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LOG110
メディア論にいわゆるゲートキーパー理論というのがあって、マスメディアは選択的に情報を提供する玄関番の役割をするのだが、その選択の「文法」を分析するというものだ。
ここ数日はノーベル賞授賞式ニュースがあり、今朝は和歌山カレー事件で埋まり、拉致問題報道がとぎれている、これもゲートキーパーの選択の結果である。情報の「新規性」は選択理由のひとつとなるので、新しいニュースが古いニュースをわきにおいやることになる。
しかし、新しい動きがなくなること、イコール報道価値が無くなること、ではもちろんない。解決なしに新しい動きが無くなる、つまり事態が硬直に至った時こそ、その原因を検討し、状況を分析するという方法がニュース価値を持つことがあるはずだが、そうした価値の比較検討が果たしてされた結果として拉致事件解説よりもカレー殺人事件だったのだろうか。
たとえば、なぜ小泉訪朝の直後に北の核開発疑惑がアメリカから公表されたのか、中国の北朝鮮経済特区長官逮捕はどのような意味があったのか。案の定国内で出来ることは手詰まりになって、新しい動きがなくなった今こそ、新情報がないから「休む」のではなく、北朝鮮を巡る国際状況を分析するような足場作りの作業をしておくべきだと思う。なにしろ、そうした作業をプロがしないと、アマチュア政治評論家が限られた情報から妄想を膨らませて陰謀史観を語り出す。そんな流れを堰き止めるためにもプロがしっかり構造的な分析をしておく必要がある。
ゲートキーパーであることとは、編集権を行使することでもある。しかし権利を行使するには義務を伴う。マスメディアの担い手が持つ義務の意識って今どんな風になっているんだろう。ゲートキーパーとして矜持を持って当たるのなら自ずと義務感も育つように思うのだが、どうなのか。
本多さん、書き込みありがとうございます。
自己決定、自己責任で処理すべき領域が広がって行くのは社会の趨勢ですが、だからこそ自己決定能力の健全性は厳しく評価しないといけないという事情があります。
たとえば知的障害者の権利問題だけでなく、犯罪加害者の心神喪失問題についても、被害者の人権への配慮という観点から日垣隆氏のような主張が出る背景は理解できまるし、現行の精神鑑定システムのおかしさには問題が多いとは思いますが、だからといって心神喪失という概念自体を捨てるのはいきすぎだと一方でぼくは思っています。自己決定の尊重とは自己決定権の及ぶ範囲の正しい見定めを背景にすべきで、その意味で自己決定権の届かない外部の尊重(というのはヘンですね。受容、適正な受け入れとでもいうべきか)でもあるべきですが、こうした構図を論理的につきつめてゆくのは極めて困難な作業でもありますね。
この種の話は、折を見てまた書いてみたいと思っていますので今後ともよろしく。
SPA!のニュースコンビニエンスの知的障害者殺害の記事
には色々考えさせられました。知的障害の人の犯罪の記事は
たまに見かけますが、多くの場合突っ込んだ取材や報道は
されずに、そのまま忘れさられてしまい、問題はそのまま
残されてしまうように思います。でもそういう事件こそ
真剣に考えてみるべきという感性を持った人がいることは
大変嬉しく、これからは武田氏の記事やこのホームページに
注目したいと思っています。
単行本を2冊入稿してしまってからのぼくはすっかり気が抜けてしまっている。もちろん大きな仕事は始めておらず、来るものは拒まずの結果、細かい仕事ばかりこなしていて、それでもなぜかなんだか締め切りが守れないほどせわしないが(「なぜか」なんて他人事のように言っているのがその証拠だが)緊張感は皆無で、しばらく経験しなかったふわふわした変な感じだ。
二冊のうちの本になった方の『核論』は無事に書店に並んでいるのだろうか。そういえば本屋なんか最近はぜんぜん覗いていなくて、その確認すらしていない。さっきようやくパソコンで紀伊国屋とジュンクの在庫は見始めたが、アマゾンは「在庫切れ」になっていてがっかり。売れちゃったというのではなく、版元との関係でデータ更新が遅れて表示がこう出るらしい。こうしてみすみす読者を失って行くのか・・・。bk1はあるようなのでオンラインだったらそちらでどうぞ。
自分としても?の本だったのだが、先日、実家に返ったら父親から「面白いじゃないか」と言われた。感想を殆ど言わない人から、この本について言われて意外だった。あと香山リカの『ぷちナショ』を遅ればせながら読んでいて、改めて『核論』の書かれた場所が、そう見当はずれではなかったと思った。歴史から切断されて仮構される「豊かさ」のイメージ、根拠無き自信、マッチョイズムの台頭こそ戒められるべきで、そのために核受容史の再検討は格好の練習問題だとは思う。
しかしアメリカ発の北朝鮮の核開発情報を鵜呑みにするようなマスメディアシステムの中で、この本が浮かばれることはきっとないんだろうーー。そうはなから思えてしまうのが、抑鬱の原因なんだろうか、単に疲れたのか、さぼりたいだけのようにも思うけど。
明日は国際交流基金主宰の在外邦人日本人教師への日本文化論、若者論講義。話すことより、どんな話が聞けるかのほうが楽しみ。今週半ばには『戦争報道』のゲラが出るはず(発売は結局2月になりそう。その頃にイラクはどうなっているんだろう)。気を取り直さなければ。
>報道サイドからすれば「面白みに欠ける」ものであったかもしれないですね。だから委員会内部
>の意見対立の取材に関心を集中させて少しでも面白く報道しようとするんでしょうか。
なるほどそうかもしれないですね。検閲などによりマスメディア情報が梗塞状態を呈したり、偏るようになると流言飛語が出るようになるとかつて清水幾太郎は書きましたが、逆に情報が充分に公開されるとマスメディアは痴話喧嘩的な報道を始めるということでしょうか。
民営化推進委員会の大きな役割の一つが、密室が通例であったこの手の審議を公開したというところに意義があったと感じています。ジャーナリズムの視点から言うと、密室を暴くところにその精神が発揮されるのだろうけれども、このように公開されてしまうと手軽に情報入手が可能になって報道サイドからすれば「面白みに欠ける」ものであったかもしれないですね。だから委員会内部の意見対立の取材に関心を集中させて少しでも面白く報道しようとするんでしょうか。
道路のような公共財に関わる限り、その意思決定は政治がすべきもので、民間人に決定が委ねられるべきではない―と道路族議員は口をそろえて民営化推進委員会の審議を矮小化しようとしますが、一方で彼らがどれほど国民の信頼を得るための努力を傾けていたかというと非常に疑問です。問題は一般道路に関する議論ではなく高速道路に関する議論であるのに、なぜか一般論を持ち出して反論する。それは庶民にはわかりやすい議論だけれども、意味のない講釈論にしかならず、今後高速道路建設をどう進めるべきかに解答を与えるものではありません。
少なくとも民営化推進委員会はその解答をひねり出すべく努力を傾けてきた。それだからこそ意見の対立も隠されることなく公表された。感情的対立があったと行革を推進する立場の石原議員はまるで評論家じみた発言をしていましたが、対立を恐れず議論を続けることの重要性を改めてこの委員会は教えてくれたんだろうと思います。
結果的に今井委員長辞任ということになりましたが、各種審議会を経験しつくしている今井氏には、純粋に民間人としての発想はもともとできなかったのだろうと思いますね。両論併記で事を収めようとするのは極めて官僚的な事勿れ主義であって、こうした議論になれきった状況が日本の改革を先送りにしてきたのだという猪瀬氏のコメントによく表現されていると思います。
民営化で何かが解決するわけではありませんが、少なくとも新たなスタートラインを設定することは悪い選択ではありません。今後道路族議員と国土交通省の役人が委員会答申をひっくりかえすべく行動するのでしょうが、この答申をそのままの形で道路行政改革に生かすことができるかは、小泉首相の決断いかんになってきます。高いハードルを委員会は首相に突き付けた格好になりましたが、満身創痍でこれをやり遂げられれば、小泉改革は山を一つ越えることができます。
あともう一点、民営化論で全然、出されていない視点だが、道路は国土交通省・公団の管轄だけでなく、警察庁の管轄でもあった。たとえば今や高速道路上には(他の国道も多かれ少なかれそうだけど)膨大な数のNシステムが稼働しているが、民営化後はどうするつもりのだろう>猪瀬センセー。保有債務返還会社が道路資産を保有しているうちはまだしも、民間会社がそれを買収した後、警察との関わりはどうなるのか。笑い話のような話だが、「勝手にナンバーを撮影されて個人情報を警察に収集される道路と、そうではない道路、どちらを選びますか」、なんてCMが出て、Nシステムを拒絶した高速道路会社が、国土交通省管轄道路との比較広告をするようになる時代が来るのだろうか。競争的経営ということを本気で考えればそれはありえてよい話であるが、どうも現実味は薄い。そもそも警察が犯罪そのほかの捜査に大いに役立つ道路通過車両情報の収集力をみすみす手放すとは思えないし、そうである以上、Nシステムの設置を受け入れ続ける民間道路会社とはどんなものになるか先が知れているというか・・・・。
こうした視点を浅いNシステム批判に終わらせるべきではない。自由主義社会の枠組みを最大限に維持するためにも最小限の公安機能は必要なのだ。ノージックが言っていたように。それがNシステムかどうかは議論が必要だが、少なくとも「何か」は必要だろう。しかし、この「最大限の自由の確保のための最小限の公安機能の保持」というのが、従来の、「国」と「民間」しかない二極構造の中では達成できない。そんな問題を道路公団民営化の問題は露呈させているのだが、そんな視点は誰も出してこない。今までぼくの主張で言えば、国ではなく、民間でもない、「公」の確立をということになるのだが、何回も書いちゃったのでもう飽きてきたな。というかくたびれちゃったよ。
民営化推進委員会は今井委員長辞任という大波乱の中で多数決で結局、11月の後半にはそれでゆくだろうと思われていた道路新規建設を抑制しやすい枠組みでの民営化案を最終報告とした。もちろん、この案を政府が採用するかどうかは全く未知数だし、この案の通りに民営化されても、新しい民営化会社がどのような性格のものになるかどうかで新規道路建設の進捗は決まるだろう。JRになっても結局整備新幹線構想は生き続けているではないか。それと同じ轍を踏む可能性はなきにもあらずで、民営化できればオーライではまったくない。
で、それはそれとして、ひとつ気になるのは、公団から一応切り離された高速道路が次にはいかに政治的に利用されるかということだ。最近の関心領域で言うと原発や高レベル廃棄物処分施設の立地地区へのボーナス措置と高速道路がどう絡んで行くかが気になる。今まで高速道路は道路公団という仕組みによって全国津々浦々まで収益性を無視して敷かれたので原発立地促進交付金とは絡んでこなかった。電源三方交付金では一般道路は作られたが高速道路は造られていない。しかし、もし民営化案最終答申のまま進んで、高速道路が国、地元の財源で個々に建設されなければならなくなった場合、高速道路もまた下の原子力関係施設建設の「迷惑代」として作られることはないだろうか。公団による高速道路建設が霧散して、高速道路が夢のまた夢になった地区ほど、道路を作るから交換条件に原子力関係施設をという誘いに弱くならないだろうか。公団廃止と同時に途方交付金の在り方を見直す視点が欲しい。それらは連続した問題なのだ。
SPA!連載の漫画「ダメンズウォーカー」は少しずつヒットの兆しを見せているが、漫画家の倉田真由美さんが先日、朝日新聞に写真入りで紹介されていた。それをみてびっくり。というのは良い意味で、自分が漫画の中で登場させる「自分キャラ」を遙かに通り越した美貌だったのだ。そして、そのクラタマは今朝のTV朝日のニュース番組にコメンテータとして出ていた。そのコメントがなかなか鋭い。この人はもっともっと大きくなるのではないか。女性で一橋大卒で、漫画家ってのもなかなか存在感のあるキャリアだし。
今日出たSPA!でまたニュース解説をやっているのだが、前回の拉致被害者帰国の急遽決定のような劇的な状況変化はないものの、道路公団民営化ではややハズしたか。書いた時点では民営5会社に分割の線そのまま最終答申にゆくだろうと報道されていたので、それに基づいて解説を書いたが、発売日の今日になって今井委員長ドタキャンで最終報告書まとめが出来ないと言う事態に至っている。
今井さんは「鉄は国家なり」の人で、道路も国のために必要であり、それを作れなくなってどうすると義憤にかられ、そこに道路族の付け入る隙があったんだと思う。新日鐵への利益誘導だという説もあるが、もちろんそれもあるし、道路需要以外でも製鉄業界の扱いを巡ってなんからの脅迫じみたものが自民党議員からあったことも予想に難くないが、案外そういうことだけではないのではないか。その点では、猪瀬・松田案が道路建設の停止ではなく、公団丸投げ型建設の停止であり、むしろ必要な道路を健全に作る体制の再生の試みであるということが、彼にうまく伝わっていなかったのではないか。そう考えれば、これはあと二日でまとまりそうかもしれない(またハズすかな)。
問題はぼくは5社分割の時点で既に潜んでいたと思う。JRもそうだが、地域分割だと東京一極集中を果たしている日本の場合、交通量に地域別の差が大きく出る。交通量の少ない道路運用会社が赤字になったら債務返済はどうなるのか。そうした可能性を知っていながら地域分割を通した時点で、この民営化はうまくいかないと思った。現在の交通量統計を元に、前者の収益が横並びにあるようにして、つまり同じスタートラインに並ばせて、そこからヨーイドンで民営化する。そうした機会の平等を最初に守らないと、それぞれの会社間の競争が意味が無くなってしまうと思うのだ。本格的な競争原理を導入するとしたらこれは大事ではないか。赤字の道路会社が潰れそうになったら、交通量の少なさはどうしようもないので他の企業が買収してくれるとは思えないしその公共性を考慮して公金注入でなんとかしようとするだろう。それじゃ公団時代と変わらないじゃないかというのがSPAに書いた時点でのコメントだったのだが、現在ではそうした議論以前のところで話がとまっている。
しかし、こうしてみると猪瀬批判に明け暮れたマスメディアはなんだったのかと改めて思う。あの時点で足を引っ張ることにいかなる意味があったのか。素性のよく分からないライターの猪瀬批判記事を連載させていた週刊朝日は既に猪瀬すり寄りを始めていて、なんともみっともない。櫻井よしこの妙な批判記事を載せた月刊文春はどうするんだろうか。
昨日の晩に戻りました。
虹口の旧日本人租界の繁華街は、今なお日本に縁りがあるのか、ユニクロと吉野家が出店しているビルが出来ていて(ユニクロはここともう一点がバンドの近くの中心部に、吉野家は結構多い)、もしやと思ったのですが、むかし金子光晴の住んでいた家はかろうじてその隣で残っていました。金子の暮らした家が、ユニクロになっていたというほうが話としては面白かったのかな。
旅先日記はそのうち上げます。画像はビデオからキャプチャーかな。ドキュメンタリービデオを教える身としてはとてつもなく恥ずかしい弛緩した撮影態度だったので、ビデオを更に編集して仕上げる気になりません。静止画をWEB用に切り出すぐらいがいいところ。
ばんまいさん書き込みありがとう。間があいてしまってごめんなさい。
ぼくは明日から上海に逃げ(笑)出します。
日本からいちばん手軽に、パスポートもなしにゆけるところと言えば、満州と上海だった。いずれも食いつめものの行き先であったとしても、それぞれニュアンスがちがって、満州は妻子を引きつれて松杉を植えにゆくところであり、上海はひとりものが人前から姿を消して、一年二年ほとぼりをさましにゆくところだった(金子光晴『どくろ杯』)。
上海が世界の果ての都市だったことはshanghaiという動詞が英語にあることからもうかがえる。「無法な手段で連れ込んで水夫にする」「暴力によって徴発する」という意味だとか。
まぁ、いずれも30年代の上海であり、今の上海はエスクワイアやクレアトラベルが頻繁に特集を組むメジャーな観光先なのだけど、どこまで都市の野生のようなものが残っているのか楽しみ。
戻りは火曜日、かな。ごく簡単な週末旅行ですが、執筆中の単行本もゲラも持ち合わせない旅は本当に5年以上ぶりなので今からわくわくしている。
武田さん、お集まりの皆さん、こんにちは。
「『核論』が刷り上がった」という時の武田さんの書き込みを読んで投書を
しようと思ったのですが、肝腎の武田さんの「戸惑い」の元を読んでいない
ので、一旦引っ込めました。 で、それから自薦文を拝読して、やはり出すか
と思いました。
=====
私が「戸惑い」を感じるのは、学術雑誌へ掲載する論文に取りかかっている
時です。 掲載が決まって関係者が皆喜んでも、喜ぶ気にはなれません。 「核
の問題の大きさを、自分の尺に合わせて矮小化した本」が現代に見つかる核
関連書物の殆どであると同様に、「生命について、自分の尺に合わせて矮小化
して表現してある論文」が生命科学界での論文の多くであると感じる、その
一端を自分が担った気がするからです。
矮小な表現を蓄積することで、果たして「核」や「生命」の姿を、我々は掴む
ことができるのか、と思います。 「核」や「生命」の全体像を表現する作業
が、矮小な表現の書物や論文を読む者に任されているのならばともかく、もし
誰かが矮小表現の蓄積を鳥瞰して全体像に迫る論を展開する必要があるのなら
ば、自分がその鳥瞰を担当したいと私は思っています。 ところが、「バカ
正直なほどに多角的」に生命を論じようとすると、vagueであるという理由
で、学界での発表様式に則ることができません。 勿論、何かを鳥瞰したつも
りの自論が優れて緻密であれば、vagueとは言われないハズではあります。
戸惑いつつ世に送り出される渾身の作、は、貴重な存在なのだと思います。
そのような著作に触れて、一人でも多くの人が「戸惑い」や「自爆」を読み
取って、「間を行く」感覚を自分の中に見出して欲しいと願います。
核論新刊案内ページ作りました。発売前ですが装丁が見れます。請ご高覧。しかしなんという自薦の弁か
約二年間関わり続けたNスペ『変革の世紀』の本も出来つつある(上下本で刊行予定で上巻がやはり今月末ぐらいに書店に並ぶらしい)、ぼくはWEBでも公開されていたパネルディスカッションが再録されているだけで、あまり出番はないが、一応、『変革の世紀』フォーラムメンバーとしてクレジットは出ている。
この仕事は「NHK」的なもの、「東大」的なものを改めて身近に知るという意味では良い機会になった。特定の個々人への言及だと思われるのは心外なので、ここは少し引いた立ち位置からの発言だと思って欲しいが、この仕事に関わりなが恒にぼくの脳裏にあったのはフーコーの使っていた牧人的権力という言葉だった。
今、ひとつ心残りなことがある。この仕事では今年の始めにそこそこ大きなシンポを開催しており、フォーラムメンバーが参加者を呼んでくると言うことで、ぼくも何人かに声を掛けて、雨の中、お台場の会場まで来ていただいた。
そのときのシンポの様子は番組の予告編には使われたが、結局、内容的にはその成果が単行本にも収録されず、このままだとどこかに消えてしまう公算が強い。事実としてみると予告編用映像を撮るためのシンポだったと言われても仕方がない状況になっている。もちろんあの時点では先の流れが見えず、結果としてこうなったというのがポリティカリーコレクトな説明なのだろうが、そうした説明で自分でも納得できてしまうのだとしたら、それこそが牧人的だということだろう。ぼくはといえば、まだまだ人間が出来ていないので、そうした説明では割り切れず、僕自身が声を掛けた人たちには時間を使わせてしまい、申し訳なかったと思っている。
ぼくは戸惑っている。理由が分からず怯えているというのに近い状態かもしれない。
原因は明らかだ。『核論』が刷り上がった。まだ見本なので書店に並ぶのは11月末ぐらいからだろう。部数を刷っていないので大きな書店とか、専門書、学術書が多いところぐらいしか配本されないかもしれない。
しかし、いずれにせよ、新しい本が出来たら嬉しいはずだ。今まではぼくもそうだった。他の著者の人も、嬉しそうに自分のHPで宣伝しているのを見る。
しかし今回は様子が違う。見本を前に萎縮させられる感じ? 具体性を持たない不安感? なんとも言葉にしにくい独特の、今までにない感情の湧出があって、それがぼくを戸惑わせる。これは、間違いなくそこに書かれた内容と関係している。核エネルギーの人為的解放という技術自体が、その後にこれほどの問題を生み出すように呪われていて、ぼくが力足らずでその呪いを解けず、結局、呪いの伝言ゲームの参加者にしかなれなかったから? いや、言葉を重ねると、本質に近づいているようでもあり、遠ざかっているようでもあり、要は何がなんだか分からない。すみません、ぼくは正直に書きすぎているのか、まだ偽っているのかも分からない。
この本もまた色々な人に読んで欲しいと思う。そして意見・感想を聞きたいが、それは見本を前にした戸惑いの感覚の原因を自分なりに考える参考にしたいからでもある。
↓のモデルの件についてメールを貰いました。
ファッション専門の方の見解は以下のようだそうです。
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ウェブサイトを拝見しておりますが、
いま東欧系のモデルが多いのは、ミラ・ジョボビッチなどを
きっかけに、東欧系モデルが流行りになったからだ、と
ITセレクトの表紙を担当しているADが話しておりました。
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流行っている、エキゾチズムを演出として利用するという積極的な理由ももちろんあるのでしょう。でも表だって言われる理由と同時にモデル使用料の安さは、東欧系モデル増加のプロセスのどこかで(つまり今回のモデル起用と言うことではなくて、おそらくはもっと初期のどこかの段階で)なんらかのかたちで関与していたとは思いますよ。
20471120は横トリも良い例だけど、アパレルに自閉しないところがいいですね。そこが決定的に新しいと思う。そんなところからモデルの国籍問題も連想したのだと思います。
夜は国立競技場で開催された20471120のファッションショーに。
この電話番号のようなブランドは、「中川装置」名でのコンセプチュアルな芸術活動も平行して手掛ける、アパレルだけではない、期待の新世代デザイナー集団の名である。
ファッションは評論の対象としてこなかったのでぼくにはそれを論じるボキャブラリーがない。ボキャブラリーがないということは相対評価が出来ないということだ。で、絶対評価、印象批評的になるが、才能のきらめきは感じたが、圧倒まではされなかった。繰り返すが、これは他のデザイナーのショーとの比較において、ではない。その場かぎりのごくごく直截な感想であるが、横浜トリエンナーレの中川装置での出展でも同じ印象を持った。衆目の見るところよりも大器晩成型なのではないだろうか。ぼくがファッションショーに出掛けたのは、知人が彼等を手伝っており、招待して貰ったからだが、若い才能を見出しては売りだして行くことを何度もしてきた名伯楽の彼女にしても、今現在の彼等ではなく、将来の彼等に期待しているのではないかと思う。だからこそ逆に注目を受けるのは良いが、今、むやみにちやほやされて妙な形で潰されないことを祈りたい。
もうひとつ、門外漢のファッション評論ではなく、自分の領分?でも言えそうなことを。
ショーの資料にはモデルの名前がクレジットされていたが、殆どがおそらくは東欧系と推測されるものだった。アングロサクソンやラテン系純血ではない、エキゾチッックな顔立ちが魅力で選んだわけだけでもあるまい。おそらくはモデル代金の問題が絡んでいる? しかし、今、条件良く使える彼女等の顔立ちがショーのイメージをいろいろ想像しながらデザインを行うデザイナーの創造力にもおそらくは影響するはずで、こんなかたちで経済がファッションを変えて行くのだとしたらその関係はなかなか興味深い。
更にもうひとつ、スペシャルサンクスのサカモトミウというのはあの方の娘? どう関与しているのだろうか。
日本を代表する数学者である小平邦彦の『ボクは算数しか出来なかった』に登場する朝永振一郎はユーモラスである。プリンストン高等研究所時代にオッペンハーマー宅のカクテルパーティーに招かれ、ふと見ると部屋の隅でつまみをもりもり食っている。夕食をそこで済ませようと言う魂胆なのだ。帰り道、同僚の学者に声を掛けられ、クルマで送ると言われた思っていると、その同僚の家に連れて行かれ、二度目の夕食を食べるハメとなる。「夕食をうちでどうだ」という英語すら聞き取れなかったのだ。アメリカ滞在が長くなるに連れ、ホームシックはひどくなり、最初は「アメリカは便所が臭くないのだけは良い」と言っていたのが、「夏になっても縁日が出ない」「窓に蚊帳(網戸のことか? あれはアメリカ製だったのか?)があって蚊に食われないと夏になった気がしない」とか、愚痴がやぶにらみきみになり、とうとう「便所は臭くないと便所らしくない」になったっという。ドイツ留学経験があり、後にノーベル賞を獲る国際級の学者でも、こんな具合なのだ。田中耕一さんはイギリス時代を懐かしく思い出すようだから、日本人はやっぱりずいぶんと生活のゼロ点を西欧の方にずらしたのだと改めて思う。
小平の本はどれも面白いがこれもウィットに富んでいる。たとえばナマケモノが余りに怠けていて身体に苔がはえ、植物と見まがわれるようになって、弱肉強食を生き抜いたと聴いて、自分の生き方の理想はこれだと考えたと平然と書く。自分は算数バカではない、ただのバカであるなどというが、間違いなく高級な人間の筆致である。
今年も井の頭公園にカモメ(たぶん。ウミネコ説もある)が飛来した。ぼくが最初に目撃したのは先週の日曜日。面白いことに、去年は出来た空中での餌取りが出来ない。一週間経って今週も餌をやってみたがまだだめだ。餌が投げられると少し羽根を使って身体を浮かせようとするが、飛ぶまでに至らない。だいたい、投げられる餌を人間お手を離れる辺りから目で追っていないので、近くに餌が来てから飛ぶのでは遅いのだ。
ただ今日は、池の上を大きく飛んでいるカモメは空中で餌をキャッチしていた。たぶん、だんだんに習得して行くのではないか。去年、カモメと遭遇したのは年末押し迫ってか、あるいは年始すぐの頃だったので、飛来して随分時間が経っており、カモの群の中で有利となる餌取り技術を学んだ結果として多くの個体が空中給餌を平然とこなしていたのだろう。
カモメの寿命はどの程度なのか知れないが、去年、空中給餌をしていた個体はおそらくもう飛来していない。またゼロからのスタートなのだ。この寿命の短さを見誤ると動物行動の多くを誤解すると宮崎学さんがいっていたのを、改めて思う(これも今度のNAVI掲載)。