
武田徹Official Web
Site--オンラインジャーナリズム掲示板
LOG112
午後からネットカフェでスパ記事用の新聞記事検索。回線速度の速さが作業の効率軽減に大きく貢献することを実感して愛用している。
これは使いかどうかわからないけれど気になったので。
****
ロンドン共同】英経済誌エコノミスト系の調査機関EIUは16日、世界主要都市で外国人が暮らす生活費の調査結果(2002年末現在)を発表した。デフレ不況下にもかかわらず東京が前年に続き首位となり、1991年以来12年連続して「世界で最も生活コストが高い都市」という不名誉な地位を維持した。前年は東京と並びトップだった「大阪・神戸」は2位、オスロが3位、香港が4位で続いた。
****
生活実態から言えばもっとデフレになったほうがいい状況が少なくとも日本の大都市にはある。地方都市はそうじゃないだろうという人もいるかもしれないけれど、これは調査していないからで、住居費などを別にすれば物価はいまやむしろ地方都市の方が高いのではないか。
デフレが問題ではない。現在日本でデフレと呼ばれる状況では立ち行かなくなる経済構造が問題なのだ。たとえばカナダでは電車の中で二人客が立っていたら「混んでいる」と形容するという話を聞いた。それで鉄道がやってゆけるのは鉄道の公共性(たとえば自動車交通がある密度以上になると急速に効率を減少させる性質をもっていることを見越して、自動車利用者が増えないように公共交通料金を設定し、それでも成り立つように助成するなど)を見込んだ経済政策が背景にあってだろう。そういうことをしてカナダ政府が深刻な財政不安にいたったとは聞かない。
日本の鉄道はあれだけ料金をとって鉄道事業法的にいえばとんとん。で、混んでるし、割高の鉄道はイヤだというひとが自動車に流れて道は混み、時間コスト負担が多くなって経済効率が落ちてと、堂々巡りの悪循環にいたっているように思う。
生活を健全化する方向で役立つデフレも絶対にある。実際、年金受給額を減らすんだったら生活物価をさげておかないとまずいのではないか。そうした状況を検証せずにインフレターゲット設定論があちこちから出てくるのは解せない。デフレが数字だけ解決すれば論功賞ってワケなんだろうか?
ひとつ下の書き込みだけど、日本唯一のコールダーホール型ガス冷却路だった日本原電東海発電所のことが改めて気になる。
正力がこの炉の導入を決めたとき、商業用炉ではイギリスがアメリカに先んじており、一日でも早い原子力利用の実現を望んだ正力はイギリスに傾いた、と説明されている(佐野『巨怪伝』ほか)。そのとき、コストの計算もされていたはずだがイギリスからどのような説明を受け、どのように判断したかの資料は見たことがない。イギリスではコールダーホール路をプルトニウム生産炉としても使おうとしていたはずで、そのぶんを含めて発電原価を計算していたはずだ。正力がその説明を聞いていなかったと考えるのは難しい。その時点で正力の脳裏には核武装のシナリオがあったのではないか。
核燃料サイクルの導入も同じような疑問を感じる。なぜプルトニウム再処理にそこまで熱心に関わったのか。意識されていたのはウラン資源の有限性の問題だけだったのか。
原子力導入黎明期における核武装論の伏流の実状はもう一度調べてみたいと思う。どこか雑誌媒体ないかな。
荒俣さんもこんなかたちで引用されるとは予想していなかっただろうが、『TV博物館』(小学館19979を読んでいてひとつ発見があった。北朝鮮のTV方式はPALらしいのだ。PALはヨーロッパで主流のTV方式。日本はアメリカ式のNTSCなので、PALの放送は日本国内用TVでは見られないし、ビデオも再生できない。ちなみに韓国もNTSC。これはアメリカとの関係からして当然だろう。それゆえにかつては日本の放送が見れてしまう問題が発生した。
しかし、北朝鮮がPALというのは意外だった。旧ソ連圏はSECAMなのでそれに準じていると思っていたのに。
もっともこれは中国経由なのかもしれない。中国もPALなのだ。だが更に遡って考えて中国のPALというのもなんとなく違和感がある。中国のTV方式は、いったいいつ決まったのだろう。中ソ関係悪化以後、ニクソン訪中、日中国交回復以前の時期で、可もなく不可もない選択肢としてPALがあったのだろうか。そして中国に準じた事情があったのだとしても、北朝鮮のTV方式決定は、いつ?
もし北朝鮮がNTSCであれば、韓国の放送が北でも見られりし、逆もまたしかりということになるが、方式が違うのでそれはない。ベルリンの影を崩壊させた立て役者のひとつがTV電波のオーバーラップだといわれるが、それと同じことは朝鮮半島では起きない。大衆社会への影響という意味でTVの力は大きいが、方式の違いという技術的事情がそれを防波堤になったというのは皮肉な結果というべきか。。
ただ中国側からのオーバーラップは起きるかも。北朝鮮はラジオ受像器も周波数固定だと言うが、方式をPALからNTSCにかえるのは難しいとして、周波数固定をかえるぐらいなら家でも出来るのではないか。と考えて行くと北朝鮮を変えるのは案外、中国のTVの民主化次第なのかもしれない。
この前の「身体ネジレ」の書き込みをしたせいで、書き込みをさぼっていると、有り難いことに心配して下さるメールを頂いた。書かなかったのは身体のせいではないんです。とりあえず生きている?という報告をかねて。イメージだけ一人歩きしがちな北朝鮮の核だけど、実態はこんなことのようですね。
プルトニウム生産炉の本命は5MWe実験用原子炉。電気出力5000kwの独自開発のコールダーホール型黒鉛減速・ガス冷却炉、天然ウラン燃料のもの。過去に北朝鮮政府はこの炉から100gのプルを再処理したというが、悲観的なむきは最大 6.9〜10.7kgのプルトニウムが抽出されてのではないかと考えている。ちなみにこの量でプルトニウムで作れる原爆は、最低4kgでひとつ出来るという最近の「常識」に照らし合わせれば1ないし2個。
確実に存在している使用済み燃料棒は94年に米朝交渉が実ってこの実験炉が停止されたときに装填されていた約8000本の燃料棒でプールガタの中間貯蔵施設に浸されていることをIAEAが確認している。この燃料棒も北朝鮮が監視カメラに覆いをして以来の行方は分からない。こちらの燃料棒から再処理してえられるプルトニウム量は約25-30kg。これから出来る原爆は5〜6個だとされる。
といいわけで、最大原爆製造数は8個。ただその原爆がどの程度のものかは前にも書いたけれど分からない。兵器級プルがどれくらい劣化しているかが問われるし、爆縮技術の精度も問題となる。
そして『核論』的な問題意識からすると、この炉が東海村にあった炉型と同じことは注意しておきたい。東海発電所は商用炉として最初に臨界したが、先日、廃炉に至った。ガス冷却炉ゆえの経済性の悪さが理由として上げられていたが、果たして本当にそうか。世界を震撼させている炉と同じものが日本にも存在した。いま、核保有国が北朝鮮へのプレッシャーをかけている現状を思えば、当時の日本にもそれなりのプレッシャーがあったことは疑い得ないのではないか。そうした核の政治力学を正しく読み解くこと(隠された資料や証言の発掘が必要だがーー)こそ戦後日本の立ち位置を浮き彫りにすると思うのだけど。
今朝、CX「とくだね」を見ていたらオープニングで小倉さんがアクアラインの話をして、木更津からアクアラインを通過して練馬の自宅まで早くて2時間おそくて2時間30分はかかるという。アクアランはがらがらでそこは20分で渡れるのだが、その後が悪いということを言い出して、読売が外環を大深度地下で作る案をスクープした話題に繋げていた。
読売は取っていないので知らなかったが、公団民営化の展開を思えばこれもずいぶんキナ臭い記事だ。
大深度にしてしまえばいいという考えからは昔からあって、しかし、とりあえず「作ることは出来てしまう」そうした発想にはぼくはNAVIで首都高中央環状新宿線の地下化の記事を書いたとき、疑問を投げかけた。作れる=作っても良いではないのだと。
小倉さんは練馬の人らしいので、確かに外環が出来れば移動効率はあがるだろう。しかしそのように自分が受益、受害の当事者になるときこそ、ジャーナリストは立ち位置が問われる。小倉さんは道路が出来ることは都市機能にプラスになると疑いもせずに言っていたけれど、それはそう自明なことではない。自動車での移動効率があがることと、都市が活性化することは必ずしもイコールではない(市民運動家の多くが信じて疑わないようにノットイコールでもないがーー)ことはジェーン・ジェイコブズが随分前に実証して見せた(それは今度出るNAVI書いた)。
しかしそうした議論は多くの人にとって視界の外で、単純に「近代的な都市はまっすぐな道路が走っていて、クルマですっと移動できる」というイメージから逃れられない。とんでもなく古い、未来のイメージ、「年代物の未来」に、ぼくたちは縛られているというブラックジョークのような状況がある。
都市生活の全体像の中で「あるべき道路」を考えろと言うのが難しいというなら、素朴な大深度地下道路待望論者にも分かる入門的な知識をさずけよう。大深度地下であっても地上への影響がないというわけではない。内燃機関のクルマが通行する以上、換気施設は必要になる。大深度地下であればそれはかなりの巨大な設備投資が必要となる。しかしその大深度地下道路が完成した時に、まだ内燃機関自動車に人類が頼っているようであれば、資源問題と環境問題で、地球はパンクする。もし燃料電池の時代になっていれば、換気装置は宝の持ち腐れになる(公団の債務超過or国土交通省経由の税金無駄使い?)。それがその時点で換気装置まだ必要のままの自動車文明状態であれば、人類の未来は相当にやばいことになる。そこにはそんなジレンマもあるのだ。それでも地下道路に憧れ続けますか? どう作りますか?
私が泣き言?めいたことを書いたので心配して下さってありがとう。とても参考になります。
一応、病院で鎮痛剤を貰っているので、日常的には楽になっていますが、対症療法ではなく、もう少し根本的に治さないと行けないんでしょうね。偏頭痛ではなく、たぶん頭痛の本を読む限りでは緊張性頭痛らしく、吐き気とかはないのが救いです。
前に佐藤玉緒が好きな男性は「脚を組まない人」だと言っていて、その理由が、「身体が曲がっているような気がする」と説明していました。天然っぽい彼女ですが、案外、正鵠を射ていて、脚を組んで斜に構えないと、落ち着いて人の話を聞けない状態になります。身体の軸線がねじれているんですね。脚の組み方もいつも決まっていて。
で、逆に脚を組んだり、立っているときも意識的に身体を逆にひねってみるようにしています。整体法として正しいかどうかはわからないんですが、それだけでもすこし楽になるんですよ。あと今日はパソコンを終日持って歩かず(そんなことすごい久しぶりなんですよ)、意識的にキーボードに全然触れなかったです(今が始めて)。
前もそんなふうにしていたら、仕事の山も過ぎたころ、いつのまにか治りました。今度もとりあえずそうなってくれればいいと思っています。だめなら本とか買ってほかの方法を試してみたり、カイロプラクティックとか整体医にかかってみようと思います。
おひさしぶりです。
ヘルニア歴5年の健康オタクの私から言わせてもらうと(笑)
>おしぼりみたいにひねれている状態が今や「自然体」になってしまっている。前も頭痛が出る前はそうだった。
というのは、かなり「やーばい(C)高校生」状態です。
私も長年のデスクワークで体が左右ゆがんで、偏頭痛で吐き気という症状で長く悩んだとき、針・灸、マッサージ、整体とかの「終わりなき旅」に出ましたが、治らなかったです。
で、知人から「自力整体法 矢上裕著/農山漁村文化協会」というあやしいおじさん(失礼)が表紙の本を紹介されて、この体操をやってみたら、悔しいけど良くなりました。
ゆがみの原因の説明とかは医学的にも争いのあるところらしいので、この著者の説明も一説にしかすぎないと思うのですが、実際に治ってしまったので理屈はどうでもいいかなと。
基本的に「健康ビジネス」はいかがわしいのが多いと思うんですけど、この本とアレン・カー「禁煙セラピー」は金がかからず、メリットありましたよ。
私は週1回1時間やっています。
武田さん、こんにちは
フリーで仕事をするには、まずなによりも健康管理が第一だということ、私も痛感しております。クビの骨が曲がっているので、週1回のカイロプラクター通いが欠かせません。(私はNY在住ですので、カイロ治療も医療保険がききます。)おかげで偏頭痛に悩むことがなくなりました。カイロプラクターでも、首から上の調整(?)ができる人はなかなかいないらしいのですが。
日本に帰ると、クイックマッサージが街のあちこちにあるので、うれしくなってしまいます。極めつけは温泉プラスマッサージーー。おっと、ないものねだりになるとみじめになりますので、この辺で失礼。
1月は年末進行明けなのでヒマになるはずなのだが、今年はなんだか妙にたてこんでいる。
で、キーボードをうち続けていると持病の緊張性頭痛が。去年も5月ぐらいに出たけれど同じ症状。身体が曲がっているのが分かる。というのも脚を組んで斜めに人と面していた方が、気分的にも身体の面でも楽なのだ。おしぼりみたいにひねれている状態が今や「自然体」になってしまっている。前も頭痛が出る前はそうだった。ちょっと休もうかなと画策中。しかし、ねじれた身体を治すのはどうするのが効率的なのかしら。
携帯電話はなかなか調子が良い。前のF503isが失敗作だったんだと思うが、今度のはインタフェイスも相対的にずいぶんいい(なんかへんなキャラがずっと画面上にいるのは困るけど)。
今回、買い換えを急いだ理由のひとつにスケジュール管理を電話機でやりたいというのがあって、というのも前のP211はスケジュール機能があったんだけど、F503はそれがなかったのだ。それが復活。パソコンのアウトルックとのシンクロも不十分ながら出来るので、PDAを買おうかと迷ったんだけど、しばらく電話機でやって様子をみようと思う。
あと買ってから気付いたんだけど、このD251iという機種はなぜかキムラヤが格段に安い。量販店は値段が殆ど横並びなんだけど、驚くべきことに倍近い価格でラオックスなどでは売られていて、とくに市場調査もしないのに、最初にキムラヤに言っていてラッキーだったと思っている。こんなに値段が変わるのは、仕入れの違いなんだろうか。メーカーとの力関係? 量販店のメカニズムもいまひとつわからない。
休めればとおもったが携帯電話のスケジュールはしばらくずっと埋まっている。フリーだから休めると言うわけでなくて。毎日、別のところに、別の用件で出勤しているみたいだ。どうにもへんな一月だけど、仕事があるだけでも幸せと思わないといけないのだろう。
週刊朝日に『核論』の書評が。評者は坂下裕明氏。たぶんお会いしたことはないと思う。よく読んで下さった印象を持った。しかし、タイトル「いかめしい」ですか?
午後に筑摩の編集者と会って、校閲チェック原稿を渡して貰う。自分も再校に目を通しているが、改めて付け合わせてみると校閲がチェックした誤植は殆ど見落としていた。我ながら校正能力(高性能力ではない)の欠如に唖然。自分の文章だと内容の方が気になってしまうものではあるのだが。笑えたのは歌舞伎町が歌舞伎庁になっていたこと。警察庁と並んで歌舞伎庁があったらおかしい。歌舞伎庁長官とか、どんな仕事なんだろうか。と、最後はヨタ話で、すみません。
書籍の世界ではとっくにブームになっていた斉藤孝だが、TVでは遅れてブームがやってくるので最近、彼は画面に出っぱなしではないか。で、子供達に朗読指導しているVがよくかかるけれど・・・・、やっぱり抵抗感がある。
日本語が持っているリズムを身体で感じることが主眼のようだが、さて、日本語のリズムって何だろう? 5−7−5? ぼくのお師匠さんだった荒木亨という比較文学者は日本語二拍子説を唱えていて、それは5−7−5も含めて、日本語の韻律をうまく説明できる優れた学説だった。彼の場合、ユグナンの翻訳はある程度の数読まれたが、リズムとミーターに関する仕事の方は殆ど知られていない。しかし、その後に出た、たとえばJ−pop進化論の日本語どどいつ(だっけか?)リズム論なども二拍子説の延長上にあるものに過ぎず、オリジナリティの面でもっと注目を受けて良いと思う。
そしてこの二拍子説を踏まえてこそ、日本語のリズムの変化が論理的に語れる。ぼくは宇多田ヒカルの『ファーストラヴ』の「ナナカイメのベルガ」の部分が二拍子説に反するものだということを前に書いた(『文藝別冊』『若者はなぜ繋がりたがるのか』)のだが、日本語のリズムを変え始めたもっと早い例はサザンの桑田かもしれない。時期的に言うと70年代末ぐらいから。日本語が潜在的に持っていたリズムではない、リズムを日本語に与える試みが音楽の世界で始まったのだと思う。
これはある意味で45年の断絶よりも本質的な歴史的断絶を意味していて、ここから本当の意味での戦後日本は始まったと言えるのかもしれない。というのも二拍子説で説明できるリズムに従っている限り、短歌俳句的な短詩型文化の肯定に行かざるを得ない。斉藤に抵抗感を感じるのもそのあたりなのだ。せっかくJpopが日本語を無惨なまでに解体したのにまた逆行かよーと思ってしまう。このあたりのことはそのうちもう少しまとめて書いてみたい。
少し私信めくが、外に連絡しようがないのでひとつ。
『新聞ジャーナリズム』の訳文について問い合わせを頂いたNY在住の翻訳者の方。送信者メールアドレスに返事を返信したけれど、User unknownで戻ってきてしまいました。使われていないアドレスから送られたってことですか? 謎。どう対応したらよいか連絡して下さい。
徳山さん。こちらこそごぶささたしてしまってすみません。そのうち折りをみて一度連絡します。「幻想の現代」はどうなったのか気になってもいるし(内輪ネタですね)
さて
>「非営利」というのは「利益を得ない」という意味ではなく、「活動を通して得た
>利益を社員に分配せず、次の活動にまわす」という意味だと言われました。
これは日本もそう言われているようですよ。ただ気になるのは「次の活動に回す」ことにどの程度規定があるのかですね。アメリカは分かりませんが、日本の場合は、軽く取材した感じでは、規定は殆どないようでした。となると、たとえば株式会社だったら、土地を買って地上げするのも、株を持ちあって安全を図るのも「次の活動」のためという大義名分に収まってしまいますが、それと同じような、だらしない解釈の拡大がないのか、と思ったりします。
>営利/非営利の区別は職員給与のことも指すのでしょうか?
>NPO職員の給与については、営利組織で働くのと同等の労働に対しては
>同等の賃金が支払われるべきだという考え方が(少なくともアメリカの
>概念としては)主流のようです。それが日本の現状にどこまで見合うか
>は全く別の話ですが。
これも日本はアメリカ流をほぼ踏襲しているように感じました。しかし営利活動をする会社組織は、給料は高くて悪いと言うことはないのですが、それと同じ考え方でNPOの給与も考えて良いんですかね。先の「次の活動」の曖昧さとも相俟ってなんとなく座りが悪いような気がします。株式会社と「質的」に違う法人であることを規定するような概念なり、制度はないんだろうかというのがぼくの疑問です。
以下の書き込みを頂きました。
ここはアドレスを書くというのが決まりで、この投稿もしっかりそれを遵守してくれていたのですが、なにぶん学生なので、つい教師マインド(笑)がでちゃってちょっと心配になり、ぼくが勝手に代理投稿します。余計なお世話だとは思いますがお許しを。↑はこの発言に対するぼくのレスです。
NPO
徳山詩織
武田先生 おひさしぶりです。
NPOについて。詳しいわけではないのですが、ご参考になればと思います。
サンフランシスコ周辺のNPOでインターンシップをした際に、「非営利」というのは「利益を得ない」という意味ではなく、「活動を通して得た利益を社員に分配せず、次の活動にまわす」という意味だと言われました。営利/非営利の区別は職員給与のことも指すのでしょうか?
NPO職員の給与については、営利組織で働くのと同等の労働に対しては同等の賃金が支払われるべきだという考え方が(少なくともアメリカの概念としては)主流のようです。それが日本の現状にどこまで見合うかは全く別の話ですが。
よいお年を☆
次に出す本の一部になにげなく引いていて、原稿を書いたときは間違いないと思っていたんだけど、ゲラになってみたら不安になった。日本で「三大非上場企業」と言われてきたのは、サントリー、電通、出光興産、でいいんでしたっけ? 電通が上場したので、その一角が崩れたのだけれど、残る出光とサントリーが非上場なのは、調べて確認できている。しかし「三大」となると慣用的な表現なので、さて、これでいいのかどうか。経済誌の記者だったらもう常識の部類なんだろうけど、経済音痴なので困る。前に誰かから聞いて覚えていたのだが、いざ使おうと思うと、本当のところで身に付いていない知識なので自信がなくなってしまうのだ。誰か教えて下さい!
経済音痴ついでに恥知らずにも居直って聞いてしまうけど、上場ってのは何なのだろう。いや、もちろん意味は分かるし、上場することで市場から広く資金が集められるメリットがあるとか、銀行の信頼が得られるとか、教科書的な理解はしているつもりなのだけど、実際のところ、それにどの程度のメリットがあるのだろうか。上場することを大目的としてベンチャー企業家は奮闘するのだけれど、電通が今まで非上場でやってこれたというのは、どういうことなのか。
更には一方でNPOの記事を書く予定があって、調べ始めているんだけど、営利組織/非営利組織の違いってのも、いざとなるとよくわからない。NPOだって給与を得ている専従がいるところもあるし、理事クラスが結構な収入を得ているところだってあるはずだ。
収入があまり法外になると社会的通念からして許容されず、会費や寄付も集まらなくなってNPOが立ち行かなくなるというが、それは株式会社の役員所得だって似たところはある。要は社会的通念しか「制御棒」はないのか。だとしたら株を通じて運転資金を得る株式会社と、会費を得て運動を続けるNPOでは、どこが「質的」に違うんだろう。これも詳しい人、考えてきた人の意見を聞きたいところ。
あんまり私事は書かないようにと年始に反省したんだけど、既に破りまくっていますな。まぁ、ちょっとおつきあいください。ケータイを変えた。D−251i。ドコモ系で唯一メモリメディアが使えるモデルで、メモリスティクDuoのスロットを持っている。カメラ付きケータイが出始めたとき、取材の時に記録用にデジカメやDVを使う身としては、常時携行している電話で兼担出来れば楽だと思った。しかしカメラがついててもメモリーが貧弱だとなーと思って二の足を踏んでいたところに、このモデルが出てきて、前々から欲しかったのだけど、ようやくゲット。
実は今年の11月ぐらいにも一度買おうとしてキムラヤで機種変更を頼んだのだけど、前の電話機が買ってからまだ10ヶ月たっておらず、変更できなかったのだ。10ヶ月たたないと量販店では機種変更できないというのは前に聞いていたが、そのときは、そんなに早く買い換えて行くバカがどこにいるのかと思っていたけど、それは自分のことだったというお粗末。この1月2日に晴れて10ヶ月経過し、機種変更できたという次第である。モデルイヤー末期らしく、値段もだいぶ安くなっていたので、待った甲斐があったということか?
しかしメディアが入るのはいいが、がたいがやたらでかいな。あと電池の寿命が異様に短くないか? 表示がむちゃ明るくて奇麗にはなったが。インターフェイスは前の富士通モデルが最悪だったので使い易い。アイコンアドのデザインはへたくそだけど。というような使用レポートはその気になったらまたアップします
みなさん、あけましておめでとうございます。ことしもよろしく。お正月はどうでしたか。
ぼくの場合、正月休みはまとまった時間が取れるので、あれもしよう、これも出来るだろうとつい欲張りに考えて仕事を抱え込んでしまい、結局、果たせずに終わる。毎年そうで今年も同じ繰り返しでした。基本的に『戦争報道』のゲラを見ていたんだけど、それ以外のも編集構成しないといけない本があって、こっちは年末に少し手を入れただけでそのまま放置されている。ゲラ戻しの後、そうとう馬力掛けてやらねば。
今年は東京で誰と会うわけでもないのに、京都の妻の実家には帰らず、結局、自分の東京の実家にずっと引きこもっていた。ここの面白さは自分の青春期の読書経験と再会できること。大江とか倉橋とか、軽井沢シンドロームの単行本とか、恥ずかしいくらいに残っている。
TVも横目だけどずいぶん見た。回顧番組、いつになく多くなかったですか? メディア史をおさらいできて個人的には有り難いのだが、歴史家以外の普通のひとまでそう懐古的にならなくてもよいように思うのだが、これも前よりも後ろを見ていたい気分の蔓延した時世のせいなのだろうか。
懐かしの名曲(とくに70年代フォーク、ポップス重点的狙い)の番組で宮崎淑子が出ていたミノルタのCMで使われていた斎藤哲夫の「いまのきみがーー」は初めてフルコーラスで聴いた。こう何年も経って初めてフルコーラスで聴くというのも珍しい。いままで聴かずに来れたのが不思議。
東京では正月三が日、毎日雪が降った。
不況はもはや根雪のようになるだろう。景気回復ではなく、それに馴れることによって不況を語ることは少なくなって行くだろう。辛気くさい年始最初の書き込みになってしまったが、斜陽をいかに充実して生きられるかが、これからの十年の処世の技術であることは自覚しておいたほうがいいと、自分にも言い聞かせている。
実家でゲラに朱を入れながら紅白歌合戦を見ていたんだが、いつからこんなに番宣ばかりの番組になったのか。
特に見物だったのは中島みゆきが黒部ダムでプロジェクトXのテーマを歌ったところ。トロッコ用の狭いトンネルでのロケで、ここまで悪条件ならアテレコでまったくいいと思うのだが、きっちり生演奏だったようで構内のエコーの処理に苦労していた。ちなみに中島は一カ所歌詞を間違えたが、中継側であわててテロップを消してばれないようにしてもいた。ここまで作りものの番組なのに、こういうところでは生にこだわるところがおかしい。
>現在においても北朝鮮は戦時体制にありますからね。というか戦時体制を印象付けていないと金>正日体制そのものが維持できないのでしょう。
北朝鮮はおそらくそうなんでしょう。ただ、ぼくが書いたかったというか、力点を置きたかったのは「北朝鮮で」ということではなく、むしろ「日本or世界」でということだったんです。北の原子炉が兵器との繋がりでしか論じられないが、それ以前に原子炉固有の危険性の議論もできるのではないかと言いたかったんですが、そうは読めなかったですかね。すみません。
では、良いお年を。みなさまも
武田さん、こんにちは。
>もちろん再核武装も心配だけど北朝鮮の人々が核政策の危険の下に
>生きることを余儀なくされることについて、誰も何も言わないのは
>戦争ボケとでも言える状況ではないか。
現在においても北朝鮮は戦時体制にありますからね。というか戦時体制を印象付けていないと金正日体制そのものが維持できないのでしょう。戦争がいつでも起こりうるという恐怖によって人民を統制し支配しているのが北朝鮮。それを言えば今のアメリカもいつテロが起こるかわからないという恐怖のもとにテロとの闘いを国論統一の大義名分にしているところがあります。
北朝鮮の核武装というのは必然的に出てくる問題ですね。在韓米軍基地には大量の戦術核が備蓄されているわけですから、持たざるものにとっては脅威以外の何物でもありません。朝鮮戦争でマッカーサーが核攻撃を進めようとしていたのは歴史の事実ですから、北朝鮮が核開発に向かうのは当然と言えば当然。むしろ朝鮮半島に恒久的な平和のしくみを作ることを怠ってきたアメリカの問題が大きいと言えます。在韓米軍基地を失いたくないがために、冷戦終結後もこの地域の対立を放置し続けてきたわけですね。
そもそもアメリカ自身が持つ大量の核兵器をどうしていくのかの考えが全く無い以上、抑止手段として敵対国が核を保有しようという動きが出るのは当然のことで、世界一の大量破壊兵器保有国が他の国の保有を云々言うこと自体極めて矛盾している。
新約全書ヨハネ伝福音書の開巻第一に『はじめに道有り、道は神とともにあり、道は神なり』と記してある、さうして、その中の「道」の字に「みち」ではなく、「ことば」と仮名が振ってある。これは、ギリシャ語の原文にはlogosとあるものが、英訳ではwordとなつている。そのロゴスの持つ「理」と「言」の両面を英訳流に「言」の方面のみに即して「ことば」とだけ言つたのでは物足らないので、道理の道の字に「ことば」と仮名を振つて、ロゴスを全面的に示そうとしたものに外ならない。適当な訳語を見出しかね、思いあぐんでの結果と考へると、苦心のほどは充分察せられるが、更に一考したら、我が国にも「理」と「言」とのふたつを霊的存在として併せ示す語が「こと」といふ形で我が国の大昔にあつたことに思ひ至り、logos=wrodの訳語としては「こと」または之に敬称の「み」を添へた「みこと」が、一番妥当であることに、必ず気付いたことであらう。と云ふわけは、我が国で、神または人の中に宿る、霊性や気魄を示すために、「・・・の尊」又は「・・・の命」と記し、その「尊」や「命」を、いずれも「みこと」と訓じている事実からみても、極めて明かであると自分は思ふ。
古代ギリシャ語のロゴス及び我が古語のコトが、「理」と「言」との量気を兼ね備へるに至つた経路は人間の存在が、吸ふ息に始まり、吐く息に終わることを知つた原始の民には、呼吸の気息の翼に乗つて、我らの肉体に出入りし、我らを霊動せしめる、ある玄妙な力が、宇宙の心核と彼等の思惟した中枢地点が、想像されたからで、その気息を原料として、互に思ふ心の通じあへる言語、それがあるがゆえに、巫祝を媒介に、神慮さへ窺ひ知ることの出来る言語は、我らの祖先の、脅威の的でしかなかった。
言葉の持つ、こうした神秘性は、それが文字の助力を得るに至つて、益々その勢いを加へ、その勢力の偉大さに対する我等の崇拝は、今日もなほ次第に加はつて行つている。
****
昭和10年に石橋幸太郎訳で出たオグテン=リチャーズ『意味の意味』への岡倉由三郎の序文。近代日本のキリスト教が国家神道に対する批判的勢力足り得なかった様子をうかがい知れる内容だが、既存の言葉の体系、価値観体型から離れた思考(外部の思考?)がいかに困難か、イデオロギーは独自性を謳っても、言葉がそれを保守的な世界に引き吊り込んでしまう事情を示しているという、より一般的な解釈もできるのかも知れない。
北朝鮮はIAEAの査察官も帰らせて黒鉛実験炉を再臨界させようとしている。プルトニウム生産が話題になっているが、その前に実際に臨界に達成させ、それを維持できるのだろうか。6年間止めていて冷却水の配管の腐食とか大丈夫なのか。所詮は小さな実験炉だが、たった1gのウランの予期せぬ臨界で、東海村ではあれほどの惨事になったのだ。もちろん再核武装も心配だけど北朝鮮の人々が核政策の危険の下に生きることを余儀なくされることについて、誰も何も言わないのは戦争ボケとでも言える状況ではないか。
で、ここから少し視点をずらすけれど、日本の核について。東海村臨界事故の翌年ぐらいか、電事連は失った信頼を取り戻そうと、原発に見学者を大量に誘致する活動に熱心に関わっていた。で、実際、結構な人が原発を見たのだろうが、原子炉の炉心上部に向けて設置されているカメラとか、炉心上部の蓋につけらえた封印とかについて説明を受けた人はどのくらいいるのだろう。あれはIAEAの査察用のもので、炉心から使用済み燃料棒を秘密裏に抜き出さないかチェックしている。再処理施設も既に持っている日本の核も実は核の独占を望む核所有5大国からしてみれば水平核拡散のおそれがある要査察物件なのだ。
北朝鮮の核が論じられるが、それに注目する視線が、日本の核、そして世界の核状況を省みるために使われる気配がまったく感じられないことに、何か気味の悪さを感じる。核についていつも侃々諤々と議論しているスイシン派もハンタイ派が、この期に及んでは、北朝鮮の核を踏まえた上で自説を語らないのはなぜ? いつもは実りのない議論ばかりしていてうるさいばかりだが、今回に限っては、核を北朝鮮(やイラク)特殊論に閉じこめ、問題を矮小化していることの一翼を彼等すらも担ってしまっているのは、いつもの議論が結局は「ごっこ」の域を出ていなかったから? もっと核を普遍的に畏れる姿勢があっても良いと思うのだが。そしてそれが北朝鮮問題の所在を位置づけるひとつの(唯一の、ではない)方法になるのではないか。