武田徹Official Web Site--オンラインジャーナリズム掲示板
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近況2 投稿者:武田徹  投稿日: 2月 2日(日)01時57分21秒

昼からテープ起こし。
テープ起こしが辛いのは物理的なしんどさだけではない。取材中の自分のミスやら不勉強やらを改めて反芻させられるから心理的に辛い。つっこみが足りない。相手の言葉を受け取り損なっている。重要な内容が語られているのに気付いていない・・・・等々がテープには如実に記録されている。それを聞かされるのは辛い。
しかし自分の力足らずを改めて省みさせる機会ではある。テープを取らない人はその機会すら与えられないのだ。そう思えば僅かに慰めにもなる。

2時間分起こして一段落してメールの返信。
町山さんからメールを貰っていたので返事を書く。戦争報道論を書く上で、町山智浩さんの『映画の見方が分かる本』には助けられた。引用する時にメールで書かれていない詳細まで尋ねて親切に応えて貰っている。そして町山さんは今度もふと思い出したとして、天安門事件のことをメールで書いてくれた。
町山さんはかつて宝島30で「天安門広場の虐殺はなかった」という記事を作っている。天安門で虐殺が行われたと報道されたのは、今枝弘一というカメラマンのスクープ写真(装甲車が映っているもの)と彼の現場からの(虐殺が行われていることを報じる)レポートが出たからだ。
しかし天安門広場に最初から最後までいてビデオを回していたスペインのTVクルーは「一人も広場ではけが人も出ていない」と報じ、証拠のビデオを出した。NHKでもそれを使って番組を作った。
町山さんの記事もその延長上にある。町山さんは今枝に直接電話し、「実際に死亡確認をしたのか」どうか確かめた。すると今枝は「死体を見ていなかった」ことを認めたという。それまでは「天安門での殺人を見た」と盛んに証言していたのにもかかわらず。
しかし、こうした「天安門で虐殺はなかったのでは」と疑問を投げかける報道は大きな影響力を持つまでにはいたっていない。メディアの中で、そうした異議申し立てはごく一部に留まった。結果として多くの人が天安門では虐殺が行われたと思っている。
町山さんはぼくが戦争報道論を書いていることを知っているので、報道が歴史を曲げてしまった例として、戦争報道そのものではないが、この天安門事件の一件をメールで伝えてくれたのだ。

戦争報道の流れで言えば、これもメディアの好戦的な資質との関連で解釈すべきものなのかもしれない。虐殺があったというニュースの方が、そうではないニュースよりもメディアは好むのだろう。

町山さんからメールを貰って、やっぱり観ておきたいと思い直して(彼が月プレで紹介記事を書いていたのだ)、恵比寿ガーデンシネマにボウリング・フォー・コロンバインを観に行く。webで確認するとかなり混んでいるらしい。電話で尋ねたらレイトショーすら整理券が必要で、既に半分は埋まっているとか。慌ててクルマで出掛けたが、外苑で首都高を降りたところで、シートベルト非着用で検問にひっかかる。罰金はないが、切符はきられた。減点1。またゴールド免許が遠くなってしまった。しかも悪いことにこの一件のせいでたぶん10分は遅れが出た。珍しく異議申し立てをしないで大人しく切符を頂戴してしまったあとは、もういいだろうとばかりに警官の目の前にもかかわらずタイヤを鳴かせるほどの全速力で走り去る。
しかし明治通りで渋滞にもはまり、嫌な予感がして来て、恵比寿の近くまで来た時点でガーデンシネマにもう一度電話すると、なんと整理券は10分前に出払ったとか。うらめしきシートベルト非着用。これではわざわざざ違反切符を切られるために首都高で都心に出たようなものだ。

近況 投稿者:武田徹  投稿日: 1月30日(木)22時51分37秒

午前中、ジャナ専で最後の授業。学生数名と授業後お茶+昼食。ジャナ専は組合と経営陣の対立が結構深刻なのだが、学生から「あれどうなってるんですか」と聞かれて返答につまる。先週、差別問題のテクストを読んだので、差別用語の話題に。モチねたの中国の日本語授業で差別用語がそうと知られずに使われていたエピソードを披露。この掲示板でも前に話題になったやつだ。
午後は高田馬場デニーズで原稿を書いて、夕方から観世能楽堂で弱法師を観る。能をしっかり客席から観たのは初めてで面白かった。盲目という言葉が有るんだが、これはオリジナルもこうだったのか、ジャナ専学生とちょうど話していた話題だったので興味を持つ。伝統芸能における差別用語問題はどう対処されているんだろうか。

もんじゅ敗訴 投稿者:武田徹  投稿日: 1月29日(水)12時38分26秒

もんじゅ敗訴はこれで結審というわけではないだろうが、画期的ではあると思う(しかし一件もコメント取材がなかったのはなぜ・・・・)。
たとえば、これを機会に、拉致問題ばかりに夢中になってすっかり米韓主導の北朝鮮交渉からはじき飛ばされたかたちになっている日本だが、自分から核サイクル政策を放棄or一時中断させて、北にも核開発断念を迫るというのはどうだろう。

増殖炉技術者は、技術の継続性が大事だという。一度、断ち切ったらせっかく蓄積されてきた技術が伝達できなくなるという。より具体的には、施設としても一度完全に停止してしまうとナトリウムが固化してしまい、再起動に膨大なコストがかかるという。
しかし、このままではナトリウムを暖め続けるコストの方が、再起動コストよりも遙かにかさむことになるのは明かだし、技術継承の重要さは十分に理解しているが、こと増殖技術に関しては継承されるに値いするものが、果たして今の日本にあるのかどうかは疑問だ。実際、ずっと進化なしに止まっているわけだし。もんじゅ技術体系の一翼を担うプルトニウム生産技術に関しては、増倍率こそナトリウム冷却炉にくらべて低いけれど、核兵器保有国の方が遙かに蓄積があり(だって世界最初の実用原子炉はナガサキ原爆開発用のプル生産炉なんだから)、水平拡散防止の建前上、その技術は国外流出を禁じられているから、日本が「平和目的」を謳いながら天然ウランからのプル生産法を独自に開発する必要性もあるが、もし核の呪縛から世界が放たれれば、単純に教えを請えばいいと言うことになる。所詮はその程度の先進性である。
プル生産から一歩踏み込んで増殖炉開発史においては、確かに日本の常陽はうまくいった(東海村が「原子力的日光」に射し貫かれたのは常陽の燃料つくりの過程ではあったが、それはやや別の文脈)。しかし、もんじゅはうまくゆかなかった。そこには継承以前にもっと基礎的なところから考え直す問題が存在しており、実機での確認に固執するよりも、より小さな規模での実験やコンピュータシミュレーションなどを重ねて問題点をもう一度洗い直すべき時期なのではないか。

誤解無きようにしたいが、ぼくは高速増殖炉が絶対に実現不可能な技術だとは考えていない。やりような常にあるだろう。ほかの国が辞めているからというのは、日本もやめるべきだという理由には直接には結びつかない。その点で反もんじゅの論調には問題もある。
しかし今、もんじゅのサイズで実証実験をやるべきかといえば、ちょっと違う感じがする。あと、国がなんでもんじゅにこだわるのかといえば、実は夢の増殖技術開発以上に、むかし描いた核サイクルのシナリオに縛られて再処理が続いており、核兵器も持てない以上、どんどん貯まってしまうプルトニウムの処理をどうするかという事情、つまりプルトニウム消費炉としてそれを利用したいという意向が大きいが、余ったプルは国連安保理にでもIAEAにでも預けちゃえばいい(むこうはむこうで困るだろうけど、核拡散防止の建前上、そして今のタイミングではなおさら断れないだろう。こうしてオッペンハイマーが願って止まなかった核の国際管理がまったくもってきまぐれに誕生してしまうのだとしたら、それは結構面白い試みだと思う)。どうせまともに使えそうな目処なんてたっていないんだから、プルを資源に乏しい日本を救う準国産資源だなんてもはや未練たらしく考えず、今は不要で厄介な物質だと見切ってしまえば、これまたやりようは幾らでもある。

そんなわけで、現時点でもんじゅを国益として最も活かす方法は北朝鮮交渉への切り札にすることではないか。「日本は涙をのんでプルトニウム利用を辞めます、だからあなたも」と言い出せば、あまりに唐突だし、少なくともジョンイル、驚くぞ(笑)。それだけでもいいじゃん。

なるほどその2 投稿者:武田徹  投稿日: 1月29日(水)10時13分41秒

>価値観の議論は、高校生でもしっかりできます。

それはそうでしょうね。身近な切り口(在NYの日本人ハイティーンが新聞を素材に日本ととアメリカの新聞の価値観の違いを論じるというような)であれば、充分に可能だと思います。そういう導入の仕方こそ大学以前からやるべきだと思います。
ぼくがいいたかったのは、もう少し迂遠な部分での議論で、たとえばサイードの情報論を扱うのであれば、イスラムやユダヤの専門家の授業が聞けるような場所が望ましいのではないかなということでした。その種の専門家は日本では大学にいる場合が多いです(大学にもいない場合はもっと多いですが)。たとえば第二次大戦中の翼賛報道が悪しき情報操作の例としてひかれるケースがありますが、それも拙速にやるとかえって問題が多いように思います。

>一般のヒトにとってはメディアといったらジャーナリズムという発想があるみたい

(新聞)と銘打っているのでそうなるのでしょうが、日本だとメディアといったら「マスコミ」ですから、「メディア(新聞)」だと「なんだぁ、マスコミの話が聞けるんじゃないのか」となりそうです。

ところで、矢部さん、巨大なファイルサイズのメールが届いていますが、これ、開いていいんですか?

なるほど 投稿者:武田徹  投稿日: 1月29日(水)08時45分27秒

ばんまいさん。書き換えてみました。この文章はそんなに「的」とか、「性」とか、「化」は多くなかったですが、確かにこの掲示板のぼくの文章は推敲が足りなくて結構、その種の語法を使っていたように思います。まず自分から気を付けたいと思いました。
つづめて言う技術が伝える(orあえて伝えない)上で有利な場合もありますが、開いて言った方が良い場合はもちろんそうすべきですよね。前にぼくがこだわっていた「語感の問題」とも関わるところです。
ぼくの印象ですが、フランス語はとくに「的」、「性」、「化」を嫌う感性を支えがちな言語ではないでしょうか。出来ないわけではないですが、「的」「性」「化」が浮いてしまいがちというか。サルトル辺りからの現象学用語直訳風の新語・造語の語感の文化は今はどうなんでしょうね。個人を越えた範囲での感じ方の問題なので、これという明確な説明は難しいと思いますが。
*****
・・・・聞いていながら、改めて自分が最近していることも含め、少し考えさせられた。ぼくがコンテンツ制作を教える動機は、あくまでも実経験を積んでメディアリテラシーを高めて欲しいということだ。その背景にはメディアリテラシーの高い受け手がたくさん出てきてくれないとメディア制作者側の質の低下には歯止めがかからないという切実な思いがある。
しかしそうしたメディアリテラシー教育が大学で行われるなければならない時代はいつまで続くんだろうか。今はメディア教育が学校教育システムの中で充分になされていないので、社会に出る直前の大学でそれを補わざるを得ないが、「ものごとを色々な視点から見る能力を持つ受け手」になる基本は本当はもっと早い段階で身につけるべきだろう。制作者側の情報操作の手の内の基本を教える程度ならそう複雑なことではなく、あえて大学で教えるべき内容ではないように思う。
大学で教えるとしたら、たとえばメディアが外の領域といかに関わるかだろう。情報操作の問題などもそうした文脈の中で、あくまでも具体的なケースに基づいて、その来し方、行く末を含めて分析的に論じられるべきだ。サイードが『イスラム報道』や『戦争とプロパガンダ』の中で指摘していた情報操作についても、ユダヤ人問題への理解がなければ話にならない。情報操作だけを取り出して議論できる領域はそう多くない。すぐに価値観の対立やらの問題にぶつかる。そこまでゆけば大学ぐらいで展開されるのがふさわしい。イスラム史やユダヤ史の専門家の考えを聞いた上で、報道状況を検討できるからだ。
そこで気になるのが「メディア」という言葉がアカデミズムでも一人歩きしている状況なのだ。たとえば一時は国際関係、環境、福祉の名を名乗る学科、学部新設が多くみられたが、最近ではメディア社会学云々というのが新設学科、学部の流行のようで、電車の車内貼りポスターなどでもよく見る。確かにマスコミをなんとなく就職志望先としている人の数を思えば、それは受験者獲得という現在の大学にとって切実な要望に応えられそうな魅惑に溢れた学科・学部名なのだろう。
しかし、あえて苦言を呈すれば「メディア」ってのは改めてその名を冠した学科や学部を立ててまで学ぶべきものなのだろうか。その重要性を軽視したいわけではない。専門分野の新しい組み合わせを行えば功を奏する場合もある。ただし、メディア史などは政治史とか社会史、文化史といった領域と密接な関係を取らないと意味をなさない部分が多いように思うし、メディア論はコミュニケーション論や言語論、記号論などを踏まえないと、薄っぺらなものになる。メディアを中心に置いた知の組み替えがそうしたメディアと外の領域との関係(メディアというのは媒介なのだから関係があって当然だ。メディアだけ取り出して論じること自体が極めて不自然である)をより重視する方向になれば良いが、メディアという概念だけが一人歩きした結果、メディア業界経験者が経験談を語ればメディア論になってしまう状況が用意されてしまうのだとしたら問題だろう。それは「働くおぢさん」の番組以上でも以下でもない。メディア「論」っていうのもおこがましい。
・・・・薄っぺらな業界人にたらしこまれて、これまた薄っぺらな作り手像を抱いたままディア企業に入っていったり、メディア企業への就職の夢をたたれてもなお未練たらたらの、より劣化した受け手層を大量生産する結果になったら、メディアリテラシー教育の幅広化(>清水幾太郎。反核運動が、大衆運動として裾野を拡げた結果、焦点がぼけてしまった、共産党活動に取り込まれもした、とういう批判をこめてこの言葉が使われた)にはやはり問題があったということになるだろう。

メディアリテラシー教育 投稿者:矢部 文  投稿日: 1月29日(水)07時17分37秒

NYの日本語補習校高等部1・2年を対象に、昨年4月から「メディア(新聞)」という名の講座を担当しています。新聞の読み取りを通して批判的なものの見方を身につけるというのが目的。新聞社のしくみや歴史に始まり、記者と読者の関係、報道被害について、日米の新聞を比較しながら学んでいます。討論のなかで、生徒が日本の新聞に見られるアメリカ報道の偏りを指摘するような場面もあり、講師のほうが勉強させられています。価値観の議論は、高校生でもしっかりできます。が、これはもしかすると、うちの高校生は普段NYの地元の高校に通っているので、他人に気兼ねせずに自分の意見を言うという訓練が出来ているせいなのかもしれません(NYという土地柄が影響している)。日本の高校で本格的にメディアリテラシー教育を行うとすれば、相対化の視点の前に、自分の価値観などの絶対的座標(自分はどこから出発しているのか)を作る訓練が必要になってくるのでは、と思います。あ、それからこの講座は、保護者から「ジャーナリズム講座」のように誤解されている(つまり、一般のヒトにとってはメディアといったらジャーナリズムという発想があるみたい)ので困ったなあ、と思っています。メディアリテラシーの授業は、家庭科の延長(生活者教育)のような意識が私のなかにはあるのですが、それでは月謝を払う親は納得してくれないようです。ジャーナリズム(情報の発信者?)のほうがかっこよく聞こえるのでしょうか。「生活者のパワーってのもバカにすんなよ」と言いたいけど。来年度(2003年4月)から、カッコの中を「情報」に変えてみれば、と学校から提案されています。ますますわからない名前になりそう。

Re: メディアという名の下に 投稿者:ばん まい  投稿日: 1月29日(水)02時10分31秒

武田さん、お集まりの皆さん、こんにちは。

突然しかし遂に気がついてしまい、私は、「XX 的」「YY 性」「ZZ 化」と
いう記述をできるだけ止めてみています。 書く文章を様変わりさせねばなら
なくなるほど、これまで、「的・性・化」を多用(濫用?)していたことに
気づきました。 「的・性・化」を使わぬ言い換えが困難という場合すらあり
ました。

「的・性・化」の使用によって、簡潔に書くことに成功しているようでいて実
は文章によって表現したい内容についての説明不足に陥っている日本文は多い
と感じます。 literacy という語のことを考えたら、こんな投書をしたくなり
ました。

メディアという名の下に 投稿者:武田徹  投稿日: 1月29日(水)00時18分21秒

午前中、新宿でメディアプロデューサーのMさんと会う。三鷹でNPO法人としてインターネット放送局を立ち上げる予定なので、何か一緒に出来ないかという内容。隣町に住んでいて地縁があること、三鷹市の大学に関わりがあるので、この辺りの学生の協力も得られないかということで連絡してくれたらしい。学生に作品を作って貰っても。発表の場がないのは残念なことなのでこちらとしても大いに興味を持って説明を聞いた。
ただ聞いていながら、改めて自分が最近していることも含め、少し考えさせられた。ぼくがコンテンツ制作を教える動機は、あくまでも実経験を積んでメディアリテラシーを高めて欲しいということだ。その背景にはメディアリテラシーの高い受け手がたくさん出てきてくれないとメディア制作者側の劣化には歯止めがかからないという切実な思いがある。
しかしそうしたメディアリテラシー教育の主体が大学である時代はいつまで続くんだろうか。
今はメディア教育が学校教育システムの中で充分になされていないので、社会に出る直前の大学でそれを補わざるを得ない状況があるが、「相対化の視点を持つ受け手」になる基本は本当はもっと早い段階で身につけるべきだろう。制作者側の情報操作の手の内の基本を教える程度ならそう複雑なことではなく、あえて大学で教えるべき内容ではないように思う。
大学で教えるとしたら、たとえばメディアが外の領域といかに関わるかだろう。情報操作問題などもそうした文脈の中で、あくまでも具体的なケースに基づいて、その史的な意味を含めて分析的に論じられるべきだ。サイードの指摘する「イスラム報道」的な情報操作についても、ユダヤ人問題への理解がなければ話にならない。情報操作だけを取り出して議論できる領域はそう多くない。すぐに価値観の対立やらの問題にぶつかる。それは幅広い一般教養を前提にしないと出来ない議論であり、それだったら大学ぐらいで展開されるのがふさわしい。イスラム史やユダヤ史の専門家の考えを聞いた上で報道状況を検討できるからだ。
そこで気になるのが「メディア」という言葉がアカデミズムでも一人歩きしている状況なのだ。たとえば一時は国際関係、環境、福祉の名を名乗る学科、学部新設が多くみられたが、最近ではメディア社会学云々というのが新設学科、学部の流行のようで、電車の車内貼りポスターなどでもよく見る。確かに潜在的なマスコミ志望者の数を思えば、それは受験者獲得という切実な大学側の要望に応えられそうな魅惑的な学科・学部名なのだろう。
しかし、あえて苦言を呈すれば「メディア」ってのはそんなに改めてその名を冠した学科や学部を立ててまで学ぶべきものなのだろうか。その重要性を軽視したいわけではない。新しい知の組織化が功を奏する場合もある。ただし、メディア史なんかは政治史とか社会史、文化史と密接な関係を取らないと意味をなさない部分が多いように思うし、メディア論はコミュニケーション論や言語論、記号論などを踏まえないと、薄っぺらなものになる。メディアを中心に置いた知の組み替えがそうした相関性をより重視する方向になれば良いが、メディアという概念だけが一人歩きした結果、メディア業界経験者が経験談を語ればメディア論になってしまう状況が用意されてしまうのだとしたら問題だ。それは「働くおじさん」の番組以上でも以下でもない。メディア「論」っていうのもおこがましい。
実はMさんもメディアを冠した学科にポストを得ていて近々そちらに移る予定らしい。彼のように広く見渡しが効く人から教われる学生は幸福だ。しかし、それはレアケースで、10年後ぐらいにメディア社会学科系が屍累々たる状況にならなければいいと思う。そこそこ名の知れたメディア企業に所属していたというだけしかアイデンティティがない、薄っぺらな業界人にたらしこまれて、これまた薄っぺらな作り手像を抱いたままディア企業に入っていったり、メディア企業への就職の夢をたたれてもなお未練たらたらの、より劣化した受け手層を大量生産する結果になったら、メディアリテラシー教育の幅広化(>清水幾太郎)にはやはり問題があったということになるだろう。
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2月8日発売予定のソニークリエNZ90をラオックスで予約。欲しいとなると一日も早く欲しくなるところがまるで子供だ(苦笑)。

核論書評ほか  投稿者:武田徹  投稿日: 1月27日(月)21時16分25秒

読売新聞、東京新聞で核論の書評が出た(読売は阪大の坂元一哉さん。サントリー学芸賞以来ごぶさたですね。東京新聞は加藤秀一さん)。東京新聞は反核派の記述にやや難ありとの指摘が含まれていたが(確かにそうですね。あそこはあれぐらいでも、自分たちの「善意」を疑わず、批判馴れしていない反核市民運動家には充分過ぎるほど厳しいのではないかと思って遠慮があった。そこが実証性を欠く結果になったかもしれない。反省してます)、おおよそ好意的な取り上げ方であり、ほっと胸をなで下ろす。
宣伝に経費がかけられず、配本量で圧倒する戦術も取れない本ゆえに、販促だけでなく、告知もおよそ書評だけが頼り。知られないままに死んで行く本になってほしくないのは書き手として当然にして切実な願いであり、評者の方々には感謝します。

お昼を挟んで法政にいって、学生からビデオドキュメンタリー作品の提出を受ける。4本は既に出ていて、締め切り日を二度目に延長して設定した今日は3本提出。さすがに待てるのもここまで。これで今学期はおしまい。一人一作体制でいかに負担が多いか説明してビビらせたため、最初から諦めてしまった学生が多かった中、残ってくれた学生の提出率はかなり高かったし、その出来もなかなか良いと思った。
こちらはICUと違って機材的にプアであり、リニア編集であきらかに製作工程上は不利なのだが、逆にシンプルに素材で勝負しようとする姿勢が引き出されていたいい結果になっていたし、最終学年で卒論ゼミに所属していない学生が、学生時代の最後の作品作りとしてかかわってくれた、思いのこもった作品が出来ているケースもあった。

ビデオ撮影や編集の技術の習得など、実は何の役にも立たない。時間が経てば技術の体系など完全に変わってしまう。しかしカメラを介して社会と向き合う経験を通じて、普段は何気なく見逃している世界の成り立ちについて改めて考えたり、人間と人間の関係について何かを感じてくれれば、きっとそれが社会に出た時に彼等を支える力のひとつになってくれるはずだ。そう思って目先、手先の技術にばかり気を取られないように指導しようと心掛けた。うまく功を奏してくれれば良かったのだが。
それに逆にこの制作の授業にぼくが救われた面もある。正直、秋ごろからぼくは自分の仕事の面ではだいぶんへたれていたので、学生の初々しい表現への憧れや畏れの気持ちに触れることがある種の癒しになったり、生活に張りを与えてくれていた事情もあったように思う。その意味では彼等に感謝したい。

斉藤美奈子さんが『文章読本さん江』で言及しているのを読んで以来、気になっていた塔島ひろみ『楽しい綴り方教室』をようやく法政の図書館で入手。こ、れは・・・・。現代詩ですね。もはや。でも日本語の力を改めて感じさせてはくれる。森有正に読ませたかった。
編集済

上海日記アップ  投稿者:武田徹  投稿日: 1月27日(月)08時44分27秒

「旅先通信」→「上海日記」アップ。とはいえ、写真もないし、日記でもないな、これは。早くアップしてくれというリクエストを頂いていたのですが、申し訳ない。余力がない。
最近はニフティ側が容量満杯に近づいていたので、もうひとつ持っていたソネットのアカウントで無料で使えるサーバー容量を追加で使っていたのだが、ここしばらく更新できなくて(ファイル転送しようとしても拒まれる)ヘンだなぁと思ってはいたのだ。で、上海旅行のメモももう少し早くアップできていたはずなのだが、そんなわけで埒があかなかった。でも面倒くさいのでしばらくほっておいたのだが、今日、意を決して調べてみたら、案の定というか、なんというか、ユーザーエリアが変更になっていた。もう少し早く気付けばソネットの移行サービスを受けられたのだが、あいにく締め切りがとっくに過ぎていた。というわけでマニュアルで動かしたが、手間がかかるので写真を貼り付けてURLにリンクを繋いで行くような細かいことは出来なかった。勘弁されたし。

クローン人間 投稿者:武田徹  投稿日: 1月24日(金)23時25分53秒

 スパのニュースコンビニで日本人クローン人間のことを取り上げた。それ以前から気になっていたのは、ラエリアンがクローン人間を誕生させたとき、事実関係を究明せよと言う声が強かったこと。この場合、事実が明らかになること、クローン技術によって本当に人間が誕生させられ得るのか、誕生の事実が実在したのかが確かめられることは社会的意味がある。誰もが技術に対する身構えを改めさせずにはいないだろうから。その意味でそれは公益的なものだ。
 しかし、ならば事実解明に賛成かといえばそうでもない。事実を究明すべきだという声の高まりのなかに、ぼくは胡散臭いものをも感じてしまう。それはクローン技術で生まれるような異常な子供がこの世に存在いるかどうか確かめたいという指向である。それは生に正常と異常があることを信じて疑わない優生思想的な心情だとも言える。もし本当にクローンで人間が誕生していたらどう対処するのか。非人間的な扱いを受けるのがオチではないか。
それが気になったので取り上げたのだが、今日、送って貰った粥川準二さんの新刊『クローン人間』光文社新書を改めて見たら、それに近い内容の指摘をクローン批判陣営側にしている箇所が既にあった。
 ぼくは『核論』で反核側が自分たちの主張を実現するために事故を望むようになる危うさを指摘した。(当たり前の話だが)批判する側が常に正義を担うと決まっているわけではなく、批判者は常に自分の批判的に省みる視点を持たないとかえってグロテスクな暴力を担う場合がある。それが、たとえば反核運動家が思いあまって事故を望んでしまう構図に顕著だが、クローン技術を巡っても同じ構図はあるようだ。粥川さんは批判的にクローン技術を論じてきた一人だが、批判陣営の危険性を見ることができたのは批判の相対化を忘れなかったからだろう。
粥川さんのWEBを見たら25日に大事なことがあり、それまではナーバスになっているので更新を控えるという書き込みがあった。大事なこと、うまく行きますように。

 渋谷で取材をしたあと、次の約束まで時間があったので新宿で中古OA機器をみようとし、ついで中古カメラ屋を覗いたら、なんときのう教えた韓国人とベトナム人留学生に再会。世の中には確率論では説明できないことがある。EOS用ストロボを中古で探しているというのでカメラ屋を案内。ぼくのへたくそな日本事情講義より、こっちのほうが彼には役に立ったのではないか。
 別の新宿の中古カメラ屋ではダライラマそっくりな法衣の人にも会ったことがある。長徳氏がダライラマとカメラ屋で遭遇する夢物語をどこかで書いていたが、こっちは実際に会っているのだ。もちろんそっくりさんだったのだろうが、もしかしたらという思いが今なお断ち切れないのだ。

お知らせ 投稿者:武田徹  投稿日: 1月24日(金)09時10分56秒

みなさん書き込みありがとう。まず矢部さんのお問い合わせの件から。
担当編集者からお知らせして下さいとのことです。ぼくの記事は3月発売号の掲載予定(でもまだテープも起こしてないんですぅ)。出版社の読書人向けの冊子のようなイメージの小冊子です。おや? 日テレのサーバーなんですね。
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PR冊子「熱風(GHIBLI)」は
以下のURLで確認できる、ジブリコーナー常設店
http://www.ntv.co.jp/ghibli/shuppan/shoten/s_index.html
もしくはジブリ美術館で取り扱っています。

毎月10日配布予定で、1号は既になくなりつつ
あるお店が多いようです。2号は自転車特集で、2月10日配布になります。
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オー・マイ・ニュース日本語版 投稿者:本多 和治  投稿日: 1月24日(金)00時02分06秒

アスキーの記事ではよくわからなかったので、調べてみたところ
機械翻訳による日本語版がありました。(以下引用)

良い記事! 私もこの記事に原稿料を与えたい.

携帯電話,ARS 決済は 500ウォンです. 決済される金額の中で 200ウォンは記者個人の追加原稿料に支給されて, 300ウォンは <今月の記者上> など記者会員サポート費で使われます.

(引用終わり)
費用は携帯電話や固定電話の料金と一緒に請求されるシステムのようです。投げ銭というのは
知らなかったのですが、投げ銭と類似しているものの、電話会社が料金の徴収を代行している
ようです。日本のサイトによる紹介記事では、基本的に無料で見れるため、講読者数は多いが、記事のチェックのための費用などがかかるため、赤字が続いているとありました。こうしたシステムのネット新聞を作ることや日本語版をまだ不正確でも機械翻訳で発表すること、小額課金システムの利用と、新しい試みを積極的に行っているなと思いました。日本になんらかの影響を与えることがあるのか興味があります。

NYのNPO 投稿者:矢部 文  投稿日: 1月23日(木)21時58分09秒

何事であれ、日本人のなかには「お上」からの指示待ち、いや、お上がやってくれることを当然のように期待する意識がまだまだ根強いようですね。特に戦没者の慰霊施設など、全国型の事業などに対しては。NYでNPO(Non-Profit Organization, Not-for-profit organizationは、別物)を立ち上げた経験から言うと、「政府に任せて置けない」(政府には何も出来ない・信用できない)から、市民が政府のできないことを肩代わりして活動する、という意識でNPOを設立するのですが、政府のほうから言えば、「この部分は出来ないから、あなたたちでやってね」と認めてしまっていることになるわけで。日本の行政は、まだまだ自分たちこそ全能の神、って思い込みがあるんじゃないですかね。
ところで、私たちのNPO(Non-profitのほうだと思う)って何だと思いますか?日本語補習校の保護者会なんです。NYでは、非営利団体を法人化するのはすごく簡単。教育目的とか、友好団体とか、いくつかのカテゴリー(20ぐらいあったかな)があって、それに沿った形でIRS(アメリカの税務署)に登録するわけです。2万ドル以下の収入しかない団体は、確定申告を免除されるから。登録番号をもらえば、銀行でNPO用口座を開いたり州の消費税を免除してもらえるしくみ。503(c)という(あれ、合ってるかな?)カテゴリーは、さらに寄付金を募ることができる(寄付金は、寄付した人の税金控除対象)もので、これは州の司法長官にOKをもらわなければなりません。私たちの場合、「マイノリティーの子供たちの文化と教育に資するため」っていう錦の御旗を掲げたらOKでした。
日本でもNPO設立が簡単になっているそうですが。。。ジブリのフリーペーパーはどこで手に入るのでしょうか。

ちなみに 投稿者:武田徹  投稿日: 1月23日(木)21時20分20秒

帰り際に中国の人に「先生はデザインが良い」と言って貰えました。たぶん誉めてくれたんだと思うが、ロボットみたいでなんか嬉しい

在外日本研究者へのレクチャー 投稿者:武田徹  投稿日: 1月23日(木)18時52分51秒

今日はここしばらく毎年恒例になっている国際交流基金取主宰の在外日本研究者への日本事情講義。去年はなぜ日本の道路は右側交通なのかとかいう愛らしい質問が多かったが、今年はあの人がやってくれたせいで、靖国神社問題をどう考えるかとか、日本精神と中華思想についてとか、結構、シリアスな質問が多かった。
しかし中国人や韓国人を前に靖国問題をレクチャーするというのはデリケートな作業で、最初は気を遣って慎重に歴史的経緯などを話していたが、だんだん興が乗ってきて(だってびしばし質問が来るんだから)、靖国の変わりに無宗教を含む他宗教型、無国籍型の慰霊施設を新設する。それも国立ではなく、NGO/NPO運営にするというかねてよりの持論を述べてしまった。基金の人はハラハラだったのではないか。
別にこびたつもりはなく、A級戦犯の分離は心情的に難しいだろうともきちんと言ってみた。イデオロギーや歴史観を越えて死と向かい合う施設にしなければ過去のしがらみを越えて設立することは困難だが、そうなると戦犯を規定した東京裁判史観も越えることを余儀なくされるので云々と。
日本研究者ではあれ、会話レベルの日本語がそんなに達者ではない人が多かったが、なんとなく認識は共有できた手応えはあった。それが錯覚でなければいいのだが。

書き込みありがとうございます 投稿者:武田徹  投稿日: 1月23日(木)18時42分06秒

知名度の高い名前を使って芸能人をデビューさせる方法は前にも散見しましたが、モー娘。クラスでと言うのは例外ないかも知れないですね。しかも感じが同じで読みだけ違うというのも目新しい。もしかしたらこれは本名ではないですか。偶然の産物で、話題が取れそうで面白いので入れたとか。そうだとするともう既につんくの手に乗っていることになりますね。
同姓同名系問題としては、今日、ジャナ専で、古株の人に前に一度会ったことがあると言われて、そんなはずないんだがと思っていたのですが、話を聞いてみてわかった。朝日ジャーナルの配管パーティでとか言い出して、あ、それは武田薫さんだなと。彼はジャーナルではぼく以上に書いていたのでおそらく間違いないと思う。ぼくは廃刊パーティは誘われていたかどうかも忘れてしまったが、出ていないのは少なくとも記憶に間違いがない。顔とか、雰囲気よりも間違っていても似た名前を覚えているというのはなんか不思議。そんなものか。
韓国のシステムは「投げ銭」の変異系ですかね。それともバナーのクリックというのはその記事についている広告バナーなのかしら。

田中麗奈、オー・マイ・ニュース 投稿者:本多 和治  投稿日: 1月21日(火)20時54分44秒

 遅くなりましたが、中国に関する貴重な情報ありがとうございます。大手マスコミでは報道されないけれども、マスメディアや中国を理解する上で重要なことを教えていただき嬉しいです。
 サントリーのなっちゃんのCMなどに出演歴のある女優に田中麗奈という人がいます。一方モーニング娘。にも田中麗奈と言う新メンバーが選ばれました。もちろん二人は別人で、女優の田中麗奈はたなかれなと読み、モーニング娘。の方はたなかれいなと読むそうです。検索エンジンで田中麗奈で検索すると表示される部分だけではどちらかわからないページもあります。同姓同名問題に一石を投じることになるかもしれません。
 週刊アスキーの仮想報道というコラムで、オー・マイ・ニュースという韓国のネット新聞が紹介されています。登録した人は誰でも記者になれるシステムで、内部の記者(編集者)が確認作業をしているとあります。基本原稿料は大変安いけれども(最高でも約1000円)記事のバーナーのクリック数で支払いが増えるとあります。このシステムで採算がとれるかはわかりませんが、ジャーナリストの世界だけでなく、プログラマーやカウンセラーなども、専門家とアマチュア、有料と無料の違いが曖昧になっているような気がします。こうした業界に関わってみたい人にとっては、どういう姿勢で関わっていくのかは、なかなか悩ましい問題だと思います。

書き込みありがとうございます。 投稿者:武田徹  投稿日: 1月21日(火)12時06分45秒

書き込みありがとうございます。ぼくがNPOを調べているのは、スタジオジブリが今度出し始めるフリーペ−パーの特集用の記事です。刊行は始まっていて、NPO特集は3月配本用ですね。
宮崎駿さん、NPOに関心あり、なのだそうですよ。NHK『変革の世紀』でNPOの活動を扱った番組を見て、これって可能性あるんじゃないかと思ったようで。
今日もこの件で取材に行きますが、NPO法人が、公益性などの内容を評価されて認可されるのではなく、もっとも簡単に認可されうる法人格になっているところが制度上の強さであり、弱さのように思いますね。
公益性をあまり厳しく規定すると逆に制度が硬直してしまいすが、何もないのは問題で、ぼくはもう少し定義を与える努力をしたほうがいいように思います。「監視&評価のシステムとマネジメントの手法」と通じる考えでしょう。善意の有害性も公益性の観点方はやはり回避すべきものですから。
そうした制度設計の中でなら、株式会社や特殊法人でも適性次第ではNPO側に繰り込んでも良いのではないでしょうか。その際、給与とかのシステムは多くの部分を継続させていいように思います。これは給与システムとかは本質的ではないという考えからです。また何か書きますね。

NPO 投稿者:masahiro  投稿日: 1月20日(月)14時26分00秒

NPOのハナシもっと読みたいです!!

>株式会社と「質的」に違う法人であることを規定するような概念なり、
>制度はないんだろうかというのがぼくの疑問です。


NPOは、お金儲けしたい人はやってないという事になると思います。慈善&社会貢献の気持ちと自己満足が動機になっています。なので、行政セクターも企業セクターも実現できないサービスが提供されるわけで、これがNPOの生命線になるはずなんですが、、、

じつはこの部分がもっとも厄介なところになっています。まず、お金のやりくりを中心とした事業継続のためのマネジメントが脆弱になります。次に事業の成果を評価するシステムがない(+機能しない(市場経済))ので、本当に求められるニーズを満たせていないばかりか、迷惑&実害をばら撒く場合がなくもありません。そのうえに、あくまでも本人たちにとってそれは善意の行動であるため規制&コントロールする事がデリケートな問題になってしまいます。

よく駅前なんかで学生のボランティアサークルみたいなのが募金活動をしています。で、たいがい通行人は下向いて通り過ぎていくのですが、やっている方はやたらでかい声を張り上げて、自分の善意の行動に酔いつつ全然応えてくれない通行人に対しては軽い絶望感と心地よい優越感にひたっている光景に出くわします。そんなのを見ると、「ほんまに金欲しいんやったら、そんなんせんでもその時間、自分でバイトしてた方がええやろ」と思ったりもしますが、まあそれ系のうさんくささがNPOにはあるわけです。

で、とりあえず監視&評価のシステムとマネジメントの手法の開発が必要だと思います。それから、やっぱり有給スタッフに対しては仕事に見合う報酬が与えられるのが当たり前になってほしい。非営利事業でもお金というインセンティブがないと優秀な人材が集まらないと思います。

NPO法が施行されて4年ほど経ちました。会費が集まらなくなって行き詰りそうな災害救援NPOやNPOを利用した詐欺事件など、ちらほらとそんな新聞記事を見かけるようになりました。もっとNPOに関しての議論が盛り上がって欲しいなあと思う今日この頃です。

―武田様
NPOの記事はいつどこに載るのですか?

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