投稿者:武田徹  投稿日: 2月21日(金)00時24分58秒

『戦争報道』は一応、今日が刊行日。紀伊国屋BOOKWEBで見たら表示はあるけれど在庫なしになっていたけど、そろそろ書店にも並ぶと思う。
『核論』を出したときほど心が騒ぐことはないが、それでも書いていた時のことを改めて思い出す。筑摩の人との最初の打ち合わせは文化村のドウマーゴだった。12月で膝掛けを店から借りたっけ。オーウェルの章の執筆の場はお馴染み河口湖だ。インターネットの章は新宿京王プラザ。開高健を書いていたのは父親が虎ノ門病院に入院していた夏。開高の章で使った日野啓三の批評を読んだのは山中湖。地獄の黙示録論は蓼科断食ホテル(笑)。こう思い出して行くと、この本は自宅では殆ど書いていない。殆どが出先でVAIOーC1で書いた。
少しでも評判になればいいのだが。

クリエ 投稿者:武田徹  投稿日: 2月18日(火)09時37分18秒

前にここに書いたクリエNZ90が15日土曜日に着いた。最初のプレスリリースから一週間遅れだ。最近、バイオもそうだが、ソニーは品切れが多くなっていたり、発売日がずれたりするケースが多くて少し生産管理が乱れている感じ。なにか大きな商品新展開を用意していて、ラインがそっちに占有されているのではないか。だとしたら、なんだろう。
さて、このクリエだが、最近、スケジュール管理は携帯電話でやっているので、PDAの使い道と言ったらウォークマン代わりぐらいしか思いつかない(あとは非常時のカメラとテレコ機能)。で、買った直後から音楽データの転送をやっているんだが、これが結構難航している。ソニー自慢の著作権管理システムは、アプリ満載でドライバーも錯綜しているだろううちのパソコンが悪いのかも知れないが、まだ正常に作動していない。圧縮・転送用ソフトのソニックステージはメモリスティックを外部HDとして認識するのだが、著作権管理の認証が出来ないなどの症状が不規則に出て、うまくデータが転送できない。これではせっかくマジックゲート対応メモリースティック買った意味がない。著作権管理をしていないMP3ファイルは転送作業も楽勝(だいたいマイコンピュータ上で普通のファイルの移動の方法で簡単にできてしまう)で、このあたりもなかなかマジックゲートが普及しない理由ではないか。コピーは(三代ということではなく)三回までは出来るが8つまり子供が三人まで、曾孫までということではない)、再生可能な機種をダウンロードしたその機体に限定するなど、コピーを取りたいユーザーと取らせたくないコンテンツメカーの両方を意識した方法を採用しており、説明のフローチャート図を読んでいても複雑で辟易するが、それを実現する技術もまたかなり高度なものらしく、そう簡単には扱えない印象を持った。
こんなATTRAC3をシリコンオーディオに使っている人って実際にどの程度いるんだろう。ソニーも実はソニックステージでMP3が扱えるようにするプラグインを出している。そりゃ使い手にしてみれば何の制約もないMP3の方が断然楽。著作権者としては少し微妙だが。ATTRACは「違法コピー防止に踏み出しました」とコンテンツ会社への言い訳するためのものに過ぎないのではないか。実用品ではないのではないかという気すらしてくる。
相当にデジタルだと著作権管理が一網打尽に出来てしまい、超管理型社会になることをレッシグあたりは恐れている、それは一理あるが、完全な管理以前に著作権管理技術が原因で発生するトラブルにより、コンテンツビジネスが崩壊してしまうなんてブラックジョークみたいな事態にはならないのだろうか。コピープロテクトCDも、CDRを焼いているわけでもないのに再生機次第では聞けないケースがあるという。コピ−プロテクトのためにCDがそもそも聞けなくなるとしたら、手術は成功したが患者は死んだの類だ。でもそれって冗談ではなくなっているような気がする。

NHK出版『変革の世紀』第二集の見本が届いた。暗号技術について一章執筆。これでこの仕事も終わり。

ps その後、パソコンに二つあるUSBコネクタを取り替えて使ったらATTRACでも転送できた。ハブはダメというのは知っていたが、パソコン直づけでも優位なコネクタとそうでないものがあるらしい。しかし一度は出来たが放置しておくと接続が切れたり不安定なことには変わりはない。
編集済

誤植 投稿者:武田徹  投稿日: 2月14日(金)12時24分25秒

『核論』の誤植はまとめてWEBページを作ります。でもたぶん相当先になると思う。個人的な事情で、甘えていると言われても仕方がないんだけど、この本はぼくは読み返すのがとてもしんどくて。でも、イヤでも読み返さざるを得ない機会を春以降に作ったので誤植とか追記の必要とか、発見したらまとめて報告します。
もう一冊、『戦争報道』も実はきのう見本が出来ました。こちらもまだ本格的にはチェックしていないんだけど、帰りの電車の中で既に誤植発見。ぼくのプロフィールで大学院研究科修了云々とあるのは大学院比較文化研究科の間違い。
でも自分のことでよかった。人に迷惑かけなくて何よりだったと思っていたら、今日になって担当編集者から引用文献の橋田信介『戦場特派員』が『戦争特派員』になっていたと連絡。というわけで発売前から刻々と落ち込みつつあります。こちらもまとめてWEB作りますね。
編集済

 投稿者:武田徹  投稿日: 2月14日(金)01時00分49秒

>『核論』読ませていただいてます(まだ半分だけですけど)

その先に踏み絵というか、地雷というか、高木仁三郎批判の章があります。
版元から聞いたけど、クリーンエネルギー開発系のあるNPO団体が、展示会をするので『核論』を置けないかという話だったのだが、高木批判があると知って態度を変えたとか。
しかし・・・・、天皇化というか、不可侵化が高木さんの望んだことだとは私はちっとも思えないのだが。
たとえば手塚治虫の死去に際してみなきれい事を語る中で宮崎駿だけが手塚アニメの限界を指摘していて、死者にむち打たなくてもいいじゃないという感じで顰蹙を買っていたが、もはや自分でアニメを作れなくなった手塚は絶対、宮崎の才能に後を託して死んだと思うし、丹波哲郎みたい(笑)な言い方をしたくないが、あの世でジブリ作品のクォリティを微笑ましくみていると思う。表現者ってそんなもんでしょ。まともな批判をもって乗り越えられるときほど、自分の業績の手応えを確かに感じられるわけだし。高木さんもそうじゃないかと私は思うのだが。どうして残された人はそうは思わないのか。表現者気質ではなく、「子分」気質なんですかね。
反核運動がうまくいっているとは思えない。だって東海村で犠牲者も出したわけで、結局、未だに推進政策を止められないのだとしたらそれは運動のスタイルにどこか問題があると考えてしかるべきでしょう。国が悪いとかいうのは責任逃れで、一応、民主主義国家なんだから国家体制は選べるはずであって、不本意な国家体制が出来てしまうメカニズムがどこかにあるのだとしたら、戦後憲法を含む戦後体制の全てをもう一度議論の俎上に載せなくてはならず、それが『核論』の試みなんだが、なんで高木がどうしたというレベルで焚書的(おおげさ)な扱いを受ける?

>文脈から推測すると
>切通理作氏のこと思われます

文脈から判断するまでもなく、これは誤植ですよね。この部分の初出は毎日新聞社の『20世紀の記憶』ですがあのときも間違ったままだったのかな。

編集済

はじめまして 投稿者:モイナ  投稿日: 2月13日(木)22時49分03秒

モイナと申します

『核論』読ませていただいてます(まだ半分だけですけど)

原発銀座のある某県では、一連の原発トラブルに関する
報道が地元メディアによって継続的になされていますが
在東京のメディアは、あまり関心がないようですね

それと、20ページ・9行目の『切通理策のように「怪獣」
経験を自らの・・・』とありますが、文脈から推測すると
切通理作氏のこと思われます
無粋なこととは思いますが、人名なので指摘しておきます

週刊読書人書評 投稿者:武田徹  投稿日: 2月13日(木)22時19分40秒

週刊読書人に上田昌文さんの『核論』書評。ありがとうございますと言いたいけど、あんまりありがたくないです。
問題は後半。

****ココカラ引用
しかし議論を進めるために恣意的な枠組みをこしらえていると思える部分もある。たとえば、ゴジラ映画第一作はヒロシマ・ナガサキと第五福竜丸の「被曝の事実を曖昧にしてアメリカの核の傘の中に入る選択をした日本の情勢に対して一石を投じる」ものだったが、以後次第に政治の問題を回避し、歴史の事実から離れた絵空事になってゆく」き(原文ママ)、その軌跡を「日本の戦後史の軌跡と一種の平行関係にある」と著者は考える。しかしその後のゴジラも、スクリーンの上で自衛隊や大都市の破壊を通して、戦後の秩序への反逆を示した存在であろう
****ココマデ

確かにゴジラは大都市は破棄する。自衛隊も破壊される。しかしそこにいかほどの意味があろうか。それは単なる「やられ役」である。時代劇で切り捨てられるその他大勢と同じ機能のものだ。自衛隊はもちろん極めて「戦後」的なものだが、その重さはゴジラシリーズの中にはないと私は考える。実際、ゴジラが戦うのは自衛隊よりもキングギドラであり、評者はキングギドラと戦うゴジラが戦後の秩序への反逆を示していると本気で考えているのか。キングギドラならまだましとしてもメカゴジラってのはどこが戦後か、戦後の機械文明の比喩だとでも言うのか。スペースゴジラに至っては宇宙から来た戦後か? あるいは宇宙開発競争とかSDIの比喩だとでも言うのか。戦後的な文脈で辛うじて読みとれるのはゴジラVSヘドラぐらいであり、それにしても余りにも薄っぺらな時代批評性しか読みとれないだろう。
要するに評者はゴジラシリーズの子供だましぶりをまともにみていないで、大都市や自衛隊と戦う部分だけを都合良く取り上げて「戦後の秩序」だとか言っているだけではないか。恣意的な枠組みというのは、『核論』に与えられるよりもまず自分自身の書評にむけられるべきではないか。いかにも論を焦っているような印象を持つのは私の気のせいだろうか。そして論を焦る理由がこの後に続く箇所と関係があるような気がするのもーー。

****ココカラ引用
また、高木仁三郎は原子力問題において民間からの専門的批判の組織化を高い水準において実現したが、その事実を踏まえてなお「科学の論理を手放し、運動の論理に突き進んでいった」と批判するなら、”科学”と”運動”の論理はどのように統合できるというのか。脱原子力の運動は、エネルギー政策全般の転換を見据えた政策提言や産官学もたれあいの体制への批判など、より高い公共性の実現を求める社会改革であることを見落としてはならないだろう。
****ココマデ

『核論』ではだ脱原発(ハンカク派と言い換えたいけれど自制します)の運動が、原子力の危険性が広く知られることを望む余りにむしろ事故が起きることを心待ちにするようなるまで至る構図を描いた。これは私の仮説ではなく、推進派がでっちあげたものでもなく、脱原子力運動がそのような隘路に陥りがちなことを告白しているのは、他でもない、長く脱原子力運動に取り組んで来た市民運動家の一人である(『核論』参照してください)。「より高い公共性の実現を求める社会改革」と言う前に、『核論』を批判するのであれば『核論』で指摘したこうした脱原派流運動の問題性をも踏まえて欲しい。「脱原子力の運動は、エネルギー政策全般の転換を見据えた政策提言や産官学もたれあいの体制への批判など、より高い公共性の実現を求める社会改革である」という認識はおそらく評者の持論なのだろう(し、留保条件付きでなら私自身もある程度は認めたい)が、それが『核論』とどう響きあったかの軌跡が、この書評には書かれていない(それを書いた上で説得される論理が呈示されればというのが先の留保条件)。『核論』を読んでも読まなくても同じことを唱えているのだったら書評した意味がないではないか。言いたいことを急いで言葉にしてしまい、読者としての心を自前の言葉であらかじめ埋めてしまわず、ぜひ『核論』で私が書こうとしたことをもう少し静かにくみ取るように努めては貰えないだろうか。

古い本 投稿者:武田徹  投稿日: 2月12日(水)22時10分53秒

この掲示板とどれぐらい読者が重なっているかわからないけれど、ITセレクトという雑誌で書評の連載をしていて、これは珍しく旧書を取り上げるという趣向。そもそももう少しコラムっぽい連載を編集部は期待していたのだが、ぼくが取材をする時間的な余裕がなかったのでやだーとか言って、ゴネていた結果、取材の必要ではない書評の連載に、しかしただの書評ではなくてもう少し時代批評的な意味合いをこめてという線で落ち着き、旧書を取り上げて論じるというものになった。

今回、取り上げたのは今西錦司『人間以前の社会』岩波書店。今日入稿。出るのは今月末かな。IT系の雑誌で50年以上の前の本を扱わせて貰っている。こんなことが許されているのは編集部に感謝である。
というのも前に別のトレンディ(死語)雑誌で中古カメラブームを扱おうとしたら、新しいものじゃないとうちの雑誌はダメと編集長に言われた。流行っているのは中古カメラでも、それが流行っていること自体には現代的な意味があったと思うのだが、頭が新製品紹介に凝り固まっているので、話し合いの余地もなかった。少しでも過去を振り返るような、つまり自分たちの来し方を省みるような視点が出てくることへのえもいわれぬ恐怖心があるように感じたが、あるいはもっと下世話にスポンサーとの関係もあったのかもしれない。
とはいえ、その頃は中古カメラブームはまだ一部の物好きのもので、その後、本格的にブームになって、ちょっと古いテイストのリバイバルにも繋がったので、あそこで書いておけば編集長としても先見性があったと言われて後で鼻が高くなっていたと思うが、ま、それはもう過ぎた話。覆水盆に返らずである。
というわけで世の中にはそんな雑誌編集長もいるのだ。それを思えば、50年前のサル学者の仕事を紹介できる雑誌ってのは極めて優れている。

書評に関しては、そもそも新刊書の書評ってのが、あまり意味が無くなっている。新刊書書評でも出る頃はもう書店になかったりする場合が多い。書評がタイミング的に販売に間に合うのは、制御の効く書評家に事前にゲラで読ませて刊行にあわせる場合ぐらいだろう。読者にしても、書評欄みて書店に行っても店頭在庫はもうなくて、結局は客注を書店に入れたり、オンライン書店で取り寄せたりしなければいけないんだったら、書評されているのが新刊でも旧刊でもあまり変わらない。良い本が、いいタイミングで紹介されているにつきるだろう。それに購買を促すだけが書評の価値ではないのはもちろんのことで、かつて読んだことがある本でも、それを現代的意味あいで読み返した書評が出れば、読者にとって役に立つはずだ。

で、なんでITの雑誌で今西か、だが、これはぼくは無責任に選んだわけではなくて、IT系の人にこそ、この本を含め、生物社会の論理から人間社会を見返すような広い視点をもって欲しいと思っている。今西はそのサル社会への見込み違いも含め、生物の社会と人間の文明社会について考えるヒントをンたくさん与えてくれる人だと思っている。

NPO 投稿者:武田徹  投稿日: 2月10日(月)22時25分34秒

締め切りが二本あったので終日家で原稿。本当に忙しくなるとスタバにすら出掛けられなくなる。ずっとキーボードを打っていたので腕がじんじんしている。腱鞘炎をだいぶ悪化させたと思う。数日後にどーっと応えてくるので後が怖い。

原稿の一本目は自動車工業会(だったよな、たしか?)依頼のスモールカー礼賛。ダウンサイジングの必要を、都市論との兼ね合いで書く。頼まれたときはちょっとしたコラムのつもりだったが、依頼書をみると400字7枚と案外長かった。

もう一本は前から予告していたジブリ用のNPOルポ。これは苦労した。NPOとNGOの位置関係、公益法人(社会福祉法人、医療法人とか)とNPO法人の違い、NPO法の特殊性、NPO法における税制改正の経緯とか、説明し出すとキリがない。書き出したけれど、まとまらないので結局はほとんど割愛してしまった。あとリアリズムで見たくないことまで書く「読者いじめ常習」で、いやがられているぼくとしては珍しくジブリのファン層ってのも気になってしまい、筆が迷った。ぼくにも遠慮って感覚がまだ残っていたのか。自分では改めて意識していなかったけれど、ジブリの作品で育ってきたところがぼくにもあって、普通の媒体という意識になれなかったのかもしれない。

さて、この原稿に関して、前にNPOと株式会社法人の違いはなんだってここに書いて、幾つかお返事頂いたままになっていたので、この機会に少し補足して書いておこうと思う。原稿に書けなかった、まだまとまっていないアイディアでもあるし。

ぼくは考えた結果、思いを貨幣に還元できるかどうかが両者の違いだと思った。
株式会社の場合、収益をあげて株主に配当することが求められる。配当が多くありそうな株式会社の株はよく売れる。もしも公益の追求を使命と考える株式会社があって、将来、そのサービスが公益的に?得られることで収益があがり、株価も上がりそうだったら、株は買われ、多くの資金が株式市場からその会社にそそぎ込まれる。その結果、その会社はその公益サービスを更に大規模に展開できるだろう。つまり公益追求においても、実は株式会社組織の方がNPOよりも有利な場合がある。
ただ問題は株主は配当額が大事なのであって、それは貨幣価値で示されるということなのだ。20円の配当よりも40円の配当の方がよくて、その背景にどのような活動があるかは実は株主には関係ない。単純に配当額が多い方が正義となる。となると公益事業よりも、もっとあざとい環境負荷の高い事業の方が株価を上げそうなら、株主はそちらの選択を経営者に求めるだろう。株式会社という仕組みはそなる可能性を排除できない。

その点、NPOはどうか。収益の再配分が禁止されているので、寄付をした会員にそれが還付されることはない。思いは貨幣価値かされない。公益事業をやっているNPOをいいなと思うから寄付するのであり、そこでは公益事業をするNPO事業者の良かれと思う気持ちと、寄付主の思いが貨幣価値化されずに直結している。
寄付なんて極端に言えば、金をみすみす捨てるようなものだからなかなか進まない。その意味でNPOの資金調達力は株式会社に劣る。だから公益事業もなかなか進展しない。
しかし思いを貨幣価値化できない制度の縛りをかけておかないと、思いそのものへの経済的な支援が出来ない。貨幣化を間に挟むと妙なことになる。もしも配当への期待も含めて投資を加速化させ、公益事業を効率的に進められればいいのに、それが出来ないというのはやっかいでもどかしいことだ(しかし、なんかやるようもあるように思うが、普遍的な貨幣価値に還元しないで、別の用途が限定された地域通貨的なものの価値に還元して、投資と配当のメカニズム自体は残すとか)。
編集済

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 8日(土)18時37分22秒

>太陽光発電によって水道水から水素を取り出し、燃料電池を普及させて家庭用自家発電需要を広>げていく。

太陽光発電の弱点は二つあって、ひとつは太陽電池の寿命と環境負荷の問題。そしてもうひとつは蓄電技術が確立されないと、日照時間内しか発電できないので、それ以外は別の電源を必要とすること。その点、水素を相手に挟めめば後者の蓄電と同じ効果があるわけですよね。家庭ごとに太陽電池という方法だけでなく、赤道近くの砂漠などに巨大な太陽電池を並べて発電し、海水から水素を分解して取り出してタンカーで運ぶという手もある。水素を高圧で圧縮する必要があり、固有の危険性があるところが気がかりではありますが、水素社会というアイディアはかなり現実性があると思います。自動車用の燃料電池もあっというまにガソリン改質を捨てて水素利用に変わった感がありあります。以前にBMWの水素エンジンの取材をしたときにBPのスタッフが立ち会っていたのが印象的でしたが、そろそろ石油メジャーは本格的に水素メジャーへの肩代わりを模索し始めているのではないでしょうか。フィルム会社がデジタルカメラへの移行に最も熱心だったように。

>どんなに研究が進んでも、原子炉で各家庭の風呂が沸かせるわけではないですし。

確かにそうですね。ただひとつ、水を沸かすまでにはいたりませんが、熱源として放射性物質を使うという方法はあって、火星探査船とかはなにか放射性物質を積んでいたと思いますよ。崩壊熱を電気関係部品や可動部分に適当な熱を与えるために使うという方法は、NASAでは定石だと聴いたことがあります。核開発の初期にはプルトニウムに「うさぎを抱いたときのような温かさを感じた」と形容した表現を読んだことがあります。小学校のときに学校で飼っていたうさぎの体温を思い出すと、なんとなく分かる。なんか生々しいというか、なまめかしいというか、妙な感じの比喩ですね。核物質を生物に喩えるのは。ちなみに日本の宇宙開発では崩壊熱を熱源に使う方法は議論をまたずにタブーになっているとか。そんなところも日本の核受容のいびつさを感じます。

原子力政策の核心は何? 投稿者:上田 勝  投稿日: 2月 8日(土)04時20分58秒

環境省が面白い実験を始めますね。海上に風力発電設備を作り、電気分解で海水から水素を取り出す技術を研究する。さらにまた廃棄物から発生するメタンを利用して水素を取り出す技術研究も同時に行うのだとか。こうした水素製造技術が確立していくと、原子力のような大規模な電源開発が必要ではなくなる時代がいつか来るでしょう。

太陽光発電によって水道水から水素を取り出し、燃料電池を普及させて家庭用自家発電需要を広げていく。例えば全家庭の7割がこうした設備を導入した場合、それでも原子力エネルギーは必要なんだろうか。たぶん必要ではなくなるでしょう。どんなに研究が進んでも、原子炉で各家庭の風呂が沸かせるわけではないですし。

これまで原子力政策は、「資源が無いから」「リサイクルできるから」「プルトニウムが余ってしまうと国際条約に違反するから」「二酸化炭素が少ないから」などの言い訳でなんとか誤魔化して進めてきましたが、それに変わり得るエネルギー技術が登場するともうそうした理由では済まされない。要するに日本の原子力政策には、「どうして原子力なのか」という核心に欠けているわけですね。場合によっては「将来核兵器を持つかもしれないから」なのかもしれないですが。

メディア盲 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 6日(木)23時48分05秒

筑紫哲也が4月から早稲田の教員になることは彼自身がインタビューの度に語っていることだ。所属先は新しく早稲田が作ったメディア研究系の大学院・学部だ。しかし、どうも聞くところによると筑紫哲也はひも付きなんだとか(違っていたら情報提供よろしく)。ひも、つまりスポンサーは筑紫の場合はTBSらしい。この早稲田の新学部は、朝日新聞も協力して教員を送り込んでいるようだが、その場合も寄付を持参してと言うことらしい。
かくして早稲田は新しい学部を作っても出費がない。それで有名人を看板にかかげ、受験生を集められる。TBSにしてみれば夜のメインキャスターにハクが着けられる。早期退職を募っている朝日にしてみればプライドの高い記者が喜んで天下るポストが出来ることはなにより歓迎すべきだろう。筑紫にしてみれば、母校の教鞭に立てて誇らしいだろうし、なにより株が上がる。
と、まさにWIN・WIN型の構図なのだが、置き去りになっているものが二つある。一つ目はジャーナリズムを学ぼうと思っている学生の初志だ。ひもつき講座で、自メディア企業を含むメディアの構造に対して本格的にメスを入れるような研究が行えると考えるとは考えがたい。今の日本のメディアを仮想モデルとして、そこでいかによく働くかを教える技術教育が主流にもなるだろう。その結果、日本のメディアを変える力を潜在的にもっていたかもしれない学生は確実にスポイルされる。
そして、スポイルされる二つ目はジャーナリズムそのものだ。ジャーナリズムは常に自分自身を乗り越えてゆく相対化のダイナミズムを持っていなければ腐る。一つの立場、一つのものの見方に縛られた時点で、神話を解体するその責務は果たせなくなる。自らが神話生成装置となった時、ジャーナリズムはその名に値しないものになる。流れを止めた水が腐るのと同じだ。ジャーナリズムは新しいものの見方を取り込んで行くことに努めるべきであり、そのためには大学などのメディア研究の動きを自ら回収するようなことはあってはならない。新しい見方を切り開けなくなった終わったジャーナリストを薄汚い大人の論理で大学に送り込むようなことだけはしてはならなかったのだ。
しかし、そんな禁じ手が打たれている、ように思えて鳴らない。早稲田だけではない。メディア研究が花盛りとなり、新学部開設が立て続いている状況で、かえって近未来の日本メディアはダメになってゆくような気がしてならない。メディアリテラシー教育を行うことは大事だ。だがそのためには的確なメディアリテラシー教育を行える人材を登用すべきだろう。間違ってもメディア研究が盛んになった結果、メディア通で、ビデオカメラの扱いや編集機の操作は巧みだが、そうであるがゆえに逆にメディアのあるべき姿を見ることが出来ない、メディア盲の人材を大量に育ててしまう逆説だけは避けなければならないと思うのだが。杞憂ですか、これ。

なぜ事故のニュースがトップ? 投稿者:矢部 文  投稿日: 2月 5日(水)13時47分23秒

分解したシャトルの破片が飛び散る、あの「絵」になる映像ですね。外国の事件で翻訳が不要ですもの、使いやすいだろうなあと思っていました。NHKは多分CNNの映像を使っていたのでしょう、こちらで見ていると決まって「コピーライトの関係で映像はご覧になれません」という但し書きが頻繁に現れるので、私はイラつきましたけど。
9−11からの教訓なのか、ニュースであの映像が繰り返されている状況は私が見る限りありません。もっともCNNなどニュース専門局は別でしょうし、私の視聴時間はごく限られていますのでね。
さてNHK国際放送でお昼のニュース(NY時間夜10時)を毎日見ている生徒から昨夜質問が来ました。「何でNHKのニュースは毎日シャトル事故の話で始まるの?日本では日本人がもっと知るべき事件とか起きていないんですか。日本人の宇宙飛行士に事故の感想を言わせる時間に、もっと身近な問題とか取り上げないでもいいのですか」というようなもの。今、日本は何事もなく平穏なのでネタ不足、仕方がないのでテレビはシャトルのニュースで穴埋めしているのだろうかと、海外在住の少年は悩んでいます。何と答えればいいんでしょ?

スペースシャトル  投稿者:武田徹  投稿日: 2月 5日(水)00時02分00秒

本当かよーと思いつつ、本当でありそうで、しかし、実際、本当だと怖いなぁと思う。そんな話を聞いたので、書いてしまう。
爆発したスペースシャトルだが、コロンビアの機体は最も古く80年代の初頭の製造だ。で、そのころは普通に存在していた電子機器関係パーツがもはや手に入らない。NASAは困って、どうしたかといえば、ネットオークションに書き込んで中古パーツが出てくるのを待っては購入していたのだという。それはアメリカのメディアで既に報道されていたことだったとか。

ほんまかいなと思うでしょ。都市伝説の類と違うか、と。
でも実際、電子機器の代替わりは激しくて、民生品だと部品供給が困難になって生産中止というケースは幾らでもある。とはいえ、NASAまで同じかというとにわかには信じがたいし、そこまでやるんだったら電装関係を全部新しくしているのではないかとも思うのだが、予算削減のあおりをくらって、もしかしたらオークションが頼りなんてこともあるのかもと思ってしまう誘惑をなかなか禁じ得ない(で、つい書いちゃいました>Nさん)

コンコルドのコクピットもアナログメーターばかりでレトロも甚だしいらしい。「むかしの未来」は下手を打つと時代に追い越され、おいてきぼりをくらう。万博がレトロ趣味の対象になるなんて70年当時は誰も思わなかっただろう。スペースシャトルもその種のものなのだろうか。

↓矢部さん、書き込みありがとう。ちょっと誤解されたかなと思うので少し敷衍しておきます。「事故の報道が多すぎる」「露出が大きすぎ」と「量」を話題にするような書き方をしましたが、実際には単純な量の話ではなく、どのようなシチュエイションで、そのような映像が使われるかも含めた、どちらかというと質的な部分に踏み込んだ意見ですね。飛行機雲のようなものをたなびかせた映像の反復が余りに多かった、そのような報道番組つくりをするメディアの「質」が気になったということです。そうした観点から改めてアメリカのTVメディアはどうなのでしょうかね。

シャトル事故の報道ーNYで 投稿者:矢部 文  投稿日: 2月 3日(月)09時52分44秒

シャトル事故から1日たったきょう、NYタイムズは1面最トップにシャトルの写真を、見出しの上に置くという今まで見たことのないレイアウトで掲載していました。TVニュースに関しては、午前中のニュース番組で特集めいたことはしていたようですが、普段見ている夕方6時半のABCワールドニュースを見ようとしたら、フットボール(プロボール・オールスターゲーム)の試合中継のため、今日は中止。日本だったら、「こんなときにフットボールの中継をするとは!」みたいな声が出るんだろうなあ、と思いましたけど。ニュースショー以外の時間帯では特番もなく、結局、NY在住の私は事故関連のニュースをNHK国際放送とBBCから得ました。事故の報道が「大きすぎる」のは、もしかすると日本だけの現象?
編集済

 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 3日(月)09時18分48秒

ファイブナインズというのは安全率が0・99999ということ。つまり100000回に一度の事故がありえるということだ。聞くところによれば86年のシャトル事故以来、その安全率は1/245に修正され、これは0.004だからファイブナインズよりかなり高くなっている。今回の事故で2/135、つまり0.014にまた上方修正されるとか。100回に一度の致命的事故というのはこの種のものとしてかなり高いのではないか。計画自体を見直す判断があってもしかるべきものではないだろうか。
気になるのはそこまでの危険をおかして何が求められているのか、いまひとつよくわからない。日本の電力会社がいかに平和利用を謳おうとも原発がある国が、無い国にくらべ原爆開発に相当歩み寄っているというのは事実であるように、宇宙ステーションを持つ国が、SDIミサイル防衛網構想などに有利になることもまた事実だろう。技術とは常に応用可能なものだ。どの応用はするが、どれはしないという制御のメタ技術を同時開発するような姿勢がないとあやうい。子供の実験が美談として出るけれど・・・・、それって何らかの隠蔽効果を持たされたものではないのか、やや気がかりだ。
シャトル乗組員のリクエストでイマジンがかかっていたという話をTVで観た。国境なんてないって思ってごらん。そんな歌詞が、イラクの原発を破壊するミッションに参加したイスラエル軍人を乗せた宇宙船で歌われると言うのは、なんというか、単純にはコメントは出来ないが、フクザツである。

シャトル事故 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 2日(日)23時46分17秒

実際に被害者がいてその遺族もいるので、口にするのが憚れるが、スペースシャトルの事故の報道での扱いは「大き過ぎる」とは言えないだろうか。
最先端の宇宙開発技術領域で発生した事故であること。7人が犠牲になったこと、は確かに大事である。冥福を祈る。しかしスペースシャトルは、運行開始後すぐに事故も起こしており、その信頼性がファイブナインズとか言われているほど高くないことは既に明らかとなっている。語弊があるが、後からの改良で根本的に信頼性が増すものでもないだろうから、そろそろ事故が起きても不思議ではない乗り物だったとも言える。そして犠牲者数は「たった」7人だ。飛行機事故や、それこそ空爆の犠牲者の数に比べれば・・・・と、死を数を持って比較してしまうのは禁物だろうが、ここまで扱いが大きいとその中で敢えて指摘したくなってしまう。
なぜスペースシャトル事故がここまで大きく扱われたか。それはフォトジェニックだったから、だろう。機体がばらばらになって飛散する映像が早い段階で手に入った。それがTVメディアには限りなく魅力的だった。結果として、新情報なしのまま爆発映像のみを今朝かえら何度繰り返し見せられたことか。そして静止画ではだいぶん見劣りするが、それでもインパクトはあったので新聞メディアも号外まで出したという。
ニュースが選ばれるに当たっては、ビジュアルな刺激が何より重要なのだ。そしてそんな理由でニュースが選ばれていることに対して、違和感を感じる人は減ってきているのだろうか。

夜、ほぼ6ヶ月ぶりにジムに。ぼくは案外マッチョ指向があるのか、仕事のやる気がしないときでも、せめて身体でも鍛えておこうと考えて来た。にもかかわらず今回はちょっと個人的な事情があって6カ月も休んでしまった。おそるおそる体重計に乗ったけれど、殆ど増えていなかったのはうれしい誤算。でも筋肉はだいぶ落ちてしまった。ごく軽い負荷をかけてマシントレーニングを再開する。
ジムの帰りみちに古本屋をのぞく。笠信太郎『ものの見方について』河出書房、金日成『チュチェ思想』など、めちゃ古い文庫本を拾い買い。
編集済

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